皆様、こんにちは。 (会場全体を見回されながら)今日はたくさん入ってますね。ご来賓の方もたくさんいらっしゃいまして、皆様、拍手大変でしたね(一同笑声)。ご来賓の方々も、私、ちょっと長めに話しますので、申し訳ございませんが、お付き合いいただければと思います(一同笑声)。 今日は、「努力」ということについてお話ししたいと思います。信仰者としての努力、明主様の信徒としての努力とはなんなのかということ、そんなお話を少ししたいと思います。 信仰者の努力というと、一般的には、一方では、すべて神様がされるんだから人間はあまりすることはないんだという見方と、もう一方、神様は見守ってるだけなんだから人間は一生懸命努力しなきゃいけないという見方、この二つの見方がだいたい両極端な見方として存在してますね。 そういう中で明主様は努力ということについてなんと仰せかというと、皆様ご存じのように、明主様は、人力を最大級に尽くす。人力を最大級に尽くすんだけど、そうしながら神様にお任せする(「頑張り」年代不詳)。これが明主様の言われ方ですね。 そうすると、世の中で、「人事を尽くして天命を待つ」というのがありますので、メシア教が主張していることはそれと同じなのかというと、メシア教は一味違って、人事を尽くして天命を待つと言う時、普通、人事について尽くす力は人間は持っているという見方ですけれども、本当は、人事を尽くさせてくださる方がいらっしゃるわけです。努力をさせてくださる方がいらっしゃる。 これ、簡単なことみたいですけれども、あんまり世の中とか世の宗教では言われてないことかなと思いますね。 というように、人間に努力する力を与えておられる方がいらっしゃる、というのはもちろん大前提なんですけれども、その大前提がある上で、では具体的な努力の方向性はなんなのか、という問題がありますね。 そこで、我々の模範となるのは当然明主様になりますね。その明主様はというと、もちろん大変なご努力をされまして、立教されること自身がもちろん大変なことですけれども、立教されて、神様から来るメッセージについてたくさん話されて、論文もたくさん書かれて、短歌も一万とか二万という膨大な数を詠まれて、そして書もたくさん書かれてと、とにかくものすごいご努力をされた、明主様は。 そして、明主様の信徒であれば分かると思うんですけれども、明主様は、そういうご努力を、なんと言いますか、飄々と、いかにも「自分は努力してる」という感じを出さずに、非常に自然にされましたですよね。 でも、今日私がお話ししたいのは、そういう種類の努力とはちょっと違う明主様のご努力について触れたいんですけれども、それは今日の明主様聖言(「神様が発展の調節」1952年3月12日)にもありましたけれども、「心を天国にする」ということですね、心を天国にする。 皆様ご存じのように、これも明主様聖言の「本教救いの特異性」(1949年10月5日)の中で、まず天国に上がりなさいと明主様は仰せですね。 心を天国にすると聞くと、我々としては、このような言葉は一般的にも言われていることですから、なにかこれを教えのように受けとめて、これはいい言葉だな、いい響きだな、自分も心を天国にしようと、そういうのは結構簡単に思えると思うんですよ。 でも、今日の二番目の明主様聖言(「御講話」1948年5月18日)にもありましたように、明主様の「心を天国にする」というのは、もう、始終ですよ。心配事とか、くよくよするようなこととか、気を揉むようなこととかがあったとしても、どんなことがあっても、始終、始めから終わりまで、一瞬たりとも心が天国でない状況を作るな、常に心を天国にしなさいと、そう仰せです。これは難しいですよ、これはね。 心配したりくよくよしていると霊が地獄に落ちちゃいますよと、そう明主様は仰せですね。我々はこういう聖言を読みますと、これを明主様からの教えとして受けとめるわけなんですけれども、でも、明主様がこう言われているということは、この聖言にある内容は、明主様ご自身が実践されてたことですよ。 明主様ご自身が、ご自分の生きざまとして、悩み事とか心配事とか気を揉むようなことがあった時、昔はきっとそれに引きずられて霊が地獄に落ちてしまうようなこともおありだったんだと、だけど、それを明主様は、始終、どんなことがあっても心は天国を離してはいけない、分かりやすい言葉で言えば、安らぎであり、明るい状況に自分の心を置くということですね、それを実践しなければいけないと思われた、ということです。