今、ちょっと早く登壇し過ぎまして、司会の方待ちみたいになりましたね(一同笑声)。 今日は珍しくというか、私の記憶に無いんですけれども、9月1日の祭典が雨で延期になりまして、この辺も結構降りましてですね、私の家の周りも――私の家がどこか皆様ご存じない(一同笑声)かもしれませんけれども、熱海です――今まで雨が降っても土砂崩れしたことがなかったところが今回土砂崩れしてたり、また昨日も車に乗ってましたら水が結構出てるところがありましたので、やっぱり今回は相当降ったんだなと思いました。 今日は、神静と中部教区の信徒の方の参拝ですね。皆様の住まわれているところも結構降ったと思いますし、雨の影響を受けられた方もいらっしゃると思うんですけれども、そんな中を、本日、この延期されました月次祭に参拝してくださって、ありがとうございます。 今日は、皆様に紹介したい人がいまして(一同笑声)、紹介したい人というのは少しあれですけれども(一同笑声)、セメス研修生の2期目の方々です。 1期目は皆様ご存じのように、アフリカのアンゴラの5人の方でして、そんな中、先月下旬、2期目の方が到着したんですね。お一人がポルトガルからで、もうお一人がボリビアから。お二人の方々です。ポルトガルからの方が男性で、ボリビアからの方が女性です。とにかくすごいですね。若くしてこの日本という国に生涯をご神業のため捧げるということで来られるのはすごいことですね。 お二人は、これから現場等行かれて、皆様もお目にかかると思うんですけれども、1期生同様、皆様にさまざまな面でご協力をお願いしたいと思いまして、その方たちを紹介したいということです。 あそこにいらっしゃいますよ、皆様(真明様、ご神前上手袖の研修生2人を指し示され、一同拍手)。 男性の方はブラジル人ですけれども、ポルトガルから来られてます。ヴィニーシウスさんですね、ヴィニーシウス。「ニ」を伸ばしたほうがいいですね。外国の名前はアクセントがありますから、ヴィニーシウスですね。ヴィニーシウスさん。「ビ」じゃなくて「ヴィ」ですよ、V(ブイ)だからね(真明様、空中にVの字を書かれる)。 もうお一方がジアーナさん。これも「ア」を伸ばしたほうがいいですよ。「ア」の部分がアクセントだからジアーナ(一同、ジアーナと名前を復唱する)。そう。3文字にしてジアナだとアクセントが違うんですね。日本語の場合「ジ」がアクセントになってしまいますから。だからジアーナと呼んであげましょう、名前のアクセント通りに。ジアーナ。 男性の方がヴィニーシウスさんで、女性の方がジアーナさん。覚えました、名前? そういうことで、共にね、生涯をご神業のために捧げるこの若い方たちとご一緒に、私たちもがんばってまいりましょう。よろしくお願いします(一同拍手)。 今日はですね、まずちょっとご浄霊の話をしたいんですけれども、ご浄霊はもちろん明主様のご神業の中心的な営みであったわけでして、しかし、戦前戦後の一時期、宗教活動ができなかった時は、治療浄霊と言いますか、宗教じゃない形でということでされてた時期もありました。 それが、戦後、信教の自由が日本国憲法で保障されたのち、正式に宗教的活動としてのご浄霊が始まります。そしてそれ以降は、宗教的ではない手かざしの治療行為ではなく、宗教的な営みとしての浄霊ということで進んでいくのですが、そんな中、大きな変化が起こります。 これは何かというと、「浄霊法変る」。メシア教開教の1950年の年末、正確には12月27日ですけれども、この日明主様は、「浄霊法変る」ということをご発表になった。 これがどういう内容かというと、とにかく、絶対体的力を抜きなさいと仰せになったんですね。手を上げるとどうしても少し力が入っちゃうけれども、それはだめなんだ、霊のみを放射しなさい、私の言う通りしなさい、そうしたら5倍以上治りますよと、そう明主様は仰せになった。 1950年までにたくさんの奇蹟があったと思うんですけれども、治病効果はその5倍以上と仰せです。だから、もうどんな病気も治っちゃうという感じですね。 この「浄霊法変る」は本当に大きな点ですね。この聖言を通して明主様は、方向としては、宗教色を消した浄霊ではなく、もっと宗教的、霊的なほうに進んでいかれようとしておられる。手を掲げるということですら身体を使ってしまうことになっている、どうしても霊のみを放射しなきゃだめなんだということを強調しておられるわけですからね。 そして、この「浄霊法変る」で示された流れそのままにと言うのでしょうか、それから3年ちょっと経った1954年の4月19日、明主様は脳溢血のご浄化をお受けになって、そして、それ以降明主様は、想念の世界に入った、これから私は一切を言霊と想念でするんだ、そして、ご浄霊は二の問題で、お念じしなさいということを繰り返し仰せになった。 この、ご浄霊は二の問題と仰せになっている時の「ご浄霊」というのは「手を掲げるご浄霊」のことですよ。だって浄霊は病気を治すということが目的なわけで、明主様はこの時、その営み全部をやめられるおつもりではなくて、悔い改めるだけで病気は治っちゃうんだよ、もうそういう時代が来てるんだよということも仰せになっていた。