PDFダウンロード20260501_五月度月次祭_真明様聖言_全創造は愛から始まった.pdf ぎっしりですね(一同笑声)、ぎっしり。 市岡さん、ありがとうございました。今の市岡さんのピアノ演奏は、彼のオリジナル曲ですよ、ちなみに。ですよね?(真明様、市岡さんにお尋ねになる) なんかもともとある曲を弾いているのではなくて、市岡さんのオリジナル曲。 皆様ご存じのように市岡さんにはいつも作曲をお願いするんですけれども、プロセスとしては、まず私が詞を考えまして、それを市岡さんに作曲をお願いするということで、その時、漠然としたイメージをお伝えさせていただくことはあるけれども、僕は作曲とかはよく分からないので、市岡さんが作曲してくださるのですが、ちなみに、今まで日の目を見なかった曲もあるんですよ。私のイメージとどうしても合わず、市岡さんと僕しか知らないお蔵入りした曲というのは実は何曲かあります。 最近では「恋を超えた恋」を作曲していただきまして、これは思いっきりラブソングなんですけれども、この歌詞は、もちろんこの世で今恋愛してる人とか、あるいは結婚した人とか、ただラブソングが好きな人も、いわゆるラブソングということでも受けとめられるし、だけど同時に、いつも私、自分の中には霊の片割れがいるよという話をしていますので、そういう、自分の中にいる神的な存在ということも思えますよと、だから、聞く人によって自由な解釈ができるような歌詞にしたつもりですので、一人ひとりがなにか感じるところがあったらいいなと思っています。 どちらにしろこれは恋愛ソングなわけですが、なぜこのような恋愛ソングを作っているかというと、そもそもこのメシア教のご神業というのは、「メシアとして新しく生まれる」「神様の子供になる」――非常に簡単な教えですね――ことが目標ですから、そして、神様の子供として新しく生まれるということは、当然、男と女が一つにならなければ子供は生まれないわけですから、つまるところ、恋愛ですよね。恋愛。恋愛をしないといけない。究極の恋愛を果たして生まれる子供がメシアという存在なわけですね。そして明主様はその恋愛を成し遂げられた。 だから、「恋を超えた恋」もそうですし、他に祭典でもいろんな世の中の恋愛ソングも歌ってますよね、平井堅の曲とか。それはなぜかというと、メシア教というのは今言った究極の恋愛がご神業の中心ですから――新しく生まれるということですね――だから、世の中の恋愛ソングも、やはりメシア教が一番うまく歌える宗団でなければならないと思って、ああいう恋愛ソングを祭典で歌ったり聴いたりしているわけです。 なんで「瞳をとじて」を歌ってるの?と思われる方もいるかなと思って、そしてそれは、目的が無いわけではなくて、究極の恋愛がやはり我々のご神業ですから、そのような恋愛ソングを通して、なにかそこでときめきとかを感じるのが大切だなと思うんですね。そして、やはり、世界中で恋愛ソングを歌わせたら最もすばらしいと言われるメシア教じゃなきゃいけないなと思って、ああいう歌を歌ったり聴いたりさせていただいている次第です。 皆様の中には、今さら恋愛の話をされてもとか、「恋を超えた恋」とか言われてもそれはもう昔の話ですと思われる方もいるかもしれませんが、我々は、好きな人に振り向いてもらいたいというのがありますよね。好きな人に振り向いてもらいたい。男性でも女性でもありますよね。 で、そのために一生懸命努力するじゃないですか、化粧がんばったり。皆様の中にも、年齢的にそれはこれからだとか、今まさに真っ最中だとかそういう方もいらっしゃると思いますし、でも、ぱっと見、大半はもう終わっちゃってますけれどもね(一同笑声)。正直に言ってしまってすいません(一同笑声)。ま、それは私も含めてですけれどもね。 とにかく我々は、異性に振り向いてほしいということでがんばって、失敗したとか成功したとか言って、で、その恋愛の期間というのはだいたい20代、30代、40代ぐらいで、その後は結婚して子供も持ってと、まあ、これは、一般的な話ですね、いろいろな人生ありますから。 その期間が終わると、あとはもう萎れていくだけ(一同笑声)というのかな、そういう感じのイメージを皆様持たれると思うんだけど――言葉のチョイスが(一同笑声)いちいち心にグサッとくるものばかりで申し訳ない――とにかく、だんだんその恋愛の時期は過ぎていくというイメージを持ちますよね。 だけど本当は、私たちは新しく生まれなきゃいけないということは、そのときめきはまだ続いているんですよ。若い時は良かったな、みたいによくなりますけれども、そうではなくて、まだ本当は恋愛は続いてるんです。 若い時は、異性に振り向いてもらうために見た目を磨くというのかな、女性であれば例えばこういう習い事をしてますとか、化粧とか、服装とか、髪の毛とかのことがあって、男性であれば、どうやって振り向いてもらうかなということで歌を歌うとか、スポーツとか、勉強とか、そういうことがあるじゃないですか。異性に振り向いてもらいたいと思って一生懸命努力する。 というように若い時は、いわば目に見える世界の努力というのをたくさんしますよね。そして、今まさに恋愛してらっしゃる方々はもちろんその恋愛に全力で向き合っていただいていいんだけど、その時期が終わった我々大半(一同笑声)については、要は、女性の皆様の中には男性の存在がいるんですね。いる。その魂が存在している。で、男性であれば女性の存在が自分の中にいて、この方になんとか振り向いてほしいということに本当はなってるんですよ、今。 だから、若い時は化粧とかそういう目に見える努力だったわけなんだけど、今は日々の生きざまですよね。日々の生きざまと自分の心の使い方。これへの努力が必要なわけです。 最初の若い時の恋愛は主に見た目重視みたいになって、それでもすごく楽しいとか、ときめいたとか言っているわけなんだけど、本当はそれが今も続いていて、今、皆さんは、実はもっとときめく恋愛の最中なんですよ。皆さんは今いわば青春真っ盛りなんですよ。ま、信じがたいかのようですけれどもね(一同笑声)。 若い時、目に見える異性に向かう中で、いろいろありますよね。緊張しすぎてなんか汗がいっぱい出ちゃったとか、なんかよく分かんないこと言っちゃったとか、そういうことがいろいろありますよね。だからそれは、照らされてるわけです。異性との出会いによって自分が照らされるんですね。相手のことで自分の親と言い合いになるとか、そういうことがいろいろあるじゃないですか。それは、異性との関わりを持ち始めることによって照らされているんですね。 そして今、自分の内側にいる片割れとの出会いということに向き合う時、さらに自分のすべてが照らされるから、そこで人生のいろんな状況になる。日常生活の中に出てくるわけですね。 そういう日常生活のいろんな難しさの中にあって、なんと言いますか、自分の心をどうやって使うことで、自分の中にいる尊い存在――高嶺の花のように存在している尊い存在――にどうやって振り向いてもらえるだろうかということに今なってるんです。 若い時の恋愛では、見た目はある程度化粧とかでごまかせますけれども(一同笑声)、この本当の恋愛はもっと高度になってますから、見た目みたいなことではごまかせないわけですね。だって今回の恋愛の相手は、本当の清さとか、本当の美しさとか、そういうものを持っている存在であって、そういう存在と一つになれるわけですからね。 だから、思いっきり分かりやすく言えば、自分の心に嘘をつくとか、それこそ他人様に嘘をつくとか、そんな生き方をしてたら絶対振り向いてはくれない。ざっくりものすごい簡単に言うと、ちゃんと生きていかないとこの方は振り向いてくれないわけです。だってこの方は最も清い存在ですから。 という恋愛を成就されたのが明主様ですね。 だから、我々としては、自分は見た目的にもだんだん年を取ってしまって、もう青春が終わったみたいに思いますけれども、ところがどっこいそうじゃないんですよ。皆さん一人ひとり、今、自分の心の使い方とかどうやって生きていくかということで、自分の中にいるこの存在に振り向いてもらわなきゃいけないわけですね。振り向いてもらわなきゃいけない。だから大変なんですよ。 若い時は一生懸命化粧とかしまして、もしそれが楽しいと思っていたとするなら、今、自分の中にいる片割れに振り向いてもらうというのは実はもっと楽しいんですよ。で、この本当の青春こそが楽しいなと思ったら、これからの人生ずっと青春ですね。 