皆様こんにちは。 専従者55名、外のモニターを通して参拝されるということだったので、いや、外のモニターで見るのは大変だなと思って参拝席に来ていただきましたが、ちょっとぎゅうぎゅうですか?大丈夫ですか?前後は詰めずに左右をちょっと詰めたみたいですけれども、隣の人と肘のスペースの取り合いしてないですか?(一同笑声) 皆さん、いらっしゃいますね。専従者の方、見える。ここから見えますよ。 でも、せっかく熱海まで来たんですから、外で参拝されるより、教主様のお祈りのお姿を生でご覧になったほうがいいですよね。せっかく熱海まで来てモニターだったら、いや、それだったら録画したものを送ってくれたらそれで十分じゃないか(一同笑声)ということになってしまいますので、中に入ることできたらいいなと思って席の調整をお願いしました。でも、席の感じ、大丈夫そうですね。 もし途中暑くて体調等崩されましたら、場内にスタッフおりますので、ご遠慮無く、声をかけていただければと思います。 今日は「問い」から始めたいんですけれども、それは、もし皆様が神様だったら何をされますか?という問い。 全知全能の―というか、全能の神様ですかね、全知ということですべてを知ってたら多分されることは神様と同じになってしまうので―もし、全能の神様だとして、何をされますか? 映画の「ミッション:インポッシブル」とかすごいですよね。解決不可能だと思われることを、全能によってと言いますか、絶対人間業とは思えないことをバンバンして解決したりとか、あるいは水戸黄門(一同笑声)、もう印籠一発でハハーッとなっちゃうから、いや印籠の力はすごいですよね。 というように、もし皆様が全能の神様のお力を与えられたら、何をされるかなと思って、いや、本当に答えていただかなくていいんですけれども(一同笑声)、この問いを皆様に投げかけてるわけです。 当然、個人的なことから始まると思うんですけれども、例えば自分はこの病気があるからこれを一発で治す薬を開発しようとか、あるいは、お金のこともありますね、経済的なこと。これを解決しようということで毎回宝くじ1等が当たる(一同笑声)とかですね、そういうことも当然できますよね、全能の神様だから。 あるいは旦那の顔をもっとイケメンに(一同笑声)しちゃおうということもありますし、ものすごいイケメンな人と出会いまくるとかですね、そういうこともできちゃいますね、全能の神様だから。 というようにして自分のことが片付いたら、今度は自分の身近な家族とか友達とかの病気とか経済状況とか、それをなんとかしたいということになりまして、ではそれも解決させましたというと、今度は、もうちょっと周りを見られるようになりますから、いや、世界平和だと、戦争を止めて世界平和を成し遂げようとか、世界中の病を無くしちゃおうとか、そういう流れなのかなと思います。 でも、いい方向に進む願いが叶うのはいいですけれども、それが全部叶ってくると、今度は、他人に対して、「あの人いなくなるといいな」という思いは絶対湧いてくる。 そうなったら、全能の神様だから、当然、その人の性格を変えるとか行動を変えるとかできますけれども、でもそれは事実上、その人の人格を抹殺する行為ですね。 もし全能の神様の力を与えられて、今言ったようなことがどんどん叶ったら、私たちは、簡単に、あの人いないほうがいい、じゃあいなくなるようにしようということをすると思いますね。だって人間関係というのは我々の悩みですからね。 そうだとして、その我々の思いと殺人の間になんの差があるのでしょうか。なにか力があって、うまい方法で特定の人を取り除くことができるからそれをしようというのは、心の働きとしては殺人と同じですね。 この思いが大きくなれば、あの国要らない、あの国ほしいということですから、だから、戦争ですね、それはね。規模が大きくなれば戦争ですね。 ということは、我々は簡単に、殺人がひどいとか、世界人類が平和になりますように、とか言ってますけれども、そういうことが起きてしまっている元は我々の心にあるんですよ。 人を殺した人に対してとか、戦争をしている人に対して、なにか自分のほうが道徳的に勝ってるとか倫理的に勝っているということで臨めないと思いますね。だって我々の心にすぐ潜んでますよ。この人いなければいいという思い、すぐ潜んでますよ。 でも、実際は全能の力は我々には無いから、そうすると、なにかおかしな人がいるなとか、この状況がおかしいなということについて、我々としては、「それは法が裁いてくれるんだ」ということをまず期待するわけですね。で、確かに法を守るという営みは大切です。 だけど、それも、法の抜け穴かなんかで、あの人は悪いことをしてるけど捕まらないとか、違法なんだけど警察に見つかってないとか、そういう現状が世の中にあって、そうなると我々としては、世の中というのは不条理なものだ、気に入らない人がいるけどなかなか法は裁いてくれない、警察も捕まえてくれない、ということになっているのが今の世の中のまぎれもない姿ですね。 それに対して我々は、長年、例えば日本で言えばこの閻魔大王というのがいて、悪いことをしてると死んだあと地獄に行っちゃいますよとか、お天道様が見てますよとか、あるいは、生まれ変わりというのがあるから、悪いことをしている人は次生まれてくる時は蛙かなんかになってるんだ(一同笑声)みたいなことで自分自身を納得させて、自分は一生懸命生きていこうと、そうなってますね。 キリスト教で言えば、死んだあと裁かれて、善人は天国に行けて悪い人は地獄に行きますよという、だから、日本で言っていることと同じですね。 そしてキリスト教においては、特に、今後キリストが再び雲に乗って来るんだ、ということになってますね。今日拝聴した聖書の「使徒行伝」にもあったように(第1章及び第2章)、キリストはいつか本当に天から降ってきて、善悪を立別けてくれて、決定的な裁きを下してくれて、それで悪い人を滅ぼして善の人たちが生き残るんだと、そうなっている。不条理な世の中の現状ということに対して、キリスト教徒はこれに望みをかけてるわけですね。 ということは、要は、「自分は善だ」という前提ですよね。世の中にはいろんな問題のある人たちがいるけれども、自分は善だから、いつかキリストが戻ってきて、善悪を立別けてくださって、自分は善側だから生き残って、悪い人たちを神様が滅ぼしてくださってすばらしい世の中が来るんだ、だから、悪いことはしないで生きていこうと、そういうことですね。 で、これが一見今の世の中の現状ですよね。