要は、本当の浄霊を教えてあげるよということですね。 そしてこの時明主様は、側近奉仕者の方に、想念による新しい浄霊を発見した、という趣旨のことを仰せになりました。この辺りのことは、2年前の立春祭(2022年2月4日)の時の「浄霊の真実」と題した私の話がありまして、今その時話した内容を少しおさらいしているので、もし今私が話していることがお分かりにならなければ、「浄霊の真実」もまた見ていただければと思います。 とにかく明主様は、想念による新しい浄霊を発見したとか、これからは一切を言霊と想念でされるとか、お念じしなさいと仰せになったわけで、念じるということは言葉をもって祈るということですから、言葉をもって神様に悔い改めること、これが新しい浄霊だということですね。手を掲げるという行為すら力が入ってしまうんだから、もう手を掲げずに心で祈りなさいと、明主様はそういう方向に進もうとされていた。 だけど、ここでいつも問題になるのは、水晶殿ご遷座の時の浄霊に関する聖言があるじゃないかと、ここですね。 1954年の12月11日、明主様ご昇天の約2か月前、水晶殿が完成しまして、この時、明主様の聖言そのものではなく、明主様からのご伝言のようなものがありまして、明主様としては、それを今後の教団の方針を決めるに当たって参考にしてほしいということですね。 ま、とにかく伝言ですのでね、正確に明主様がなんと仰せになったかというのは今となってはもう分からないんですよ。 その伝言というのは、今後の教団の組織を考える上で、浄霊の優れた者、次にたくさんお導きした人、あとは、神様に対して奉仕の気持ちが強い人――献金のことだろうと思いますけれども――今後の教団の人事については、そういうことを勘案してみんなで決めるようにと、そういうことを仰せになったとされているわけです。 こう明主様が仰せになるに至った背景はいろいろあるんですけれども、当時、美術品を集めるとかそういうことで、外部の人が教団に入り込んでましたので、そういう人を一掃されたいというご意図もおありだったと言われてますね。 外部からの「顧問」とか、そういう人たちが入り込んできているということがありまして、明主様はそういうのを排除されて、ちゃんと宗教活動を進められたいということでこの伝言のような内容を仰せだったとか、そういうことは言われておりますね。 どちらにしましても、明主様はその2か月後にご昇天になりましたので、我々としては、この水晶殿の伝言こそ明主様のご遺言だとしたことによって、それまでの流れであった、戦前、宗教色を出さない手かざしの治療みたいのから、戦後、宗教活動の浄霊になって、それから「浄霊法変る」が出まして、というようにどんどん霊的になって、結論的には想念の世界に入ったとなっていたのに、この遺言がありますから、我々はこの想念に至るまでの流れを全部無視して、いきなり元に戻したわけです。 明主様は浄霊の優れた者を最も大事にしなきゃいけないと仰せなんだから、想念の世界に入ったとか、浄霊は二の問題というのはもう関係無い、とにかく浄霊すればいいんだということになったのが明主様ご昇天後の我々の歩みですね、簡単に言えば。 でも、これは「浄霊の真実」の中でも話しておりますけれども、12月11日の水晶殿遷座の日、明主様はある一人の信徒に対してご浄霊をなさった―手を掲げるご浄霊ですよ。悪いほうのお手で1分足らず、とありまして、悪いほうのお手だから右手ですね。右手で1分足らずの浄霊をされた。 そうすると、「ほら、ここでも明主様は浄霊されてるじゃないか」ということになりますけれども、その時明主様は、「今度は千人ぐらいの人に浄霊するのに1分もかからないよ」ということを仰せになった。 「浄霊法変る」によって5倍の治病力になって、それからさらに光が強くなっている。というか、夜昼転換からどんどんどんどん光が強くなってる。水晶殿も建ててどんどん火素が増してるわけですね、明主様流の言い方をすれば。光がどんどん強くなっている。 そういう中で、1954年12月11日の時点では一人に対して1分足らずの浄霊で事足りたんだけど、今度浄霊する時は千人に対して1分足らずだと明主様はおっしゃった。 ここ、「今度」と明主様が仰せになった時、それは、そんな30年とか40年という長い期間を想定されてはおられないと思いますよ。それこそ明日(あした)とか、明後日とか、1週間とか、2週間とか、せいぜいそれぐらいのスパンを考えられて、その中で、今日は一人の人に対して1分足らずだけど、今度は千人の人に対して1分足らずでも十分事足りると、そう仰せになった。 私、計算したんですけれども、千人に対して1分ということは一人に対してはどれぐらいだろうかというと、これが、0.06秒、一人0.06秒ですね。だから、もう、手を掲げる時間も無い。一対一の浄霊だったら0.06秒でいいわけですから、前後の合掌のほうが長いですね(一同笑声)。 だから、明主様は確かに水晶殿ご遷座の時に最も浄霊の優れた者というような伝言を残された。これは間違いない。だけど、この時明主様が仰せになった「浄霊」というのは、こんなに力のある浄霊なのであって、それはもっともっと強くなっていくわけですから、明主様の、手を掲げるご浄霊について少しずつ幕引きしていこうという方向性は明らかですね。 