だから、「メシアとして新しく生まれる」と言っても、それは、恋愛を成就させる、ということですね。そして明主様はそれを成し遂げられた。明主様は、幽魂とか現魂という言葉を通して人間一人の中には二つの魂があることをお示しくださってもおられまして、その明主様が最終的に、「メシアとして新しく生まれる」と仰せになった。 だから我々は、まだまだ青春が続いてるわけですね。そして、その青春を成就しなければならない、ということに心を向けていくために、「恋を超えた恋」という曲もありますし、いろんな世の中の恋愛の歌も、そういうふうな捉え方(目に見えない片割れとの恋愛成就)のためにあると思ったほうがいいですね。それを聴いて、変に盛り上がって不倫するとかじゃなくて(一同笑声)。 ちなみにですね、(真明様、会場前方のスクリーンを指し示されながら)このスクリーン2つ両側にあるのになぜ使わないんだということを思われてる方もいると思うんですけれども、それは、昨日リハーサルをしたところ、映像が0.5秒から1秒ぐらい遅れるんですね。でも音は遅れない。僕が実際に手を動かすと、映像ではちょっと遅れてしまって、その状況が1時間以上続くのは皆様にとってちょっと目障りかなと思って使うのをやめました。 あるいは、手は一切動かさずに、口だけ動かして、「今日はいっこく堂さんみたいに腹話術を活用して話してます」(一同笑声)というジョークも考えたんだけど、あ、でも、親子参拝室の方は当然スクリーンを通して見てます。親子参拝室のほうもオフにしたら、ただ黒いスクリーンに向き合ってるだけになっちゃいますから。 だから後ろの席の方々には申し訳なかったですが、でも(会場全体を見回されながら)、結構見えますね、端から端まで。 ハレルヤコーラス、ありがとうございました。 ハレルヤコーラスについては、普段皆様教区団で練習されてるわけですが、教区団として披露する機会は大祭とかだとなかなか難しいから、今回広島に来た時、中国教区の普段練習している方々の代表の方たちが歌うハレルヤコーラスを通して、中国教区全体の信徒のいろんな思い――ご神業に関わる中でいろんな思いが心に去来しますので――その思いを、我々の耳を通して共に神様にお捧げしようということだと思っています。 「ハレルヤ」という言葉ありますよね。ハレルヤ。この言葉は、今日の栞にも載ってますけれども、「神をほめたたえよ」という意味ですね。主をほめ讃えよという意味。 「ハレルヤ」の「ヤ」が、ヤハウェの「ヤ」ということで、ヤハウェは神様ですね。で、「ハレル」というのは、「讃えなさい」という意味だから、「神様であるヤハウェを讃えなさい」ということなわけです。 何を讃えるかというと、「われらの神は王となられた」、これを讃えるんですね。 「われらの神は王となられた」わけですね。(真明様、栞にある「ハレルヤコーラス」の歌詞をご確認になりながら)「この世の国々は、われらの主とそのキリスト(メシア)のものとなった」。もうなっちゃったんですね。しかも、「この世の国々」ですよ。 だから、我々、「ハレルヤ」と歌ってますけれども、これを歌うのは本当は結構大変なんですよ。これを歌うということは、神と、その神と一つであるキリストという存在はもう世の国々の王となりました、それをほめ讃えます、ということですから、いや、これ結構重たいですよ。 ということは、神様はもうこの世の国々の王になっているわけですから、例えば世界の政治の文句は絶対言えませんね。だってそれ、神様が司っておられるんでしょ?だとしたら絶対文句言えないですよ。トランプがどうだとか、日本の首相がどうだとか、あの国の首相はこうだ、あの大統領はどうだとかはもう絶対言えないんですね。だって、「神様がこの世の国々の王となったことはすばらしいですね」と歌っちゃってるんですから。 だから、「ハレルヤコーラス」を歌わせていただくということは大変なことですね。「この世の国々はもう神様の御手に収まって、神様が統治してます。なんとすばらしいことでしょうか」と歌ってしまったわけですから、でそれは、究極的には自分の人生のことですよ。「自分の人生はもう神様によって治めていただいています」ということですから、これから人生で何が起きてももう文句は言えないですね。もし「ハレルヤコーラス」を歌っているとしたら、この世の人生で起きていることに文句は言えないですね。だって、もう神様は私の王になりましたと言ってるのに、「なんでこんなこと起こるんですか」とは言えないわけですからね。 だから本当は結構厳しいですよ。ひとたびこの歌を歌って聴いてしまった以上、我々は、この世の社会、世の中、自分の人生について、「なんでこうなってるんですか」とは神様に言えませんよ。むしろ、何が起きても、「治めていただいてありがとうございます。ハレルヤ」と言わなきゃいけないわけですね。 そう考えると、なぜ明主様がこの歌をお好きだったのかというのがなんとなく分からせていただけるのかなと思います。 明主様の神様のビジョンというのは、これから神様がなんかされるということよりも、もうすべて治めておられる、というものですよね。だから「浄化」を説かれたわけでしょ。浄化というのは、「悪いことに見えることもいいことだ」ですからね。 だから、まあ、この「ハレルヤコーラス」というのはすごい曲だなと思いますし、この歌の歌詞にある波動がより多くの人に伝わるように、また今後も、みなでこのハレルヤコーラスを歌っていきたいなと思います。 すでにだいぶ話してしまいましたが、マミを紹介しようとしてたんですけれども(一同笑声)、はい、ではマミ、皆さんに(マミ奥様が席を立ってご挨拶になり、一同拍手)。(真明様、マミ奥様のお着物の絵柄について触れられ)赤いのがいちごですね、いちご(参拝席から驚きの声が上がる)。ありがとうございました。 海外の信徒の方とか、また、日本の信徒の方でもたまにいらっしゃるんですけれども、「マミはお人形さんみたいだ」という声ですね。だけど、マミは3人の子の母だから、今は毎朝その3人のお弁当を作るんですけれども、子供たちが朝出かける前に3人のお弁当を作る家庭の中というのは、もう戦場ですよ(一同笑声)。その状況の中で、お人形というワードはもう一番遠いところにありますね(一同笑声)。 戦場みたいな状況で毎日戦ってますので、マミは、お人形というか、私の中では戦士ですね(一同笑声)、戦士。戦場で日々戦う戦士。もし祭典のあとマミと握手される方がいたら、マミの手は結構ごついですから(一同笑声)、それを味わっていただきたいと思います。ごついという言い方が妻に対して適切じゃないかもしれませんけれども、家事の中で培った、いい意味でのごつさということですね。 ちなみに、妻はいつも冬にあかぎれみたいのがすごくて、やはり水を使っての家事がたくさんありますので、毎年肌荒れが結構すごくて、このハンドクリームがいいとかどうだとかしてましたけれども、菜食を始めて数年して、もう今は手の荒れはなんにも無くなりましたね。冬でもつるつるです。不思議ですよね。あかぎれがいっぱいで、ずっと、水がしみて痛いとか、そんな感じだったんですよ。 どんどん家事の量はむしろ増えてるぐらいで、水に触る機会とかも増えているはずなのに、菜食でそうなりましたので、やはりすごいなと思います(どのハンドクリームがいいとかはまったく関係無い、ということでもありますし、外から何を塗るかではなく、体内に入っていくもののほうが影響が圧倒的に大きいということをお伝えしようとしておりました)。 じゃあもういいかな。マミも紹介したし(一同笑声)、ハレルヤコーラス、市岡さん。うん、じゃあちょっと話したいことありまして、よろしくお願いします。 今日お話ししたいのは、我々は「メシア」ということに関わるご神業に携わっているんですけれども、それについての自覚というのかな、それを共に確認したいと思います。 そのために、まずちょっと神様の奥義を共に垣間見たいと思いますので、心を広げてオープンマインドで聞いてください。 ずっと昔、もともと神様はお一人だったわけですね。お一人。その、神様お一人、という永遠の時の中で、ある時、「子供たちと一緒に住みたい」ということになるわけです。 最初は神様お一人。なんにも無いということですね。光のみというのかな。光のみの状況。一番最初はそういう状況だった。そこで神様が、「あ、子供たちと一緒に住みたい」と思われたわけですが、これがもうすべてですね。神様がそう思われたことによって、今私たちがこの地上に存在しているわけです。 この神様のお気持ちというのは当然愛ですよね。