キリスト教徒でない日本人も、悪いと思われる人に対しては、生まれ変わりによって変な境遇に置かれるんだとか、あるいは、なんか火の池地獄に行っちゃうんだみたいなことをなんとなく思っていますのでね。 そういう世界観の中で喜怒哀楽を抱えながら生きていくのが人生だと、そういうことをみんな信じ切ってますね。キリスト教であれば、自分は一生懸命イエス・キリストを信じている、だから、キリストが実際に雲に乗って降ってくる時は、イエス・キリストを信じてない人たちを裁いてくださるんだ、自分はイエス・キリストを受け入れた者として善の側にいるんだから自分は生き残れるんだと、そう思っている。 だから、ひと言で言えば「待ってる」わけですね。輝ける未来を待っている。裁きを待っているわけです。で、この待ちの姿勢というのは、世の中だいたいみんなそんな感じですね。表現のされ方は違うけれども、全員そういう種類のことで、なんとなく、「悪いことはしちゃいけないな」と思いつつ世界の中で生きている。 で、今日拝聴した「使徒行伝」によると、当時実際何が起きたかというと、イエス・キリストが復活した。そして、復活して40日間弟子たちと一緒にいた。表現としては、たびたび現れた、とありましたね。 だから、十字架で死んだんだけど、死んで3日目に甦って、それから甦った以降は40日間弟子たちと一緒にいて、最後、イエスはもう天上に行っちゃうけれどもまた来るよ、だから待ってなさい、ということですね。それから今日まで二千年間ずっと待ってるのが人類ですね。 でもここ、読み進めていくと、昇天から10日後の五旬節の日が来て―五旬節というのは50日目ということですから、復活して40日後に天に上がり、そのさらに10日後だから、復活してから50日後の時が来て―十二弟子を含めた120人ぐらいがずっとお祈りしてたわけですね、イエス・キリスト来てください、聖霊を授けてくださいというふうにずっとお祈りして待っておられた。 そしたら、みんな集まってるところになにかすごい音がして、そして、舌のようなものが炎になって、それが分かれて、一人ひとりの上に留まって、そこでみんな聖霊に満たされていろんな言語で話し始めた、ということになってます。すごい光景ですね。 それを見た人たちが、あなた方みんなお酒に酔ってるんですか?ということを言うのですが、ペテロが、いやそうじゃない、イエス・キリストは復活して、その力というのは世界中の人に有効なんだ、だからイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい、そうしたら聖霊を授けられるよ、これは約束なんだ、ユダヤ人のみならず世界中の人との神様の約束なんだということを言うわけですね。 これ、二千年前の話ということで一見他人事みたいですけど、皆様方はこの聖霊のバプテスマが降った時はどこにいたんですか? どこにいたかというと、皆様方は、聖霊のバプテスマを送り出してるほうにいたんですよ。もちろんこの聖霊を天上で受けもしたけれども、同時に、それを送り出しているほうにお仕えしてた、忘れてしまっているようですけれども。 皆様方は二千年前存在してましたよね? だって、我々のスタートは神様なんですから、当然存在してましたよ。聖霊のバプテスマを受けた時のこと、忘れちゃったんじゃないですか?当時、地上にいた人たちは確かに受けましたけれども、我々は天上にいて、天上でこの聖霊をお受けして、さらに、地上にいる方々に聖霊のバプテスマを降ろしたんですよ。 天上にいるんだから当然ですよ。だってその時まだ地上に来てないじゃないですか。ということは、皆様方は天上におられて、神様とかイエスとか明主様とご一緒に、送り出すほうにおられたんですよ。「聖霊のバプテスマを送り出させていただきました」ということを一度でも思ったことがありますかね、私たち。 だから我々は、イエスの再臨を二千年間待っているようだけれども、本当は、イエス・キリストは、自分はすぐ来ると言ったように、昇天してからもう10日後に来たんですよ。再臨した。 でも人類はいまだにずっと待ってますよね。集団によっては、この日にイエス・キリストが雲から絶対降りてくるという予言みたいなのを受けて、それでみんなでずっと待ってて、でもその日を過ぎても来ないからみんな死んじゃおうというようなこともあったと思いますよ。というように、とにかくキリスト教は、まだイエスの再臨を待ってるわけです。 でも、私は、キリストの再臨というのは、イエス昇天から10日後に降ったバプテスマの聖霊でもうそれは成し遂げられた、ということを訴えている。というか、皆様は、もう天上で受けてしまったんですよ、聖霊のバプテスマを。 もうその時に、今我々が待ちわびてやまないみたいになっていることはもう起きてしまったんです。 これが「聖霊のバプテスマ」ですが、洗礼者ヨハネは、イエスは聖霊と火によってバプテスマを授けると言ってますから、そうすると、火のバプテスマとはなんだろうということになりますね。 火のバプテスマは何かといったら、そもそも火というのは必要なものを燃やしてそうじゃないものは生き残るということなので、今日の明主様御歌にもいっぱいありましたように、審判ですよね。火のバプテスマというのは裁きですよ、裁き。最後の審判であり、裁き。 聖霊と火のバプテスマは一体ではあるけれども、火のバプテスマというのは裁きです。善悪を立別ける。神様の真理―明主様の表現で言えば、神の聖火―この火によって善悪を立別けるということですね。明主様は、「浄霊は火の洗霊だ」ということも仰せでしたね。 水のバプテスマは、水という物質を身体に受けるわけだけれども、火のバプテスマのほうはどちらかというと霊を浄めるわけですね。心の奥底まで見抜いてその善悪を立別け、霊を浄める。 だとして、霊を浄めるって言ったら、「浄霊」という漢字が霊を浄めると書くじゃないですか。でも我々は、浄霊について、そんな大変なことと思ってきませんでしたよね。 でも、明主様の言われる神様の火による審判の厳しさは凄まじいですよ。もう悔い改めても遅いと仰せですし(「審判の火の凄じさ天仰ぎ神に祈るも已に遅かり」)、燃え狂う劫火の御歌もありましたね(「燃え狂ふ劫火の中も何かせむ神の霊衣に包まるる身は」)。「劫火」という言葉は、地球の最後の時に全地球を焼き滅ぼす火のことです。神様の審判というのはそれだけ厳しいということです。人間に対しての神様の審判の厳しさは凄まじい。 イエス・キリストが火のバプテスマをするということは、「あなた方を裁くよ」ということですね。ヨハネもちょっと警告してますね。我々のことを「まむしの子らよ」と呼ばれてますものね。