PDFダウンロード:https://ourl.jp/DORZ9真明様聖言ビデオ(ポルトガル語) Sagradas Palavras do Masaaki-SamaEncontro com Masaaki-Sama para Integrantes da África(vídeo em português)真明様聖言玉稿(ポルトガル語)Sagradas Palavras do Masaaki-SamaEncontro com Masaaki-Sama– Integrantes da África e representantes do exterior –(texto em português) ご質問にお答えする前に、まず、マミと私に対しての皆様の温かなお迎えに、マミ共々、深く御礼申し上げます。昨晩ホテルの部屋でマミと話していたのですが、アフリカの皆様のことを思うだけで胸がいっぱいになります。この幸せな気持ちは言葉では簡単に説明できません。 一見、日本人の我々とアンゴラやアフリカの皆様とはなんのつながりもないようですが、明主様のおかげで、私たちは、このような喜びにあふれた交流をすることができる。本当に、このすばらしさを言葉にするのは難しいです。 昨日の祭典で私が一番盛り上がったのは、皆様とダンスをした時です(一同拍手)。皆様のおかげで、あのような形でアフリカ文化に触れることができました。昨日もホテルでマミに何回も言っていたのですが、本当に盛り上がりましたよね。 このようなすべて、皆様のおかげ以外の何物でもございません。誠にありがとうございました。 去年アンゴラに来ました時、今回のようなアフリカでの浄化が起きることはあまり想像していませんでした。このことから話したいと思うのですが、このテーマに関連して、ご提出いただいた中から、まず5人目の方の一つのご質問について先にお答えしながらこの教団浄化のことで私が思っていることをお伝えしたいと思います。 質問1 教団浄化はなぜ起きるのですか? 畏れながら、教団内での分裂や争いというのが起きる真の原因についてご教示いただきたく、なにとぞよろしくお願いします。 ジャシント・ペレイラさん(青年布教員 男性 35歳) これは、昨日昼食をご一緒させていただいた本部長や同席されていた方にもお伝えしたのですが、今年は、実は、そもそもアフリカに来させていただく予定はありませんでした。アンゴラでの教団浄化のことを知る前は、アンゴラには行かないと思っておりました。 日本に居て今回の教団浄化についてのご報告をお受けした当初、私は、日本側の役割というのは、アフォンソ側とカブーソ側、双方の仲介役をすることだと思い、そのように進めておりました。しかし、すぐに、この方針はうまくいっていないことに気づきました。より混乱が広がっていたからです。 というのは、お互いが、「自分たちは日本からの支持を得た」として、相手への攻撃の度合いを強めた。 この状況に直面し、教主様と私は、アンゴラの将来を考え、はっきりとした姿勢を速やかに示さなければならないと感じました。 仲介する立場ではなく、はっきりとした姿勢を示すこと、特に、教主様の明確なスタンスを示すことが、このアフリカでの浄化を終わらせる唯一の道だと感じたのです。でなければ、この浄化は長引く、ものすごく長引くと、私は直感的にそう思いました。 昨日の祭典でもお話ししたように、日本の信徒は、アフリカ信徒の皆様がお持ちの信仰に、強い憧れ、尊崇の念を抱いています。ですので、もしこのアンゴラでの教団浄化が長引けば、日本の信徒に対しても悪い影響を与える、いや、日本の信徒のみならず、ブラジルをはじめとする世界中の信徒に悪影響を与えることは明らかでした。ですので、このアフリカの教団浄化は大変重大な問題であると、私はそのように認識しておりました。つまり、速やかかつ明確な決断が必要とされている状況であると、そのように思いました。 去年せっかく土の聖地が誕生し、世界中の信徒が喜びに包まれていたのに、それが台無しになる状況だったのです。 私は、アンゴラの、そして、世界中のメシア教の未来のために決断が迫られていると、そのように思いました。 もちろん日本側としては当時のアフォンソ本部長に対して最大限の敬意を持ってはいましたが、結論的には、カブーソ副本部長を支持しようということに決めたのです。 日本側としては、この我々の決断をアフォンソ先生側が尊重してくれることを願ってはいましたが、それは難しいようでした。 しかしその後、教主様がカブーソ新本部長のご認証をなさいました。私にとって、これは、決定的なことです。教主様のご認証は、すなわち、神様のご決断に他ならないからです。 教主様がご認証になるということは明主様がご認証になることであり、すなわち神様がカブーソ新本部長を認められたということです。 ですので、カブーソ新本部長を受け入れるか否かというのは、実は、明主様のご決断を受け入れるか否か、神様のご決断を受け入れるか否かとまったく同じ意味なのです。 その前提をお話しした上で、ご質問をもう一度おさらいしたいと思いますが、それは、「教団内での分裂や争いというのが起きる真の原因」はなんですか?というものでしたね。 で、真の原因は何かと言ったら、それは一つしかないんですよ。一つしかない。 この間の日本での祖霊大祭において私たちはある聖書の一節を拝聴しましたが、それは、「マタイによる福音書」第5章34節から37節。 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。 