皆様、こんにちは。 今日は雨の中、またゴールデンウィークのさなか、教主様のもと、ご参拝になってくださり、ありがとうございました。 明主様は、私たちにたくさんのものを遺してくださいましたね。聖地とか美術館の宝物とか、ありますね。また、いろんな活動もある。でも、明主様が私たちに遺してくださったもので一番大切なものはなんなんだろうかというと、それは、人ですね、人。人と言いますか信徒、ですね。明主様が私たちに遺してくださったもので一番大切なものは人であり信徒である。人がいなければ、当然、どんな活動もできないし、また、聖地と言っても、人がいなければそのような場所の維持管理もできない。 そして、我が宗団においては、そのような人すべて、信徒の皆様すべてを統合した象徴が教主様であられる(「教規」第5条第2項)、そういうことですね。 今日拝聴した聖書(「ヘブル人への手紙」第3章及び第4章)にもありましたように我々が信じているのは「生ける神」であって、その生きている神は人間の中に生きている。ということは、明主様が遺してくださったもので最も大切なのは、いわゆる聖地とか美術館とかではなくて、人であると、そういうことです。 でも我々の中の一部の方々はそのような基本的なことすらも分からなくなって、「人よりも物のほうが大事なんだ」ということになってしまった。ですので、できれば、そういう方たちが何らかの形で、自分たちがした選択というのは、本当は明主様の遺された最も大切なものを蔑ろにしたとんでもないことだったんだな、ということに気づいてくれたらいいなとは思いますね。 だって、そのような基本的なことすらも分からず、教主様を追い出して、聖地だ、美術館だ、すばらしいって、そんな姿はむなしいですよね。むなしい。 でも皆様は違いますね。明主様にとって最も大切な人、それはつまり教主様ということに集約されるわけですけれども、皆様は、その教主様のもと立ち上がってくださって、そしてこの新しい活動を推進してくださったり、また、教主様のもとのご神業を尊いご献金によって支えてくださっている。 私は、その皆様の信仰が本当にありがたいなと、そう思います。明主様も、皆様のような信徒を遺されたことを本当に誇りに思っておられるのではないかなと、今日を迎えるに当たってそのようなことを思っていましたので、皆様にその感謝を伝えたいなと思っておりました。皆様、ありがとうございます。 この間の「イエス復活祭並びに春季大祭」で、私はいくつかのドキュメンタリーの話をしました。 私は、明主様の「ミロクの世には全人類が菜食家になる」旨の聖言は以前からなんとなく知ってはいたんですけれども、数年前、それに再び出会わされた時に受けた衝撃というのがあったんですね、「ああ、明主様はこういうことを仰せだったんだ」という衝撃。 その明主様のみ心、聖言をお受けした時に、自分の生き方というものが非常に照らし出されたんですね。 そして私は、なぜ明主様はこういうことを仰せなんだろうか、ということを考えるようになりました。ミロクの世というと少し漠然としますけれども、ミロクの世にはこうなる、ということは、簡単に言えば、「将来的にはそうなりますよ」ということですね。だから明主様は、今から70年ほど前に、将来的に人類は全員菜食をするようになりますよ、ということを仰せになったということです。 その明主様のみ心に触れて、私は、なぜ明主様がこういうことを仰せなのかということを求めたいと思ったんです。明主様がこういうことを仰せだということは、世の中にも、そういう印があるんじゃないかというと変ですけれども、もうそういう世の中になってるんじゃないかと、そう思ったわけです。 というように明主様のみ心を求める中で、お伝えしたドキュメンタリーとか、情報とか、そういうのにいろいろ出会ったと、そういうことなんですね。 その一つは、先日の大祭でもお伝えした、『ゲームチェンジャー:スポーツ栄養学の真実』というドキュメンタリーなんですけれども、そこには、明主様が繰り返し繰り返し仰せの「肉食は血を濁す」とかそういうことについて、西洋において科学的に証明されている。明主様が菜食とか肉食について仰せだったことがいろいろそこに描かれている。 このドキュメンタリーは、大人も子供も楽しんで――楽しんでと言うと変ですけれども――楽しんで見られるものだと思うので、ぜひ見ていただきたいんですけれども、あ、でもこれはNetflix(ネットフリックス)ですので、メンバーにならないと見られない(一同笑声)、ということはあります。 先日の大祭では、さらに『Dominion(ドミニオン)』というドキュメンタリーにも触れました。『ドミニオン』。 これは、肉食業界に関するドキュメンタリーで、肉食される動物たちがどう扱われているかを描いたドキュメンタリーです。こちらはYouTubeにありまして、誰でも見れますので、こちらもぜひ見ていただきたいと思います。 ただ、少し注意したほうがよいのは、これは、映像としては屠殺場とかの映像ですので、その残忍性が、結構衝撃を受けるものだと思いますので、小さいお子様、大人でない方は気を付けたほうがよいかもしれません。 そこには、それこそ、人によっては目を背けたくなるような映像が出てきます、だって動物を殺すわけですからね。動物の泣き叫ぶ様子とかですね、そういうのがあります。また、これはあまりこのドキュメンタリーでは描かれてはいませんが、屠殺場で働く人も大変なリスクをしょっている。死ぬ直前の動物に蹴られるとか、屠殺する道具によって、場合によっては人間のほうの首が切り離されたり、腕が切り離されたりということもあるみたいですよ。それくらい過酷な職場のようです。 というように、このドキュメンタリーは、一見目を背けたくなるような映像なんですけれども、私が思ったのは、もしこれに目を背けたら自分は偽善者だなと、そう思ったんです。いや、これは僕の話ですよ。僕がそう感じたということ。