※ポルトガル語でなされた聖言の和訳 聖言冒頭:ボリビアにて》※真明様がポルトガル語で話され、ウエマ本部長がそれをスペイン語に翻訳 皆様、おはようございます! まずは、私の妻・マミへ、「ハッピーバースデー」の歌を皆様で歌ってくださいまして、誠にありがとうございます(ボリビアでの祭典当日がマミ奥様のお誕生日であった)。パーテーションの裏で、聴かせていただきながらスマホで録音しまして、すぐ妻に送りました(一同拍手)。 皆様もご存じのように、教主様と私は、2020年11月にボリビアに来る予定にしておりましたが、新型コロナウィルスが世界大に広がる中、この巡教は中止になりました。 しかし、最近になり、これはボリビアも同じだと思いますが、日本においても、コロナに関連した規制の緩和が進められ、日本の世界メシア教理事会は、教主様による海外ご巡教の再開を考えてもよいのではないかと判断し、教主様と私へのご相談がございました。 理事会のお考えを聞いて、私が一番最初に言ったことは、「もし海外ご巡教を再開させていただくなら、まずボリビアからお願いしたい(一同拍手)。私たちはボリビア信徒との約束を果たさなければならない」ということです。 にもかかわらず、ボリビアに来る前にブラジルを経由してきてしまい申し訳ございません(一同拍手)。 こうして本日、ついに皆様にお会いできたこと、教主様の名において、とてもうれしいです(一同拍手)。 まず、30年以上にわたり、ボリビアでご神業を進めてこられたウエマ本部長に感謝を申し上げたいと思います(一同拍手)。長年の間、多くの困難を乗り越えられてきたことと思います。そのご苦労があられたからこそ、私は、今日、こうして皆様とお会いすることができています。ウエマ本部長、誠にありがとうございました(一同拍手)。 皆様もお分かりになりますように、現在ウエマ本部長は、歩くのが難しい状態です(ウエマ本部長は痛風の症状を発症しておられた)。ボリビアに到着し、ウエマ本部長のご様子を拝見した私は、「神様と明主様はこのことを通して私に何をお伝えになりたいのだろうか」ということを考えました。 明主様は、私たちに「浄化」の聖言を遺されましたね。「浄化」というのは、一見簡単な教えのように思うかもしれません。実践するのも簡単だと思うかもしれません。でも、私はそうは思いません。実は大変に難しいことです。 「浄化」というのは、「一見悪そうに見えることは、実はいいことである」という教えですね。 この教えを信じ、実践しておられた明主様は、脳溢血のご浄化をいただき、命を落としてもおかしくない状態に直面された時、「ああ、私はこのまま死んでいく運命なのだ」とは思われず、むしろ、「ああ、私は新しい命を獲得したのだ!」と受けとめられました。つまり明主様は、まったく正反対の受けとめをされたのです。 そう考えますと、このウエマ本部長の症状というのを私たちはどうやって受けとめたらよいのでしょうか。 私が思うのは、ウエマ先生は、長い間、このボリビアにおいて、多くの方々を神様のみもとにご案内になりました。神様のほうに向かって歩く方々を多くお作りになりました。 神様と明主様は、ウエマ先生の身体をお使いになり、このことを私に気づいてほしかったのではないかと思っています。ウエマ先生のご努力あっての今日であることを、私に気づいてほしかったのではないかと思っています。 ですので、ウエマ先生の症状をご覧になり、「先生は悪いタイミングでご浄化になった」と思うよりも、本当は今、明主様が、「多くの者たちは、ウエマ先生のおかげで神様のみもとに向かって歩くことができている。あなたたち、見なさい。今、その方たちの喜びがウエマ先生の身体を通して表現されているのです。それを見なさい」と、そう私たちにおっしゃっているのではないかと思えてならないのです。 他の誰でもない私にこのことを気づかせるため、神様と明主様は、このご浄化をウエマ先生にお与えになったと思います。ウエマ先生、このような形で神様にお仕えになってくださり誠にありがとうございます(一同拍手)。 