それ以上に出ることは、悪から来るのである──だから、我々が神様に対して言っていいことは、「はい」か「いいえ」しかないということです。これ、面白くないですか?神様は私たちに、「いいえ」ということを許しておられる。これは本当に興味深いことです。 我々は、神様に対して「いいえ」ということが悪いことだと思ってこなかったですか?でもここ、神様は、「あなたは私に対して『いいえ』と言ってもいいよ」と、そう仰せです。不思議ですね。 むしろ、「はい」でも「いいえ」でもない返事、これはだめだ、それは私は許さないと、そう神様は仰せです。 ここで、アフォンソ先生側の態度について触れたいのですが、彼らは、まだ、「はい」も「いいえ」も言ってない状態ですね。中途半端である。 教主様に対しては都合良く「はい」のようにしながら、その教主様がご認証になったカブーソ本部長には「いいえ」としている。この姿勢は、私は受け入れません。というか、神様はこのような姿勢は受け入れない。これは「悪から来る」と、そういうことだろうと思います。 アフォンソ先生側は、カブーソ本部長を受け入れないなら、むしろはっきり、教主様に対しても「いいえ」と言わなければならない。そして、これなら神様は受け入れてくださる。悪ではない。 昨日の昼食の時、私は皆様に、「祭典で話したことによって(カブーソ本部長を受け入れないのは教主様、明主様、神様を受け入れないことである、という内容)、アフォンソ先生のグループに最後の審判を告げた」と言いましたね。その意味は、要は、祭典であれだけはっきり言うことによって、アフォンソ先生側が、教主様に対して明確に反旗を翻すように促したのです。 アフォンソ先生側は、今はまだ、中途半端なスタンスを取っています。これは人間にとって都合がいい。 「はい」か「いいえ」の決断をせず、どちらでもないところでぐずつくのは、人間にとって楽なのです。でも本当は、「いいえ」とはっきり言うことのほうが神様はお喜びになるのです。 いや、もちろん、「はい」という返事が最良の選択肢であり、尊いお返事であるのは言うまでもありません。しかし、二番目の選択肢である「いいえ」も、決して悪いことではないのです。 なぜなら、もしはっきりと、「私は教主様を受け入れません。つまり明主様、神様を受け入れません」と言えば、その先にその方たちに待っているのは悔い改めのみです。そして私たちは、悔い改めたいと、そう思っているのではないですか? 悔い改めは非常に大切なことです。そして、まず、神様を拒絶する「いいえ」という返事をしなければ、悔い改めということは発生しない。 だから、逆に言えば、私たちは、悔い改めをしたくないから「いいえ」と言い切る勇気がないのです。「いいえ」と言うと、大変なことになると恐れるから、なかなか「いいえ」と言えない。 でも明主様は、特にご昇天前、私たちに悔い改めてほしいと願っておられましたね。だとしたら、神様を明確に拒絶するということを経ずして、どうやって悔い改めることができるのですか?できません。 だから私たちは、誰であっても、必ず一回は神様に対して「いいえ」という意思表示をさせられるのです。 今している話は、そっくりそのまま日本の教団浄化にも当てはまるんですよ。教主様を受け入れるか否かという日本で発生した教団浄化。 私は、今回の日本での教団浄化はすばらしい神様からのみ恵みであったと思います。なぜなら、世界救世教の方々は、明確に、教主様を受け入れないという意思表示をされたから。ということは、今後世界救世教の方々に残されているのは、悔い改めのみです。彼らは、ようやく悔い改めができる道に入ったということです。 教団浄化前の世界救世教というのは、口だけは、「教主様は大切だ」と言いながら、実際には教主様の言われることは一切聞かず、自分たちの好きなようにしていた。 でも、今回、ついに教主様を明確に拒絶したわけですから、ようやく彼らも悔い改めができるチャンスを得たのです。彼らに対する計り知れない神様からの祝福ですね。 だから、「私はアフォンソ先生側に最後の審判を告げた」ということを昨日皆様にお話ししましたが、ここで私が言う最後の審判は、アフォンソ先生側にとって決して悪いことではありません。日本のケースと同様、最後の審判を告げられるのはものすごい神様からの祝福なのです。 なので私は、これから先も、アフォンソ先生側が、明確に教主様と私を拒絶するまで、さらに彼らを刺激し続けるつもりです。そうでなければ彼らはずっと中途半端なままで進み、悔い改めというすばらしい道には入れないからです。 世界救世教は、もう「拒絶」という決断をしました。彼らに残されているのは悔い改めのみ。将来、神様と明主様は、彼らに対して、「あの時、あなた方は、私の代理である教主を拒絶したことにより、私を拒絶した。違うか?」と仰せになる。それに対して、「仰せの通りです。私たちは教主様を拒絶したことにより、明主様、そして神様を拒絶しました」と言う。それに対して神様と明主様は、「悔い改めなさい」と言われます。そして彼らは、「はい、悔い改めさせていただきたいです」と言う。 このようなことが起きうるのも、世界救世教が教主様を拒否する意思を明確に示したからです。 だから私は、アフォンソ先生側にも、明確な態度を示してほしいのです。なぜなら、教主様を受け入れることはカブーソ本部長を受け入れることであり、カブーソ本部長を受け入れることは教主様を受け入れることだからです。そこに差は一切無い。 教主様がカブーソ本部長を認証されたということは、今アフリカにおいて、カブーソ本部長は教主様の代理であられるということです。ということは、カブーソ本部長を拒否するということは、教主様を拒否することに他ならない。