ボリビア篇 信徒:ボリビアは圧倒的な肉食社会であり、また、肉食こそが健康の秘訣だと信じられており、多くの人は、完全菜食の世が来るということは、実現不可能な、夢のようなことだと思っています。私たちは、真明様メッセージ No. 20「ミロクの世の食とは」をお受けし、食を変えることの必要性にようやく気づき始めたのですが、明主様の願いである菜食の道を歩むため、どのような思いで向かっていけばよろしいのでしょうか。(ホセ・サウゼノ 理事 男性 53歳)真明様:「信じる」という言葉は一体どのような意味なのでしょうか。 私たちは、目に見える証拠があるから神様を信じるのでしょうか。それとも、証拠が無くても神様を信じるのでしょうか。 もし証拠があるから神様を信じるのだと言うなら、それは「信仰」とは言えません。証拠が無くても信じる―これが信仰という言葉の意味です。 私が、「ミロクの世の食とは」で引用した明主様聖言ですが、私は、それらの聖言が存在することを知ってはいました。 しかし、最近、それらの聖言に再び出会うことが許されました。 明主様は、「ミロクの世には人類すべてが菜食家になる」旨、明確に仰せです。 私は、なぜかは分かりませんが、この聖言に再び出会った時、心を大きく揺り動かされました。いや、それ以上に、今までこの聖言を長年無視してきた自分が恥ずかしくなったというほうが正確かもしれません。 明主様は、この聖言を、もう70年以上も前に遺されています(1952年4月25日の御講話)。明主様は、70年以上も前に、人類すべて、ミロクの世には菜食家になるとおっしゃった。ということは、明主様は、すでに70年もの間この聖言が実現する日を待たれていらっしゃる、ということです。 しかし、これを聞いても、私たちは、「私たちにはこういう事情がある」ということを言いますね。「まだ世の中がそういう世の中になっていない」「私の家族が受け入れてくれないだろう」「この国の文化では難しい」などなど。 実は、私たちは、今までの70年間も、同じようなことを言ってきたのではないでしょうか。そして、この明主様の願いを直視することを避けてきたのではないでしょうか。明主様の願いより、自分の願い、自分の都合、自分の事情を優先してきたのではないでしょうか。 70年間言い続け、そして今も、「我々の社会はこういう社会だから」「肉食の社会だから」ということを言っている。 私は、明主様が仰せの、人類すべてが菜食になるということ、これが、今すぐに実現するとは思いません。100年、200年、300年、400年、あるいは500年経っても、私たちの周りの社会、考え方は変わらないかもしれません。明主様が仰せの現実と、世の中の現実は、ずっとずれがあるままかもしれません。 そうだとして、私たちは、これから先何百年も、ずっと、世の中の現実、常識を優先して生きていこうというのでしょうか。 私が何を言いたいのかというと、私たちは、決めなければならない、ということです。そして私たちには、二つの選択肢がある。 一つは、世の中の現実、一般の人々が持っている常識に生き、今まで生きてきたように生きていく。 もう一つは、世の中の常識ではなく、明主様の常識に生きると決めるかどうか。 明主様が仰せの「ミロクの世」の住民になるのにふさわしい存在になりたいか否か、決めるのは皆様方一人ひとりです。 私はすでに決めております。 私は、「ミロクの世には全人類が菜食になる」との聖言に再び出会わせていただいた時、「これからは、自分の都合、願い、事情ではなく、明主様の願いにお応えさせていただく存在でありたい」と思い、決めました。 ですので、今私が話していることは、「教え」という種類のこととは違います。一人ひとりがどの道を選択するか否か、それだけのことです。 皆様方も、もし、今日、「私は明主様が仰せのミロクの世の住民としてふさわしい存在になりたい」と思えば、もう今日からでも始められることです。むしろ、そのような方々が増えずして、どうやって明主様の願いであるミロクの世がこの地上に到来することができるのでしょうか。この世は、人の集まりによって構成されているのです。 ですので、私は、たとえ、私以外の80億近い全人類がこの明主様の聖言を受け入れたくないと言ったとしても、私は受け入れます。