ということは、神様の最初の行動は愛ということです。「子供と一緒に住みたいな」という、その親の愛からすべてが始まっている。その愛の思いによって、すべてが始まったわけです。 神様お一人。ずっとお一人。そこで、「子供と一緒に住みたい」ということになり、そこで初めて、「まず天国を用意しよう」ということになったわけです。 しかも、この神様の愛は名無しの権兵衛ではなくて、この「愛」には「メシア」という名前が付いてたわけですね。メシア。 この愛によって創造が始まって、そして、まず神様は天国を造られたんですね。我々は「天国、天国」と言っていますが、天国ですら神様が造られた世界ですからね。 ですので、神様の愛が発生したのは、天国ができる前の時ですね。 ということで天国を造りました。そして次に神様は、その天国に無数の魂というか霊をお生みになったわけです。これが私たちのもとですね。 そしてその時神様は、最も理想となる霊を一つ選ばれたんですね。無数の霊の中から一つ選ばれた。これがイエスです。 最初、神様が「これだ」ということで選ばれたのがイエスですね。 いや、皆様今、これを初めて聞くみたいな感じになってますけれども、我々はその時天国で見てたんですよ。神様がイエスを選ばれるのを共に見てたんですよ。立ち会ってた。忘れたみたいになってるだけの話ですね。 だからそれを聞かせていただいた今この瞬間、我々は、「あ、そういうことなんですね。思い出させていただきました」という心の反応が必要なんですね、神様に対して。今聞いている内容を拒否するというよりも、私の話を聞きながらそういう思いを持たせていただく。 だって神様は本当に選ばれて、我々は立ち会ってそれを見てたんですから。不思議ですね、そう考えると。 だからよく、袖触れ合うも他生の縁とか言いますけれども、その霊の時すでに全人類と触れ合ってたわけですから、他生の縁どころかものすごい縁があるわけです。それこそ、今お隣に座っている方と天上でお隣だったかもしれないですよ。 この天国での状況がそれこそ理想世界というものであり、その時我々は神様の子供であったわけで、実はこのままでも良かったんですよ。このままでも我々はすごい幸せだった。 この天国に存在していた霊の一つひとつは、言葉としては、男女でも、陰陽でも、母性父性でもいいんですけれども、とにかく男女二つが合わさって一つのものだった。陰陽のバランスが取れて一つという魂だった。 で、このままでも十分良かったんだけど、結局そこでこの二つにずれが生じたわけですね。男と女の間にずれが生じた。これが聖書にあるアダムとエバの話に象徴されることですね。つまり、男女の間に亀裂が入った。 教主様は「歪み」という言葉をお使いになる時もあるけれども、とにかく男女間にずれができたことによって、本当は神様はそうされたくなかったんだけど、もうそれは起きてしまったから、じゃあ次どうしようかということになって、もうそうなら神様と同じようにこの自我意識というものを獲得させようとなったわけですね。一人ひとり独立、独り立ちさせてあげようとなったわけです。 でも、そのずれが起きる前の世界で神様は十分楽しかったんですよ。我々と一緒にいて楽しかった。我々もですよ。我々も楽しかったんですよ、忘れちゃってるけれどもね。 とにかくこの男女間のずれが発生しまして、そのずれが発生したことによって、この、いわゆる全宇宙の創造、物質世界の創造がそこからスタートする、という壮大なスケールの話ですよ、私がしているのは。 ま、壮大なスケールと感じる人もいらっしゃるでしょうし、そんなの嘘だという人もいるかもしれないけれども、どちらにしろ、これが神様のご経綸ですね。 ずれが生じたことにより全宇宙、またこの地球を造るということになって、その時、我々は神様のお手伝いをしたんですよ。我々は全宇宙の創造に関わった。 これ、ちょっと明主様教えてくださってますよ。有名な「神の経綸」の聖言で、瑞雲郷のことをお話しになってる時、明主様は、この景色というのは、自分が最古の昔神であった時、設計して計画したものに違いない、ということを仰せになった。 明主様は、最古の時代、「私が設計したものだ」とおっしゃったんじゃないんですよ。「設計したものに違いない」と仰せになった。 「違いない」ということは、明主様ご自身も、自分がそういうことをした確証はないけれども、でも、もし昔天国に生んでいただいているなら、絶対この物質世界の創造に関わっていたはずだと思うから、「違いない」というワードになるわけです。これ、前も一度お話ししたことがありますね(「愛に始まり愛に終わる」2022年9月1日)。 だって、「違いない」というワードは、実際に見てなくてもきっとそうだというのが「違いない」という言葉の意味ですよね。「この部屋の外は雨が降ってるに違いない」という時、雨が降ってるかどうかは見えないけれども、きっとそうだろうということでそういう言葉を使いますよね。 だから我々も、地球を含めた全宇宙の創造に関わってたに違いないんですよ。 どちらにしましても、そのようなことで人間などすべての万物が地上に出てくるわけですが、もともと男女のずれというのがあっての地球ですから、この世が乱れに乱れるわけですね。 この物質世界の創造の目的というのは、天上で生んだ自分の子供を独り立ちさせる――「私だ」という意識を持たせる――ということですから、皆さん今普通に生きてるみたいになっていますけれども、これは、何十億年、何百億年、それよりもっとという、想像を遥かに超える長い年月の最後の最後の姿として、今、「私は〇〇です」というふうに「自分」というものを認識しておられるんですよ。 だから大変ですよ。皆様お一人おひとりの存在というのは大変なことなんです。今皆様がお持ちの自我意識を獲得させるということのためにすべての創造があって、そして今ここにたどり着いているわけです。 ということで神様は我々に自我意識を獲得させたわけですが、我々人間のゴールはここではないんですね。本当のゴールは、男であれば、天上で待っている女のところに帰って、昔そうだったように、もう一回その存在と一つとなる、ということです。女であれば男のところに帰って一つとなる、ということですね。 当時は、これ、一回失敗しちゃったわけですね、ずれができちゃって。だから今、もう一回自分の中の異性と一つになって、再び神様の子供となろう、ならなきゃいけないんだぞと、そして神様は、天上で私と一緒にまた暮らそうじゃないか、昔暮らしてたみたいにしようじゃないかと、そうなってるわけです。 ということで、男であれば女の人のもとに近づきたい、女であれば男のもとに近づきたいんだけれども、結局我々は汚れすぎちゃってますから、汚い。 見栄えも含め汚すぎちゃって、要は、もう結婚できないみたいになってるわけです。お見合いに行ったけど、なんか、寝癖もあるし薄汚い格好で行って(一同笑声)、身体も洗ってないし、だからずっと結婚相手が決まらないみたいな状況ですね、例えて言うなら。思いっきり例えてますけれども(一同笑声)。でも、思いっきり俗に例えるならそういうことになっているわけです。 しかも、人類は別にそのままでいいと思ってたんですよ。だって、それぞれ自我意識を獲得して自分が神様みたいになって、あとは自分が徳を積んで生きていけばいいとなっていた。 自我意識を獲得すると、自分という存在が神のようになりますから、そうなると、この世での栄誉、発展、喜び、これがすべてになりますので、我々は、もうそれでいいやみたいになってたわけです。 だけどね、心の奥の奥では、焦がれてやまない存在のもとに帰りたいという人類の切なる恋愛の思いというのかな、それを神様が顧みてくださって、神様はイエスという存在を私たちのもとに送ってくださったわけです。「是正してあげるよ」としてくださった。 イエスは原罪を乗り越えた存在とされてますよね。原罪というのは男女がずれた時のことですよ。そして、それを是正しに来たのがイエス。 世の中では、イエスは我々の罪を取り除きに来たということがよく強調されるけれども、根っこのところでは男女のずれを取り除きに来たわけです、イエスは。 だからイエスの存在というのは、なんかテレビ番組とかでも、改造みたいなことで、パッとしない見た目の人が、すごい美容師さんとかスタイリストさんとかいろいろ付いて、それで変身して、すごいかっこいいとか、きれいになるとかあるじゃないですか。思いっきり言うと、イエスはそういう存在なんですよ、我々にとって。 