皆様こんにちは。 熱海は、3日ぐらい前から風が強くて、昨日も相当強くてどうなるかなと思ったんですが、今日は風も止んで、もはや12月とは思えない暖かい、穏やかな天気ですね。風が強かったら、本部入口の旗も誰かが一生懸命支えてなければいけなかったのでしょうか(一同笑声)。まあ、掲揚できなかったでしょうね。でも今日は、風があまり無いということで、教団旗を青空の中きれいに掲揚できて、そんな中ご参拝に来てくださいまして、ありがとうございます。 本日は新穀感謝祭ということで、お野菜のみならず、この俵(真明様、俵を指し示される)――化粧俵と言うのかな――もありますね。ご神前にお供えした野菜、また奉献米もたくさん本部に届いてると思うんですけれども、そういうのを届けてくださったり、また当然、お米ができるまでのたくさんのご苦労もありますし、それとまたこの俵を作ってくださった方々、皆様、ありがとうございます。 新穀感謝祭ということは、新しい「穀物」に感謝するということで、日本人の場合それは当然お米ですね。この穀物ということに関して明主様は、食事というとみんなおかずのことばかり考えるけれども、本来穀類が主なんだと仰せになりました(「栄養学」1942年9月28日)。 そのお考えから派生して、あの有名な日本アルプスの聖言、お米だけ食べても栄養が足りるというそういう明主様のお考えになるわけですね。 でも我々は、どちらかというと「おかず中心」みたいになって、一汁三菜、四菜、五菜、六菜、七菜(一同笑声)というようにおかずがどんどん増えちゃうんだけれども、明主様は全然そうではなくて、おかずに何つくるかとそんな悩まないで、「もうお米だけでいい」ということですので、「一汁一菜」という言葉がありますが、この言葉は、ご飯はもう当たり前ということで言葉に含まれていませんので、一汁も一菜も無いんだとしたら、何も言えないですね(一同笑声)。お汁も無ければ菜も無いんだとしたら、もう何も言えないですね。 そういうことを考えると、ベジタリアンとかヴィーガンという言葉は、当然ベジタブルという言葉から派生していますから、野菜ですよね、野菜。ベジタリアンとかヴィーガンというのは、「野菜を食べる人たち」ということですよね。 でもこれ、別に、肉食べる人だって野菜食べるわけですから、なにも、ベジタリアンとかヴィーガンという言葉でなくても、穀物とかフルーツという言葉をもとにした表現でも良かったんじゃないかみたいな、そういう話を家で妻としてたんですね。 「ベジタリアンというけれども本来食事といえば穀物が主じゃないか」みたいなことを話してた。そしたら妻が、じゃあ我々は「ライスタリアン」(一同笑声)だねと言って、なんかその言葉が面白くて僕は笑ってたんですけれども、それで僕は、じゃあアンゴラの人はフンジというものが主食だから「フンジタリアン」(一同笑声)だねと言ったりして、そんな会話をしてました。 でも、今日ご神前にお供えしている農作物は、どこにでもあるお米とか野菜ではなくて、いわゆる自然農法と呼ばれる農法――無農薬とか化学肥料を使わないとか、堆肥もできるだけ自然の物とか――そういう非常に苦労して作られた物であって、買おうと思っても簡単に買える物ではないですね。今の世の中ではなかなか得難い、そういう物です、ここにお供えしてあるのは。 で、自然農法には定義みたいのがありますね。要は、自然農法といえば、農薬使わない、化学肥料使わない、堆肥もできるだけ自然の物、種も、明主様は肥毒の残ってる種が良くないということを非常に仰せだったんですけれども、あとは、近い土地の物がいいということでしたので、種についていえば、肥毒が抜けてて、その土地で育ってる物を使いなさいということですから、今で言えば、在来種とか、そういう物をお示しになってましたね。 というように、我々が「明主様の自然農法」という時、今話しているような定義がありますね。そんな中、今日、「自然農法の原理」(1954年1月27日)という聖言を拝聴しましたが、拝聴しながら、「結局自然農法とはなんだろう」ということを思っておりました。 この聖言では、「そもそも土というのは神様が人類を養うために造られたんだ」という大命題というか、根本的な主張があるわけです。大きな柱。 そしてそのあとにXの話をされます。火水土のそれぞれの霊的な要素が三位一体となったX、これが無にして有であって、しかも万物の生命力の根源であり、一切万有を生成化育すると、そう仰せです。 このXを認めて土を愛し土を尊重する、これが自然農法だと明主様はおっしゃる。Xと言っても、無にして有であって、万物の生命力の根源ということですから、それは、究極的には神様ですよ。だから、Xは科学では未発見ということですが、無にして有なんですから、一生発見できないかもしれないですよ。 