そして、明主様が願っておられるミロクの世が到来するために、私一人からでも始めたいと、そう思います。 ご質問に、ボリビアの社会ではこうだ、ということがありましたが、実際問題、日本もボリビアも大差はありません。日本においてもこの完全菜食を打ち出すことは大変難しいことです。 しかし、このたび、私は、明主様によって、この聖言を受け入れるように導かれたと、そう思っています。そして、私は、決してこの聖言を戒律のようには受けとめておりません。 ただただ明主様のみ心にお応えさせていただけるんだという強い喜びに満たされている、本当に、ただそれだけのことです。 私だって思います――「いや、それは絶対無理だ。実現しない。社会がまだそういう世の中になってない」。私にだってこのような思いは湧いてきます。 でも、明主様がこの聖言を遺されたのは事実です。明主様は、本当にこのようなことを仰せになったのです。だとしたら、私ができる唯一のことは、明主様を信じる以外ありません。 もちろん、具体的には、この完全菜食の道を歩むためには、妻の支えが必要です。幸運なことに、妻も私とまったく同じ気持ちを持ってくれていますし、二人で、大いなる喜びをもってこの道を歩ませていただいております。 これを打ち出したことにより、私に対する反発が大きいと感じるような時は、「この明主様の聖言に出会わないでいれたらどれだけ楽だっただろうか」と思うことも正直あります。 しかし、私は思います。もし明主様が何かを願われたら、明主様は、それを、必ずや成し遂げられる、ということです。 私は、明主様により、「ミロクの世には全人類は菜食になる」旨の聖言に再び出会わされました。である以上、私にとり、この明主様の聖言を無視という選択肢は存在しません。私の喜びが明主様の喜び、なのではなく、明主様の喜びが私の喜びであります。 皆様方の中に、こういう現実があるとか、こういう事情があるからなかなか実践できないとか、そういうことがあるのは百も承知しています。でも私は思います。明主様は今、それをすべて踏まえた上で、「あなた自身はどうしたい?選ぶのはあなただよ」と、そう仰せになっているように思えてならないのです。 一見人間の目には不可能に見える道に進んでいくことが、信仰の喜びではないのでしょうか。もし自分の目にとって予測可能な未来に向かっていったとして、どうしてそこに信仰の喜びを感じることができるのでしょうか。壁が高ければ高いほど、喜びも大きいのだと思います。 この食の道は、この先もさまざまな困難が待ち受けているのかもしれません。でも私は、大いなる喜びをもってこの道を歩んでおりますし、明主様が仰せのミロクの世の住民としてふさわしい存在になりたいと願っています。 そして、一人でも多くの方が私と同じ道を歩みたいと思ってくだされば、こんなに嬉しいことはありません。 明主様が、「ミロクの世は来る」と仰せになった以上、ミロクの世は絶対に到来します。全人類が菜食になる日も絶対に到来します。皆様方は、その明主様のみ心に今すぐお応えになり、パイオニアと言われるべき存在となりたいですか?それとも、この先長い年月をかけて世の中が変わっていき、世の中全体にとって菜食が常識になった時に初めて、「じゃあ私もそろそろ菜食にしよ。世の中でもそれが常識みたいだし」とされますか?世の中が変わった時に初めて明主様の聖言を受け入れますか? 世の中が変わってからこの明主様の聖言を受け入れるのは簡単なことです。 「人類の誰もがメシアとして新しく生まれる」。これも、いつの日か、世の中の常識として受け入れられる日が来るのだと思います。その時になって初めて、では私はこのことを信じます、とされるのですか? そうではなくて、私は、いかに周りから馬鹿にされようとも、悪く言われようとも、明主様の聖言をひたすら信じ、実践する存在でありたいと願っています。「ボリビア世界メシア教 理事・教会長・専従者とのご面会」ボリビア・サンタクルス2023年11月10日信徒:もし「ご浄霊は二の問題で、すでに想念の世界に入っている」のだとしたら、それを信じず、いまだに手を掲げるご浄霊をしている方の手から光は出ていますか?