にもかかわらず、アフォンソ先生側は、教主様を拒否していることを明確に示しておられない。中途半端な状態にいる。この状態がよくないわけですね。 ですので、「教団内での分裂や争いというのが起きる真の原因」との質問ですが、神様は、神様に対して「はい」と言う人と、「いいえ」と言う人を分けようとしておられる。そして、そもそも、分裂は悪いことではない。 さらに言えば、実は、教団浄化は激しければ激しいほどいいことなんですよ。教団浄化が激しくなければ、私たちは中途半端な状況──たとえて言うなら教主様のことは受け入れてカブーソ本部長は受け入れないというような中途半端な状況──にとどまれてしまいますのでね。 はっきりとした姿勢を見せる、これが大事なんです。人間的な考えからすると、「仲介しよう」「教団浄化があまり激しくならないようにしよう」となりがちですが、神様が本当にそのようなことを求めているのかどうかは分からない。案外人間の発想とは逆かもしれませんね。 このアフリカの皆様の教団浄化についても、もし当初の日本側の意図通りに仲介することがうまくいってしまっていたら、カブーソ本部長に対して「はい」と言わせていただくことや、「いいえ」と言わせていただくことにはならなかったでしょうね。 私としては、明確にカブーソ本部長を支持させていただくことを表明したかったわけですが、これは、決して私の、なにか、人間的な気持ちからではありませんよ。そうではなくて、教主様が認証されたカブーソ本部長を支持することは、すなわち、教主様を受け入れること、これに他なりません。 カブーソ本部長を支持することは、私にとっては、教主様に対して最大限の敬意を表することです。そして、この順序・礼節というのは、何があろうとも守られなければならない。 その順序・礼節を明確に示すため、今年もアンゴラに行かせていただく決断をさせていただきました。ですので、アフリカでの教団浄化が無ければ、マミと私は信徒の皆様とこのように交流させていただく機会は無かった。神様のなされようは本当に神秘ですね。そう思いませんか? 質問に戻りますと、教団浄化の原因は何かということですが、原因はとても簡単です。それは、「神様が、神様に対して『はい』か『いいえ』どちらかの返事を私たちにさせるため」、これです。 これは一見簡単なことに思えるので、「誰だって神様に対して『はい』と言えるでしょ?」と感じる方もおられるかもしれませんが、神様の進め方は人間の想像を超えてきますね。というのは、今回のアフリカの教団浄化で言えば、神様というのはカブーソ本部長という形をもって現れてきた。 誰もが、「当然自分は神様に対して『はい』と言える」「そんなの簡単だ」と思っているかもしれませんが、実はそんなに生易しいものではない。 カブーソ本部長が体するものはなんなのか。教主様のご認証とはなんなのか。教主様が体されているものはなんなのか。 要は、カブーソ本部長を受け入れないことは教主様を受け入れないことであり、それはすなわち明主様を受け入れないことであり、神様に対して「いいえ」と言っていることになるわけです。 日本でもまったく同じでした。神様は、「私に対して『はい』と言うか『いいえ』と言うか決めなさい」ということで教団浄化を起こされた。 今後もし私たちの神様に対しての姿勢が甘くなるようなことがあれば、また教団浄化は起きますよ。神様は、常に私たちに対して、「私に『はい』と言うか『いいえ』と言うか決めなさい」と質問してきておられるのであって、そういう意味において、私たちは、あまり、教団浄化が起こることをことさら心配しなくてよいのです。 確かに人間的には教団浄化を経験するのは大変なことのようですが、神様の御目からすれば、教団浄化というのはあらゆる角度から見て良いことなのです。 私たちにとっては「はい」と言わせていただく機会ですし、「いいえ」と言った方々も、いつの日か神様に悔い改めさせていただけるすばらしい未来でありチャンスをいただいたんですから、やはりいいことです。 しかし、どちらにしましても、皆様は、カブーソ本部長に対して「はい」と言われた方々であります。つまり教主様に、明主様に、神様に「はい」と言われた。おめでとうございます。そして、ありがとうございました(一同拍手)。 質問2 イスラム教の人への布教は? 真明様メッセージNo. 3「神の声」において、真明様は、「このたび教主様を非難し拒否した方々も、今、他の宗教を信じている方々も、また、神様という存在を全く信じていない方々も、すべての人々が、もれなく、今私たちが知るに至った福音を受け入れる時が来るのです」と聖言くださいました。 中東の原理主義者のような激しい方々に対して、メシア教はどのような方法で福音を伝えていくのでしょうか。 アントニオ・サンボさん(教区長 男性 43歳) ご質問ありがとうございます。具体的に言うとイスラムのような方々のことを仰せですね?(質問者はうなずく) 「どのような方法で」とのことですが、我々の方法は、どんな時でもたった一つ、教主様に付いていく、というものです。それしかありません。 昨日、祭典のあと本部長と副本部長にもお伝えしていたのですが、私たちは「新しく生まれる」ことを目指しているわけですが、どのような道筋をたどれば新しく生まれられるかというのは私たちには分かりませんね。 でも少なくとも、今、神様からは、「祈って、ヴィーガン食を食べて、歌いなさい」と、そう言われている。これを実践することで神様が我々をどこに連れて行かれるかは分からないけれども、とにかくこの活動を、今、神様から許されている。 