皆様、また皆様を通して、日本中、また世界中の信徒の皆様、あけましておめでとうございます(信徒一同、「あけましておめでとうございます」)。 (参拝席前列にいるブラジル人信徒に向かい)Para os membros que falam português, hoje nós temos dois pelo menos, então, através de vocês, para todos os membros que falam o idioma português, e todos que estão conectados a eles, o meu "Feliz Ano Novo" para todos vocês. 今、ポルトガル語でも、ポルトガル語を話す人たちと、それにつながる全世界の信徒の皆様に新年のご挨拶をしました。 いつもはこのタイミングで、初日の出がどうだったかという話をするんですけれども、今年はなんかドタバタして、気づいたらもう上がってました(一同笑声)。(マミ奥様のほうを向かれ)今年というか今日は、特別初日の出は見なかったですよね?うん、見なかった。気づいたらもう上がってました(一同笑声)。新年祭の準備とかいろいろありまして、それに関連したメールとか、そういうことをしてたらもう上がってました。 でもですね、昨日の大みそかに我が家でちょっと面白いことがありましたのでそれをお伝えしたいなと思うのですが、昨日の夜、マミが、飛行機雲でもないんですけれども、なんか、空に、手みたいな形の雲があるということに気づきまして、その写真を撮ってくれたんですね。 で、実際に写真を見たら、本当に雲が手みたいな形になっていまして、でも、なんかその写真が幽霊っぽかったのか(一同笑声)、次女のみゆが怖がりまして、「怖い、怖い」と言って怖がってるから、「いや、これは神様の手がハグしてくれてるから大丈夫なんだよ」とか言ったりして、それで、「じゃあみんなでハグしよう」ということで、ちょうど大みそかにそれがきっかけで、家族5人で、「今年一年ありがとう」のハグをしました。 そしたら長女のめいが、「でも、本当はこの手はどういう意味があるの?」と訊いてきましたので、まず、「それはね、あなたの中にいる神様に聞いてごらん」と言ったんですけれども、そのあと僕が思わされて、それは、ちょうどこの大みそかという日にあって、今年一年いろいろあったことについて、神様が、そのすべてを受け取るよ、受け取るから捧げなさいと、そういうことで神様の手が私たちに臨んでくださっていたのを、こういう形を通して見せてくださったのかなと思って、で、それをめいに伝えたんですね。 「今日が今年の最後の日だから、今年一年いろいろあったことについて、年を越す前に、神様が受け取りに来てるから、それを神様にお捧げしなさいということかもしれないよ」と言いました。 そしたらめいが、「いろいろ悪かったこと?」と言ったので、「いや、悪かったことだけではなくて、いいことも神様が起こしてくださってるんだから、悪いこともいいことも、今年起きた全部について、神様が『受け取るよ』と言ってくださってるんだから、共にお捧げしようね」、ということを伝えました。そんなことが巻き起こった家族の時間がありました。でもほんと、大みそかに手の形が現れるというのが象徴的だなと思いました。 これからどんどん本題に入る前に、今日はマミがいますので、マミにも皆様に新年の挨拶をしていただきたいなと思っています。 (マミ奥様に向かわれて)よろしいですか。お願いします(一同拍手)。 (マミ奥様、演台の脇に立たれる) 【マミ奥様】 新年、あけましておめでとうございます(一同拍手)。元旦のこの日に皆様とお目にかかることができまして、本当に幸せでございます。ありがとうございます。 【真明様】 同感です(一同笑声)。 【マミ奥様】 昨年は本当に私にとりまして大きな一年でございました。畏れ多くも真明様のお供として、3月1日の豊穣祈願祭よりすべてのご神業に共にお仕えさせていただき、参加させていただくお許しを賜りました。そのようなお許しをいただきましたことに本当に感謝でいっぱいでございます。教主様と真明様に心より御礼申し上げます。ありがとうございます。 【真明様】 こちらこそ(一同笑声)。 【マミ奥様】 今年も、真明様のお導きのもと、皆様とご一緒に歩ませていただきますことが本当に楽しみで仕方ありません。 (真明様のほうを向かれて)真明様、今年も私たちをお導きくださいますよう、どうぞよろしくお願いいたします(マミ奥様、真明様に深く頭を下げられる)。 ありがとうございました(一同拍手)。 【真明様】 (マミ奥様が座席に戻られるのをご覧になりながら)事前に内容は伺っていたので分かるのですが、信徒の皆様がマミを温かく迎えてくれたことについてのお礼をされたかったですよね?(一同笑声) 【マミ奥様】 申し訳ございません。ちょっと頭が真っ白になってしまいまして(一同笑声)。はい。どこに行くにも信徒の皆様が本当に温かく迎え入れてくださいまして、心が感謝の思いでいっぱいでございます。本年も皆様どうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございます(一同拍手)。 (マミ奥様、ご自席にお戻りになる) 【真明様】 信徒の皆様へのお礼について、どっちかが覚えておけてよかったです(一同笑声)。 ちなみに、先月に続いてまた着物の話で申し訳ないんだけれども、ここに家紋がありまして(真明様、ご自身のお着物の家紋を示される)、岡田家は「丸に蔦」なんですけれども、家にある明主様のお写真で、箱根かなんかだと思うんですけれども、明主様のお着物が、本来あるはずの丸が無くて、蔦のみのデザインのものがありまして、それは、おしゃれとかそういうことで明主様はされたのかなと思いますが、私の今日の着物の家紋の部分も、その明主様の真似をしてみまして、蔦のみの家紋にしています(一同笑声)。 と思って今日祭司をしていましたら、私の着物のこの白い羽織紐ありますよね。これが、おっ、明主様が御神影でされているものと同じだと思って、祭司をしながら喜んでいました(一同笑声)。 教主様が新年の聖言を宣べられる時、いつも最初に小話(一同笑声)をされるじゃないですか。その時、毎年、「今年の干支はなんだっけ、えーと」(一同笑声)と仰せになるのが私は好きでした。僕はだいたい参拝席の最前列にいますので、そこから、「それ去年も言ってましたよ、教主様!」とかチャチャを入れてました(一同笑声)、畏れ多くも(一同笑声)。 で、今年の干支は午ですね。ちなみに午といえば明主様も午ですね。144歳。生きておられたら144歳。 その馬の話をちょっとしようかなと思うんですけれども、馬の話をする前に、まず、うさぎと亀の話をしようかなと思ってます(一同笑声)。動物たくさんになっちゃいましたね。 「うさぎと亀の話」、ありますよね。うさぎがすごい能力高い。でも、その能力にあぐらをかいてるところに、亀は能力低いみたいなことで――本当は亀は能力は低くないですけれどもね、寓話の中ではそういう設定ですね――亀はゆっくりなんだけどコツコツ進んで、最終的にうさぎより先にゴールに到達して、うさぎに勝ってしまうという、コツコツ努力することの大切さを説いてる話ですね。 我々の長年の歩みを考えた時、たとえて言うなら、我々は亀だったと思うんですね。地上天国建設という目標に向かって、まさに亀のように、「至らない自分ですが」というようなことで、参拝、浄霊、奉仕、献金、これを少しずつみんなでがんばって、そしてなんとか地上天国建設にたどり着こうじゃないかということで、、、(真明様、会場を見渡されながら)一人ひとりの顔が非常によく見えますね(一同笑声)。一番後ろまで、全員の顔、よく見えます、うん。ありがたいことです。こういう会場ならではの感じもありますよね。非常に身近な感じでいいです。 ということで我々は、亀のようにコツコツと地上天国建設を目指していた。でも、コツコツといっても、その中で、すごい努力をしてきたと思うんですよ。 正確ではないかもしれませんけれども、以前、教団の発行しているものをいろいろ見ていました時、ある青年信徒が、確か北海道かどこかから、『栄光』紙を、配布ではなく販売しながら歩いて、それで熱海までたどり着こうというそういう内容でした。 