だからこれは、難しいですよ、本当にね。 でも明主様は、心を天国にする具体的な方法として、我々の心の苦悩ということについては、苦悩は感謝で打ち消しなさいと、そう聖言くださっていますね(「神様が発展の調節」)。感謝しなさい、ということですね。 これも、世の中でもよく感謝は大事と言っていますから、簡単なことかと思うかもしれませんけれども、明主様は、「感謝の心は神に通ずる」と仰せなんですから(「人間は想念次第」1949年9月3日)、明主様にとっての感謝は神への感謝であって、苦悩を打ち消す感謝も、これは神様への感謝ですよ。 日本とか、また世界でも、一般的に、感謝しなさいというのはよく言いますね。感謝が大切だ、なんにでも感謝しよう、物に感謝しよう、親に感謝しよう、いろんな状況に感謝しよう、難が有るのが「有り難い」んだから、その難に感謝しようとかね、そういうことは、日本の社会でも、また、世界中でも一般的に言われていることですね。 だけど明主様の場合は、神様に対する感謝である。しかも、明主様にとっての神様というのは、唯一の神であるエホバですよ。「エホバ」とか「ヤハウェ」という名前で呼ばれているユダヤ・キリスト教系の神様。この神様は、「主」とも呼ばれていますね。明主様も「主之栄光」という御書もお書きになっていますが、これは、主であるヤハウェの栄光、ということですね。 だから、感謝が大切と聞くと、我々はすぐ、世の中で言ってる感謝と同じような感じで、なんにでも感謝しなきゃいけない、とか、〇〇さんに感謝しなきゃいけないとなるんですけれども、明主様のおっしゃる「感謝によって苦悩を打ち消す」の感謝は、「主に感謝します」「主に感謝いたします」ですよ。それ結構、苦手なんじゃないですか、少なくとも我々日本人は。 というように、心を天国にするあり方として、明主様は、今の主への感謝というのもあるし、また、喜びなさい、というのもありますね。 聖言「人間は想念次第」。「感謝が感謝を生み」から始まって、「喜べば喜び事が来る」と、そう仰せになった。喜べば喜び事が来るということは、いつもお話ししていますように、喜ぶのは、喜ぶことが起きる前ですよ。喜び事が来たから喜びなさい、ではなくて、喜べば喜び事が来る。 我々の日常生活はいろいろありますね。今日来られている政治家の方々も、政治的バトルで気を揉むようなことがある時に、とか、あるいは日常生活でいろいろ気を揉むことがある時に、だまされたと思って、「喜びます」と言ってみる。だって、喜べば喜び事が来るんですからね。「主よ、喜びます」ということですね。なにか不都合な状況が起きてきた時に、「主に感謝いたします。主よ、喜びます」と、こう言わせていただく。 しかも、主と言っても、これは、全知全能であり、全人類にとっての神様ですから、今言った言葉は誰にとっても有効な言葉です。メシア教の信徒だけにとって有効な言葉ではない。 というように明主様は、人生いろいろおありだったけれども、主への感謝と大いなる喜びを持って生きる生き方を貫かれている中にあって、最晩年、命を奪われるほどの脳溢血のご浄化をお受けになった。 その時明主様は、「自分はこのまま死んでいくんだ」じゃないんですよ。むしろそれとは正反対の、「自分はメシアという新しい命に生まれたんだ」とされた。だからもう180度違うわけです、受けとめ方が。 普通我々は、なにか不都合があった時に、「都合悪いな、なんとかならないかな」となるんですけれども、明主様はそうではなくて、「感謝します、喜びます、命が無くなるんじゃなくて、新しい命に生きます」と、そうされた。この明主様のご努力はすごいですね。 しかも脳溢血の時明主様は、そのようなメシアになるための神様からの訓練が厳しくて何度も自殺を考えられた。明主様は、何度も自殺を考えるほどだったということを、側近奉仕者の方たちにお伝えになっていますね。 ということは、明主様が神様に感謝されたり、喜ばれているのは身体の問題だけじゃないですよ。心の問題も含まれていますね。「自殺したい」ということは心の問題ですね。自殺したいということは、もうこの世からいなくなっちゃいたいということですけれども、明主様はそういう心境であられた。我々でも、そういう心境になる時、ありますよね。 でも明主様は、そのような心の状態の中にあって、神様に感謝されて、「これは喜び事なんだ」「希望なんだ」と受けとめられた。