(ジアナ・ソアリス 布教師 女性 26歳) 真明様:ご質問ありがとうございます。 ジアナさんというのはどちらにいらっしゃいますか?(ウエマ本部長が指し示される)そちらですね。ご質問ありがとうございます。 光がいまだに手から出ているかどうか、ですね? まず、ご質問に、「もし」とありましたね。「もし『ご浄霊は二の問題で、すでに想念の世界に入っている』のだとしたら」とありましたね。 でも、これは、「もし」の話ではなく、実際に明主様が仰せになった事実です。明主様は、実際に、「これから想念の世界である」「ご浄霊は二の問題」と仰せになった。なので、これは架空の話ではない。 しかも明主様は、このことを繰り返し繰り返し仰せになったと記録されていますので、私たちとしては否定しようがない事実です。 で、ご質問に対する答えですが、簡単に言えば、なんかしらの光は届くかもしれないけれども、その光は明主様から来る光ではない(一同拍手)、そのようにお答えしたいと思います。 明主様は、すでに、私たちは想念の世界に入ったとご宣言になった。その明主様に反して手を掲げるご浄霊をしたとして、どうして明主様からの祝福を受けられるというのでしょうか。 一方の人々が、「私はこの明主様の聖言、み心をお受けします。明主様にお仕えします」と言う。もう一方の人々が、「明主様はそのようなことを仰せになったかもしれないけれども、私は今まで通り手を掲げる浄霊をします」と言う。 このどちらに明主様はご自身の光を分け与えてくださるのでしょうか。明主様の願いを無視し、いまだに手を掲げるご浄霊をしている方々にご自身の光を分け与えてくださらないのは当たり前のことではないでしょうか。 私は、ここでも、私たちには二つの選択肢があるのだろうと思います。 一つは、本物の明主様とは違う「明主様」像を自分たちで作り上げ、そして、「自分は明主様にお仕えしている」と言ってみたり、「たくさん浄霊をさせていただこう。それでたくさんお光をいただこう」と言ってみたりする。だとしたら、このような方々は、もはや明主様とはなんらのつながりもありません。 世の中には、手を掲げることによって身体になんらかの変化を起こすとされているいろんな療法がありますね。実際、そのような変化や効果はあるのだろうと思います。だけど、それでどのような変化が起きようとも、それは、明主様とはなんらの関わり合いもないことですね(一同拍手)。 というような、明主様とはまったく関係の無い道を歩んでいきたいのか、それとも、明主様の光に包まれる道に歩んでいきたいのか、それを私たちは決めなければいけない。 今、神様は、「全人類を私の光によって包んであげるよ」と仰せになっている。そして、この神様の光が私たち一人ひとりの中にある。これが、本当の浄霊の光であり、神様の御手は――本当の浄霊の御手は――私たち一人ひとりの中にある。 この光こそ、本当の明主様の光です。 そしてこの光が、「もう時は満ちたのだから、神のもとに帰ってきなさい」として私たちを照らしてくださっている。 光が照らすと、影ができますね?この影こそが、私たちの人生での苦しみであり、私たちのご先祖様の苦しみです。そして神様は、私たちの中に存在するこの影を受け取ろうとしておられる。 ですので、病気で苦しい時、身体が痛い時、心に負の思いが湧いてきた時、手を掲げる浄霊を受けたいなあと思うより、「神様が私に浄霊をしてくださっているから、その光によってこの影のような部分が現れているんですね。そして神様は、これらの暗いことすべてをご自身の天国に迎え入れたいのですね」と思わせていただいたほうがいいんです。 この神様の浄霊こそが、本当の浄霊です。そして、この浄霊の業は、誰もが、いつでも実践できるものです。手の無い方でも実践できます。 何かつらいことがある時には、「光はすでに私に到達しましたので、最初の場所、神様の光のあるところに帰ります。私の苦しみを受け取っていただきたいのです」というような言葉を使わせていただく。 明主様は、「まず想念である。お念じしなさい」と仰せになりましたが、その意味は、今言っているような言葉を使って神様にお祈りしなさい、ということだったのではないのかなと思います。 