皆様、こんにちは。 熱海はここ数日結構雨が降りまして、今日祭典の日はどうなるかなということでちょっと心配してたんですけれども、(真明様、外をじっとご覧になり)晴れてますね(一同笑声)。晴れてる。良かったです。明日もまた雨みたいですけれども、昨日はすごく晴れまして、でも、その前ずっと雨とか曇りだったんですね。今日は穏やかな天気で、そのような中、教主様のみもとにご参拝くださいまして、ありがとうございます。 明主様ご昇天後の私たちの歩み、教団の歩みを見てみますと、大局的には――大きな動きとしては――やはり、長年、「宗教を隠す」という動きがあったんじゃないかと思うわけなんですね。 明主様ご在世中はそんなことは無くて、教団名も世界救世(メシア)教ということで、メシア会館とか、メシアとして新しく生まれたとか、そういうことを全面に打ち出しながら、そしてまた、悔い改めなさいとか、最後の審判とか、そういう言葉を表立って使って、ご神業自体、非常に宗教的営みが主軸とされた状態で展開されていた。 しかしこれが、ひとたび明主様がご昇天になると、まずこの世界メシア教という教団名はご昇天後2年してから世界救世(きゅうせい)教に変えられて、メシア会館も救世(きゅうせい)会館に変えられて、メシアという名前を隠し始めた。 明主様ご昇天後に教団で作った『祈りの栞』からも、メシアという言葉が入った御歌は全部取り除かれた。1首も無くなったんです。あんなに明主様が使っておられたメシアというワードを隠し始めたわけですね。 それはやはり、救世というワードのほうがメシアよりいいだろう、メシアを使うと、もう直球で宗教的要素が出てしまう、そして、そもそもメシアの働きは世を救うことなんだから、メシアは使わなくて少しマイルドな救世というワードでいいじゃないか、宗教色をちょっと出さないようにしよう、ということですね。 そういう大きな流れの中で、ご浄霊も、科学的に説明しようじゃないか、宗教的営みじゃないようにしようじゃないか、ということで、社会に対して、日本人は昔から手当てという言葉があるように手かざしみたいなことをやってたんだ、気功というのがあるじゃないか、科学的データもある、代替医療の一部なんだ、みたいな扱いにしていった。 自然農法も、明主様は、神様は人類を養うために土を造られたと仰せになっておられるのに、世の中で有機農業とかありますので、その方向性に乗っかっていって、我々も、大自然の力を生かす、というような世の中の人が普通に言っている言葉に変えている。 これは、今現在、メシア教で農業されている方でも、神様の土の力で作物ができるんだと堂々と言われている人というのはほとんどいないですね。それぐらい、世の中で説いてる農業の枠に明主様の自然農法を入れ込もうとする私たちの動きもある。 芸術も、本来、明主様は宗教活動としてされていた。目的は、すばらしい芸術品に触れて唯一の創造主である神様のことを思いなさい、ということですね。信徒の皆様からの尊いお金によって明主様は種々の芸術品をご購入になったわけですが、それは、創造主というご存在、また、最も美しい世界である天国を思い出しなさいということが目的だった。 でも、そのようなことも、結局、そういうことを中心にするよりも、世の中でやっている普通の芸術活動みたいなものの一部になって、神様に心を向けるための芸術、なんていうことを言われる方はもう誰もいなくなっている。 明主様ご昇天後、今お話ししたような大きな流れがあったと思うんですね。宗教色を無くしていく、という動きですね。 で、そういう流れに付随して何が発生するかというと、結局、宗教ではない、ということになりますので、そうすると、当然、明主様がたくさんお使いになったいろんな言葉――神様とか最後の審判とか赦しとか罪とか悔い改めとか――こういう言葉も出せなくなるわけですね。 だって、宗教色を消して活動を進めるということは、宗教じゃありませんということですから、神様という存在は出せないわけです。そうするともう浄霊も科学的な説明に終始しますよ。数値がこうなっている、健康にいいじゃないか、だからやろう、それだけのことになってしまう。 なにか体調が悪い時に、それは本来、人類が神様に悔い改めなきゃいけないものがあって、だからこういう不都合と思われるような状況が発生しているのに、宗教じゃないとしたら、そういうことも全然説けない。 いや、明主様も確かにいろいろな活動は進められましたけれども、明主様の場合は、宗教というのを前面に出しながら、ですよ。例えば明主様は、箱根美術館ができた時、美術館長という名刺を作られてそれを喜ばれた、という話もありますけれども、それも、世界メシア教が土台としてあった上でそうされていたわけです。 つまり、明主様時代は、宗教を表に出して、プラス、そういう活動もしている、ということだったのに、ひとたび宗教というのを表に出さないとなると、結局、そういういろんな活動というのは、世の中で他の人がやっている活動とだんだん一緒くたになっていきますね。というかなっていった。そして、一旦そうなると、宗教とか神様ということよりも、だんだん世の中に合わせてやっていく中での都合が優先されていくわけです。 そうするとどうなるかというと、結果的に、宗教的なものがだんだん都合悪くなってくる。 さっき言ったような三つの活動が世の中とか社会とかでだんだん受け入れられてくると、本末転倒なことが起こってきて、今度はだんだん宗教が都合悪くなってくるわけです。宗教的要素はできるだけ隠して、このあり方をもっと拡げたい、もっと進めたい、世の中の人にもっと受け入れられたいとなっていく。 教団浄化の時には、もう、救世教の専従者なんかでも、「明主様はそのおつもりではなかったのに、明主様の活動が世の人からは『宗教』という色眼鏡で見られてしまっている」ということまで言ってしまってるような状態でしたよ。 というようにどんどん宗教的なものが都合悪くなっていった。