脳溢血のさなかに苦しんでいるある日の朝、明主様は、朝起きられて、「希望の朝だ」と仰せになったんですね。 我々も、いろんなことについて、「これは浄化と受けとめてます」「これも浄化と受けとめてます」と言ってるかもしれませんけれども、最終的には、浄化ということはもう全部ですよ。人生で起きるすべてが神様にとってはいいことなんです。すべて、ですよ。我々からしたら、奈落の底に突き落とされるようなことであったとしても、神様からしたらいいことなんです。 でも我々は、浄化についても、自分都合で思えるところまでしか浄化と思ってないですよ。ここまでは浄化と思える、ここからは思えない、というように。思えることについてのみ、神様、浄めてくださってありがとうございますと言ってる。限界がありますよ、そこにね。 でも明主様には限界は無い。命を奪うような病も、また、自殺したいような思いも、そのすべてを良いことと受けとめられた。 しかも結局そのまま命取られてしまいましたね。命取られたけれども、私は、明主様は、本当に大いなる喜びの中におられたと思いますよ、自分は神様の新しい命に生きてるんだという。 だから、「心を天国に」というのは簡単な言葉ですけれども、明主様は御身をもってそれを実践された。これはものすごいご努力だなと思いますね。明主様がされたご努力の中で、一番の努力だと思います。 そして我々も、主に教主様がご教導くださるようになってから、この明主様の「心を天国に」を実践させていただこうとしていますね。 いろんなことが日々湧き起こってくる中で、明主様がまず天国に上がれと仰せのように、「天国に立ち返らせていただきます」「多くのご先祖様の思いと共に、立ち返らせていただきます」「神様、お委ねします」というふうに、我々も実践させていただいている。その努力をさせていただいている。 でも僕は、こういう実践、努力の中に一つの落とし穴があると思うんですけれども、忘れてはならないのは、まず天国に上がりなさい、ということですから、我々にとっての主眼は天国に上がることですね。 でも我々は、ややもすると、例えば、親戚とか家族が自分の納得いかないような態度を取ったけど、こういう姿も自分の中にあるんですね、お委ねします、としました、とか、あるいは、出かけた先でお店の人が自分の気に入らないような態度を取りました、こういう姿も自分の中にあるんですね、お委ねします、としました、とか、こういうことを通して、「お委ねします」「お委ねします」「お委ねします」とずっと言っていく中で、下手をすると我々は、とにかくこの世のことが好きですから、天国に上がらせていただく、ということよりも、むしろ、いろんな思いをお委ねするほうに自分の思いが引っ張られてるということがあるかもしれません。 とにかく我々はこの世のことが好きですからね。「あの人はどうだ、こういう姿だ、ああいう姿だ、こういう問題がある、ああいう問題がある」ということばかりが気になって、そのようなことを、「お委ねしてます、お委ねしてます、お委ねしてます」と言いながら、結局どっぷり地上に浸かってるという姿、それがあるかもしれません。我々は、人間関係がどうとか、そういう世界が本当に好きですのでね。 だから、「天国に帰ります」と言っても、口だけで、実際は全然帰ってない姿があるんじゃないかと、そう思うんですね。「天国に立ち返ります」と言いながら、実際は、この世でいろいろ起きることにどっぷり浸かって、「こういう思いも湧いてきた、こういうのも湧いてきた、こういうのも湧いてきた」と言って、心が天国に帰るより、むしろ一日中、この世のことに心を向けている。 でも、そういう思いというのはもうごまんとありますよ。大量にあります、それはね。だって、人類のすべての営み、また、全人類のすべての先祖が自分一人という存在に集約してるんですからね。 親から子、親から子ということで伝わってきたすべての遺伝情報が自分の中にある。だから、この世で巻き起こっていることに自分の心を向けていたら、百年経っても二百年経っても千年経っても、ずっとお委ねしてなきゃいけないかもしれない。「こういう思いが湧いてきたのでお委ねします、お委ねします」と言って、ずっとそれをしてないといけないかもしれない。でも、我々には、本当は、まず天国に上がるということが課せられているわけなんですね。 飛行機に乗られたことがある方は分かると思うんですけれども、緊急の時には酸素マスクが上から下りてくるので、それを装着しなさい、みたいなことがありますね。