皆様こんにちは。 今日は朝方は晴れていましたけれども、今はちょっと曇ってますかね。でも穏やかな天気になりまして、平日の中、ご参拝にいらしてくださいまして、ありがとうございます。 皆様もご存じだと思うんですけれども、私は、先月、11月半ば、ボリビアとブラジルという南米の国に行ってまいりました。ボリビアと聞いても、皆様あまりイメージが湧かないかもしれませんけれども、ボリビアは、南米にあるスペイン語を話す国です。ブラジルのほうは皆様もう少し親しみがあるかもしれません。 そこで祖霊大祭等しました。あちらは、11月2日が「死者の日」みたいなことで、だいたいそれに合わせて11月の頭に祖霊大祭をするのですが、私が行かせていただいた時はそれに近かったので、祖霊大祭をいたしました。その祭典で、私もなんか感動するようなことがあったんですけれども、あちらの信徒の方も喜びを感じていただけたら良かったなと思っております。 でも、私が巡教に行かせていただいて、そういうふうに海外の信徒の皆様と交流して、直接的な心の通い合わせをするのができるのも、また、何か現地の信徒が感動するようなことがあったなら、そういうことが起こるのも、それは、日本にいる皆様のお支えあればこそです。 日本の信徒も世界の信徒も一つとなって歩むことができるのは、日本の信徒の皆様のおかげだなと、今回海外に行きまして、皆様の日々のお支えを本当にありがたいことだなと改めて思いました。ありがとうございます。 今回の巡教で感じたことがありまして、それは後ほど少しお話ししますね。 今日は新穀感謝祭ですね。なので、稲穂がご神前のど真ん中にお供えされていますね(稲穂のお供え物を示される)。でも、去年までは確かこの辺だったんですね(去年のお供えの位置を示される。右上の端)、このかぼちゃのところ(一同笑声)。いや、カリフラワーのところだったかな?(一同笑声)かぼちゃのほうだったと思います、多分。 だけど今年、新穀感謝祭を迎えるにあたって、新穀感謝祭ということはやはり新しい穀物に感謝しているわけですから、端ではなくて、真ん中にあったほうがいいんじゃないかなと思いまして、真ん中に持ってきました。真ん中にあるのが稲穂で、稲穂の手前のものが信徒の皆様が奉献してくださったお米ですね。それぞれの農家さんのお米を、一つひとつ祭儀室の方が小さな袋に包んでくださった。 というように、稲穂は真ん中にすべきじゃないかというふうに思ったんですけれども、真ん中ですと、こうして真ん中で私が話していますと、稲穂をずっと隠して見えなくしてしまうので本当にいいんだろうか(一同笑声)、去年までのようにかぼちゃの位置にあったほうが目立つんじゃないか(一同笑声)、という説もあったんですけれども、でも、やはり新穀感謝祭ですから、真ん中に来るべきですよね。 あとは、ご神前と、ご神前横に置かせていただいているお野菜とかも全部、メシア教の自然農法農家の方が捧げてくださった非常に大切な物です。 新穀感謝祭というくらいですから、もちろん中心は穀物ですね。穀物。で、皆様ご存じかどうか分かりませんけれども、メシア教は「健康経営」という考えのもと、専従者、一般的に言えば従業員ですね、の方々に菜食を勧めておられる。 菜食というと、今世の中では、ヴィーガン食とかヴィーガンという言葉がありますけれども、我々は日本人ですからね―あ、でも日本人ではない方もいらっしゃいますね(在日信徒の席を示される・一同笑声)―でも、ヴィーガン食というと、なんか海外で考えられた大豆ミートとかそういうことになってしまうんですけれども、明主様も、ご自身のご家族、またお子様には、お米を主体にした食を実践しておられたので、やはり日本人の方は、菜食といっても、西洋のヴィーガン食、大豆ミートというようなことではなくて、日本には伝統的に、一汁一菜のように、そういう基本的な食事がありますので、やはりそういう食を大切にしていただきたいなと思います。 もちろん、たまには、と言いますか、私もブラジルへ行った時は、「日本人だからお米しか食べない」なんていうことではなくて、現地のものをいろいろいただきましたし、当然そういう機会とか、また、日本においてもなにかハレの日とか、そういう時にはいろいろいただくことはあってもいいとは思いますが、菜食と聞いて、すぐ西洋のヴィーガン食をイメージするより、やはり日本人の方は、お米と味噌汁とか、そういうものを基本とするということだと思いますし、今言いましたように、何より明主様もそうやってお子様をお育てになりましたし、そして、そういう日本的な菜食によって信徒のいろんな病気も治しておられますのでね、そういうことを心に置いていただきたいなと思います。 というように、身土不二という考え方がありますように、日本人の方はそういう食を大切にしていただいて、また、外国の方は、その国その国にある基本的な食事(基本的な穀物の意)を大切にしていただきたいなと思います。 で、私がこの食の話をすると、耳が痛い(一同笑声)とか、聞きたくないとか、そういう思いを持たれる方もあるのかなと思うんですけれども、まず我々が受けとめなければならないのは、もう、明主様が「ミロクの世は菜食だ」と仰せになってしまったんですね。 