皆様が、手を掲げるご浄霊についての未練があることは充分理解できます。私たちは長年それをしてきましたのでね。でも、祭典でもお話ししましたように、私たちは、やはり、明主様の常識に生きなければならない。 私たちは、いまだに手を掲げる浄霊をしながら、「私は明主様の信徒だ」と言っている方々が、一日も早く悔い改めることを共に願わせていただきたいと思います。なぜなら、明主様をないがしろにすることは、神様をないがしろにすることに他ならないからです。このような方々は、神様をないがしろにして、どうやって幸せになれるというのでしょうか。 私たちは、明主様の常識に生きたいと思います。明主様のみ心に従いたいと思います。そして、もし機会があるならば、いまだに手を掲げるご浄霊をしている方々に、明主様の真実をお伝えさせていただきたいと思います。「真明様とのご面会」ボリビア・サンタクルス2023年11月12日ブラジル篇信徒:真明様、本日、真明様ご出座の祭典にこのように参列させていただきまして、身に余る光栄でございます。ご質問をさせていただきます。 2021年地上天国祭における真明様聖言において、真明様は「今日、私たち一人ひとりは、「自分は全世界を失っても、何を犠牲にしても、永遠の生命の道を歩みたいのか、歩みたくないのか」、これを決心しなければいけない」と仰せになりました。 具体的には、何を犠牲にしなければならないのでしょうか。私たちの自我意識でしょうか。それとももっと何かありますでしょうか。お伺い申し上げます。(ルーシア・トマズ 教会ブレーン 女性 45歳) 真明様:ルーシアさん、ご質問ありがとうございます。 私たち全員にとり、とても大事な、良いご質問だと思います。 私たちは、何を犠牲にしなければならないか、神様に何を捧げられるか、ということを問われた時、「私にとって大事なものを犠牲にしなければならない」と思いますね。 そして、多くの方は、ご質問にもある、「私の自我意識」「私の魂」のようなものをお捧げしなければならないと思うのだろうと思います。 これらは、目には見えない物です。そして、これらの目に見えない物は大切な物なので、これを犠牲にするのは難しいと皆様は思い込んでいらっしゃると思います。 しかし、本当は、目に見えない物を犠牲にするより難しいとまでは言いたくありませんが、目に見える物を犠牲にすること、これこそが私たちにとっては本当に難しいことです。 私たちは、目に見えない物を犠牲にするのは大変だ、と思っているかもしれませんが、本当は、目に見える物を犠牲にする、これがものすごく大変なことです。 例えば、聖書。聖書に、アブラハムがイサクを捧げる有名な話がありますね(「創世記」第17章1節~21節、第21章1節~7節、第22章1節~14節)。 アブラハムの妻・サラは、長い間子供を授かれなかった。そして90歳にまでなった。ちなみに、イサクが生まれるまでアブラハムの名前はアブラムで、サラの名前はサライでした。 あまり細かい話に入り込まず、簡単に言いますと、結局、アブラハムが99歳、サラが90歳の時、彼らの前に神様が現れて、「サラは子供を生む」ということを言われた。サラはもう90歳であったので、アブラハムもサラも、そのようなことは信じられないと思った。でも、神様は、それをお二人に約束された。 アブラハムが100歳、サラが90か91歳の時、その子供であるイサクがついに生まれました。 誰でも分かるように、この子供は二人にとって何より大事なものですね。二人はずっと子供が欲しかったのに長い間その願いは叶わなかった。でもようやく、のちにイスラエル民族の基となるイサクが生まれたわけです。 そんな中神様は、「あなたのひとり子であるイサクを私に捧げなさい(殺しなさいの意)」ということをアブラハムに言われる。ちなみにですが、アブラハムは、別の女性との間にもう一人子供はいたのですが、神様がこのことをアブラハムに言われた時には、もうその子供はアブラハムのもとにはいなかったんですね。とにかく神様は、私のためにあなたのひとり子を犠牲にしなさいとアブラハムに仰せになった。 この時、アブラハムの心にどのような思いが去来したのか、それは私には分かりません。