皆さま、こんにちは。 今日は中部教区と西日本の信徒の方が来られていると伺っております。足元の悪い中、遠いところから、ありがとうございます。 また今日は豊穣祈願祭ということなんですけれども、これ、種です(真明様、ご神前中央にある白い箱のお供え物を指し示される)。この白いの、これが種。種をお届けくださった方、ありがとうございます。 明主様は「自然農法」ということを訴えられまして、そして、野菜とお米がおいしくなると、みんな、肉じゃなくてどんどん野菜を食べるようになって、そして、将来的には人類みな菜食になると仰せです。 そして、肉ばっかり食べていると争いとか戦争とかいっぱいしちゃいますよと仰せのように、菜食について明主様は、身体にいいということだけではなくて、精神面に与える影響について非常に強調しておられますね。菜食にすることで、争いを好む精神ではなくて、心が穏やかになる。 というように、自然農法をすることによって野菜とお米がおいしくなって、みんなそれを食べるようになって、そして、体調も良くなるけれども、精神面、人心も良くなって、結果、争いが減っていく―これが明主様の自然農法のビジョンです。 当然、自然農法というのは、我々は無視することのできない大事な明主様のご事蹟の一つですから、そういう意味において、今日、種をお供えしていますけれども、この種たちが、今言ったような明主様のみ心の実現のため、私どもと共に、神様のお役に少しでも立てるように共にお使いいただきたいという気持ちで今の教主様のお祈りの時間を過ごさせていただきました。 あと、ご神前にお供えしてあるこの野菜とかフルーツも(真明様、三方のお供え物を指し示される)、これは、以前は街で購入した物をお供えしていたんですけれども、食のことを推進するということで、去年の新穀感謝祭からは信徒の方々が献上してくださった農作物等をお供えしております。去年の12月からですね。今月献上してくださった農家の方々、ありがとうございます。 今日拝聴した聖書(「ローマ人への手紙」第11章1節~第12章2節)の一か所にも、自分の生きた身体を捧げることが霊的な礼拝だとありましたけれども、これは私たちの心のことですよ。それを捧げなさいということ。 もちろん、街で買った物も神様は祝福してくださってはいますけれども、でも、ここにお供えしてある物は、私たちを代表して信徒の方が作ってくださっているものですから、私たちの心を、我々の仲間、兄弟姉妹が作ってくださった農作物と共に神様にお捧げするというのは非常に意義のあることだなと思っております。 ですので、本部の参拝のために届けてくださった方々――普段自然農法に取り組んでくださっている方々――に私たちみなで感謝の思いを持ちたいなと、そう思っております。 最近私は、あるドキュメンタリーを見まして、普段は、テレビは、ほとんどというか、見ないんですけれども、ちょっと気になる話題がありましたので、このドキュメンタリーを見てみたいなと思って、見ました。 それは、ある国で独裁者みたいな人がいて、でも、自由な国にしたいということでその独裁者と戦うその政治家――活動家というのでしょうか――その方のドキュメンタリーだったんですが、その主人公が、独裁者と、その独裁者を中心とした腐敗した政治に立ち向かっていくという話です。 その人物は、その独裁者によって毒殺されかけるんですけれども、それをなんとか生き延びまして、そして、自分の国ではないところで体調が回復するのを待つ。それで、普通だったらもうそのままその国で亡命していればいいじゃないかということなんですけれども、彼は、どうしても自分の生まれた国を変えたい、だから、亡命してそんなところにいるのではなくて、自分は祖国に帰って戦いたいと言って帰国する。帰国するんですけれども、帰って空港に着いたら、もう、すぐ、でっちあげの罪をもって連行されて、それでそのまま刑務所に入れられてしまうんですね。 ちなみにこれは、ナワリヌイという人の話です、ロシアの。 このドキュメンタリーで私の印象に強く残ったことがあったのですが、それは、ドキュメンタリーの最後に、「もしあなたが殺されたら残った人たちにどんなメッセージを残したいですか?」という質問に対しての彼の答えです。もちろんこれは捕まる前に収録していたわけです。 そこで彼が言ったのは、自分がもし殺されるんだとしたら、それは私たちにすごい力があるからだ、力があるからそれを恐れて殺そうとしている、だから諦めちゃいけない、善人は諦めちゃいけないんだ、善人が諦めるのが一番悪にとって都合がいいんだから、善人は絶対に諦めるな、私たちの力を合わせようじゃないか、というそういうメッセージでこのドキュメンタリーは締めくくられるんです。 そのメッセージが、私の中で、なにか、教主様のこととか教団浄化のことと結びついて私は非常に感動しました。 ご存じかと思いますけれども、彼は、結局、つい最近、おそらく毒殺じゃないかと思われますけれども、入っていた刑務所で死にましたね。 いや、だから、彼は、一時期ドイツにいたんですけれども、そのままドイツで亡命していればいいのに、彼は帰ると言うんですね。