皆様こんにちは。 裁判の和解は去年のクリスマスイヴですから、今、和解してから3か月ちょっとですかね。そんな中、和解後、この数年の歩みを自分なりに振り返ってみて、今、思わされていることがありまして、それは、皆様にお詫びしなければならないということ。 今回の教団浄化は、世界救世(きゅうせい)教の役員の方が教主様を蔑ろにする動きとか、挙句の果てには教主様を尾行・盗聴・盗撮してというようなことになったんですけれども、その中で皆様方は、世界救世教というのは、明主様、二代様の時から、教主様というのが明主様の聖業を継承されるご存在なんだ、それが世界救世教なんだ、それが救世教のルールなんだということで、世界救世教の信徒としての道を全うされようとした。 だけれども、結果的に皆様方は、慣れ親しんだ教会とか聖地とかから出ていかれたり、行けなくなるというような状況になった。皆様方は正しい道を選ばれているのに、皆様にそのご負担を与えてしまった。周りの方々からなにか言われたり、嫌な思いもたくさんされたことと思います。 当然我々としては、今まで、世界救世教の役員の方々のそういう行動がおかしいということは指摘してきましたね。 でも、結局は、長の想念が組織全体に行くものですから、今回の教団浄化は、突き詰めれば、教主様と私のせいですね。教主様と私の想念と姿勢に問題があったから教団浄化が起きた。 教主様に最も近い理事の方々がああいうことになったというのは、やはり、教主様と私の中に、神様を蔑ろにする姿勢、あるいは神様の目を盗んで何か人間の都合でやろうとする姿――この姿がもろに救世教の理事の方々に反映されただけのことであると、私はそう思います。 本来、当然その過程で、もし世界救世教の理事の方々の方向性がおかしいということであれば、教主様と私が指導をして、それを正さなければいけなかったのにそれもできなかった。 だから今回の教団浄化は、突き詰めれば教主様と私が至らないがゆえに、皆様に大きなご負担をおかけしてしまったことについて、一度もお詫び申し上げてないと、そのことを思わされました。 ですので、ここに、教主様と私の姿勢と歩みについて皆様にお詫び申し上げます(真明様、頭を下げられる)。 今、新しい世界メシア教の規則などを考えている時ですので、私としては、こういう教団浄化が二度と起きないように、また、信仰的な意味で教主様に従っていれば絶対大丈夫だというふうなものにしたいと思っております。 そもそも前の教団浄化の時は、揉めに揉めたあと、最終的には、「教主様のもとで明主様信仰をする」ということで教団としては発表して、それを皆様は信じてくださって歩んでおられたのに、結局こうなってしまった。 だから、今後そういうことが絶対起きないようにしたいと思っています。理事長をはじめとする方々と共に、信仰的な意味において教主様のみを見つめていれば絶対大丈夫というそういう規則にしまして、盤石の体制を作ってまいりたい。そのようにして、皆様に、また今回のようなご迷惑が絶対かからないようにいたしますので、ご容赦いただきたいと思います。 もう一つ皆様にお伝えしたいのは、感謝なんですけれども、それは、今のセメス研修生――もうちょっとで専従者ですね――の方々が日本に来ているのは、当然日本語を学ぶためですね。信仰のことだったら別にアンゴラにいればいいわけですから。日本に来られているということは、基本的には日本語を学ぶため。 そのことで、全国各地、信徒の皆様には温かくこの5人を迎え入れてくださって、ホームステイの場所を提供してくださった方もいらっしゃると思いますし、あるいは教会でいろいろ日本語を教えてくださった方もいらっしゃると思います。そして、今ご本人たちが発表したように、2年間、無事、大きな事故も無く研修を終えられました。 今の発表の日本語も流暢過ぎましたね(一同笑声)。いや、流暢過ぎた、ジュニオル。日本語が流暢過ぎたんじゃないですか。僕もなかなか使えないみたいな日本語使っておられましたね。 でも、すごいですよね。内容だけではなくて、話し方も見事でした。ああいう形で、今日、皆様にこの2年間の成果を発表できたのは良かったなと思いますし、ここに至るまでの皆様のご協力と温かく迎え入れていただいたお心に感謝したいと思います。ありがとうございました(一同拍手)。 セメス研修生もすばらしかったですね。彼らは、アンゴラから全然文化の違う日本にやってきた。これ、大変だったと思いますよ。しかもこの2年間で一度も母国に帰ってませんからね。 いや、もし皆様が急にアンゴラで2年間研修しろと言われたら慌てると思いますよ(一同笑声)。いやー、慌てると思いますね。でも彼らはどちらかというとそういう大変さは見せずに、むしろ明るくて、いろいろあってもへこたれずに、リーフレット配布とかも積極的にしてくださいましたよね。 その明るさの裏にはいろいろあったと思いますよ。悩んだり、夜眠れなくなるようなこともあったかもしれない。でも、そういうことを見せずにがんばってこられた。 僕は、今だから言いますけれども、セメス研修生ということで、「研修生としてちゃんと育てなきゃいけない」ということなんだけど、本当は、我々が彼らから学ぶことがたくさんあったんじゃないですか?我々が彼らの姿を通して研修させられてたんじゃないですか、本当は? 彼らの姿勢、純粋さ、明るさ、一生懸命福音を伝道する姿――本当は我々が学ばされましたね。 