明主様が仰せになってしまった(真明様がご神影のほうに向かれながら言われ、一同笑声)。というか、私たちのために仰せくださった、ということですね。 そしてもちろん、食のことをお話ししているのは私ですから、たとえば、「お受けしたくない」というような負の思いが私のもとに集まってくるというのは私は当然覚悟しておりますよ。だって私の責任において述べている言葉ですのでね―もちろん、最終的な責任は教主様の中にいらっしゃる明主様、神様が取ってくださるわけですけれども。 というように、私としては、この食のことを話せば、これは現実的なことですから、なんで真明様はああいうことを言うのかということで、私が嫌われるということもあると、それも覚悟の上です。 でも、私が、このように、明主様が仰せの食のお話をすることにより、もし、ほんの一人の信徒でも、もし、ほんの数人の信徒でも、なにか「あっ」と思われて、実践されて、そして、病気がよくなったとか、より健康になったとか、あるいはそれこそガンが治ってしまったとか、もしそういうことがたった一人の信徒の方にでも起こりうる可能性があるのだとしたら、私は喜んでこの嫌われ役を引き受けたいなと、そう思います。 また、一つ忘れてはならないのは、「ミロクの世は菜食だ」というのは、実際明主様が仰せになった聖言である以上、私たちは、この聖言からは一生逃れられないんですよ。 どれだけ逃げても、この世にいる限り、明主様が「ミロクの世は菜食だ」と仰せになったことはずっと付いて回る。 そしてね、もちろん、信徒の皆様の中に、肉とか魚に関わる職種の方がいらっしゃることも分かります。いろんな思いを持たれている方がいらっしゃるのも分かります。それらのことは全部分かります。 でも、逆に考えれば、もし私が、「明主様は、将来人類は菜食になるべきだと言われている。でも私は信徒から嫌われたくないから、明主様の聖言は無視しよう」という姿勢だったらどうなのでしょうか。 明主様の聖言は確かにたくさんありますけれども、「ミロクの世は菜食だ」ということ、つまり、菜食を実践するということ、これはなんとか実行させていただけることの一つですね。他には、たとえば、メシア教はオリンピックにすごいスポーツ選手をたくさん輩出するという聖言がありますが、私個人のことで言えば、今の年齢からオリンピックに出るのは難しそうだな(一同笑声)ということはありますね。実践が難しい。 でも、現実に実践できることについて明主様が仰せになっているにもかかわらず、私が、「受け入れられない信徒もあるだろう」「負の思いもいろいろ私に来るだろう」というようなことで、私が信徒の方から好かれたい思いを優先して、そして、そのために明主様の聖言を無視するのだとしたら、私は一体どういう存在なんだろうかと、そう思います。 私の生活は、まさに文字通り信徒の皆様によって支えていただいているわけなんですけれども、そのように皆様が支えてくださっているのは、なにも、私が人から好かれることのためではない、ですよね。 皆様は、「明主様のご神業のために」「救いを多くの人に分け与えるために」ということを願い献金等してくださっている。それにもかかわらず、もし私が、「明主様はミロクの世は菜食だとはっきり仰せになっている。でも、これを表に出すと私は嫌われてしまうので、この聖言は見て見ぬふりしよう」と言って、明主様の聖言から逃げたとしたら、私は一体なにをしているのだろうか、明主様から見て私はどういう存在になってしまうのだろうか、ということを思うわけです。 ですので、明主様が仰せになっているにもかかわらず、「受け入れがたい」と思われる方がいらっしゃるのは理解しています。 ただ、私のことで言えば、私は、皆様に支えられて、もう明主様に自分のこの肉と心は捧げたわけです。だから、確かに何をするにも自分の都合は常に入ってきますけれども、でも、自分の願いとしては、自分の都合ではなく、明主様の都合を優先した人生を歩みたいわけですね。 それに、信仰的な意味で言えば、我々は、入信した時、いったんそれまでの自分を明主様にお捧げして、死んでるんですよ。入信した時、自分の肉体はいったん明主様にお捧げしたんですから、それから先は自分の都合を優先しては生きていけないんですよ。もうその時に本当はいったん死んだんですから、私たちは。そして、「これからは明主様のために生きます」ということを誓った。 明主様も、メシアとして新しく生まれる、自分は生まれたての赤ん坊だと仰せになったではないですか。ということは、文字通りそれまでの明主様は死なれている。 だから本当は、我々全員、この自分の身体はいったん死んだんです。というか、本当は、二千年前に、みな、イエスと共に死んだんです。そして、それからはまったく新しい命に生きることになった。そして神様は、もう私たちに永遠の命を保証しておられる。 だとしたら、もし明主様が「ミロクの世は菜食だ」と仰せになったのだとしたら、私にとっては、「はい、分かりました」だけですよ。だってもうこの身体は明主様に捧げてるわけですからね、私は。 