そして今、もうその時から70年経った。ということは、もう手を掲げる浄霊の時代はとっくに過ぎ去ってると、そういうことですね。 しかも明主様は、メシア教というのは千年の仕事を10年ですると仰せですよ(「御講話」1951年10月1日)。ということは、水晶殿ご遷座の時から70年経っていますから、もう七千年経ってしまっていますよ(一同笑声)。人間的な感覚で言えば、七千年ぐらいの時を経てる。 明主様は、その同じ聖言で、千年が10年なんだから、2、3年後のメシア教はどうなってるかご自分でも見当がつかないと仰せです。明主様ご自身が2、3年後の教団の状態については見当もつかないと仰せなんですよ。 千年で10年だとすると、2、3年ということは二、三百年。世の中が二、三百年かかって進歩するぐらいをメシア教は2、3年でやっちゃうということですね。2、3年で、明主様ですら見当もつかない方向に神様が導いていくということですね。 そう考えると、明主様の水晶殿の伝言からもう70年経ってるわけですから、ということはもう七千年経ってるわけですから、方向性としては、絶対すでに想念の世界に突入してると、そういうことです。 でも、我々としては、ここで一つ考えなければならないことがある。 「浄霊法変る」で浄霊の治病力が5倍以上になった。その後明主様は、一人の浄霊が1分足らずで十分だったのが、次浄霊される時には千人で1分もあれば十分である。というように、光はどんどんどんどん強くなっていっている。つまり、浄霊はもっともっと効いていっているはずだと、そういうことですね。明主様ご昇天が1955年ですから、それからもう69年経っている。ということは、浄霊にはものすごい治病力があるはずである。 だけど、実際は、そんなに言われるほど病気治ってないですよね。だって、どの派とは言いませんけれども、というか、これはどの派もですけれども、浄霊を科学的に説明しようじゃないかと、そんなことをしてますね。 でもはっきり言いますけれども、浄霊を科学的に説明しようとしている時点で、それは、浄霊が効いてないと言ってるのと同じですよ。だって、浄霊が効いてればもう問答無用ですよ。手を上げて治っちゃうんですから、問答無用です。 でも、治らないから――問答無用で治らないから――科学的データもありますとかしなきゃいけないわけです。 だって、もし手を掲げてガンのような病とかがどんどん治ってたとしたら、科学的データなんて必要無いですよ。なんで必要なんですか。治らないから、科学的データもありますよと言わなきゃいけなくなってるわけです。 ある団体では、療院とかいうことで、そこにはお医者さんもいます、としてますが、そんなことをしなければならないのは、治らないからそうしてるわけでしょ。 だって、あの療院というのは、事実上は、信徒で薬とか飲みたくないという人が、そういうことに理解のあるお医者さんに話を聞いてもらえるということなんだと思うんですけれども、それも、そもそも浄霊で治ってたらそんな療院なんて必要無いじゃないですか。信徒が浄霊し合って治るんだから必要無いはずですよ。 だから、どの派とかいうことではなくて、明主様の信徒が浄霊を科学的に説明しようとか言ってる時点で、社会に対しては、この浄霊というのは大して効きませんよと自分たちで言ってしまってるのと同じですね。だって、本当に1分足らず手を掲げてどんどん病気治るんだったら、なんで科学的説明が必要なんですか。 もし本当にそれだけ治るなら、科学者のほうが調べさせてくださいと言ってきますよ。それなのに、現実は、自分たちでものすごいお金払ってそういうのを大学とかで調べたりしてるけれども、本当にばんばん治るなら自分たちでそういうことをする必要無いじゃないですか。向こうが教えてくださいと言ってきますよ。明主様はそういうご意図でね、当時、科学者が浄霊を研究してほしいと仰せになったんだと思いますよ。 でも実際は、我々は、自分たちで大量のお金をかけて、この数値がちょっとだけ変わってます、見てください、浄霊効いてますとしてる。それは、浄霊が効いてないからそんなことをしなきゃいけないわけです――いや、ちょっとしつこく言ってますけれども(一同笑声)。 しかも、今まで長年、浄霊をいっぱい受けているはずの専従者、信徒の方の病気もいっぱいありますよ。何十年浄霊しても治らないとか、専従者、信徒の方でもガンで亡くなるとか、たくさんありますよ。もちろんまれにね、病気無しで長生きするという方もおられて、そしたら急に我々は、やっぱり浄霊のおかげかな、とか言いますけれども、世の中に浄霊受けなくても長生きしてる方はいっぱいいるわけですからね。 だから、私が何を言わんとしているのかというと、やはり我々は、この手を掲げる浄霊というのは、我々が思ったようには効かなかったと、これは認めなきゃいけないと思います。でも、これを認めたくないが故(ゆえ)に、いろいろね、科学的データもあります、社会の人も理解してくれてます、とか言ってるわけです。 