で、もうアンゴラに帰っちゃうのかなと思ってたんですけれども(一同笑声)、帰らずに残ってくださるということです。やりましたね、皆さん(一同笑声)。別れなくていいんですよ。この大切な5人と別れなくていいんですよ。 今、改めて、私たちと共に歩む中ですばらしい信仰を見せてくださったセメス研修生の方々にもう一度拍手したいと思います(一同拍手)。 セメス研修生のことをいろいろ考える中で私が思わされたのは、彼らの出身地はアンゴラであり、アフリカですね。そして今アフリカには「土の聖地」がある。アフリカには、土の聖地がある。明主様の聖地がアフリカ大陸にあるんですよ。これ、とんでもないことですね、いい意味で。 明主様の聖地が、全然我々と関係無いみたいなアフリカ大陸にある。そしてアフリカから来たセメス研修生の方たちも今日本にいらっしゃる。 だからやはり、我々の意識というものが、このアフリカというものともっと一つにならなきゃいけないと思うんです。 アフリカといえば、我々が持つイメージは、ステレオタイプみたいなことで申し訳ないけれども、一般的には貧しさですよね。貧困。飢餓。食べ物が無い飢餓。世界中の飢餓の20%はアフリカみたいですよ。 そして、アンゴラから来たセメス研修生を通して、アフリカということを意識させられるというか、どうしても考えざるを得ないですよね。 しかも、飢餓ということですが、我々のモットーは「病貧争絶無の世界を造る」ですよ。病、貧、争、絶無。貧がありますね、ど真ん中に。 病貧争絶無の世界を造るのが我々のモットーだとして、アフリカは貧の最たる地域ということになってますよね。いや、もちろん貧しさは世界中に存在していますよ。アジアでもいろいろあるし、中南米とかにもいろいろある、世界中でいろいろあるけれども、でもありますよね、アフリカには、貧しさというのが。 そういうことを私なりに考えて、また、明主様であり世界メシア教のモットーである病貧争絶無の世界を造るということを考えた時、やはりどうしても、明主様の聖言である、「理想世界であるミロクの世には人類は菜食になる」というところに行かざるを得ない。 我々、病貧争絶無の世界を造るというのは夢物語で言ってるんじゃないんですよ。明主様も、実現不可能なことを仰せだったんじゃないんですよ。病と貧しさと争いが人類に絶対無い世界を造るというのが明主様のモットーなんですからね。 まず、病と菜食との関わりについてですが、最近の教団のインスタグラムでもよく出ていますように、明主様は、ガンは肉食が原因だと繰り返し仰せになりました。 これ、明主様だけが主張されているのかというと、そうじゃないですよ。明主様が仰せのことに証拠はあるのかということを言いたい人もいるかもしれませんが、証拠、ありますよ。 それは、WHO(世界保健機関)という世界中のトップの科学者が関わる機関が、加工肉――ハム、ベーコン、ソーセージ、生ハムとか――は発ガン性物質の「グループ1」であると発表している。グループ1ということは、最も発ガン性が強いという意味です。 で、加工肉じゃない、赤身肉――牛肉とか豚肉とか――はその次に発ガン性が強い「グループ2」。というふうにWHOが発表しているんですよ。僕は科学者じゃないけれども、科学者のトップの人たちがそういうことを言っている。 だから明主様の先見の明、先見性はすごいですね。肉食がガンの原因だということの科学的データがあって、それを基に言われるのなら分かりますけれども、明主様は何十年も前にそのことを仰せになっておられたところ、今になって、WHOという世界の健康を扱うところにおいてそういうふうに言われている。 当然ガンだけではなくて、心筋梗塞とかの心臓の病気、脳の病気、あるいは糖尿病とか、そのようないわゆる生活習慣病と呼ばれるものの多くが、今、それは肉食が原因であるということも科学はたくさん示し始めてますね。というか、長い間示している。 だから、病貧争絶無の世界を造るということの上において、病については、ミロクの世は菜食だということの重要性がありますね。 で、病貧争の貧は一旦置いておいて、最後の争。争い。これとミロクの世の食の関わりですが、これについて明主様は、人間の争いを好む性質、性格――争ってけんかをしたり、人を殺したり、あるいは大きくなると戦争をしてしまう性質――これは肉とか魚を食べてるからそういう性質になっちゃってるんだと仰せです。 そして明主様は、人間にもっと野菜を食わせなきゃいけないとおっしゃる。おいしい野菜を食わせる。 野菜を食べると、人間の性質、性格が変わって、争いを好まなくなるようになって、結果、理想世界が生まれると、そう明主様は仰せです。争いがあったら理想世界ではないですからね、当然。だからこの「争」ということも、ミロクの世は菜食ということの重要性がありますね。 で、最後の貧。貧とミロクの世は菜食ということがどう関係あるのか。貧ということはそのうちの一つは飢餓ですね、飢餓。 飢餓についてちょっと調べたんですけれども、データはいろいろありますけれども、今現在、世界中で飢餓で苦しんでいる人が7億人から8億人と言われています。 例えばセメス研修生の出身国のアンゴラも、5歳以下の子供の30%以上、3割以上は、栄養不足によりちゃんと成長できないとされている。子供の30%以上ですよ。セメス研修生の方々が来られたところの国でこういうことが今起きている。