自分がまだ生きていると思ってれば、自分の都合が入ってきますよ。自分はまだ死んでいないのであれば、自分の都合、事情が全部入ってきますよ。でも、入信した時に、それまでの自分を殺して明主様のために生きると決めた以上、もう我々の身体は明主様のものですよ、本当はね。 そして神様は、もう永遠の命は保証すると仰せなんです。 もしこの世の命を主体とすれば、自分の家族がどうだ、これがこうだ、あれがこうだ、栄養がどうだとか、そういう思いに満たされます、自分の心はね。 でも僕は、たとえば菜食をしたことにより自分の寿命が20年、30年縮んだとしても、僕は明主様のために生きたいですね。だって私たちにとっては、明主様に結ばれていることが永遠の命につながる命綱なんですからね。 目に見えることだから余計難しいということだと思うんですけれども、でも、明主様が、「ミロクの世には全人類は菜食になる」と仰せになって、もう70年以上経っている。そして、「ミロクの世」と言っても、それは人間一人ひとりによって構成された世界です。だから私は、もし皆様や、また、人類80億の方々がこの菜食の明主様の聖言を否定されても、私は明主様に、「明主様、私はミロクの世の住民の最初の一人にならせていただきたいのです」と申し上げたいと、そう思います。 確かに私たちにはいろんな事情がありますね。でも、そのような事情は、100年先も200年先も300年先もありますよ。世の中の常識と明主様の常識が完全に一致するまでずっと待たなきゃいけないんだとしたら、ずっとただ待つことになりますよ。だとしたら「信仰」の意味が無いじゃないですか。 もうね、明主様は仰せになってしまったんです。そして、この世にいる限り明主様の聖言からは逃げられない。10年後、20年後になれば明主様の聖言は無くなるんですか?無くならないですよ。だって明主様の聖言は永遠不滅のものですからね。 だから、メシア教は専従者の方に完全菜食を推奨しているわけですけれども、それを受け入れるのが難しい専従者の方や、また、実践したいけれども難しいという信徒の方がいらしたとしたら、今私が話したようなことを少し考えられたらなというふうに思います。 巡教の時の話に少し戻りたいんですけれども、ブラジルに行った時にこういうことがあったんですね。 私は、ブラジルでの祭典において、次のような話をしました。 明主様は、もう光は出た、そして戸を開けなさいと仰せである。だけど、天国に行って光を浴びるためには、「身も魂も神の光に浄められ天国に住む吾となりける」という明主様の御歌があるように、明主様ご自身も、身も魂も浄められて天国に行かれた。そして、浄められるということは宗教的には罪しかない。ということは、もし我々が明主様のように天国に住みたいのだとしたら、最終的な鍵は、我々の罪が浄められるかどうかだ。そのために贖い主、贖罪主という存在がいる。その、罪を贖った方、つまりイエスを受け入れなきゃいけない。受け入れたら、次のステップはキリストの再臨。でも、キリストの再臨は待つどころではなくて、もう来ている。人類一人ひとりにもう来ている。待つ時代はもう終わった。 というような話をしました。いや、ポルトガル語ですからこんな日本語みたいにスムーズには話せていませんけれども(一同笑声)、おおむね、こういうことを伝えたんですね。 そしたら、祭典の次の日に、私の警護や私の車の運転をしている人たちが話している内容を知ることがあったんです。ブラジルということで、セキュリティー面から、警護や運転手を雇っていたんですが、その人たちは未信徒です。未信徒だけどキリスト教徒。男性ですね。そして、祭典の場でも警護等をしながら私の話を聞かれていた。 で、その方たちが言っていたのは、今まで警護でいろんな宗教団体のところに行ってきたけれども、こんなに感動したことはなかった、とか、自分の住んでいるところの近くにも世界メシア教の教会はありますか?とか、そういうことを言われていた。 というように、何か彼らに非常に印象を残すようなことになったんですね。 これは何も、私の話がうまくいったからだという自慢のためにこの話をしているのではなくて(一同笑声)、なぜこの話をしているのかというと、このエピソードは、要は、我々メシア教に託されている使命の大きさの現れじゃないかと思ったんです、私は。 通常キリスト教徒の方々は善悪の世界で生きてますね。キリストはまだ戻ってきていない。だからいいことをしよう。いいことをして、イエス・キリストが雲から降りてきて最後の審判を下す時、自分は善人の側として天国に救われたい、ということで、いいことしなさい、悪いことしちゃだめだ―キリスト教徒はこの世界で生きている。 だけど本当は、キリスト教徒も、心の中では、メシア教が説いている救いを求めているんじゃないかと、そんなことを思いました。 そしてそれは、「もう来た」という救いですね。イエスはもうあなたの中に再臨されてるじゃないか。善だ悪だも何も、我々は全員悪人だった。