しかも、一回毒殺されかけてるわけですから、帰ったら絶対に殺されることは目に見えてるわけです。だけど彼は、正しいことのために――自分が考える善ということのために――文字通り命を懸けたわけです。帰って捕まってそれでまた毒殺されてしまうかもしれないことが分かっていても、彼は自分の信念のために戦った。私は、その彼の姿に非常に胸を打たれました。 私たちは、明主様ということを考える時、今お話ししているような内容はあんまり意識しませんけれども、今日拝聴した明主様の聖言がございましたね。これは、1950年2月4日、メシア教開教直後の明主様へのインタビューです(「人類の救済と世界平和に貢献 世界救世(メシア)教誕生の意義と使命」1950年2月4日)。 そこで、まず、一番最初の問いは、大先生はなんで今回教主になったんですかということで、それに対して明主様は、神の代行者として表に出たんだと仰せになって、次の記者の質問が、「新教の新教理をお伺いしたい」です。世界メシア教という新しい宗教の新教理とはなんだ、世界メシア教の新しい教えとはなんなんだと、そういう問いですね。 明主様に対して、「あなたの教えはなんですか」と質問しているわけですから、これはメシア教にとってとても大事な問いですね。 そのような問いに明主様はなんとお答えになるんだろう?と考える中で、我々が思うのは、例えば、なんか、浄霊をもって病気を治して人々を癒していくとか、あるいは、いろんな活動を通して地上天国を建設していくとか、そういうことなのかなと想像しますね。 でも明主様のお答えは全然違うんですよ。 ちなみに、「新教の新教理をお伺いしたい」の次の問いは、有名な、「世界メシア教の世界的な意義は……」というもので、ここでは明主様が、皆さまよくご存じのように、メシア教はキリスト教と呼応していくんだとお答えになるところですね。 ここ、メシア教の教えとは何か、そして、メシア教の世界的な意義とは何か、という問いに対しての明主様のお答えの中に、浄霊の「じょ」の字も無いですよ。これは、我々の明主様観からすると驚きではないですか。だって普通我々は、明主様と言えば浄霊であって、浄霊の光をもって世の中を浄めていくというのが明主様の教えじゃないかと思い込んでおりますのでね。 この「新教の新教理をお伺いしたい」の問いに対してなんとお答えになったのかというと、明主様は、メシア教の教えというのは善悪をはっきり区別していくんだ、善を大いに助け、そして悪を滅する、これが神の御意志である、そして、世界メシア教というのは、人類世界から暗黒面を徹底的に除去する砦なんだと仰せになる。世界メシア教というのは、人類世界から暗黒面を徹底的に除去する砦。皆さま、これが世界メシア教なんですよ。私たち世界メシア教。 「悪鬼どもとのたたかい」(一同笑声)と言われてますけれども、すごい表現ですね。悪鬼どもとの戦いが依然続くけれども、これを耐え忍んで進んでいこうじゃないかと仰せになっていますね。 私たちがメシア教の信徒であるということは、私たちは、この明主様の聖言の精神に則って歩まねばならない、ということです。 確かに、善悪というのはいろんな側面がありまして、善が何か、悪が何か、ということの議論の余地はありますね。でも、私は、皆さま一人ひとりの生活の中でなにかあると思うんですよ、戦わなければならないことというのが。確かに、皆さまお一人おひとりが置かれている状況は違いますから、その戦いが何かというのは具体的には私には分からない。でも、皆さま一人ひとりが今置かれている状況の中で、善と悪との戦いがあると思うんです。 そういう日々の生活の中で、私達は、明主様の、「人類世界から暗黒面を徹底的に除去する砦」としての自分なんだ、という思いで一日一日を過ごしているのでしょうか。だってそれが世界メシア教の教えなんですよね?明主様の教えなんですよね?教理というのは難しい言葉ですが、ここの文脈での意味は教義ですよね。だから、世界メシア教の教え、それは、人類世界から暗黒面を徹底的に除去する、という教え。 我々は、明主様の聖言の全体像をイメージする時、そのイメージの枠内のど真ん中に今言っていることが来ていないんじゃないかと思ったりしますね。でも、この善悪のことは、ど真ん中もど真ん中ですよ、だって、「新教の新教理をお伺いしたい」に対する答えなんですから。 だから、メシア教の我々は、人類世界から暗黒面を徹底的に除去する砦として存在しているのであって、この明主様の精神を受け継いでいるべき我々である。 でも今の我々は、善悪をはっきり区別することより、なんか、いや明主様は「程」ということをおっしゃってるじゃないかとか、「大乗」ということがあるじゃないかとか、「和が大事」だとか、なんかそういうことを言って、この明主様の姿勢から逃げているところもあるんじゃないかと思うんですね。 当然、そうやって逃げるのは我々にとって楽ですね。善悪をはっきりさせていくこと、善悪を区別して生きていくということ、それを自分に課して生きていくことは大変なことですからね。人に対して、という以前に、自分に対してその気持ちを課して生きていく、この明主様の新教理の姿勢で生きていくというのは大変なことですね。 