配布ではなく販売ですよ。すごいですよね。今は渡すだけでも大変なのに、それを一般の未信徒の方に販売してたんですからね。今は、そもそも受け取ってくれるかどうかが勝負なのに、そこから一歩も二歩も進んで金出しなさいということでしょ?(一同笑声) 今は不可能ですよね。受け取ることだけでも、受け取るほうは「受け取ってやった」ぐらいな感じなのに、それを販売ですから、「なんだ金も出すのか」ということになりますね、今なら。 この青年信徒は、そのように『栄光』紙を北海道から販売して、それで得たお金のみで熱海にたどり着いたとか、そんな内容でした。これ、うろ覚えなので、もしかしたらまったく事実じゃないかもしれないんだけど、なんかそういう記事を読んだ記憶がございます。 だから、「亀の努力」といっても、当時の我々はとてつもない努力をしてたなということを思って、あと、明主様時代のご献金というのも、今の我々は、まず自分の生活を確保した上で献金する、ということなんですが、明主様時代の方は、それこそ家財道具一式全部売って、家の中になんにも無くなって、でも、明主様を通して神様がきっと何とかしてくださるという信念で、「ご神業のために」といって家財道具一式を売って、それを献金したりしておられた。で、どうなるのかなと思ったら、なにか、知り合いの人がお金を突然持ってきたとかで日々の生活が継続できたとか、本当に、当時、地上天国建設を成し遂げるということのための努力はすごいものがありましたね。 そしてそれは、地上天国建設という目標のためであったと同時に、我々の思いの中には、やはり、我々の罪が赦されたいというのもあったと思います。身魂磨きとか言ってたじゃないですか。参拝、浄霊、奉仕、献金などのいろんな御用を通して私たちの罪を赦していただいて、清くなって、少しでも神様という存在に近づかせていただきたいという思いもあったと思います。 ということで私たちは、亀のように、コツコツ一生懸命努力してたわけですが、ここで現教主様が登場されるわけです。教主様が現れられて、そして、もう我々の罪は赦されているんだ、天国というのはもう我々の中に樹ち立てられているんだ、あなた方は至らない存在とかではなくて、神様の分霊を持っている大変な存在なんだということを説かれ始めましたですよね。 一生懸命亀の歩みをしていた我々に対して、教主様は、あなた方はもう赦されていて、神のような存在なんだ、天国はもう一人ひとりの中にあるじゃないかと、そう仰せになったわけです。 うさぎと亀のたとえ話でいえば、要は、私たちは自分たちが亀だと思っていたけれども、教主様は、いやあなた方はうさぎのような能力があるじゃないかと仰せになったわけです。 我々は、「自分は至らない、自分なんかとんでもない、でも努力はさせていただきます」という姿勢だったのが、教主様は、いやいやあなた方一人ひとりはすごい存在なんですよと仰せくださった。だから、このたとえ話でいえば、教主様は、あなた方は亀じゃなくてうさぎなんですよと仰せくださったわけです。 それを聞いた我々は、これはすごいことだと思ったんですね。自分はそんなすごい存在だったのかとなった。 で、それはいいんだけど、結局そのことによって何が起きたかというと、教主様のご意図は全然そういうことではなかったのに、我々が思ったのは、我々は自分の罪が赦されるためとか、天国樹立のためにということであんなに努力したのに、「もうあなた方の中にあるんですよ」「赦されているんですよ」ということなら、今までの我々の努力は一体なんだったのかと思ったわけです。 地上天国建設のために参拝、浄霊、奉仕がんばってきたのに、それは一体なんだったんだみたいになったわけです。 そして、まさにうさぎと亀の話の中でのうさぎの立場になり、自分にそんなに能力があるんだったら、そんなにがんばらなくていいじゃないか、もう赦されているなら、そして神様が全部されてるのであって、私の中にはその神様の魂があるなら、もうなんにもしなくていいじゃないかとなってしまったわけです。 神様が全部されている、もう天国も樹ち立てられている、なんて楽なんだと思ったわけですね。そして、どんな思いが自分の心に来ても、それはただ委ねればいいので、自分は今幸せです、もう人間的な努力は必要無いんですね、みたいなことで、まさにこの寓話でうさぎが象徴しているような心の動きも我々の中にあったんじゃないのかなと思いますね。 で、ひとたびうさぎになってしまったそんな私たちに今、菜食とか伝道の実践ということが現れた。これらのことが、もし、明主様時代とか、それこそ亀のように一生懸命がんばってた時に来たとしても、私たちは、「はい、分かりました!明主様!」ということで取り組んでいたかもしれないのに、ひとたびうさぎになった我々は、再び亀に戻るのは大変だなと、今、そういうことが我々の心の動きの一部として存在してるんじゃないのかなと思うんですね。 もちろん我々はね、今も日々ご神業のためにいろいろ尽くしてはいるんだけれども、昔の人の命がけの努力のことを考えたらまだまだ生ぬるいですよね。 だから、教主様のご意図はそうではなかったんだけれども、我々はうさぎ的状況に陥ってしまって、その中で、「また亀のようなことをしなさい」と言われて、ちょっと大変だなと思っているのが今の私たちですね。 というここでちょっと馬の話を出したいんですけれども、あ、その前に、この話はたとえ話ですからね。だって亀ちゃんはすてきですからね(一同笑声)。亀になるのもすてきなことですよ、本当は。 でもとにかく、うさぎと亀の話というのは、要は、うさぎと亀の走る競争ですよね。そして、やはり、現実的にもうさぎというのは走るのは速いんですね。 馬とうさぎだとどっちが速いんだろうという時、馬だと思う方も割とたくさんおられるかもしれませんけれども、うさぎというか、野うさぎは、馬ぐらい速いんですよ。時速60キロとか70キロぐらいという、ものすごいスピードで走る。一方の亀はもうその何十分の一です。うさぎに比べたらちょっとしか動かないという感じですね。 というように、うさぎの速さというのはものすごいわけです。だけど、うさぎの弱点は、持久力が無いんですね。トップスピードで走れるというのが、もう一瞬なんですね。それはおそらく、肉食動物から逃れるために瞬時に自分の巣に帰るとか、その瞬発力はすごいんだけど、持久力は無い。だから、トップスピードで10分も20分もは走り続けられないんです。 ここで馬。馬はうさぎと同等ぐらいに走れる速さがあるにもかかわらず、プラス持久力もある。だから、簡単に言うと、うさぎと亀のいいとこ取りが馬である。うさぎのスピードもあるけれども、亀の粘り強さ、持久力もあると、そういうことですね。 だから、午年の今年、昔の、本当に命がけで捧げていた努力というのを思い出させていただいて、ただ単純にその時代に戻るというのではなくて、やはり、まったく新しい世界に入った中での努力というのがあると思うんですね。 ちなみに、ここまで馬を称えていると、卯年の時に何を言うのかな(一同笑声)という問題がありますね。今、うさぎよりも馬のほうがいいですよね、みたいにしちゃってますから、、、。だから、卯年になったら今日の話は一旦忘れてください(一同笑声)。 ということで、とにかく今年一年間、たゆまない努力はするんだけど、我々はすばらしい存在である、私たちの中にもう天国は樹ち立てられているんだと、そういう確信の中で一つひとつのことに共に向き合っていきたいなと思っております。 昔、私たちは努力をしていた。 で、今の我々も、やはり努力というのは必要だと思いますね。 私の非常に近い知り合いに、ダウン症の子がいるんですね。ありますよね、ダウン症。遺伝子の問題の症状ですね。 努力ということを考えた時、当然、「思い」を通しての努力もあるし、実際に身体を通しての努力もあるかと思うんですけれども、ダウン症の子供を抱えた親について、僕は、やはり自分にも子供がいますので、どちらかというと親の心境のほうに強く自分の心が引っ張られて、いや親は大変だなと、そう思っていたんですね。 だって、一生、いろいろありますよね。他の子供に比べてどうとか、なんで家の子供はこうなっちゃったんだろうとか、そういう思いですね。