でも、アブラハムは神様を信じ、ご自分のひとり子を山に連れていき、そこで、彼を殺そうとします。 まさに自分の子供を殺さんとするその瞬間、神様が直接介入されて――まさに稲妻のようなものでアブラハムを打たれて、アブラハムを止められたのだろうとイメージしたりしますが――「イサクを殺すには及ばない」ということを仰せになるわけですね。 私たちでアブラハムのようにできるでしょうか。というように、本来、目に見える物、この世に属している物、これを犠牲にするのは本当に難しいことです。 私たちは、心とか自我意識とか魂とかの目に見えない物、これらについて「神様にお捧げします」と口では言いますね。だけど、これらの物を実際に捧げたかどうかは誰の目にも見えないので、これを言うことは簡単なことです。「私は自分の魂を神様に捧げています」ということを口にするのは簡単なことです。ま、本当は、一番難しいんですけれどもね。 そして、アブラハムと同じように、教主様も目に見える物を犠牲にされた。 明主様の孫であられた教主様は、世界救世教の役員の方々におとなしく従っていれば、いわば目に見える多くの物を失う必要は無かった。世界救世教という教団そのもの、そこに所属する多くの信徒、聖地、祖父が購入された多くの美術品や美術館。教主様は、役員の言うことを聞いてさえいれば、これらの目に見える物を失う必要は一切無かった。 しかし、アブラハムにとって神の御心がすべてを超越するように、教主様にとっても、明主様のみ心はすべてを超越する。教主様は、明主様が本当に願っておられることは、明主様の真の願いを信徒が受けることだと信じられ、そして、そのためには、ありとあらゆる目に見える物を犠牲にされた。 それは、日本だけではなく、ブラジルやタイの聖地も含まれますよ。教主様は、長きにわたり、これらの場所をご自分のお祈りによって光で包んで、守ってくださっていた。だから、これらのものがご自分の手から離れることは苦渋の決断であったと思いますよ。でも教主様は、明主様によってご自身に用意された明主様の救いの真の道を歩まねばならないと、きっとそう思われたのだと思います。 というように、目に見える物を犠牲にするのは、本当に、本当に難しいことです。そして、ご質問にもあるように、それが具体的になんなのか、というのは一人ひとりによって異なると思います。 私は確信しています、神様は私たち一人ひとりを試されるということを。この世を選ぶのかそれとも神様を選ぶのか、神様は必ずや私たちを試されます。一人ひとりにとって、この日は必ず来ます。 ルーシアさんにとり、具体的に何を犠牲にしなければならないのか、私には分かりません。それは一人ひとり異なるからです。しかし、神様が私たちを試される日は来ますし、その時、私たちの信仰も同時に試されるのだと思います。このような日が来た時、それを乗り越えるのは大変なことです。でも、だからこそ私たちには信仰の仲間である多くの兄弟姉妹がいるのではないでしょうか。そして私たちは、常に、この世ではなく、神様こそがすべてを超越するように私たちの人生を歩んでいかねばなりません。 ですので、「具体的には、何を犠牲にしなければならないのでしょうか」というご質問に対しての答えとしては、それが具体的に何かは私には分かりませんが、でも、それはきっと、ルーシアさんにとって、犠牲にするのが本当に難しいと思われる物であることは間違いがないと思います。 このような日が来た時、私は、神様がその困難を乗り越える力を私たちに与えてくださるようお祈りしたいと思います。信徒:真明様、本日、このように、真明様から直接聖言を賜れますことは、本当にありがたいことです。誠にありがとうございます。 私には小さい二人の子供がいますので、それに関してお伺いしたいことがございます。真明様は、ご自身のお子様方に、どうやってこの新しい信仰をお伝えになっていらっしゃいますか?(セリナ・オヤマ 教会ブレーン 女性 36歳)真明様:ご質問誠にありがとうございます。大変良い質問だと思います。 まず、私の両親である教主様と母が私をどうやって育てていたかを思い返してみますと、信仰のことでなにか強制されたことは一度も無かったように思います。 