神様はその全人類を赦して救ってくださったじゃないか、というメシア教に託されている本当の救いを、キリスト教徒の方々は、本当は心の中で求めてやまないんじゃないか、だから今回キリスト教徒のその警備、警護されてた方が反応されたんじゃないかなと、そんなことを思いました。 だって我々は、「キリスト教の完成版」なんですよ。キリスト教の完成版。これは何も僕が作った言葉ではなくて、以前、樋口先生(樋口喜代子先生。明主様ご在世当時、一番初めに海外布教をされた方)がアメリカ布教に行かれまして、最初ハワイに行かれて、それからロサンゼルスに行かれるんですけれども、その時にロスで取材を受けられたんですね。 その時に樋口先生がメシア教をどうその新聞社に伝えたかというと、「神仏を合体させ、キリスト教の完成版だ」、それが世界メシア教だとおっしゃった(『羅府新報』1953年8月8日掲載。同年9月9日発行の『栄光』225号にも『羅府新報』の記事が掲載された)。 世界メシア教である我々は「キリスト教の完成版」なんですよ。 そしてこれは昭和28年のことで、明主様ご在世中ですから、樋口先生が勝手にそんな方針を打ち出しているはずはない。ということは、当然明主様もその打ち出しについては承知しておられますよ。明主様ご自身が、「こういうふうに言いなさい」と仰せになってた可能性すらありますよ。 というか、明主様が仰せになっていないことを樋口先生がおっしゃるのはおかしいんですから、明主様もきっとそういうことをおっしゃっていたし、また信徒もそういう認識だったんでしょう、一般的に。 「神仏を合体させ」。これは、簡単に言えば、日本で生まれた、ということですね。だって日本は、神道と仏教がある国ですからね。だから、樋口先生が言われたのは、日本から生まれたキリスト教を完成させる宗教、これが世界メシア教だと、そういうことで明主様の宗教を世に宣伝された。 明主様ご在世中は我々はそういう宗教だったんですよ。ところが、世界救世(きゅうせい)教時代の我々が、もし誰かから「あなたの宗教を説明してください」と言われたとして、その時、「私たちはキリスト教の完成版です」と言えた方、ほとんどいらっしゃらないんじゃないですか。 だから、それくらい明主様時代の世界メシア教というものと、その後の変遷によって作り上げられた私たちが知っている世界救世(きゅうせい)教とか、明主様像というのは、本当の明主様とは開きが大き過ぎますよ。 キリスト教の完成版というのは大変な言葉ですね。キリスト教を完成させるというんですから、「本当のキリスト教」という意味でもありますね。真のキリスト教。本当のキリスト教。また、キリスト教の完成版ということは、今のキリスト教がまだ完成されてないということが前提でもありますね。 「神仏を合体させ、キリスト教の完成版だ」というのが世界メシア教であって、明主様ご在世当時我々はそういう宗団だったんです。そう考えると、この数年の間教主様に対してなされたいろんな批判のおかしさと言いますか、あれは一体どういうことだったんだろう、どれだけ的外れだったんだろうと思いますね。 そして明主様は、実際、最晩年にメシアとして新しく生まれられるということによって、キリスト教を完成してくださったじゃないですか。 それまでのキリスト教は、「イエス・キリストただ一人がメシアだ」、だったわけです。「イエスの贖いの血汐をお受けします」、がキリスト教だったんです。でも、神様のみ業は、それで完成ということではなかったんですね、本当は。 イエスだけではなくて、あなた方の中にもメシアというすごい魂があるんだ、キリストの再臨という、キリスト教で最も待ち焦がれられている、憧れられているそのことが、我々一人ひとりもお受けしていることなんだというこの点ですね。 というように明主様は、最後、キリスト教を完成した型を見せてご昇天になってくださった。 今日の祭典でも、「ヨハネによる福音書」を拝聴しまして(第5章19節~29節、第14章9節~17節)、「死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る」「今すでにきている」とありましたね。墓の中にいる者たちが神の子の声を聞いて、善を行った者は甦って生命を受けると、そうありましたね。 でも、聖書の他の箇所でも記されていますように、善を行った者は一人もいないんですよ、本当はね。 そもそも明主様も、ご自分のことを罪人だと仰せのように(「罪深き此身も尤め給はずて大いなる幸豊に恵まふ」「罪多き我身我家を赦しませ大慈大悲の大御心に」)、善を行う者は一人もいないんです。だから、この、「善をおこなった」という部分は我々には関係無い話です。次に、悪を行った者は、裁きを受けるために甦ると、そう記されています。 「死んだ人たち」とか、「墓の中にいる者たち」が甦るとあるけれども、じゃあ我々ね、これから墓地みたいなところに行って、そこでずーっとお墓を眺めて(一同笑声)、いつ甦ってくるかなとすることではないんですよ(一同笑声)。 ここ、聖書に、悪を行った者が裁きを受けるために甦って、それぞれ出てくる時が来るであろうとありますね。 だから出てきてるじゃないですか。いや、現実のお墓の場所で甦る、ということではないですよ。