そうすると、教団の中で、宗教的なものとして、体的に最も象徴的なものは何かと言ったら、それは当然、教主様ですよ。すなわち明主様ですね。 ということで、ついに、教団としては、表立って教主様がいらっしゃるということが足かせになってきたわけです。 本来私たちの歩みというのは宗教的な営みであって、悔い改めとか最後の審判とか、そこが最も大切なポイントであるはずなのに、我々は、そうじゃなくて、世に対して、いやいや私たちは宗教じゃないんですよ、手をかざすと治るのは代替医療の一部なんですよ、自然農法も、神様とかそういうことではなくて、オーガニックとか有機農法とかと大して変わらない農法で、大自然の力を生かしてるんですよ、芸術も、いやいやこれは宗教活動ではなくて、例えば世の中のいろんな美術館と連携してやってるんですよ、いろんな人に見てもらえばそれでいいんですよ、ということになっていって、それがどんどんどんどん拡がれば、どう考えても宗教的要素は足かせになっていきますよ。 明主様ご在世中は宗教活動が大本道だったわけです。それが大本道としてあった上で、そこから派生して、いわば二義的に浄霊とか農業とか芸術の活動をされてたんだけれども、明主様ご昇天後の我々は、宗教というようなことより、むしろ世の中に受け入れられるというのが我々の自己満足的に非常にいいですから、ああ、たくさんの人が美術館に来た、たくさんの人がこの手かざしを受けた、農業も世の中と一緒のことをやってる、こういうのが非常に我々の自己満足的にいいですので、といううちに、結局、教主様という存在が足かせじゃないかということで、今回、そういう宗教隠しの活動を進める世界救世教としては、教主様を追い出すいい機会ができたなとなって、教主様を追放する決定をした。 でもそれは、本当を言えば、世界救世教は明主様を追い出したのと同じですね。世界救世教にとっては、「明主様」というご存在がもう足かせだった。だから、明主様ではなく、岡田茂吉とか言ったほうがいいんですよ。新興宗教の教祖というより、哲学家だとか、岡田茂吉先生とか言って世に紹介したほうがいいんですよ、救世教としては。 もちろん、内部的にはつじつまを合わせなきゃいけませんから、明主様がどうとか宗教がどうとか言ってますけれども、でも、少なくとも、明主様のご神業の大本道であった宗教を表看板としてかかげるということ、これをもう捨て去っているわけです。 だから、教主様のことも、教主様というご存在が教団内に存在して、そして、ある程度の影響力があるのが足かせだということになって、我々としては、教主様なんていないほうがいいということになった、いや、我々というか、もちろん皆様は教主様をご選択になったのでね(一同笑声)、全然違う歩みをされたわけですけれども、だけど、宗教を隠したいという我々の心の中の動きというのはありますね、私自身も含めて。 この、宗教を隠そうとする心の動きは一体なんだろうと思うんですね。もちろん、特に日本においては、オウム真理教の事件というのは非常にインパクトが大きかったんですけれども、でも、だからといって、あの事件があったから私たちも宗教を隠さなきゃいけなくなったというのは説明になりませんよね。だって、別に、堂々としてたって良かったわけですから。 むしろ、ああいう事件をきっかけに、我々のアイデンティティーはちゃんとした宗教なんです、というふうにするチャンスだったのかもしれない。でも我々は、みんなでしっぽ丸めて、「私たちは宗教じゃない」という方向に行こうという動きをしましたものね。 だから、この、宗教を隠したい、明主様を隠したい、という根底にあるもの、これは一体なんだろうと私は思うわけです。 で、そういうことをちょっと考える中で、今日の、「キリスト教と呼応する」という、明主様が世界メシア教開教時に受けられた機関紙のインタビューの聖言がありますね。 明主様は、世界メシア教の世界的な意義は、ということを質問されるんですけれども、その問いに対して明主様は、「信仰によって」とお答えになり始めますね。一つ目のワードが「信仰」というワードですよ。信仰によって世界全人類を幸福に導くと、そう仰せになった。 信仰ということは、神様を信じるということです。そして、明主様が信じられた神様は唯一の神であられる。明主様は、この唯一の神を信じることによって人類を幸福に導きたいと仰せになった。明主様は、世の中の人と協力することによって世界全人類を幸福に導くとは仰せではないんですよ。 だから、明主様にとっては、宗教が大本道も大本道ですよ。世を救う。何によってだ。信仰だ、ですからね。信仰ということは宗教ということですよ。信仰と宗教という言葉はほとんど同義ですから。だから明主様は、宗教によって世界全人類を幸福に導きたいんだと仰せになったということです。 そして明主様にとってそれを進める具体的な方策としては、キリスト教と呼応するということですね。キリスト教と呼応する。 我々は、はなから宗教を隠してたから、キリスト教と呼応もできなかったですよね。キリスト教と呼応するの、宗教を隠してたら難しいですよ。だって、宗教色消していこうとしている中で、急に、私たちはキリスト教の人と協力して世を救っていきます、と訴えるのは難しいですからね。 というように、世に打ち出す活動の一歩目から宗教隠しということをしようとしたら、明主様のご神業はなにも進まないですよ。 キリスト教と呼応。呼応という言葉は、ちょっと調べて見たら、「互いに気脈を通じてある物事をする」という意味みたいですね。気脈も難しい言葉だなと思って(一同笑声)調べたら、気脈というのは、仲間たちとの考えとか気持ちのつながり、だそうです。 だから、呼応するというのは、具体的には、例えば、一匹の蜩が鳴いたら、他の蜩も鳴き始めたりしますよね、カナカナカナと言って。あるいは、私たちがこっちから攻めるから、あなたたちはこっちから攻めてくださいみたいなこともありますね。呼応してなにかするということですね。 