本日は、「イエス復活祭並びに春季大祭」おめでとうございます。 本日の祭典行事につきましては、ここ「グランドニッコー東京 台場」の皆様より、格別のご理解とご協力、また、数々の ご配慮をいただきまして、開催させていただくことができました。ここに、「グランドニッコー東京 台場」の皆様に、厚く御礼申し上げます。誠にありがとうございます。 明主様は、ご自身の中で、イエスがキリストとして、すなわち、メシアとして復活したことを確信するに至られました。 このことは、明主様ご自身がイエス・キリストの再臨であることを示唆されたことによっても明らかであります。 聖書には、「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」(「ローマ人への手紙」第8章11節) あるいは、「神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう」(「コリント人への第一の手紙」第6章14節)と記されております。 神様は、明主様を私どもの模範となるようにと、世にお遣わしになったのですから、私どもは、自分の中に明主様が生きておられると認めるとともに、自分の中でイエスの復活が成し遂げられたことを信じ、信じるに至ったことを、神様にご奉告申し上げる必要があると思います。 復活する、あるいは、甦るということは、元の状態を回復することを意味していると思います。 私ども一人ひとりが自分の元の状態を回復すること、自分の始まりの姿を回復すること、それを神様は望んでおられます。 それでは、私どもが回復すべき元の状態、始まりの姿とは、どんな状態なのでしょうか。 それは、私どもが世に生まれる前の状態であります。 神様は、創造をお始めになる前の天国において、私どもを、メシアと名付けられた霊の子として生んでくださいました。 私どもは、天国において、神様の永遠の生命と永遠の意識と永遠の魂を授けられた、光り輝く霊の子、光の子として、神様にお仕えしていたのです。 それが、私どもの元の状態であります。始まりの姿であります。 神様の創造により、世に送り出された私どもは今、心という自我意識を持たされた一人ひとりという、誠に得難い存在にならせていただきました。 しかしながら、私どもは、世という現象の世界に生まれ、一人ひとり、意識ある存在にならせていただいたために、世の事ばかりに心を向けるようになりました。 自分が天国から来ていることを忘れ、神様の永遠の生命を自分の限りある生命とするという罪を犯してしまいました。 そのために私どもは、死ぬべき存在、言わば、死んだ者となってしまいました。 このままでは、私どもは、神様が望んでおられるような、自分の元の状態を、自分の力で回復することは到底できません。 自分の始まりの天国に立ち返って、神様の永遠の生命を継承する子どもとして、神様にお仕えすることはできません。 だからこそ、神様は、イエスを世にお遣わしになり、死を造り出した私ども人類の罪の贖いのために、イエスにその血汐ととりなしの祈りを捧げさせられたのです。 そして、私どもに赦しをお与えになり、天国に立ち返る道を整えてくださったのです。 それだけではありません。神様は、私どもを死に囚われた世界から解放し、救い出すために、イエスを死の世界にお遣わしになり、その三日目に死人の中から甦らせ、イエスの復活を成し遂げられました。 神様は、私どもに赦しを与えるために、イエスを十字架におかけになっただけではなく、死んだ者となっていた私どもを生きた者と甦らせるために、イエスを復活させてくださったのです。 世にある私どもが、一人ひとり、天国にいた時の元の状態を回復することができるようにしてくださったのです。 ここで忘れてはならないことは、イエスの贖いの御血汐あればこそ、私どもは甦らせていただけるということであります。 贖いと甦りは、別々のものではないのです。 神様にとって、私どもを生きた者と甦らせるためには、どうしてもイエスを十字架に上げなければならなかったのです。どうしても罪の贖いのための血汐が必要だったのです。 これほどまでに、神様は、私どもを再び天国に迎え入れ、ご自身の子どもとするためにご努力くださっているのです。何と深く大きな愛なのでしょう。 明主様は、イエスの贖いと復活がご自身の中で成し遂げられたと信じられたからこそ、神の子たるメシアとして新しくお生まれになるに至られたのではないでしょうか。 私どもは、明主様に倣って、イエスの贖いと復活が自らの内に成し遂げられたことを信じ、私どもの始まりである天国に立ち返って、新しく生まれ、永遠に光り輝く神の子として、神様の創造のみ業にお仕えさせていただきたい、と神様に願うべきであると思います。 