無にして有、万物の生命力の根源、一切万有を育ててるもの――このXは神様のことです。創造主のことです。明主様は今日の聖言では造物主という言葉をお使いになりましたが、造物主であり創造主であり、神、これを認めなさいと明主様は仰せになってるわけです。 つまり明主様は、神様を認めて土を愛して土を尊重しなさいと仰せになって、そして、これが真の農法であって、これ以外農法はあり得ない、この農法を実行すれば問題も根本的に解決するんだとおっしゃる。 根本的に解決しちゃうんですよ。しかも、このXの力である神様の力こそが「無限の肥料」だと仰せです。無限の肥料、ですよ。土そのものに無限の肥料があるとお示しになっている。 Ⅹを認め、土を愛し、土を尊重する。 だから、明主様の自然農法は何かといったら、「認める」「愛する」「尊重する」ですよ。ここ、農薬がどうとかひと言も出てこないじゃないですか。いや、確かにこの聖言の前半では肥料のことに触れておられるけれども、真の農法を語られている時には、農薬がどうとか堆肥がどうとか、そういうテクニカルな言葉はひと言も出てこない。 認める、愛する、尊重する、ということは、心の問題です。心の問題であり、信仰とか我々の思いのことです。認めなさい、それが真の農法だと、そういうことです。「認める」のが真の農法なんですよ。ということは、明主様の自然農法というのは、「神様の力を認めます」とすることであって、これ以外の方法は無いと明主様は断言しておられる。 我々は、自然農法というと、世の中の考え方に流れていって、無農薬、無化学肥料で種はこういうのを使っているので自然農法ですとしているのではないでしょうか。 でも僕は、「明主様の自然農法」を名乗りたいならば、少なくとも、神様を認めます、神様の力を認めます、ということをオープンに訴えなければそれは名乗れないと思いますね。 Ⅹと言っても究極突き詰めれば神様、その神様の力を認めて土を愛する。なぜ愛するのかというと、神様が造られた物だから愛するわけです。神様が造られた物だから尊重するわけです。それが明主様の自然農法です。 確かにそこの根本から派生して、じゃあ農薬使わないようにしようとか、土に力があるなら肥料使わないようにしようとかなりますけれども、それは二義的なことですよ。派生してそういう細かいことがいろいろある。だけど、細かいこと全部書いたら「自然農法」の定義は長くなっちゃいますね。 だから、自然農法は何かと言えば、それは、「神様の力を認めている農法」ですよ。それだけですよ。そして、それを世に対して訴えているかどうか。ホームページで野菜売ります、というような時に、それを訴えているかどうか。 今世の中でも、自然農法とか自然栽培とかいろんな言葉がありまして、明主様と関係無くても「自然農法」という言葉がある程度受け入れられてますから、神様のことを出さずに自然農法という言葉を利用するのは我々にとって便利かもしれない。 でも、少なくとも、もし、明主様の自然農法を名乗りたいなら、作った作物について、「これは神様のお力によってできた作物です」ということを訴えて初めて、明主様の自然農法を実践してると言えるんじゃないかなと思います。 そういうことを言いますと、いや、明主様は自然農法と信仰は切り離しなさいとおっしゃった、だから神様という言葉は使わなくてもいいんだと、長年そういうことで歩んできた面もあると思います。 でも、明主様が信仰と切り離しなさいとおっしゃった意味は、神様を隠しなさいという意味ではなくて、自然農法をするには必ずしも入信しなければならないわけではないよ、ということです。 だって明主様は、この「自然農法の原理」という聖言は誰にでも読んでほしいと思って書いておられるわけですが、神様のこと全然隠されてませんよ。むしろ堂々としておられる。 だから、自然農法に限らず、「信仰と切り離さなきゃいけないということは神様も隠さなきゃいけないんだ」というこのありようが、今日まで、長年ご神業を進める上での我々の大いなる過ちの一つだったんじゃないかなと思いますね。 だって、別に、自分は神様が農作物を育てると信じています、でも、入信するかしないかはあなたの自由ですよでいいじゃないですか。それなのに我々は、信仰と切り離さなきゃいけないなら神様も隠さなきゃいけないとなったわけです。 明主様は、一度たりとも神様を隠されたことはありませんよ。いや、確かに戦前一時期弾圧された時はどうしても隠さざるを得ない時はありましたけれども、戦後信教の自由が確立されたあとはもう全然関係無いですよ。隠されない。 だから、信仰と切り離すというのは、要は、信徒にならなきゃできませんよということではない、ということです。逆に言えば、自然農法というのは、神様のお力を認めれば未信徒にでもできますよ、ということです。 というか、隠してたらダメなんです。