PDFダウンロード:20260712_祖霊大祭_真明様聖言_生ける神に仕える.pdf 皆様、こんにちは。 先ほどの理事長のご挨拶にもありましたように、今日は大祭ですけれども、教主様と話し合いまして、私が祭司を務めさせていただくことになりました。 祭司は月次祭等でもさせていただいていますが、大祭ですので、やはり、よりちゃんと練習しなきゃいけないなと思いまして、で、家で、だいたい子供たちが起きてくる前の静かな時間に練習してたんですね。動きとか祝詞の練習。 そしたら、ちょうど今から1週間ぐらい前かな、子供たちが起きてくる前までにその練習が終わらなくて、僕が練習をしている時に、長女と次女がもう学校に行くということで朝食を食べ始めてしまったんですね。そして、子供たちからは、練習をしている私のお尻が見えるという位置関係。 そういう状況だったんですけれどもとにかく最後まで通しで練習しまして、そしたら、やはり普段見ない動きであったり、祝詞の声も普通の声じゃないですから、なんか、長女と次女が珍しがって、二人で静かにクスクス笑ってるのに気が付いたんです。 それで僕も、なんか朝だし、子供たちをもっと喜ばせようかなと思って、お辞儀したついでにお尻振ったりとか(一同笑声)、その辺に子供たちの英語の本とかもあったので──バイリンガルにしようとしてるから──その英語の本を祝詞調に読んだりして(一同笑声)、みんなで大爆笑するということがありました。 でも、3人で大爆笑してる時にふと我に返って、いや、これ祭典当日にお尻振ってるのとかを思い出して(一同笑声)、本番で笑っちゃうんじゃないかとかが心配になりまして、大丈夫かな、ふざけるべきことでないことでふざけちゃったのかなと思って心配してましたが、でも、、、大丈夫でした(一同笑声)。結論、大丈夫でした(一同笑声)。 ここの場所に立って祝詞をお上げするのはちょっと言葉で説明できない感情ですね。皆様を代表して神様にああいう言葉を申し上げる感情は、ちょっと言葉にできない。祝詞が終わったらもう帰ってもいいかなという感じですね、気分的には(一同笑声)。もう今日の仕事はこれで終わった、祭典の中で最も大切なところが終わった、という感じで。 ちなみに祝詞自体は今回全面刷新しまして、今まで使ってきたのの元となっているのは、去年の9月、奈良の月次祭の時のものですね。その時もそれまで使っていたものを全面的に見直して、私のほうで作らせていただいて、教主様にご了承いただいたものでした。 それが去年の9月で今7月だから、それからちょうど10か月経ちまして、ご神業がどんどん進むものですから、祝詞も今のご神業によりピタッとくる内容がいいんじゃないかと思って、今回もまた教主様のお許しのもと私が全面刷新させていただきました。皆様も、この新しい祝詞を、ご自宅とか教会で上げられたり、聞かれたりすると思うんですけれども、また新たな気持ちでこの祝詞を受けとめていただけたらなと思っています。 あと、近況ということでもないんですけれども、この間のメシア降誕祭の時、『クリスチャンヴィーガンに生きる』(仮称)という本を書いていることをお伝えしましたよね。その時皆さんに言ったのは、もうほとんど書き終えてますということと、これからマミに読んでもらおうかなと思っているということ。 ちなみにこれは一般書籍ですよ。もちろん信徒の皆様にも読んでいただきたいわけですが、考え方としては、一般の方々に向けた一般書籍ということで『クリスチャンヴィーガンに生きる』というのを書いてるんですね。ま、もう書いた、というのかな。 とにかくメシア降誕祭にそういうことを皆様にお伝えしまして、祭典が、あれ、6月14日でしたかね。14日。で、祭典後さらに書き進めて、結論のところを書いたりして、全体見直して、それでマミに読んでもらって、微調整しまして、それで、ちょうど今から10日か2週間ぐらい前かな、一応自分では「もうこれだな」という内容になりましたので、でも、誤字脱字は常に発生するから、メシア教の出版・デザイン部の方々に校正をお願いしようということで、そのお願いのメールを作りまして、出版・デザイン部の方に、「校正お願いします」ということと、あと、「このデータは勝手に転送しないでください」とか書いて、だって転送されちゃったらもうおしまいだからね。