で、その時客室乗務員の人がだいたい言うのが、「自分の周りの人の酸素マスクを着ける前に、まず自分のマスクを着けてください」と、そういうことを言うんですね。まず自分のを着けて、それから子供とかの酸素マスクを着けるのを手伝ってくださいと、そういうことですね。 それは、分かりますよね。要は、子供のを着けようとしている最中に親自身の息が苦しくなっちゃったら、もう人を助けるどころじゃないわけですから。 だから、機体から空気が漏れて、とか、機内の空気がだんだん薄くなるような事態が万が一発生した時に―いや、そういう事態は簡単には発生しないのでね、アフリカに行かれる方は安心していただきたいんですけれども(一同笑声)―万が一そういう事態が発生したら、自分のをまず着けて、自分の呼吸が十分救われた状況になって初めて、周りの人の世話をしなさいと、そういうことですね。 いや、それはね、なにかものすごい緊急の時、本当に1秒か2秒か争うみたいな時に、自分は死んでいくけどとにかく自分の子供を、という状況は非常にまれにあるとは思いますよ。だけれども、基本的には、自分がまずちゃんと酸素を吸えるようになって、救われた状況になって、そのあとに、自分ではできない子供とかの酸素マスクを着けるのを手伝うと、そういうことですね。 この酸素マスクの話が、今話していた天国の話と関係あるんじゃないかと思うわけなんですね。 天国に上がるからと言って、この世で幸せを求めることを否定することとは違うんですよ。やはり誰もが幸せを求めてるし、家族の仲が良ければいいし、仕事も順調にいって、人間関係もうまくいって、給料というか、生活を支えるそういうものも満ち足りた状況になりたい、病気にならないで経済的にも大丈夫で、人間関係もうまくいってるという人生を誰もが願っている。 それを否定するものではないけれども、でも、この人生というのは、どんなに幸せを求めていても、いろんなことがのしかかってきますね。病気になるとか、人間関係がうまくいかないとか、発生するじゃないですか、そういうことが。どんなに幸せを願っていても、人生の荒波に揉まれれば、いろんなことが発生しますね。お金の問題とか、病の問題とか、人間関係の問題、絶対発生しますね。 その時、神様、明主様は、私たちに対して、「あなたはそれを救いに来たんだ」と仰せになってる。何か起きて、自分の心にいろんな思いが来ていることについて、神様は、「それを私が救おうとしているんだ。だから私の手伝いをして、私と一緒に天国に多くの苦しんでいる人を共に迎え入れようじゃないか。あなたを通して迎え入れようとしてるんだから、まずあなたが天国に帰って来い」と、そう神様は仰せなんだけれども、我々はそこで、酸素マスクを着けられるほうの立場に置いてしまうんです、まず自分が良くなりたいですからね。 我々は幸せを求めているが故に、何か巻き起こった時、そこから解放されたい、楽になりたい、問題が無いといいな、と思うから、酸素マスクが欲しい、欲しいとなってるんです。救われたい、救われたいとなってる。 その生き方はそれはそれでいいですよ、世の中の人はみんなそうやって生きてますからね。 問題が発生しました、なんとか解決してほしい、解決しました、また問題が発生しました、なんとか解決してほしい、解決しました―そういう生き方でもいいですよ、別にね。 でも、それではずっと子供のままなんです。その生き方でいけば、今の飛行機の例えで言えば、死ぬまで、「酸素マスクほしい」「酸素マスク着けてください、着けてください」とずっと言い続けて、結果、神様から見れば、いつまで経っても独り立ちしない、子供のままずっと生きていくことになってしまう。だから、「心を天国に」というのは簡単みたいなんだけれども、ほとんど誰もしてないですよ。 でも明主様は我々に仰せなんです。「まず、あなた自身が酸素マスクを着けなさい」と仰せになってる。酸素マスクを着けて、自分はもう救われましたとなった上で、自分の心に湧いてくる思いについて、天国に立ち返った立場として、ああ神様、こういう思いを迎え入れておられるんですねと、そういうことです。 そこで我々は、その話は分かります、だけど実感が無いと、こうなりますね。天国と言われても分からない、見えない、実感が無い、すばらしい世界であることは間違いないんだろうけれども、自分の中にあると言われても分かりませんと、こうなりますね。 