全部見られないという方もいらっしゃると思います。 なぜか菜食の話になると、菜食を選んでいる人は「菜食主義者」だとなりますけれども、本来、今までの自分は、自分では無意識のようでしたけれども、殺した動物の肉を食べるという選択をしていたわけですから、私は「肉食主義者」だったわけです。 自分が「肉を食べたい」ということによって、このドキュメンタリーで描かれているような状況を動物に強いてきたわけだし、強いている。だから、この映像から目を背けたら自分はとんだ偽善者であって、この現実は直視しなきゃいけないと、そう思いました。 ただこれはこういう私の生き方であって、実際ご覧になって、これは見られないと言ってやめられる方がいるのも十分理解できます。 あと、明主様の「ミロクの世は菜食」ということに関していろいろと知り得ていく中にあって自分が偽善だなと思ったことがあったのですが、よく、地球温暖化、環境問題、ということに関して、排気ガスの排出が無い電気自動車がいいんじゃないかとか、そういうの、ありますね。 だけど、私が学んだのは、地球温暖化に関してはよく交通機関が出している温室効果ガスが取り上げられて批判されたりしますけれども、実は、世界中の交通機関すべて――車とか飛行機とか――それらすべてを合わせたのより、畜産業のほうが温室効果ガスを出している。 そんなこと、私は全然知らなかったわけです。知らないで、単純に、電気自動車がどんどん増えることは地球環境にいいんだとか言いながら、普通に肉食してた。それも、自分はとんでもない偽善者だったなと、そう思いました。 日本においてこのような情報は、気持ちがある人は探せば見つけられるでしょうけれども、普段あまり知ることのないこととして、他にも、例えば、イギリス。イギリスなんかは、肉食は地球温暖化と関わってる、だからこれは地球環境、人類の未来に良くないということについて非常にみんなの意識が高いんですね。 3年ぐらい前、2021年、イギリスの全国的な調査で、5歳から16歳の子供に、「あなたはヴィーガンですか?」「将来ヴィーガンになりたいですか?」と質問したところ、五分の一が、今現在すでにヴィーガンか、将来はヴィーガンになりたいと答えた。また、三分の一は今現在ベジタリアンか将来ベジタリアンになりたいと答えた。これ、イギリスの全国的な調査ですよ。この情報は私がねつ造しているわけではなくて、向こうのいわゆる大新聞と言われるような新聞で報道されたことです。 ちなみに、ここで言うベジタリアンというのは、ヴィーガンは動物性を全部摂らないんですけれども、ベジタリアンというのは、卵とチーズは摂るというのが多分この調査の定義だと思います。 なので、肉と魚は食べないけれども、卵とチーズは食べる。こういうベジタリアンに、もうイギリスでは三人に一人の子供たちがすでにそうなってるか、そうなりたいと言ってる。あらゆる動物性を摂取しないヴィーガンは五分の一なので20%。全イギリス国民の子供たちの20%は今現在ヴィーガンか、将来ヴィーガンになりたいと言ってる、という調査結果です。 また、イギリスのある大きな大学では、学食を全部ヴィーガン食にしたい、ということについて生徒の自治会が投票して、これ、通ったんですね。これは、小さな大学ではないですよ。生徒が二万人ぐらいいて、しかも世界の百何十か国から留学生も来るような大きな大学でそういう選挙というか投票が行われて、それが軽く過半数を取って、通った。だから、その大学に行ったら、学食はヴィーガン食だけなんですよ。というか、少しずつ変更していって、来年2025年に100%ヴィーガン食になるとか、そういうことだったと思います。 しかもこういうことは、ある特定の大学だけで起こっていることではないんですよ。イギリスの他のありとあらゆる大学でも似たようなことが投票されて、それが通っていっている。 イギリスの場合は、肉食をやめることについては、国民の意識としては主に環境問題ですね。まあ、環境問題及び健康ということだと思います。でも、健康と言うと「自分のため」みたいに利己的なことになるから、そうではなくて、西洋人の理念としては、そういう利己的な理由よりも、やはり大義のために肉食をやめると、そういうことなんだと思います。 ですので、最初に挙げた大学においては、その大学の学食に行ったら、来年からは全部ヴィーガン食なんですよ。肉、魚、卵、乳製品は一切無い。日本では考えられないですね。しかも、二万人くらいの生徒がいて、百三十、百四十か国から留学生の来るような大きな大学で、学食が全部そういうヴィーガン食になる。 で、イギリスの他の大学でも、似たような投票や決定がどんどんなされていて、学食の半分以上はヴィーガン食だとか、学食において肉、魚、乳製品、卵の使用を50%削減するとか、そういう投票とか決定がどんどんなされて、もう何十校も、行ったら、学食の半分以上はヴィーガンとか、半分以上は絶対に肉、魚、乳製品、卵を使わないとか、そういうことになっている。 しかも、これは大学へ行っている方たちの話ですから、若い人たちですね。地球や人類の未来ということに関して、若い人たちの意識が非常に高い。 もちろん今はまだ上の世代の方たちがいらっしゃいますけれども、今大学に行ってる方たちが大人になったら、世界は、もう、どんどんそういう世の中になっていきますよ。 だって、この流れは、イギリスだけではなく、ヨーロッパもそういう流れですし、アメリカもそういう流れになっていきますよ、当然ね。きっかけは環境問題みたいなことで、だんだんそうなっていく。もちろん、今すぐこれらすべての国が変わるとは言いませんけれども、でも、未来的には確実にそうなっていきますよ。だって、もうヴィーガン食しかない大学があるんですから。 いや、だから、これらの例を出して私が何を言わんとしてるのかというと、「ミロクの世は菜食」というのは、これは明主様が仰せのことなんだと、そういうことです。 