ここ、キリスト教の方々はどう捉えてらっしゃるのか分からないですけれども、まず、死んだ人とか墓の中にいる者ということは、我々のご先祖様だということですね。死んだ人とかお墓の中にいるのは我々のご先祖様以外あり得ないじゃないですか。だからそれが出てきてるじゃないですか。どこにかといったら、それは、我々の心の中にです。今、出てきてるじゃないですか。だからそれは、裁きを受けるために甦ってるんです、私たちの心の中に。 しかも、聖書が書かれた時代に、神の子の声を聞く時がすでにもう来ている、というんですから、もう二千年前からですよ。二千年前から、もう出てきているということです。 そして今も出てきてるじゃないですか。私たちの心の中に、嫉妬や、妬みや、人を嫌いたい思いとか、怒りとか、不安、憂鬱、全部湧いてきてるじゃないですか。お墓を見てたってどうにもならないんですよ(一同笑声)。いや本当に。 で、悪を行った者は裁きを受けるために甦る、とありますが、ここで言う「裁き」とはなんですかということですよね。裁きを告げる神の子の声があるんだとありますが、それはどんな裁きなのか。聖書には具体的にはどんな裁きか記されていませんね。 普通、善を行った者は生命を受けるために甦って、悪を行った者は裁きを受けるために甦ると聞くと、じゃあ善を行った者は助かって、悪を行った者は滅びていくんだ、悪人には厳しい裁きが告げられて、そして滅びていくんだと、そういうことをイメージしますね。 でもね、その裁きの声とは、「赦す」、ですよ。ここで言う裁きは、赦す、ですよ。だって神様がわざわざ悪を行った者を甦らせてるんですよ。死んだままにしておられない。裁きを受けるために甦らせたのは誰なんですか?神様ですよ。神様が、悪を行ってお墓の中にいるような人たちである我々のご先祖様を甦らせてくださってるんです、私たちの中で。 今、一瞬一瞬、甦らせてくださっている。それは非常にささいなことに現れますね。あの人どうしてこういうことをしてるんだろうとか、そういう思いが常に湧いてきてるじゃないですか。だからそれは、私たちのご先祖様が出てきてるんです、裁きを受けるために。 もしそうだとして、わざわざ甦ってきたのに、裁きが、「お前は赦さない」だったらちょっとかわいそうじゃないですか(一同笑声)。お墓の中にいる者たちに対して、神様が、「お前たち甦りなさい」とおっしゃった。それを聞いて、お墓の中にいる者たちが、「え?甦っていいんですか?」「神様、なんでしょう」と言ったら、甦ったその瞬間に「赦さない」(一同笑声)ということで、またすぐお墓の中に戻るんですか(一同笑声)。 ということは、裁きを告げ知らすために甦らせるということは、「あなた方は赦すよ」ということを告げ知らすためですよ。 今お話ししているところの少し手前、聖書、「聞く人は生きるであろう」と書いてありますね。神の子の声を聞く人は生きるであろうと、そうありますね。ということは、我々のご先祖様は、たとえ死んでお墓の中に入っていたとしても、神様はその方々を甦らせてくださって、そして、「赦す」という裁きを下してくださる。そして、その裁きを聞く人は生きる、ということですね。 だから我々は、ご先祖様に対して、「生きなさい」と、そう言わせていただけるということです。 我々のご先祖様は、この世的な言い方としてはもう死んでしまったんだけれども、でも、神様が我々の中にそのような方々を甦らせてくださった。だからそれは、裁きを告げ知らすためです。「赦す」という裁きを告げ知らすためです。 我々の心の中にいろんな思いが湧いてくる。これが自分の思いだと思うけれども、ところがどっこいそれは自分の思いではなく、自分の中にいらっしゃるご先祖様の思いであって、その方々が裁きを受けるために甦ってくださっている、その思いです。 だから我々は、我々の心の中に湧いてくる思いに対して裁きを告げ知らせなければならない。「あなた方は赦されたんですよ。だから生きなさい」「神の裁きを聞いて生きなさい」と、そう言わせていただかないといけない。 しかも、それだけではなくて、我々は、我々のご先祖様も含めて本来は祝福を分け与える存在ですね。 以前の我々は、自分の好きなように生きて、神に背いて罪を犯した。だけど神様は、もうそのような我々の姿を赦してくださった。もう赦したんだから、生きなさい、祝福を分け与える立場になりなさいと、そう仰せくださっている。 だから、この神様の業が今私たちに託されているんです。 我々は、ご先祖様あっての私たちですね。それは、観念的にだけではなくて、我々の遺伝子の中にいろんなご先祖様がいらっしゃる。それを神様が甦らせてくださっている。「そこまで甦らせなくていいんじゃないか」(一同笑声)というぐらい甦らせてくださって、我々の心に怒りとか嫉妬とか不安とか、いろんな思いを湧かせてくださっている。 我々は、そっちの湧いてきている思いを、今自分はこういう思いを持っている、ということでその思いを自分の主体と捉えてしまうんだけれども、本当は、その思いは我々の思いではなく、悪を行った者が裁きを受けるために甦ってきてるから感じている思いなんです。