だってⅩを認め、土を愛し、土を尊重する、そして、土は神様が造った物である、その心でするのが真の農法で、しかも、神様の力を認めなければその「無限の肥料」も発揮されないんですから、むしろ、神様を隠してどうやって明主様の自然農法を拡げられるんですか? だから、明主様の自然農法というのは、技術の問題ではなくて、信仰の問題ですよ、信仰の問題。 でも我々は、信仰と切り離すんだ、神様隠すんだ、ということで、結局世の中でやっている有機とかオーガニックとかの仲間みたいになって、買う時も、自然農法の物は買えなくても有機とかオーガニックの物を買えば少しはいいのかな、という認識になってますね。 だけど、有機とかオーガニックという農法は、日本も含めて、ほとんど鶏糞使ってます。そして、糞を土に使うのは明主様が最も忌み嫌われた行為ですよ。今日の聖言にもあったように、土を清浄にする、土を汚さない、というのが明主様の自然農法の非常に大きな点の一つですからね。 明主様は、糞類を肥料に使うというのは、「土を軽蔑する」、いや、「人間の分際で、神様を軽蔑する様なもので、神様に対する反逆です」と仰せです(「御講話」1951年12月6日)。これ、明主様がなされた表現ですよ。神様が土を造られたのに、そんな物を入れるのは神様を軽蔑してる、神様への反逆だと仰せです。 もしかしたら、明主様から言わせたら、鶏糞を使っているオーガニックとか有機の物を買うぐらいだったら、鶏糞は使ってない化学肥料でできた野菜とかのほうがまだいいかもしれないぐらいですよ。 だからそうなると、もう何食べていいか(一同笑声)、何買っていいか分からないとなるけれども、だから自分たちで作るしかないということですね。だって、明主様仰せですよ、そのうちなにも食べられない時代が来ると、これ、皆さんご存じですよね。だとしたら自分たちで作るしかないじゃないですか。 というように明主様は、それだけ神様が用意されたこの大自然はすごいものなんだ、いや、大自然がすごいというか、その大自然を用意された神様がすばらしいお方であって、その神様のすばらしさをお讃えしたいがために自然農法も含めたいろんな活動をされていたわけです。 大自然が鳥の糞とか馬糞を降らすのか、降ってこないじゃないか。でも、落ち葉は落ちてくる。だから、木から落ちてくる落ち葉とかその辺に生えている草の葉っぱとか、それが自然に土に入るのを堆肥とするのはまあいいでしょうと、そう明主様は仰せです。 でも、EMは空から降ってこないですよ(一同笑声)、EMは。 明主様が自然農法に関するお示しのあらゆることを見れば、EMが明主様のみ心であるはずがないですね。 いや、EMが何か効果があるから使いたいということであれば、それは、明主様の自然農法ではないけれども、まあ、そういう農法もあるんですねということですけれども、それは、少なくとも明主様の自然農法ではない。 EMという不自然な物を使うこと自体、明主様から言わせれば、土を軽蔑してる、神様を軽蔑してる、神様への反逆だとなりますよ。 明主様、ものすごい厳しいですよ。世の中で言えば普通である動物の糞を使おうとしたら、それは神様を軽蔑していることであって、それは神様への反逆だ、ですから、当然EMも同じことですね。 厳しいというか、明主様の神様への情熱ですよね、神様への信仰心。神様は、絶対自然の中そのままに、ありのままに、すでにすばらしい物を用意してくださってるという信仰心。 この、「神様を認める」ということ。これは、簡単なことのようですけれども、明主様のご神業の中核をなすことです。 例えば芸術。明主様は芸術品をたくさん集められましたが、それを見て、「いやあ、美しい」と思うけど、そこで、「このような美しい物を造られた神様はすばらしいな」と思ってもらうのが明主様の狙いですね。 だって明主様は、有名な、「美はしき花見る毎に意ふかな神のたくみの妙なる御技を」、ですよ。 毎回、ですよ。美しい花を見るたびに、ですよ。そのたび毎に明主様は神のたくみな御技はすばらしいなと思われていたんです。だとしたら、絶対美術品とか芸術品でも同じことですね。 なにかご購入になりました、そしてそういうすばらしい芸術品が届きました、という時、それをご覧になっている明主様は、確かにその芸術家のテクニックがすごいという種類のことも仰せですけれども、その奥には、その人間を通してこの芸術品を造られた神様はなんてすばらしいんだろうと思われて、みんなにもそれに触れてほしかったわけです、明主様は。 でも、美術館運営を長年してきた中で、「神のたくみの妙なる御技を味わうために美術品を見てもらう」とか、あるいは、「我々は創造主である神様のことを思い出すために美術品を持っています」ということを訴えてこなかったですよね。誰も訴えてこなかったですし、今も訴えてない、世に対して。 