ただ僕が言ってることだったらこのことについて皆様がいろいろと思われるというのはまだ理解できますけれども、我々は明主様の信徒であって、将来的に人類はみんな菜食するというのは明主様が仰せのことである。というか、明主様が仰せのことだから世の中もそういう方向に変わっていってるんじゃないんですか? だけど我々日本人の実態はどうなんだろうか。イギリスはもうそんなになってる、ヨーロッパも変わっていってる、アメリカも変わっていってる。でも我々日本人は、なんかアメリカの属国みたいな感じで、地球の問題とか人類に関わる問題について、自分たちで考えなくていいみたいになっちゃってるじゃないですか。でも、「世界人たれ」ですよ、明主様は。「新人たれ」はもちろん、「世界人たれ」。 今日拝聴した「新人たれ」の聖言にも、旧人型じゃだめなんだ、むしろ、旧人の反対になるように心がけなきゃいけないと、そう仰せじゃないですか。つまり我々は、どんどんどんどん新しくならなきゃいけない。だから僕は、今の日本の現状というのは明主様に申し訳ないです、本当に。 「ミロクの世は菜食」と仰せになった明主様がいらっしゃるその日本が、もう全然西洋に負けっぱなしじゃないですか。まあ悔しいんですね、私は。悔しい(一同笑声)。 だから、若い人は、もし可能であれば、もしそういう機会とか状況とかいろんな環境が許せば、ぜひそれこそイギリスとかヨーロッパとかに行っていただいて、そういう新しい世界の流れを味わってきたらいいと思うんですよ。 このヴィーガン食が――明主様の「ミロクの世は菜食」ということが――一体どれだけすでに世界の本当に新しい人たちの間でスタンダードになりつつあるかということについて、味わってきたらいいと思うんですよ。 イギリスとか行って、いろんなヴィーガンのレストランとか今言った大学の学食とかも行ってみたらいいと思うんですよ。そして、世の中がどれだけすでに変わったのか、味わったらいいと思うんですね。そういうところに行って、「私はヴィーガンです」と言ったらいいと思いますよね。「I’m a vegan」って、言ってきてくださいよ。「日本からヴィーガン食を食べに来ました」と、そう言ってきてくださいよ。 僕も若かったらね(一同笑声)。今もう子供とかできたので簡単に行けませんのでね。 僕が10数年前イギリスに住んでた時は、まだまだ全然でしたよ、こういうのは。なので、たった10年ちょっとですごい変わりようですね。というか、なにかそういう動きはあったのかもしれませんけれども、僕がただ全然意識していなくて気が付かなかっただけで(一同笑声)、イギリス人からは、何言ってるんだと言われてしまうかもしれませんけれどね。 でも、少なくとも、この変化のスピードはすごいですし、そして、この動き、世の中の流れというのはこれからも止まらないですよ。 僕は、もし明主様が今の時代に生きてらしたら、絶対、当たり前のように、「私はヴィーガンだよ」と仰せになってるんじゃないかなと思います。明主様が食のことについて仰せの内容を考えれば、今はもう絶対に菜食をされてて、そして、「イギリスではもうこうだよ」「アメリカでもこんなことがあるよ」と、もう当たり前のように仰せになって、それに対して我々は、「ああ、そうなんですか!明主様」というふうに言ってると思いますよ。 そもそも明主様は、90歳になられたら菜食を始められると仰せになってたんですよ。90歳になったら私は粗食の菜食をする、食べる量を少なくすることで私は若返るんだと、そう仰せになった。 だからこれが、もう西洋の栄養観(現在日本人が信じている栄養観)と全く違うじゃないですか。明主様が仰せなのは、栄養が足りなければ足りないほど身体がその栄養を作ろうとするから、内臓器官が強まって、結果的に身体が若返るんだと、そう仰せです。西洋のほうの考え方は、たんぱく質をこれぐらい、とか、脂質をこれぐらい、とか言って、それをできるだけうまく摂り入れればいいという考え方。でも、明主様の栄養観というのは、この西洋の栄養観とは全然違うわけです。 90歳の時に菜食を始めると仰せだということは、もし明主様が生きておられたら、1955年、72歳の時にご昇天になっていますから、それからプラス18で1973。でも、誕生日のことも考慮すると、1972年の12月23日、この時に90歳になられて――これ計算多分合ってます(一同笑声)――その時から明主様は菜食を開始された。 ということは、もし明主様が今も生きていらしたら、普通に菜食しておられるんですよ。明主様のことを思う時、あんまりそういうイメージを持たないんじゃないですか、我々。 でも、実際問題は、1972年の12月23日から菜食しておられる明主様が我々の教祖なんですよ。こちらの方(真明様、ご神前脇の御神影を指し示される)。こちらの方というとなんか変ですけれども(一同笑声)、明主様のことですね。 だから、やはり、明主様には将来の人類に対するビジョンというのがあって、メシア教の信徒は、そのビジョンから遅れてるような歩みではだめだと思いますね。本当に、西洋に負けてる場合じゃないんですよ。 今我々は、「祈り、食、音楽」という具体的な活動を進めているわけですが、時間がある方はぜひ、どんな小さなスペースでもいいのでね、畑などで野菜を作って、そして収穫物を自分も食べて人に分け与えてということで菜食を実践するのはいいことですよ。明主様は、そういうことが将来人類が歩むべき生き方なんだとお示しになっておられるわけですから。 だから、例えば退職して時間があるとか、それこそ退職した専従者の方とか(一同笑声)にはぜひしていただきたいですよね。専従を退職したあと自分はこれで生きるんだ、ということで、ぜひしていただきたいですよね。みんなで協力しあって、そして、詳しい人から教えてもらえばいいと思うんですね。だって、そのようなことを通して、明主様の新しい世界を造るみ心に日々お仕えさせていただけるわけですからね。 