だからそれは、食べ物が無いからですね。 では、飢餓に関連して、年間どの程度の人が死んでるのか。「飢え死に」ということですね。どれだけ飢え死にしてるのか。これは、いろいろデータはありますけれども、900万人というデータもあるけれども、1,500万人というデータもあります。食べ物が無くて年間1,500万人が飢え死にしているというデータ。そして、その中の7割が子供です。 それだけ飢え死にで亡くなっているわけですが、これ、1日当たりで計算すると1日4万人ですよ、4万人以上。1時間で2,000人弱。だから祭典始まって(真明様、腕時計を確認される)1時間15分ぐらい経っていますけれども、もう2,000人ぐらい死んでますね。しかもそのうちの7割が子供。それだけの方が食べ物が無くて死んでいるわけです。今この瞬間ですよ。1分間当たりで計算すると20~30人になりますけれどもね。 皆様は、そういう実態と菜食となんの関係があるのかと思われているかもしれませんが、菜食をするということは動物を食べないということですね。 で、動物を食べるということは、じゃあ牛さん食べますということになると、牛さんが育つための食べ物が必要ですから――牛さんとか、豚さんとか、鳥さんが育つための飼料ですね――これを作らなきゃいけない。要は、畜産向けの飼料、これですね。 例えば大豆を取り上げますと、今世界中で作られている大豆の生産量の約8割は動物の飼料に使われているんですよ。人間が食べるのは2割ちょっと。世界中で作っている大豆の8割は動物に行く。動物というか、我々が食べる動物ですね。 先ほど、今飢餓で苦しんでいる人は世界中で7、8億人いると言いましたけれども、これは今も増え続けてるんですよ。飢餓人口は増え続けている。減ってない。もうどんどんどんどん増えている、食べ物が無い人が。 で、今言った大豆ですが、確かに流通のこととかありますので単純計算はできませんけれども、だけど、もし動物に充てている8割ほどの大豆を人間に回したら、そのカロリーで15億人分の食事が賄えるんですよ。15億人分のカロリー。 だから、7、8億人の飢餓で苦しんでいる方々のカロリーは十分賄えるどころかもう倍近く余りますよ。しかもこれは大豆だけの話です。いやもちろんね、今私は非常に簡易に、また単純化して話しておりまして、いろんなことでそういうふうにいかないという現状があるのは理解できます。 ですけれども、現実的にはあり得ないけれども、もし今人類がピタッと菜食に切り替えて、我々が食肉用の動物に与えている大豆を人間に回せば、もうお釣りがくるほどの食糧がある。人類15億人分のカロリーは賄えるほどの食糧がある。 しかもこれは大豆だけの話であって、畜産の動物のために、他にも小麦粉とかトウモロコシとかも世界中で作っていますから、もしそれを全部足すと、大きな試算だと、年間50億人ぐらいは食べさせられるんですよ。50億人。それに対して今世界の飢餓人口はたった7、8億人。 今、毎秒毎秒死んでいる。食べ物が無くて飢え死にしている。毎分毎分死んでいる。僕が話し始めてから1分経つたび毎に2、30人の方が飢え死にしているのであって、しかもそのうちの7割が子供。その事態が発生しているのは、我々が肉を食べたいからですよ。 もし今人類が肉食を止めて、食肉に与えている飼料の半分でも回せば、いや、半分どころか3分の1でも4分の1でも回せば、それこそアフリカで、アンゴラで、栄養が足りなくて身長が伸びない、あるいは、食べ物が無くて死んじゃうということは発生しないんですよ。 しかも大豆は、よく言われるたんぱく質としては牛肉よりも100gに含まれる量としては多いぐらいですから、もう十分栄養のあるものです。 だからそれは先進国の責任が大きい。日本なんてもう先進国も先進国ですよ。その先進国にいる我々が、これ食べたい、肉食べたいと言うから、そして、そのシステムを維持すればいろんな人がお金が儲かりますから、だからそのシステムを維持するために動物の飼料を用意しなきゃいけないとなっている。 動物に飼料として与えたカロリーは、最終的に肉として我々が食べる場合、結局10分の1くらいになるみたいですよ。ちょっと分かりにくいかもしれないですけれども、要は、動物に飼料を与えます、それを動物が食べて咀嚼して成長していって、最終的に我々がその肉を食べたとして、もし元の飼料が直接人間に行っていれば、10倍のカロリーが本当は摂れたわけです。だから、圧倒的に効率が悪いわけですね。今、耳に痛い話を連発してますけれども(一同笑声)。 でも、これが実態ですよ。 菜食の話をしたり、肉をあまり食べないほうがいいとか言うと、「何を食べるかどうかは個人の選択だ」という方がおられますが、個人の選択ではないですよ。なんで我々の兄弟姉妹が食べ物が無くて苦しんでいるのに、肉を食べるか食べないかということが個人の選択となり得るんですか。なり得るはずないじゃないですか。 本来は、人類全体として、貧しくて食べられない人がいるんだからこういうあり方にして誰もが飢えに苦しまないようにしようと、そう集団として決めるべきことです。だから、何を食べるかどうかは、絶対に個人の選択ではない。 文字通り、毎秒毎秒目の前で飢え死にしている人がいるのに、どうして何を食べるかが個人の選択となり得るんですか。 