どちらにしろ、呼応するというのは、ある目的のために、仲間と協力してなにかやろうということですから、キリスト教と呼応するという以上、キリスト教の方々は、我々メシア教の仲間だということですね、当然。 本当は、呼応するというのは、ある目的達成のために、物理的に連絡を取り合って、じゃあ俺たちはこれをするからお前たちはこれをやってくれよ、ということで、裏で示し合わせてなにかやるということみたいなんですけれども、当時明主様がこの聖言を仰せになった時、現実的になにかキリスト教の人たちとの直接的な連携は無かったと思います。でも、明主様のご意図としては、とにかく、私のメシア教というのは、仲間であるキリスト教の方々と協力して人類を救っていくんだと、そういうことですね。 ここで重大問題が出てくるのですが、それは、結局、メシアというのは明主様ただお一人だというこの考え方ですね。ちなみに、主之光教団、現メシア教の皆様が世界救世(きゅうせい)教から追い出されたのは、ここが非常に大事な点とされてましたよ。要は、救世教側は、「救世主・メシア」は明主様ただお一人のみなのに、メシア教の方々はこれを否定している、だから追い出さないといけないと、そういうことで追い出されたんですよ(真明様追記:世界救世教の信徒向け広報誌『大経綸』18号にメシアは明主様ただお一人であることがはっきり明記されている)。 だから、世界救世教としては、メシアは明主様ただお一人であって、ユダヤ人が待ち望み、ユダヤ人を解放してくださる救世主であるメシアは明主様であると、そういうことです、メシアというのはそういう存在ですから。 であれば、キリスト教とは敵対することになりますよ。だって、キリスト教にとってはイエス・キリストが唯一のメシアですから、敵対ですよ。だから、呼応もなにもないですよ。明主様がただお一人のメシアだとしたら、救世教の方々は、キリスト教徒がハレルヤ・コーラスを歌ってるところに行って、あなた方間違えてます、メシアはあなた方が讃えてるイエス・キリストではなくて、こちらの岡田茂吉という方です(真明様、ご神前脇の御神影を指し示される)としなければいけない。 あるいは、西洋人全体に対して、あなた方が長年かけて作ってきたキリストを題材とした西洋芸術はすべて間違ってますよ、本当のメシアはこの方なんです(真明様、再度、ご神前脇の御神影を指し示される)というふうにしなければならないということです、もしメシアは明主様ただお一人だと主張するのであれば。だって、キリスト教徒にとってはイエスが唯一のメシアなんですから。 だとしたら絶対呼応できないですよ。むしろ信徒を奪い合うことになりますね。キリスト教の信徒に対して、あなた方間違えてます、本当のメシアは岡田茂吉ですとしなければならない。だから、それは、呼応ではなくて、キリスト教との戦争ですね。だって、イエスを唯一のメシアと信じるキリスト教徒の間違いを正さなきゃいけないわけですから。でも、もしそうだとしたら、この「キリスト教と呼応する」の聖言全部、つじつま合わなさすぎるじゃないですか。 いや、確かにね、明主様は、メシアは自分一人だという表現もしておられます。ここで知らなければならないのは、まず、キリストとメシアというのは本来同じ言葉です。「メシャハ」というヘブライ語のギリシャ語訳が「キリスト」ですから、全く同じ言葉、意味です。 だけど明主様は、この、「キリスト」と「メシア」という二つの言葉を使い分けておられたわけですね。明主様は、メシアというのはキリストの再臨なんだとお示しになった。キリストの再臨。キリストの再臨がメシアなんだということ。 また、別の聖言において、明主様は、東洋でメシアが力を発揮し、西洋ではキリストも力を発揮すると仰せになり、メシアということは、「従来のような宗教的観念ではとうてい理解できない」と断言しておられる(「神の力顕現 宇宙に加護の時来る」1950年3月11日)。 だから、明主様がご自分のことをメシアと仰せなんだから明主様は唯一のメシアだ、イエス・キリストはメシアじゃないと単純に言えるようなことではないんです、本当はね。 だけど僕は、もしキリスト教の方々が救世(きゅうせい)教の祭典に行くようなことがあって、そこでハレルヤコーラスでも歌うことになったら、救世教の方々は、絶対、イエス・キリストもメシアです、明主様もメシアです、二人のメシアを讃えましょう、みたいなことを言うと思いますよ、僕はね。その場で、あなた方が信じているイエスはメシアではないとは言わないと思いますよ(一同笑声)。 いやだけど、こんな笑ってしまうような、そんなことによって皆様は追い出されたんですよ、だって世界救世教にとって、明主様はただ唯一のメシアなんですからね。 でも皆様方が信じておられるのは、メシアというのは我々一人ひとりの中に存在している神様の魂の名前であって、当然、同じ神様の魂を受けたイエス・キリストもメシアであるし、そのキリストの再臨というのは、明主様だけではなく、我々もそういう存在なんだということ。 だから、「キリストの再臨をお受けしてメシアとして新しく生まれる」という全人類が目指すべきひな型を最初に示されたという意味においては、明主様は唯一ですよ。その唯一性はありますよ。何が唯一性かということを取り違えると、結局、メシアは明主様ただお一人なんだという単純な結論にいってしまう。 今、私が何を言わんとしてるのかというと、本当は、人類は知ってるんだということ。イエス・キリストが我々の罪を贖って、世界を一変させた、もう崇めても崇め尽くせないメシアであり、大切な存在なんだというのは、我々は本当は知ってるんだということ。全人類が本当はこれを知っている。 だからクリスマスも世界中にこんなにこの習慣が拡がって、多くの人々がこの習慣を抵抗無く受け入れている。 つまり、メシアは明主様ただ一人だと主張している救世教の方々も、本当は、中側では、イエス・キリストがメシアであることを知っている。 当然明主様もメシアですよ。だって明主様は、キリストの再臨を受けられてそれを表現されたお方であって、明主様に宿った魂はイエスに宿ったのと同じ、メシアと名の付いた魂ですからね。 