イエスは、父であられる神様に向かって、次のように祈られました。 「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」(「ヨハネによる福音書」第17章5節) この祈りは、イエス自身のためだけの祈りではなく、神の長子として、私どものために、今も祈ってくださっている祈りなのではないでしょうか。 私どもは、イエスと共に死に、イエスと共に新しい生命に甦ったということ、このことが自分の中で成し遂げられた、と認める必要があると思います。 イエスと共に甦ったのは、私ども人間だけではありません。 明主様が「天地更新」というお文字をご揮毫になりましたように、天地万物一切も共に甦ったのです。 なぜならば、私ども人間は、先祖と一体であるだけではなく、万物と私どもとは、神様の一つ体であるからです。 私どもの目に見える体だけではなく、私どもの感覚器官の働きも、自我意識と言われる心も、万物によって成り立っているからです。血液も万物です。 万物には、万物の霊があり、天国において、神様がご自身の子を生むという創造のみ旨を、私どもと共に受けていました。 諸々の元素を始め、あらゆる万物は今、この創造のみ旨の成就のために、一生懸命、私どもを援助し、神様に尽くしてくださっています。 このことを、明主様は、「万物は人間の為に造られた」という聖言をもって、私どもにお示しくださったのではないかと思います。 神様は、天地万物一切の創造をお始めになる時、天国にいる私どもをお使いになり、私どもを通して万物を世に送り出されました。 そして今、私どもを通して万物を天国に迎え入れようとしておられます。 このことについて、聖書には、「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン」(「ローマ人への手紙」第11章36節)と述べられております。 万物は今、人間である私どもと共に、私どもを通して、天国に立ち返ること、そして、私どもが神の子として新しく生まれることを望んでいます。 このことについて、聖書には、「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」(「ローマ人への手紙」第8章19節) また、「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている」(同21節)と記されております。 万物は、万物と一体である私ども人間を通して初めて、天国に立ち返ることができるのです。 そして、万物が甦ることによって、私どもは甦り、神の子として新しく生まれることができるのです。 私どもは、万物に感謝するとともに、まず万物が天国に立ち返って甦りますように、と願うべきではないかと思います。 「人間は万物の霊長」と言われているということは、私どもは、万物に対して責任があるということではないでしょうか。 明主様は、草木や花、石など、様々な万物をお使いになって、天国の模型としての地上の聖地のご造営に心血を注がれました。 それは、私どもの始まりは天国にあり、その天国で私どもは万物と共にいたことを、多くの人が思い出してほしいと願っておられたからではないでしょうか。 明主様は、御歌に、「久方の天津御国を地の上に映さむとする吾願ひかな」とお詠みになりました。 明主様は、神様が天国を地上に投影しようとしておられる、その神様の願いにお応えになろうとして、地上に聖地を建設するみ業にお仕えになり、その営みを神様のなさったみ業として神様にお捧げになりました。 私ども明主様の信徒一同、明主様のその尊いみ心を胸に刻み、聖地の建設に参画させていただき、多くの人々と共に、自分に内在する、自分のふるさとである天国に常に心を向けることができる者にならせていただきたいと思います。 その聖地の建設予定地が決定した今、自らがメシアの御名の教会の聖徒であるとの自覚をもって、「メシア聖堂」の建設に一丸となって、更に一層努めてまいりたいと思います。 また、現在取り組んでおります、祈り、食、音楽という「真の救いの三本柱」の実践を通して、私どもを養い育てながら、世界中の人々に恵みと安らぎをもたらす御用にお使いくださっている神様に、心からなる感謝を捧げさせていただきたいと思います。 終わりに、明主様が明言された、キリスト教と呼応して救いを成し遂げるというみ業が、自らの内に進められていることを認め、その救いのみ業に、イスラエルに結び連なる全人類とその父母先祖の方々と共に、そして、万物と共に、吐く息吸う息、吸う息吐く息のうちにお仕えさせていただきましょう。 そのようにお仕えすることを許してくださっている唯一の神に、メシアの御名にあって、権威、栄光、祝福を帰させていただきます。 ありがとうございました。