また、ウエマ本部長の奥様にも感謝の思いをお伝えしたいと思います。奥様は、ウエマ本部長と共に、また、皆様ボリビア信徒と共に、今日まで多くの困難に直面し、それを乗り越えてこられたのだと思います。奥様、誠にありがとうございます(一同拍手)。 今日参拝に来られているボリビアの信徒の皆様にも御礼をお伝えしたいと思います。教主様のもとに立ち上がってくださり誠にありがとうございます。 ウエマ本部長、奥様、そして信徒の皆様のご努力があって、私は今日ここにおらせていただいています。皆様に深く感謝申し上げます(一同拍手)。 《聖言冒頭:ブラジルにて》※真明様は、直接ポルトガル語で聖言を宣べられる (スタンディングオベーションと拍手とに迎えられ)皆様、ありがとうございます。おはようございます! お元気ですか?(信徒「神様のおかげによって!」) 長いコロナの規制のあと、ようやくこのように皆様に直接お会いすることができて、本当に、本当に感動しています。 私たちは同じ心を共有していて、場所は違っても常に一つとして歩んでいますが、でも、直接会うのはやはり違いますね。 数日前、ボリビアでも直接信徒の方々とお会いし、やはり直接会うのは違うと思いました。そして今日、ブラジルでも、皆様と直接お会いする機会をいただき本当にうれしいです。 歌もすばらしかったですね(一同拍手)。 指揮のホドリゴさんとコーラス隊の方々、誠にありがとうございました。 そして、ただ今は、サントス本部長、教主様と私と、そして母と私の妻に対しての言葉をいただき、ありがとうございました。教主様も母も私の妻も、本当にこの場にいたかったと思います。でも、今日は、私を通して、この三人も皆様に会わせていただいていると私は信じています。 私はいつも、日本でサントス本部長の月次祭等でのご挨拶をYouTubeで拝見しているのですが、サントス先生の言葉は私たちに力を与えてくれますよね。私は、特に、サントス先生が、「私の話は長いですか?」「もう疲れ果ててしまいましたか?」と、ご自分のご挨拶が長いことをジョークにしている場面が大好きです(一同笑声)。 というのは、私も、長く話すことで有名です(一同笑声)。 ですので、サントス先生の新しいビデオが出ると、私がいつも真っ先に確認するのはビデオの長さです(一同笑声)。「1時間話しておられる!やった!これで私も1時間くらいは話せるぞ!」(一同笑声及び拍手)と思っています。 皆様は、今日の祭典の式次第をご覧になり、「サントス本部長挨拶」と「真明様聖言」というのを確認された時、「えっ?サントス本部長だけではなく真明様も話されるの?今日の祭典は長くなる。今晩遅くまで、あるいは明日まで続くかもしれない。もう一生終わらないかもしれない」(一同笑声)と思われませんでしたか? 冗談は置いておいて、私は、本当に、サントス本部長がこのブラジルにいてくださることを大変ありがたく思っています。 また、実は、今回ブラジルに来るにあたって、一つのプレッシャーがありました。皆様は、私の海外ビデオメッセージをご覧になったことはありますよね。あれは、相当の準備の上でなされているわけですので、ビデオの中の私のポルトガル語は、なんというか、そんなにひどくないですよね。でも、今日のような機会はまた違います。ですので、ビデオではあんなに話しているのに、え?ポルトガル語話せないの?(一同笑声)と思われてしまわないように、というそのプレッシャーがありました。 私はポルトガル語の勉強を継続して行ってきましたが、今日皆様をがっかりさせないように、というプレッシャーがさらに一つのモチベーションとなりました(一同拍手)。 皆様は、サントス本部長の奥様をご存じですか?奥様はブラジルには住んでおられませんが、私は、奥様が、常に、本部長、また、ブラジルでのご神業を支えてくださっていると確信しています。 (真明様、本部長の奥様のほうをお向きになって)奥様、皆様に奥様をご紹介させていただいてもいいですか?カチアさん、どうぞお立ちください(一同拍手)。 (真明様、本部長と奥様のほうをお向きになって)事前に確認せずこんなことをしてしまい申し訳ございません(一同拍手)。 実は、先ほど参拝席で本部長と奥様の隣でご一緒に座っていた時、「カチアさんをご紹介することの許可を事前に、今、取っておいたほうがいいのかな?」と思っていたのですが(一同笑声)、でも、私はサプライズが好きなので、確認せずにしてしまいました。 《ボリビア及びブラジルにて》 今日は、「幸せ」ということについて少しお話ししたいと思います。 私たちは、毎日毎日、幸せを求めていますね。 私たちは、どうしたら幸せになれるのでしょうか。 私たちは普通、「いつの日か幸せになれる。いつの日か太陽は昇る」と思っているかもしれませんが、明主様は、すでに太陽は出た、光は現れた、幸せは来たと、そう仰せです。 単純なことのように聞こえるかもしれませんが、これは大変なことです。 そして明主様は、すでに光は現れたのだから、太陽は出たのだから、あとは戸を開けるだけでいいと、そう仰せです。 それを聞いた私たちは、「え?そんな簡単なことなの?じゃあ戸を開けて、光と救いをお受けして、今すぐ幸せになろう」と思う。でも、そう思った瞬間、別の思いが私たちの心に去来するんですね。それは、「だけど私にはこういう病がある」とか、「だけど私の家族にはこういう問題がある」とか、「私の主人はこうだ」「私の隣人はこうだ」「仕事場でこういうことを抱えている」とか、そういった思いです。 このような思いがあるゆえに、明主様は「戸を開けるだけでいい」と仰せなのに、私たちは、「本当に戸を開けてしまっていいのかな。私は光と救いをお受けするのにふさわしい存在なのかな」ということを思って躊躇してしまう。そのせいで、せっかく軽い戸が、重たいものになってしまっている。 明主様は、「開けろ、開けろ」と仰せなのに、勝手にいろいろと考え、その軽い戸を重たいものにしてしまっている。 まずこれが一点。 もう一点、なぜこの戸が重たくなってしまっているのかというと、それは、私たちのご先祖様との関わりです。 どういうことかと言うと、私たちは、明主様の「太陽は出た、光は現れた、幸せはもう来た。だから戸を開けなさい」という聖言を聞き、すぐに戸を開けようとします。でも、私たちが戸を開けようとしているその姿を、私たちの中にいるご先祖様が私たちを通して見るわけです。ご先祖様は、「あ、この人は今まさにこのドアを開けて光を浴びようとしているな」と思う。 普段私たちは、自分こそが真っ先に光に浴して幸せになりたいと思うがゆえに、往々にして私たちのご先祖様のことを忘れてしまいます。 でも、ご先祖様にとり、救いに与る唯一の方法は、地上にいる私たちを通してですから、ご先祖様は、私たちにつかまり、私たちを強く引っ張っておられる。私たちが、「私は早く光を浴びて幸せになりたい!」として戸を開けようとすると、私たちのご先祖様は、「待って、待って。私たちも一緒に光を浴びたいです」ということで、私たちを引っ張っておられるということです。 ご先祖様に引っ張られていることによって私たちの身体は重たくなり、とうていドアを開けられるような状態ではなくなっている、ということです。 私たちは、どうやったらこの状態から脱することができるのでしょうか。幸せになりたいのに、光に浴したいのに、一見簡単そうに見える戸を開けることすらできない私たち。どうすればいいのでしょうか。 それは、「私ではなく、まず私のご先祖様に幸せになっていただきたいのです、光に浴していただきたいのです」とさせていただくこと。 自分だけでドアを開けて、自分だけが光に浴したいと思うのではなく、「ああ、私ではなく、ご先祖様方、まずあなた方がこの戸をくぐって救いを受けてくださいますか」とさせていただくこと。 なぜこのようにさせていただく必要性があるのかというと、それは、今日私たちが存在しているのはご先祖様のおかげだから。だからです。 私たちの人生も簡単なものではありませんね。さまざまな困難がある。でも、私たちのご先祖様は、私たちよりももっと大変な時代を生きて、さまざまな困難を乗り越えてきてくださって、そして、私たちに命をつないでくださった。 