ということは、私たちは、この3つの活動を神様から来たものとして受け入れなければならないし、また、この活動に一生懸命取り組むことで、神様が、神様が願われるところにちゃんと私たちを連れて行ってくださると、それを信じることが大切なのかなと思います。 これに関連してまた聖書を引用したいと思いますが、「マルコによる福音書」の第10章23節から27節。 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。 確かに、私たちの目には、イスラムの人が私たちが訴えている救いの福音を受け入れることは不可能なことのように見えますね。しかし、一つはっきりしていることは、今私たちが知らされていることというのは真実であるということ。真理であり、唯一の真実であるということ。 ということは、いつか、世界中のすべての人がこの福音を受け入れる日は来るということです。これは、我々ではできないけれども、神様はなんでもできるんですよ。神様が願われるあり方で、このような方々にも必ず真実をお伝えになる。 では私たち一人ひとりは、具体的には何をさせていただければいいのか。 一人の人間は他の誰かとつながっていますね。そしてこの他の誰かもまた他の誰かとつながっている。というように、人類はすべてつながっている。 つまり私たちは、福音を伝えるにあたって、まずは自分の最も身近にいる方々から始めなければならない、ということです。家族、親戚、隣人、皆様であればアフリカ人の兄弟姉妹。これが私たちの出発点ですね。この取り組みが未来へとつながっていく。 なにかきっかけがあって、イスラムの方々に、ということはあり得ないことではないですが、やはり、まずは神様が許してくださっている方々──家族とか友達とか──から始める。そのような方々の中にもまだまだ私たちの福音を受け入れていない方がたくさんおられるのではないですか? そしてまた、私は、近い将来神様は、イスラム教徒の中から、どなたか一人をご準備になると思いますよ。この一人から、すべてのイスラム教徒に私たちの救いの福音を伝える人物が生まれてくる。必ずそれは起きます。 その人物が登場するのがいつか、私には分かりません。今日かもしれませんよ。明日かもしれない。この人物がイスラムを大改革するのです。 こんな話を聞くと、そんなことは不可能だと思われるかもしれませんが、神様にとって不可能なことはない。 メシア教の救いのメッセージを全人類が受け入れることなんてあり得ないと思うかもしれませんが、望みを持つことですね。 信じられないようなことが、明日とか、明後日とか、明々後日とかにも起きるかもしれませんよ。イスラムの大改革が明日からでも始まるかもしれませんよ。 これが私の答えです(一同拍手)。 質問3 アフォンソ前本部長は泥棒? 今回のアフリカの教団浄化が発生し、アフォンソ前本部長とそれに従う方々は別の道を歩み、世界メシア教に属する御神物も持っていってしまいました。メシア教からの返還要求も無視し、いまだに返してきません。 この状況に鑑み、私たちも、御神物に対しての認識を見つめ直さなければならないのではと思っています。御神物に対してどのような思いを持てばよいかご教示いただけますでしょうか。 マリオ・ジョゼ(教区長 男性 59歳) ご質問ありがとうございます。 まず、私たちの今日までの御神物に対しての認識について確認しておきたいと思います。 教主様が霊界の真実についてご教導くださる前の私たちの御神物に対しての認識というのは、「御神物というのはとても、とても大事なものである」というものでしたね。御神体は神様そのものであり、目に見える聖地は、天国にある聖地そのものである、という強い認識。 しかし、教主様が来られて真実を教えてくださいました。目に見える聖地というのは、私たち一人ひとりの中にある本当の聖地である天国を思い出すために存在しているという真実。大光明の御神体も、私たちの中に神様がおられることを思い出すために存在しているという真実。 これは非常に革命的なことであったと思います。教主様は、この世を主体とした私たちの認識を根底から覆してくださった。 しかし同時に、この教主様のご教導を、非常に都合良く受けとめようとする方々も現れてきました。「目に見える教会は、私たちの中にある目に見えない教会を思い出すために存在しているのなら、じゃあもう目に見える教会は必要無いじゃないか」「御神体も必要無いじゃないか」「聖地も必要無いじゃないか」「目に見えないものが最も大事なら、もう目に見えるものは必要無いじゃないか」と、こういう姿勢ですね。 そうなると、目に見えるものは必要無いんだから、献金もしなくていいじゃないかと、そこまで思われる方々も出てきてしまったわけです。 このような認識が広がってしまっているなと感じた私は、次のようなことを言ったんですね。「もし目に見えないものが最も大切で、それによってこの世のものを軽く見ていいなら、なぜ私の母は毎日毎日リハビリを一生懸命がんばっているのですか?『脳梗塞になって身体にまひがある?でも霊の身体があるから問題無いね!』ということなら、リハビリする必要無いじゃないか」と、そう言いました。 また、「なぜ教主様はこのようなリハビリに努める母を来る日も来る日もサポートされる必要があるのか。霊の身体のほうがもっと大事なら教主様もこんな努力されなくていいじゃないか」と、こうも言いました。 というように、目に見えるものも大切なのは言うまでもないことです。 大切なのは、健全、常識的なバランスなのだろうと思います。教主様の聖言を自分の都合のいいように使うのも違うと思いますし、そこのバランスは気を付けなければならない。 