我々が、焦がれてやまない天国にいる本当の片割れに出会うということのために、寝癖ぼうぼうとか、服もどんな服着ていいか分かんないというのを一挙に解決してくださる存在なんです。 でもそれが、今の例えの話だと簡単なことのようなんだけど、結局そこに至るまでの人間のいろんな営みというのがあまりにも汚かったがゆえに、イエスはあんな苦しみを負わなきゃいけなかったわけですね。十字架に上がらなければならなくなった。 でも、その十字架に上がって流した血によって、そして、それを振りかけられた我々は、心の中で願って願ってやまなかった、天国に帰って自分の片割れと再会するということが成し遂げられる位置にまで来ることができたわけです。 だって昔は一つだったんですよ。この世でも、好きな人とかに会った時に、「なんか昔会ったような気がする」みたいなことを感じたり言ったりする人いますね。だからそれは、その天上のことが織り交ざってそう感じてるわけです。 だって、冒頭にもお話ししたように、無数の霊として存在してた時は、自分の片割れと一緒だったわけで、その時はそれはそれは幸せだったんですよ。 そして、その時は神様と一つで幸せだったんだけど、今はなんと、この、「私」という感覚があってその幸せを感じることのできる位置に来てるんですから、もうこれは大変なことなわけです。 だけど、天上に帰って自分の片割れと一つとなって恋愛を成就する、ということが最終目標ではない。いわば、恋愛が目的ではないわけです。そうではなくて、恋愛を成就させた暁には、ちょうど結婚式で新婦と新郎が神父の前に立つように、我々も、自分の片割れと共に神のみ前に立って、神様から「よし」と言ってもらえたら、なんとそれが、「メシアとして新しく生まれる」という、人類の神秘が達成されるわけですね。これを明主様が達成されたことは本当に大変なことなんですよ。 だけど、この世では、「天上に帰る」ということをあんまり強調したくないから、結局、イエスは贖い主だから自分の罪は赦されたんだとか、あるいは、自分の罪は赦されてイエスのおかげでこの世でがんばってます、みたいなほうばかりが強調されているわけですね。キリスト教でもそうですね。 だって、「帰る」というメッセージは面白くないじゃないですか。 我々、商売とかでも、商売繁盛はもちろんいいんですけれども、そういうことが面白いですもんね。だから、この世でどんどん成功する、この世で自分の徳を高めて広げていくということが面白いから、結局イエスという存在も、イエスを信じたおかげでこの仕事で成功したみたいなことで、イエスを利用して自分の徳を高めるぐらいのことしかしてませんね。 この、「イエスの血をお受けして天上に帰ります」というのは、当時の十二弟子とかパウロ、これらの方々は分かってたんですよ、当然。分かってた。 でも結局それが宗教としての「キリスト教」みたいになって、キリスト教では、「全人類の罪を贖ったイエスを信じてます」「あなたの罪も贖われてますよ」「この世界で生きていくにはイエスを受け入れたほうがいいですよ」ということを布教するようになって、それがキリスト教の正体ですよね。 でも、天上に帰らせるということこそが神様の御心なわけです。最初、男女間のずれによって原罪が発生した時からの神様の願いは「私のもとに帰って来い」であって、そのためにイエスを地上に送り込んだわけなんだけど、結局そのイエスのみ心も継承されないままずっとここまで来てしまった。というのは、「この世主体で行きたい」という人間の思いはもう強烈ですからね。 だから、その思いが「邪神」と言われる働きですよね。それ、我々の中にもありますよ。この世主体で行きたいという我々の思いはイエスすら利用しますね。イエスでも、明主様でも、どんなことでも利用しますよ。「この世での成功があるのはイエスのおかげだ」とか言って、結局イエスというのを、この世を主体とする生き方を継続するために使ってますもんね。大半のキリスト教徒はそうだと思いますよ。 というように、イエスを送った目的ということが朽ちかけていたところに、邪神にとっては大問題となるこの明主様の登場ということが起きてくるわけですね。 太古の昔の一番最初の時。無数の霊の誕生。それでずれが発生し全創造が始まった。二千年前のイエスの登場とその十二弟子。そしてイエスから二千年後の明主様、とつながってくるわけです。 神様は、「もういい加減にしなさい」ということで明主様を送られたわけですね。 神様がイエスを送った御心について我々が一切受けとめようとしないから、「もういい加減にしなさい」「天国に帰って来い」ということで、イエス復活から約二千年後、神様は明主様というご存在を人類に遣わした。 だって明主様が1935年にご立教になった時、一番最初の昭和10年、我々が「光のお言葉」と呼ばせていただいている、「神は光にして光のあるところ平和と幸福と歓喜あり」「光と栄ヘを欲する者は来れ 来りて―― 観世音菩薩の御名を奉称せよ さらば救はれん」ということですが、ここ、観音はメシアになりましたから、だから、「光と栄えを欲する者は来れ 来りて―― メシアの御名を奉称せよ さらば救われん」ということになるわけです。 ということは、明主様はご立教の時から神の光のところに帰れと仰せですね。神の光がある、そこに来たれ、つまり、神の光に帰りなさい、帰る時がもう来てるんだと、そう明主様はお説きになっていた。 しかも、神様の光というのは皆様お一人おひとりのここですよ(真明様、眉間の天庭を指し示される)。明主様が「神は光にして」「来れ」と仰せになる時、その場所はなんかよく分からない場所ではなくて、皆様お一人おひとりの中にあるんですよ。 メシアの御名を奉称すれば救われると明主様仰せですが、それは救われますよね。だって男女間のずれを是正したのがメシアという存在ですからね。そしてそれはイエスに象徴されるわけで、その存在を受け入れたら男女一つとなって幸せになれるわけですから、それは救いですよね。救いと言いますが、それは、「幸せだ」ということですよ、だって救いと幸せは同義ですから。 というように、「神のもとに帰りなさい」というメッセージを世にもたらすという使命を持たれていた明主様が、最後、この世においてご自身でそれを成し遂げてしまわれた。 明主様は、ご昇天前年の4月19日、脳溢血のご浄化をお受けになって、そして、メシアとして新しく生まれるというご事蹟を残された。 このことは、なんか、明主様信仰をしている人たちだけの小さな問題ではないんですよ。今冒頭からしている私の話の中に入ってくる問題なんです、本当は。我々は明主様というご存在を、今私がしている話の中で理解しなきゃいけないんですね、本当は。 でも、今まで全然そんな認識無かったじゃないですか。このメシア降誕のご事蹟については、どちらかというと、なんか自分の教祖がすごい存在になったぐらいの認識だったじゃないですか。でも、そういう理解ではただのカルトですね。 でも、明主様のメシア教はカルトではなくて真理ですから。そして、神の真理を持ってるのが我々メシア教ですからね。 だから、その真理を思い出してもらうために聖地とかも持ってたんですよ。聖地というのは天国を思い出すことが目的である。「あ、帰らなきゃいけない場所があるんだな」ということを思い出してもらうためのメシアの御名に連なる聖地があったわけです。それが明主様の聖地というものですね。 当然明主様のご理解も、イエス以来二千年間誰もしてないことをされようとしたわけですから、いろんな時代のものが混じり込んでくるわけです。明主様のご思想というのかな、仰せになったことの中には、そういうものが混じり込んできている。 だいたい、もし、メシアとして新しく生まれるということが最初から分かっておられたら、もう1935年の時点でそう仰せになるわけですけれども、それは少しずつですよね。 神様が明主様の中で少しずつ教えてくださって、明主様は少しずつそれを開拓されていった。 でも、明主様の聖言の中にはいろんな時代層のものが入り込んでいますから、結構そこに我々引っかかりますよね。日本人だと、生まれ変わりがどうだとか、仏教のことがどうだとか、徳を積むことがどうだとか、ご先祖様のこととか、なんかそっちのことに心が引っ張られちゃって、でも本当は簡単なんですよ、だってすべては「神様の愛」という一つに集約されるんですから。人生というのは神様の愛一つに集約されるんですから。 それなのに我々は生まれ変わりがどうだとかそういういろんなテーマが好きだから、結局それで真理が見えなくなって、明主様のご神業についても「メシア」という言葉も無くなっちゃって、結局ずっとうやむやになってましたよね。 