でも、明主様ですら、今日の御歌にもあったように、この天国楽土の実相というのは人間の知恵では測れませんよと仰せになっていますね(「美はしき天国楽土の実相は人の智慧もて測りがたなき」)。測れない。 そうなると、じゃあ我々では天国は分からないから、もうどうしたらいいんだろうとなるかというと、そうはならなくていいんです。 どういう意味かというと、帰巣本能というのがありますね、動物の。巣に帰る本能ですね、帰巣本能。 動物たちは、例えば犬とかでも、飼ってるところからものすごい遠くに連れていかれた時、帰り道を知らなくても、帰巣本能によって帰ることができるとか言われますよね。鮭が川を上ったりとか、あと渡り鳥とかも、どんなに離れていても自分の巣のところまで帰れる本能があるとか、そういうことがありますね。 でも、実は、我々も、巣と言いますか、我々の本当の家である天国に帰る本能が備わってるんです。動物ですら帰巣本能があるんですから、当然我々にも帰巣本能が備わってるんです。 それなのに我々は、この地上が自分の家だと思って、日本に生まれましたとか、自分はブラジル人ですとか、アフリカ人ですと言って、長年この地上を主体としてきたが故に、もう自分の本当の家が分からないみたいになってるんです。 でも、天国が我々の本当の家ですよ。だって天国は神様の家であって、人類は神様の子供なんでしょ? だから、我々が本当に帰るべき巣、家は天国ですよ。神の家。 そこから離れてしまって、もう忘れたかのようになって、帰り道も分からないと思ってるかもしれませんけれども、我々は本当は知ってるんです、その場所を、帰り道を。 動物だって、何も、考えてその巣に帰ってるわけじゃないと思いますよ。考えたら難しいですよ、理屈でね。でも帰巣本能ですから、本能なんです。そして、我々の中にも神の家に帰る本能が宿ってるんです。 どんなに遠く離れてても、長年の間、ずっと地上を自分の住みかだと思って、地上での繁栄、地上での喜び、それを主体にして生きてきて、もう忘れちゃったかのようになってても、鳥がどんなに遠くても自分の巣にたどり着くことができるように、我々の中にも本当の家にたどり着く本能が宿ってるんです、実はね。 我々は長い間眠ってたみたいになってた。天国と言われてもよく分からない、なんのことだろうとなってた。それはそうですよ、だって我々は罪で泥だらけだったんですから。汚れて、もうとうてい家に帰れる状況ではなかったのに、そこを、イエス・キリストの人類の罪を贖うという血、イエスの復活、そしてそのあと降ったペンテコステの聖霊、これによって発動したんですね、神様の家に帰るという帰巣本能が。 ペンテコステの聖霊が降ったことにより、ずっと眠ってた我々の帰巣本能は発動したんです。 だから、「努力する、努力する」と言っても、神様はもうすべて整えてくださっていますよ。我々の本当の巣である神の家に帰る本能も宿してくださっている。 だって、「神様」とか「神の家」とか「天国」とか聞くと、我々の心は、少し、なんか反応起こしてるじゃないですか。そのことですよ、帰巣本能というのは。複雑なことが分かっても分からなくてもいいんです。しかも神様の家というのは神様の愛であって、愛は理屈じゃないんですからね。 我々の中には、神の家に帰る本能が宿ってる。しかも神様の家に帰る道もすでに用意されている。これは、二千年前に神様が用意してくださったんですね。だから努力も何も、もう神様が全部してくださったんです、すでにね。 だって我々、もし天国を認めなければ、どうやってメシア聖堂を建てるんですか。メシア聖堂というのは、花が笑って鳥さんたちが歌っているというそのすばらしい天国の世界をこの地上に投影しようということなんですよね?(「花笑ひ百鳥歌ふ天国の苑を此土に移す神業」) その業にお仕えしたいのに、自分自身が天国に帰ってなくてどうやってメシア聖堂というのは形になり得るんですか。 明主様はまさにそれをされようとした。だから今、我々は、明主様がされていたのと同じことを全員力を合わせてしようじゃないかとなってるんです。 我々は、天国のことなんてもうずっと忘れていましたよ、そんなことね。この地上的に聖地がきれいであればもうそれでいいとなってましたよ。全人類が内なる天国を思い出すために聖地に関わる、なんていう姿勢ではなかったわけですからね、ずっと。 だからこれが、今回の教団浄化がありまして、教主様が表に出てきましたね。これを、人によっては、教主様が出たことによって、明主様じゃなくなってしまったと思うかもしれませんけれども、全然そういうことではないんですよ。 