だからこそ私たちは、「私の前に、まず私のご先祖様である皆様がこの戸をくぐってくださいますように」とさせていただくことが必要なんです。 私たちは、この地上で、さまざまな困難がありますが、それは、実は、私たちのご先祖様からのメッセージなのです。 神様は存在する、と人々は言いますね。でも、もし神様が本当にいらっしゃるのだとしたら、なぜ私たちには苦しみがあるのでしょうか。つじつまが合わないではないですか。神様が本当にいらっしゃるのだとしたら、私たちの苦しみは、すでに取り除かれているべきではないですか?でも現実はそうではない。戦争、病気、経済的な苦しみ、仕事での悩み、友達や家族とのいざこざ、このようなことはいくらでもありますね。 おかしいではないですか。神様が本当にいらっしゃるのだとしたら、おかしいではないですか。 でも、本当は、この世での私たちの苦しみと思えるようなことのすべては、実は、光に浴したいと願っている私たちのご先祖様からのメッセージなのです。自分たちの存在に気づいてほしいと願っているご先祖様からのメッセージなのです。 この世では、誰もが、苦しみと思われるようなことに直面します。それは絶対に発生します。その時に、「この苦しみゆえに私は幸せになれない」「この病があるので私は幸せになれない」「この病がある以上私は救われない」というように思うのではなく、「ああ、神様はすでに私のことを救ってくださったのですね!そして今、神様は、私に、救いの光を私のご先祖様にも分け与えてほしいと願っておられるのですね。だから私はこの苦しみに直面しているのですね」と思わせていただく。思わせていただくというか、それが実際神様が私たちに願っておられることです。 明主様の極めて基本的な教えに「浄化」というのがありますね。浄化。これは、簡単そうな教えですが、ものすごく深い教えでもあります。 浄化というのは、「一見悪そうに見えることはいいことだ」という教えですね。内容としては簡単ですね。でも、この教えのように人生を生きていくことは、非常に難しいことです。 というのは、私たちは、ひとたび戦争が始まれば、「早く終わってほしいな」と思う。病気になれば、「不運にもこういう病気になってしまった」と思う。「私はこういう問題もああいう問題も抱えている」と思う。 私たちは、そういう困難を乗り越えたあとに、「ああ、神様のおかげだった」とは思えるかもしれない。でも明主様は、脳溢血という病のさなかにあって―命を奪う可能性のある病のさなかにあって―この病で自分は命を失うかもしれない、ではなく、「まさに今、神様は私に新しい命を与えてくださろうとしておられるのですね」と受けとめられた。 明主様は、病が回復したあとそのように思われたのではなく、病のさなかにあって、そのように思われたのです。明主様はすごいお方ですね。浄化の教えを、まさにご自分の人生の中で実践しておられた。 この世の常識に生きることは簡単なことです。 では、「この世の常識」とはなんでしょうか。それは、「理想世界はいつか来る」というもの。「私たちは力を合わせてその理想世界を造る」というもの。私は、もちろん、力を合わせることを否定しているのではありません。でも、そのような考えのもと、理想世界はいつか来る、幸せはいつか来ると思って歩んでいく、それが「この世の常識」です。 あるいは、ポジティブシンキング、ということも「この世の常識」です。「この人はいろいろ苦しいことがあっても、前向きに歩んでいてすごいな」というのが通常のポジティブシンキング。 でも明主様にとっては、その「いろいろ苦しいこと」そのものがすでに存在しない。 脳溢血をお受けになった時、明主様はそれを、「苦しいこと」とは思われず、とにかくこれはいいことなんだと、そう思われた。私たちとは、また、世の常識とは逆の発想です、明主様は。 明主様の神様に対する信仰心は本当にすごいものですね。 神様が本当に生きているとしたら、ご自身の子供である私たちを苦しめるはずないじゃないですか。 