というように、イエスの二千年後、神様が「いい加減にせい」として送られた明主様のみ心も結局消え去ろうとしてたわけですが、これには邪神たちももう大喜びだった。 邪神たちは我々が天上に帰ってしまうことを恐れてるわけです。だって邪神たちは「この世の王」という立場を継続したいですからね。 つまるところ、神様がこの世の王なのか、それとも人間がこの世の王なのか、どっちなんだということになるわけですが、神様がこの世の王となる世界は邪神(私たち)にはつまらないですから、だから、邪神は我々にハレルヤコーラスなんて歌ってほしくないわけです。「この世はもう神様が統治してるんだ」という歌詞の歌を歌われたら邪神は最も困るわけですね。 で、結局、「いい加減にせい」で送った明主様も事実上亡き者にしてしまった。しかも、メシアということの真実を持ってた宗教は世界中でメシア教だけだったんですよ。世界中でですよ。いや、世界の中では、もしかして我々が今学んでいることを知っているような人たちもいるかもしれません。だから確かに断定はできないけれども、でも、私たちが関わっていることは、日本だけの小さい話ではない。 皆様は気づいておられないかもしれませんけれども、このメシアのご神業が出ないようにしようということでうごめいてるパワーというのは大変なものがあるんですよ。 だから、せっかく明主様のみ心を亡きものとして、あとは自分たちの好きな明主様像を使ってやっていこうということになってたのに、教主様がメシアということを言い出したので、邪神たちはもう大慌てになったわけです。 だって、当時世界救世教は、もし教主様が仰せのことが都合が悪ければ、単純に、「教主様にはそういうことを言っていただいては困りますので、祭典に出るのはおやめいただきます」、とできたわけですよ。 いや、だって救世教は自分たちの教主を教団から追放したわけで、しかも、実際教主様が祭典にお出ましになる機会はどんどん減らしていくという方向だったわけですから、別に、「教主様しばらく黙っててください」くらいは簡単にできましたよね、当時救世教は。 冷静に考えればそれで事は済んだのに、全然そんなことでは収まらなかったじゃないですか。 我々の中でうごめいてるものが、メシアというのを出している岡田陽一教主というのがもう大変な存在だということになって、大慌てして、世界救世教内に「尾行・盗聴・盗撮チーム」を作って、実際に教主様ご夫妻を尾行、盗聴、盗撮して、それで、「もう教主は追放だ」、ついでに「岡田家全部追放だ」というこの救世教の慌て具合は、これは邪神の慌て具合ですよ。教主様がお説きになっていたことがそれだけ邪神たちに都合が悪かったわけですね。 だから今考えると、普通の感覚で言えば、皆様よく教主様に付いてこられたなという感じですね。普通で言えば邪神のほうに行きたいですよね。だって我々はこの世を主体として生きていきたいですからね。 救世教が持っている物質的なものに惹かれず、あちらに行かれなかったということは、皆様の使命は大きいですね。 それは、神様からその道を選ばせられたんだと思いますよ、皆様は。だから皆様が、教主様に付いていこう、メシア教のほうに付いていこうとされた決断は普通じゃないですね。普通じゃないと思う、僕は。 きっと神様が、最初我々が天上にいた時、真理をこの世に知らしめるということのために皆様方お一人おひとりを選ばれたんでしょうね。としか思えませんね。我々の徳でそうなるはずないわけですから。我々になにか徳があってこうなってるわけじゃないですからね。 とにかく、邪神は慌てて教主様を追い出して終わりにしようと思った。 イエスの時も同じですね。イエスを殺した。で、それから二千年も真理が出るのを黙らせることできたわけですね。そして明主様。明主様もご昇天になり、それで我々が明主様のみ心を隠し、それから50年くらいは成功してたわけです。 でも、イエスの時は2000で今回は50と一気に短くなってますから、神様のプレッシャーは強くなってますよ。 最初は二千年間ぐらいの猶予を我々に与えたわけです。「好き勝手していいよ」を二千年。でも今回はたった50年でまた神様が介入してこられているわけですから、神様の邪神に対するプレッシャーは強くなってますね。 邪神としては、教主様を追い出してメシアの神業を終わらせようとしたけれども、終わらずに、むしろメシア教が復活してしまって、しかも、メシアにつながる聖地ももう無くなっていたのに、今はその聖地すら復活しようとしている。 だから、冒頭で、メシアに関わるご神業の私たちの自覚について確認したいと言ったのはこのことですよ。 今我々は、今我々が進めていることをなんとか止めたいというのがうごめいてる中にいるんだと、それを知っておかないといけないということですね。 だから、皆様がメシア教の信仰に関わっていることについて、皆様の周りでなにかいろいろ巻き起こってるはずなんですね、家庭の中とかで。ただなんにも無いということはあり得ないですね。 だって我々は、世の人類にとって都合悪いことをしてる宗団なんですよ。(真明様、苦笑いをされながら)いや、本当は人類にとって最も都合がいいことをしてるんですけれどもね。人類が本当に焦がれてやまないことのため、人類の本当の幸せのため、我々は命をかけてるんだけど、いわば邪神という言葉に象徴される「この世を主体で生きたい」という力からは、もう目障りで目障りでしょうがないわけです、私たちがしていることは。 ということで、邪神は我々の周りの人とか状況をバンバン使ってきてますよ。参拝に行こうとすると参拝に行くのはどうだとか、そもそもメシア教の信徒であることがどうだとか、あるいはメシアにつながる聖地であるメシア聖堂に対しての反発ももうものすごいですよ。と思っておいたほうがいいですね。変に誇ることとは違いますけれども、こういうことを認識しておく必要があると思いますね。 だから結構反対運動があったり、あるいは自分の人間関係とかお金とかのことで、我々の日常生活に入り込んできてるものがあって、我々一人ひとり、それに負けてたらもう終わりですよ。 今日拝聴した明主様の聖言でも、「悪魔に負けるような宗教だったら、到底世界人類は救えないのだ」「今や邪神共は死物狂い、ウソでも出鱈目でも何でも構わない、どんなデマでも飛ばして本教へぶつかって来るんだよ、まるでヒステリーの金切声のように」(「寸鉄」1949年12月31日)と明主様仰せでしたが、この感覚を持っておくことが大切ですね。 明主様は、ご自分のされてることが世にとっては都合が悪いということを自覚しておられましたね。だから、我々もその自覚を持っていないと、「あ、これぐらいで妥協しておこう」とかいうことで、結構やられてしまいますよ。我々も人間主体のほうに流れたいものがありますからね。 というように神様の創造というところから始まって、そこから、ぐうーっと、今、より具体的なほうまでこの私の話は展開してきていますが、今私たちは、この世で最も具体的なことというのかな、「食」のことですね、というところにまで信仰が関わってきていますね。 だからそれは、イエスは最後の捧げものであるがゆえにもはや動物の苦しみを伴う食は必要無いという、クリスチャンヴィーガンのことですね。これ、実は、邪神にとっては、食事の時ですら神様のことを思われてしまうという非常に都合悪いことになってしまっているわけですね。だから、皆様の周りでヴィーガン食ということについて結構反対すごくないですか? 例えばですが、ガンを含めて内臓、肝臓、腎臓とか目とか視力とかに関するありとあらゆる病気になっても、誰も、「肉食が原因だ」と普通言わないじゃないですか。でも、ひとたびヴィーガン食をしてる人がちょっとでも体調を崩したら、いきなり食のせいになりますよね。「ヴィーガン食が原因じゃないか」(一同笑声)ということで。 世の中で病院行ってるありとあらゆる人。ガンとか心臓病とか脳の病気とか腎臓とか肝臓とか、そういうありとあらゆる病気になっても、世の中で、誰も「肉食が原因だ」と言わないのに、ヴィーガン食の人が体調を崩した途端に原因はもう一つしかない(一同笑声)、ヴィーガン食がいけないんだということにすぐなりますよね。 あと、ヴィーガン食をしている人の弱みみたいなことで、バランスの取れた食事が大事だという意見がありますよね。