もしこういうことを、今までの30年から40年の間訴えていたら、その中で、何人かの方は、本当にそうだ、神様というご存在はいらっしゃるんだと、芸術品を通して目覚めることができたかもしれないですよ。でも、この長年、一度もそういうことを訴えたことはない。 これも先ほどの話と一緒で、芸術とかの活動も信仰と切り離そう、だから神様も隠そうという論理にまた捕まって、そしてまた、神様を隠すのは日本においては楽ですから、だから我々としては、明主様は信仰と切り離せと仰せなんだから、やった、神様隠しができると、それくらいの感覚ですね。 というように、明主様がせっかくお集めになった美術品も、明主様のみ心通りに使ってこなかったがゆえに、結局、明主様がもはやそういう美術品は必要無いと思われて、今回の教団浄化を通して事実上手放されましたね、すべて。 だって世界救世(きゅうせい)教というのはなにかと言ったら、当然、二代様の「教主」に関する聖言はたくさんありますけれども、それを取り上げなくても、世界救世教の教規に、教祖の聖業を継承するのは教主と定められている(世界救世教教規第5条第1項)わけで、要は、教主様は現界において明主様のお働きを継承されるお方ということですから、今回、形の上では世界救世教の理事会が教主様を追い出したということになっていますが、教主様を追い出すということは即明主様を追い出すということですから、本当は、明主様が、「世界救世教の方々はもうこのままのあり方で進んでも目覚めることは無い。だから、ちょっと違う手を打ってみようかな」と思われて、そして、世界救世教をご自分のもとから追い出された。離された。 明主様は、「聖地も、美術品も、私の願う役割はもう果たした。でも今、これらの物は私の願うようには使われてない。だから私はもうこれらの物は要らない」と、そう思われたということです。 でも今、世界メシア教になって、聖地たるメシア聖堂の建設に取り組んでいますね。そして地上の聖地というのは、明主様にとっては、我々一人ひとりの中にある内なるパラダイス、オアシスを思い出してもらうための場所であって、そういう目的で聖地を造りたいというなら、聖地という場所は一度地上から取り去ったけれども、あなた方がそういうことでやりたいならどうぞと、そう明主様に言っていただいている段階ですね。 だから、美術品のことも分かりませんよ。今後、もし明主様が必要とされるならば、今の時代にふさわしい、明主様が望んでおられる美術品をご自分のもとに集められることは十分あり得ますよ、当然。明主様は絶対力をお持ちの方ですからね。 「世界メシア教の美術館」は、あり得ないことではないですよ。だって、もし神様が、なんかしらの芸術品を通して創造主である私のことを思い出してもらうことが必要だなと思われれば、そうされますから。 実際に明主様がどうされるかというのは分からないけれども、でも、少なくとも、そういうこともあり得るんだということは思っておいたほうがいいですね。「ああ、追い出されちゃって全部無くなっちゃった」(一同笑声)じゃなくてね。明主様が望まれればどんなことでもされるんですから。 神様を認めるということの現れとして非常に中心的だったのが明主様の薬毒というお考えですね。 土というのは、人間に農作物を生み出すために神様が造られた物、だから、農薬とか肥料は何も入れてはいけない。そして、そのお考えのもととなっているのが、薬毒ですね、薬毒の明主様の聖言。 というのは、人間には自然治癒力というものがあるじゃないか、人間の身体というのは神様が造った最高の芸術品であって、そうなんだから、たとえ病気になっても絶対治る、神様が治してくださると、そういうお考えですね。 自然良能力という言葉も使われましたけれども、とにかく自然治癒力のことですね。人間の身体にはそれがある。神様がそういう身体に造ってくださった。だから、その尊い身体に薬を入れるとなったら、明主様としてはもう、先ほどの糞やEMの話と一緒で、神様に対しての軽蔑であり、反逆だと、そうなるわけです。 いや、僕はここでね、皆さんお一人おひとりの医学の選択についてなにか言いたいわけではない。それはお一人おひとりが決めることです。だって現代において大人の方は、基本的には、医学を受け入れる権利も、拒否する権利も許されてるんですから。子供のことに関わるとちょっとややこしいですのでね、それはうまくやらなきゃいけないことはありますけれども、でも、大人の方は自分で決めるということです。 だから僕は、一人ひとりに対して形の上でこういうふうにしなさい、という話をしているのでは決してない、決してないけれども、でも、明主様が仰せのことはありますよ、明主様の生きざまというのはありますよと、そしてこれが信仰と関わってるがゆえに私はこの薬毒のことについて言わざるを得ない。 