そしてこのご先祖様は、もう神の子の声を通して裁きを聞く時が来ていると、そういうことですね。 だから、私たちが言わせていただくことは、「メシアの御名にあってあなた方は赦されているんですよ」「生きた者になりなさい」「これからは祝福を分け与える者になりなさい」ということ。そうさせていただければ、私たち自身はものすごく活性化しますよ、だって私たちはご先祖様でできてるんですから。 だからイエスも、私を信じる者は私と同じわざをするであろう。でもそれよりももっと大きいわざをするであろうと言ったとありましたね、今日の聖書に。 イエスは、確かに赦し主の型は遺されたけれども、この地上においては、贖いの業にお仕えになるために、自分の血を捧げるということで、30歳ちょっとでこの世の生涯を閉じました。 でも我々は、赦し主の権威を帯びて赦すという、贖いよりももっと大きな業にお仕えできるんです。でもそれは、イエスの贖いを受け入れればですよ。だってイエスの贖いの力によってすべてが今甦ってきてるんですから。 そして、今はもう「赦す」という時代に入っている。イエスの前は、ずっと、罪を贖いなさい、贖いなさい、贖いなさいだった。でも、そんな中、イエスが出ました。で、イエスの後は、もうイエスが人類の罪を贖ったんだから、今度はあなた方は赦す立場になりなさいという、今はそういうまったく新しい段階に入ってるんです。 なにか、明主様という偉い人だけだとか、教主様という偉い存在だけだとかではなくて、皆様お一人おひとりが、聖書に「大きいわざ」と書かれていることにお仕えすることができる。 それを聞いて我々は、自分では無理、自分ではなかなかそんなの難しいと思うかもしれないけれども、我々一人ひとり、「真理の御霊」を持たされているんですよ。だってそう聖書に書いてありましたでしょ。 しかも、この真理の御霊は、「別の助け主」であると書かれていますね。ということは、イエスとは別の存在ですよ。もし私たちがイエスを愛するならば、神様は、私たちにその別の助け主を送ってくださる。 少なくとも私たちの中に助け主がいるということはありがたいことですね。我々、常に何か困ることが起きるわけですが、私たちの中には助け主がいらっしゃる、お前を助けるぞという方がいらっしゃる、だから心配しなくていいわけです。 そして、その助け主は真理の御霊である、ということですね。 この真理の御霊は何かと言ったら、実はそれは、今我々がずっと教えていただいている「メシアの魂」ですよ、この真理の御霊はね。 ヘブライ語では「メシャハ」という音、日本語では「メシア」と呼ばれている真理の御霊、助け主、これを神様は我々一人ひとりに授けてくださっている。 世はそれを見ようともしない、知ろうともしない。でもあなたがたは知ってるじゃないか、だってあなたがたのうちにあるんだからと、そう書いてありましたね、聖書には。 だから、ただ、「イエス・キリストを贖い主としてお受けします」「イエス・キリストはすごい存在です」、では、その「別の助け主」をお受けするところには永遠にたどり着けませんよ。別の助け主というんですから、イエスとは別の存在です。イエスとは別の魂をいただくからイエスとも兄弟姉妹となり得るんです。イエス・キリストとも明主様とも兄弟姉妹となり得るんです。イエスも明主様も我々も、全員、神様の真理の御霊をお受けできるんです。 また、その真理の御霊のことについて書かれている少し前に、願いごとについての記述がございましたね。「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう」とあります。 明主様も、今日の御歌で、「奇びなり噫奇びなり願事の正しかりせば叶へますなり」と仰せですね。 イエスは、私の名によって願うことならなんでも叶えてあげようと仰せで、明主様も、願いごとが正しければ叶いますよと仰せですね。 正しい願いごとと言われてしまうとなんかいきなりハードルが上がってしまいますね(一同笑声)。「なんでも叶えてあげよう」と言われて、「ああ、そうですか!」(一同笑声)と喜んでたのに、今度は、「正しい願いごとじゃなきゃ叶えない」と言われてしまって、「いや、正しい願いごとってなんだろう」となってしまう。 でも、我々が願っていることは、度合いはいろいろあっても、それは一つだと思いますよ。それは何かと言ったら、簡単に言えば、「幸せになりたい」ということです。我々は幸せを求めているわけですからね。一人ひとりにとっての「幸せ」の度合いは違うけれども、でも、誰もが幸せになりたいと思ってますね。 というように、本当は、昔、我々は、神様に、「幸せになりたいです」と願ったんです。だって願いごとと言ったらそれしかないんですから。いろんな願いごとがあったとしても、集約すると、結局我々が願っているのは、「私は幸せになりたいです」、ですからね。 その私たちの願いを神様は聞かれて、「おお、そうか」「幸せになりたいのか」ということで、「じゃあ、あなたに永遠の幸せを与えてあげよう」とおっしゃってくださって、もう与えてくださったんです、幸せを。だから、私たちの願いごとはすでに叶えられたんです、本当はね。 