なので私たちは、なにか違う明主様の聖言を持ってきて、明主様がお持ちの明主様像とは違う明主様像を自分で作り上げて、そして、明主様というのはこういうご存在なんだと言っている姿があるんじゃないかと思うわけです。「人類世界から暗黒面を徹底的に除去する」というのではない明主様像を作り上げているんじゃないかなと思うわけです。 でも明主様は、善悪を分けるということについてはっきりしておられた。明主様は、信仰即正義とも仰せですよ。信仰即正義。信仰というのは正義なんだと、そう仰せです。 明主様は、普通世の人は、生きていくには多少の悪も必要じゃないか、という考えを何百何千年も持ち続けて、結果、もう世と妥協して生きてしまっている、でも、なぜそうなっているのかというと、それは、悪に打ち勝つだけの強い力を持った宗教が無いからそういう世になってしまっているんだ、でもメシア教は違う、悪に打ち勝つ力ある宗教、これこそがメシア教であって、我々メシア教こそが信仰即正義なんだと、そう仰せです(「信仰即正義」1950年6月3日)。 だから我々は、生きていく上において多少の悪はやむを得ないだろう、と思っているかもしれませんけれども、明主様は、そんな妥協をしている場合ではないと、そう仰せなんですよ。悪はだめだと、はっきり仰せなんですよ、明主様は。 そう考えますと、今さらですけれども、MOAが教主様に対して実行した尾行・盗聴・盗撮というような行為は、明主様の「新教の新教理」からしたらもう論外ですね。 だいたい教主様は、東京駅の喫茶店でキリスト教の友人とお会いになっていたんですよ。東京駅はいろんな人が来るところですね。ホテルで隠れて会われていたならまだ分かりますけれども、東京駅、ですよ。日本で人が一番集まる場所の一つである東京駅の喫茶店、誰からも見られて、誰からも話が聞かれてしまうところで友人とお会いになっていたわけであって、ということは、当然何も隠しておられないわけです。 だからそれを、「教主様、何をされてるんですか?」と訊けば、「キリスト教と呼応するという明主様の聖言にお応えするためにこうしてます」と、たったそれだけのことを、MOAの方々は、なんか隠れて撮影して一生懸命おどろおどろしいみたいなことにしていますが、なんでそうなっちゃうのかなと(一同笑声)、そう思いますね。 でも、本来、明主様の信徒であれば、善悪をはっきり区別して善人として生きていくというのは当たり前のことなんですよ。でも、その当たり前のことが、我々の持っている明主様像の中心に無かったが故に、尾行とか盗撮するということすらもおかしくないと思ってしまうような姿になってしまったわけですね。私たちの昔の仲間がそういうふうになりましたし、なっていますね。 確かに、善と悪というのは相対的なものですから、その感覚が間違っている、ということはあり得ますよね。ある文化によっては善のことが、ある文化では悪ということもありますね。だけど、そういう、なんと言いますか、理屈っぽいことは置いといて、私は、明主様は、正しいことは正しいんだ、悪いことは悪いんだ、だから正しいことをやろうじゃないかと、善人の人たちよ、すばらしい世の中を造っていこうじゃないかと、そういうご姿勢を貫こうとされた明主様だから、私は、神様が明主様を祝福してくださって、人間の目に見て成功、といいますか、宗教事業を順調に進めてくださったのではないのかなと思います。もちろん、順調というか、困難はたくさんおありではあったんですけれどもね。 そう考えると、今、世界メシア教は、聖地となるべき土地、メシア聖堂建設予定地を購入した、ということになっていますが、これは、富ですね。こういう財産とか富というものを神様は今、世界メシア教に対して恵んでくださっている。 そういう土地もそうですし、また、活動する資金とか専従者のお給料とか、そういうものがありますね。なぜこういう物を神様はメシア教に恵んでくださっているのだろうか。 だからそれはなぜかと言ったら、それは、正義を貫かれる明主様を継承された教主様が、2017年の立春の日に立ち上がってくださったから、だからですよ。 立ち上がらない、というのは教主様にとって楽な選択肢だったはずですね。ある程度の悪いことはやむを得ない、生きていく上ではこういうこともあるし、自分は本当はこういうことを言いたいけれどもまあしょうがない、ということでもし教主様が立ち上がらずに妥協されていたら、私は、神様・明主様が、今、メシア教のいろんな富を祝福してくださるということは無かったし、無いと思うんです。 あの立春の日、教主様は、自分がどうなってしまうかということは度外視されて、立ち上がってくださって、教団の実情を私たちに伝えてくださった。 そのようなことをすれば、先ほど話したドキュメンタリーの方のように、なにかご自分の身に不利なことが起きてしまうかもしれない。そして、実際起きましたよね、教主様出てけ、出てけ、出てけということをMOAは主張しているんですから。 