あと、菜食してますと言うと、よく、「たんぱく質足りるんですか」「たんぱく質大丈夫ですか」と言う人がいるけれども、たんぱく質以前に、カロリーが足りなくて死んでる人がいるんですから、そういう問いをすること自体もう問題外ですね。 しかも、たんぱく質といっても、最新の研究では、ちゃんと十分なカロリーさえ摂れていれば、たんぱく質は問題無く足りるんだということをアメリカの医師ですら言っていますよ(『たんぱく質中毒:肉食欲が私たちの寿命を縮めている』ガース・デイヴィス著。和訳未刊行)。 でもそういう情報は一般的には流れてこないじゃないですか。当たり前ですよね、だって畜産業の人が儲からなくなるし、動物の飼料に関わるお金も莫大でしょうからね。だって動物の飼料で大豆の世界生産の8割ですよ。それに関わってる全農家、そこから得られる収入とかを考えたら、当然、先進国主体――我々のことですね――我々のライフスタイルを継続するということのほうに重きが置かれるに決まってるじゃないですか。だから、そんな情報入ってこないですよ。 世の中で、今私が言っているようなことを言う人はあまりいませんね。少し言ってる人もいるけれども、でも、基本的には、この話題は「都合悪いな」と思う人が多いですからね。肉を食べたい人もいて、それを通して儲かってる人がたくさんいる。だから、こういうことについては黙っておいてもらったほうが多くの人にとってよっぽど都合がいいわけです。 だから、ミロクの世は菜食というのは、病、貧、争のすべてにもろ関わっております。貧の解決に関しては極めて直接的に関わっていますね。そして我々は、病貧争絶無の世界を造る集団に属してるんですよ、夢物語じゃなくて。 そして、その、病貧争絶無の世界を造るための基点はどこなのかといったら、なんと、「お台所」ですよ。すばらしい理想世界を造る、世の中の病を無くして、飢餓を無くして、アフリカとかアンゴラとかそういう国が本当に豊かになって、世界中の人が喜ぶということが発生するための基点は、なんと、お台所なんですよ。 お台所であり、また、スーパーに行ったりとかインターネットで食べ物を探して購入する人物、購入してそれを調理する人物、その意思決定をされる方、この方に地上天国が来るかどうかがかかってるんです。 だからそれは、男性の主夫でもいいし女性の主婦でもいいんですけれども、皆様方お一人おひとりの選択にかかっている。 皆様方がみんなお肉を買えば、そしたらもっと肉が必要になるし、肉を売ると儲かるからということで、じゃあ動物育てなきゃいけない、飼料も作らなきゃいけないとなる。 我々が肉を買うからそうなってるんですよ。お金が支払われるところが優先されるに決まってるじゃないですか。みんなお金を儲けたいのに、どうしたらお金が無い人たちのことが優先されるんですか。されないですよ。 確かにね、土から地上天国が始まるという言い方もできますね。でも、農家さんの方も基本普通に肉食べますからね。だから、一義的には、この地上天国という人類が求めてやまない世界を造る鍵を握っておられるのは、お台所を担っている方です。 もし日本の主婦や主夫の方々全部が、ミロクの世は菜食だからということで肉を買わなければ、もう売れないんだから、作る必要無い。それが世界中で起きたら、一瞬にして世界は変わりますよ。飢餓は無くなる。動物の飼料分を人に回そう、で飢餓は終わりですよ。 だから我々は、ご神業と聞くと、教主様がどうとか明主様がどうとかイエス・キリストがどうとか教会長がどうとか思いますけれども、そうではなくて、一人ひとりの主婦や主夫の方々にかかってるんです。一人ひとりの主婦や主夫の方々が世界中で何を買うか、何を調理するか、もうこれで人類の運命は決まっちゃうんですよ。 小さな一歩かもしれないけれども、皆様お一人おひとりの日々の選択と実行によって、人類の運命、明日、いや、今食べ物が無くてバタバタ死んでいる子供たちの運命を変えられるんです。 どんなにお偉いさんが、こういう政策がどうだと言ったって、世の中は大して変わらない。でも、皆様が肉を買わないとか、菜食を始めたら、そういうお偉いさんがすることよりはるかにすごいことであって、そういうことを上回る力を皆様お一人おひとりがお持ちなんです。人類が求めてやまない理想世界を造るということを、皆様お一人おひとり、今日から、今日このあとすぐからもう始められるんです。 今度の週末教会に行ってこれをさせていただこう、じゃなくていいんです。この祭典が終わったあと何を買うか、何を作るか、それがすごいことなんです。人類の明るい未来を造ることに直接的に携わることができるという皆様の力は、計り知れなく大きいですね。 そういうことを考える時、現実的には、日本においては、また世界においても、お台所と買い物を担っているのは主に女性の方ですね。もちろん男性の方でしておられる方もおられるけれども、現状としては、世界中において、基本的には女性の方がこれらのことを担っておられる。 そう考えると、これから理想世界を造るということにおいての女性の方々の役割は大きいですね。いや、こういうことをね、男性の私が決して偉そうに言えることではない。ないけれども、女性の皆様お一人おひとりは地上天国建設においてそれだけの力と責任を持っておられるということですね。 