あと、菜食の実践がどうしても難しいという人も、じゃあ例えば週に1回から始めてみる。「今日はミロクの世の住民になる日、明主様のみ心に100%お応えする日」と決めて、週に1日からでも始めてみる。そして、もし週に1回できるようになったら、そのあと、週2回やれば2倍ですよ、2倍。明主様のみ心に2倍応えることになる。週3回やれば3倍。365日やれば365倍ですよ(一同笑声)。 というように、明主様が設定されたミロクの世の住民という基準に飛び込んで生きてみる。そうすれば当然明主様はお喜びになるし、明主様がお喜びになれば、明主様の信徒である我々には楽しい日々が待ってるに決まっていますよね。いや、自分は明主様の信徒じゃないと言うんなら話は別ですけれども、明主様の信徒である我々は、明主様がお喜びになることが我々の喜びになるわけですからね。 ちょっと話を変えます。耳が痛い食の話(一同笑声)をしているので、少し話題を変えます。いや耳が痛くない方もいらっしゃるかもしれませんね。皆さんが拒否されてるみたいな(一同笑声)、そういう前提で話してるわけじゃないんですけれども、ただ、食というのは非常に具体的なことですので、皆様のほうでもいろんな状況もおありかなと思いまして、思わず耳が痛いと言ってしまいました。 明主様はご浄霊でしたよね。ご浄霊。ご浄霊をずっと進められて、でも、最後には、想念だ、お念じしなさいと、そうなりましたね。最晩年、ご浄霊は二の問題でこれから想念の世界である、お念じしなさいと仰せになった。 そして、この、お念じしなさいということについて、明主様ご昇天後、現教主様が詳しくお説きくださって、皆様のほうで、想念の実践とか、お委ねとかという名前で呼ばれているように、自分とか自分の周りのいろいろな状況とかを通して心に湧き起こることについて、その思いを神様にお捧げしようと、そして、これが私たちにとって大切な信仰実践なんだ、だからお祈りしよう、お委ねしようと、そういうことになっていますね。 我々が今教えていただいているこの心の営みについて、私は、これは、ただ自分の心の中でちょっと神様と交流するという小さなものではなくて、私はこれは、生き方革命だと思うんですね。自分の生き方の革命。 どういう意味かというと、例えば今までの我々というのは、人のうわさ話とかゴシップ、これ好きですよね。今までの我々というか、今も好きですね(一同笑声)。お友達と会って、「あの人はああなんだって」「ええっ?」とかね(一同笑声)。「〇〇さんお茶しましょ、お茶しましょ」と言って(一同笑声)、「私今日、〇〇さんとお茶しに行くんだ」と言って、そこでコーヒー飲んで、そこで他人の問題についてもう何時間でも話せるみたいになりますね(一同笑声)。「あの人がこうなって」「いや、あの人はこうなったのよ」「ええっ!そうなの?」みたいなね(一同笑声)。 というように、世の中の人は当然そういうふうに生きていらっしゃるんですけれども、我々が教えられているのは、この「人の問題」というのは、実は他人事ではないんですよと、そういうことですよね。人の問題は、実はあなた自身の問題、我々自身の問題じゃないかと、そう教えられている。 「あの人は借金抱えちゃってこうなんだよ」というような話があった時、それは、一見他人事みたいなんですけれども、実は他人事ではなくて、あなた自身、我々自身の姿である。我々がどこから赦されたのかを他人を通して神様が見せてくださってると、そういうことですね。 また、人の姿以前に、そのような他人の姿を見てなにか感じている自分の姿がありますね。優越感に浸ったり、自分はあの人よりましだと思ってるそのような自分の姿。我々が教えられているのは、そのような至らない自分の姿も丸々神様に捧げなさいと、そういうことですよね。 ということは、我々は、実は、今までのようにゴシップできないんですよ。今までは良かったですね、それをただ楽しんでたんですからね(一同笑声)。まあ、ただ楽しんでたわけでもないと思いますけれども(一同笑声)、でも、どちらにしても、人のうわさ話をして、なんとなく自分がこの地球上で少しはましな存在なんだということを確認して、それで自分はなんか正当性を持ってるみたいな感じにしたかったのが、もうその生き方はできないんですよ。 他人が苦労してることとか、失敗とか、いろんな問題とか、そういうすべてのことは自分のことなんです。 だから、お委ねとかいっても、結局これは、生き方の革命ですよ。 私は、友達とお茶しちゃいけないと言ってるんじゃないんですよ。だって我々には、世の中の人のいろいろなお話をお聞きして、それを神様におつなげするという大切なお役目もありますからね。「神様の耳としてお使いください」ということで友達の話を聞かせていただいて、そして、「必要なことがあればお伝えさせていただきますので教えてください」と神様に申し上げ、その場で思わせられたことについて相手に伝える、とか、それは大事なことですね。 また私たちは、もはや人を裁くこともできなくなりましたね。今までは、「〇〇町の〇〇さんはこんなことしてなんか刑務所行かなきゃいけないみたいよ」と、もちろんそういう状況は我々の日常で滅多に発生しないですけれども、そういうようなことで、自分は少しは周りの人よりまともな人間だと思って生きてきた。だから人を裁けるわけですよ。人を裁ける。人を裁きながら生きるというのは、人類の普遍的な生き方ですね。でも我々は、もうこういう生き方はできない。 いや、確かに、人を裁く思いが湧いてくるのは分かりますよ。誰でもそういう思いが湧きますし、裁く思いを湧かせるなというのは難しい。でも気づいた時は、「あ、あの人の姿は私の姿なんだ」「私のためにあんな罪を犯してくれて、私の代わりに刑務所に行ってくれてるんだ」という思い、これですね、本当は。 世の中でいろんな罪を犯している人は私たちの代わりに担ってくださってるんです。