そして今、神様は、「あなた方はもう幸せになったんだから、今度はその幸を人に分け与えなさい」と仰せなんです。神様も、明主様も、イエスも、私たちに対して、「幸せを人に分け与えなさい」ということを願っておられる。 だからそれは、具体的には、我々の心の中に湧いてくるご先祖様のいろんな思いについても当然そう告げ知らさなければならないし、また、世の中で日々することも、これからタクシーに乗りますということなら、「このタクシーの運転手さんが幸せになるようお使いいただきたいな」とか、「今日何々さんと会いますので何々さんが幸せになるようにお使いください」とか、役所になんかの手続きで行くんだとしたら、「この場所のみなが幸せになるように」と、そういうことを思っていいんですから、我々は。そういう存在なんですから、我々は。 我々はもう救われて、幸せを得た。永遠の幸せとは何かを知ったし(そしてそれは永遠の命です)、真理の御霊ももう受け取った。 今日の明主様の聖言で、明主様は、自分は地獄に行っても人が天国に救われればオレはそれでいい旨の聖言がありましたね(「御講話」1953年6月27日)。 なぜ明主様がここまで仰せになることができたのかというと、それは、自分のことは絶対神様が面倒を見てくださるという圧倒的確信がおありだったから、だからです。 自分は絶対に神様がなんとかしてくださる、という、まさにそこが中途半端だと、結局人生でいろいろ起きることに対して、「自分はまだこれがほしい、あれがほしい、これが足りない、あれが足りない」の人生になってしまう。まだ自分は幸せを受けていないと思うと、もうそういう人生になりますよ。 そういうことだと、結局、明主様も中有界と仰せのように、地獄と天国の間の、中途半端なところでずっと人生行っちゃいますよと、そう警告しておられますね、明主様は。 明主様が、たとえ自分が地獄に行っても人を天国に救いたい、という時の「地獄」の意味は、それは、自分の人生でいろいろ巻き起こることについてです、これは。 でもそれを、自分は地獄に行きたくないとして、「自分はこれは嫌だ。こんな思いはしたくない。こんな御用はいただきたくない」、そして、「もっともっと自分の願いが叶えられて、自分はいい思いだけを被りたい」と言っていたら、絶対天国には行けないですよ。 でも、実は、我々は、我々が望むと望まないにかかわらず、もう、「分け与えなさい。祝福を分け与えなさい」という段階に使われてしまってるんです。 だから病気もするし、隣人関係もいろいろあるし、日々いろんなことが巻き起こる。なぜ人生にいろいろ起きるのか。それは、神様が、「お前はまだ修行が足りない。まだだ、まだだ」とおっしゃっているのではなくて、そのまったく逆の、「あなたは、被る側ではなく祝福を分け与える側じゃないか」と仰せなんです。だからいろいろ巻き起こって、いろいろな思いが湧き起こってくる。その思いに対して、「赦す」「生きたものになりなさい」ということを告げ知らして、祝福を分け与える側になりなさいということを神様・明主様は願っておられる。 だから我々は、これからずっと、明主様が、天国の下にあるという中有界にいて、一生天国に入れないまま生きていくのか、それとももう自分は天国に入ったと信じて、そこからいろんな境遇のところに遣わされて、遣わされたところで祝福を分け与える側の立場として自分の人生を生きていくのか、それを決めないといけない。 ずっと中有界で留まってたってしょうがないじゃないですか。「もっとお金がほしい、これもほしい、あれが足りない」ということを思い続ける、そんなみじめな人生になっちゃいますよ。 だから、そうではなくて、実は「真理」というものが存在していて、これがメシア教の皆様に託されているんです。 だって、聖書にあるように、死んだ人たちが本当に甦ることができて、生きる存在になれたらそれは大変なことじゃないですか。普通、死んだら一巻の終わりだと思っている。でも、一度は死んで墓の中に入っていた人たちが、裁きを受けるために、今、我々の中で甦っておられる。 だから、それ、ずっとほっといたら、「またじゃあお墓に戻ろうか」なんて言ってね(一同笑声)、お墓に戻っちゃって、それでまたずっと自分の中に死人を抱えるんじゃなくて、少なくとも私たちは、自分の中に湧いてくる思いに対して、それこそ一日一回でも、とか、一日二回、朝夕拝の時にでも、今日話したようなことを告げ知らせていただく。 というのは、いろんな思いが湧いている時にすぐできたらいいですけれども、怒りが強い時とか嫉妬の思いが強い時に、その思いに対して、「あなた方は赦されていますよ」と言うのはなかなか難しいことですね。だから、少なくとも一日一回とか、朝夕拝の時とか、寝る前とか、朝起きた時とか、そういう時に、「あ、まだいます?お墓の中にまだ戻ってませんよね?」(一同笑声)ということで、今日一日私の中に湧いてきた思いに告げ知らせていただく。 そういう、赦しを分け与えるとか、幸を分け与えるということが、「キリスト教の完成版」と言われるメシア教の信徒に託されているものすごい業なんです。 