だけど教主様は、明主様の持たれていた「新教の新教理」、これをご自身の心の中心に置かれて、そして、これは絶対に曲げるわけにはいかない、曲げられないことがあると思われた。そもそも、善と悪と言ったって、我々にとっての善は明主様ですよ。我々にとっての善は明主様。教主様は、この善を曲げるわけにいかないと思われた。 ということであの日、2017年の2月4日に立ち上がってくださったことによって神様・明主様は、そういうことならメシア教というものを祝福してあげてもいいよと言ってくださっているのではないのかなと思います。 だから、メシア教は聖地の購入ができましたとか、今後も、メシア聖堂を建てましたとか、いろんなご神業を進めていくことできますとか、そういうことがあったとしても、その原点は、新教の新教理という私たちにとって中心のところ、これを教主様が明主様から継承されて、そして、これは自分は曲げられないとして立ち上がってくださったから、明主様は私たちのことを祝福してくださって、聖地の土地の購入のようなことを許してくださったのではないのかなと思います。 もちろん、皆さまのご献金によってそういうことが実現されているというのは間違いないことなんですけれども、だけど、そういうような流れになるのも、その元は――元の元は明主様の生きざま、新教の新教理と訊かれてすぐそのようなことを仰せになることのできる明主様の生きざまなわけですけれども――でも、今私たちがいろいろと祝福されているその元は、やはり、曲げられないとして立ち上がってくださった教主様、その教主様のお心の土台があってこそのメシア教だということを我々は忘れてはならないのだと思います。 今お話ししているようなことがある一方で、宗教には「戒律」ということがありますね。今言ったような明主様や教主様のご姿勢ということもあるし、一方で戒律ということもある。この戒律というのは一体なんなんだと、そう思うわけです。 教主様が立ち上がられたのは、なにも戒律的にやろうとしてされたわけではないですね。本当の信仰者の姿勢とは、やむを得ぬ思い、どうしても湧き上がる思い、抑えられない思いがあってなにかしてしまう、ということだと思うんです。 だけど、一方宗教では戒律ということもあって、これは一体なんなのかなと、そんなことを思います。 戒律と言うと、よく、イスラムは戒律的だということが言われたりしますね。 例えばイスラムでは、信仰告白というのがありまして、「アラーが唯一の神様であって、ムハンマドが神様の使徒である」ということを口に出して言わなければいけない。それが課せられている。それを我々なんかが聞くと、「イスラムの人は戒律的だね」みたいなことも思ったりするかもしれませんけれども、我々にだって「聖旨」とか「憲章」というのがあって、その中で、神様という存在、また、神様の御心を表現されるのは教主様だと、それを口に出して表現していますね。私たちは、こういうことを戒律的だと思ってやってるわけではないと思うんですよ。 他にも、例えばイスラムの人は一日5回神様にお祈りすることになっている。それについても我々は、もしかしたら、「それは戒律的だ」「一日5回も神様にお祈りするなんて戒律的だ」と思うかもしれませんけれども、我々だって、一日2回、朝夕拝の参拝をしてまして、それだって、世の人から見たら戒律的だと思われることかもしれませんよ。 だから、そういう参拝についても、それを、戒律的なこととして見て、「あの人たちは一日2回お祈りしないといけない」とするのか、それとも、「こんな私なのに、神様は、私が朝夕2回、神様に向かってお祈りすることを許してくださるんですか」というふうに思うのか、全然違いますよね。 イスラムでは、貧しい人に富を分け与えるということも一つの義務といいますか、実践しなければいけないことになっているんですけれども、それについても、それを戒律的なこととして見るのか、それとも、例えば今回能登の地震がありましたけれども、そういうような時に、大変な状況にいる人に対して少しでも役に立ってほしいということで義援金のようなものを捧げるのか、全然違うじゃないですか。 でも、こういうことは、見る人が見たら、「宗教の人はあんな義援金を出したりして戒律的だな」「一日5回お祈りして、神様なんか信じて、そしてせっかくの自分のお金を貧しい人に分け与えてる。あの人たちは戒律的だな」と思うようなことかもしれないですよ。 だから、私が何を言いたいのかというと、あることを「戒律」として受けとめるか否かというのは、一人ひとりの心の問題だということです。 例えば、朝夕拝の参拝をしたくないのに、「朝夕拝の参拝はしなきゃいけないことだから」と思ってる人にとっては、参拝も戒律ですよ。 「聖旨」とか「憲章」も、教主様というのは、自分にとって明主様のみ心をお受けする上において唯一絶対無二の拠り所だと思えない人にとっては、それを上げるのは戒律ですよ。 でも、よく考えるとこれは変なことですよね。だって、もしなにかの実践を「これは戒律的なことだ」と受けとめるんだとしたら、その人は、その信仰に入ってる意味無いじゃないですか、だって自由なんですから、信仰は。 