今さら何してるんだ、今さら悔い改めようとしてるのかという厳しいことを言われていた。 明主様も同様に、今さら悔い改めても遅い、審判が迫ってきて悔い改めてももう遅いと言われていたように、それぐらい火のバプテスマというのは厳しいわけです。今日の御歌は全部明主様の御歌ですよ。 ご浄霊する時そういうことをほとんど考えたことなかったんじゃないんですか?浄霊は火の洗霊であって、火の洗霊というのは裁きなんですよ?燃え狂う劫火。全世界を滅ぼす火。浄霊はそれだけ厳しい業である。 我々は今手は掲げないけれども、浄霊は今も続いており、神様の火である神の聖火は我々一人ひとりの心を常に照らしているわけです。でも我々、焼き滅ぼされないじゃないですか。普通なら一瞬で焼き滅ぼされますよ。 いや、我々は、自分という存在がある程度清いだろうとか、そんなに酷くないだろうと思ってますけれども、神の真理の火に照らされたら一瞬にして灰になりますよ、本来はね。 でも、なぜそうならないのか、なぜ我々は燃やされずに今も生きてるのかといったら、「劫火」の明主様御歌にもありましたように(「燃え狂ふ劫火の中も何かせむ神の霊衣に包まるる身は」)、神の霊衣に包まれているからですよ。だからどんなに燃え狂う劫火の中にあっても滅ばない、そういうことなんです。 イエス・キリストは火と聖霊によってバプテスマを授けるということになっていますが、この御歌には、劫火の「火」と神の霊衣の「霊」というので、火と霊の両方の言葉が入ってますね。だからこの御歌一首に、火と聖霊のバプテスマを授けるというイエスの働きについての奥義が潜んでますね。 なぜ我々がいまだに焼き滅ぼされてないかといったら、それは我々も神の霊衣に包まれてるからですよ。包んでいただいているから、ですよ。そうじゃなければ一瞬で焼き滅ぼされるだけですね。 そして、この神の霊衣というのが何かといったら、当然「赦し」ですよね。明主様は、自分は、燃え盛る、燃え狂う劫火というすごい火の中でも大丈夫なんだ、なぜなら神の霊衣に包まれてるからと仰せであって、火というのは裁きなんでしょ?厳しい裁きに耐えられるのは何かといったら赦し以外無いじゃないですか。 赦しを受け入れるということが神の霊衣に包まれるということです。 だから、「あの人たちはおかしい。自分は正しい、正しい、正しい」としてれば、赦しを受ける必要は無いですし、「あの人たちは赦しを受けなきゃいけないけど、自分は赦しを受ける必要は無い」、という生き方をしていれば、本来、自分は正しいと思い込んでる人たちのほうが一瞬で焼き尽くされちゃうんですよ。 だけどまあ、そんなことを思っていても我々は焼き尽くされてないですよね。だからそれはなぜかといったら、イエス・キリストによって発動した聖霊のバプテスマを二千年前天上でもう受けてしまったからですね。 そもそも、ここ、イエスが天に上がっていくのを見て、その10日後に来たという話ですけれども、イエスは、天国は実にあなた方のただ中にある(「ルカによる福音書」第17章21節)と仰せなんですから、イエスが天上に行ったのを見上げてたといっても、それ、イエスは自分から離れてなかったんですよ本当は、だって私たち一人ひとりの中に天国があるんですから。 だから、ひと時たりとも離れてないんです。神様もイエスも明主様も、我々からひと時たりとも離れたことはない。だって明主様も、天国我が心の中に在り(「天国在我心中」)という御書を書かれてるじゃないですか。 だからそれは、象徴的にそういう形を取ってるだけで、イエス・キリストが天に上がっちゃって、「ああ行っちゃった」じゃないんですよ、本当はね。天使たちも、あなた方なんで天のほうを見上げてるんですか?(一同笑声)ということおっしゃってますよね、ここで。 聖霊を待っているその10日の間、みんなは、「イエス様いらっしゃらない。来るといいな」ということだったと思うんですけれども、本来天国は自分の中にあるんですから、イエス様はずっと共にいらしたんですよ。ただ、聖霊の発動を待っておられたということはありますね。なにか、50日目にしなければならなかった我々では分からない神様のご都合があったんでしょう。 でも、とにかく、その50日目に、我々がよく言う「雲に乗って降りてくるキリスト」というのはもう成し遂げられてしまったんです。だから、我々がずっと空ばっかり見て、「イエス・キリストいつか来るかな?」と言ってても一生来ないですよ。 今日拝聴した聖書のもう一つに(「マタイによる福音書」第3章1節~12節)、ヨハネが、天国が近づいたから悔い改めなさいと言ったとあります。で、イエスも、天国近づいたんだから悔い改めなさいということを言いました。聖霊のバプテスマを受けた直後のペテロも、私たちはどうしたらいいでしょうかという問いに対して、悔い改めなさいと言った。 また明主様も、当時、脳溢血のご浄化をお受けになったあと繰り返し仰せになったことの一つに、悔い改めなさいというのがありますね。これからはお詫びじゃだめなんだ、悔い改めなさいと言われた。お詫びじゃだめなんだ、悔い改めなさい。 ここ、「お詫び」と「悔い改め」の差はなんだろうということですけれども、お詫びは、起こったことについて申し訳ないと思うことでしょうけど、悔い改めは何かといったら、少なくともなにか命に関わることでしょうね。お詫びだけでは命が救われるような神様からの恩恵はもらえませんよということですね。 だから、悔い改めるとは、一度自分が死ななきゃだめだということですね。「死んで詫びる」のが悔い改めですね。 死んで詫びる―これ、我々でできますか?できないからイエスが死んで詫びてくださったんでしょ?ということは、イエスを受け入れなければ、「死んで詫びろ」ということになりますよ。 「お詫びじゃだめだ、悔い改めなさい」と言われたので、死んで神様にお詫びする、命を捨ててお詫びする、それを自力でするということになりますね、イエスを受け入れなければ。 でも、みんな同じことを言ってますね。ヨハネも、イエスも、ペテロも、明主様も、みんな、悔い改めなさいと言っている。 ヨハネとイエスは、天国が近づいたんだから悔い改めなさい、ですが、僕は、ペテロとか明主様が言ってる悔い改めなさいというのは、天国が近づいたんだから悔い改めなさいではなくて、「天国はもう来たんだから悔い改めなさい」、だと思いますね。 これは大きな差ですよ。我々は、イエスから二千年経った今も、世の中いろいろ悪いこともある、でもこれから天国が来るよ、近づいているよ、だから悔い改めなさいと、そう思っていますが、これは世の中の考え方ですね。 