皆様、皆様はすでに救われたのですか?それとも救われてないのですか?(一同拍手) イエスと明主様により、私たちはもう救われているではないですか。でも、私たちのご先祖様は、私たちが知るに至ったこの絶大な救いの福音をまだ知らない。そのようなご先祖様が、皆様方一人ひとりの中にいらっしゃるのです。そして、「私もあなたが受けている救いを受けたいのです。あなたが救われたことはすばらしいことだと思います。私も救われたいのです!」と私たちに話しかけてきておられる。それが私たちの人生の一見苦しみに見えることとして現れているのです。 ですので、これを認めて、そして、何か苦しみと思われるようなことが起きた時には、「ああ、ご先祖様、救いを、光をお受けください。そして幸せになってください」とお伝えさせていただく。 そう伝えさせていただいた時に初めて、ご先祖様は、私たちに対し、「では一緒に戸を開けませんか?一緒に光を浴びて幸せになりませんか?」と言ってくださる。 このような姿勢こそが私たちの持つべき姿勢だと思いませんか?(一同拍手) でも、幸せになるために、もう一つだけ考慮しなければならない点があります。 それは何かというと、明主様は、天国に住めるようになったのは、ご自分の身体と魂が浄められたからだと、そう仰せです(「身も魂も神の光に浄められ天国に住む吾となりける」)。 ですので、ご先祖様と共に、ということだけで幸せになれると思ったら、実は、自分が浄められなければならない存在だということ抜きにしては幸せにはなれない。明主様は、「天国に住みたいならまず浄められなければダメですよ」と、そう仰せになっている。 浄められなければならない、ということは、ひと言で言えば、まだあなたには罪がありますよ、ということですね。罪。 人間、誰も完璧な人はいないですね。ある人は重大な罪を犯したかもしれない。ある人は軽い罪かもしれない。でも、我々全員、罪人であることに変わりはない。そして、罪ということになると、どうしてもイエスという存在が出てきますね。皆様がイエス・キリストという存在を受け入れておられるかどうかは分かりませんが(参拝席より「受け入れています!」の声。真明様は大きくうなずかれる)、私たちの罪が浄められるためには、どうしてもイエス・キリストという存在を受け入れなければならない。 なぜならば、明主様ご自身が、イエスのことを「贖罪主」であると仰せだからです。皆様は、「明主様がイエスのことを『贖罪主』だと言ったからといってそれがなにか?」と思われるかもしれませんが、これは大変なことですよ。だって、私たちの罪を贖ってくださった主はイエス・キリストだということですからね。 明主様は、常立の神の贖いがなければ、この世界、全宇宙はすでに滅んでいただろうとも仰せですね(「常立の神の贖なかりせば此天地は滅びしならめ」)。 この「常立の神」というのは、事実上、イエスのことです、だって明主様はイエスが「贖罪主」と仰せなんですから。 ということは、イエスの贖いがなければ、明主様というご存在自身も存在し得なかった。明主様がこの地上に生まれられることもなかった。だとしたら、私たちはどうやってイエスという存在を無視することができるのですか?イエスがいなければもうこの地上は存在していなかったんですよ?イエスの贖罪がなければ、私たちも、私たちの教団も、この地上の世界も存在し得なかったし、今日こうやって祭典を執り行うこともできなかった。 そうだとしたら、どうすればイエスという存在を軽く扱えるというのでしょうか。私たちは、浄められるために、イエスの血を受け入れなければならないのです(一同拍手)。 浄められなければならないのは私たちだけではありません。私たち同様、私たちのご先祖様は、救いを得たい、幸せになりたい、と願っています。だとしたら、私たちのご先祖様も、まず、イエスの血を受け入れなければならない。 ですので、私たちは、自分だけでイエスの血を受け入れるのではなく、「ご先祖様と共にイエスの贖いの血を受け入れさせていただきたいのです」と思わせていただく。 