とにかく、全人類、例外なく、本当はイエス・キリストがメシアであることを知っているが故に、いざ、明主様が唯一のメシアだということを表看板に出して世に問おうとする時、無意識のうちに、心の中に、ある思いが発生するわけですね。どういう思いかというと、「明主様のみがメシアであるというのは真実では無い」という思い、これが発生する。 そういう思いが発生するから、だから隠すしかなくなるんですよ。いや、もちろん、救世教の方々は、明主様は唯一のメシアだと内部的には言ってますよ。でも、それを内部的に言うのは簡単ですけど、実際、そんな考えをもとに世界布教をしようとしたら、カルト扱いされて終わりなだけです。 というように、自分たちは本当は間違ったことを主張していると感じるが故に、「明主様は唯一のメシアだ」というのを表に出せない。だから、自分たちの中で矛盾を抱えてるわけです。 自分の中側はメシアであるイエス・キリストによって自分の罪が贖われたことを知っているのに、明主様だけがメシアだというふうにしようとするから、それ故自分の中に矛盾を抱えるようになって、結局、「明主様が唯一のメシアだ」というのを表に出せないんです、世界救世教は。 そうなると、宗教的要素にはどんどんどんどん触れなくなるわけです。だって、メシアとかイエスという問題は、明主様が使われた、最後の審判とか、悔い改め、赦し、救い、光、というような言葉全部に関わってきますからね。 だから、そういうことに踏み込んでいくと、結局それが、明主様が唯一のメシアなのかどうかとか、イエス・キリストの存在とはなんなのかとか、そういうことにもつながっていっちゃうというのが分かるし、一方自分たちは矛盾を抱えてるのを本心では知ってるから、だから、もう隠さざるを得なかったし、得ないということですね、今も世界救世教はそういう状況ですから。 じゃあなんで我々世界メシア教は宗教を隠さないのかと言ったら、我々が訴えていることに矛盾が無いからですよ。我々は矛盾を抱えてないからですよ。 我々は、イエス・キリストはメシアだと信じているし、それを大いに主張する。そしてイエスは、贖い主だけではなくて、救い主、赦し主でもある。でも、そのイエス・キリストが再び世に来るという、人類が待ちに待ってる「キリストの再臨」ということは、なんと、全人類が受けることなんだ、誰もが神様の子供であるメシアとなるんだ、そして明主様は、メシアとして新しく生まれられたことによってそれを全人類に示された、だから我々もそれを目指そうじゃないか、これが我々の信仰です。 簡単なことです。だから、隠すことがなにも無いじゃないですか。というか、自分たちの中で矛盾を抱えてないから、隠す必要が無いわけです。 明主様ご昇天後、長年我々は、自分たちでは気づいてなかったけれども、自分たちの中に矛盾を抱えて歩んでたんです。明主様もいつかおっしゃろうとされてたけれども、すべて言い切られることのないままご昇天になってしまったところ、明主様としては我々をご覧になって、我々がいつまでもこんな矛盾を抱えてちゃかわいそうだなと思ってくださって、慈しみの心を持ってくださって、そして、教主様を通して、もう誰の目にもはっきり分かるように真理を教えてくださった。 明主様は、真理は簡単とよく仰せになりましたけれども、本当に、簡単ですね。そして皆様はこの真理を受け入れられた。 だから、受け入れてない方々はこれからずっと大変ですよ。これからもずっと矛盾を抱えて、明主様が唯一のメシアだということを内部的には言うけど外部的には言えない、だから宗教活動できない、ということでなんか小手先の人間的な活動をして、そしてそんなことを、これが明主様のご神業なんだということを言いながら自分たちの気持ちを無理矢理盛り上げていかなきゃいけないんですから、これからもずっと大変ですよ。 明主様が「メシア」という言葉を使われたことにより、イエス・キリストをどうするかという世界にいきなり入ってしまったわけですね。我々は、イエス・キリストという存在から逃れられなくなった。 でも我々はそれをずっと曖昧にして今日まで来たわけです。いや、それはね、イエス・キリストのことを完全に否定されてた方もいらしたでしょうし、自分の中で、なんとか折り合いつけてらした方もいらっしゃるとは思いますね。 でも、もう時期が来て、明主様としては、あなた方、もうはっきりしなさい、イエス・キリストという存在は一体なんなんだ、あなた方の罪を贖ったのか、贖ってないのか、あなた方が払うべき罪の代償を払ったのか、払ってないのか、はっきりしなさいと、そう臨んでこられた。 我々は、イエス・キリストの存在があるから全く新しい世界に入ったんですよ。明主様が感得された夜昼転換も、これ、イエスのことですよ。だって、夜とはなにかと言ったら、それは罪人の状況ですね。昼は罪から解放された姿です。 僕は、先月の秋季大祭で、もうサタンは二千年前に滅んだという話をしたんですけれども(2024年10月6日「病無き世界を造る。絶対造る。」)、今日拝聴した聖言「本教救いの特異性」(1949年10月5日)の中で、明主様も同じことを仰せですよ、「彼の釈尊の唱えた苦の娑婆の時機は最早終ったのである」と、こう仰せですよ。 「苦の娑婆の時機は最早終ったのである」。「終ったのである」――過去形ですよ。普通世の中では、苦の娑婆の時代はいつ終わるんだろう、いつ理想世界であるミロクの世は来るんだろう、ですよ。でも明主様は、釈尊の唱えた苦の娑婆の時機はもう終わったと仰せになっている。ということは、明主様も、そういう悪魔的なものはもう終わったということをおっしゃっている。 同時に明主様は、「此事の真諦が判ったとしたら、その歓喜は人類の経験にない程絶大なものがあろう」とも仰せですね。 「真諦」というのもまた難しい言葉ですけれども、これは、物事とかある考えの根本、根底にあるもの、という意味です。 ということは、この聖言の中で、明主様はこの真諦が一体何かということは仰せではないんですよ。