2024年5月1日 五月度月次祭明主様御歌何事も日進月歩の世にありて旧き教へに救はるべしやは文明の古き衣を脱ぎ棄てて新つの衣に換ゆる我業真神の文明世界は呱々の声今し挙ぐるなり尊きろかも厭離穢土澄み浄められ新しき楽しき御代は現れなむとすも天ヶ下生きとし生けるものみなの歓ぎ喜ぶ天国造らむ明主様聖言新人たれ 昭和25年10月11日 人は常に進歩向上を心掛けねばならない。特に信仰者にして然りである。処が世間宗教や信仰などを口にすると、どうも古臭く思われたり、旧人扱いされたりする。成程在来の宗教信者は、そういう傾きがあるのは否めないが、本教信者に限っては全然反対である。否反対たるべく心掛けねばならない。 先ず何よりも大自然を見るがいい。大自然に於ては、一瞬の休みもなく新しく新しくと不断の進歩向上を続けている。見よ、人間の数は年々殖える。地球上の土地も年々開発される。交通機関も、建造物も機械も、一として退嬰するものはない。草も木も天に向って伸びつつある。一本と雖も下を向いているものはない。此様に森羅万象悉く進歩向上しつつある実態をみて、人間と雖もそれに傚うべきが真理である。 此意味に於て、私と雖も去年より今年、今月より来月というように、飽く迄進歩向上心の弛まないよう努めている。といっても只物質的の事業や職業や地位が向上する、というそれだけでは、根底のない浮遊的のものである。根無し草である。どうしても魂の進歩向上でなくてはならない。要するに人格の向上である。此心掛けを持って一歩ずつ気長に、自己を積み上げてゆくのである。無論焦ってはならない。ほんの僅かずつでもいい。長い歳月によれば必ず立派な人間になる。否そのように実行せんとする心掛け、それだけでもう既に立派な人間になっている。そのようにすれば、世間からは信用を受け万事巧くゆき幸福者となる事は請合である。 斯ういう言い方をすると、現代青年などは何だか旧道徳論を聞くようで、陳腐に思うかも知れないが、実は陳腐処ではない。之が出来れば本当の新人である。此様な点を規準として私は多くの人を見ると、古臭く見えて仕方がない。何等進歩がなく、相変らずの考え方や話で、何処にも変り栄えが見出せない。だから斯ういう人に逢っても少しの興味も湧かない。話し合ってみても世間話以外何物もない。宗教も政治も哲学も、芸術などの匂いすらない。世間の大部分は斯ういう人が殆んどであるが、それも敢て咎める気はないが、少なくとも救世教の信者だけは、そういう旧人型は感心しないし、又そういう人は余りないようだ。本教は知らるる如く、世界の転換期に際し、全人類救いの為に、誤れる文化に目醒めさせ、理想的新世界を造るにある以上、飽く迄新人たる事を心掛けねばならない。私がいつもいう二十一世紀的文化人にならなくてはいけないと言うのは、その意味である。『栄光』73号聖書「エゼキエル書」第36章24節~31節 わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなたがたの国に行かせる。わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住んで、わが民となり、わたしはあなたがたの神となる。わたしはあなたがたをそのすべての汚れから救い、穀物を呼びよせてこれを増し、ききんをあなたがたに臨ませない。またわたしは木の実と、田畑の作物とを多くする。あなたがたは重ねて諸国民の間に、ききんのはずかしめを受けることがない。その時あなたがたは自身の悪しきおこないと、良からぬわざとを覚えて、その罪と、その憎むべきこととのために、みずから恨む。「ヘブル人への手紙」第3章及び第4章 そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。だから、聖霊が言っているように、 「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 荒野における試錬の日に、 神にそむいた時のように、 あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。 あなたがたの先祖たちは、 そこでわたしを試みためし、 しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。 だから、わたしはその時代の人々に対して、 いきどおって言った、 彼らの心は、いつも迷っており、 彼らは、わたしの道を認めなかった。 そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。それについて、こう言われている、 「きょう、み声を聞いたなら、 神にそむいた時のように、 あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、 「わたしが怒って、 彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、 「きょう、み声を聞いたなら、 あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデ* をとおして言われたのである。もしヨシュア* が彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。* ダビデ 古代イスラエル第2代の王(紀元前10世紀ごろ)。ベツレヘムに生まれ羊飼いから王となり、統一王国を確立しエルサレムに都を定め王国に繁栄をもたらした。のちに、ダビデの子孫からメシア(救世主)が生まれると信じられるようになった。詩と音楽の才に恵まれ「詩篇」の多くの詩の作者とされている。* ヨシュア モーセの死後、指導者としてイスラエルの民を、神がイスラエルに与えた約束の地カナンに導いた。『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(⽇本聖書協会)※注釈は世界メシア教によるもの。