でも我々は、「もう天国が来たんだから悔い改めなさい」ですよ。この神様の懐の深さというか、愛の大きさはすごいですね。 天国が来る前は、あなた方は赦されるか赦されないか分からない存在だよということで、「天国は近づけり」となってた。でも、人類の代表としてお詫びしたイエスの姿を見て、神様は人類を赦すと決められた。もう赦してあげるよ、赦すという審判を下したよとなった。だからペンテコステの聖霊を降したわけです。ペンテコステの聖霊というのは赦しの聖霊ですからね。 簡単に言えば、子供が悪いことをして、その行為についてお父さんがそれを赦すか赦さないかどっちにしようかな、という段階から、自分の愛する子供だからもう赦した、赦したんだけど、子供がごめんなさいと言うかどうかを見てると、そういう段階に入ったわけです。 この赦しということについて、明主様は、それを夜昼転換ということによって感得なさったんですよね、1931年6月15日に。でもそれ、明主様は、1881年からもう日が出てたと仰せになったり(「夜の終り近づけり汝等悔改めよ」1949年12月31日)、いや実はもう何百年も前から日は出てたんだということも仰せになったりしておられますよ(「東方の光」1952年11月12日)。 ということは、夜昼転換というのは、1931年から始まったんじゃなくて、そのもとは、100%二千年前のペンテコステの聖霊ですよ、その時に神様の赦しの聖霊が降ったんですから。 だから、冒頭の問いのところから私が何を言おうとしているのかというと、結局我々はこの世の中を見た時に、不調和な状況を発見してそれを正さなきゃいけないということになってますが―まあ、それ自体は悪いことじゃないんですけれども―今我々はどういう状況に置かれているのかというと、これから自分や人類は赦されるのかな赦されないのかな、じゃなくて、神様としては、もう、「全部を赦して迎え入れる」という段階に入っちゃったんです。これは、二千年前からですよ。二千年前のペンテコステの聖霊が降った時から人類は全く新しい世界に入った。 それまでは善と悪を立別ける世界に我々は生きていた。この人はいい人だ、あの人は悪い人だとか言いながら人間同士で争ってたわけです。何がいいか悪いか、善はこうだ悪はこうだと言ってたところ、神様は、「いや、全人類罪有り」という裁きを下された。全員悪だということですね。全員罪有りだとなった。そして、それに対しての神様の審判は、一部の人が滅びなさい、ではなくて、赦すとなったわけです。神様の裁きは、「全人類を赦す」だったわけです。 だから、立別け、立別けと言いますが、これが立別けなんです。善と悪を立別けるということで、いい人が10億、悪い人が50億、ということで立別けたのではなくて、合わせて60億人全員に審判を下されて、その判決は「赦す」という判決ですね。そしてこれが最後の審判であった。 だから今我々は全く新しい段階に入っている。二千年前までの神様は、「これから私は裁くぞ。天国は近づいているぞ」、だったのが、今は、もう天国は来た、私はすべてを赦した、だから私は何をするのかというと、すべての状況を人類の罪有りの姿として迎え入れるよと、その、「迎え入れるよ」という働きが二千年前から始まってしまったわけです。 だって、罪有りと言われても、我々はそれに対して無知ですから、自分がどんな罪を犯したのかも分からないでしょ?だから神様としては、それを我々に知ってもらうために、自分の周りにいる人を全部総動員して、「あなた方はこういう罪から赦されたんだよ」というのを我々一人ひとりに示してくださっているわけです、今。 だから、今がもうすでに完璧な状況なんです。神様は寝ておられるわけではない。私たちの認識は、神様は寝ておられて、「私が神様だったら戦争すぐ止めるのになあ」とか、「私が神様だったらこうするのになあ」となってしまっていますけれども、そうではなくて、神様は今、ご自分の絶対の権力をもって一番理想的な形の世の中を我々のために提示してくださっている。 もちろんそれはね、おかしいと思われることについて声をあげないということとは全然違いますよ。そういう種類のことではない。 だけど少なくとも、なにか自分の人生の中で巻き起こることについて―火の粉が降ってくることについて―神様が寝ておられて、よく分かんないことを巻き起こしておられるのでは決してないと、そういうことです。 ここで皆様にお伝えしたいのは、今私がお話しした聖書の理解というのは、これは、私は、私が教主様に結ばれているがゆえにこういうことを感得といいますか、ビジョンを得ることができる、たとえそれが神様の御心とは大きなずれがあるにしても。 だから、そういう流れ、筋というものがあるわけです。イエス・キリスト、それから明主様、それから教主様という流れですね。 イエス・キリストから二千年経って、明主様は、いわゆる日本の新宗教と呼ばれる流れの中で神様の御心をお受けになった。イエスから二千年後、この地球の東の端の端の日本で、いろんな新宗教が出ましたよね、大本とかですね。その流れの中では如来教というのが一番古いみたいですけれどもね。 イエス昇天から二千年後、神様は、なぜか日本という国を選ばれて、そして、ご自分の御心をこの日本人と言われる人々にわーっと降り注がれた。いろんな宗教できたじゃないですか、日本で。これ、なにか神様のお働きがあると思いますよ。 でも、ここでばーっと降り注がれた中の残りかすというか唯一のきらめき、その核心となるポイントは、「メシアとして新しく生まれる」という点ですね。 これを明主様が、最後の最後、感得してくださった。明主様、お一人ですよ。我々みたいに、明主様がいらして、よし、この道を歩もうなら分かりますけれども、明主様はたったお一人で神様からふんだんに降り注がれたその御心の神髄、きらめきをキャッチされて、そして、二代様が仰せのように、その明主様がお持ちであった光の玉は教主様に継承されるんだと、そういうことですね(「明主様御昇天後はこの玉を私が頂き、御神体、お守様、御浄霊すべてこの玉を通して配らして頂いているのです。又三代四代と代が変りましても、本教の教主の座にこの玉は授けられるのです(「二代様御講話」昭和35年5月17日))。 ペンテコステの聖霊、メシアとして新しく生まれる、赦し、最後の審判―これらの言葉に秘められている神様の本当の神髄というのを明主様はつかんでしまわれて、そしてそれを今、教主様と、その代行である私に託しておられるんじゃないかと私は思う。 