明主様は、苦の娑婆の時機は終わった、そして、「なぜ終わったのかというその根本をもし理解できたらその歓喜はすごいものがありますよ、皆さん」と言っておられるわけです。つまり、おっしゃってない。この聖言を出された1949年の時点において、明主様は、苦の娑婆の時機が終わるに至ったその根本がなんなのかについてはまだ仰せではない。 でね、苦の娑婆の時機が終わった根本がなにかと言ったら、それはイエスしかないですよ。二千年前、イエス・キリストがしたことしかないですよ。 だからこれ、明主様が、もう70年以上も前に、このことの真諦が判ったらその歓喜はすごいですよ、だけどまだ言えませんよと仰せになってたことを、今我々は知るに至った。 今、皆様方の心の中の反応はどうですか? 明主様は、ものすごい歓喜を味わえると仰せですよ。だから、今我々の心の中は歓喜ですよ、いや、歓喜のはずですよ、本当はね。 「天国人とならなければならない、否、なり得る時期が来ているのである」と仰せです。だから、時期はもう来てる。だって、イエスがもう地球を一変させたわけですから。イエスは、地球のみならず全被造物を全く新しいものにされて、もう世は変わったんです。だから、なろうと思えばいつでも天国人になり得るんです。 さらに明主様は踏み込まれて、この聖言の中で、病貧争の三苦を除去できるとも仰せですね。いや、でもこれは当然ですよ、だってすべての苦しみをイエス・キリストが引き受けてくれたんですから。 明主様の前提は、病とか争いとか貧しさとか、そういうすべての苦しみ、人間が苦しみと感じるもの、要は苦の娑婆の状態のもの、そのすべてはもはやイエスの贖いの血によって取り除かれた。だとしたら、あと人類に残されてるのは絶大な歓喜であり、同時に、病気も絶対無くなるはずだ、争いも絶対無くなるはずだ、貧しさも絶対無くなるはずだと、そう明主様は受けとめておられる。 だからこそ明主様は天国人になるように努めておられたわけでしょ。すでにすべての苦しみは取り除かれたはずだ、だから自分は自分の人生をそういうふうに生きてみよう、もうすべての病も貧も争も無くなったんだから、自分はそういうことを前提にして自分の人生を生きていこうと、そう明主様はされたわけです。 しかも明主様は皆様にもそういうふうに生きていかれることを勧めておられますよ。だから、たとえ病になったとしても明主様は全然ネガティブに受けとめておられない。明主様は、もう病の苦しみというのは終わったこととして見ておられるじゃないですか。そして、それが浄化のみ教えですよね。浄化という教えは、「病貧争は悪いことではない」という見方ですからね。 ということで明主様は、もう天国は樹ち立てられたんだ、霊界における夜昼転換はもう成し遂げられたんだ、このイエスという方がとてつもないこと――人類が絶大なる歓喜を味わうほどのすばらしいこと――を成し遂げたんだ、ということを根本、土台として、イエスが樹ち立ててしまったその天国を、それを私は具体的にこの地上に写そうじゃないか、ということで聖地を造られたわけでしょ。 だけど、冒頭に話したように、我々は、長年、地上での活動を主体とする方向にずっと行ってしまって、イエス・キリストも関係無ければ、目に見えない天国ということに心を向けるということもしてこなかった。 というように、せっかく明主様が、私たちが、少しは目に見えない天国に心を向けるようにという思いで造られた聖地について、この明主様の思いと全く合致しない状況になってたんだけど、今我々は、メシア聖堂ということに取り組んでいる。というか、まず、「土の聖地」がもう誕生してしまいましたけれどもね。 神様は、目に見えない世界をこの地上に投影しておられるんだからそれを具体的に形にしようじゃないかということでまず土の聖地が誕生して、そして今、メシア聖堂たる「火の聖地」に我々は向かっている。 そして、この天国にある我々一人ひとりの本体というのは完全な存在ですからね。病貧争から完全に抜け出た完全な身体が我々の本体であって、それが今、天国にある。 だから明主様は、「本教救いの特異性」の中で、ただ天国を写すという聖地建設の営みにお仕えするだけではなくて、一人ひとりが天国人にならなければいけないということを仰せになっているわけです。明主様はさらに踏み込まれて、一人ひとり、病貧争を除去しなければ人を救えないんだとまで仰せになっている。 というように、聖地建設ということで、天上にある天国をこの地上に写そうという営みを進めているのと同じ意味において、天上にある我々の完全な身体とも一つになって、一人ひとりも、この地上において、病貧争から解放されて、結果、病貧争絶無の世界を造ろうということをされたのが明主様ですね。 で、病貧争絶無の世界ということはミロクの世ということですから、今の我々の状況はなにかというと、突然、ミロクの世は菜食というのが出てきて、聖地建設とかそれぐらいのことだったら良かったんだけど、食という自分の生活に直接関わることを言われてしまって、それで右往左往してるというのが今の我々の状況ですね。明主様のみ心が我々一人ひとりの生活の営みのところに入ってきて、それで戸惑ってるというのが今の我々の現在地ですね。 菜食ということと関わるのが今日三つ拝聴した明主様の聖言の三つ目ですが、ここ、明主様が粗食を大切にされたことが記されていますね(「日本式健康法の提唱(其二)食餌と営養」1935年5月31日)。 明主様がお示しの食のメニューは、基本菜食ですが、まれに小さい魚を子供に与えたとある。でも、魚もまれにしか食べないんですから、これは1935年の聖言ですが、この時点ですでに、明主様の、人類が食べるべき物は菜食だというお考えの萌芽が見えますね。 子供たちに食べさせていたのは、塩おにぎりに漬物に自家製の海苔――いや、ご自分のご家庭で海苔を作っておられたんだ(一同笑声)ということで、すごいですよね。 