これから出そうとしている本のデータが転送されて皆さんの手元に届いちゃったらもう本そのものが売れなくなっちゃうから(一同笑声)、だからそんなことを書いたりして、メールを送りました。 メールを送ったあとの気分は、「ああ良かった」「肩の荷が下りた」と、そんな感じでした。そもそも前回の祭典で皆さんに発表したのは、自分にプレッシャーをかける意味でもあったんですよ。だって発表したらもう逃げようがないじゃないですか。発表しなければ自分の中でいつでも撤回できますよね、もう大変だからやめようとか。 でもひとたび皆様に言っちゃうと、証人が多すぎるし、しかもYouTubeとかに出て、もう視聴回数1万回とかになって、不特定多数の方々に宣言した状態になりますから、そこから「撤回します」というのはちょっとかっこ悪すぎるから、だから、自分にプレッシャーをかける意味で皆さんにお伝えしたという側面もあります。 とにかくそのメールを送りまして、確か午後の3時とか4時ぐらいだったと思いますけれども、送りまして、で、あとは校正して微調整して、出版してくれるところを探すということですから、自分のできることはある程度やり尽くしたと思って、やれやれ、肩の荷下りたということで、だからその日はよく眠りました(一同笑声)。安心してよく眠りました。 で、次の日。次の日、朝起きまして、細々としたことをいろいろしてたら、なんか急に、本のタイトルというのかな、なんかそういうのが、自分の耳に聞こえたような気がして、しかもそのタイトルは、『クリスチャンヴィーガンに生きる』というのと全然関係無い内容のタイトルだから、いや、これどういうことなのかなと思って、で、落ち着いて考えると、これは、2冊目を書け(一同笑声)ということなんだ、神様が、2冊目を書けということでそういうタイトルを私に言ってくださっているんだと、それに気づいたわけです。 いや、そんな声が聞こえるようなことがあるのかと思われるかもしれませんけれども、あるんですね、そういうことが。でも、今は言わないよ、そのタイトルは(一同笑声)。 でも、そういう声というのか音というのか、それが自分の脳で聞こえてしまったものだから、いやこれは困ったなと思って、だってせっかく本を書き終えて執筆するという重荷から解放されたのに、いや、1週間後ぐらいとかならね、まだ、「神様、1週間のバカンスありがとうございました」みたいに言えると思うんですけれども、書き終えて24時間も経ってないから(一同笑声)、校正お願いのメールをして、それからもう半日ぐらいで新たなタイトルが来たので、困ったなと思って、で、マミに話して、「今朝、なんか声みたいのが聞こえて、これ、2冊目書けということじゃないかな」ということと、あと、「でも無理だと思う」とマミには言ったんですね。だってもう逃げたかったですから(一同笑声)。だから、マミには「無理だと思う」と言って、でも、マミは、他人事だからというのかな(一同笑声)、ま、他人事ということとは違うと思うんですけれども、当たり前のように、「いいじゃない!」みたいな感じになりますよね、普通。 でも僕はもう無理だと思って、マミには「できない、できない」と言っていたんですが、でもそしたら、日中なんかしてる時、そのタイトルに基づく内容がなんか浮かんできちゃって、「いや、これ書き留めておかなきゃいけないんじゃないか」と思って、メモしたりして、、、だから、結果、もう書き始めてますよ(一同拍手)。 拍手、ありがとうございます。逃げるのはギブアップして(一同笑声)、2冊目書き始めてまして、しかももう結構進みました。タイトルはまたおいおい発表しますのでね(一同笑声)。 当然、受け皿である私が非常に混じりっけがいっぱいあるから、神様のお声を正確に受けられていないですから、最終的にそのタイトルになるかは分かりませんけれども、でも、本当に、そういう、「声が聞こえる」ということってあるんだなと思いましたね。 