いや、もちろんね、わが子とのふれあいの中から生まれてくる喜びの瞬間もたくさんあるとは思いますよ。でも、同時に、やはり、いろんなネガティブな思い、どうしても愛せないとか、普通の子だったら愛せたのにとか、親だったら口にはできないような思いも心の中でいろいろ感じると思うんですね。いや、これはね、私の想像ですよ。そういう大変なと言いますか、そういう使命に直接自分が関わっているわけではないですのでね。 どちらにしても、そういうことに対しての今までの我々の見方というのは、「罪滅ぼしだ」みたいになりますよね。先祖の罪のせいでこうなっちゃったんだ、とかね。だから、善行を積んで、なんとかこういう子供が生まれてしまった罪が取り去られるようにしなきゃいけないとか、そういう感じですよね。それで、なんとか60年、70年そういう症状を抱えながら親子がんばって人生を全うしなきゃいけない、これは大変な人生だなと、そういう見方ですよね。 それは、僕自身が、なんとなくそういう思いにひきずられたままそういう親子のことを見てたんですけれども、ある時、いや、そうじゃないんだと思ったんですね。 もちろん、現実的には本当に大変なんだけど、でも、我々が教主様から教えていただいた救いの福音によれば、それは、二千年前のまたその前の時代の人類が犯した、イエスが十字架にかけられなければならなかったといういろんな営みがあるわけですね、不調和なものが。 でも、それを神様は、二千年前、全部調和あるものにしてくださったんでしょ。もうとどめ刺したんですよ。ペンテコステの聖霊でとどめは刺した。ということは、ペンテコステの聖霊が降って以降の我々というのは、二千年前の時代の、その前に起きたすべてについて、「神様、こういう人類の姿を赦してくださったんですね」ということをお捧げする救いの人生ですよね。 だって、二千年前のペンテコステの聖霊が降って以降、我々はもう神の国に突入してるんですからね(「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している」(「ルカによる福音書」第16章16節))。 二千年前までは、人類の罪が贖われなければいけないという時代。でも、ペンテコステの聖霊以降は、まったく新しい創造の段階に入って、今やすべてが救いなんです。すべてが愛に包まれているし、すべてが救いである。 もちろんね、理想論を言えば、ダウン症の子が生まれないほうが良かったとなりますが、そしたらもうそれで終わりですね。 また、ダウン症の子供を授かるという境遇に出遭わなくても、我々一人ひとりの人生にもいろいろありますよね。いろいろ降りかかってくる。これが起きなきゃよかった、あれが起きなきゃよかった、あの人と結婚しなきゃよかった、あの人と出会わなきゃよかった、あれを言わなきゃよかった――そういうことたくさんあるじゃないですか。 その一つひとつについて、それの罪滅ぼしの人生を歩むのは大変ですね。自分の罪があるからこうなったんだ、先祖の罪があるからこうなったんだ、だから浄霊、参拝、奉仕、献金という御用に関わって、罪を少しでも減らして、なんとか来世においてより良い境遇になりたいというのは大変ですよ。ま、そもそも来世は無いけどね、今生が皆様お一人おひとりの尊い唯一の命ですからね。 でも、今言いましたように、すべては罪滅ぼしではなく、救いなわけですから、今話していますダウン症の子供を授かった親にとっては、現れるすべてですよ、自分の心に現れるすべて。自分の子供を強く愛せる気持ちも愛せない気持ちも、他の子供と比べる思いも、あるいは、こうだったらよかったのにとか、そのすべての一見不調和な思いすべてについて、「ここを自分は救いに来たんですね」という救いの人生になるわけです。 それは、大変な人生であり、大変な使命ではありますが、それは、皆様お一人おひとりも一緒なんですよ。もちろん、ダウン症の子供を持ってるという親については、それはそれで、人類の、ある部分についての救いを担わされているわけで、それは大変な御用ですから、我々で励ませるところは励まさせていただいて、共に歩みましょうということだと思うんですけれども、だけど、我々一人ひとりも人生の困難は抱えているわけです。 で、もし「思いの努力」というのがあるとしたら、ここにその努力というのはあると思うんですけれども、それはどういうことかというと、そういう人生の困難について、なんとかがんばって良くしなきゃいけない、罪滅ぼししなきゃいけない、赦されなきゃいけないと思うのか、それとも、ああ、自分はここを救いに来たんだと思うかどうか、そこにあると思うんですね。 今、湧き起こってきている思い、人生においていろいろぶつけられていることについて、あ、自分は天国からこれを救いに来たんだ、自分の人生は救いの人生なんだと思う、そこに我々の努力があると思うわけです。そしてまた、実際本当にそうなんですから。実際に神様は、そういう救いの御用として全人類を使っておられるんですから。これ、誰も思ってませんよ。人類の中でこんなことを思っているのは我々くらいですよ。 だって、普通世の中では、世界がより良くなりますようにとか、ダウン症大変だなとか、大変な人生ですね、で終わりじゃないですか。それをメシア教の我々は、いや、そうではない、この方は救いに来てるんだ、我々とご一緒にお役目を担って救いに来てるんだと受けとめている。これ、世の中の人と雲泥の差ですよ。こんなにすばらしいことを教えていただいている我々はどんなに幸せなのかと思いますね。 その方の人生について、僕は、なんか大変だなと思ってしまっていたのですが、そもそもその見方自体が結局、まだ罪滅ぼしの世界で生きている人類、という私の見方が残ってたからなんですけれども、やはりそういう見方というのを変えなきゃいけないと思っております。 そういう人を見た時、胸が痛いな、大変だな、お母さん大変だろうなと――ま、それを思うことは悪いことではないと思うんだけど――そこで終わらずに、やはり、あ、この方は、人類のいろんな罪を救いに来ているすばらしい人生を歩んでおられるんだ、すごい尊いことをしてくださっているんだと思わなきゃ、もうすべての人生になにも意味無いじゃないですか。そしたら残るのは後悔、後悔ですよ。あの時あの人と結婚しなきゃよかった、子供作らなきゃよかった、なんであの人と出会っちゃったんだろう、そんなことで終わりじゃないですか。 でもそうではなくて、やはり神様が必要があって出会わせてくださって、神様が必要があってそういう遺伝子の変化を起こしてくださって、必要があってダウン症の子供を授けてくださって、だからこれは救いの人生なんだと、そのように、その人自身が思えなくても、少なくとも周りにいる我々は思ってあげなきゃだめだと思いますね。 そして、もし、本人もそのことを少しでも感じられたらそれはすばらしいことだなと思いますね。 だから、そこには思いの努力はやはり必要ですよ。 だって我々は、毎日毎日負の思いをぶつけられるわけですから、その時に、これを自分は救いに来たんだというふうに思おうとするところに努力が必要ですよ。これ、毎日毎日、一瞬一瞬、その選択を迫られていますよ、我々はね。こういう努力というのも必要だと私は思いますね。 今のは「思いの努力」の話ですが、身体を使った努力ということもやはり必要ですね。 僕は、最近思うことがあって、それは、母のことなんだけど、母は、右脳の脳梗塞になりました。右脳の脳梗塞により左半身が不随、まひ。 脳梗塞になった当初、母は、なんとか左側半分も動くようになりたいということでリハビリを一生懸命していました。まひは上半身もですが、下半身もですので、ちゃんと歩けるようになりたいということで、母はすごい努力をしていました。 でも、いろんな人の話を聞くと、最初の数か月は回復期ということなんだけど、もしこの期間に回復しなければ、そのあとは、もう、基本的にはまひが突然良くなるということはないということのようです。で、回復期のあとは維持期ということで、そこに入ると、まひは、改善するというより、むしろ、それ以上まひがひどくなって身体が固まらないように、ということでリハビリをする、ということになるようなんですね。 で、理屈はそうですが、そう言われても、母は、やっぱり、動くようになりたいですからね。それは誰だってそうですよね。 