今私は、ヴィーガン食の具体的なことにどんどん話を進めていまして、数十分前は神様の愛の話をしてたとはとうてい思えないみたいな展開ですけれども、でも不思議ですね、それが一つの線につながってるんですからね。 とにかく、この、バランスの取れた食事がいいんだという声があって、それが、一見もっともみたいな意見だから、「ああ、そうか」みたいになって少しヴィーガン食をやめたほうがいいんじゃないかと思ったりする人もいるようですが、そもそも、そういう、バランスの取れた栄養という考え方は、基本的に西洋のほうから来たものですね。 で、その西洋が今どうなってるかというと、僕、これはこの間ネットとかで知ったんだけど、オランダの首都・アムステルダムは、街中で、食肉の広告を出すのが禁止になったんですね。 だから、マクドナルドのハンバーガーの写真とか、鶏肉とか豚肉とか牛肉とかの広告は禁止。これは、脱炭素社会を目指すということで、要は地球温暖化対策ということですが、そういうことから、肉食が地球温暖化に与える影響が大きすぎるということで、温暖化を推進することになる食肉の広告が、アムステルダムで――アムステルダムはオランダの首都ですよ――首都内で食肉の広告を出してはいけないとなった。しかもその法案が施行されるのが、なんと2026年5月1日、ですから、今日ですね、今日(参拝者から驚きの「おー」の声)。 今日からアムステルダム市はこれを実行する。しかもこの法案は、市の議会においてギリギリで通過したとかではないんですよ。圧倒的多数でこの法案は通過した(賛成27対反対17)。 しかもアムステルダムの場合、プラントベース条約というのを推進しようということで、4年後の2030年までに――意図的なたんぱく質摂取がいいか悪いかということは一旦置いといて――市民のたんぱく質摂取のうち、60%を植物性にしようとしているんですね。だから、もちろん穀物にもたんぱく質は入ってますが、基本的には豆とかでしょうね。どちらにしても、たんぱく質摂取の半分以上は植物性から摂りなさいということで、4年後に向けてそうやって進んでいくわけです。 市として、アムステルダムにあるいろんなレストランに対しても、ちゃんとヴィーガンメニューの選択肢を入れなさい、みたいなことをしている。すごいですよね。 それで、世界のヴィーガンの動きというのを考えた時、確かにヴィーガンをする理由として環境問題とか動物愛護とかいろいろあって、それは分かるんだけど、僕は、最終的に、そういうすべてのヴィーガンのあり方は、「クリスチャンヴィーガン」というのに統合されると思いますね、世界中で。 環境問題とか、動物倫理とか、健康とか、そういう理由でのヴィーガンというのは、最終的には、全部、「イエス・キリストが最後の捧げものじゃないか。だから動物は食べない」というクリスチャンヴィーガンに統合されると思いますね。 だから、我々のようにクリスチャンヴィーガンでなくても、ただヴィーガンをしている世の中の人に対しても反発はありますもんね。僕はそれは、最終的にはクリスチャンヴィーガンにつながる運動だから、だからどんなヴィーガンの活動に対しても反発があるんじゃないのかなと思います。 どちらにしても、この日本で言われている栄養の考え方というのは、すべて西洋から来たわけだけど、今のアムステルダムの話のように、その西洋そのものがもう変わり始めちゃってますからね。 この間、信徒の女の子の方の話を聞いて、これは立派だなと思ったことがあって、それは、14歳ぐらいの信徒なのですが、その方の学校で、先生が、牛肉というのは牛さんの命なんですよ、だから感謝していただきましょう、みたいなことを生徒に教える道徳のような授業をしていて、クラスの他の子は確実に全員肉食してますから、みんないろいろ意見を出し合う中で、その授業全体の方向性は、例えば、「私は今まで肉を食べるのがあまり好きじゃなかったけど、先生のお話を聞いて、これからはがんばって食べます」みたいな雰囲気になってるところ、その信徒の女の子は、「肉なんてそもそも食べなきゃいいじゃないか」「殺されることを望んでいる牛さんなんかいない」というド正論を言ってくれたんですね。ド正論を言ってくれた。 それを言ったところ、それまで先生はいろんな生徒の意見を黒板かホワイトボードか分かりませんけれども書いていたのを、その信徒の子の意見は無視するみたいにして黒板には書かず、クラス全体も、この人よく分かってないなみたいな感じになったようなんですけれども、でもその信徒の女の子は、そういうことをはっきり言えてよかった、という話なんですけれども、その話を聞いて、この信徒はすごい立派だなと思いましたね。 特に、日本というのは島国特有の同調圧力が非常に強い国であって、アメリカみたいに移民をいっぱい受け入れているところはいろんな意見を言うみたいなのが日本よりは割と受け入れられてますけれども、日本の場合は島国の中で周りの人と合わせるということが美徳の一つみたいになって、場合によってはそれを真実を封じ込めるために使ったりしますから、そう考えると、そういう社会の中でそういうことを言ったこの信徒は本当に立派だなと思いました。 もしこの信徒の女の子が、それこそアムステルダムに行ってクラスで発言したことを言ったら、オランダ人は、「その通りだ」となりますよ。 肉食のもととなるヨーロッパ、西洋に行ってこのことを言えば、「すばらしい意見だ」になるのに、西洋の真似事して肉を食べ始めた日本でこのことを言うと、なんか都合悪いみたいなことで無視されるというのはおかしな状況ですけれども、ま、我々の力でなんとかそういう世の中を変えていきたいですよね。 私の長女のめいも、小学1年生の時、動物園ではないんですが、学年全体でこどもの国みたいなところに遊びに行くというので、その時の行事の一環で、動物を見る、というのがあったんですね。なんかあるじゃないですか、馬とかうさぎとかそういう動物が囲われていて、そういうのを見たり触れ合ったりするというの、ありますよね。 当時私たちもだんだんヴィーガンのことを知るにつれて、動物の苦しみというのは殺して食べられるだけではなくて、よく分からない檻みたいなところに入れられて一生過ごすみたいなこともクリスチャンヴィーガンの一環として、問題だ、動物園や水族館などには行くべきではない、みたいな感じに我が家ではもうなってたんだけど、だけど、このめいの行事については、他の友達と別になるのがどうかな、だからやむを得ないかなと親としては思っていたのですが、めいに聞いたら、「嫌だ」「そういうのは見たくない」と言ったんですね。小学1年生。 ということで学校側に伝えたら学校側も考えてくれて、動物との触れ合いをする場所の近くに富士山が見えるベンチみたいなところがあるから、めいはそこで座って富士山を見て待つ(一同笑声)ということを提案してくれました。他にさせることがなかったんでしょうね。 だからめいは、他のクラスメイトがみんな動物との触れ合いタイムをしてる時、みんなから背を向けてベンチに一人で座って富士山を見てたんですね。 そしたら、この遠足のような行事が終わって学校に戻った時、めいがそういうことをしたということを知ったその学校の外国の男の先生が、――西洋人ですね――めいに話しかけてきて、「僕も動物たちがああやって苦しんでるのはかわいそうだと思う」「僕もめいの隣で一緒に富士山見たかった」ということをめいに言ってくれたんです。 というように、こういうことはもう西洋が先に行ってるわけです。一方我々は、「ミロクの世は菜食だ」ということを宣言した明主様のお膝元の日本ですよ。西洋とかアムステルダムとかに遅れを取ってる場合じゃないと思いますね。 邪神との戦いということの中で明主様が非常に仰せになったことで、健康問題のことがございますね。健康問題。医学ということですね。 明主様は、本来我々の命は神に属してるのに、医学とか薬とかそういうものに握られてしまっているじゃないかということを強く仰せになった。 明主様は、生涯、文字通りこのことに命をかけられましたよね。明主様のご神業というのは、基本的にこの医学との戦いですよね。だって明主様は、命を神のもとに返したいのに、医学が捕まえて離さないわけですから、それとの戦いであった。 だから、世の中というのは、人間を、医者に頼る存在、薬に頼る存在にしたいわけです。 例えばですが、ちょっと栄養の話をしますけれども、栄養の世界では、骨を強くするのはビタミンDということになっているわけですが――最初のほうで天上の話をしてる時、まさか、のちに、「ビタミンD」という言葉を発するところまで行くとは思ってなかったけれども(一同笑声)――とにかくこのビタミンDというのは、日光を浴びれば身体がふんだんに作るんですね。 