最近それと似たようなことがまた別にあって、食のこといろいろしていますから、食のことについてなんか思ってたら、「真の食は息だ」みたいなイメージというか、それも声みたいな感じで自分の脳には来るんですけれども、それが来まして、いやこれは大変なことをお聞きしたなと思って、とりあえず、「お受けします」という感じでまず思って、で、確かに私たちはクリスチャンヴィーガン食を実践してるけれども、天上は飲み食いではないということを言われてますから、ああ息が大切なんだなと思って、この内容は今日の祝詞にも入れました、「真の食たる息」という文言でですね。 とにかく、僕の受け皿がいろいろご先祖様のものも含めて入り込んでるから、神様のメッセージをシャープに受けきれないところがありますから、いろいろ自分でもこのことで思い巡らしていたのですが、イエスが試されるところありますよね、サタンに。その時イエスは、人はパンのみによって生きるのではない、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きるのだということを言っていますから、だから、神様からいただくものとしては、息もありますが、「言葉」ということもあるんだなと思って、でもやはり、言葉も、結局息が無いと命が吹き込まれませんから、なにか、「神様の命ある言葉」というのをお受けするのが我々にとっての本当の「食」なんだろうなということは思いますね。だから天上に行ったらそういう世界かもしれませんよ。 で、そんなことをみこととお風呂入ってる時に思ってて、みことはまだ3歳で、天上から離れてまだ3年しか経ってないからみことに聞いてみよう(一同笑声)と思って、みことに、「天国での食事は息なの?」と聞いたら──ちなみにこのやり取りは英語です──みことの反応は、日本語で言うならば、「当然そうだよ、うん」みたいな雰囲気出してました(一同笑声)。「天国での食は息なんですか?」と聞いたら、「うん、当然そうだよ」(一同笑声)みたいな返答してました。 言葉も大切ですが、やはり神様からお受けする息、呼吸ということの大事さはあるなと思いますね。 どちらにしても、このように、神様のお声が聞こえるということのように、神様が実際に我々に臨んできておられるということがあるんじゃないかと思うわけです。神様というと、人によっては、ずっと昔に創造されて、あとはもう寝ておられて、とか、様子見をしてるだけみたいなイメージを持ったりしますが、やはり、今も生きて我々を導いておられるんだなということを思わせていただくのが大切だなと思います。 もし本当に神様は今我々に臨んできておられて、救いというのを進めようとしておられるとしたら、我々のご神業への向き合い方、覚悟、これがあると思うんですね。 そのことについては、今日拝聴した聖書のイエスの話が非常に関わってきますよね(「ルカによる福音書」第9章59節~62節)。イエスがある人に、「私に付いてきなさい」と言った。そしたら、言われた人は、お父さんのお葬式しなきゃいけないということを言った。「父を葬りに行かせてください」と言ったんですね。現代風の日本語で言うならば、「父の葬儀があります」、ですね。イエスの、「私に付いてきなさい」に対して、「いや、本日は父の葬儀があります」、ですね。そしたらイエスは、「あなたはお父さんの葬儀に出てる場合じゃない」「すぐ付いてこい」ということになったわけです。 もう一人は、「付いてこい」と言われて、「イエス様付いていきます、付いていくけれども、一旦家族に挨拶させてください」ということをイエスに言うわけです。だって普通、例えば午後2時とかの日中に、イエス様に「付いてこい」と言われたら、付いていくけれども、心配するから普通家族には言いますよね。というか、今の時代だったら一発でLINEしちゃうから(一同笑声)、イエス様が、家族に挨拶してはだめだと言う前に、「いや、もうLINEしちゃいました」(一同笑声)みたいになったり、あるいは、「分かりました、付いていきます」と言っといて、夜、家族を安心させるために一応LINEする(一同笑声)みたいになっちゃうけれども、でもまあイエスの時代はそれはできないので、家族に挨拶しにいこうと思ったら、イエス様は「だめだ」と、「ひとたび神の道に進むと決めたら後ろを見てる場合じゃない」「すきで耕す線が曲がっちゃうぞ」となったわけです。 これ、厳しいですよ、イエス様。