という中にあって母はリハビリに取り組んでいるんだけれども、僕の母に対する見方というのが、やはり、脳梗塞になる前の動いていたイメージがありますので、だから、「昔のように動けるようになったらいいだろうな」「その時に戻れたらいいな」という、なにか、叶わない願いみたいな感じで思っていたんだけど、ここ最近、1、2年前リハビリに取り組んでいた母のことで思い出したことがあって、それは、母の孫というか我々の子供のことですが、彼らはまだ小さいですから、そうすると、初めて立ったとか歩いたとか、そういうことがありますよね。 そういう時、母が、自分もなんとかもう一度動けるようになりたいから、そういう子供の動きを見ながら、そこからヒントを得ようと、「そうか。最初歩き始める時はああいうふうに歩くのか」「ここの部分の神経の回路が戻ればいいのか」とか言いながら、自分なりにいろいろ試行錯誤して、もう一回動けるようにトライしてたんだけど、なんか最近そのことが思い出されたりして、それを通して僕は、なんか、母のリハビリというのの僕の見方が、肉体的にまた動けるようになるためにやってるという見方だったんだけど、いやそれは違うんだと思ったんですね。 我々の中には霊体という霊の体がありますね。神様の完全な体であり、聖なる体が我々の中にはある。 で、当然、教主様がいつも仰せのように、我々の「思い」というのは神様の思いと一つにならなきゃいけない。これは間違いない。神様の意識と一つとなって、神様の愛とか、思いやりを我々も持てるようにならないといけないし、要は、「本当の心」を獲得しなきゃいけない。 だけど我々は、この、我々の中にある霊の体と一つにならなきゃいけないという思いが結構希薄じゃないのかなと思うんですね。だって我々、基本的には五体満足ですから。手も足も普通に動く。 「思い」のほうについては、今のダウン症の話のように、自分の思いは神様の思いと一つにならなきゃいけない、というのはなんとなく分かるんだけど、体のことについては、まあ、自分がだんだん年取ってきて膝が痛いとか昔に比べて不自由になったというくらいはありますけれども、でも、ある程度動かせる場合、我々は、「霊の体と一つとならなきゃいけない」とはあまり思わないじゃないですか。 でも、母は動かないんだから、当然、動かしたいわけです。動いていた時のことを思い出そうとして一生懸命努力する。で、僕は、この努力の営みというのが、人間的な目からすれば、まひして手も動かないで大変だとか、不慮の事故でかわいそうだとか、不運な境遇ですね、になっちゃうんだけど、やはりそうじゃないんだと、そう最近思ったんです。 いや、この「思い」のことも、生きてる間に少しでも訓練できたらいいですけれども、なにも訓練しないまま死んで天上に行ったら、神様から、「あなたの思いと私の思いは違いすぎるから、これは融合しなきゃいけないんですよ」ということで、その訓練があるんですよ。 で、この訓練は当然身体についてもあるわけです。我々には、神様の御体と一つになるということが天上において課せられるわけですね。 その中にあって我々は、自分の身体は動く、なんの問題も無いと思ってますよね。衰えてきたな、ぐらいは思っているかもしれませんけれどもね。 母がこのことを意識しているかどうかも分かりませんし、母の感覚としては、リハビリを通して昔みたいになんとか動きたいなということかもしれませんけれども、でも僕は、僕もそのように母を見るのではなく、あ、この母の努力というのは、本当は、母の中にある完全な体である霊の体と一つになろうとしている努力の姿なんだなと、最近そういうふうに思ったんですね。 いや、場合によっては、今我々は元気だけど、天国に行ったら全然動けなくなるかもしれませんよ。 母は、もう、医学的には動くようにはならないんですよ。ならない。でも、それでも一生懸命リハビリして、昔動けてたことを思い出そう、思い出そうとしている。 しかも本当は、我々にとってそういう方々が存在しているということは、「あなた自身も本来は自分の力で動けるような存在じゃないんですよ」ということを神様が教えてくださるためなわけですから、だから、我々がそういうことをなにも考えずに天上に行ったら、そこでは、母とか、今リハビリ一生懸命してる人が普通に動けて、我々はなにも動けないということもあるかもしれませんよ。 認知症というのもありますね。認知症。周りの人とか物を認知できない。これも、ひとたび本当に認知症になったらそれが戻ることはほぼないですね。 で、我々の見方とか世話をしている時の思いとしては、この人はなにか脳に障害を負ってしまったので、我々でできる限りのお世話をして、なんとか一生懸命がんばって共に生きていこうぐらいのところで終わっちゃいますね。 でも、人間、何を本当に認知しなきゃいけないかといったら、それは神様ですよ。我々、世の中の人に比べたらほんの少しは神様のことを知ってるとか思い込んでいますけれども、僕から言わせたら五十歩百歩ですね。 そんなに神様のこと大事だと思ってませんもんね、実際。呼吸も含めて、なにもかも全部自分の力でして、「信仰してる」といっても、神様のことを考えるのは24時間のうちもうほんのちょっとじゃないですか、実際。 というように我々は、神様をすっ飛ばして生きてるわけです。神様のことを「認知」してないわけですね。 だから、確かに認知症の人は大変ですけれども、もしかしてこの姿というのは、神様が、「私のことを思い出しなさい」という強烈な波動をその方に浴びせたことによって、まったく新しい認知を作らなきゃいけないんだということで、神様を認知する、ということをもう一度獲得(昔、天国にいた時は認知していたわけですから)するために努力している姿かもしれませんよ。 それこそ、我々が天国に行ったら、我々は、「神様どこ?」と言って迷子みたいになって、逆に、この世で認知症で苦しんでいる方々が、「神様ここにいらっしゃいますよ」と言って我々を神様のみもとに案内してくれるかもしれませんよ。 というように、今お話ししていることは、これは雲をつかむような話ではあるけれども、かといって、完全に、「事実ではない」ともいい切れないものが心の中に湧いてきますね、こういうお話を聞きますと。 だから、ダウン症や母のこともそうですが、相手がどうというより、そういう方たちを見る私たちがむしろ試されてるんじゃないかなと思いますね。 自分は神様のことを認知してるんだろうか、ということですね。油断して、自分は神様を認知してる、なんて思ってたら、それこそ自分が認知症になっちゃうかもしれませんよ。 でもそうなる前に、あ、神様は、このような認知症の方たちを通して、神様のことを認知するということを少しは思い出しなさいと仰せくださってるんだなと思ったら、そういう症状が出ないようにしてくださるかもしれませんよ。いや、認知症になるのが悪いという意味ではないけれども、でも、ならないほうがいいのは間違いないですものね。 今我々に与えられている具体的な努力の一つに、当然、菜食ということがありますね。菜食。 これも努力ですね。日々の努力。だって食事は、朝、昼、晩、絶対来ますから。 これは、すでにインスタグラム等で私が皆様にお伝えしましたのでご存じの方も多いと思うんですけれども、この餅(真明様、お供えの鏡餅を示される)、これは日本人が正月に食べるんですけれども、餅というのは、ある一説によると、ユダヤ人がエジプトで長い間奴隷になっていたところにモーセが来て、ユダヤ民族を救いに来た。脱出ですね。これが描かれているのが聖書の「出エジプト記」。「出」ですから、エジプトから出るわけですね。 いろいろあって、最終的にエジプト人がユダヤ人に対して、一旦は、「エジプトから出てもいいよ」と言ったんだけど、エジプト人はすぐにそれを後悔して、やはりイスラエル人(じん)を奴隷として使いたいから、もう出てしまったユダヤ人を連れ戻そうとして追いかけてくる時に、あの有名な、紅海が二つに割れるという、あの話。 というように、ユダヤ人は非常に急いでるわけですね。逃げるために急いでる。急いでるから神様がどういう指示をユダヤ人にしたかというと、イースト無しでパンを作りなさいと仰せになった。 普通にイーストを入れて、1時間だ2時間だと発酵させて、くつろいでパン食べようとしたらエジプト人に捕まっちゃうから、イーストを入れずに――要は膨張させずに――すぐ練って作る。