ということは、今日のテーマである「幸せになる」ためには、イエスの存在を受け入れることが鍵であり、この「鍵」こそが、明主様が仰せの戸を開ける鍵でもあるのです。 世界メシア教は、イエスを信じ、イエスの贖いを信じ、イエスの贖いによって世にもたらされた救いを信じる。それを、100パーセント信じる。 なぜならば、明主様は、ご自分の身体と魂が罪にまみれていて、浄められなければならないと認識しておられ、さらにイエスを贖罪主と受け入れておられ、そして、ご自身の罪が浄められ天国の住民になられたということは、すなわち明主様は、神の赦しとイエスの贖いを受け入れておられたことに他ならない。だから私たちは、イエスを100パーセント信じる。 でもそれだけではなく、世界メシア教は、明主様が、イエスの贖いの次のステップをお示しになったと信じる。それはどういうステップかというと、イエスだけではなく、全人類がメシアとして新しく生まれる運命にある、というステップ。 ですから、私たちはイエスを100パーセント信じる。聖書を100パーセント信じる。そして明主様も100パーセント信じる(一同拍手)。 明主様は、脳溢血というご浄化を通してメシアとして新しくお生まれになったわけですが、これは二度目ですよ。最初のメシアはイエス・キリスト。だから、二度目(一同拍手)。 というように、明主様というご存在は、人類の誰もが、キリストでありメシアの魂をお受けしてキリストの再臨となれるという人類にとってのひな型であるわけです。 イエスは、皆様が思っておられるように、これから天から降ってはきませんよ。明主様の中に降られたように、私たちの中に、もうすでに降っておられるのです。 私たちは、イエス・キリストが再び戻ってくるのを待ちません。キリスト教徒の方々は待っていますね。そして、場合によっては、「この日に、ここにイエスは降ってくる」として、そこで待ったりもしますね。そうではなくて、もう皆様方の中に降られているのです(一同拍手)。 人類によって待ち望まれている「キリストの再臨」。それがすでに人類一人ひとりの中に降ったことを信じるのが世界メシア教です。 私たちはキリスト教に比べると小さい宗教団体かもしれません。でも、私たちが託されているメッセージというのは、果てしなく大きいものです。 イエスはこれから戻ってこない。なぜならもう私たちの中に降ったから。「メシア教の信徒だけですか?」。違います。全人類の中に、イエスはすでに降ったのです(一同拍手)。 イエスは、「すぐに戻る」とおっしゃいましたよね。これをどう捉えるのか、それは一人ひとりの受けとめにかかっているのです。「いつの日か降ってくるのですね。それを待ちます」と受けとめるのか、それとも、「『すぐに戻る』とおっしゃったのだから、もうイエスはすでに降られました。私の中に降られました」と受けとめるのか。 私たちには二つの選択肢があります。「神様はいつの日か私を愛してくださる」と思うのか、それとも、「神様はもう私のことをふんだんに愛してくださっています」と思うのか。 イエスと明主様の信徒である皆様方は、神の常識に生きることを選びたいのではないですか? 世の常識というのは、待つ、ということです。「まだ世の中にはこういう問題がある、あの問題もある。だから待とう」、これが世の常識です。 しかし皆様方は、すでに決められたお方たちですね。世の常識ではなく、神の常識に生きると決められたお方たちですね。でも、神様と明主様とイエスの常識に生きることは大変なことです。 逆に、世の常識に従って生きるのは、簡単なことです。「なかなかいろいろと大変な世の中だな」と思いながら生きていく、この生き方は楽な生き方です。 世の人から見たら、私たちは頭がおかしい人たちのように見えるでしょう。なぜなら私たちは、病があろうとも、人間関係で苦しんでいても、世に対して「私たちはすでに救われている」と宣言するのですから(一同拍手)。世の人々は、「救われてる?頭がおかしいのではないですか?」と言ってくるでしょう。 神様のみ力は無限です。