だから、聖書を自分たちで読みます、それで各々いろんな意見を持ってああだこうだと言っても、それではどこにもたどり着きませんよ。 だって、キリスト教の方々が二千年かけて聖書に向き合ってきても今私が話していることを言っておられる人はほとんどいませんのでね。いや、聖霊をお受けになってそういうことを感得された方は今までいらっしゃったと思いますよ。 だけど普通、明主様の聖言読みます、聖書読みますといって、今お伝えしている「キリストはもう復活した」というようなところにはたどり着けないですね。 やはり、教主の座というものを通して真理に近づきたいのです、ということだったらそれは神様がなにか教えてくださるかもしれませんね、真理の筋というのがありますのでね。 だから、教主様の聖言とか私がお伝えしていること、これを血肉にしない前に聖書とか明主様の聖言に触れても、それは、今までと同じですよ。だって人類それでずっとやってきたじゃないですか。今までも、明主様の聖言に詳しい方たくさんいらっしゃったと思いますけれども、教主様が仰せのところに誰もたどり着かなかったですよね。 聖書を読むと言っても、いまだに全世界でキリスト教徒はキリストの再臨を待ってるわけでしょ?イエス・キリストが再び臨んでくるのを待っている。でも、もう臨まれてしまったんですよ、イエスは。というか、我々は天上でキリストの再臨をお受けして、その上で地上に降りてきたんです。だから我々は、本当は、「今、思い出させていただきました」、と言わなきゃいけないですね。 だって否定する材料無いじゃないですか。否定する材料無いですよ。我々を造ったのが神様だとして、そしてその神様が永遠のご存在だとして、我々は二千年前どこにいたんですか?天上しかあり得ないじゃないですか。 ということは、我々は、イエス・キリストが天使たちと共に上がってくるのを明主様とご一緒に迎え入れたし、その10日後、ペンテコステの聖霊を降したのに携わってたことは否定しようがないじゃないですか。 だから今この話を聞いてしまった以上、「そうでした」、と言わないと大変ですよ。神様から、「赦し」というこんなに大きな賜物をいただいたんですからね。燃え狂う劫火の中に投げ入れられたくないですよね、我々は。 そもそも、前にもお話ししたように、聖書にある「隣人愛」という言葉の意味も簡単じゃないですよ。いわゆる「利他愛」のことですね。利他愛。隣人愛。 普通隣人愛というと、あ、じゃあ人にいいことしましょうとなりますけれども、隣人愛にある「隣人」、となりびと、は誰かと言ったら、キリスト教徒にとってはそれは本当はイエスのことですよ、と私は思う。イエスを愛するのが本当の隣人愛。 明主様の信徒である我々にとっては、本当に我々が愛さなければならないのは明主様ですよね。明主様であるということは、その明主様という存在の基であったイエスを愛することでもあるし、究極的には神様ですよ。だから、隣人愛といっても、神様を愛するのが本当の隣人愛ですね。 それを抜きにして、人にいいことしましょう、これが隣人愛だとどんなに主張しても、それは本当の隣人愛ではないですね。確かに、人間都合の神様抜きの隣人愛は世の中にありますね。だってみんなそう言ってるじゃないですか。人にいいことしましょうと、みんな言ってる。 でも、明主様はなんと仰せなんですか?「只神の御心に叶ふやうにせよ人の目口に心惹かれそ」。「只神の御心に叶ふやうにせよ人の目口に心惹かれそ」。明主様のおっしゃる利他愛は絶対神様への愛ですよ。 ただ神様のみを愛することによって、結果的に、この地上にある横の人間関係も調和ある状態を神様が造り出してくださると、そういうことなんです。 明主様は、ご自分の教えは、文字が出来て以来最も難しいと仰せなんですから(「私の文章とその他」1953年12月9日)、当然難しいわけです。同様に、聖書も難しいんでしょうけれども、でも、明主様の聖言も難しい。 だって、有名な、明主様の、「刑務所」の聖言にある、「世界のあらゆる宗教関係書籍のうち、罪を悔い改めるに最も力あるものとしては聖書」だというのがありますよ(1950年10月30日)。 明主様は、刑務所の一部屋一部屋に聖書を置かれたい、そして、「世界のあらゆる宗教関係書籍のうち、罪を悔い改めるのに最も力あるものとしては聖書」だと仰せになった。 この明主様の聖言、救世教時代みんな読んでたと思うんですけれども、私たちはこれをどう捉えていたのでしょうか。今引用しているこの一文だけでもこれをどう受けとめるか、これ、難しいですよ。この一文だけでも大変なことですよ。 というか、まあ、本当は簡単なんですけれども、我々は人の目口に心惹かれたいですから、だから難しくなるんですね。そうなると、もう目の前にあることが分からなくなる。 世界のあらゆる宗教関係書籍のうち罪を悔い改めるに最も力あるものは聖書だということは、まず、ここで我々が受けとめなきゃいけないことは、「明主様は聖書を読んでおられたんだ」ということ。これ、単純な事実ですよ。だって明主様は、ご自分が手に入れることができた、世界のあらゆる宗教関係書籍を読まれていたんですよね。 我々は、こんな目の前に、こんなど真っ正面にある事実すらも分からないで、教主様が聖書を学んでいる、それが問題だとなるということは、もう何も見えてないですね、明主様の聖言。 目の前に書いてありますよ。「世界のあらゆる宗教関係書籍のうち罪を悔い改めるに最も力あるものとしては聖書」ということは、明主様、聖書読まれてた。「今日聖書を通覧してみる時」という明主様の聖言もありますね(「天国予言の具体化」1950年3月20日)。ここでも明主様が聖書を読まれている事実が提示されていますね。 もう一個この文章で僕があると思うのは、そういう宗教関係書籍を読まれる時の明主様の視点というのは、「悔い改め」というのがテーマだったということ。明主様がなにか宗教の本を読まれる時のテーマは悔い改めなんですよ。 我々明主様の聖言に今まで何十年も触れてきましたが、その時に、明主様は悔い改めということについてどういうことを仰せなんだろうかという視点でほぼ読んでこなかったんじゃないですか? これも、もうそのまま文字通りそう書いてあるけれども、我々は今までそう解釈してきてないじゃないですか。そう受けとめられない。「明主様は聖書とかの本を読まれる時には悔い改めという視点で読んでおられたんだ、それだけ悔い改めが大事なんだ」というこれ、もうシンプルもシンプルな内容ですが、そのように受けとめることもできず、なんかパッと通り越して、ああ、聖書が大事なのかなぐらいな感じで終わりですよね。というか、そこまでも思えてませんでしたね。 