そうすると、いや、薬飲まなくなったら早死にしちゃうかもしれないと言われたいかもしれませんけれども、じゃあ明主様はどうだったかといったら、明主様はそれこそ早死にされましたよ。だって、1954年に脳溢血になられて、その時、もし病院に行かれて治療を受けられていたら、もうちょっと長生きされたかもしれませんよ。 でも明主様は、いや、この病も、きっと神様が何か自分にとっていいことのためにしてくださってるんだということで神様を信じ切られたわけです。僕は、そういう明主様だから「メシアとして新しく生まれる」というところまで到達できたんじゃないのかなと思いますね。 派生して薬を飲む飲まないとかいうことはあるわけですが、明主様にとっては、一義的には、神様を信じ切るということが最も大切だったわけです。たとえ自分の命がどうなろうとも私は神様を信じます、命を捨ててまでも神様のことを愛しますと思われた。だって、神様との恋愛が最大の恋愛だとも仰せですね。だから明主様は神様を恋い焦がれたわけです。脳溢血という重い病といえども、きっとなにかいいことのために神様がしてくださってるんだと受けとめられた。 世の中からは、なんだ、あなたは世の病を全部無くすと言ったけど、結局自分が早死にしてるじゃないか、医学受けとけば良かったじゃないかと言われてるかもしれない。 でも、神様の目にどう映ってるかは分かりませんよ。明主様がご昇天になって、神様は、天上において、明主様に「よくやった」と仰せになって抱擁されてたかもしれない。 だから、そういうことを考える時、我々の病に対する理解というのが、もう基本的に「悪い」ということからスタートしますね。「悪いことだ」「うつりたくない」という受けとめ方ですね。 うつりたくない、ということは外に病気の原因がある考え方ですが、明主様は、外からというより、病の原因は基本的には罪ということであって、それが霊体とか霊の曇りになり、それが身体に移写することによって血が汚れて、膿みたいになって、この汚い物を身体から出して身体を清めるためにいろんな病気になるんだと、そういうことですね。 だから、外からうつることは絶対に無いというのが明主様のお考えです。もしうつるとしたら、それは、神様が、あなたの身体は汚いから、その汚い物を出してきれいな身体にするために菌を呼び寄せたよ、ということはありますね。 でも明主様は、基本的には周りの人からうつることは無いというお考え。伝染病なんてちっとも怖くないと仰せになり、必要であれば細菌でもなんでも飲んでいい、飲んでも私はうつらないと、そう仰せになってますよ(『御光話録』7号 1949年4月4日)。 さらに明主様は、自分は気違いだから、、、というか頭が、、、いや、気違いがあまり使ってはいけない言葉だから他の言葉を探そうとしたら余計にドツボにはまりかけました(一同笑声)けれども、とにかく、ご自分だけではなくて、自分の家にいる他の人も飲んでもいいと仰せになった。 この明主様のご感覚と、コロナの時の、「マスクしなきゃいけない」とか「ワクチン打たなきゃいけない」という我々の感覚は、もう真逆ですよ。我々は菌とかウイルスを一生懸命ブロックしようとしているわけですが、明主様から見たら、何やってるんだと呆れられますよ。 だって本当は、明主様からしたら、もっと病気になりなさい、ということですよ。明主様は、風邪引運動をやろうとされてたんですよ、風邪引運動。普通じゃないですね(一同笑声)。いや、普通じゃないですよ、だって風邪引運動ですよ?風邪になればそれだけ清まって体調は良くなるんだということですね。 インタビューとかでも、じゃあたまには風邪を引いたほうがいいということですかと聞かれた明主様は、いや、たまにじゃない、しょっちゅうかかったほうがいいんだ(一同笑声)ということを仰せになりましたね(「中村氏、真山氏との御対談(一) 世の中に薬はあるか」1954年7月21日)。 明主様にはもう度肝を抜かれることばかりですね。 というように、形としては風邪引運動とか、薬のこととかがあるわけですが、冒頭にも申し上げたように、それは明主様の神様への信仰心から来てるわけです。 神様が人間をこの地球上に置いてくださったということは、すでに完璧なものを用意してくださってるはずなんだ、そして、たくさん風邪にかかって血がどんどん清まれば、どんな菌が入ってももはや風邪になることはない、だからどんどん風邪にかかろうじゃないかと、そういうことですね。 本来ご浄霊も、明主様が仰せなのは、身体が持ってる自然治癒力を強化するものだということですよ。 でも我々は、どちらかというと、浄霊を、なんか病気を治す道具的な感覚で思ってたのではないでしょうか。本当は、根本的には、たとえ病気になったとしても人間には自然治癒力がある、何より神様がいらっしゃる、だから神様が絶対にいいふうにしてくださるという、そういうことが基本なわけであって、それを認めなさいということです。