だって明主様は、本来、ご自分の在世中に、世の中の病気を全部無くすと仰せになったんですよ(「レモン・カルティエ氏夫妻と御対談 世界を天国に」1952年7月9日)。それぐらいどんどん治されるおつもりだったわけで、しかも、その明主様がご昇天になってからもう70年近く経ってしまっている。 というように、浄霊は我々が思ったようには効かなかった、ということを認めた上で、僕は、ここで登場するのが、明主様が将来の設計図として思い描いておられた、「ミロクの世には人類は菜食をする」という、これですね。ミロクの世の一つの条件として、人類は菜食をしていると仰せになった。やはりこの問題が入ってこざるを得ないと、そう思います。 だって、『グローリー』で皆様読まれてるかどうか分かりませんけれども、何十年来の信徒の方が、もう何十年間抱(かか)えてきた病とか身体の不調が――それだけ長く苦しんでおられたということは当然たくさん浄霊も受けてこられたのでしょう――だけど、このような方たちが、ただ食事を菜食にしただけで、もう奇蹟としか言いようがないぐらいの変化が起きている。 明主様が「ミロクの世の食」と定められてる菜食ですから、当然パワーはありますね。何十年間浄霊してきても治らなかった症状が、もう一発で、それこそ何週間とか、何か月とかで治ってる。そういう例は枚挙にいとまがないですよ。たくさんありますよ、そういう事例が。 もちろん、ヴィーガン食とか菜食と言ってもピンキリですから、ポテトフライを毎日食べたってヴィーガン食ですからね(一同笑声)。 でも、もし僕が具体的に一つ言えるとすれば、それは、神様というものがこの地球を造っておられるわけですから、当然、その土地土地に合うものをご用意くださってるはずですね。神様はそのようなことを考えられないような愚かなお方ではない。 でも、こんな単純なことを、西洋科学は完全に無視しておりますね。南洋で採れるバナナを持ってきて、それを科学的に調べて、バナナにはこの栄養素がある、こんな栄養素もある、だからいいんだということで、土地とかそういうことを無視してますね。 でもこれ、南洋で採れるということは、その土地の人が食べていいように神様は造られているわけで、本来こういうことは常識であるはずべきですよ。ということはどういうことかというと、気温が高い国の人々が、それを食べて身体を冷やすように神様はご用意くださったのに、我々は、この栄養素があるからいいんだ、バナナは栄養がいっぱいあっていいんだと言って、本来身体を温めたい真冬とかでも関係無くバナナ食べたりとか、そんなのは本来不自然ですよ、当然ね。 世の中でも、身土不二とか地産地消とか言われてますけれども、それは一面真理ありますよ。だって、神様が人類を造られて、その土地に合う食べ物を用意してくださったのは間違いないんですから。 でも僕は、そういうことも、今後西洋科学も発見すると思いますよ。発見すると思う。 だけど、とにかく、日本人である我々は、この日本で育つわけですから、自分の土地に生るものが神様が用意してくださった尊いものだと思って食べさせていただくのが最も自然なことだなと思いますね。いわゆる旬のものですね。 とにかく今、そういうことで、この菜食ということでどんどん病的なものが治っている。 そして、明主様のご神業のモットーというのは「病貧争絶無の世界」の建設です。世界メシア教時代も明主様はこのモットーを掲げておられた。 病貧争三つの中で、明主様は、病の解決が最も重要なんだということを強調されましたね。だって、病気になったら仕事はできない。仕事ができなければお金は稼げないので貧。というように、病から貧が生まれる。そうすると、貧ということで物が無いと心が荒んで争うようになる。結果、病貧争、ですね。 明主様は、病貧争絶無の世界を造ると仰せになっていた。でも、浄霊が想像していたほど効かないから、もう絶望してしまう。そこをごまかして、浄霊は科学的にも説明できるとか、あるいは病気が治らないのは私たちの信仰とか心の持ち方の問題なんだみたいなことも言ってきた。でも明主様は浄霊に関して信仰心のことは仰せじゃなかったですよ。なんにも仰せじゃなかったですよ。浄霊の圧倒的な光と力によって、疑ってても病気は治るんだと、そう仰せだった。 だから僕は、我々が浄霊が効かないということで絶望しないように、将来の設計図として、この、ミロクの世には人類は菜食してるんだ、それがミロクの世の食なんだと、そういうことをご用意くださっていたと思います。 千年が10年のメシア教ですから、明主様は、今、菜食していろんな病が治る事実を私たちにお示しくださって、「このために私はミロクの世の食として菜食というのをあなた方に遺しておいてあげたんだよ」と仰せになっているのではないのかなと思います。 で、当然ね、肉食は薬と同じで血を濁すんですから、菜食にしてから身体の浄まるプロセスというのはあると思いますよ。要は、身体にいろんな反応が出てくるということですね。身体からなんか臭いがするとか、膿みたいのが出てくるとか、すごい痒くなるとか(真明様追記:精神的な浮き沈みもここに含まれると存じます)。それは、本当はもうミロクの世に入っていたのに、私も含めて我々全員、なにも分からず長年血を濁す肉食をしてきたわけですから、その汚れが身体に溜まってる。