御生誕祭並びにイエス聖誕祭 2023年12月17日明主様御歌いやはての審判の日にぞ大神の愛の御力顕れ出でなん大前に額く我となりにけり神に背きし罪を悔みて天叫び地震雷轟かん最後の時の恐しき状審判の火の凄じさ天仰ぎ神に祈るも已に遅かり夢にだも思ほえぬかも大いなる審判の状の恐ろしきさま大峠の最中となりて悔むとて已に遅かり心せよ今高き低きの差別さへなく大神は裁き給はむ世ぞ生かす為明主様聖言最早キリストは再臨された キリストの贖罪は、万人の罪を一身に引受けて、償われたので、其大愛に対して感謝し礼拝し祈るのである。従而、今迄はそれでよかったのである。処がメシア教の信者になれば、その必要はなくなったのである。というのは最早キリストは再臨されたからである。之には深い神意があるが、何れ詳しく説くつもりである。1951年9月25日『地上天国』28号聖書「ローマ人への手紙」第3章9節~31節 すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。次のように書いてある、 「義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、 神を求める人はいない。 すべての人は迷い出て、 ことごとく無益なものになっている。 善を行う者はいない、 ひとりもいない。 彼らののどは、開いた墓であり、 彼らは、その舌で人を欺き、 彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。* 異邦人 神無き民。ユダヤ教徒以外の人々。* 割礼 男子の陰茎包皮を切断する儀礼的行為。旧約聖書では、アブラハムの子孫の男子は神との「契約のしるし」として生まれて8日目に受けなければならないとされている。神の民イスラエルの成員である証拠とされる。『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(⽇本聖書協会)※注釈は世界メシア教によるもの。