親から、「神様を信じなさい」「明主様を信じなさい」「これを信じなさい」「あれを信じなさい」ということを強制されたことは一度も無かったように思います。 というように、信仰ということを一切強制されなかったので、天津祝詞や、さらに難しい善言讃詞を覚えるまでに、私はずいぶん時間がかかりました。両親は、信仰を強制するのではなく、私、また私には年上の兄がいるのですが、私たちの自由、意志を尊重してくださっていたと、そういう記憶があります。 でも、結果的に、私は、大人になった今日、神様のことを固く信じております。そう考えると、こういうことは不思議ですね。時に、親は、子供に、一生懸命神様への信仰を伝えようと思って必死になったのに、結果的にその子供は神様を信じないようになったり、あるいは、私のケースのように、一切強制しなかったにもかかわらず、結果的に、神様のことを強く信じるようになったり、こういうことは不思議ですよね。 というように、私は、子供のころは、親から何も信仰の話を聞いていないかと思っていたのですが、数年前母と話していて分かったことは、私と私の兄は、寝る前、「神様おやすみなさい」と言ってから寝ていたそうです。また朝も、朝起きたら、まず、「神様おはようございます」と言ってから一日を始めていたそうです。 ですので、私は覚えていないのですが、両親は、私たちに神様のご存在については教えてくださっていたということだと思います。 私自身の子供に関してですが、私も、自分の親がそうしてくれたように、自分の子供にも、なにか、強制的なことは一切しないようにしています。 ただ、子供を幼稚園とか学校に見送る時に、「何か学校であったら、神様が、イエス様が、明主様があなたの中にいることを思い出すといいよ」「助けてくれるのは神様だよ」とか、あるいは、時々、「あなたたちは私のことをお父さんと思っているかもしれないけど、『神様』という本当のお父さんがあなたたちにはいるんだよ」ということを伝えたりしています。 私が大切だと思うのは、私たちは、自分たち親が子供に何かを教える立場だと思い込んでいると思いますが、本当は、私たちがこの世に来る時、天国で私たちに「いってらっしゃい。またあとで会いましょう」と言ってこの世に送り出してくれたのは私たちの子供たちですから、むしろ子供たちのほうが天国のことをよく知っているのかもしれない、ということ。これを忘れないようにしなければいけないと思います。 というように、子供たちの中にも神様はおられるのですから、こちらが「何か教える」というより、真理というのは自然と子供たちの中から現れてくるものだろうと思います。 この世に生まれた時、赤ちゃんは泣きますね。それを私たちは、痛みとか、呼吸が難しいとか、なにかそういうことで泣いているのだろうと思う。でも、もしかしたら、赤ちゃんは、天国におられる神様から離れてしまったことを悲しんで泣いているのかもしれませんよ。 地上に来るため、ずっと天国で一緒だった神様から離れることを悲しんで赤ちゃんは泣いているのかもしれない。どんな赤ちゃんでも泣きますよね。それは、神様とお別れしてさみしいです、という涙かもしれません(一同拍手)。 大事なことは、子供の中にはすでにすべてが存在しているということを忘れないこと。そして、私たちの役目は、子供たちがそれを思い出すことができるよう、きっかけや手助けを少しさせていただくくらいなのかなと思います。 そして、子供たちは、私たちより天国により長くいたのですから、もしかして、私たちのほうが子供たちから学ばなければならないことがあるのかもしれません。 そして、もし私たちがこの世に生まれた瞬間、神様と離れることの悲しみから泣いたのだとしたら、私たちの人生というのは、そのすべてが、神様との再会を果たすためのものかもしれませんよ。 私たちは、赤ちゃんの時は神様のことを覚えていたのに、だんだんこの世に染まっていくにつれ、神様のことを忘れていってしまった。神様よりも、この世を愛するようになっていってしまった。 でも、私たちとの再会を願う神様は、私たちが再び神様のことを思い出し、神様のもとに戻ることができるよう、私たちの人生の中にさまざまな困難を与えておられるのかもしれません。サントス本部長:真明様、聖言、誠に、誠にありがとうございます。 