お父さんの葬儀には行くな、家族にひと言の挨拶もするな、ですからね。 そう考えると、世の中で持っているイエス様像というのは、よく、「キリスト教の人は家族を大事にする」とかありますけれども、こういうのも結構人間のほうで作られたイメージかもしれないですよ。 で、これは、この特定の2つのケースのことだけじゃないと思うんですね。自分の父はもう死んでるし葬儀に出ることはないので大丈夫だとか、自分は独り身で挨拶する家族もいないから大丈夫だ、ではなくて、要は、自分がこの道だと決めてそこに入ると決めたのに、お父さんとかお母さんとか家族とかが一種の足かせみたいになる時ありますよね。没頭したいんだけど、この人たちのことを考えるとなかなか難しい、みたいなことになって、そこで悩むというのかな、そういう状況、ありますよね。でもイエスは、そういうことについて明確にだめだと言ってるわけです。 だからこれは、家族とかじゃなくて、もう全部ですよ。世に対しての向き合い方をイエス様は言ってるわけです。ひとたび神のメッセージを伝える、その道に生きると決めた人は、この世の友人関係、隣人関係、家族関係、お父さん、お母さん、兄弟、姉妹という自分の身近な人たちの都合を優先すれば、もう行ったり来たりになりますよね、常に。迷う。これをするとこの人がこうなる、これをすると今度はこの人がこうなるからこれぐらいにしとこうかみたいなことですよね。だから、すきで土を耕しては振り向いて、また少し耕しては振り向いて、のようなことを繰り返し、全然まっすぐに耕せない。 このことについてイエスは、自分は地上に剣を投げ込むために来たと仰せです。イエスは地上に剣を投げ込みに来たんですよ。で、剣を投げ込むとどうなるかというと、お父さんと息子は離れて、お母さんと娘も離れて、そして結論的には、「私よりもお父さんとかお母さんを愛したり、自分の子供である息子や娘とかを優先する人は私にふさわしくないんだ」とお示しになった。だからこれ、厳しいですよね。 ということは、イエスが言わんとしているのは、もし自分が本当にこの道だというふうにちょっとでも思ったなら、それはどんなことがあっても貫きなさいということです。たとえどんな反対に遭っても貫く。剣ですよ、イエスは。家族の関係を裂くということです。そのためにイエスは来た。 だけど僕は、ここで考えなきゃいけないと思うのは、イエスがこういうことを言っている目的は、ただ単純に家族が全部仲違いすればいいんだということなのかどうか。 確かに、それが一つの目的ではありますね。要は、人間の世の父とか、人間の世の母とか、つまり、この世を取るのか、それとも神様という存在を取るのかということを迫っているわけで、そして、こんな厳しい言い方をイエスがされているということは、それだけこの世のしがらみが強いからです。そして、我々がこの世のしがらみに生きたいと思ってるから、イエスはこんな厳しい言い方をしてるわけです。 だから、この世のしがらみを断ち切るのは簡単じゃないということですね。もし簡単だったらこんな言い方されませんもんね。 これは、皆様お一人おひとりなにかあると思いますね。お父さんのお葬儀とか、家族に挨拶するというそういう具体的なケースは違っても、皆様お一人おひとり、なにか乗り越えなければならない人間関係があると思いますね。踏み出さなきゃいけないなにかがある。でも、そこで、我々のほうで踏み出せないものがあるというのをイエスは見越して、私は剣を投げ込むんだと、あなた方がただ家族同士で仲良くすることが私が来た目的ではないんだと言っている。 でも僕は、イエスの目的は、はいじゃあ家族全部仲違いしました、お父さんと息子仲違いしました、はいおしまい、ということが最終的にイエスが願っていることではないと思うんですね。というのは、最終的には、イエスは、全人類もれなく神様のもとで一つの家族という本当の家族になってほしいと願っていると思いますよ、当然。 地上に剣を投げ入れて家族をバラバラにするどころか、聖書に書いてあるのとは真反対の、本当は、全人類で一つの家族になりなさいと願っておられて、そして、そのためには、家族で仲良くするというより、人というのは真の救いというものを世に持っていかなきゃいけないと、そういうことなんだろうと思います。 