土のところの話と一緒で、あなたの身体の中で働いているXの力を認めなさい、自分の身体を愛して尊重しなさいと、そういうことですね。 このような明主様のお考えが根本にあったから、だから、ご浄霊がただの病気治しで終わらずに、最晩年になって明主様は、浄霊は二の問題で想念なんだ、悔い改めなさいということを仰せになれたのではないですか? 最初は、訳が分からなくてもいいからとにかく手を掲げなさいということから始まった。それだけでも病気は良くなっていった。だけど明主様は、最晩年にはもっと詳しく教えてくださったわけです。 本当は、心の中で神様のことを認めること、そして、自分の身体は神様が用意してくださった物だと認めること、これが本当の浄霊なんだとお示しになった。 浄霊の根本には、「浄霊といっても神様を認めることだ」ということがあったから、だから明主様は、「浄霊は二の問題でこれから想念の世界である」ということを仰せになることができた。 しかもこの時明主様が強調して仰せだったのが、「悔い改めなさい」ですから、ああ、今まで自分は自分の身体を自分の物のようにしておりました、神様のことを全然認めず、自分の身体の中にあるXの力も認めずに生きてまいりました、だけど本当は、神様、あなたが私のことを養ってくださっていたんですね、あなたが万物の生命力の根源なんですね、と思わせていただくこと、これが悔い改めですね。 ですから、浄霊から想念になったので、薬のことは昔ほど気にしなくていいのかな、じゃなくて、薬のことももっと厳しくなってますよ、本当はね。「ちゃんと神様のことを認めなさい」「悔い改めて、神様がすべてに働いていることを認めなさい」ということがさらに強くなっているわけですから。 ということで、明主様は、もうこれから悪いことは起きない、神様が大自然を用意してくださって、人間のために土もちゃんと力を発揮する、人間の身体もどんどん良くなるし、世の中もどんどんどんどん良くなっていく、そういう世界に入ったんだということを仰せになったわけですが、なぜそのようなことを明主様が仰せになることができたのかというと、それが夜昼転換ですね。もう新しい世界に入ったということ。 そして、そのもとは何かといったら、それはイエス・キリストですよ。 今日僕がずっと話してきたような世界に突入することができたのは、イエスが二千年前に十字架にかかった時の血と、そののちに降ったペンテコステの聖霊の力によってであって、そしてこの聖霊はその時全宇宙を貫いたわけです。 明主様も、病気といっても究極的には罪が原因であって、治す唯一の方法は罪の赦しと仰せですよ。罪の赦しを受けること、それしか病を治す方法は無い。 そして、贖罪主はもう出たんでしょ、贖罪主。それによって人間の身体、血は清まったんです。我々は清まったんです。 今日拝聴した聖書(「ヘブル人への手紙」第10章1節~18節)にも完全に書いてありましたよ。たった一度イエスがご自身の身体を捧げられたことによって、我々は永遠に全うされた、清められたと、そう書いてあったじゃないですか。 だから、我々世界メシア教がヴィーガン食を推奨するのは、ミロクの世は菜食だという明主様の聖言をお受けし、そして、イエスが唯一にして最後の捧げ物だと信じるからですよ。 ミロクの世は菜食と明主様が仰せになることができたのも、それは、神様が、イエスというたった一つの捧げ物を受け取ってくださったからですよ。 イエスは、最初にして最後で、唯一の捧げ物。それによって我々は、永遠に清められたんです。 だとしたら、明主様が血を濁すと仰せの肉を食べる必要はもはや無いじゃないですか。だから、メシア教の活動のすべては、その根本は健康のためではないですよ。確かに言葉としては自然農法とかヴィーガンとかそういう言葉を使っていますが、でも、それらすべては信仰的営みです。 我々は、明主様の聖言を信じ、イエス・キリストの贖いを信じ、イエスという捧げ物を神様が受け取ってくださったと信じるがゆえにヴィーガンなんだと、そういうことですね。 ヴィーガン食ということに関して日本は遅れていますね。この間ブラジルに行きましたけれども、ブラジルは非常に進んでまして、レストランとかもたくさんありますし、ヴィーガンということに関しては、西洋は進んでますね。そして、西洋の方々といえば、大方はイエス・キリストという存在を受け入れている。 だから私は、ブラジルをはじめとする西洋の方々は、イエス・キリストを受け入れているがゆえに、無意識のうちに、イエス・キリストを最後の捧げ物として本能的に受けとめて、それに自分の心が共鳴して、動物を殺さないヴィーガン食を実践されてるのかなと、そんなことを思いました。ブラジルとかの西洋圏でヴィーガン食が拡がっているのはそういうこともあるんじゃないかと思いますね。 