我々がまともな人間だから罪を犯してないわけじゃないですよ。 だから、人を裁く生き方はもうできない。今言ったように、人を裁く思いが湧いてくることは止めることができないけれども、人を裁いて自分が上だといって満足して終わる生き方はもうできない。だって私たちは、それを、「ああ、これは私の姿なんですね。お赦しください」としなきゃいけないんですからね。だからこれはもう大変な生き方の革命ですね。 あと、「いいこと、悪いこと」ということもありますね。普通世の中でよく言うのは、「〇〇さんのいいところを見ましょうね」とか、「物事のいいところを見よう」とか、これはよく言われますね。道徳的な観点から、そういう生き方をしようと、そういうことは世の中ではよく言われている。 だけど我々は、基本的な発想のベースが「浄化」なんですから、全部がいいことなんですよ。人生で起こるすべてがいいこと。 いや、確かに、そういうふうに思えるとか思えないとか、その問題はありますね。人のいいところだけ見ましょうと言われても、人の悪いところしか見えない時もありますよね(一同笑声)。特に、自分にとって身近な人だったりすると、もう悪いところしか目につかないということもありますよね(一同笑声)。その人がするささいなことが非常に気になって、「なんであんなことずっとするんだろう」とか思う。 だから、私が言おうとしているのは、そのことじゃないんですよ。「なかなか私は人のいいところを見られません」というのがだめだと、それを言いたいのではない。だって、人の悪いことしか見られない姿も「いいこと」の現れですよ、神様がそういう至らない人類の姿を照らしてくださってるんですからね。悪いところしか見られないという人間の姿を神様は見せてくださってるんです。 普通世の中の宗教は、人のいいところを見ましょう、物事のいいところを見ましょう、くらいしか言わないですけれども、我々が教えられているこの心の実践というか物事の見方というのは、全部がいいことだと、そういうことなんです。そこに例外は無い。 だって、教主様も、何があっても「お喜びください」だと、そう教えてくださったじゃないですか。何かものすごいつらい思いが湧いてきた時にこそ、勇気をもって、「お喜びください、神様」「こんな思いを抱えた者たちがあなたのもとに帰ろうとしてるんですね。お喜びください」と、そう教えてくださっている。 「喜べば喜び事が来る」、ですよ。明主様の「人間は想念次第」。喜べば喜び事が来る。明主様は、喜び事が来たら喜びなさい、とは仰せではないんですよ。 明主様は、世の人々とは180度違う生き方ですね。世の中は、喜び事がある時には喜びなさい。我々は、「喜べば喜び事が来ますよ」ですから、喜ぶことが無い状況にあってもすべてのことに喜びなさいと、そういうことです。 だからこれは大変な生き方の革命ですよ。今までは、人のいいところを見なきゃいけない、悪い思いは持っちゃいけないと、ずっとそんなことで生きてきたじゃないですか。でも、そう言われていても、結局他人のうわさ話をして他人を裁いて、自分はこれができる、あの人はあれができる、自分はこれができない、あの人はこれができない、昨日はいいことがあったのに今日は悪いことがあったとか、ずっとそんな生き方だったじゃないですか。でも、我々は、もうその生き方はできないんですよ。 だから、最晩年に明主様が、浄霊は二の問題でこれからは想念だ、お念じしなさいと仰せになったのは、まさに生き方革命だと私はそう思います。「本当の人としての生き方に目覚めなさい」ということで浄霊であり想念のことを教えてくださった。 でも、じゃあそういう生き方が簡単にできるのかというと、なかなかそこに難しさもありますね、実は。我々には、先祖代々生きてきた生き方が染みついてますから、なかなかこの生き方に目覚めるのは難しい。 新約聖書に放蕩息子の話というのがあるんですね(「ルカによる福音書」第15章11節~32節)。これは、一人の人でも悔い改めるということがいかに神様にとって大きなことかということを示すために、イエスがしたたとえ話なんですけれども、どういう話かというと、あるところにお父さんと二人の息子がいました。このお父さんはお金持ちだったのですが、ある日、弟がお父さんに向かって、死ぬ前に遺産をくれということを言うんですね。死ぬ前に自分の分け前がほしいと、そういうことを言う。 普通だったらそこでお父さんが「ノー」と言ってもいいかと思うんですけれども、このお父さんは優しいので、「ああ、そうか」「お前はもう俺が死んだ時の遺産がほしいのか」「分かった」ということで、兄と弟に将来渡すべき遺産を全部あげちゃうんですね。 そうすると、弟は「お、やった!」「まさか本当にもらえるとは」ということで(一同笑声)、数日後には与えられたすべてを持って家を出てしまう。これだけお金があればもう独り立ちできるということで、「じゃあ親父、さよなら」(一同笑声)と言って家を出てしまう。兄は残りました。 家を出た弟は、ついに親から解放されたということで、パーティー三昧をするんですね(一同笑声)、本当に。女性を呼んだり、お酒を飲むというパーティー三昧をして、そして、すぐお金を使い果たしちゃうんですね(一同笑声)。使い果たしちゃう。 どこに行ったのかって、どこか遠い町に行ったんでしょうね。ここは熱海だから、熱海だと仮定して(一同笑声)、ちょっと都会の小田原とか(一同笑声)、横浜あたりですかね(一同笑声)、まあ東京へ行ったかもしれないけれども(一同笑声)、とにかく、お金をちゃんと使えて、パーティーとかできるところですから、それくらいの町まで行ったんでしょうね。 でもそこで、お金が無くなってしまう。そうすると、彼がいる地方に――今言いました横浜というたとえがこの話とうまく合うのかどうか分からないけれども(一同笑声)――その地方に大飢饉が起きるんですね。食べる物が無くなってしまう。しかも彼はお金も無いですから、困るわけです。