そしてこれを明主様は、「栄養不良食」と言われて――自分は子供に栄養不良食を与えているんだと言われて――この明主様のご表現、完全に医学界、栄養学界にけんか売ってますよね(一同笑声)。 で、人によっては、このような、明主様が食について仰せのことには科学的根拠が無いじゃないかと言いたいかもしれない。一方、世の中で知られている栄養についての考え方はいろんな科学的根拠があるとされていますね。たんぱく質のことを筆頭に、カルシウムを摂らなきゃいけない、牛乳を飲まなきゃいけない、卵を食べなきゃいけない、肉をいっぱい食わなきゃいけない――こういうことは科学的データがあるとされている。 でも最近、僕は、粗食を訴えられた明主様を擁護する科学的データがあるなと思ったんですね。 それはそれはなにかというと、日本の統計史上、一番子供が生まれたのは、いわゆる第1次ベビーブームの1947、1948、1949、この3年間ですね、戦後の。この時、日本の統計史上一番子供が生まれた。1年で270万人くらいです。 そして、そのあとは、基本的に、もうずっと右肩下がりです。 2023年の去年は70万ちょっとですから、戦後のベビーブームの時のほうが4倍近い。しかも、その時の人口は今より全然少ないんですよ。調べたら7000万ぐらいでした。でも今はもう1億2000から3000万はいるわけですから、人口としてもほぼ倍。だから、戦後の時は今より半分くらいの人口なのに、今よりもっと子供が生まれてる。率としたら7倍とか8倍とか、それぐらいですね。 じゃあその時に日本人はどんなものを食べてたのだろうかと言ったら、戦争直後ですから、そもそも、食べ物なんてほとんど無いですよ。1947年に生まれる子供ですから、その前の年の1946年とか1945年の食料事情です。ですから、お米をなんとか食べられるか食べられないか、という感じですよ。お米がそもそもあまり無い。だから、かさ増しのためにお米にお湯足しておじやみたいにしたり、芋とかさつま芋とかさつま芋のつるとか、それこそ野草を採って食べたりとか、そんな時代ですよ。その時はまだ配給制が続いてますからね。 そんな食をしてた時代に、日本の統計史上一番子供が生まれたんですよ。おかしいじゃないですか。西洋医学が本当に正しいなら、なんでずっと出生数が下がり続けるんですか。 いや、確かにね、いろんな時代背景は確かにありますよ。食事だけには限定できない。できないけれども、今はもう子供生みたくてもなかなか子供できないぐらいじゃないですか。でも、粗食を推奨された明主様も6人とか7人の子供をお生みになっておられる。簡単に子供できてるじゃないですか。本来、そんな粗食で子供がどんどんできるなんて、今の医学から言ったら全然おかしいはずですよ。 戦後、お米もなかなか食べられない、芋かなんかをなんとかやっと食べて、肉とか魚なんて当然贅沢品ですから、ほんの一部の人が食べるぐらい。たんぱく質の「た」の字も無いじゃないですか。でも、簡単に子供ができてる。 そうすると、いや、第2次ベビーブームというのがあるじゃないかということなんですけれども、第2次ベビーブームは、第1次ベビーブームで生まれた子供たちが大人になって生んだ子供ですから、ということは、第1次ベビーブームで生まれた子供たちは、そんな栄養不足で育ったのに、たくさん子供を生めたということですよ。 だから、今、子供の栄養がああだこうだ、たんぱく質摂れ、牛乳飲めとか言うけれども、むしろ、そんなので育たなかった子供たちのほうが強かったんですよ。だから第2次ベビーブームが起こり得たんですよ。 もし西洋医学が本当に正しいなら、なんでずーっと出生数が減り続けなきゃいけないんですか?戦後は物資も無くて、お米も全然無くて、口にできる物をなんとかかき集めて、しかも、当時戦後の混乱期ですから、生まれても申告してない親もおられたかもしれない。だから、270万よりもっと多いかもしれないですよ、実際は。そして、戦争直後に最も出生数が多かったというのは、これ、紛れもない事実ですよ。 戦後の全然食べ物が無い時、率としては今と比べてもう7倍か8倍ぐらいの子供が生まれた、これ、事実ですよ。 明主様の聖言にあった粗食みたいな、というか、明主様が聖言で書かれたのより普通の方々はもっと食べてないですよ。皆さんなかなかお米食べられなかったんですから。明主様は、ちょっと商売で成功されて少し経済的余裕がありましたけれども、普通だったら、なかなかお米が無いので、小麦粉をすいとんにしたりとか、野に行って野草を採ってとか、毎日さつま芋を食べたりとか、そんな食事の時に一番みんな妊娠して子供が生まれたんですよ。今より全然強いじゃないですか。だって、子供が生まれて次世代に残すのが強さのバロメーターですよ、人類の。 だから、このこと自身がすごい科学的データですよ。それなのに我々は、世の中のニュースとか西洋医学とかに影響されてますものね。だって、そういう業界はお金がありますから、いくらでも宣伝できるわけです、これがいい、あれがいい、牛乳はいい、タンパク質がいい、牛食べなさい、肉食べなさい、ということですね。だってさつま芋業界は牛乳業界に全然勝てなさそうですよね(一同笑声)、規模から言っても。 そしてこの流れは、西洋圏にとっては都合が良かったんですよ。だって、日本人が長年ずっと食べてた物を止めて西洋の物を食べてくれたら、日本にいっぱい輸出できるわけですから、西洋圏は儲かりますよ。 確かに西洋人にとって合う食事というのはあると思うんですけれども、でも、少なくとも日本人にとっては、やはり日本人に合う食事というのがある。 だいたい、戦後のほとんど物資が無い時に、この明主様がお示しの粗食よりももっとひどい粗食をしてた時、統計史上最も子供が生まれてるんだとしたら、絶対西洋医学とか西洋の栄養学はおかしいじゃないですか。 だから僕は、確かに現代に生きる我々にとって、ある程度の常識的判断はいろいろ必要だと思いますけれども、でも私は、明主様が打ち出そうとされてた栄養観を通して、我々は何か思い出せることがあるんじゃないかと思いますよ。 