セリナさん、ご質問ありがとうございました。 (参拝席に向かって)皆様、どうですか?素晴らし過ぎますね!(信徒一同「はい!」) 本当に、すごい内容です。誠にありがとうございます。しかし、時間の関係から、最後の質問となってしまいました。 では最後、アマデウスさん、ご質問のほうよろしくお願いします。信徒:真明様、神様への深い慎みと畏れをもって、本日、教主様のご名代であられる真明様の尊いご来臨を仰ぎ、この祭典に臨ませていただいていますことに、心より感謝申し上げます。 真明様が私たちに注いでくださっている大きな愛に、感謝申し上げます。今日ここにいる私たちは、皆、真明様のお気持ちに感動しております。真明様、本当にありがとうございます。 お伺い申し上げます。 真明様が、ブラジルという国にいる私たち明主様の信徒に願っておられること、期待しておられることは何かございますでしょうか。このことにつき、聖言を賜れますでしょうか?(アマデウス・ヴァウドリギ 理事・教区長 男性 38歳) 真明様:ご質問ありがとうございます。 ご質問は、ブラジルという国の使命とは何か、ブラジル人の使命とは何か、ブラジル人信徒の使命とは何か、ということであると受けとめさせていただきました。 私は、ブラジル人の方に託された使命は極めて大きなものだと思っています。 それはどういうことかというと、明主様の願いは、イエスが始めた救いを完成させる、ということですね。ということは、私たちはキリスト教というものを完成させなければならない。 そして、ブラジルというのは、国民の大多数がキリスト教徒の国です。私たちメシア教徒は、イエスを信じている、聖書を信じている。と同時に、キリスト教徒が、「メシアとして新しく生まれる」という真実に、そして、「人類の誰もがキリストの再臨となれる」という真実に目覚めることができるよう努めていますね。 その真実の根底にあるのは――基本にあるのは――イエスの贖罪を受け入れる、ということです。 例えば、日本においてはキリスト教はほとんど広まっていない。ですので、日本人には、そもそもイエスという存在を受け入れてもらうことからスタートしなければならない。 しかし、ブラジル人の多くは、すでにイエスという存在と聖書というものを受け入れている。この基礎がある。だから、日本とは違い、イエスのことを信じてもらうことにそこまでの苦労はしなくてよいわけです。まずこのことがあります。 そして、ブラジルというのは、世界中の多くの人種、民族がいる国ですね。ということは、もしブラジルが目覚めることができれば、それはすなわち、世界が目覚めることである、と私は信じています。ブラジルが変われば、世界が、世界中が変わる。ブラジルが変われば日本も変わる。 私は、世界中でも、最初に、まず、ブラジル人が目覚めなければならないのだと思っています。ブラジルという国は、世界に、「人類はメシアの御名に結ばれた兄弟姉妹ではないか」というひな型を一番最初に示さなければならない国だと思っています。 もしこのことをブラジル人信徒の皆様が実現できれば、世界は変わります(一同拍手)。信徒:(突然参拝席の信徒が大声で叫び始める)ブラジルですぐにはそんなことは起きない。渡辺哲男先生が亡くなって教団の醜いところ、汚職のようなものが全部現れて、そして、私がもといた教団はもうぐちゃぐちゃになっている。 真明様:おっしゃる通り。 私たちには困難が必要なのです。 もし明るい未来がすでに見えるのだとしたら、私たちはなんのために信仰をしているのでしょうか。 全然明るい未来が見えない中にあっても、神様が未来への扉を開(あ)けてくださると信じる—これが信仰です。 すでに見ているのだとしたら、それは信仰ではない。 光が強ければ強いほど、影がよりはっきりと現れるのです(一同拍手)。 困難が存在することは私たちの勢いを妨げるものでは一切ない。それどころか、むしろ、困難があるということは、それだけ神様が強い光を発してくださって、そして、その光によって人類のすべてを包み、人類を救おうとしてくださっているということに他ならない。神様の光が強いから、今、影が強いように感じるのです(一同拍手)。 神様の光が強いから、私たちの心も、常に、大きく動いている。