しかし、究極的には、やはり御神物が象徴しているものは神様そのものであられますね。御神物とは、ひと言で言えば神様です。ですので、アフォンソ前本部長たちのグループがしていることは、「神様は私たちのものだ」ということで、神様のものを自分たちのものにしている姿であることは間違いありません。 本来教主様に属する、すなわち神様に属するものを奪っている、そういうことです。そしてこれは、いかにも大問題であるかのように私たちは思いますが、こんなことはなんてことはない、私たち自身も常にしていることです。 息、言葉、服、食べ物、家族──本来これらすべて神様に属するものですが、私たちは、これら、当たり前のように自分たちのものだと思い、自分勝手に使っていませんか? ということは、アフォンソ前本部長たちは、私たちが神様に対して取っている行動を見せてくれているだけのことで、なんら驚くことではありません。普通のことです。今まで私たちがしてきたことですし、また、今でも、していることです。 息。毎回毎回息をするたびに、「ああ、本当は神様に属する息をもって呼吸させていただいています!」と思っていますか?思っていませんね。 ということは、私たち自身が、神様に属するものを当たり前のように盗み、奪っている。毎秒毎秒、奪っている。 だからこそ私たちにはイエス・キリストという存在が重要だという意味でもあります。「常に神様のものを奪っている」という罪を赦していただかないといけない。 なので、相手側がどうというより、私たち自身の認識がちゃんとしたものになれば、もしかしたらこのような御神物も返していただけるのかもしれません。ただ、私は、アフォンソ先生のグループがしていることはいいことだと思ってますよ。 だって、彼らが御神物を奪っていることは、私たちにとって一種の警告のような働きとなっており、それによって、私たちがどこから救われたのかを思い出させてくださっている。つまり、本来神様に属していたものを奪ったという私たちの姿を赦してくださったんだ、ということを確認させていただけるわけですからね。 私はそう思います(一同拍手)。 質問4 医療にかかることの意味は? 祈りによって病気が治るということは、その病気を通して現れていたご先祖様が救われたという意味ですよね? そうだとして、もし医療や薬によって病気が治ったとしたら、医療や薬がご先祖様を救ったということでしょうか。 ジョアキン・チムーコ(副教区長 男性 66歳) ご質問に、「救われた」とか「救った」ということがありますが、お答えさせていただくにあたって、まず、「救いとは何か」、これをはっきりさせなければならないなと思いました。 ご質問者には、「病が治ることが救いだ」という前提があるのではないでしょうか。だからこそ、医学や薬によって病気が治ることがご先祖様の救いにもなり得ると、そう思っておられるのではないでしょうか。 ということで、「救い」とはなんでしょうか?ここ、鍵ですね。 確かに、教主様がご教導くださる前までの私たちの認識というのは、「病気が治ることが救いだ」でしたね。しかし、教主様が何をお説きになっているのかというと、本当の救いとはメシアとして新しく生まれることだ、新しく生まれなければ誰も救いを得ていないと、そういうことではないでしょうか。 では質問しますが、病気が治ったら、その方は救いを得たと言えますか? 明主様が私たちにお示しくださった最後のお姿というのは、メシアとして新しく生まれた、というものです。つまり、永遠の命を獲得された。 実は、「救い」というのは、「死なない」という意味でもあります。ある重篤な病から解放されたと思ったら、次の日に車にはねられて死んでしまうこともあり得ますね。だとしたらこの人は救われていたんですか? 確かに、医学的な観点からは、病が治ればそれは救いとみなされるんでしょう。でも、明主様の観点からは、ただ病が治っただけではなんの意味もありません。救いはなにも発生していない。 明主様は、永遠の命を獲得すること、つまり、メシアとして新しく生まれることが救いであると、それを御身をもって私たちにお示しくださったんです。 ですので、「医学や薬によって病気が治ったとしたら、医学や薬がご先祖様を救ったという意味ですか?」というご質問に対しての答えは、明確な「ノー」です。さらに言えば、「祈りによって病気が治るということは、その病気を通して現れていたご先祖様が救われたという意味ですよね?」というところも、「ノー」であり、ご先祖様が救われた意味にはなりません。 私たちにとっての救いは、病から解放されることではなく、永遠の命を獲得することです。 あと、一つはっきりしておきたいのは、明主様は、100%、医療にかかること、また、薬を使用することは反対であられましたよ。それは間違いない。 いや、人によっては、医学と衛生をごっちゃにされる方もおられますが、そこをごっちゃにしてはいけない。清潔さと衛生環境というのは大変大切なことです。それはまた別の問題として存在します。 しかし私がはっきりさせたいのは、明主様は、医療との戦いのためにそのご生涯を捧げられた。これは間違いない。そして、それによってたくさんの批判も浴びられました。 だけど、明主様ご昇天後、時間が経つにつれ、私たちはこの明主様の御生きざまを忘れてしまった。明主様は、医療によって病が癒え人は救われるのだという認識を終わりにしたいと思って革命を進めていらしたのに、日本にいる信徒も含め、みんなこの明主様の精神を忘れてしまった。 救うのも、癒すのも、神様です。 