だから、食のことも、私、「強制じゃない」「戒律じゃない」と何度も言ってますけれども、本来、どうやっても強制できないですよ。だって、皆さま一人ひとりの家に行って、「肉食べようとしてるんですか」と言って(一同笑声)、「それだめだ、だめだ」とできないじゃないですか。そんなことしたら私捕まっちゃいますよ(一同笑声)。警察呼ばれてね、「いや、この人が肉食べるなと言ってくるんです」「家に勝手に入ってくるんです」(一同笑声)ということで私捕まっちゃう。 だから、確かに、日本においては、時代によっては信教の自由が無い、これを信じなきゃいけないということが過去にはありましたけれども、今、日本は幸運なことに信教の自由があるんですから、そういう中にあって、実は強制も戒律ももはや存在しない。だって、もしなにかの実践を強制とか戒律だと思うんだとしたら、もうその信仰に入ってる意味無いんですから。 だからそれは、食のことだけではなくて、例えば朝夕参拝するとか、そういうことからですよ。参拝するのは嫌だなとか、聖旨の内容が受け入れられないなとか、他の人のために尽くすのは嫌だな、そういうのは戒律的だなと思うんだったら、その信仰につながっている意味無いですよ。 この宗教は他の人のために尽くさなきゃいけないんだって、朝夕参拝しなきゃいけないんだって、こういうことしなきゃいけないんだって、実践しなきゃいけないんだって、というようなことを言ったり思うんだとしたら、もうそこで信仰しなくていいんですよ。 だから、現在の日本は、信教の自由が保障されているんですから、その日本においては、戒律はもはや存在しない。 それはそうとして、でも、なぜね、私たちが、「こういうことは戒律的じゃないか」というような言葉を使うのかと言ったら、それは、やはり、我々が自分で作り上げてきた明主様像ということの中に入りきらない都合の悪いものが出てきた時に、それを受け入れたくないが故に、我々は、「それは戒律的だ」という言葉を使って、まあ、なんて言うんでしょうか、それを明主様のみ心として受けるということから逃げようとする我々の姿があるのかもしれないなと、そう思います。 でも、今はもう自由なんですからね、戒律とか、戒律的というのは存在しない。 そういう意味において、最近、信徒の方が食のことについて書かれた文章で感激、感動したことがあったんですけれども、その内容は、普段自分は何も明主様のお役に立ててないと思ってた。だけど、この食のことが出てきて、そしたら自分は、普段家にいて何も明主様のお役に立ててないと思ってたのに、あっ、和菜食を実践するだけで毎日明主様のお役に立てるんだ。今まで自分は弱々しい存在で、これもできない、あれもできない、なにもできない、自分は何も明主様のお役に立ててないと思ってたのに、家にいて一人で和菜食を実践するだけで明主様につながることができて明主様のお役に立てるんだ。そう思ったら毎朝起きるのが楽しみになった、というそういうことを言われた信徒の方がいらして、もうこれはすばらしい信仰だなと、感動しました。 だから、食のこと一つ取っても、そういうふうに受けとめる方もいれば、戒律的だと受けとめる方もいて、それはいろいろですよね、受けとめが。 やはり我々には、自分たちで作り上げている明主様像というのがあるんじゃないかなと思いますね。そして、その中に、はっきり言って「菜食」というのは入ってなかったですよね。入ってなかった。明主様ははっきり仰せだったんだけど、入ってなかった。 だから、冒頭のほうでも話した新教の新教理の、善悪をはっきり区別するという聖言に対する我々の姿勢と一緒で、やはり自分にとって都合の悪い聖言はなんとなく横において、そしてその上で、私たちは、私たちにとって都合のいい明主様像を作って、そしてそれを「明主様」として信じてきたんじゃないかと、そう思います。だから、その明主様像ががっちりしていればしてるだけ、新しいことに対応するのは大変ですね。 しかも明主様は、「新人たれ」と仰せのように、常に新しく新しく、その時代の人々がまだしていないことも、時代に先駆けてされたお方でしたよね。 この間、私にとって一つショックだったことがあったのですが、食のことに関連してインターネットでいろいろと情報を見ていましたら、内閣府の食堂では、2017年の3月から、毎週金曜日をミートフリーの日として、肉を食べず、ベジタリアン食やヴィーガン食を提供している、というのがありました。2017年の3月ですから、もう今から7年前の話です。 明主様が、「ミロクの世は全人類菜食になる」旨仰せになって、それから何十年経って、民間どころか、国――普通、民間はいろいろ進めるけれども、こういうことの取り組みは国が一番遅いみたいなことですけれども――その国が、もう2017年の3月の時点から、そういう取り組みをしている。 このことを知った時、自分はどれだけ明主様に申し訳ないんだろうと思ったんですね。明主様に対して恥ずかしいと、そう思いました。 自然農法ということは、今ではその考え方は拡がりつつあるわけですけれども、明主様ご在世当時、農薬無しの野菜を作るというのは本当に革新的なことだったわけです。当時ほとんど誰もそのようなことをしてないような時に、明主様はそれを実践された。 