私は、明主様ご昇天後のご神業というものを考えた時、まあ、男性的とか女性的という言葉は本来あまり使いたくないんですけれども、でもやはり、ご神業の方向性というのが、なんか、組織とか理屈とか教えがどうだとか宗教的理論がどうだとか哲学がどうだとか数がどうだとか、なにか、そういうふうなことでずっと来てしまったんじゃないのかなと思います。 そういうことばかりが優先されて、逆に、感動とか情熱とか喜びとかワクワク感とか楽しいとかうれしいとかなんか分からないけれどもやってみたいとか、そういうことは大切にされてこなかったんじゃないかと思ったりします。これなんかやってみたいということがあっても、いや、それはこういう理由でだめだ、みたいなことで来てしまったんじゃないかと思ったりします。 明主様の時は、それはもうみんな嬉々としてご神業にお仕えになってたと思うんですけれども、明主様ご昇天後の長年の歩みの中で、なにか、まあひと言で言えば男中心の営みになってしまって、本当はもっと本質的に大切な、感動、喜び、湧き上がる思い、ワクワク感、楽しい、うれしい、涙―なんかそういうことが大切にされてこなかったんじゃないかと、そう思います。 で、そもそもなんでそういう歩みになってしまったんだろう、と思いますと、それが今日拝聴した聖書にもあったように、万物ですね、万物。万物。 だって万物は「滅びのなわめ」から解放されたいんですよね?(「ローマ人への手紙」第8章21節)でも我々は、万物を――例えば、お金とか数とかそういういろんなことを――非常に自分の都合のいいように認識してますよね、この数はいい、このことはいい、このことはだめだと言って。 教主様がいつもご教導くださるように、人間の尺度によって万物をがんじがらめにしている。人類の歩みの中で、女性に対してもそういう見方と扱いがあったし、まだあると思いますよ。 いやもちろんね、組織とか教えとか組織運営とか理論とか、そういうことはまあ大事は大事ですよ。それが大事じゃないと言っているのではない。でも我々は、本来もっと大切なことを忘れてたんじゃないかと、それを私は言いたいわけです。 でも、万物をがんじがらめにして、人間の都合で進んでいっても、結局行き着く先は死ですよ、それはね。 だって人間の尺度で考えれば、人間は永遠性は考えられませんからね。この世でやっていくことしか考えられない。それは有限の世界のことですから、最終地点は死ですね。 滅びのなわめから解放されたい万物、被造物は、神の子たちの出現を待ってるんですよ。神の子たちの出現を待っている(「ローマ人への手紙」第8章19節)。 だって神様は、もう万物は彼の支配下に置いた(「ヘブル人への手紙」第2章8節)と仰せじゃないですか。ここの「彼」というのは私たち人間のことですよ、イエスのことではなくて。 神様は、万物を人間の支配下に置いたんだけど、あなた方はその事実を見てないじゃないかと仰せになってる(「ヘブル人への手紙」第2章8節)。確かに見てないですよね、我々は。神様としてはもう万物はあなた方人間に与えたよと仰せなのに、我々はそれを見ていない。 だって我々は、今でも、病気になったら、「なんでこんな病気になっちゃったんだろう」、なにかが起これば、「なんでこういうことが起きたんだろう」ということで、そういうことを自分の都合の悪いものとして見てますよね。でも、そういう生き方であったとして、どうやったらそれで万物が滅びのなわめから解放されるんですか? 万物は、神の子たちの栄光の自由に入りたいんですよ(「ローマ人への手紙」第8章21節)。神の子たちですよ。イエスだけじゃないんですよ。 いや、書いてありましたですよね、聖書に。万物は神の子たちの出現を待ち望んでるとあったじゃないですか。この「神の子たち」というのは我々のことですよ。 しかも聖書には、我々は子たる身分が授けられなきゃいけないとありましたね(「ローマ人への手紙」第8章23節)。子たる身分が授けられなきゃいけないということは、今はまだ神様の子ではないということですよ。 よくいろんな宗教では、簡単に、「人類みんな神様の子で兄弟姉妹だ」と言いますが、まだ子にはなってないんですよ。兄弟姉妹だ、みんな神様の子供だ――そういう言葉は響きはいいですよ、ああすばらしいねとなる。でも、我々はもう子たる身分は授けられたんですか?まだじゃないですか。 子たる身分を授けられる、すなわち、あがなわれることとありましたね(「ローマ人への手紙」第8章23節)。それは当然そうですよ。贖われないでどうやって神様の御前に立てるんですか? ということは、万物たちは、我々が贖われてきれいになって我々と共に神様のみもとに帰るのを待っておられるということですね。待っていてくださっている、万物は。 だって明主様も、御書で「天地更新」とか「天地一新」と書かれていますね。この場合の「天地」というのは、大宇宙すべてという意味での「天地」ですから、つまり全被造物ですね。だから万物ですよ。ということは、「天地更新」というのは「万物更新」ということでもある。 「天地一新」。天地が完全に新しくなったということですね。万物が完全に新しくなった。そういう御書を明主様はお書きになっている。 つまり明主様は、この、目に見える世界をご覧になった時、「滅びのなわめにいる万物」ではなくて、「もう一新されてしまった万物」という見方であったということです。それが明主様の見方です。 あんまり考えないんじゃないですか、明主様がなぜ「天地更新」とか「天地一新」という御書を書かれたのか。