明主様といえど神の指令下にある〔明主様〕記者:教祖以下、救世(メシア)教の信者は神様の指令下に入っているわけですね……。明主様:そうです。こっちは役者です。記者:そうすると人間の権利という事を言いますが、神様の前では人権というのを滅しなければならないという事になりますね。明主様:いや、神様の前では全然無です。神様は絶対ですから、こいつは邪魔だからと一寸ひねったら、それでおしまいです。人間ナンテ情ないものです。「凡ては神様の御意志にあり」1954年8月4日*インタビューが行われたのは1954年4月15日〔聖書〕 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人*の中からも召されたのである。それは、ホセアの書でも言われているとおりである、「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」。「ローマ人への手紙」第9章20節~26節* 異邦人 神無き民。ユダヤ教徒以外の人々。〔教主様〕 明主様が畏れ敬い、心から讃え、信頼しておられる主神は、唯一の神であられます。 唯一の神ということは、明主様が「無限」あるいは「絶対」と仰せになりましたように、他と比べるべき存在ではないということです。他と優劣を競う存在ではないということです。 この世において様々な名前で呼ばれる神や仏として、あるいは、霊的な存在として表現されることはあっても、明主様が主神とお呼びになる神様は、ただお一方であられ、その方が天地万物一切を創造し、今も刻一刻と創造し、すべてを治めておられます。 誠に畏れ多いことではありますが、その主神が、私どもの命の親であられ、私ども一人ひとりの中におられます。「秋季大祭」2016年10月9日〔真明様〕 今日の聖言も、我々メシア教は、明主様も含め、全員神様の指令下に入ってると、そういう内容でしたね。そして、実際そうですよね、神様は絶対ですから。 野の花を育てるのも神様だし、空の鳥を養うのも神様だし、私たちの食事を用意してくださるのも神様だし、その食事を用意する人を用意されるのも神様だし、大自然を用意されるのも神様だし、全部、神様ですよ。神様の赦し無くしては何も動かないですよ。何も動かないし何も始まらない。 そうなると、この、メシア降誕本祝典。これは6月15日に執り行われることになってますね。これ、誰が定めたんですか。神様無しでは何も動かないんですよ。としたら神様しかいらっしゃいませんよ。 2022年6月15日にメシア降誕本祝典を執り行うと定めることができるのは、神様。神様しかいらっしゃいませんよ。 で、もし神様が、もうメシア降誕本祝典を執り行うのはやめようと思われたら、我々がどんなに努力しても無駄ですよ。 6月14日に、あるいは当日になって、神様が、「取りやめる」と思われたら、我々がどんなに努力をしてもその神様を止めることはできないですよ、神様は絶対ですから。「神様、私たちこれだけ準備したんです。これもこれもこれもしました」と言っても、もし神様が取りやめると決められたら、それは誰にも止められない。 我々の姿を見て、「あなた方は今自分は生きてると思ってる。であるならば、もはやメシア降誕本祝典は必要ない」と思われたら、それでおしまいですよ。 一方、もし、神様が執り行うと決めたら、人間がいかに妨害しようが、どんなことが起ころうとも絶対執り行われますよ、逆に。神様が定められたらそれは絶対ですからね。 だから、メシア降誕本祝典は祝典というくらいですから確かにお祝いではありますけれども、やはり我々は、神様は絶対的な力をお持ちなんだという畏れをもって6月15日を迎えなければいけないし、そのあともそういう思いを持っていなければならない。「絶望か、希望か」2022年5月1日教会誌『グローリー』No. 50, 2024/3月号掲載聖書出典:『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(日本聖書協会)※注釈は世界メシア教によるもの。