しかも明主様は、もうそのような時から、将来人類は菜食家になる旨仰せになっていたのに、国ですら7年前からそういう取り組みをしているのに、私は一体何をしてきたんだろうと、そう思ったんですね。 だから我々は、我々で勝手に明主様像を小さくしてるんじゃないのかなと思いますね。 この菜食の営みも、今後どうなっていくか分かりませんけれども、でも、もしかしてこういうことによって、明主様が仰せのように人間の心も身体も良くなっていって、人類社会が良くなっていって、そして、もう夢のように思ってた地上天国というのが本当に来るかもしれませんよ。これは、架空の地上天国の話をしてるんじゃないですよ。現実的な地上天国の話です。 だから我々は、なにか、世の中の常識とか、そういうことに負けてしまってるんじゃないでしょうか。 明主様のほうはといいますと、神様から教えられたことを、世の中では全然していないことであってもそのまま表現されて、そういうことでどんどんどんどん進まれていらしたのに、一方我々は、この世の中である程度のポジションを確保しておきたいとか、あるいは人間関係ということにおいても、ある程度、社会で常識と思われているくらいのところに自分を置いて、その上で明主様の聖言、明主様のご事蹟というのを捉えて、そして、「これが明主様なんだ」とずっとしてきたんじゃないかと思います。 我々は今まで、勝手に小さい明主様像を作り上げて(真明様、両手で小さい丸を作られる)、そんな小さな明主様像を作りながら、「明主様はすばらしい」としてきたかもしれませんよ。でも、実際の明主様はもっと大きいですよ、本当はね。 それこそ、今日は二つ明主様の聖言を拝聴しましたが、その二つ目、エルサレムの聖言がございましたね。東からどんどん西に行かれるけれども、最後はエルサレムだとの聖言でしたね。 東の端は日本。それは自分の象徴なんだと仰せですね、明主様は。明主様は、東の端の端の端、世界の極東の端の日本でお生まれになった、これは我々非常に意識を持ってますよね。 明主様ということを考える時、明主様は、世界の極東の日本の東の都の、そのまた東の橋場というところで生まれられた。そのイメージは我々はっきり持ってるじゃないですか。 でも、西の端はエルサレムなんですよ。我々、このことはあまりはっきり思ってないんじゃないかなと思うんですよ。 でも明主様は、東から西に向かってずっと箱根、熱海、京都、九州と行かれて、そのままずっとずーっと行かれて、そしてエルサレムがおしまいなんだと仰せになる。 今日の御歌の1首目は、西で生まれた文明を復えす時が来たと、そういう御歌でしたね(「西に生まれ東に移りし文明を浄めて復へす時となりける」)。 この、西で生まれた文明ということですが、今言ったように西はエルサレムなんですから、西で生まれた文明というのはエルサレムで生まれた文明、ということですね、これは。 だから、この文明が何かということはいろいろと考えられますが、これは、本当は「メシア」のことです。西で生まれた文明といっても、それは「メシア」という言葉に集約されるわけです。 でもそれが、偽メシアとかいろんなことがあって、メシアという言葉が泥まみれになって、そして、最終的に日本に到達した。 エルサレムで生まれた文明であるメシアが、メシアというのはこうだとかああだとか、そういうことで泥まみれになったんだけど、それが、結局日本に到達した。 だから、今度は、それを浄めて復えすんですよ、エルサレムにね。 本当のメシアというのは、この人だ、あの人だ、じゃなくて、全人類の中にあると、それ以外無いですよ、真理というのは。ある特別な人だけが特殊だというのは真理になり得ないじゃないですか。 2首目は、光が西の涯まで到達する、というものですね(「東方の光はひろぎひろごりて西の涯まで照しゆくらん」)。我々は、ここの「西の涯」というのも漠然と捉えていますけれども、今日の明主様聖言にあったように、西の涯はエルサレムですよ。だから、光はエルサレムにまで到達する、ということです。 3首目の、世に勝利したメシアが西の都に入るという御歌も(「世に勝てるメシアはいともはればれと西の都に入らすよき時」)、この「西の都」をまた漠然と思うのではなくて、当然、西の都といったらエルサレムのことです。エルサレムしかないですよ。明主様は西の端がエルサレムと仰せなんですから、エルサレムですよ、この西の都は。 4首目には西の国人という表現がありますね(「栄光の雲より降るキリストに歓び勇む西の国人」)。西の国。当然、イスラエルのことですね。だってエルサレムがあるのはイスラエルでしょ?だから、「西の国人」ということはイスラエルの人ということです、これはね。西の国と言ったらイスラエルしかない。 だからこそ最後の御歌で、明主様は、イスラエルの民も本当のメシアを知って歓喜する時が来ますよと仰せになってるわけです(「イスラエルの民も歓呼の声あげむ輝きいでます真のメシアに」)、西の国人がイスラエル人なんですからね。 