いや、西洋の方々はそういう主張はされてませんよ。ヴィーガンということは基本的に信仰と切り離して考えておられますし、また、信仰の無い方でも実践されていますから。ただ、無意識のうちにイエスという存在が影響を与えているのかなと思うわけです。 でも、世界メシア教は、堂々と、「イエス・キリストが最初にして最後、また唯一の捧げ物であるがゆえに、明主様はミロクの世は菜食の世となるということを仰せになることができたし、それゆえに世界メシア教はヴィーガン食を実践してる」と主張するわけです。 「イエス・キリストが最後の捧げ物であるがゆえにヴィーガン食を実践している」と、こんなことを主張してる宗教団体はほぼ無いですよ。 「水の聖地」のこともありますね。 土の聖地はアフリカのアンゴラ。火の聖地が日本。で、これは計画していたわけではないんですけれども、ブラジルに着いてから、「ブラジルが水の聖地としての使命を果たす役割があるんじゃないか」ということがどうしても思われまして、だから、いや困ったなと思いましたね。だって、これを急に発表するのは大変なことです、事前に計画してたことでもないですから。だから、いや困った、なんとか言わないで済む方法ないかな(一同笑声)、というとちょっと変ですけれども、でも、事が大きくて信徒の皆様の心に与えるものが大きいですから、だからこれ、なんか、僕の思い違いということで言わないでいいようにしていただけないかなと思ったんですけれども、でもどうしてもその思いが去りませんので、そんな中でいろいろ考えていくうちに、いや、これはブラジルにはそういう使命があるんじゃないかということを強く思わされたんですね。 ただ、まだブラジルが水の聖地と定まったわけでもありませんし、今後どうなるかは分かりませんよ。神様がまた全然違う方向に進められるかもしれませんからね。 でも、とにかく、人類というのはアフリカで生まれて――土の聖地と言われるアフリカで生まれて――そしてそのアフリカを出て、イスラエルを経て、日本まで来た。ユーラシア大陸の端の端の端の日本まで来た。この日本というのは、明主様もご自分が生まれられたのが東の東の東と強調しておられたように、地球の端ということですね。人類の末端。 この場所で明主様は神様の真理をお受けになった。イエス・キリストの本当のみ心でもありますね。神様の本当の御心でもあるし、イエス・キリストの本当のみ心、これをお受けになった。 一つのビジョンとしては、アフリカから人類が出て、地球の端の日本に到着し、そしてまた自分の家であるアフリカに帰るというもの。そのビジョンはありますね。今年アフリカにおいてもその話をさせていただきました。 またブラジルということを思わせていただくと、今回僕がブラジルにいる時に思わされたのは、神様の真理は明主様を貫き、そして、全地球も貫いた。 で、地球で日本の真反対はブラジルですね。まあ、正確には海のあたりらしいですけれども、それは一旦置いといて(一同笑声)、とにかく、象徴的に日本の反対はブラジルとされていて、そして、火とセットになるものといったら水ですね。 明主様を貫いたものが全地球を貫いたらブラジルに到達するということは、これで地軸ができる。 ということは、アフリカから出た人類が日本にたどり着いて、そして日本で明主様はその真理をお受けになり、その神様の御心は明主様の御心を貫かれて、全地球を貫いてブラジルまで到達した。 そして、ブラジルはどういう場所かといったら、世界最大のカトリック教国ですね。そしてカトリックはなにかといったら、カトリックの初代の教皇、いわゆるローマ法王はペテロとされてるんですよ。イエスの十二弟子のペテロ。あなたは私の岩であって、あなたの上に私の教会を建てると、そうイエスは言われた。それがずっと継承されて今のカトリックがあるんです。ということは、カトリックが何を象徴するかといったら、ペテロをはじめとするイエスの十二弟子たちですね。 だから、ブラジルと日本が繋がるということは、二千年前の十二弟子と二千年後の私たちが繋がるということでもあります。 教主様も、「始めの教会」という言葉を使われたことがありますが、最初のイエスの時代の十二弟子は最初の救いであって、その救いを継承しているのがカトリック。そしてブラジルは世界最大のカトリック国である。 そして今、イエスの最後の救いを託されてるのが世界メシア教である。 というように、火の聖地である日本と水の聖地であるブラジルが一つに結ばれて地軸が通れば、地球が初めて回転しますね。軸が無ければ回転しませんね、地球は。 だから、二千年前のイエスの十二弟子は象徴的にはブラジルですが、そのブラジルと最後の救いを託された私たちが一つに結ばれて、地軸が通って初めて地球が回転した時、明主様のご神業というのが本格的に始まるんじゃないかと、そういうビジョンが私の心に迫ってきたわけなんですね――このカトリックうんぬんというのは日本に帰ってきてから思ったことですけれどもね。 