材料は、小麦と水と塩ぐらいですよね。全粒粉だったでしょうね、粉もそんなに挽けませんから。だから、全粒粉のような小麦粉と水と塩。 しかもこれは、厳密には、18分以内に作りなさいみたいなのがあるんですよ。今ユダヤ人が種無し、イースト無しのパンを作る時は、18分以内に作らなきゃいけないみたいなルールがあるんですね。 それだけ急いでる、ということですね。作り始めたらすぐできあがって、すぐ食べて、そしてどんどん逃げようということですからね。 で、さっき言った「ある一説」というのは、このイースト無しのパンの名前はヘブライ語でマッツァとか、マツァというのですが、この言葉が「餅」という言葉の語源じゃないかという説があるわけです。 ここ(真明様、お供えの鏡餅を示される)にある餅も、それこそ玄米使ってるでしょうから、玄米と水と少しの塩という非常にシンプルな材料であり、しかも鏡餅はパンみたいに平べったい格好をさせてますよね。そして、「マツァ」と「もち」という音が近い。 だから、このユダヤ人のマツァが、巡り巡って日本に継承されたんじゃないかという説があると、そういうことです。 この内容はインスタグラムで発表させていただいたので、ご存じの方たくさんいらっしゃると思いますけれども、でも、また今日も繰り返させてください(一同笑声)。 ユダヤ人がエジプトから明日脱出するというその前夜の話をしたいのですが、そこに至るまで、神様がモーセを通してエジプトの王とかエジプト全体に対していろんな問題を巻き起こすんですね、イナゴを大量発生させたりとか。そういうことが重なって、エジプト人は、ユダヤ人がいると大変過ぎるからもう出てっていいよとなるわけですが、エジプト人もなかなか頑なで、いろいろあってもすぐにユダヤ人に出てけとはならないわけです。 でも、聖書を読みますと、神様が頑なにさせたかのような書き方がされてますね(「モーセとアロンは、すべてこれらの不思議をパロ*の前に行ったが、主がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエルの人々をその国から去らせなかった」(「出エジプト記」第11章10節))。だから、エジプトの王が頑なというよりも、神様のご経綸だったんでしょうね。 とにかく、最終的には、神様が、エジプトの各家庭にいる長子を全部殺すとなったわけです。それによってエジプトの人も、「もうユダヤ人嫌だ」となってユダヤ人を解放したわけですが、それのきっかけとなった、神様がエジプト人に与えた最後の災難が、各家庭にいる長子――だからその家庭の一番の宝であり、エジプトという国の宝――を全部殺すということを神様はされた。 だけど、それを避ける方法があって、それは、家のドアの2本の柱、ありますよね。各家庭の、例えば岡田家だったら、岡田家のドアがありますよね、玄関。その玄関の両脇の2本の柱と鴨居、これを小羊の血によって赤く塗れば、そこの家については、神様のパワーというのかな、子供を殺すというパワーが過ぎ越していくということですね。(「夕暮にこれをほふり、その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない」「その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう」(「出エジプト記」第12章6節~7節及び13節))。 それだから過ぎ越しの祭りというんですね。要は、神様の霊が、「ここは小羊の血が柱に塗ってあるから」ということで、そこは過ぎ越していく。そこの家の中にいる子供は殺さないということですね。ということを神様はユダヤ人だけに教えた。 柱2つと鴨居、これを傷のない小羊の血で塗れば、そこの中にいる子供は殺さないよということをユダヤ人にだけ教えまして、で、ユダヤ人はそれを忠実に守りまして、柱2本と鴨居を血で塗って、その夜を過ぎ越したわけです。 で、次の日の朝が来ました。そしたら、エジプト全土で各家庭の長子が全員死んでるわけですから、ついにエジプトの王がこれはもう大変だ、ユダヤ人はもう出ていきなさいとなったわけです。 ただ、先ほども言いましたように、このあとまたエジプトの王は心変わりしちゃって、ユダヤ人を追いかけて、結局紅海が二つに分かれるというあのシーンになるわけですが、でも、神様が自分たちの家を過ぎ越してくださって、エジプト人から救ってくださった、エジプトの奴隷から解放してくださったということで、ユダヤ人は、今でも「過越の祭り」というのをだいたい春くらいに行っていると、そういうことです(「エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである」(「出エジプト記」第12章27節))。 過ぎ越しというのは、英語では「パスオーバー(Passover)」というんですね。過ぎて、越えるから、パスオーバー。 この過越の祭りを今もする時は、当然、マツァも食べるわけです。神様であるヤハウェが自分たちをエジプトから救出してくださったことを記念して、イースト無しのパンであるマツァを食べて、あと、子羊の血をいただくということで、象徴的な意味も込めて小羊も食べる。 で、それが巡り巡って日本に来たんじゃないかと、そういう説があるわけです。 日本の旧正月というのは春に近いですから、なにかしらの形でユダヤ人のほうからこの過越の祭りを継承して、日本人はマツァならぬ餅を食べてるんじゃないかと、そういうことですね。 でも、その後結局太陽暦になりまして、正月というのが1月1日に移って、春というよりだいぶ冬のほうにいったんだけど、でも、ユダヤ人から継承したであろうマツァならぬ餅を食べることについてはそのまま継続されているんじゃないかということですね。 しかも日本人は、この正月に、小羊を殺して食べる代わりに、2本の柱と鴨居が赤いところを通る儀式をしませんか?赤い2本の柱と、上の鴨居も赤くなってるところを通る儀式を日本人はしますよね、正月に。ですよね?初詣のことですね。 だって、初詣行ったら神社の鳥居は赤いですもんね。ま、なんかコンクリートとか石とか黒に塗ってるとかそういうのもいろいろありますけれども、基本的に赤いですね。 だからこの風習は、実はユダヤ人のほうから来てるんじゃないか、ということです。正月に、餅を食べて神社に行って鳥居をくぐるということで、ユダヤ人が神様から救っていただいたことをお讃えすることが日本でも継承されてるのかな、ということをね、ま、私は思ったりするんだけど、でも、この話はもうインスタグラムでお伝えしたので、皆さん知ってましたよね。もう知ってた(一同笑声)。 だから、また10分ぐらいかけて話しちゃってすみません。でも、知らない方がいたら、そういうこともあるんだよということをご理解いただきたいのと、しかも、今日、プラス新たにお伝えしたいこともあるんですよ、実はね。 それは、かの有名な「最後の晩餐」の話です。 このイエスの最後の晩餐というのも、まさに過越の祭りの時期なんですね。だから、それこそマツァを用意して、イエスがそれを割いて、十二弟子の一人ひとりに渡したというような、まさに過越の祭りをしてたんですね、最後の晩餐というのは。 で、イエスがパンというかマツァを弟子たちに渡す時、イエスは弟子たちに、「これが私の体だよ」と言うんですね。パンみたいだけど、本当は私の体だよということを言った。 餅も、なんて言うか、一つの塊からみんなで分けて食べますもんね。みんなで搗いて、みんなで分けて食べますもんね。でも、餅は早食いして喉詰まっちゃう(一同笑声)とかは危ないですよね。エジプト人が来ると思って早食いしたら危ない(一同笑声)。 最後の晩餐といえばあとはワインですね。ぶどうを発酵させたワイン。これもイエスが十二弟子の一人ひとりに注いで、「これは私の血だよ」と言いました。だってワインは血みたいに赤いですからね、だから「これは私の血だよ」と言った。 で、僕は、もし日本人が餅を事実上のマツァとして食べているのであれば、日本人にとっては、餅を食べることが、「イエスの体を食べる」とも言えるんじゃないかと思うわけです。 