現代では、赤ちゃんの栄養だ栄養だと言って大騒ぎしますけれども、戦後、本当に粗食、食べ物が無い中で、日本のお母さんは子供を一生懸命育て上げたんですからね。 一方今は、西洋科学をもとにして、この栄養も摂らなきゃいけない、これもあれも摂らなきゃいけないと言って、でも、結果、子供を産む前にもうどんどん子宮の病気とかになったりしてしまっている。 でも、栄養が全く摂れない中育った子供たちが第2次ベビーブームを成し遂げた。その第2次ベビーブームの時は少しは上がりましたけれども、でも、戦後、日本人が、西洋食をより積極的に取り入れるようになってから、グラフはずっと右肩下がりですよ。 「ミロクの世は菜食」ということで、それをサポートする科学的要素は他にもたくさんあります。だから僕は、明主様は当時、将来を見据えてこの聖言を遺してくださったんじゃないのかなと思いますね。それはなにかと言ったら、根本的には、我々がこの地上でできるだけ健康に生きていけるようにという愛ですよね。 明主様は、最初、病貧争絶無の世界を当然ご浄霊で樹ち立てようとされたんですけれども、ご神業の進展に伴い、そのご浄霊について明主様は、ご浄霊は二の問題なんだ、想念の世界に入ったんだということを仰せになった。だとすると、どうやって病貧争絶無の世界を樹ち立てるのだろうか、ということになりますね。 で、僕が言いたいのは、「浄霊」と「食」が対決したら、僕は、「食」が勝つと思いますよ。肉だマクドナルドだって食べながら浄霊を受けるよりも、食を変えたほうが病気は治ると思いますよ、僕はね。 つまり、病貧争絶無の世界とか、地上天国とか、ミロクの世とか、理想世界と言われる人類が求めて求むにやまないこの世界というのを造るにあたって、そのスタートは「食」ということですね。それに今、我々は向き合おうとしている。 そして、食ということは、「台所」ということですよ。 普通、理想世界を造ると言うと、偉い政治家の先生とか、総理大臣とか、アメリカの大統領とか、大きな会社のお偉いさんがいろいろ努力して、そうして少しずついい世界ができるみたいに思うかもしれませんけれども、そうじゃないんですよ。そうじゃなくて、台所、ですよ。台所での営みが理想世界を造っていく。 食ということは台所であり、土である。 だから、明主様がご提示になってる理想世界、世界平和のビジョンというのは、何も、なんか、我々では手の届かないような偉い人たちが上のほうで話してだんだんそうなっていく、じゃなくて、我々一人ひとりの家の、場合によっては一番末端の場所と言われる台所からスタートするんですよ。 台所であり土。一番下ですよ、土は。 土に汚れて、土まみれになるのが、世界平和であり、地上天国であり、ミロクの世であり、病貧争絶無の世界につながっていく。これは大変なことですね。 ということは、台所に立っている方の責任は大きいですよ。だって台所に立つということは何を作るか決めるということであり、何を作るかによって、何を買うかということもまた決まってくる。 ということは、動物性の物の需要が無くなれば、「ミロクの世は菜食」というのもまたあり得るわけです。需要があるから供給しなきゃいけないということになって、肉とか牛乳とか卵が売られることになっているんですからね。 普通、台所とか料理というと、今までの社会は、それは女性がするもの、下手をすると、料理は女性がしとけばいいんだ、くらいの認識でしたね。 でも、もし「ミロクの世は菜食」であり、それを通して「病貧争絶無の世界」ができていくのだとしたら、明主様のご神業の中心は台所ですよ。ということは、もし、今現在女性の方が多く台所でのお仕事を担っているのだとしたら、ご神業の中心は女性ということですよ。女性が中心になってこの理想世界というのができていくということです。 なにか、この辺に座っておられる、スーツを着た方々(一同笑声)、この男の方たちがどんなにがんばってもどうにもならないんですよ(一同笑声)。いや本当に。なんにもならないですよね(一同笑声)。なんにもならないというのはちょっと語弊がありますけれども(一同笑声)。 今までは、女性の方たちが、なにか、そういう台所での役を当てつけられるみたいになって、それがあんまり価値の無いことのようになってましたけれども、明主様のご神業は全く逆なんですよ。真逆ということです。 もちろん私は、女性が台所に立ったほうがいいということを言っているのではなくて、当然、男性で台所に立っておられる方もおられる。でも基本的には、特に日本、いや、これは世界中でですけれどもね、やはり女性が台所を担っているケースは多いわけであって、でも、台所でのお仕事は全然そんな底辺のお仕事ではなくて、台所を通して――毎日毎日の一つひとつの料理を通して――明主様のご神業に直接的に携わり、地上天国というものを造っていくことができる。 そう考えると、ミロクの世は菜食というのは、まさに、女性が立ち上がるきっかけとなることかなと思うんですね。 農業も、なにか、一番下の土に携わる底辺のお仕事、ではなくて、自然農法を通して作る作物を通して、人類から争いを好む性格を取り除くことができる。だって明主様は、将来人類に野菜食わせなきゃいけないんだ、それで人間の性質が変わっていって、結果、良い世の中になるんだと仰せですからね。 だから、いわゆるお偉いさんががんばってもなんの意味も無いんですよ。お偉いさんが台所でのお仕事とか自然農法をアシストしてくれればいいですけれども、だいたい邪魔してますものね。 病貧争の争ということは、戦争、争い、ですね。ウクライナ、ロシア、中東で戦争やってる。それを見聞きすると、世界が平和になったらいいなと思う。 貧、貧しい。もっとお金があったらいいなとか、あの人仕事が無くなって大変だなとか思うじゃないですか。より良い世の中になってほしいなと思う。そこで、「自分はなんにもできないな」と思うかもしれませんけれども、そうじゃないんですよ。 