ということで、「働かせてください」ということで農家みたいなところへ行く。そうすると、「じゃああなたは豚の世話をしなさい」となるんですね。ちなみに豚の世話をするというのは、ユダヤ教の文脈では、それが一番汚い仕事とされているらしいので、そういうことで豚の世話がたとえで使われているそうです。 それで、豚の世話でもう泥まみれになるけれども、食べる物も無い。そうすると彼は、人間の食べる物を買うお金は無いので、世話をしている豚のえさすらも食べたいと思うようになるんですね。それぐらい耐えがたい空腹になってしまう。 それで、豚のえさですら食べたいと思ったまさにその時、彼は、はっと我に返るんですね。つまり、父親のことを思い出すわけです。非常に身勝手なんですけれども、彼は、「親父はお金も持ってるし、そこに帰れば食べ物にも困らないから、親父のところに戻ろう」と、そう思うんですね。豚の世話をして泥まみれでお腹も減って、もうガリガリに痩せている時にそのことを思う。 ということで家に帰ろうとするんですけれども、よく考えると彼は親父に合わせる顔がないので、親父に会ったら、「自分はあなたの息子と呼ばれる資格もありません。私を雇ってさえくれればいいです」みたいなことを言おうとか考えながら家のほうに向かって歩いて帰っていく。 一方、家はどうなっているのかというと、お父さんは、急に遺産全部くれと次男から言われて、そのお金も全部あげて、お金をもらった次男はどうするのかなと思ったら、すぐ出ていってしまって、普通で考えたら怒っててもよさそうなんですが、そのお父さんは、息子が出ていったあとも、いつか帰ってくるかもしれないと思って、毎日毎日玄関のところで息子の帰りを待ってるんですね。時間さえあれば遠くを見ている。「もしかしてこっちから帰ってくるかな?」「もしかしてあっちかな?」ということで毎日毎日待っている。 そうすると、ついにその時が来るわけです。豚の世話のところで改心して帰ってくる息子。その息子の姿を遠くに認めたお父さんは、彼がこっちに来るのを待ちきれずに、息子のところまで走っていって、よく帰ってきてくれたね、ということで彼を抱き寄せるんですね。 そこで息子は言うわけです、「私はもうあなたの息子と呼ばれる資格すらありません」ということを。だけどお父さんは、いや決してそんなことないということで、家にある一番いい着物とか、一番いい靴とか、そういうのを用意させて、そして、よく帰ってきてくれた、ということで大喜びで祝宴をするんですね。 お父さんは、そこで、「お前何してたんだ」とか、「私がお前に残したお金を使い果たしたのか」、ではないんですよ。そうではなくて、むしろ一切とがめず家に息子を迎え入れる、というそういうイエスのたとえ話です。 この話というのは、我々にも関係があるんじゃないかと、そう思うわけなんですね。我々は今、自分は普通に生きてると思っているけれども、本当は、このたとえ話の中で、全部持ち出して家を出たとあったように、我々も神様のものを全部持って神様の家から出てきたみたいになってるんですよ、実はね。 今着ている服とかもそうですし、当然それだけではなくて、見る力、呼吸、言葉、命、意識、魂、これら全部ですよ。これら全部を我々は持ち出してきた。そして、命の力というのはすごいパワーですから、もう、お金を持ち出したとか、そんなレベルではない。 というように自分にはすごい力がある、だから自分は自分の力で生きていける、と思い込んでいるけれども、本当は、神様のものを自分勝手に使って、枯れていって、もう生きていけないくらいになってるんです。 神様の家に帰ればいくらでも充電、補充してもらえるのに、自分の力で生きていけると思ってるから補充もできない。で、どんどんどんどん与えられているものを使い果たして、今や我々は、自分だけは立派に生きてると思っているけど、本当は、豚の世話をして、もう食べる物も無い、人間が食べる物でない物も食べなきゃいけないぐらいにまで追い詰められているのが我々の真の姿なんですよ、本当はね。 神様のもの、当たり前に自分のものだと思ってますよ、呼吸も言葉も、全部自分のものだと思ってる。 我々は、本当は、神様のもとに帰らないといけない。でもそこで我々は思うんです、いや自分が今帰っても、罪人とか、悔い改めよ、と言われてるから自分は神様から怒られるのかなと、そう思ってる。 だから我々は、自分は神様の家から全部持ち出して自分の力でこんにちまで生きてきた。人生の苦労にもまれて、ここまで来た。だからもう、神様のもとに帰るというより、このまま生涯を全うする、それでいいんだと、そう思ってる。 でも神様は、今も、ずっと、我々一人ひとりのことを待っておられるんです。息子が帰ってくるのを毎日外を眺めて待っているかのように、我々のことを待っておられるんです、神様は。 我々は、この世のことに触れていろいろとあります。そのすべてですよ、うれしい時も悲しい時も、喜びも、悲しみも、楽しみも、さみしさも、その全部ですよ。それを味わった時に、「ああ、これらの思いは、神様、あなたのもとに帰りたいんですね」「多くのご先祖様と人類の思いを私はキャッチしています。これをあなたは受け取られたいんですね。神様は私たちのことを待ち焦がれておられるんですね」と、そういうことです。 だから、我々は決断しなければならない。これからも、「自分は自分の力で生きていく」とするのか、それとも悔い改めて神様に心を向けて、先ほど拝聴した聖書にもあったように、「きょう、み声を聞いたなら」、神様に背いたあの時のように、心を頑なにしてはいけない(「へブル人への手紙」第3章15節)ということで神様のもとに帰るのか、決めなければならない。 我々は、豚のお世話の話のように完全に行き詰まってるのに、それでもまだ、いや自分は自分の力で生きていく、自分は立派な存在なんだ、人にいいことして生きていく、ということでずっと頑なに生きてきた。 