私たちの心は、24時間、四六時中、神様の光を浴びているがゆえに、「あの人はどうだ」「この人はどうだ」と思ったり、「こんな病気になってしまった」「こんな問題が巻き起こった」となっているのです。 神様の光が私たちを照らしているがゆえに、私たちの心は苦しみの中にあるかのようになっているのです。そして、この光こそが本当の浄霊の光です。本当の浄霊。神様は私たちに24時間ずっと浄霊をしてくださっているのです。24時間ずっとですよ!(一同拍手) 全人類の誰もが、今、神様の浄霊を受けているのです。24時間、休むことなく。これは今までの私たちの理解する「浄霊」とまったく違いますね(一同拍手)。 明主様は、ご浄霊は二の問題で、これから想念の世界であると仰せになった。確かに、それを無視して手を掲げる浄霊をし続けるという選択肢もありますね。でも、明主様は、想念の世界がもう来た、これからはお念じしなさい、つまりお祈りしなさいとおっしゃった。確かにこれをおっしゃったのです。 昔私たちは、「まず、とにかく手を掲げる。そして力を抜いて浄霊をする」ということを教えられましたね。だけど今明主様は、「お念じしなさい」と仰せです。「念じる」ということは、言葉が介在してきますよ。だから、言葉を使って神様に語りかけなさい、ということです。「神様、あなたはご自身の光によって私を24時間包んでくださっているのですね!」ということを神様に申し上げる、ということです。 多くの方々は、浄霊の光は、明主様時代よりどんどん弱くなっていると思うかもしれませんが、断じてそうではありません。むしろ逆です。私たちの心をほんの少しでもご覧になれば、すぐに気づくではありませんか、私たちの心が常に大きく動いていることを。それは、神様の光が、浄霊の光が、より強くなっているからです。神様は私たちの心を通して世界を救おうとなさっているのです。この本当の浄霊の業に私たちはお仕えしなければならないのです。 だいぶ話が逸れてしまいましたね。サントス本部長:話が逸れているのを私は大いに楽しんでいます。話を逸らしてくださりありがとうございます!もっともっと逸れても結構です。 真明様:ありがとうございます。 とにかく、ブラジル人の皆様、皆様の使命は限りなく大きいです。私は日本人で助かりました。冗談です(一同笑声)。 ブラジルという国は、神様のご経綸の中で、明主様のご経綸の中で、大変重要な国であると私は信じています。 明主様ご在世中は、今とは少し世界も違いました。明主様も、ブラジルについてあまり聖言を宣べられていません。でも、今、ブラジルにこれだけの信徒の方がいらっしゃるということは、明主様にとってブラジルは大切な場所であることは間違いが無いと思います。 ブラジルが変われば世界は変わる。私はそう信じています。そして私は、何も、これから先、困難や難しい問題が無いなどとは言っていません。むしろ、困難はこれから先もたくさんあるでしょう。でも、皆様がこの真の救いの福音をブラジル全土に伝道し、それによってブラジルが変われば、世界は変わり、そして、それにより、理想世界である地上天国は必ずやこの地上に打ち樹てられる。 ですので、私は皆様を頼りにしています。頼りにしていますし、これから先もブラジルに何度も戻ってきたいと思っています。なぜか。それは、皆様が世界を救う上で極めて重大な使命をお持ちだからです。 ご一緒に、明主様の真実を世に広め、世界を救いたいと、そう思います。 いかがですか?(一同拍手及びスタンディングオベーション)サントス本部長:真明様、誠にありがとうございます(一同拍手)。 (スタンディングオベーションと拍手が鳴りやまない中)本当にありがとうございます、真明様。 皆様、もう一度真明様に大きな拍手を!(一同拍手) 教主様、真明様がブラジルにご巡教になることをご許可くださり、そして、真明様を通して私たちの信仰を強めてくださり、これから歩む道を示してくださり、誠にありがとうございます。 真明様、明主様を100パーセント信じるすべての信徒の名において、私たちの心の底からの感謝をお捧げします。 誠にありがとうございました!(一同拍手)「真明様とのご面会」ブラジル・サンパウロ2023年11月15日