だから、その汚れが浄まるプロセスはある。 これこそ浄化ですね。そしてそのような身体の反応は明主様にとってはいいことですよ、汚れが身体の外に出るのはいいことなんですから。 しかも明主様のミロクの世の食を実践し、これ以上血を濁すものを身体に入れなければ、残るのは希望だけですよ。この浄化を経れば、もっと身体をきれいにしていただける、もっと清めていただけるんだという希望。 肉食を続けるならそれは血を濁し続けるわけですから、一生身体(と心)の不調と付き合っていくということになりますね。そうなると、結局、西洋医学にも頼らなきゃいけないということで煮え切らない。なんとなく病があるのか無いのか分からない。お医者さんのところに行って、今回の検査結果は良かった、良くないという、そういう一喜一憂のままで人生終わりですね。そんなことは、全然、病貧争絶無の世界を造る団体に所属する人たちのすることじゃないんですよ。 そもそも、本来お医者さんの目的は、お医者さんがいなくなることですよね、本当は。お医者さんの目的とか医学の目的は、患者がいなくなること、病院が無くなることであるはずですよね。だけど、医学は、基本的に、いわゆる対症療法しかされませんものね。 栄養士さんの話を聞いても、あの方たちは、いろいろバランス良く食べて、そして最終的には、肉と乳製品と卵、これは絶対摂ってください(一同笑声)と言ってきますよ、本当にね。 確かに西洋医学というのは、戦争中とか、急な症状への対応とか、骨折治すとか、そういうのはすばらしかったと思いますよ。だけど、いわゆる、今、生活習慣病と呼ばれているもの――明主様は「ガンは肉食病だ」と仰せになりましたけれども――そういうものに対して西洋医学はあまり力を発揮しない。でも実は、今の最先端の西洋医学は菜食の力を証明し始めておりますよ。 『グローリー』で読まれたかどうか分からないですけれども、ニューヨークの市の病院は、入院したら基本食がヴィーガン食なんですよ、基本食が。お肉くださいと言わない限りは、肉は出してくれない(一同笑声)。 いや、すごい時代ですね。日本は遅れてますね。日本は、肉食べなきゃだめということで、「肉食べてません」と言うと、医者は、いや、それが病気の原因だろう(一同笑声)と言うくらいですね。卵、乳製品摂ってないと言うと、医者は、だから栄養不足になって病気になってると言うぐらいですね。遅れてますね、日本は。 しかも、日本の医者がそういう考えを持つに至ったその元の西洋医学のほうは、今、もう一歩も二歩も先に行ってしまって、いや実は、この菜食の食事というのが、ガンとか糖尿病とか脳梗塞とか脳溢血とか心臓病とか、そういう種類の病を未然に防いで、しかも場合によっては治してしまうだけの力があるんだということを証明してしまってますよ。 僕は、明主様は、病貧争絶無の世界を造るという夢をまだ捨てておられないと、そう思います。 しかも、結果から見て、どう考えても、手を掲げる浄霊よりも菜食のほうが、今の人類が抱えている多くの病気に驚くべき結果、効果を示している。だから、これ自体がメッセージですよ、明主様からの。 ということで、「ミロクの世は菜食、これは分かりました。でも、じゃあ、例えばキリスト教の人たちはこの食を受け入れられるのだろうか」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。 メシア教というのはキリスト教と呼応して人類を救うんだとしたら、キリスト教の人はこの食を受け入れられるんだろうか。これは重大な問題ですね。キリスト教は20億人ですから。 キリスト教の人が、ミロクの世の食に対して理解するというか、なにかそこにメシア教との接点が無ければ、メシア教の我々がただ訴えてるだけで終わりですからね。 でも僕は、メシア教の我々がキリスト教の方々に訴える糸口はあると、そう思います。 というのは、今日拝聴した聖書の「ヘブル人(びと)への手紙」(第9章及び第10章)にもありましたように、昔人類というのはいろんな動物の血とか肉を神様に捧げて罪の赦しを請うていた。だけど、それでは実は罪は取り除かれなかった。もしそれで取り除かれていたら、なんでじゃあ毎年毎年捧げ物をしていたのか、というね、もう、「ごもっとも!」(一同笑声)と思いながら聞いてたんですけれども。 とにかく、動物を捧げていることでは我々の罪は除かれないので、結局、神様が「からだを備えて下さった」(第10章5節)というように、イエス・キリストの身体と血をもって神様は人類の罪を贖われた。 イエスの前、人類は長年、罪を清めるため、主にユダヤの方が私たちを代表してしてくださってたわけですけれども、燔祭とか罪祭と呼ばれているように、牛とかを丸焼きにしたものを神様にお捧げしていた。 これは、要は、神様にそれを食べていただくという意図ですよ。例えば燔祭というのは、「神様ありがとうございます」という感謝の気持ちを神様に捧げるために、牛を丸焼きにして、その香ばしい香りをもって神様に喜んでいただき、牛の丸焼きを食べていただこうと、そういうことです。 