でも、「きょう、み声を聞いたなら」ということは、神様が呼んでおられる、ということです。だから我々は、今日、今、「帰ってこい」という神様のみ声を聞いてるんです。 今日拝聴したもう一つの聖書の一(いっ)篇(ぺん)にもありましたけれども(「エゼキエル書」第36章24節~31節)、頑なな心というのは石の心ですね。でも神様は、石の心ではなくて、肉の心をあなた方に与えるよと、そう仰せです。 石の心は頑なな心ですね。自分で生きていく、ということでがっちり自分を守っているわけです。確かにそういうのはもしかして今までの人生で必要だったかもしれない。自分を一生懸命守って、そして、家族を守らなければいけない、戦わなければいけない、ということがあるじゃないですか。そういうことで石の心になって一生懸命生きてきた。それは立派だったかもしれない。だけど今、神様は、あなたのすべてを携えて私のもとに帰ってこい、そして肉の心になりなさい、清めてあげるんだからと、そう仰せくださっている。 同じ「エゼキエル書」に、私たちを清める水のことがありましたが(第36章25節)、その水は、どう考えてもイエスの血ですよ。我々の、完全に固まった石の心に振りかけられる清い水はイエスの血です。 もし自分が清まるのは自分の心がけ次第だというなら、「自分はもう神様に心向けてますけど、あなたはまだ豚のえさを食べたいんですか?」とか、「自分はもう豚のえさを食べないという選択をして、神様のもとに帰ってます」とか、そういう優劣の世界に入ってしまいますよ。でも違うんです。我々の心がけは関係無い。 命の水であるイエスの血は、すでに全人類の上にもれなく振りかけられてあって、我々人類が抱えていた石の心は、すでに肉の心にしていただいたんです。 だから、神様に心を向けるのも我々の手柄ではないんですよ。だって、「きょう、み声を聞いたなら」、ですよ。声を聞いたことに反応するだけなんですから、なんの手柄でもないですよ。自分は神様のみ声を聞く前から帰っていたと言ったら、それは少しは自分の手柄かもしれないですけれどもね、でも、そうではなくて、神様は我々を呼んでおられるんです。 世の中、いろいろありますよね。戦争に次ぐ戦争、災害、天災、病気、隣人関係。もう混沌としてますよ。でも我々が絶対忘れてはならないのは、この混沌とした世の中にあって神様は、我々がご自分のもとに帰ってくるのを、もう、ドキドキワクワクしながら待っておられる、このことだけは忘れてはならないんです、我々は。 普通、こんな世の中だったら神様は今どう思われてるんだろうかとか思いますけれども、神様は、ワクワクドキドキしながら、一人でも多くの人が「ああ神様」ということでご自分のもとに帰ってくるのを楽しみに待っておられるんです。 全人類が神様に心を向けるためにどうしても何か必要があって一見不調和と思われるものを巻き起こさなきゃいけない。これは確かに神様にとっておつらいですよ。でも、神様の心の中心には、帰ってくる自分の息子たち、娘たちに会えるという、ワクワクドキドキ感があるんです。 だって我々は、ずっと昔、神様の家にあるもの全部持って家を出てしまった。でも、その時から神様は、ずっと、「あの人に会いたいな、あの人に会いたいな」という思いを、我々一人ひとりに対して思ってくださってるんですよ。家の玄関で、「お前に会いたいんだ」と、そういう思いを持って我々一人ひとりを待ってくださっている。 しかも、帰っても、我々はとがめられないんですよ。神様はとがめない。だってとがめるも何も、もうイエスを送って我々を清めたんですから、とがめる必要なんて無いじゃないですか。 だから、今まで我々がどんな苦労をしてきたとしても、どんな悪いことをしてきたとしても、神様は、我々一人ひとりに最高のもてなしをしたいと思って、もううずうずして待っておられるんです。今この瞬間ですよ。世の中は混沌と見えるけれども、神様はうずうずとして待っておられる。我々一人ひとりの中で、我々との再会を願って待っておられる。だから、これが愛でなくてなんだろうか。 そしてメシア教というのは、この神様の愛に応える非常に具体的な方法を教えていますね。どの世の宗教も神様の愛というのは説く。神様というのはなんでも赦される方だとか、イエスが我々の罪を赦したとか、そういうことはみんな説く。だけどメシア教が説くこの「祈り」の救いというのは、一日一日、今この瞬間も、今話した放蕩息子の話のような感動に出会うことができる救いなんです。だって神様は、我々がいろいろ感じた思いを携えて帰ってくるのを、今、待っておられるんですから。 我々の心にはいろんな思いが湧いてきますよね。今、ご神前でこの話を聞いてる時は気分が良かったとしても、ここから一歩外に出れば、この世の接触ということで、一瞬にして別世界に行かされるみたいになりますね、電車に乗った時に騒いでる人がいるとかね。 日々の生活の中でも、「この人の問題がある、あの問題がある」と、それで悩みを抱えるみたいになりますが、でも、そうならなくていいんです。だってそれは、「あ、これを神様が受け取られたいんですね。そのためにうずうずして待っておられるんですね。私のために待っておられるんですね」、でいいんですから。 ということで、「神様、まさにこの思いを受け取られたいのですね。多くのご先祖様の思いを受け取っていただきたいのです」として、もしそれを神様が受け取ってくだされば、神様はそのご先祖様たちにきっと新しい服と、新しい靴と、新しい命を与えてくれますよ。だからそれは、新しく生まれる、というものを用意してくださるということです。 というように我々自身の中にいらっしゃる多くのご先祖様がもっと生き生きとなれば、当然、我々自身ももっと生き生きとなりますよ。 だから、そういう業にお仕えするのが我々の使命ですし、それが本当の浄霊ですよ。今この瞬間にも、そのような祈りを通して、愛と光をすべての人に分け与えるという業にお仕えすることができるんです、私たちは。 