だからこそ明主様は、脳溢血という病になっても病院に行かれなかったんです。皆様、信じられますか?皆様が、あるいは皆様のご家族のどなたかが脳溢血になって、皆様にとって病院に行かないという選択肢はありますか? 明主様は、半身まひされてたんですよ。それでも病院に行かれなかった。貫く姿勢がはっきりしておられますね。非常にはっきりしておられる。 明主様がこのようにされたのは、神様の力を心底信じておられたからです。この病は絶対にいいことであり、そして、病を通して身体が清まることで、より神様に近づかせていただけると信じておられたからです。 私たちはこの明主様に倣わせていただくべき信徒であるということを忘れてしまっているのではないですか? 確かに、病が治るというのは奇蹟的なことであり、それが救いそのものだと思いたい気持ちは理解させていただけます。でも、救いとは、永遠の命を獲得することです。 そして、実は、医療によって病を治すことは、我々が訴える救いとは真逆を行くものです。なぜなら、それによって、結果、より医療に対して強い信頼を置いてしまうことになりますから。 神様よりも、医療を、より信頼するようになってしまう。だから、私たちの信仰にとっては、医療にかかるのはむしろ危険なことですね。病が治ることを救いだとした場合、私たちは、将来、もしかしたら、神様ではなく、医者や薬を拝むことになってしまうかもしれませんよ。 ご質問について、私はこう思います(一同拍手)。 質問5 無農薬・無肥料のものだけ食べられないけどどうしたらいいのでしょうか? 食の実践といいましても、私たちの周りにあふれている食品の多くは農薬等で汚染されており、また、飲み水も、健康に悪影響を及ぼす非常に危険な有害物質やフッ素が含まれていると言われています。 その現状にあって、がんをはじめとする様々な病を防ぐための解決策はあるのでしょうか。また、今お話ししたように、食が大企業等の支配下にある中にあって、そのような世界に取り込まれず、脱出するためにはどうすればよいのでしょうか。 オクタビオ・マルンゴ(広報部長 男性 42歳) ご質問ありがとうございます。 明主様ご在世中、日本人の多くは薬の力を信じ始めるようになり、また、農薬や肥料もたくさん使い始めるようになりました。 このような状況にあって、明主様は何をされたと思いますか? 明主様は、お一人で立ち上がられたのです。お一人。 現状に対して不満を述べられたのでもなく、あきらめられたのでもなく、誰かが何とかしてくれるだろうと思われたのでもない。「このような状況にあって、無農薬の食べ物を食べるのは困難だ」と愚痴を言われたのでもない。 そうではなく、明主様は、たったお一人で立ち上がられた。ものすごい強いご決意だと思いませんか? 明主様時代人々が使っていた薬や農薬や肥料というのは、おそらく今の時代のものよりも人体に与える悪影響は大きかったと思います。 そのようなものに囲まれている中にあって、明主様はその世界から、あなたのご質問にもあったように、どのように「脱出」されたのか。答えは簡単です。たったお一人で自然農法を始められた。 いや、もしアフリカでは水が問題だと言われるなら、我々で水に関わるプロジェクトを立ち上げようではないですか。きれいな水を供給するということを、メシア教がイニシアチブをもって進めようではありませんか。そういうことをしてはいけないと誰が言ったんですか? 明主様はたったお一人から始められたんですから、我々も新しいことを始めようではないですか。 確かに我々信徒は明主様のこのようなご行動をすばらしいと思っているわけですが、明主様がお一人で自然農法のようなことを始められた時、社会の人々は明主様のことを笑っていたと思いますよ。「あの人は何をやってるんだ」「バカなことしてるな」と笑っていた。 だけど明主様はあきらめましたか?あきらめなかった。明主様は、絶対的な信念をもって自然農法のようなことを始められたのであり、その明主様の精神は今も生きているんですよ。というか、私たちが継承しないといけない。 今私たちに求められているのは、明主様のこの貫く精神、生き方を継承させていただき、どんなに社会からおかしいと言われても、たった一人からでも始めるということではないでしょうか。 もしアンゴラにおいて水が問題であるなら、私たちでさせていただけばいいじゃないですか。アンゴラの人たちにきれいな水を届けるプロジェクトを開始すればいいじゃないですか。 最初は小さい規模で始めたとしても、明主様の御生きざまに倣わせていただき、それを100年、200年と継続したら、将来、アンゴラ国民全体から、そのような私たちの活動が称えられるということもあるかもしれませんよ。 私は、「絶対にやるぞ」という信念が大切だと思いますね。もし行く先が見えていてその道を歩むなら、それは信念とは違います。むしろ、未来がどうなるか分からない、道が見えない、それでも信じてなにかをするならば、それは信念を貫くということかなと思います。 今の段階では、アンゴラのメシア教がアンゴラ中にきれいな水を供給するということが不可能なことのように思うかもしれませんが、もし私たちが信念をもってそのことを始めて、そして、その私たちの姿勢が神様の御心に適うものであれば、神様は、必ずやすばらしい未来を私たちに用意してくださると思います。 ここで私が言う「すばらしい未来」とは、抽象的な話をしているのではなく、農薬や肥料を一切使っていないきれいな食べ物や、有害物質が無いきれいな水を、心置きなくいただけるという、そういう未来のことを言っています。 