ということは、最近教主様は、聖言の最後で、我々が「イスラエルに結び連なる」ということを仰せになって、私たちは、なにかそれを新しいことのように思いがちですけれども、本来、全然そんなことはないんですよ。 だって明主様は、西はエルサレムだと仰せであって、そして、明主様の使命は東西を結ぶことなんでしょ?東西を結ぶ。これが明主様の使命。で、西はイスラエルなんですから、それに我々が結び連なるのは当たり前の話です。 だから、教主様が仰せになっていることは、我々は一見なんだろうと思ったかもしれないけれども、明主様の聖言からすると、当たり前という言い方は少しあれですけれども、まったくおかしなことではないんですよ。 そして、イスラエルの人と言っても、それは、結局はイエス・キリストとその弟子たちということに人物としては集約される。イエス・キリストとその弟子たち。彼らもイスラエルの人たちですからね。 だからそれを、教主様が、去年の御生誕祭で、イエスとその弟子たちのことを「始めの教会」という表現をされましたね。我々は「終わりの教会」。 メシアは西で生まれたんでしょ?西で生まれたんですよ。だとしたら西が始まりじゃないですか。だから始めの教会。で、我々は東の端で受け取ったんでしょ?世界の極東の端の端。だから終わりじゃないですか。その明主様の教会が我々の教会なんですから、明主様の教会は終わりの教会ですよ。ま、教主様はそういう言葉をもって表現しておられる、ということです。 ということは、教主様が仰せのことは、東と西を結ぶのが明主様のご使命だとしたら、なんの不思議もないことです。イエスとイエスの弟子たちと我々が結ばれるのは当たり前のことです。 だから我々は、東方の光という言葉を使う時に、明主様をスタートとして考えがちですけれども――もちろん、我々は明主様の信徒ですからそういうふうに受けとめようとするわけですけれども――でも明主様は、ご自分のところに到達したことは、実はそれは「西に生まれ」と仰せになって、元は西で生まれたことを認識しておられます。 そして明主様の使命というのはそれを復えすんでしょ。復えす時が来たと仰せになっている。復えすということは、出どころがあるということです。始まりがあるということです。 だから、本来、東方の光だ、東方の光だ、明主様がスタートだということでなにかおごり高ぶるのではなくて、本当は、今日の聖書にもあったように、神様はまずイスラエルの人を最初に選ばれたんです、本当はね。 今、このイスラエルの人たちの多くはまだメシアの本当の真実は受け入れていない。でも、彼らが受け入れていないが故に、その役目が今、まず日本人である私たちに来たんです。日本人。だって明主様というのは日本人なんですから。なのでまず明主様。そして日本人の皆様方。そして皆様方に連なる世界中の信徒。 イスラエルの人たちが拒否したが故に、今我々はメシアの御名の真実を受けている。でも、思い上がっちゃいけないんですよ。だって、元はイスラエルなんですから。西で生まれたんですから。 今日拝聴した聖書にも、神様は、もし我々が信仰に留まらないなら、すぐにあなた方はオリブの木から外しますよと、そうありましたね。今私たちが、明主様を通して、オリブの木という神様につながることができているのは、あくまでもイスラエルの人たちがいたからなんですよ。あなた方は、イスラエルという根っこがあるから神様につながれているんですよと、そう聖書にありましたね。 明主様は、このことを、「西に生まれ」と簡単に仰せになっていますけれども、この認識は大変なことです、本当はね。 我々は、「東方の光」という言葉から、「東で生まれた」みたいな意識を持ちがちですけれども、そうではなくて、本当は、イスラエルで生まれたものがずっと来て、そしてそれが東の端である日本におられた明主様のところに到達して、明主様はそれをご感得になって、そして今、我々が、教主様を通して受けた、ということです。西で生まれた神様のメシアの御名に込めた真実、これを受けた、ということです。 そして、この真実はなにかというと、それはなにも複雑なものではなく、簡単なメッセージです。メシアと名の付いた神様の魂が私たち一人ひとりの中にあるという、それだけのことです。 だから、なにかおごり高ぶって、自分たちは東方の光だ、この真実を受けたんだ、自分たちのほうがイスラエルより上だ、という姿勢ではなくて、イスラエルの方々に対して、「ありがとうございます」という思いを持たせていただかないといけない。また、我々がそういう姿勢でないと、イスラエルの人がこのメッセージを受けるということは一生発生しないんですよ、これはね。 なので私たちは、イスラエルの方たちに対して、あなた方のおかげで、あなた方がいてくださったおかげで、かつては神に不従順で異邦人と呼ばれていた我々も、神様の真実を知ることができました、というように報告させていただかないといけない。 だって明主様のご神業は、真のメシアによってイスラエルの人を喜ばすんですよね?そう御歌にあったじゃないですか。だから、その役目が我々に課せられてるんです。大変な使命ですよ、これはね。こんな大きな使命を持たされているなんて、我々の日々の生活からは想像もできないじゃないですか。 