だって、教団浄化が起きて教主様が表に出てこられて初めて、明主様がお使いになってた「世界メシア教」という教団名も復活しましたし、明主様が仰せになってた「浄霊は二の問題で、これから想念の世界である、お念じしなさい」、まあ、祈りなさいということですね、についても我々は初めて向き合うことができたし、「ミロクの世には人類は菜食になる」にも向き合っていますし、「キリスト教と呼応する」もありますね。これ、全部明主様が仰せだったことですよ。でも、我々はそれをずっと無視してきた。 むしろ、我々人間のほうの都合とか、収益が上がるであろう方法とか、人間が喜びを感じるほうのことを主体にしてずっと来てたじゃないですか。 でも教団浄化が起きて、教主様が復権されたことによって全部こういうことが起きてきている。 アフリカで二万人ですよ。普通じゃないですよ。私がアフリカに行って執り行う聖別式に、しかも、我々日本人の肌の色と全然違う、いわゆる黒人の方々が二万人ですよ。普通じゃないですよ。明主様がお働きになってなければ起こり得ないですよ、そんなことはね。 だから、教主様の復権は明主様の復権ですよ、本当はね。教主様の復権は明主様の復権であり、世界メシア教の復権、復興ですよ。 その中で我々は、神様がまさしく全人類に向かって進めている業のほんの一部にでもなろうじゃないかということで、具体的には、「祈り、食、音楽」という活動、これを世の人に広めようとしている。祈りということでは、世の人にやってみてほしい、悩み事がある時、「お喜びください」とやってみてほしい、「主よ、お喜びください」とやってみてほしい。 食。身体にいろんな問題を抱えている人たちに対して、明主様のビジョンであるいわゆるヴィーガン食、菜食、これをやってみてくださいと願ってる。 メシア教の音楽もぜひ聴いてみてくださいと願ってる。 という活動を広めることによって、我々は、もちろん喜びの世界はすでに我々の中に存在してるんだけれども、その喜びの世界が地上に投影されて、この地上世界が本当にすばらしい世界となる、より良い世界となるというその地上天国の建設に我々は関わっている。 今まで我々は、自分の中にある天国をすっ飛ばして地上天国建設をやろうとしてたんですね。なにかがあったら自分が酸素マスクほしいという状況でやろうとしてた。 でも今は全然違うんです。我々がやろうとしていることは、まさに明主様のように生きようじゃないか、明主様が常に心を天国にされてすべてを行われたように、我々も心を天国において、その上で、この祈り、食、音楽を進めて、そして地上天国を実際に建設しようじゃないかと、そういうことです。地上天国、ですよ。 だから、教主様の復権は明主様の復権であり、世界メシア教の復権、復興であり、地上天国建設の復権、復興である。 我々に託されているのは、何も、日本だけとか、大阪だけというような、限られた地域の救いじゃないんですよ。 アフリカということからも分かるように、場所とか人種、関係無いんです。全人類、どんなに肌の色が違っても、言語、人種が違っても、全人類の中にもう天国は打ち樹てられてるんです。だから、日本人だけの問題ではない。 というように今、我々は、明主様が進めようとされてた、本当にスケールの大きい救いというものに携わろうとしている。 来月、私、皆様の大いなるご支援によってアフリカに参りますけれども、また、皆様の中で行ける方もいらっしゃるし、行かれない方もいらっしゃる、行かれない方がもちろん大半ですけれども。でも、たとえ行けなくても、これは、「じゃあ自分とは関係無い」ということではなくて、関係あるんですからね、やはり。 地上天国建設ということは、複雑なことではないんですよ。世の中の人が、心が幸せになって身体が良くなるという、そういうことですよ、本当に。 そういうことに我々は今携わろうとしているのであって、我々が、この地球上を本当にすばらしい世界にする。そうなんだから、世界中の信徒と共に、あらゆる困難があっても天国を信じられた明主様を信じて、そしてその明主様の業の端にでも加えていただく。 だから「努力」といっても、明主様を信じるだけですよ。複雑なことじゃなくて、ただ明主様を信じるだけですよ。 というように明主様は本当に復権されたんですから、教主様のもと、明主様の願いを私たちの手で実現したいと、そう思います。 ありがとうございました。