でも、イエスが言うには、これを、神様は望みも好まれもしなかった(第10章5節~6節)、そう書いてありましたね。燔祭とか罪祭を通して人間が用意した捧げ物を神様は望まれもしなかったし、好まれもしなかったと、そう書いてありましたね。 そのような捧げ物は、元はモーセの律法に書いてあったので、当時そういうことを神様が人類に命令したんでしょうけれども、イエスが教えてくれたのは、実は、神様は、本心を言えば、牛の丸焼きとか、そういうのを望まれもしてなかったし、好まれもしてなかった。 だから、牛の丸焼きって、それは、簡単に言えば、ローストビーフですよ(一同笑声)、いや本当に。ローストビーフであり、ステーキであり、ハンバーグですよ(一同笑声)。そのような物を神様は望まれもしなかったし、そのような焼かれた肉の香りを好まれもしてなかった。 いや、そう書いてありますよ。イエスがそう言ってますよ。 そうだとして、神様が望まれてもいない、好まれてもいないものを、なぜ我々が望んだり好む必要があるのか。 確かに我々はそれを好んできたし、望んできましたね。菜食に完全に切り替えられない方の場合はまだ今も望んでるし好まれてるということになりますね。 そうなると、神様が望まれも好まれもしてない物を望む者は誰なんだ、ということになりますね。神様が望まれもしない物を望むということは、神様とは反対の立場を取ってる者ということになるわけですから、それは誰かといったら、我々の中にいる悪魔、サタンしかいないですよ、それはね。だって神様の敵はサタンなんですから。 神様は望まれていない。神様が望まれていないとしたら、そういう牛を焼いたものとか、その焼いた時の臭いとか、それを誰が望むんですか。サタン以外あり得ないじゃないですか。 しかも、神様は私たちの中に生きてるんですよね。「神さま、あなたは生きています。わたしの中で、生きています」と「祈りの言葉」で言ってますね。 そうだとして、我々は、我々の中にいらっしゃる神様が望まれも好まれもしない物を食べるのかと、そういうことになってしまいますよ。 そうだとして我々の人生が喜びのあるものになりようがないじゃないですか。神様が我々の中に生きておられるということは、なにか食べるということは、「神様にお捧げします」ということで食べるわけでしょ? そして我々は、イエスの言葉を通して神様が動物の血と肉を望まれてない、好まれてないことを知った。 我々の中におられる神様が望まれていないものを食べてれば、神様が喜ばれるはずはない。で、神様が喜ばれなかったら、我々の人生が喜びに満ちるはずないじゃないですか。だって、「神様は私の中に生きています」ということを認めておられるんでしょ? いや、「神様は自分の中には生きてません」と言うんなら百歩譲って少しは理解できますよ。でも、「神様は私の中で生きています」と毎日毎日宣言してるじゃないですか、我々は、「祈りの言葉」を通して。その神様が、動物の血や肉を好まれても望まれてもおられない。これ、大変な事実ですね。いや、僕は大変な事実だなと思ったし、だから、キリスト教徒もミロクの世の食を実践する糸口があると思ったんです。 だってもう我々は浄められたんですよ。過去形ですよ。「浄められにし」という明主様の御歌からもはっきりしているように、もう浄められた(「安らけき美しの御代は樹てられむ浄められにし此地の上に」)。我々はもう浄められてしまったんです。 夜の世界はもう終わったんです。夜の世界が終わったのに終わってない、まだその夢から醒めてない人たちは哀れだなあ、ですよ(「夜の終り来つるも知らで夢醒めぬ人こそ世にも哀れなりける」)。我々はもう浄められた。 昔我々は、神様へのお捧げ物には動物の血とか肉が必要だと思って、それを捧げてきた。そしてそれを我々もご相伴に与って食べていた。我々は罪人なんだから、動物の血や肉を捧げて清まらなければならないと思ってた。それを我々も一緒に食べてた。ということで肉食文化が発展してきたわけでしょ。 でも、罪の清めということは、イエスが全うして我々はもう清められたんでしょ? だからもはや食べる必要が無いんですよ。だって、清められたんですから。もう神様に動物の血や肉を捧げる必要は無いんです。 だから、肉を食べる、食べないというより、食べる必要がもはや無いんですよ。だって我々は、イエスの身体と血によって完全に清められてしまったんですから。もう清められたにもかかわらず、まだ自分が罪人であるかのようにして、動物の血や肉を神様に捧げる必要は無いんです。 我々はもう清まった。そして、動物の血や肉を必要としてる存在ではない。 しかも、イエスの血を一たび受け入れれば、我々は、それによって、今日拝聴した聖書にもあったすばらしい言葉の数々がありましたね、そういう存在になれるんですよ。 我々の心は清められた、仲間たちと一緒に神を讃える集会を持ち続けなさい、信仰を持ちなさい、すばらしい未来が待っているよと、そういうことです。そういうふうな存在になれるのは、我々は、すでに、イエスの血によって清められてるからですよ。 なぜ肉を自分の目の前において自分が罪人であることを再確認しなきゃいけないんですか。もう必要無いじゃないですか。