だって、明主様にとっては、病貧争すべての原因は病で、その病について我々は、食を通して解決して、その結果として貧も争も解決するということですから、だから、ただ、ウクライナの戦争大変だな、かわいそうだな、あるいはどっかで殺人事件があった、争いが無い世の中がいいな、我々は手持ちぶさたで何もできないな、じゃないんです。 というのは、食ということは台所なんですから、我々の一日一日の食によって、争いが無ければいいなという思いが報われることに向き合えるんです。そうじゃなければ、ただニュースを見て、争いが終わったらいいな、で終わりですよ。 だから、逆に言えば、皆様の責任が重大であるということです。台所に立たれる方、農業に携わってる方の責任は極めて重大であるということです。だからこれは、本当に、大転換ですよ。 だって普通、世界平和はお偉いさんが解決すると思ってませんでしたか?そうじゃなくて、台所が解決するんですよ。 また、今日の明主様御歌で薬毒の歌もいっぱいありましたけれども、農業についても、肥料とかを使わないで清い作物を作ろうじゃないかということですね。 今日の明主様御歌の2首目は、「世の病医せとてもや大神は我歩む道換へ給ひける」。 明主様は今、我々を、ミロクの世は菜食という道に換えようとしておられるんです。それに、ここ、「世の病」とありますが、世の病と言ったって、まずは自分と家庭ですね。自分の家庭天国が拡がって、世界が天国になっていくんですから。 だから、今までの我々の食のあり方の、なんでも食べる、というのから大きく違うことは事実です。でも神様は、あなた方の病だけではなくて、世の人の病も癒して、病貧争絶無の世界をみんなの手で造ろうじゃないか、だからあなた方をこの新しい道に換えるよ、導き入れるよと、そう仰せになっている。 最後の7首目は、「病きに悩める人びと見るなべに胸の血潮は燃え沸るなり」。 病に悩む人を見るたびに胸の血潮が燃えたぎると、そう仰せです。 僕は、これは、明主様が今、我々一人ひとりにこの気持ちをくださろうとしてるんじゃないかと思います。明主様のこのご心境はものすごい情熱ですね。 そして僕も、この明主様の情熱に倣いたい。だって、誰が好き好んでこの菜食のことを訴えたり、西洋医学を批判したりしますか?私は、そういうことをすることによって、私にいろんな批判の声や思いが来るのはもう百も承知ですよ。 でも、明主様が「ミロクの世は菜食」と仰せになって、もし私がそれを訴えることによって、どこかで病に苦しんでる人がなにか楽になることがあるんだとしたら、やはり訴えますよ、それはね。 私がこういうことをずっと訴え続けたら、私の存在が皆様にとってだんだん都合が悪くなって、いつか、この黒い服を着てる方々に(一同笑声)追い出されるようになるのかどうかは分かりませんけれども(一同笑声)、でもまあ、たとえそういうことが起きたとしても、皆様には、あの人はもう追い出されちゃったけれども(一同笑声)、でも、あの人の意図は、明主様の病貧争絶無の世界を造られたいというみ心になんとしてもお応えしたかったんだなと思っていただければと思います。 とにかく、ご神業の進展というのがありますからね。 で、信仰ということで言えば、明主様は信仰の味ということをよく言われましたけれども、メシア教の信仰の味は、僕にとってはこれはもう想像を絶する味ですね。自分の想像したような味ではなくて、明主様が先に先に行かれますから、もう味わってる暇も無いという感じですね(一同笑声)。味わおうとしたら、もう次の味が来ちゃって、え?もう新しい新商品出たんですか?(一同笑声)という、それぐらいのスピードで進んでいますね。 でも、こんなに速く進むということは、やはりその背後に必ず神様、明主様からのなにかがあると思いますよ。 だって、今の我々の歩みは、宗教でさえすでに日本においては拒絶される条件なのに、そこにヴィーガンを加えてるわけですから(一同笑声)、そう考えると、今までの我々の歩みとは真逆ですね。 今までの我々は、世の中のできるだけ多くの人に受け入れられるようにということで、宗教色も消そう、教主様も追い出そう、という歩みだったわけですが、今はその真逆ですよ。今我々は、神様信じてます、私たちは宗教です、ミロクの世は菜食なのでヴィーガンです、ですからね。だから皆さん、大変ですね(一同笑声)。 でも、そういうことから逃げないところに、明主様が必ず力強く導いてくださるんじゃないかなと思いますね。そういうことから目を背けてたら真の喜びにたどり着けるとは思えないんですね。 いや、もし、宗教を隠して、社会に受け入れられる方法で進んで、本当に人類が幸せになるなら僕もその方法を応援しますよ。でも僕は、それが本当に人類の幸福につながるとは思えない。神様のことを隠し、イエスの贖いのことを隠し、明主様が仰せだったことを自分の都合のいいように解釈して、それで自分に嘘をついて進んでも、その行く先にあるのは闇ですよ。 一見、今我々が歩んでいる道は闇みたいに見える。一寸先は闇のように見える。前に進んだら落ちちゃうんじゃないだろうかと思う。そう思いつつ、恐る恐る足を踏み出すと、実は明主様がちゃんと進む道を用意してくれて、一歩一歩私たちを導いてくださるんじゃないかと思います。 自分たちできれいにタイルを敷き詰めたところを歩んだって、明主様は喜ばれませんよ。ここを自分たちは歩くんだと言って、自分たちで作った道を歩もうとしたら、明主様はその道を崩されますよ。 そうじゃなくて、私たちには歩くタイルもありません、先の道は見えません、でもこれが明主様のみ心なんですねと言って、落ちるかもしれないけど明主様を信じて足を踏み出すところに、必ず明主様が進むタイルを用意してくださると思います。 私たちはそれを信じて、今、明主様が私たちに臨んできてくださってるこのご神業に、女性の方々を中心に(一同笑声)――いや本当に、笑いごとではなくて、なので女性の皆様よろしくお願いします――共に協力して、明主様を信じて歩んでまいりましょう。 ありがとうございました。