地球が回転するというのは、もちろん、象徴的な意味においてですよ、今地球はものすごいスピードで回転してますのでね(一同笑声)。とにかく、日本とブラジルが結ばれて、地軸が通って、それから明主様のご神業が本格的に開始するんじゃないかと、なんかそういうことを思ったら、もうこれは言わないわけにはいかないということで、ブラジルにおいて言わせていただいたんです。 だから今我々は、大変な時代に生きてるんじゃないのかなと思いますね。でも、火の聖地といってもまだ聖別式はしていませんのでね、我々はなんとかそこにたどり着かないといけない。ブラジルも今、水の聖地としての使命を果たすべく努めているのであって、今後どうなるかは分からない。 唯一定まったのはアンゴラですね。アンゴラの土の聖地は定まりましたね。アフリカ大陸。で、火と水は今、アンゴラを追いかけてる状況です。でも、今お話ししたビジョンというのはメシア教が担わされてるご神業の進む道なんじゃないかなと私は思います。 だって、なぜ明主様の信徒がブラジルにいるんですか?世界メシア教は日本で生まれた宗教ですよ?そしてブラジルは世界最大のカトリックの国。だからなにかありますよ、そこにね。 というように今、私はたくさんの言葉を尽くして話してますけれども、やっぱり、神様というのは、全く変わらないご存在であると同時に、全く新しい方でもあられる。永遠に変わらないけれども普遍的に新しい――それが神様ですね。 だから、今日の明主様の聖言も、何十年も前の聖言だけれども、また聖書はもちろん何千年も前の御言葉だけれども、今日、何か新しい感じで心に迫ってきましたね。今まで感じてたのとは違う働きが心に湧いてきますね。あんなに昔の、いわば60年前、70年前の聖言なのに、心になにか引っ掛かってくるものがある。だから、それは、やはりそこになにかあるわけです。 メシア教を通して神様が働こうとされてる、明主様が働こうとされてるなにかがあるから――永遠に変わらないけれども全く新しいという神様の光が我々の心に迫ってくるから――昔の、何十年も前の明主様の聖言が全く新しいかのように感じられるわけです。 だから、やはり明主様が、「私の業を継承してほしい」と願っておられるからじゃないのかなと思いますね。 今我々は、聖地だ、自然農法だ、食だ、音楽だということでいろいろな活動を進めておりますけれども、基本的な信仰のところを忘れてはいけないのではないのかなと思います。やはり、足元をすくわれないようにしなきゃいけないなと思いますね。今日の私の話はそういう内容だったと思うんですけれどもね。 明主様のご神業は、また来年もより加速度的に進んでいくことでしょう。 火水土の聖地。でも、明主様はもっと聖地を造られるかもしれませんよ。ブラジルで終わり、じゃなくてね。だって明主様は世界中に造ろうとされてたわけですからね、聖地を。 さっきの美術館の話もそうですけれども、自分で限定しないということですね、もう3つ出たから終わりなんだ、じゃなくて(一同笑声)。 だって、神様がこの先どんな展開を用意されているか我々では全く分かりませんもんね。明主様が70年前にお亡くなりになって、それでもうすべておしまいならそれでもいいですよ。でも、そこからも生きて働いておられるんでしょ?ということは当然新しいことも出てくるわけです。70年前で止まってたら、もうアンゴラのことなんてなにも関係無いですよ、だってひと言も仰せになってないじゃないですか、アンゴラのことは。 自分は明主様の聖言に求めてます、70年前までに出たものがすべてです、ということならもうアンゴラのことは捨て去るということになりますよ。アンゴラの使命はなんですか?と訊かれても、明主様が仰せでないので分かりません、で終わりになっちゃいますよ。ブラジルの使命はなんですか?明主様が仰せでないので分かりません、で終わりじゃないですか。 でも実際は、明主様は、今も、常に新しく新しくと前に進もうとされてるわけですから、そう考えると、我々一人ひとりに託されてる責任は重大ですね。 明主様を信じるということは当然そうなんですけれども、「今」明主様が働いておられると思えるかどうか、そこですね。 永遠に変わらないけれども全く新しいというその神様が、今、メシア教を導いてくださっていて、そして自分の身体も維持してくださって、そして日々どんどん先に進んでいるんだ、というその思いがあるかどうか。明主様はこの確信がおありだったから生き生きしておられたんだと思いますよ。 だから我々も、あと今年一か月、また来年も、常に先を走っておられる明主様の背中を追いかけて、共に進んでまいりましょう。 ありがとうございました。