だから全然違いますね。本当の明主様像と、我々が長年持ってた明主様像の乖離が相当ありますね。 しかも明主様は、獄舎の一室一室に聖書を置かれたいと仰せだった。つまり、囚人には聖書を読んでほしいということですね。 ということは、明主様が罪を犯した罪人に読ませたいのは、なんと、ご自分の聖言ではなくて聖書だった、ということ。これ、大変な事実ですね。だって明主様は一宗の開祖ですよ。獄舎には私の教えの本を置きなさい、それを読ませたい、なら分かりますけれども、「罪人には聖書を読ませなさい」、ですよ。 しかも、我々は刑務所にいないからといって善人なのかといったら、我々も罪人ですよね、本来。 だから、真理というのは極めて簡単であると同時に、もうとうていつかみがたいみたいなんだけれども、でもやはり一方で簡単である、という、もうこれはね、一口で言えないものですね、真理というものは。 例えば、この間の「イエス復活祭並びに春季大祭」の専従者の方の感想の一つにこういうのがあったのですが、それは、その専従者の方にご兄弟がいて、専従者の方は、当然、「自分は神様信じてます」ということなんですが、そのご兄弟の方は、「自分は、自分の力で成し遂げて、その責任を自分で取る」ということをその専従者の方に言われた。それが自分の生き方なんだということを専従者の方に言ったわけですね。 このご兄弟の方が言われたこと、これは、まあ、なんてことはない、世の中ではみんなそう思って生きてますよね。ごく普通の考え方です。 我々の中におられる神様は何を思っておられるのだろうかというと、「私は、自分の(神様の)力ですべてを成し遂げて、その責任を自分で取る」と、そう思っておられる。というか、本当は、もう成し遂げられて、そして責任も取ってくださった。 だって神様は、ご自分の愛するひとり子であるイエスを世に送って責任取られたじゃないですか。神様、それ、ご自分の力で成し遂げられたんですよ。 ということは、神様は、私たち一人ひとりの中で、私たちに対して、「私が成し遂げるんだ」「私が責任を取るんだ」と常に仰せになっている。 だから、神様を横にどかして人間がそれを表現すれば、「自分は、自分の力で成し遂げて、その責任を自分で取るんだ」と、当然そういう表現になりますね。だって、自分の中の神様の、「私が成し遂げる」「私が責任を取る」―ま、もう取ってくださったんですけれども―というパワーがもうあふれんばかりに全人類に注がれているから、誰かがどんなに神様を信じてなくても、そういうふうに表現させられるわけなんですね。 だからこの姿は、ま、いわば、自転車の練習をしてて自分で乗れた時に、「やった!自分で乗った!自分の力でやった!」と思ったら、なんてことはない、本当はお父さんとお母さんが後ろで支えてくれて乗れるようになったということなのに、お父さんとお母さんは子供のことを思って、「自分で乗れたね!すごいね!」と言って褒めてくれるから、勘違いして、「俺は自分の力でやったんだ」と思い込んでる子供の姿なだけですね。 それに、自分の力で成し遂げて自分で責任を取る、という生き方をしてたら、世の中からは褒められますもんね、「あなたすごいですね、あなたすごいですね」と言われる。だからそれは、子供の時自転車に乗れた時の勘違いがずっと継続しているだけのことで、実は神様は、「お前はいつになったら親の力によってなにかできたということを認めるのか」と見ておられる。 要は、一人ひとりに自由を与えておられるわけです。強制的に、「私がしたということを認めなさい」とはされていない。だって普通、自転車に乗れた子供の親が、「あなたは私が支えたから乗れたんだよ」とは言わないですよね、まあ言う親もいるかもしれませんけれども。でも普通、「〇〇ちゃんすごいね。乗れるようになったね」と言ってくれるじゃないですか。 だから、この専従者のご兄弟の方は、というふうに甘やかされてるのに気づかないで、そのぬるま湯にずっと浸かっていたいから、自分の力で成し遂げて自分で責任を取ると、そういうことを言ってるだけの話ですね。 だから神様の真理というのは、パッと世の中を見た感じの雰囲気と、神様側から見た真理というのは結構差がありますですよね。 そして、その計り知れない神様の真理というのが、今このメシア教のご神業の背後にあって、そして我々のご神業を推進してくださっている。 それは、目に見える形としては聖地。 この前のイエス復活祭の時にブラジルの「水の聖地」の話を少ししたんですけれども、リオデジャネイロ州のリオデジャネイロという言葉の意味は「1月の川」、イタボライ市のイタボライというのは「きれいな石が隠された川」―これも水と関係している―そしてこのイタボライ市というのが、先ほど私の話にも少し出てた水のバプテスマを授けた洗礼者ヨハネを祀った教会を中心にできた街である、というように、すべて水に関係してるじゃないかというこの不可思議な、霊妙な神様のお働きがあるのですが、これ、さらにあるんですよ。 前回お伝えした時点では、まだ、この場所を購入することが決定しました、という段階だったのですが、先日、最終的にお支払いを完了して土地の鍵をもらって、その土地が正式にブラジルメシア教の手に移ったのが、現地の4月17日。で、これから登記とかを進めていくということですね。 ブラジル側としてはちゃんと登記されてから信徒に発表しようとしているところ、私は興奮しちゃって先走ってどんどん話してるんですけれども(一同笑声)、だからサントス先生にちょっと申し訳ないと思ったりしています。 サントス先生は、きちんと、全部決まってから信徒に話そうとされてるのに、私がどんどん話しちゃうもんだから、一部の在日ブラジル人の信徒の方がどんどんブラジルにその情報を送ってしまって、サントス先生がせっかくブラジル信徒にサプライズをしたいのに、その計画をすべて台無し(一同笑声)にしている、ということがあるのかどうか分かりませんけれどもね(一同笑声)。 どちらにしましても、4月17日に土地の引き渡しとなったことについて、サントス先生は、今年は4月20日がイースター当日でしたので、そういうイースター前後の非常にめでたい時期に、「水の聖地」となるべき場所の土地の引き渡しがなされて良かったということを仰せだったんですね。 ここで私が言いたいのは、イースターの期間中はいろいろあるんですよね、なんと言いますか、この日はこういうことがあったんだとか、この日はこういうことを象徴しているんだということがある。 で、イースターの中でいろいろある中で、最も水に関わる日というのが、いろいろ解釈はありますけれども、基本的には「聖木曜日」と言われるもの。