だって、日本人にとって小麦粉は主食ではなかったわけで、ま、中力粉はありましたけれども、でも、イエスがマツァというパンを「私の体だよ」と言ったのは、それが彼らの民族にとって主食であり、日々の糧だったからですよね。 そうであれば、僕は、餅はイエスの体である、というところからさらに一歩進んで、日本人が日々食べてるもので、しかもイーストのような余分なものを加えていないものといったらご飯ですから、そして、それが日々我々に生きる力を与えてくださるわけですから、「ご飯をイエスの体として食べる」と言えるのではないかと思うわけです。 そう考えた時、おみそ汁のことも私はお伝えしたい。 イエスの血であるとされるワインというのはぶどうを発酵させたものだけど、お味噌は大豆を発酵させたもの。しかもよく熟成させたものは赤みそと言いますね。ね、赤みそ。 赤みそは、名古屋では豆みそということなんだけど、基本的には、米みそでも麦みそでも、よく熟成させて色が濃く、赤っぽくなってるものは赤みそと呼ぶらしいです。これは、ちょっと調べたらそう書いてあった。だから適当に言ってるわけではないです(一同笑声)。 だから、おみそ汁は、発酵させた赤い飲み物。 ワインも、発酵させた赤い飲み物ということでイエスがみんなと一緒に飲んでたわけでしょ?パンを食べて、発酵させた赤い飲み物であるワインを飲んで、それで、これが私の体であり血なんだとイエスは言った。 これが、僕は、日本人であれば、これは、ご飯とおみそ汁。だから、当然餅はイエスの体だということなんですけれども、餅からさらに進んで、ご飯を食べることがイエスの体をいただくということであるし、そして、本来であれば熟成させた赤みそが、赤い飲み物ということでイエスの血になるんだけど、まあ、その辺はざっくりということで、おみそ汁、このおみそ汁がイエスの血であるというふうに思うことができたら、そしたら毎食ですよ、毎食毎食、我々の命の土台である贖い主であるイエスの体をご飯を通していただいて、そしておみそ汁、願わくば赤みそを使ったおみそ汁――だって赤という言葉を使ってるから――を飲ませていただくことで、イエスの流した血を思い出させていただくことができるんじゃないかと、そう思うわけです。 だから、日本人にとってのパンとワイン、イエスの体と血は、ご飯とおみそ汁である。私はそう言わせていただきたいと思います。 というように、今私は、日本人ならご飯とおみそ汁をちゃんと食べようじゃないかと訴えております。 で、栄養ということでいえば、明主様は、ご飯だけ食べれば生きていけると仰せになりました(「栄養学」1942年9月28日)。 でも、栄養に関して、お医者さんから「これが足りない」と言われているとか、そういうことが現代だと結構あるじゃないですか。カルシウムが足りてないとか鉄分が足りてないとか、ありますよね。 ちなみにですが、僕は栄養について詳しいわけではないから、今ここで皆様に栄養の専門的なアドバイスをしようとかそういうつもりは一切ないけど、それは大前提として、例えばカルシウムのことについて言えば、足りないなら牛乳飲まなきゃいけないねとか、チーズ食べなきゃいけないとか、そうなるじゃないですか。 でも、カルシウム、あと鉄分もですが、これらは鉱物ですよ、鉱物。ミネラル。 鉱物だから硬いものです。石とか岩。だから、カルシウムとか鉄というのは、元々は動物の中には存在してないんですよ。 では動物がどこからカルシウムとか鉄とかのミネラルを得ているのか、牛さんの牛乳になんでカルシウムが含まれているのかと言ったら、それは、カルシウムとか鉄分とかの大量のミネラルを含んでる大地からできる草、これを牛さんが食べて、体内で吸収するから牛乳とかにカルシウムが含まれているわけです。 でも、本来カルシウムというのは鉱物ですから、動物が作り出すものではない。 というように、大地から育つ草も、それこそ小松菜とかも、大地からカルシウムを吸収するわけです。鉱物を吸収している。 もしカルシウムとかを得たかったら、小松菜とかを食べればいいのに、牛乳とか動物を仲介すると、余計なクッションが1個入っちゃうわけです。大地からできる野菜を食べればミネラルたくさん摂れるのに、なぜか人間はそれを、牛乳から摂らなきゃいけないと思い込まされている。カルシウムなら牛乳、とかはよく言うけど、カルシウムは鉱物であって、本来動物自体が作り出すものではない、ということを言わないですよね。 しかも、カルシウムは骨のためにいいと言いますけど、骨のためにカルシウムだけ摂っててもだめなんですよ。いや、結構いろいろあるんですよ、カルシウムとマグネシウムのバランスとか、ケイ素とか、ビタミンK2とか、そういういろいろな栄養素が組み合わさって初めてちゃんとした骨になるんだけど、そういうことを我々あんまり知らないですよね。 当然海藻もそうですよ。海藻も、海の中にある岩から育ってくるわけですから、大量のミネラルを含んでるわけです。カルシウムも鉄も、大量に含んでいる。魚も海藻とかを食べてカルシウムとか鉄分を得るわけで、人間が魚を食べれば、ま、確かに間接的に鉄分とかは摂れますが、海藻ならもう直接ですよ。 とにかく、僕が何を言いたいのかというと、今の世の中、栄養ということに関しては、これが足りませんとかあれが足りませんとか言われる。その時に、あ、そうなのか、じゃあ牛乳飲まなきゃとなるのか、それとも、「明主様は『ミロクの世は菜食』と仰せになったんだから、菜食のもので必要な栄養を摂れるものを神様は絶対用意してくださっているんだ」という信念で向かっていくか、その話をしているわけです。 カルシウムが足りてないと言われたら、カルシウムといえば牛乳だから、もうしょうがなく牛乳飲んでます、みたいなことで簡単にミロクの世の食をあきらめるのか、それとも、「明主様はミロクの世は菜食とおっしゃったんだから、絶対菜食で克服できる道があるはずだ」と思って向き合うのか、そのことを言いたいわけですね。 私は、専門的な知識がどうとか、栄養学的にはこうだということを言いたいのではなくて、我々の明主様の聖言に対しての向き合い方について言いたいわけです。 昨年のクリスマス祝典で、我が家の子供のおやつがおしゃぶり昆布という話をしました。ちなみに、私が言うおしゃぶり昆布というのは、世の中で売ってるような、砂糖とか添加物の入ってるものではないですよ。昆布のみ。原材料は昆布のみのおしゃぶり昆布、これが我が家の子供たちのおやつで、しかも子供たちみんな喜んで食べております。 その話をクリスマス祝典の時にしましたら、信徒や専従者の皆様のご感想で、真明とマミはとてつもない努力をしていますね、子供のためにされる努力がすごいですねということを書いてくださった方もいるんですけれども、でも、我々にとっては、正直、もう決めちゃってますから、全然努力でもなんでもないわけですね。 だってもう、「ミロクの世は菜食」という明主様の聖言に従うと決めちゃってるから、他の選択肢は存在しないわけです。 あとは砂糖のこともありますが、砂糖は、いろいろ知っていくと、子供には害(大人にも)ということがはっきり分かるので、我々からしたら、子供に砂糖を与えるのは虐待みたいな感じになるわけです。だから、子供のことを思えば与えないのはあまりにも当たり前ですから、そこにものすごい努力があるわけでもないですね。 だから、決めるかどうか、決めた上でどうするか、そこがあると思いますね。決めないとなかなか次のステップに行かないですから、そうなると、「カルシウムが足りないと言われたけどどうしたらいいんだろうか。うん、やっぱりミルクかな」になっちゃうじゃないですか(追記:しかも、牛乳を飲めば飲むほど骨粗鬆症になるという研究もあるんですよ)。 でも、「ミロクの世は菜食」というその信仰の人生に生きたいということを決めているのであれば、牛乳を飲むという選択肢はもう一発目で存在しないわけですから、だから別に、そこに努力が必要ということでもないし、ただの自然な流れですよね。 あとは医学。 医学に関わる、医療にかかる、ということの問題。 