なんかいい言葉だな、くらいですよね。 万物は一新してるんですよ。一新してるということは、古いものがあったということですね。でも我々は、万物を一新した物として見てますか? 今まで生きてきた中で、万物を見た時に、「あ、もう万物は一新されてるんだ」と明主様のようにほとんど思ってこなかったですよね。明主様の御書を見ても素通りですよ、我々はね。 でも、そのように、天地が一新していると思われた明主様が最終的にたどり着かれたのが、「メシアとして新しく生まれる」ですね。だから大変なことですよ、万物が一新したということは。 教主様の祝詞にも、万物が甦って人新たに生まれるというくだりがありましたが、まさに明主様がお示しの通りじゃないですか。天地が一新していると思われた明主様だからこそ新しく生まれるという境地にたどり着くことができた。 新しく生まれるということは、だから、永遠の命ですね。 でも今我々は、この話を聞いて、ものすごい感動に満たされていますか?「これは大変なことだ」と思ってないじゃないですか。「あ、そういうこともあるのかな」、くらいですね。 でも明主様は、新しくお生まれになったということを宣言されて、碧雲荘に幹部の人を集められて、これは奇蹟以上の奇蹟だと仰せになって、大喜びされた。 それに対しての我々の受けとめ、姿勢、ギャップが大きすぎるじゃないですか。明主様が見ておられた世界、生きておられた世界と、我々の世界のギャップが大きすぎるじゃないですか。 地上のことを主体にして、この世の成功、富、健康、それにどっぷり浸かっている我々は、「永遠の命があるんですよ」「新しく生まれられるんですよ」と聞いても、明主様ほどの喜びを今感じてますか?感じてないとしたら、どうやって私たちはそれで明主様の信徒となり得るんですか。このギャップ、大きすぎますよ。明主様の認識と我々明主様信徒の認識のギャップが大きすぎる。 最晩年明主様は、余の真の信徒は一人もいない(「側近奉仕者の日記より」1954年7月11日)というようなことを仰せになりましたが、その通りですよ。新しく生まれるということを発表されたり、「天地一新」という御書を書かれたって、我々は無反応ですからね、無反応。 しかも我々は、万物が一新されているということで「万物」ということを思う時、動物とか大自然とか地球とかを思いますけれども、明主様は、人間の想念だって万物なんだということを聖言くださっていますね。人間の想念は細かい粒子なんだと仰せになっておられた(「たとえてみれば人間の想念ですが、想念も結局細かい粒子なのです」(「御講話」1953年7月17日))。 だから、人間の想念といえども、万物ということです。物だということです。 万物が更新してるなら自分はどうしよう、もっと家とか外の掃除をちゃんとしようとか、物を大切に扱おうということを思ったりして、まあ、そういうことは確かにありますけれども、でも、もう、「思い」が万物なんですよ。 「思い」も神の子たちの自由に入りたいと、そういうことなんです。いや、思いが物だということは大変なことですね。 で、この思いについてどうしたらいいのかといったら、それは神様にお捧げするしかないじゃないですか。月次祭とかでは万物の代表ということで農作物を捧げますよね、リンゴとか野菜とかお豆とかお米。万物。これをお供えする。 思いも同じですよ。だって思いも物なんですから。 だから、ご神前で野菜とか穀物をお供えしてるのをイメージして、「この思い――こんな汚い思いですけれども――これはイエスが贖ってくださったんですから、イエスの贖いをお受けしますので、神様、受け取っていただきたいのです。私の思いに結ばれた多くの先祖とかいろんな動物も含めた大自然とか、そのすべてを携えてお供えします」ということが、これは大変な御用なんですよ、これが。 我々は、新しく生まれることについて、目に見えないけれどもそれを望むんだ、と聖書にありましたが(「ローマ人への手紙」第8章24節~25節)、でも、目に見える形で明主様ご本人が現れてくださったじゃないですか。大変なことですよ、明主様がメシア降誕を宣言されたのは。 イエス・キリスト亡きあと二千年。万物が一新した世界の中で、明主様は新しく生まれるということを宣言された。 でも本当は、全被造物が神の子たちの出現を待ち望んでいたんですから、明主様というご存在をご用意いただかなくても我々は新しく生まれるという使命に生きるべきだったのに、でも、そんな分からずやの我々のために神様は「明主様」という目に見える形のご存在を用意してくださって、イエスと連なって「神の子たちの出現」の型を見せてくださった。 しかも、明主様が新しく生まれると仰せになった意味とか、なぜあんなに明主様が喜ばれていたのかとか、その意味が全く分からずにいた我々に、明主様は、教主様というご存在をもご用意くださって、その意味を教えてくださっている。だから、至れり尽くせりですよ、本当はね。 というように、もう一新しちゃったんです、天地は。天地は一新してしまった。全く新しい世界にもうなってしまったんです。 ここで我々が思うのは、思いを神様にお捧げしたところでどうにもならないじゃないかと、そんなことを思いますよね。確かに、目に見えないことですからね、思いというのは。 でも少なくとも僕が思うのは、「思いを捧げる」というのは、どんな人でもできますよ。