これが今年は偶然、土地引き渡しの日と同じ4月17日であった。 聖木曜日に何があったのか。まず、イエスが殺されるのは金曜日ですね。金曜日に殺されて、で、金、土、日、の3日後じゃなくて3日目に復活する。3日後だと月曜日になってしまうので、金曜日に十字架にかかって、金曜日を1日目として、2日目が土曜日、3日目が日曜日、ここで復活。なので、十字架にかかって3日後、ではなくて、金、土、日の3日目に復活された。 今年の場合は4月20日がイースターで、その日がイエス復活の象徴とされる日なので、今年で言えば十字架にかかったのは4月18日。 じゃあこの4月17日は何かといったら、当然、死ぬ前の夜ですから、有名な「最後の晩餐」ですよね。 この最後の晩餐の時イエスは何をしたかというと、これは、洗足式と今は呼ばれていますが、イエスが弟子たちの足を洗うんですね。足を洗う。 この行為にはいろんな意味があるんでしょうけれども、普通、当時、誰かの足を洗うというのはお仕えする側がすることなので、イエスが足を洗い出すと、ペテロが、「そんな畏れ多いです」ということを言って、するとそれに対してイエスが、「あなたは私と関わり合いを持ちたくないのか」「こうすることによって私と関わり合いが持てるんだぞ」ということを言ったら、ペテロは、「では全身も洗ってください」(一同笑声)みたいなことを言うのですが(「ヨハネによる福音書」第13章6節~10節)、素直ですよね、ペテロは。 という、イエスが弟子たちの足を洗うというのが行われたのがこの聖木曜日。だから、イースターの中で水に関わる日があるとしたらこの聖木曜日なんですけれども、今言った水の聖地の土地の引き渡しもちょうど今年の聖木曜日という、イースターの期間の中でも水に唯一直接的に関わる日に行われたというのが非常に意義深いなと思っております。 あと僕が今思っているのは、「水のバプテスマ」と言いますけれども、結局、今の洗足式の話にあったように、イエスが弟子たちの足を洗うことでイエスと関わり合いが持てるようになったということは、水といっても、それが象徴するものは究極的には血ですよね。 この洗足式が意味するところは、要は、私(イエス)の血によってあなた方の全身を洗ってあげるよということであって、その象徴としてイエスは弟子たちの足を洗ったということですね。 だから、ヨハネがしたとされる水のバプテスマもイエスの十字架の血も、本当は一つですよ。 火・水・土の聖地とか言う場合、我々はこの「水」ということを非常に漠然と捉えますよね。ブラジルの水の聖地とか、明主様の水の聖地と言う時、この水とは何かということについて漠然とした思いを持つ。 もちろん、水は万物であるとかいろんな意味がありますけれども、究極的には、水というのはイエスの血だと、私はそう受けとめています。 だから、ブラジルの水の聖地というのは、イエスの血を象徴する聖地だと思いますよ。私たちは、ただ、「火・水・土の中の水なんだ」、という漠然とした受けとめではなくて、はっきり「水の聖地の『水』とはイエスの血のことです」と受けとめたほうがいいと思いますね。 ブラジルは世界最大のカトリック教国です。だから、イエスの血とやっぱり関わりがある国じゃないかなと思いますね。そのブラジルにイエスの血の象徴である水の聖地ができるということは、神様が私たちに対して、「あなた方も究極的な水であるイエスの血を受け入れなさい」と仰せだと、私はそう思います。 しかも、ただの血ではなくて、この血は我々の罪を赦してくださるんですからもう光り輝いてるわけです。つまりこの血は黄金の血です、本当はね。だから、あなた方は黄金の血を受け入れなさいと、それが水の聖地の意義だと私は思う。 そうだとしてアフリカの「土の聖地」はなんなんでしょうかといったら、聖書の創世記にもあるように、人類は土の塵から造られたんですよね。土の塵からアダムを造ったと書いてありますから(「創世記」第2章7節)。 で、もし我々がエデンの園で神様に反逆していなければ、我々はもうずっとエデンの園で過ごして終わりだったんだけど、我々が善悪を知る木の実を取って食べちゃって、それでエデンの園から追放された(「創世記」第3章)。追放されたがゆえに、結果、地球に来たわけですね。 でも人間を追い出したあと神様は、いや、実はこれでこの人間たちもいつか私たちのようになり永遠に生きるかもしれないと書いてありますよ、創世記のこの話の塊の最後のほうに(「創世記」第3章22節)。 だから本当は、我々が神様に反逆したために地上に送られることになったわけですが、でも、神様が我々を地上に送られたのは、ただ我々を罰するためではなくて、「もう一度あなたを私の子として迎え入れるよ」というその愛があって地上に送ったわけです。 だから、土の聖地は何かといったら、人類誕生とこの神の愛の象徴ですよね。土の聖地は、人類誕生と神の愛の象徴。 じゃあ火の聖地はなんなのかといったら、それは裁きと赦し以外ありませんね。火の聖地の意義は何かといったら、裁きと赦しですよね。 今日ずっと話しているように、火は裁きであって、でも、その裁きは滅ぼす裁きではなくて、あなた方を赦して迎え入れるということのための裁きです。だから、西宮のあそこの火の聖地は、裁きと赦しの象徴。 そして、今言ったような三つの聖地に関わるすべてのことを結びつけるのは永遠の命である神様の息ですから、だから、三つだけではなくて、風の聖地とか息の聖地みたいなものもあるべきかもしれませんが、でも、ま、我々一人ひとり呼吸してますからね、だから、どの聖地に行っても、「神様の息と共にある」ということを我々が思っていればいいのかなとも思っております。 さっき話したように、今年のイースターは4月20日ですね。だからそれは、要はイエスが復活したのは4月20日だというふうに仮定すると、その後40日間我々と一緒にいてくださったとしますと、40日目は今年でいえば5月29日になるそうです。 今5月1日だから、イエス復活してからだいたい10日目ですね。でもまだ5月29日まで一緒にいてくださるから、あと30日間くらいは一緒にいてくださるということです。で、5月29日の時にご昇天になる。二千年前のことを今に当てはめるとそうなりますね。 昇天後10日間待っていたところ、イエスは炎と霊によって我々に臨んできましたね。炎のようなものが分かれて一人ひとりの上に留まった。これが炎。そしてペンテコステの聖霊も降ってきた。 今年に当てはめれば、この火と霊が降るのは、6月8日になります。