ですので、やはり明主様の精神を思い出させていただき、まずはこの自然農法の活動をさらに推し進め、そして、もし必要であれば水のプロジェクトもさせていただきたいと思います。 以上です(一同拍手)。 質問6 世界中の青年信徒へのメッセージは? 世界中の青年信徒に対してのメッセージをいただきたいです。 ジャシント・ペレイラ(青年布教員 男性 35歳) 実は、まったく同じ質問を先月の7月ポルトガルにおいて受けまして、それについての私の言葉がFacebookに掲載されていますので、まずそちらをご確認いただきたいと思いますが、基本的に私がなんとお答えしたかというと、「世界中の青年信徒に伝えたいことはたった3つ。伝道、伝道、伝道」ということと、同時に、「自然農法の実践を通して泥にまみれて、まみれて、まみれまくろう」ということもお伝えしました。 私たちは、唯一の真理を知らされている。ですので、一人でも多くの人にこれを伝えていこうと、それが今私が世界中の青年信徒に望んでいることです。 質問7 三代様への仕打ち アフリカの音楽というのは踊りを伴うものが多く、また、郷愁を感じさせるものもあります。一方日本の音楽というのはよりきちっとしていて、優しさがあります。そうなりますと、アフリカの私たちは、教団全体の目標でもある祭典の統一性ということについて逸脱していることにはならないのでしょうか。つまり、アフリカの音楽は、もっと日本の音楽のようなあり方にすべきではないのでしょうか。 ジェロニモ・ボンバ(青年布教員 男性 41歳) 大丈夫です。逸脱していません。 というか、もし皆様がアフリカでされている音楽を日本に持って帰れるなら、私にとってこんなにうれしいことはありません。アフリカのコーラス隊、全員、日本に連れて行きたいくらいです。アンゴラのコーラス・メシアとバンダ・メシアス(子供のコーラス隊)、誘拐してもいいですか?(一同笑声) 日本の信徒が皆様の最高にすばらしい音楽を直接聴く機会が得られるためなら、本当に皆様を誘拐したいです。 皆様の音楽は、本当に、本当に、本当にすば、、、いや、あまりこれを強調しますと、日本で音楽に関わってくださっている私の兄弟姉妹たちに失礼になってしまいますので(一同笑声)、ただ、これは私の夢です。もし教団の財政が無尽蔵にありましたら、間違いなく私は皆様全員を日本にお連れしています。 ただ、昨日カブーソ本部長と話してましたら、バンダ・メシアスは、ひとまず2000人規模を目指すとおっしゃっていたので、その場合、日本に2000人のお子様を送ることになりますので、大量のお金を使うことになりますね(一同笑声)。 冗談はさておき、ご質問に関して私が重要だなと思った点は、ご質問をされた方は、アンゴラで執り行われている祭典やその内容について、教主様からのご承認を得ていないと思い込んでおられるのではないかな、ということ。 でも、それは間違っておりますよ。世界中どこであっても、世界メシア教の祭典というのは教主様のご承認のもとで行われている。そういう認識を私たちは持たないといけないと思います。 私も、そして教主様も、アフリカで皆様がされている音楽に深い敬意を払っております。だからこそ、今皆様がアフリカでされている祭典について、教主様はそれを承認しておられるのだと、そう私は受けとめています。 でも、将来これは変わるかもしれませんよ。アフリカからのご報告をお受けになる中で、たとえば、ここはこうしてくださいと、祭典の内容について変更をご指示になることも十分あり得ると、そう思っておいたほうがいいと思います。 というように、「メシア教のすべての祭典は、世界のどこであっても、例外なく、教主様がご承認になっておられるものなんだ」という認識・前提を持つことが私は非常に大切だと思っています。 なぜ私が今このような話をしているのかというと、私たちは、ややもすると、「教主様というのは天国のこととか心の問題とか、信仰についてのみの責任者なんだ」という思いを持ちがちなのかなと思います。 それこそ、このような具体的な、この世に関わる、アンゴラでの祭典のようなことについては関わっておられないと思いがちです。なぜなら、祭典の具体的な内容ということを思う時、私たちは、これは教主様ではなく私たちに属するものなのだと思ってしまうからです。 でも、本当は、教主様が実際の肉体をもってこの世におられる以上、教主様というのは、具体的なこと、この世的なことについてもお決めになるご存在であられる。 教団浄化が起こる前、日本にいる多くの信徒──特に役員とか理事のような役職を担っていた方々──は、教主様というのは目に見えない世界のことのみに関わる立場なんだ、としたかった。 ですので、教主様が、具体的に、祭典はこういうあり方にしたほうがいいですよ、のようなことを仰せになり始めた時、このような方々は、そのようなことで教主様に口出しされたくないと、そのように感じ、そして教主様を攻撃し始めたわけですね。 この認識というのが間違っている。教主様というのは、目に見えない世界のことについても私たちに伝えてくださるし、また、目に見える世界のことについても決定されるご存在なのです。 教団浄化の時、私は、教主様から直接、次のような話を聞きました。それは、三代様のお話なのですが、三代様の時、世界救世教の役員がよく三代様に言っていたのは、「教主様は応接室でなにもされずゆったりとされていてください。台所の料理は私たちがさせていただきますので」というもの。 これは、一見聞こえはいいですが、要は、教主は現実的に役員が進めることについて口出しするなということですね。台所で起きてること、要は、具体的な教団の方針や運営の邪魔はするな、ということです。 