肉を食べるということは動物の血を流すことですから、ということは、まだ自分の罪が赦されたいということを意思表示してることになりますよ。いや、世の中的にはね、切った時の肉汁がおいしそうだとか、そういうことになりますけれどもね(一同笑声)。 でも、肉汁といっても、流れてるのは動物の血ですよ。だから、もう血は必要無いんです。だってイエスがもう血を流してくださったんですから。しかも、動物の血では神様は我々の罪は取り除いてくださらないんですよ。 これ、耳に痛いような話ですけれども、真実ですよ。 確かにね、イエスが復活したあと弟子のもとに現れて魚を食べた、というこの魚問題はありますね。復活したイエスは魚食べてるじゃないかと、そういうことですね。 これは確かに事実ですね。だからその事実について否定のしようはないけれども、ただ、一つ私が言うとしたら、今、一日に数億、年間に何兆というものすごい量の魚を、毎日毎日我々が食べるために殺すという商業的な状況と、当時イエスが、ガリラヤ湖で採れた魚を少し食べるのは、もう全然状況違いますよ。 しかも、最も大切なことは、このイエスの後継者である明主様という方が、「ミロクの世は菜食だ」と仰せなんですからね。だから神様の経綸に時の変遷はありますよ。 だって明主様は、天ヶ下の生きとし生けるものすべてが――「生きとし生けるものすべて」ということは、魚も含めた動物すべてですよ――それが喜ぶ御代を樹ち立てたいんだと仰せですね(「天ヶ下生きとし生けるものみなの歓ぎ喜ぶ天国造らむ」)。 だから、私が何を言わんとしているかというと、我々はもはや動物の血を必要として無いんですよ。そうではなくて、我々がずっと必要としてたのはイエスの血だったんです。 そのイエスの血を受け入れたくないから、我々はサタンのほうに心が引っ張られて、焼肉、バーベキュー、ローストビーフ、ハンバーグ(一同笑声)ということで、動物の血のほうを受け入れてきた。イエスの血じゃなくて、動物の血を受け入れたかった。 イエスの血を本当に受け入れたら、もう動物の血を流す必要無くなっちゃいますから、不都合ですね、人間にとって。だって、すごいですよ、肉に対する人間の欲は。肉を食べたいという気持ちはすごい。 だけど本当は、もう、イエスが我々を清めてくださったんです、ご自身の血でね。 なぜ明主様は、「ミロクの世は菜食」と仰せになることができたのだろうか。「ミロクの世は菜食」というと、一見全然キリスト教と関係無いみたいですね。キリスト教の活動とは全然相容れないみたいに見える。 でも、まず、明主様が、「ミロクの世は菜食」ということを仰せになっているということは、その理想世界において、少なくとも、人間が食べるために動物は殺されてないですよ。ミロクの世においては、人間消費のための動物の殺戮は行われてないですよ。だって、人類全部菜食してるんですから、殺す必要無いじゃないですか。 だから、明主様は意識しておられたか、しておられなかったか分からないけれども、実は、明主様のみ心の根底にはイエスの流された血があるが故に、明主様は、「ミロクの世は菜食になる」ということを仰せになることができたと思うんです。 ミロクの世においてはもう動物の血を流す必要は無いんだ、だってイエスがもう血を流してくれたんだからと、そういうことです。 ということは、菜食というのは動物の血を流さない食事ですから、イエス・キリストのことと関係ありますし、キリスト教とものすごく関係ありますよ、実はね。 だからメシア教の我々としては、菜食のことについて、キリスト教徒に訴えるべきことはあると思いますね。だって書いてあるじゃないか、聖書に。先程話した燔祭というのは、神様に食べていただくために焼いてたんですよ。そして、神様に対して、「神様、肉を焼いた匂いは香ばしいですよね」、と言ってたんですよ、我々は。そう書いてありますよ、旧約聖書に。 でも、実は、神様はそれを望みも好まれもしなかった、ということなんです。神様は、バーベキューの臭い(一同笑声)を好まれもしなかったということですよ。バーベキューを望まれもしなかったし、好まれもしなかった。これは事実ですよ。 だから関係ありますよ、ミロクの世の食とキリスト教は。 神様のもとにあるイエス。そしてそのご神業を継承された明主様。その明主様の根底には、イエスの贖いの血を受け入れるということがあったが故に、未来の人類の食は菜食なんだと、動物の血は必要無いんだと、そう仰せになることができた。 だから、明主様が、「ミロクの世に人類は菜食をする」と仰せになってから何十年も経ってますけれども、もし今私が付け加えさせていただくとしたら、「イエスの贖いの血が流されたからこそ、ミロクの世は菜食の世となることができる」と、そう言わせていただきたいと思います。 しかも、この菜食の営みというのは分かりやすいことですね。我々はずっと、地上天国建設と言ってきましたね。明主様にとっての悲願の地上天国建設だと、地上天国を樹ち立てたい樹ち立てたいと、そう言ってきたじゃないですか。 そうだとして、もしミロクの世には人類は菜食を実行してるんだとしたら、まず一人から始めなきゃ地上天国は拡がっていかないじゃないですか。だから、まず自分からですよ。