身体が動かなくても、ずっと寝たきりの方でも、万物を栄光の自由に導き入れて喜びを与えて、全被造物が本当に喜ぶ、というその御用に携わることができる。誰でもできるんですよ。今、それができるんですよ。 で、そんなことしてもなんの意味も無いじゃないかと思うけれども、でも実はね、そのような思いの営みを通して我々の中にある天国が栄えれば、霊主体従の法則によって、その天上の栄光が地上にも写し出されてくるんです。 どのように写し出されてくるのかといったら、神様の浄めの働きが現れるわけですから、形としては厳しいことが起こるかもしれませんね。光が強ければ強いほど影も濃くなりますからね。 でも同時に、破壊と創造が同時に行われると明主様が仰せのように、来るべき新世界というすばらしい世界も顕現されてきますよ。 この破壊と創造の働きというのは、これからどんどんどんどん促進されますよ。天上が輝けば輝くほど、どんどん促進されますよ。 そして、その来るべき新世界の象徴となるのが、当然、世界メシア教の聖地ですよね。明主様の聖地。天国のひな型。明主様は、輝ける天上の写しとしての聖地建設をされようとしたんでしょ?そして今、それを我々もさせていただこうとしていますね。この業はこれからどんどん進んでいきますよ。 その中でも今日私がお話ししたいのは、ブラジルの「水の聖地」。この土地を購入いたしました。 場所は、リオデジャネイロですね。リオデジャネイロ。リオデジャネイロは、いわゆるコルコバードのキリスト像があるところですね。サンパウロが一番大きい街で、それとは違う、リオデジャネイロ。 リオデジャネイロ州の中でもどこかというと、リオデジャネイロ市というのが州都で、その首都圏にあるイタボライ市。ここですね。イタボライ市。 そして、これはサントス先生から聞いた話ですけれども、市内から「水の聖地」建設予定地に行くには、ちょうど海の上を通る大きな橋があって、そこを車で行くと、バーッとさながら水の上を進んでいるみたいだということです。 聖地建設予定地内に入ると、平らな土地があって、小川が流れてて、池もある。そして、敷地内には小高い丘があるみたいなんですけれども、その小高い丘に上ると、リオデジャネイロ州の周辺の景色の360度一大パノラマ、ということみたいですよ。 そこからの景色は、サントス先生の言い方をすると、「全身の毛が逆立つほど感動した」(一同笑声)ということらしいです。全身の毛が逆立つほど感動した(一同笑声)。すごいですね。 で、このリオデジャネイロという名前ですが、リオデジャネイロというのは日本語にすると、「1月の川」です。リオは、本当の発音はrio(ヒオ)ですけれども、とにかく、リオが「川」で、デは「の」で、ジャネイロが英語のJanuaryに当たる言葉ですので、「1月」という意味。つまり、1月の川。改めて思うとおもしろい土地の名前ですね。だけどとにかくリオデジャネイロなので、1月の川。水の聖地にふさわしいですね。 イタボライ市の「イタボライ」はなんか現地の先住民かなんかの言葉なのかなと思いますけれども、まさにそうなのですが、現地の言葉で、「輝く石が隠された川」という意味だそうです。 昔先住民の方がそこの土地に行った時、きれいな川がいっぱいあって、その川の中にある石が美しかったということで、川に隠された美しい石とか、川に隠された輝く石とか、イタボライ市のイタボライというのはそういう意味です。 イタボライ市はリオの中心地から50キロぐらいということですので、すぐですね。まあ首都圏内というのかな。だから、リオデジャネイロという言葉のみならず、イタボライという言葉も川ということで、水に関係がある。 そして、このイタボライ市がそもそも街に発展していくきっかけとなったのが、昔、ポルトガルのほうから開拓する人たちが来て、のちのイタボライ市となるところにキリスト教の教会を建てたんですけれども、それは、洗礼者ヨハネを祀る教会を建てたんですね。 そして当時は、そのような教会は経済活動の中心でもあったんでしょうか、その洗礼者ヨハネを祀る教会を中心に人がだんだん集まってきて、そして今のイタボライ市ができてきた。だから、イタボライ市は、要は、洗礼者ヨハネの教会によって誕生した街だということです。 洗礼者ヨハネは「水のバプテスマ」ですよ。洗礼者ヨハネの役割は水のバプテスマですよ。ヨルダン川でイエス・キリストを含めた多くの人に水のバプテスマをしに来たのが洗礼者ヨハネです。 だから、最近私この言葉を連発してますけれども、「これ、偶然なんですか?」(一同笑声)ということで、いや正直、もう怖いぐらいですね。 だってこれがサンパウロだったら、じゃあサンパウロで使徒パウロということで、なんか強引に水にこじつけてうまくしたかもしれませんけれども(一同笑声)、実際ちょっと無理がありますよね。 でも、洗礼者ヨハネは水のバプテスマのヨハネですよ。その教会を中心にできた街に、水の聖地ができる。リオデジャネイロ、1月の川。イタボライ、輝ける石が隠された川。 リオデジャネイロ州の水のバプテスマの洗礼者ヨハネによってできたイタボライ市に「水の聖地」を建設しようとしている。 だから、まあ、偶然じゃないですね。 しかも我々が購入した土地の登記名が、なんと、ポルトガル語で、Sítio Renascer(シチオ・へナセール)。Sítio Renascerというのは、日本語では、「新しく生まれる農地」という意味になります。