このエピソードは、私たちの教主様に対する偏った認識を示す上で分かりやすいものなのかなと思っていますが、私たちは、教主様も料理をされるのだということを認めなければならない。 そしてこれは、象徴的な意味においてもそうですし、私に至っては、現実的な意味においてもそうです。なぜなら私は、フンジや、また他の食べ物を台所で調理をするのが本当に好きなんですからね(一同拍手)。 最後のまとめ これでご質問にはすべてお答えしましたが、もう少しだけ話したいことがありまして、それは、真の祖霊の慰霊とは何か、供養とは何か、という点です。 つまり、私たちはどのようにして祖霊様を祀ればいいのか──これは大切なことですね。なぜなら、ご先祖様の幸せは我々の幸せなんですから。 日本においては、今に至るまで、どのように祖霊を供養しているのかというと、お墓参りに行くとか、食べ物をお供えするとか、ちゃんとお墓をきれいにしてとか、そういうことだとされています。 でも、祖霊様の慰霊ということを改めて考えると、まず、祖霊様はなぜ私たちのために命をつないでくださったのでしょうか。 私たちのご先祖様は、ほぼ確実に私たちよりももっと大変な時代に生きられて、必死の思いで命をつないでくださった。だからこそ私たちが今存在している。ですね? ご先祖様無くして我等無し。これは、当たり前のことみたいですが、でもまぎれもない事実ですね。 では、なぜそこまで必死になって命をつないでくださったのでしょうか。単に、生き残るためですか?生き残るためだけに、必死になって命をつながれたのでしょうか。ま、確かにその側面もある。 でも、本当は、我々のご先祖様は、我々が神様に出会って、神の幸せに生きることができるよう、命がけで命をつないでくださったんです。神の幸せ、つまり永遠の命に出会うことができるよう、命をつないでくださった。ご本人たちにはその認識は無かったかもしれませんが、そのために命をつないでくださったんです。 私たちが永遠の命に出会うことができるよう、私たちのご先祖様は、死に物狂いでその生涯を過ごされ、私たちに命を残してくださった。 ということは、実は、私たちのご先祖様の願いというのは、私たちが神の真理の喜びに生き、その真理を多くの方々に伝えるということ、これを願っておられる。 つまり、ご先祖様を供養するために最も大切なことは、まず、真理を知ること、そしてその真理を知ったという喜びの中で生きること、また、その真理を多くの人に伝えること──実は、これが私たちのご先祖様が私たちに願っておられることなのです。 考えてもみてください。私たちのご先祖様が幸せではなくて、どうしたら子孫である私たちの人生が幸せになり得るのですか?なり得ません。ごく単純かつ当たり前の論理です。 ご先祖様が幸せでなくて、どうしたら私たち子孫が平和と安らぎに満ちた人生を送れるというのか。 私たちは、教主様のおかげにより、今、全人類の誰もが知りたくてやまない真実を知らされている。世界の人口を考えると、今、真理を知っている私たちの数というのは割合としては極めて小さいですね。でも神様は、私たちを選び、まず私たちに神の真理を教えてくださった。これは大変なことです。 先ほどから「真理」という言葉を連発していますが、真理といったってなにも複雑なことではないんですよ。簡単なことです。それは、「キリスト・イエスはすでに戻ってきた」「キリストの再臨はすでに成し遂げられていて、メシアの魂というのは私たち一人ひとりの中に存在している」、これだけのことです。言葉にすれば極めて簡単なことです。 でも、こんなに簡単なことが、なぜ広まらないんだとか、なぜ受け入れられないのかというと、だって、世の中を見てください。混沌としていませんか?まだまだ良くならなければならない、と思っていませんか? このように思うから、だから、イエス・キリストはもう再臨して私たち一人ひとりの中に──全人類の中に──存在しているとは思いがたいのです。 しかし神様は、この真理を伝えるのに、まず皆様を選ばれました。皆様は人類の中でも先駆けの存在なんですよ。 そして、先駆けの方々の使命は、それを残りの人たちにも伝えることではないのですか?そして、それが最も重要な先祖供養です。 私たちがこの真理を多くの人に伝えるという使命に目覚めることができれば、ようやく私たちのご先祖様も安心してくださるのです。 私たちは、ご先祖様に、「安らかにお休みください」とか言っていますが、そんなことを言っているだけではどうにもなりません。私たちが、命を残してくださったご先祖様が真に願っている私たちの使命に目覚めることができれば、ご先祖様は初めて穏やかになれるのです。 結論的に言えば、私たちは、今までの「先祖供養」の概念のみならずあり方そのものを根本から変えないといけない、ということです。 このような話を今なぜ私が皆様にしているのかといったら、これが皆様の人生の幸せに密接に関係しているからです。 幸せなご先祖様あっての、私たちのこの世での幸せです。今私は、具体的な幸せのことを言っているんですよ。仕事、お金、健康──これらのことです。 だからこそ私たちは、真にご先祖様を慰霊する生き方に目覚めないといけない。 最後に、ブラジルで、これから、多くのおひかりを作ります。 ですので、来年アンゴラに来させていただく時、私は、たくさんのおひかりと共に参りたいと思っています(一同喝采)。 皆様、たくさんの入信者を、お願いします。入信式は、もしかしたら一日では終わらず、二日とか三日かけて行わなければならないかもしれませんね。という期待を胸に、私の今日の話を終わらせていただきます。 ありがとうございました。