ペンテコステは、今年で言えば6月8日。 で、教主様と私としては、この2025年6月8日に、火の聖地の地鎮祭・聖別式、これを執り行いたいと思います。 ペンテコステと火との関連性がありますね。ですので、裁きと赦しの象徴である火の聖地、この場所の地鎮祭・聖別式を今年のペンテコステである6月8日に執り行いたいと、そういうことです。 あり方をどうするかというのは、今まだ何も無いですから(一同笑声)、どういうふうにするか。やはり、参列も代表の方ということにならざるを得ないとは思います。 でも、この意義深い今年のペンテコステに―ペンテコステは教団の祭日でもありますし―この日に、火の聖地の地鎮祭・聖別式、これを皆様のご協力のもと執り行いたいと思います(一同拍手)。 そして、このペンテコステというのは、キリスト教のほうでは「宣教開始の日」ともされてるんですね。要は、聖霊を受けてから世界中に真実を拡げる契機となった、ということですのでね。だから、キリスト教会誕生の日とも言われています。 我々も、今日の教主様の祝詞にもありましたように、今、名実共に世界メシア教として歩んでいこうとしていますので、この2025年6月8日というのは、我々にとっても、宣教、伝道の出発の日となるのではないのかなと思っております。 より現実的な意味で言えば、地鎮祭・聖別式を経たあとは当然メシア聖堂を建てることになるわけです。 この場所(世界救世教旧聖地)は、僕なんかは、現在においては一番来たくない場所ですね。教主様を追い出した人たちが管理しているところは地球上で一番来たくない場所ですね。いや冗談抜きで。 こんな場所に今皆さんに来ていただいていて申し訳ないです。教主様から―明主様から―すべてを奪った方たちですよ。だからこんな場所に皆さんがこれから来なくていいというのは私はうれしいです。 そしてこれから、明主様の本当の救いの福音を伝える教団としてのスタートを切ろうと、そういうことです。まあ、ずっとスタートは切ってましたけれどもね。 いや、当然ね、天上においてはすべて成し遂げられておりますよ、確かに。だけど、天上においてすべて成し遂げられているなら現界で何もしなくていいなら、それこそもう何もしなくていいですね。何もする必要無い。 全員心の中側では神様のことを知ってるんです、ということであれば、もうずっと家にいればいいですね。教主様も毎祭典毎祭典話される必要も無いし、あと、前も言ったように、霊の体があるからそれでいいじゃないかということなら、私の母もリハビリしなくていいですよね。何もしない。そうなったら、なんで伝道をする必要があるのかということにもなりますね。もう地球自体必要無いですよ。 全部成し遂げられてるんだと言ったら、教主様の努力、母のリハビリの努力、そのすべてがただの無駄ですね。霊の体があるんだからいいじゃないか、満足だろうと、天国では成し遂げられてるんだからもういいじゃないか、みんなもう神様の子供なんだからいいじゃないかということなら、すべて無駄ですね。 そうではなくて、天上はもう樹ち立てられたんだということを伝えなきゃいけないんです。もう天国が来たということを伝えなきゃいけない。そうじゃなければ人間の努力はなにも必要無いですね。 でも明主様は、人力を最大級に尽くしてあとはお任せすると仰せじゃないですか(「頑張り」年代不詳)。ということは、少なくとも、人力は最大級に尽くさなきゃいけないんですよ。 当然、組織も必要ですよ。地鎮祭・聖別式をするのにも組織は必要ですしね。僕はこの間の大祭で、今まで私たちは組織とかそういうものを優先してしまって、もっと大切な感情みたいなことを忘れてたんじゃないかと言いましたが、その時にも申しましたように、これは決して組織とかいうものを軽んじて見ていいということではないですよ。 成果、数。大切ですよ。教主様も私もこだわりにこだわりにこだわりますよ、成果については。 だって教団が無ければ教主様はどうされるんですか?教主様は、なにかをお伝えになるのに、毎回、一人ひとりの信徒と会われなければいけないんですか?そんなこと不可能じゃないですか。だから教主様は、理事会、教区長を通して、ご自身のみ心を全信徒に行き渡らせておられるんでしょ? だから、人間が妥協心を持ち始めて、もう神様のほうでは成し遂げられてるんだからいいだろうとか、組織よりも心のほうが大事なんだから成果にこだわらなくていいだろうということになったら、人力を最大級に尽くす意味も無ければ、もう、すべてやめたほうがいいですよ、そしたらね。しかも、人力を最大級に尽くすのは、努力ではなくて恩返しですよ、本当はね。 だって我々は二千年前にもう赦されたんですよ。我々は本来、今この瞬間、燃え狂う劫火によって滅ぶような存在なんですよ。でも、滅んでないじゃないですか。 劫火という強烈な炎が今、我々の心の中で、浄霊の光のようにしてずっと我々を照らしている。でも、それを浴びても我々は今滅びてないですよね。 それはなぜかと言ったら、「赦し」という神の霊衣に包まれてるからですよ。ということは、赦していただいた、というその大恩があるんです、神様に対して。 だから、それをなんとか世の人に伝えたいから組織も必要であって、教団というものがあるんです。 カトリックのほうも何かしらそういう秩序はあると思いますよ。我々とは別の団体だけれども、ローマ教皇を頂点とした秩序の中で動いていると思いますよ。 そもそも、なぜこの世の秩序が大事かといったら、それは、神様と我々の間の秩序を学ぶためですね。 教団の祭日でもある2025年6月8日のペンテコステ。この、火の聖地の地鎮祭・聖別式の日は、教主様のもとにある世界メシア教によって進んでいる今のご神業の大きな節目となる日。 その日に私たちは、確かに受けておりましたと、その意思表示をしないといけない。裁きと赦しの両方を私は受けておりました、悔い改めの心をもって、「私は確かに裁かれて赦されておりました」と、その意思表示をしないといけない。 というか、二千年前、イエスの弟子たちが当時それを伝えようとした火はもう消えかかってたのを明主様が救ったんですよね?だから明主様はイエスを救うと仰せになるんですよ。 イエスの滅びかけてた業を救うんだから当然じゃないですか。それをするのは我々ですよ。神様がイエスを通して人類の心に灯そうとした光、これがあなた方の中にあるんだということを全世界に宣べ伝える教団、それが世界メシア教です。 だから、6月8日をその出発の日として、また私たちお互い支え合いながら、愛し合いながら歩んでまいりましょう。 ありがとうございました。