再び生まれる農地、再生の農地とも言えますね。 日本語でよく私たちが言っている「新しく生まれる」というのは、ポルトガル語ではrenascer(ヘナセール)、あるいは、nascer de novo(ナセール・ジ・ノーヴォ)ですので、「新しく生まれる農地」という意味です。 前のオーナーかどうかは分かりませんけれども、この土地を登記する時に使った言葉が、日本語で言えば「新しく生まれる農地」ですよ。だから、偶然じゃないですよね(一同笑声)。 いや、言葉はいっぱいありますよ、世の中に。もう何万語とある中で、そういう言葉の農地なんですよ。だからこれは、奇蹟ですね。偶然どころか奇蹟ですよ、これはね。 やはりなにかあると思いますよ。メシア教を通じて神様が進めておられるご神業になにかあると思いますよ。 我々の人生というのは、結婚する人もいれば結婚しない人もいる。子供ができる人もいれば子供ができない人もいる。子供ができたと思ったらその子がすごい病を抱えてるとか、小さいうちに死んじゃうとかもありますね。あるいは、ずっと元気だったのに急に病気になったりとかもあって、いろいろですね。 その人生の中で我々は喜怒哀楽を感じて、そして一生を終えていく。我々は、それが人生なんだと思っている。その生き方はそれはそれでいいですよ。世の中いろいろありますもんね。テクノロジーも進化してます、世の中の人間関係が大事だ、まあそういうことは確かに大切ですけどね。ということでみんなその世界だけで生きてますね。 でもやっぱり、本当はね、神様にお仕えするということが人間の生きがいであるべきなんですよ。世の中の人は、全然そんなこと関係無いですもんね。お金がどうだ、友達関係がどうだ、新しいこれがどうだ、うまくいった、うまくいかない、病気だ、病気じゃない――この世界ですね。 確かにそういうことは大変ですよ。確かに人生は大変だけれども、でも、神様にお仕えすること無くして人間の真の幸せは無いですよ、どう考えても。それが無ければむなしいじゃないですか。まあ、むなしいとも思えてませんね。神様にお仕えしなければいけないということに気づけないことがむなしいんだということも分からない。それだけどっぷりこの人間世界というところに入ってしまってますね。 だから我々の使命は、本当の生きがいがあるじゃないかということを世に伝えること、これですね。 もう神様は我々のことは面倒見てくださったんですよ。いや、ものすごい具体的に言えば、先進国にいる我々について言えば、基本的にはもうカロリーということについて十分面倒見てくださってるじゃないですか。なんで飢餓で苦しんでる人たちのことをなんとかしてあげようと思わないんですか。それと同じことですよ。 もう神様は我々のことを面倒見てくださったんです。だから我々の使命は、世の人に、「本当の喜びがあるじゃないか。神様のことを知らずにこの世を去るのはもったいない。もったいない。イエス・キリストの愛がある。明主様の新しく生まれるということがある。神様の子供となれる。神様の子供として神様にお仕えするのが本当の喜びなんだ。その生きがいにあなたも生きてみませんか」と世の人に伝えること、これが我々の使命ですよ。 なんで自分だけずーっと被ろうとするんですか。我々は、常に、被りたい、被りたい、被りたい。それは、飢餓という現実があるのに、肉も食べたいこれも食べたいと言ってるのと同じことですよ。世の中で食べ物が無くて死んでる人がいるのに、肉食べたいマクドナルド食べたいと言ってるのと一緒ですよ。 我々は分け与えるのが使命なんです。喜びと祝福を分け与えるのが我々の使命。 生きがい。喜び。希望。愛。これを分け与える。 今日、新職の方14名――セメス研修生5名と9名の新しい方が――壇上に並んでくださって、私たちはそのお姿を見させていただきましたね。そして皆さん、お若かったですね。ということは、まだまだすべての信徒の皆様方にも使命があるじゃないかということです。世の人に本当の生きがいを示す使命が皆様方にあるじゃないかと、そういうことです。 イエス・キリストによってもたらされた絶大なる力がもうあるんです。万物が一新されて、新しく生まれて、神の子となって、世の人に喜びを分け与えるという、これが人類にとって定められた宿命なんですよ。その宿命に全人類が生きたらどれだけすばらしい世の中になるのでしょうか。 だから、何を言わんとしているのかというと、この救いの福音を、世の人に、伝えて伝えて伝えまくるということですね。 拒否されても、拒絶されても、百人に一人でも千人に一人でも一万人に一人でも、あっ本当にそうだなって思ってくださる人がいれば、こんな尊いことないですよね。神様にとっては別に教団なんてどうでもいいんですよ、全人類が神様のもとに帰ればいいだけなんですから。 でも今日、ああいう形で新職の方14名――14名――ああいう若い方たちと共に我々も一致団結して、世に救いをもたらす。万物はもう甦ったんですよ。甦った。今我々が見ている世界というのは、くすんでるのではなくて、もう光り輝いている。 ですので、大いなる喜びを持って、新職の方と共に、セメスの方と共に、アフリカと共に、ブラジルと共に、今日はポルトガルからも来られてますけれども、ヨーロッパと共に、世界中の信徒と共に、この世界メシア教の救いを、命を懸けて全世界に告げ知らしていきましょう。 ありがとうございました。