もし皆様が神の常識に生きると決め、世の常識を捨て去ることができれば、神様は、「あなたはようやく私が伝えたかったことを理解したね」とおっしゃってくださいます。 昔、私たちは、病気になった時、「早く良くなりたい。この病は去ってほしい」というようなことを言いながら、常に神様に何かを求めていたと思います。でも私たちは、もはやそのようなことは言わないですよね。むしろ私たちは、神様に、「私はこれ以上求めません。なぜなら、神様、あなたは私に、あなたが私に与えたいものすべてをすでに私に与えてくださったのですから」と言わせていただくんですよね(一同拍手)。そのような子供が、神様にお喜びいただける子供なのですから。 「ほしい、ほしい、ほしい」ではなく、「あなたはすでに私を愛してくださり、すべてをくださったのですね」と言わせていただく。いや、もちろんお金も確かに必要ですし、この世のことはうまくいってほしいですよね。そう思うのは当然のことです。でも、ただひたすら「もっとください、もっとください」とするのではなく、むしろ私たちは、与える立場なのです。分け与える。 私たちが知らされた救いを、まずは私たちの中におられるご先祖様に分け与える。それだけではなく、世の人々にも分け与える。だって世の人々は、神様がこの世を愛していないと思い込んでいるのですからね。 世の人々に、本当の救いと、本当の神の愛を分け与える役目が私たちにはあるのです。 《聖言結語:ボリビアにて》 ボリビアにいる皆様の使命は、この、新しい神の常識を世に知らせ、ボリビアに、世界に革命を起こすことです。 私たちは、ボリビアに、コロンビアに、チリに、ペルーに、世界に革命をもたらさなければならないのです(祭典当日、コロンビア等の国の信徒も参拝していた)。 ご一緒に、世界に革命を起こしませんか?(一同拍手) 私は、日本で自分のできる最大限のことをいたします。皆様も、世に革命をもたらすため、ご自分のいる場所において最大限をすると約束してくださいますか?(一同拍手) ありがとうございました。 《聖言結語:ブラジルにて》 皆様。皆様は、本日、私が皆様にお伝えしたかったことをご理解いただけたと思います。私は日本に戻ってしまいますが、今日皆様にお伝えしたことを私自身が実践したいと思います。皆様も実践してくださいますね。 ですので、本日、私たちは、私は日本において、皆様はブラジルにおいて、「光はすでに現れた。世界はもう幸せに包まれている」というメッセージを世にもたらすため最大限のことをさせていただくという約束をさせていただけませんか?(信徒一同「はい!」と真明様に申し上げ、一同拍手) 最後になりますが、ここ数日皆さんの温かいお心に触れ、私が思うのは、私は心底ブラジルを愛している、ということです(一同拍手及びスタンディングオベーション)。 (続く拍手に)(拍手を受けるべきは私ではなく)皆さんのほうです! 私はブラジルを愛しています。皆さんを愛しています。ブラジル世界メシア教を愛しています。 そして私は、ブラジル世界救世教の信徒のことすらも愛しています(一同拍手及びスタンディングオベーション)。 彼らがいかに私のことを批判しようとも(一同笑声)、いかに教主様を批判しようとも、いかに私と教主様を誹謗中傷しようとも、私は、心の奥底では、彼らのことを愛しています。 なぜかというと、私にはその深いご神意は分かりませんが、神様と明主様が彼らをお使いになり、あのようなことをさせたと信じるからです。 そして、私は信じています。いつの日か、私たちと世界救世教の信徒が、同じ食事の席に着くことができると(真明様、感極まられる)(一同拍手及びスタンディングオベーション)。 (会場から「Muito obrigado, Masaaki-Sama!」(「真明様、ありがとうございます!」)の声。真明様、頭を下げられる) 私たちは、いつの日か、神様と、イエス様と、明主様と、そして教主様のみ前にあって、みなで、同じ食事の席に座り、一緒に食事をすることができると、そう私は信じております。 ありがとうございました。