で、僕は、常に言うように、医療にかかるかどうかの選択は皆様一人ひとりに委ねられていますけれども、僕自身がどうしたいかというと、明主様が脳溢血になられて医者にもかからない、薬も飲まれないというその生き方が、我々が神様という存在に目覚めるのに大切だと思うのでね、僕自身はそういう選択をしないかもしれない、医療に頼るという選択はしないかもしれないんだけれども、だけど、皆様の中で、もしどうしても医療に頼らなければいけないという状況があったとしたら――そしてこれは、医療にかかることを正当化してるわけでも推進してるわけでも決してないけれども、あと、だいたい、この40年、50年、60年ぐらいずっと肉食してきたわけですから当然病というのは出ますし、ま、そもそも、ある身体の状況、それを人間が「病」と認識するから病になっちゃうんであって、「これは病ではない、神様からの恵みなんだ」といって生きるのも一つの道なんですよ――ま、それはそれとして、とにかく医療にかかっていいとか、医療にかかることを決して正当化しているわけではないですが、ただ、どうしても医学にかからなきゃいけないとか、もうかかっているということがあるとしたら、そしたらですね、僕は、その方たちは、「もう絶対自分と同じような人を二度と出さない」という思いで、それこそ死に物狂いで畑をしたり、ヴィーガン食の伝道に尽くしたりと、それしかないと思いますね。 もうどうしても医療にかからなきゃいけないんだとしたら、また再び自分と同じ病の人を絶対に出さないという信念を持って、どんなに小さくても自分で畑をやって、ヴィーガン食の普及をして、もう二度とそういう人たちが出ない世の中を造ることに自分の人生を完全燃焼させる、これだと思いますね。 だって、病の人がそういう気持ちで自分の病と向き合ったら、本当に世の中の病は少しずつ減っていくと思いますよ。だって我々が目指しているのは「病貧争絶無の世界」ですよ。 今日の明主様の御歌にもありましたように、我々は、病の無い世界を造りたいんですよ(「夢にだも想はぬ望み仕遂げなむ病の悩みなき足御代を」)。誰も夢にも思わないような世界を造りたいというのに、生半可な気持ちでその世界ができるはずないじゃないですか。人類の誰もが夢にも思わないようなことをやりたいと言ってるのに、人類と同じような程度の努力で絶対そこには到達しませんね。明主様の願ってることは実現されない。 だからもう完全燃焼するしかないわけですね。日々完全燃焼。 でも、「完全燃焼と言われても年齢が」となりますよね。 もう自分は60歳、70歳、80歳で大変ですと、そうなりますね。 今、社会全体が高齢化社会というものを重荷として見ている。「高齢化社会」という言葉を使う時、基本これを悪いこととして捉えていますよね。 教団のほうでも、先生方が、最近は信徒が高齢化していますのでなかなか発展が難しいですのようなことを言われますが、こういう場合、「高齢化」という言葉は、これが悪いことであるという前提に立った上での話ですね。 次の話は、これ、ある専従者の方の感想を読んで、本当にそうだなと思ったんだけど、まず、今我々は高齢化、高齢化と言ってますが、明主様は、人間は120歳まで生きられると仰せですね。 そのことに関連して、3年前ボリビアにまいりました時、一人の信徒が、真明は菜食と言うけれども、ボリビアではみんな肉とか食べてますが結構元気です、みんな結構長生きしてます、だからどうなんですか、みたいな質問があったんですね。 で、なるほどと思って、じゃあボリビア人が肉たくさん食べて元気で長生きしてるというなら、ボリビア人の平均寿命どれくらいだろうと思って調べたら、まあ60歳とか70歳ぐらいなんですね。日本の場合は85歳くらいですけれども、ボリビアの場合はそれより低くて60とか70。その中で、肉とか食べても元気ですと言われる。もちろん、これはただの平均ですから、肉を食されても80とか90とか長生きされる方は当然いらっしゃいますよね。でも、平均は60、70。 そうだとしたら明主様の基準は人間は120歳まで生きるということですから、もうその半分ぐらいですよ。だからこれは、今の日本人の感覚でいえば、もし平均が85だとしたら、その半分の40歳とか50歳ぐらいで亡くなってるみたいな感じですね。 だから、明主様を基準にしたら、60、70、80歳なんてまだひよっこですよ(一同笑声)。ひよっこ。明主様の120歳というのを基準としたら、皆様まだまだ衰えるのは早すぎますよ。 この間も祭典のあとマミと話していたのですが、最近本当にご年配の信徒の方々もなんか肌艶が良くなってきて、目の輝きも、、、いや、皆さん昔もおきれいでしたよ(一同笑声)、当然昔もおきれいだったけれども(一同笑声)、より良くなってるね(一同笑声)、すごい輝いてるね、そして、やはりこれは菜食の効果があるんじゃないかと、マミとそんな話をしてたんですね。 だから、普通「高齢化」というとマイナスのイメージになりがちなんですが、そうではなくて、メシア教においては、菜食もして、畑もして、教会に行っていろいろな人と会ったり、歌も歌ったりみたいなことで、周りの人から、世界メシア教という集団の人たちは、80、90、100歳になってもみんな超元気だねと、そう言われたいじゃないですか。 そうなれば、みんな、「なんでだろう?」と思うと思いますね。なんかメシア教というすごい宗教があるみたいだよ、普通世の中では高齢化社会は悪いこととして見ているのに、メシア教においてはみんな菜食して、畑やって、みんなで集まって、歌を歌ったり、新年もこんなところで集まったりして(一同笑声)、元気いっぱいですごいね、というふうになるんじゃないかなと思いますね。そうなれば、日本全国で、メシア教ってすごいじゃないかとなるんじゃないかと、そういう期待を持っているわけです。 若い人が元気なのは当然ですよね、だって若いから。普通まだ病気も無いし、元気。だけど、ご年配の方々について、今日の明主様の御歌にもあったように、世の中の人たちが、メシア教の人は誰も病気の人がいないと「訝(いぶ)かし」むことになったらすごいじゃないですか(「信徒の如何に増ゆとも病む人のなき訝かしのメシア教かも」)。 世の人が、いやーメシア教の人は病気にならない、不思議だ不思議だとなったら、規模は小さくても、メシア教が、ご年配の方々でも元気だというモデルになり、これはすごい波及効果ですよね。 ご年配の方々を通して、ミロクの世の食は菜食だという明主様のみ心がどんどん広がって、結果、地上天国、本当に病無き世界、病貧争絶無の世界、というのができていくとしたら、現代においては、「高齢化社会」とかいうことでなにか社会の重荷みたいにさせられてますけれども、全然違うんじゃないかと僕は思うわけです。 だから70歳とか80歳ぐらいで、「いや、もうだんだんなかなか難しいです」とか言われるのは皆様まだまだ早すぎるんじゃないですか?だって明主様の基準は120歳ですよ。 だから、メシア教は、なんか長生きしてる集団で、120歳の人がバンバン出ちゃってますねと(一同笑声)、そう言われるくらいになって、そして、この宗教はなんなんだと、そうなりたいですよね。 というように、ご年配の方々は、社会、また教団の中でなにか重荷と思われるようなご存在では一切ない。それどころか、むしろ、この教団がいかにすばらしいかというのを身をもって示すことができる皆様方である。 だって、若い人がどんなにがんばって、ヴィーガン食してます、マラソンしてます、こんな元気ですと言ったって、若いうちはだいたい肉食べてる人だって自分は元気だと思ってるわけだから、ああそうですかで話終わっちゃいますけど、80歳、90歳、100歳になっても元気だったらもう勝負ありですよ(一同笑声)。 だから皆様方に――皆様方というとなんかここにいらっしゃる皆さんみんなを高齢扱いしてるみたいになってしまいますが(一同笑声)――ご年配の方たちは、メシア教のご神業がいかにすばらしいかというのを世に示すすごい使命があるんじゃないかと、そう私は思うんですね。 であれば、自分は80歳くらいになってだんだん参拝も行けなくなりました、というようなことではなくて、むしろ、菜食も一生懸命していただいて、畑も、小さい規模でもいいですけれどもしていただいて、いろんな人と触れ合って、歌も大きな声を出して歌ってと、そういう、完全燃焼、日々完全燃焼できる人生を明主様に捧げさせていただいて、そしてそれに引っ張られて、若い人たちも、年を取ってもああいう先輩の方たちみたいになりたいなと、そういうことがやはりすばらしいんじゃないかと、そう思うわけですね。 