でも、明主様だって、今は日本も文明がだいぶ発達しましたけれども、明主様ご在世中の昭和28年、29年、30年の日本と言ったら、もう全然物資も無いし西洋とのつながりもまだまだ弱いし、でも、そんな時代において明主様は、「真のメシアのメッセージでイスラエルの人と共に神に喜ばれる存在になるんだ」というビジョンを持っておられたんです。これ、すごいことじゃないですか。それこそが本当の明主様像ですよ。我々の持っている小さい、小さい明主様像とは格段の差ですね。 だからここ、聖書に、世と妥協してはならない(「ローマ人への手紙」第12章2節)とありますけれども、我々はずっと世と妥協してきたと思うんですよ。 本当の明主様像を貫いて生きていくのは大変だ、これじゃあやっていけない、だから世と妥協しようじゃないか。明主様のご神業についても、妥協して、世に受け入れられるあり方のほうがいいじゃないか、そっちのほうがお金も入るかもしれないし、ということで、世に妥協するあり方で考え出したことを「明主様のご神業」と言って、そんなことで我々はずっと明主様のご神業を進めてきたんじゃないかと思うんですね。 でも我々に課せられている使命というのはそんなものではない。だって、我々にはね、もう責任があるんです。イスラエルの人たちが受けなかった神様の真実について、我々は、思えるかな、なかなか思えないな、とか思ってますね。でも、そう思っていても、そういうことを話としては聞いていますから、たまに心に思いますね、「私の中にメシアという魂があるのだろうか」みたいなことを思う。 もうね、それだけで大変なことなんですよ、本当はね。人類の誰かが今後それに気づいたら、もう大喜びで歓喜するようなメッセージを我々は今託されている。 だから、神様の真実を受けた我々は、もうそれをイスラエルに復えす時が来てる。それがメシア教信徒である我々一人ひとりに託されてる。その使命の大きさは大変なことですよ。特にね、日本人の皆さん、大変な使命なんですよ。だって明主様は日本人なんですから。だから、日本人が受けている使命は大変なものです。 で、当然、日本人だけではないんですよ、我々が目指しているのは全人類の救い、ですから。というように、いつかは全人類がそれを受けることのひな型として、もう世界の方も受け始めてるじゃないですか、ブラジル、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ。 でも、最終的には関係無いんです、日本人だとか何人だとか、そんなものは関係無い。ただ、イスラエルの人が最初だということはありますね。その秩序は確かに存在している。 我々は、本来の明主様のスケールの大きさから考えれば、それをもうこんなに小さくしてきてしまったわけですから(真明様、両手で小さい丸を作られる)、これからは、我々に課せられているこの世界メシア教に明主様が込めた大きさ、我々の本当の使命、これをやはり思い出さないといけない。 だからね、先ほど、菜食をしているだけで明主様のお役に立てている、という信徒の話をしましたけれども、そもそも、このメッセージをお受けになっている皆様方一人ひとりのご存在というのは大変なものなんですからね。 我々の日々の生活はいろいろありますよ、それはね。それは救いのためにそういうことが現れている。だけど、神様からしたら、皆様方一人ひとりはもう宝石ですよ。ダイヤモンドのような存在なんです。 だから我々は、そのことをもう一度思い出して、そしてね、今日拝聴した一つ目の明主様聖言の最後のほうの気迫はもうすごいじゃないですか。神様の力はもっと増す。そして、善の心を持てる者はあらゆる難病、苦労からも必ず救われると、そう断言しておられるじゃないですか、明主様は。 我々は、この明主様の精神はまだ捨ててないんですよ。善の心を持てる者はあらゆる難病、苦労からも必ず救われる――この精神はまだ捨ててない。 そして明主様は、これが世界メシア教開教宣言真実の告白なんだと仰せです。告白しておられるんです、明主様は。なぜメシア教を開教したのか。それは、善の心を持てる者は何があっても絶対に救われるんだと、そう打ち明けておられる。そして、この宣言を我々は継承しているのであって、捨て去っていない。 というように、明主様というのは、我々では想像も及ばないスケールの大きさをお持ちなんです。だとしたら、はっきり申し上げて、今まで自分が考えていた明主様像、これはもう捨て去って、そして、本当の明主様を、もう丸々ありのまま、分からなくても、我々は境界線を決めたがるんですけれども、そんな境界線なんか決めないで、そして、明主様の光を全身に浴びて、そして今、少なくともね、救いの三本柱と呼ばれている「祈り、食、音楽」があるわけですから、それを実践することによって、必ずイスラエルの人と共に、全人類が一つに結ばれて喜ぶ時が来るんだと確信して、そして、その時のためにこの救いの三本柱というのはなにかあるんだと、自分では分からないけれどなにかあるんだ、という思いをもって、本当に大きな大きな大きな明主様に、共にお仕えしてまいりましょう。 ありがとうございました。