だから私たちは、神様の愛というのを思い出さなきゃいけない、だって神様はとがめないんですから。神様の愛という一点の光が我々の中にあるんです。 先日、イエス復活祭並びに春季大祭についてのある信徒の方の感想でこういうのがあったのですが、その方は、大祭に参拝されて、感動して、その勢いで、信仰に反対している自分の娘に大祭会場の写真を送ったんですね。それに対する娘の返信は、「宗教ほどおかしいものはない」、これが返信だったんですね。それでその信徒の方は、普段なら、「そんなこと言わないで」と言うんだけれども、その時は、大祭の感動で気分が高揚しておられたのか、「おかしくて結構!」(一同笑声)、おかしくて結構プラスビックリマーク(一同笑声)という返信を送った、ということが書かれていまして、僕はそれを読みながら、そうだそうだ、よし、やれ!(一同笑声)と思っていました。 というように、宗教というのは、日本ではおかしいみたいになってますけれども、我々は神様の本当の愛を求めているし、それを伝えている。だいたい、宗教ほどおかしいものはないとしたらアメリカはどうなるんですか。事実上、キリスト教徒でなければ大統領にもなれないんですよ、アメリカでは。あるいはヨーロッパも、ヨーロッパのいろんな西洋芸術は、ほぼすべてその土台にキリスト教の信仰がある。それがおかしいとしたら、観光行った時にそういう作品を見るのもおかしいし、教会を見にも行けない。宗教ほどおかしいものはないんだとしたら、ヨーロッパにも旅行できないし、アメリカに行っても、もし、「なにか信じてるの?」「なにも信じてません」と言ったら信頼されませんよ、世界基準ではね。 我々からすれば、なんで神様と神様の愛を受け入れないの?と、本当はそっちのほうがおかしいですよね。でもまあ、もし世の中が神様のことをおかしいと思うのだとしたら、それは、我々自身の中にそういう要素がたくさんあるからですよね。だからやはり、我々は、日々の生活の中でいろいろ感じさせられることについて、神様にお捧げさせていただかないといけない。と同時に、世の人にも「目覚めなさい」と告げ知らせてあげないといけない。 宗教を否定する。ということはキリスト教も全部否定するんですか?イエス・キリストの十字架の血を受け入れなければ、どんなに表面は立派に見えても、実際は、ずっと豚のえさでも食べたいという生き方をして終わりみたいな人生になるんですよ。 特に日本においては、宗教を信じてるのはおかしいとされていますね。それだけでなく、神様という言葉を使うのもおかしいとされている。「神様の愛」という言葉を使うと馬鹿にされるぐらいですね。「神様の愛」という言葉は、もう、ジョークに使われるぐらいですよ、日本ではね。 まあでもね、本当は我々が正しいんですよ、それはね。だから我々は、周りからおかしい、おかしいと言われても、そこで、「おかしくて結構!」(一同笑声)のように、我々自身が神様の愛を信じ、神様への信仰を貫く、たとえこの世において――この日本という国において――我々の光は大海原の中でほんの少しの輝きだとしても。 でも本当は、我々はこの世においては灯台のような存在であって、多くの人が、「あ、あそこに光がある!」と思って集まってきている。 家族関係とか隣人関係とか、我々はいろいろありますけれども、「自分は本当の愛と光を携えてるんだ」ということを自覚して、どこに行くにしても、「この愛と光がすべてにありますように」という思いを持たせていただく。 だから、この世に生きていく中において、勇気を持たないといけない。もし我々が間違えているなら勇気は持てないですよ。いや、もしかして周りの人が正しくて、私はおかしいのかもしれないと思うんだったら勇気は持てない。でも、我々が知らされてるのは真理であり真実である。 だから我々は、世の光、世の灯台となって、世を照らすと同時に、照らしたらまた集まってきますから、それを携えて神のもとに帰る。 これは、確かに大変な使命ですね。だけど、今日の放蕩息子の話じゃないですけれども、神様は我々のことを待っておられるんです。そしてその神様というのは完全な安らぎをお持ちのお方ですよ。だって安息なんでしょ、安息。今日拝聴した聖書にも、その神様の安息に「はいりそこなう者」が無いようにとありましたね(「ヘブル人への手紙」第4章1節)。それは我々の日々の生活の中で心に湧いてくる思いのことでもあるんですよ。神様としては、はいりそこなう者が無いようにお前にこういう思いを託してるぞということなんですからね。 だから、確かに、人生いろいろありますよ。当然ですよ、全人類の営みが皆様方一人ひとりに集約されてるんですから。そしてそれを人生の中で感じさせられますよね。「愛の翼」の歌の歌詞ではないけれども、いろいろ経験させられる。大変な経験をさせられることもありますね。でもそれは、何万、何十万年の人類の営みすべてが皆様お一人おひとりの中に集約されているから当然なんですよね。 そういう時に、その思いに負けてなんとなく生きていくのではなくて、「おかしくて結構!」の精神(一同笑声)で生きていく。おかしくて結構、なぜなら自分の背中には神様がいるんだからと、そういう精神ですね。 だから皆様は、本当に、世の光、世の灯台とならなければならない。そして我々には、この「祈り、食、音楽」があるわけですからね。今まで我々は、委ねる委ねるということで「思い」のことは分かったけど、具体的にどうしたらいいんだろう、みたいなことだったじゃないですか。でも今は、歌も歌っていいですよ、というように、非常に具体的な活動も教えていただいているのでね、それを大いに活用して、世の人々に対して、こっちに来い、一緒に歩もうじゃないかと呼びかけさせていただく。 そういうことで、神様の、絶対にとがめない子供に対する広大無辺の愛、これを常に思い出して、勇気を持って共に生きてまいりましょう。 ありがとうございました。