そして、それが70億人に拡がって、全人類菜食をする時が来たら、それが明主様の仰せのミロクの世、地上天国なんでしょ、だってミロクの世の条件なんですから、菜食というのは。 だから、明主様の信徒にとって、こんな分かりやすく設定された目標は無いですよ。ということはまずご自分ですね。まず、自分自身がそれを実践するということ。そして、それを周りの人に拡めて、それが一人また一人と拡がっていけばそれがミロクの世ですよ。そういう地上天国建設に、今、我々一人ひとりが携われるということなんです。 しかも、キリスト教と相容れない考え方じゃないんですよ、今日私はその話をしたんですけれども。ということは、キリスト教徒にも訴えられますよ。「もうイエスの血が流されたんだから動物の血肉を食べる必要は無いんだ、何をしてるんだ」と言えるじゃないですか。 だから、農業というと、人によっては、なにか小さいことのように思うのかどうか私には分かりませんけれども、今日もご神前にお供えしてるこの野菜たちは、私たちの宝ですよ。 明主様が自然農法ということを打ち出されて、そして、イエス・キリストの土台の上にあって、ミロクの世は菜食ということを打ち出された。 そういうことを踏まえる時、おいしい野菜を作るために一生懸命努力してくださってる方々はもう人類の宝ですね。明主様にとっても宝だし、イエスにとっても宝です。 だから我々も、時間とか環境が許せば、どんどん農業すべきですね。今の若い人から見たら地味みたいなことなのか分かりませんけれども、全然そんなことないんですよ。だって、浄霊で治らないような病気が菜食で治るんだとしたら、野菜を作るというのは、浄霊することより大事じゃないですか。祈ることより大事かもしれないですよ。 そういう農作物によって菜食であるミロクの世を拡げていって、それによって、我々が願ってやまないこの地上天国という病貧争絶無の世界が出来上がる。 しかもありがたいことに西洋科学のほうも菜食の有効性を証明し始めてくれてるわけですから、我々は、西洋医学を丸々否定しなくていいんですよ。またそういう最先端の知識を皆様が少しでも得られるようにということで、『グローリー』でもいろんな記事が載ってるのかなと私は思います。 というように、世の中でさえそうなってるということは、メシア教に属する我々は、明主様の菜食のみ心を真正面からお受けして、明主様が仰せになった病無き世界を造っていかなければならない。そして、今日もお話ししたように、菜食の中心には、イエスの贖いの血がある。 だから、メシア教は小さいとか、世界救世教から追い出されたとか、そういうことを言われる方もおられるかもしれませんけれども、我々は本当にもう大変な宗団なんですよ。世の中を改革していく宗団である。 だって、宗教団体でこんなに思い切って完全菜食を打ち出してる団体、他に無いじゃないですか。普通しませんよ。だって怖いじゃないですか、信徒が離れるのが(一同笑声)。普通は、いやいやみんな肉食べたいんだから(一同笑声)、信徒にそんなこと打ち出さないですよ、怖すぎて。普通なら打ち出しませんよ、絶対(一同笑声)。「俺は肉食いたいからもうあそこの宗教には行かない」ということになりますからね。 でもいいんですよ、たとえ離れてしまっても。だって、全人類に対しての神様の光というのは確実に近づいてまた捕まえてくれますから、その方を(一同笑声)。 だからメシア教の我々は、架空の話ではなくて、病貧争絶無の世界を造り、本当にこの世を救っていく。これを今まで我々は、イエス無しでやろうとしてた。でも本当は、我々のご神業の中心にはイエスの贖いの血がある。 イエスの贖いの血があったからこそ、明主様は「ミロクの世は菜食」と仰せになることができた――私はこのことに気づいた時、これは本当に大変なことだなと思いましたね。 だから我々は、ただ健康のために菜食をするとかではなくて――いや、健康は確かにいいんですけれども――でもやっぱり菜食の土台には、我々のすべての罪を帳消しにした方がいらっしゃることを忘れてはいけない。 血を流してくださったんですよ、我々の代わりに。だって、今日拝聴した聖書にも、血を流すこと無しに罪の赦しはあり得ないとありましたでしょ? 我々は、罪人ですよ。だから、「イエスの血をお受けします」「メシア教の菜食というのは、イエスの血を受け入れるからこその菜食です。イエスの血を受け入れるから私は菜食にしてます」と、そういうことですね。 ということで、今日は、冒頭の若いセメスの方もいらっしゃって、ご神業がどんどん進んでいるようですけれども、当たり前ですよ、メシア教では千年が10年なんですから(一同笑声)。 だから、みんなで共に明主様にしがみつく。そして、キリスト教と呼応して人類を救うということと菜食は無関係ではない、むしろ大いに関係があるということで進んでいく。 なかなか今日私がお話ししたようなところまで心が行かない方もいらっしゃるかもしれませんけれども、我々は仲間ですから、そういう方に対しては励ましてあげて、一緒に行こうねと、そういうことで、みなで、希望を持って、共に前進していきたいと思っています。 ありがとうございました。