骨を作るのはよくカルシウムというけれども、いや、私は専門家ではないけれども、専門家が言うには、ちゃんとビタミンDがあると、カルシウムとかを腸がしっかり吸収してくれて、そして骨になっていくということで、骨のためにはビタミンDが大事なんですね。 だから、簡単に言えば、日光を浴びればいいということです。お昼の時間帯に肌を出して日光を浴びたら大量のビタミンDができる。でも、一方世の中にはビタミンDのお薬もありますよね。では、お医者さんにとって、また、製薬業界にとって、「日光に当たりなさい」と言うのと、「この薬飲みなさい」と言うのどっちがいいですかね。答えははっきりしてますね。 もちろんビタミンDは日光浴から得られるわけですが、日光浴以外にも自然から得られるエネルギーはたくさんあると思いますよ、それこそ海水浴とか。あるいはすごい体調が悪い時は断食もいいとされてますよね、健康に。 だけど、日光、海水浴、断食、これ誰が儲かるのかと、そうなってしまうわけです。 日光はただですよね(一同笑声)。でもそのうち、日光を浴びるのもお金を取るような業者も出てくるかもしれませんよ(一同笑声)。いや、本当に。だって、水なんて昔日本人はただで飲んでたのに、今はもう大変なことになってますよ。みんな、「水飲みなさい、水飲みなさい」「1日に2リットルぐらい飲みなさい」とか言って、それを真に受けてみんな水バンバン買ってますよね。いやね、そういうふうに水をたくさん人類に買わせるということを計画している方々がいらっしゃるんですよ、あまり表には出てきませんけれどもね。 邪神というのは人間世界の繁栄を求めてますから、その一部の働きとしてそういうことも出てきているわけですね。 海。歩いて海行ったら無料ですよ。海水浴をすれば、海水にあるミネラルをふんだんに身体に取り込める。でも、これも誰も儲からない。 断食なんてもう、誰も喜ばないですね(一同笑声)。誰も喜ばない。断食みたいなことで体調良くなっちゃったら、お医者さんも面白くないし、薬売ってる人たちも面白くないし、食品業界も面白くないし、だから本当は、日光浴とか海水浴とか断食とかの健康上への利点はもっと研究されてしかるべきなのに、そういう予防医学みたいなことはみんなあまりがんばらないじゃないですか。 断食をしたらものすごい体調が良くなるかもしれないのに、それよりも、食べさせることの健康の利点ばかり世の中では話しますよね。この食べ物はこういう栄養があるからいいとか言って。そんななにか食べさせるより、下手したら、断食したらほとんど解決しちゃうみたいなこといっぱいあるかもしれないですよ。 でもそれ、誰も面白くないから、社会全体として推進しないじゃないですか。もし日光、海水浴、断食によってみんな健康になったら誰が喜ぶのかということですよね。喜ぶのは体調が回復した人だけですよね。 だけど我々は、神に似せて造った子供なんでしょ? その我々の健康とか命が、薬とか神様ではない他の人間とか、なんかよく分かんないサプリとか、そんなのに頼らなきゃいけないのかと、そう私は思うわけです。 聖書においても、我々は神のかたちに似せて造られたと言われてて、明主様もそれは真理だと仰せになっておられるんですから、我々のこの身体は神の形なんですよ。神様は人間と同じ形をしてらっしゃるんです。だから我々の見た目は、一人ひとり、神様そのものなんですよ。 聖書にもそう書いてあって明主様もそれに同調されているとしたら、我々はもうぐうの音も出ないじゃないですか。 よくなんか、神様は宇宙エネルギーだ、みたいなことでぼやかそうとしますけれども、神様はそんなものではないんですよ。神様は、こういう、人間と同じ見た目をしておられる。我々と同じように、お顔と耳と目と口と鼻と手と腕と足とお腹と、そのすべてを持っておられる。 だから我々は、天上に帰って男女一つとなって神様の完全体をいただくということを成し遂げなきゃいけない存在なのに、それが薬だ、医学だ、サプリだって、そんなのみっともなさすぎるじゃないですか。 本当は、天上にいる我々の片割れにちょっと触れたら、その光のパワーで病気なんて一瞬に治る存在なんですよ、我々はね。我々はそれぐらいすごい存在なのに、「天国に帰る」というその話はあまり面白くないですよね。だからこの世を主体とする医学はもう大発展してますよね。 予防医学にお金を使うならまだ分かるけれども、いわゆる対症医療をするお医者さんたちがもう儲かりに儲かってますよね。病気になった人を治すという人たちですね。 本来、なんとか病気にならないようにしよう、が主流であるべきだと思うんだけど、むしろ病気になった人を治すことが主流ですよね。薬の研究もそうじゃないですか。いかに病気にならないかの研究にそんなお金かけないじゃないですか。 だって、もしそんなことを研究し続けたら、製薬業界も潰れちゃう、お医者さんの多くも路頭に迷っちゃう。だからそうならないし、病気の人がいることによる利権はものすごいですよ。 でも我々本当は神様の子供という存在ですから、神様のもとに帰って神様にお喜びいただくということをやっぱり考えなきゃいけないんだけど、そうなってしまわないよう、栄養とかお医者さんとか肉食とかいうことで、常に我々をこの世に引きずり降ろそうとしている力がものすごいわけです。 ということで邪神の力との戦いということがあるわけですが、その中で生きる我々として、もし一つものすごい具体的な実践があるとしたらということでそれをお伝えしたいのですが、まず、よく言われるのに「感謝」というのがありますよね。感謝。 この世でいろいろ起きてくることについて、そのことの悪い側面に心が囚われないように、感謝しようじゃないかというのがありますよね。 これは、どんなことが起きても、「ありがとうございます」というひと言を言わせていただくということですが、皆様も、一時期このことを実践された時もありましたよね。「ありがとうございます」という言葉を言ってみるという実践。 なんか不都合なことが起きた時とか、病気になりましたとかいう時に、「ありがとうございます」と言わせていただく。 「ありがとうございます」と言葉にするということは、「人間は想念次第」の聖言で明主様も仰せのように、起きていることの中に神様の働きを認めることになるので、その心が神に通じるからいいんだ、ということですよね。 当然これはすばらしいことなわけですが、でもね、今日は、そこからさらに一歩進んだ言葉を皆様に紹介したいと思います。 それは、「私は世界で一番幸せです」。これですね。「私は世界で一番幸せです」。 だって、私は世界で一番幸せだということを否定する要素が無いじゃないですか。もし神様が存在しておられて、その神様がすべてを司っておられるとしたら、自分の人生で起きてくるすべてのことは神様がされてるわけで、その神様がされてることについて、なんか、悲壮感を持って、「ありがとうございます」「感謝します」というのは少し違いますよね。 神様はなぜ私たちに人生の困難をいろいろぶつけてきてるのかというと、それは、我々に幸せになってほしいからしかない。本当の意味での幸せをつかんでほしいからしかない。 だとしたら、その神様に対して、「私は世界で一番幸せです」と言うことを否定できるものが無いですよね。否定できない。 神様は、我々一人ひとりを全部愛しておられるんですよ。だからすごいですよね、神様の愛というのは。僕なんか3人の子供だけでも大変なのに(一同笑声)、神様は80億の人類の一人ひとりに、最良の状況を、常に、毎日、毎秒、いつも用意しておられるんですよ。 僕なんか、この子にこう言ったからこの子にどう言おうかなとか、そういうのあるじゃないですか。平等にしてあげたいけど、1人にこれやっちゃうと残りの2人もしなきゃいけないし、ちょっとどうしようかなとか、そういうのあるじゃないですか。 で、僕はそれだけでも結構頭悩ませてるのに、神様は80億くらいの人類の全部に、常に、最もいいタイミングで、最良のことを起こし続けていらっしゃって、そのお方が神様なんですよ。 そうだとしたら、「私は世界で一番幸せです」という言葉を否定できるものを我々は持ち合わせてないですね。そして、持ち合わせてないとしたら言ったほうがいいですよ。