だから僕は、今年2026年の世界メシア教のモットーを「完全燃焼」としたいですね。完全燃焼。日々完全燃焼。 そしてこれは、なにか、抽象的なとか、精神的な意味での完全燃焼ではないですよ。 いや、もちろん、神様に真向かう心の営みは当然努力させていただくんですけれども、そういう意味での完全燃焼ではなくて、具体的、現実的に実際身体を動かしてできることについて完全燃焼をしようじゃないかと、そういうことです。 一日一日、そうやって生きる。それを積み重ねていく。 だって、昔我々の先達が、すばらしい世界である地上天国を求めてがんばってたのに、教団浄化が起きたりとか、結局教団も小さくなっちゃってとか、そうなってしまっているからといって、我々はこのまま地上天国建設をあきらめるんですか? 先達の人たちだけではなくて、今までの我々自身の地上天国のために捧げてきた努力もあるじゃないですか。それが結局意味の無いことになってこのまま終わるわけにはいかないじゃないですか。 だからやはり、昔の方たちが、日々完全燃焼して明主様のご神業に尽くされたお姿を今思い出して、毎日毎日、ヴィーガン食にしてもそうですし、伝道もありますよね、伝道、それに完全燃焼する。 畑をするにしても、教会の行事に参加するにしても、大祭に参拝するにしても、歌を歌うにしても、ちょこちょこっと歌うのではなくて、完全燃焼をしないといけない。歌うとしたら完全燃焼しないといけない。 というように、すべてを完全燃焼で向き合ったほうがそもそも人生が楽しいと思いますよ、難しい話じゃなくて。 ユダヤ教では、ずっと待ってた。 メシアが出てくるのを、何千年も待ってた。 で、二千年前イエス・キリストが登場して、「すごい。ずっと待ってた救い主が現れたんだ」ということでせっかくキリスト教ができたのに、今度そのキリスト教では、「キリストの再臨がある」ということになってしまって、結局また「待ち」になりましたよね。 ユダヤ人は何千年も待ってて、せっかくイエス・キリスト登場して、人類の救いのとどめを刺しに来た存在が出たのに、また「待ち」になってしまった。 イエスが来た目的は、それまでとは違う、まったく新しい展開にするためだったんですよ。人間が活躍する、という世界ではなくて、神様にすべてをお返しして、すべてを神様の栄光として讃えようという世界にするためだったんですよ。 それなのに結局また「待ち」になった。で、「待ち」になるとどうなるかというと、それは、「まだ成し遂げられていない」とか、「赦されていない」とか、そういう世界ですから、そうなると、やっぱり罪滅ぼしのために努力しなきゃいけないとか、自分は赦されなきゃいけないとか、すばらしい世界を人間が造らなきゃいけないといって、それは、神の栄光を讃える世界ではなくて、人の栄光を讃える世界に入ってしまうわけです。だから、人類はそれをずっとやってるんですよ。 ユダヤ教ではずっとそれしてました。で、今度キリスト教。せっかくイエス・キリストが出たのに、キリストの再臨があるからとか言って、もうそのまま二千年待ってる。 というそういう営みすべてにとどめを刺しに来たのが明主様ですよね。明主様であり、世界メシア教。 明主様は、「人類は等しくメシアとして新しく生まれることができるんだ」ということを御身をもってお示しくださって、メシア教は天国を造ると言われた。天国が来るとは言わない、造るんだと、これ、明主様の基本的なメッセージですよね。 だからなぜそれができるのかといったら、それは夜昼転換があったからですよ、すなわちペンテコステの聖霊ですね。 というように、ペンテコステの聖霊に満たされて救いを進めるという、人類のとどめの救いを託されたのがメシア教なんです。 そのメシア教信徒としての活動とはなにか。 当然それは、我々の日々の思いに関わることもありますね。今言ったように私たちはすばらしい使命を持ってはいますけれども、でも、世の中で生きているから大変ですよね。仙人にはなれませんから。だから、いろいろ起こる。 それこそ自分の子供がダウン症になることもあれば、自分がガンになることもあるし、いろいろじゃないですか。 でもそれを、今日ずっとお話ししましたように、「あ、自分はここを救いに来たんだ」というその心の営み、これは大切な活動の一つですね。 プラス、ペンテコステの聖霊、すなわちイエスの贖罪というものが100%成し遂げられたと信じての菜食。イエスの贖いを100%信じてのヴィーガンなんだから、我々のヴィーガンは「クリスチャンヴィーガン」と僕は命名したいですね。 ということで、心の営みと食の活動。 さらに、ペンテコステの聖霊により全宇宙はもう完全に清くなったんだという信念に基づいての農法も活動の一つですね(自然農法、贖罪農法、キリスト農法、光の農法)。 いや、確かにね、土に糞尿を入れないというのは元々は大本から来た思想ではありますよ。だけど、明主様の、土に糞尿などの汚れたものや農薬や肥料などを一切使ってはいけないというそのお考えは、やはり、夜昼転換によって地球上が完全に清まってしまったんだ、架空の話ではなくて、我々は現実的にも一変してしまった世界に生きているんだという確信がおありだったから、土というものは、なにも入れなくても作物が育つんだと、そういうことを訴えられたわけです。 歌もそうですよ。歌も、「Jesus」のように、原曲は、「いつかすばらしい世界が来たらなぁ」という歌なんですが、メシア教においては、どんな歌であっても、もう到来してしまったすばらしい世界を讃えるというための歌の活動である。 だからメシア教の活動というのはすごいですよ。 具体的なこともそうですし、心の営みも網羅している。たとえ認知症であっても、たとえ左半身が不随であっても、たとえダウン症の子供が生まれても、たとえ病院に行かなければいけなかったとしても、すべての人が完全燃焼できる人生を歩ませていただける。たとえどんな困難が自分の身に降りかかっても、それは、罪滅ぼしのための人生ではなく、喜びと歓喜に満ちあふれた中での人生を一人ひとりが送れるんです。 だから、まあ、このすばらしい宗教を、、、宗教というか、今お伝えしていることは真理ですからね。 明主様がいつも言われていたように、我々の活動を「宗教」と呼ぶことすら憚られますね、だって真理なんですから。 そうでなければ、じゃあ何?我々はこれからダウン症の親を見て、「かわいそうだな」と思う人生を歩むんですか?そうではなくて、絶対それは、「あ、この方は救いのために生きておられるんですね」、が真理ですよ、どう考えても。 「半身不随でかわいそうですね」と生きていくんですか?そうではなくて、「いや。これは、霊の体と一つになるための努力なんだ」となればすべてが光になるじゃないですか。そこに闇はもう無いですよ。今までの我々の人生の見方は闇がある見方じゃないですか。でも、もう無いんですよ。もはや悪いことは無いんです、我々にとって。 という世界にすでに生きてる我々のこの幸を、なんとしても一人でも多くの人に知ってほしいですよね。 そのために努力するというのが、今まで亀のように見えたかもしれない我々の営みが本当に報いられるという意味でもあるし、また、先達の方々のご苦労や、今日まで我々のために命をつないでくださったご先祖様のご苦労に報いるという意味でもある。 ユダヤ人、キリスト教。 いや、ユダヤ人とかキリスト教の人がこの真理に目覚めたらその喜びは大変なものだと思いますよ。 だから、メシア教の活動だからどうだとか、そういうことで小さく捉えて、イエス・キリストがどうとか、明主様はこうだとか、そうなりがちですけれども、今我々が知らされていることはそれを超越してるんです、だって神様の真理なんですから。 その神様の真理の破片を明主様は我々にふんだんに教えてくださったわけでしょ。イエス・キリストもその破片を教えてくださいました。でも今、その神様の真理が我々メシア教に託されているんです。 だから、今までの歩みのすべてを本当に生かすために、今年一年、完全燃焼。 全信徒一丸となって完全燃焼させていただいて、というか、私自身もそういう信徒の方々と共に歩ませていただきたいと思っていますので、我々みなで日々完全燃焼させていただいて、今年一年がんばってまいりましょう。 よろしくお願いします。* パロ 古代のエジプト王を指す称号。ファラオとも。