今日拝聴した聖書の引用箇所には入っていませんでしたが、今日の引用箇所のすぐあとに、「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」(「ヨハネによる福音書」第14章18節)と書かれています。「あなたがたを捨てて孤児とはしない」。 我々、自分が孤児だと思っていれば、「ありがとうございます」と思うけれども、そう思ってなければ、急に、「孤児とはしない」と言われても、どう受けとめていいか分からないんじゃないですか。だって我々、自分のことを孤児だと思ってないんじゃないですか。自分には親もいて、こういう家庭があって、日本生まれで、あそこが自分の出身地ですと、そういうものをがっちり持ってる。 でも私たちは、本当は、神様、明主様、イエス様から捨てられたら孤児なんですよ。「自分は日本人だ。自分の両親はこういう名前だ。だから孤児じゃない」と思っていても、本当は、今日話した真理の御霊から離れたら我々は孤児なんですよ。親もいなくて、この世をたださまよい歩かなければいけない、そういう孤児という存在なんです。 実際、世の中には、孤児の方もいらっしゃいますね。孤児院とかもありますね。だからそれは、もしかして私たちが、「私は孤児ではない」と思っているが故に、そういうような孤児の方とかを生み出さなければいけない社会状況を作り出してしまっているかもしれませんよ。 もし私たちが、「自分は神様がいなければ孤児だったんですね。神様、あなたが私の本当の親です。救っていただいたんですね」と言って、そして、世の中の孤児院とか孤児の方々を見ても、「あっ、これは私が孤児だったところから救っていただいたことを神様が私に教えてくださろうとしてるんですね」ということを思えたら、もしかしたら、世の中から孤児の方がいなくなるかもしれませんよ。神様が、いろんな社会的な状況をだんだん良くしてくださって、そういうことも起こりうるかもしれない。 でも我々が「自分には親がいる、この世で生きてる、自分の力で生きてる」という自負心を持っているが故に、神様は、「いや、あなた方は本当は孤児じゃないか」ということを我々に教えなきゃいけなくなってしまって、それがために、世の中の孤児みたいな方ができているのかもしれないですよ。 でも本当は、我々は孤児だったんです。親がいると思っていたけれども、本当の親である神様から離れて全人類孤児のような存在だったんです。 しかも我々は、孤児であることに満足してたんです、だってもう親もいらなかったんですから。親がいないほうが都合が良かったんですから。 だけど神様が、我々になんの手柄があったわけでもなく、一方的に、「私の家に帰ってきなさい」「私があなたの本当のお父さんなんだよ」「もうあなた方を捨てて孤児とはしないんだぞ」と、そうおっしゃってくださっている。これが神様の愛です。 だから、「神様、あなたが私の本当の親だったんですね」ということになれば、全人類みな、真理の御霊であるメシアの魂を受けた兄弟姉妹となれる。そしたらもう誰も孤児ではないですね。 イエスだけを特別扱いにしている限りこの世界は生まれないですよ。ということは、本当の理想世界はまだキリスト教では完成されていないということです。 でも我々が目指すところは、全人類を孤児とはしない、という神様の御心にお仕えすること。 「孤児とはしない。ああそうか、ありがとうございます」。これは、一見簡単そうな話ですね。でも、孤児ではなくて神様の子供になるということは、永遠の真理の御霊を受けるということです。 明主様は、メシアとして新しく生まれるというひな型を遺してくださいましたが、これは、私たち明主様信徒だけの小さなことではないんです。この明主様のご事蹟に込められている神様の御心というのは、もう全人類の心を貫いているんです。だって、今回ブラジルの方が何か感じられたということは、それこそ地球の裏側までもう貫いているし、そして、全人類がこの救いを待っている。 というように我々は、我々に託されているこの使命を果たさねばならない。そしてそれは、イエスを愛し、明主様を愛し、イエスを信じ、明主様を信じるところに道が開けるわけですからね。 これから世の中はクリスマスシーズンで盛り上がるわけですけれども、何と言ってもキリスト教の完成版が我々なんですから、いつも言うように、このクリスマスの盛り上がりを一番楽しむ権利があるのが私たちなんですよ、本当はね。 だから、キリスト教の完成版という自負心を持って、そしてご先祖様、世の人に幸を分け与えて、本当に喜びあふれる世界を造るというみ業に、今年あと1か月ですけれども、共にお仕えさせていただきたいですし、そして、たとえどんな思いが湧いてきたとしても、「ありがとうございます」「甦ってきていらっしゃるんですね」ということで、その思いに対して、「赦されてますよ。生きたものとなってるんですよ。あなたも祝福を分け与える側になりなさい」ということを告げ知らせることをさせていただく中で今年一年締めくくらせていただいて、そしてまた来年も、共に、そのすばらしい救いの業にお仕えしてまいりましょう。 ありがとうございました。