だって、卑近な例えになりますが、もし、自分の子供に対して厳しいけれどもなにか言わなきゃいけないとか、しなきゃいけないという時に、それを言われた子供が、「お父さん、お母さん、私は世界で一番幸せです」「お父さんとお母さんからこういうふうに教えていただいて、私は世界で一番幸せです」と言ってくれたら、その親の喜びはすごいですよ。そしたらその親はその子が喜ぶこといくらでもしてあげたいですよ。という状況になってるんですよ、皆様も、神様に対して。 だから、嘘でも、「私は世界で一番幸せです」と言わせていただいたほうがいいですね。 いやね、ありとあらゆる困難ありますよ、人生の。無ければ簡単ですよね。無くて幸せですと言ったら、神様も、「そうだろう」で終わりですよね(一同笑声)。お前はこれもあるしこれもある、十分満たされてるね、だからお前は幸せだね、で終わりですね。 でも、神様は十分ご存じなんです。人生生きてる中で我々が困難を持ってるのは神様は十分ご承知なんです。その神様に「私は世界で一番幸せです」と言ったら、その神様の喜びはすごいですよね。そして、皆様方一人ひとりの中にいらっしゃる神様が喜ばずして皆様の人生の幸福は無いですよ、絶対。 神の愛というのはもう想像を絶するものであって、我々人間の持っている愛と比べるのは本当に畏れ多いですね。教主様がいつも、「誠に畏れ多いことではありますが」と聖言をお始めになりますが、それは、怖いからではなくて、神様の御心を偲べば、もうそれは大変なお方であり、想像を絶するお方であるからそのように仰せなのかなと思います。 明主様は、光はどんどん強まっていくと仰せでしたね。どんどんどんどん強まっていくと仰せだった。それを聞いた我々は、なんか、浄霊の光が広がって病気がどんどん治っていくんだとか、あるいは、一方で世の中はどんどん大変なことになるんだ、ぐらいのイメージですよね。世の中がどんどん良くなるとか、あるいはひどいことがどんどん強烈に現れていくんだろうとか、その程度の認識だった。 ま、それは一面そうなんだけど、でも、光というのは、ひと言で言えば愛ですよ。愛。 ということは、神様の光がどんどん強くなるということは、神様の愛というものがどんどん強くなる、強く表現されてくるということですね。 だから、光が強くなるなら世の中きれいになっていいなとか、どんどんいろんな病気が現れてきちゃって大変だなとか、そういうことだけではないんです。 そもそも、なぜ世の中いろんなことがどんどん起きてるかというと、それは、神様の、「私のもとに帰ってきて、私と一つになってほしい」という、その愛が我々に臨んできてるからなんです。だから光というのは本当は愛のことですね。 神の光というそういう抽象的な言葉によってよく分かんなくなってるんだけども、神の光は愛ですね。神様が、私たちに対して、「あなたと一つになりたい、あなたと共に住みたいんだ」と思ってくださっている愛、それが神様の光です。 だから、本来ご浄霊もそういうことだったんですよ。その奇蹟によって神を思い出して、神のもとにみんなで帰ろうじゃないか、ということのためのご浄霊だったんですよ。 だから、明主様が、光がこれからどんどん強くなっていくと仰せになったのは、神様があなたに向けてもっと愛を示すよと、そういうことです。それが我々にとって都合悪いこととして現れる時もあるわけですね。だって我々が、もし、ものすごい神様のほうに向かなきゃいけないことがあった場合、それは神様が愛によってそれを指し示してくださるわけですから、病気という形で出ることもあり得るわけです。それによって、「この病になったのはどういうことだろう」「自分は神様のことをないがしろにしてたな」ということを思い出すきっかけにもなる。 先月のイースター祝典で、「ヨハネによる福音書」の「初めに言があった」ということについて、ここの「言」というのは「メシア」であって、このメシアという言葉は最後まで残るんですよということをお話ししましたが、信徒のどなたかのご感想で、なんで初めにあったからって最後まで残るんだというね、そういうのがあったんですけれども、でも、「大救主の御名は最後の世を救ふ尊き御名なり心せよかし」。これ、明主様の御歌。「大救主の御名は最後の世を救ふ尊き御名なり心せよかし」。 「メシア」という言葉は初めにあったんだけど、同時に最後の世をも救うんです。だから、初めに存在してもいたけど、一番最後までも存在してますよ、間違いなく。 そして、「最後の世」はどこかというと、まさに今の我々の心そのものです。天国でずれが生じて、それによって一人ひとりの命を獲得するということのために出来上がった自我意識を持たされている我々、その今の我々の状況が「最後の世」なんです。 そして、「メシアの御名を奉称せよ さらば救われん」、ですからね。 我々が聖地を造ることも、メシア教の他の活動の祈りとか食とか音楽とか、このすべてがメシアに関わることですからね。 だから今、人類の大転換期ですね。大転換期。 明主様も、今日の聖言で大転機と仰せでしたね(真明様、栞をご覧になりながら)「神霊は世界の大転機に際し救世の力を揮われる以上、邪神界にとっては空前の脅威であり、最後の断末魔である」(「善悪の戦い」1950年3月18日)。これですね。今我々が、というか皆様お一人おひとりが置かれている状況はこの状況ですね。 だから、メシアの御名にあるご神業の道を歩むのか、それとも最後の断末魔としての人生を歩むのか。今邪神は、必死になって皆様をメシア教から引き離したい、メシア教のしてることは大したことない、ヴィーガン食おかしい、メシア聖堂を建てるのおかしい、メシア教を信仰してることおかしい、参拝に行くことおかしい、献金することおかしい、宗教おかしい、こういう声があるかと思いますが、まさにこれが邪神の断末魔ですよ。メシアの力に抗っている最後の断末魔ですね。 でも我々は、人類の生まれる前から存在していた神の愛に生きる者である。 神の愛を形にしたらメシアという言葉だったんですよ。メシアという言葉であり音。だから、メシアという言葉は神の愛の象徴ですよね。 というずっと昔、神様が我々と共に住みたいなという時からスタートしてるその愛が、今、我々のところに来てるんです。だから、かなぐり捨てなきゃいけないですね。我々の人生で降りかかってるものすべてをかなぐり捨てないと、そこには到達できない。 ありとあらゆるものを失っても、メシアの御名にしがみついて、神の最初の愛のところに帰らなければ、人類の幸せは無いんです。たとえどんなものを失ってもですよ。文字通り、教団浄化でいろんなものを失いましたよね。でも、はっきり言って、あの程度のものを失ってもどうってことないんですよ。自分が大切だと思うありとあらゆるものを失っても、神の愛が貫いているメシアという言葉と共に自分の片割れのところに帰って、本当の幸せを得る、これを成し遂げなければならない。 そして今、これを防ぎたい勢力(邪神)と、これを世に知らしめたい勢力(私たち)の戦いの火蓋が切って落とされている。なんかかっこいい言葉になっちゃったけれども(一同笑声)、今日拝聴した明主様の聖言の題の文字通り、我々は「善悪の戦い」に突入しているわけです。 私、冒頭でマミのことを戦士と言ったけれども、我々もみんな戦士ですね、本来は。悪魔みたいなのに屈してるようじゃ世界人類はとうてい救えないわけですからね。 だから、どんなに宗教だと馬鹿にされても、どんなに追い出されても、どんな目に遭っても、明主様の時から、というかイエスの時から、というか神様ですよね、神様が願って、イエスが顕して、明主様が継承されて、教主様がそれを継承されて、それでも潰されようとしてたのを、今皆さんが継承してくださってこの世に広げようとしている。 だから、明主様が戦われたように、我々も戦わないといけない。明主様が「善悪の戦い」という言葉をお使いになったということは、明主様としては、ご自分が善であり、悪と戦わなきゃいけないということを思われていたということですね。明主様は戦われていたわけです。 そして、人類は、心の奥の奥の奥底では、求めてるわけです、本当の恋愛を。人類で恋愛を求めてない人は誰もいませんよ。それはあるからですよ、心の中に。自分の中にいる大切な存在にどうしても会いたいな、というのがあるからですよ。それがメシアのご神業ですね。人類に本当の恋愛を成就させるのが世界メシア教のご神業。 それが潰されかけてたんだけど、神様から選ばれた皆様の手によって、この愛を世界人類にもたらして、本当の幸と喜びとときめき、これを共に人類にお届けしたいと思いますし、そのために、また共にね、協力して、お互い愛し合って進んでまいりましょう。 ありがとうございました。