だから本当は、父の葬儀に出るなということは、要は、祖霊様をお祀りしてる場合じゃなくて、目の前の人を救いなさいということを仰せなんです、イエスは。家族に挨拶します、ということも、いや、あなたの肉親の家族じゃなくて、あなたの目の前で苦しんでる、一見他人かのような本当の家族を助けなさいということですよね。 そういう方々こそが我々にとっての本当の祖先なんだよ、本当の家族というのは我々の肉親の家族じゃなくて、我々が他人と言っている人たちこそが我々の本当の家族なんだよと、そういうことです。 今日は祖霊大祭ということで、普通祖霊様というと、自分から遡って一代、二代、三代ぐらいのイメージですけれども、でもそんなのね、これは、今まで我々が持っていた祖霊大祭の意義そのものを否定するみたいになってしまいますけれども、10世代、20世代、30世代ということでどんどん遡ったら、祖霊様なんてもうみんな一緒ですよ。 我々は、遡れば、ほぼ100%共通の祖先を持ってるんです。それを、最後の数世代だけ見て、我々は、「自分は何家だ」とか言ってるわけですが、本当は、今日皆様お一人おひとりの隣に座ってらっしゃる方が親族ですよ、皆様の。 この世のルールに従って、あの人は何親等、この人は何親等とかしてますけれども、そんなのはもう、100のうちの0.0001%ぐらいで、これが私の祖先だとか親族だとか言ってるわけです。だから、本来、黒人も白人も、どんな肌の色の人も我々の親族なんですよ。全人類は一つの親族。イエスとユダヤ民族というのを頂点とした一つの親族です。だから、自分の隣は自分の旦那だけど、こっち側の人は他人だ、じゃあないんですよ、本当はね。 確かに便宜上そういうことは必要ですよね。夜中に急にピンポンって来て、「親族だから泊めてくれ」「いや、ちょっと困ります」となりますよね(一同笑声)。「いや祭典でそう話してたじゃないか(一同笑声)。私もあなたの親族ですから家入れてください」ということを私は言おうとしているわけではないです。 問題は、こういう便宜上のことを本質だと思っちゃうわけですね、我々は。 イエスが言わんとしているのは、お父さんの葬儀に参列できないとか、家族の人に挨拶できないって言うけど、救いに出れば、世で出会う人があなたにとっての大切な祖霊様であり、あなたの真の家族じゃないかということですね。 だからイエスは区別をしてないわけです。〇〇家がどうとか、自分の家族とか他の家族を区別してない。だって神様の視点ですから。 全人類の祖先が一人の中に入っている。一人の人間の中に全人類がもう入っているわけです。 だから、我々はもう救われてますよね。救われた。だから、自分の中にいる全部の祖先はもう救われた。でも、この救いをまだ知らない他人に、「この人の中に自分の祖先も自分の父も母も家族も全部生きてるんだ」と思って救いのメッセージをお伝えして、もしその人物が本当にそうだなということになれば、実はそれが本当に祖霊様を祀る──というとちょっと変な表現ですけれども──ことであり、祖霊様が喜ぶことであり、本当の意味で自分の家族が喜ぶことである。ですね?だって自分の家族はその一見他人と思われる人物の中にいるわけですから。 だからイエスは何も、本当に剣を投げ込みたかったのではなくて(確かにそれも目的の一つではありますが)、本当の意味で人類を一つにまとめようとしてああいうことを言われた。 そういう意味において、我々今日まで、祖霊大祭、祖霊大祭ということで、「自分の何家の祖霊様お願いします」としてきましたが、そういう認識の祖霊大祭はもう今日でおしまいにしたほうがいいんじゃないですか。 だって、我々が一人でも多くの人にメシア教の持っている真理の救いをもたらせば、その人の中に自分の家族も、自分のご先祖様も全部入っているわけですから、それが本当の意味で自分の家族やご先祖様を喜ばせることですよね。 だから、祖霊大祭というネーミングよりも、なんか、「全人類に真の救いをもたらすことを決心するお祭り」みたいな名前のほうが実は祖霊様が喜ぶことなんじゃないかと思いますよ。 というように、神様のメッセージというのは確かに我々に臨んでると思うんですけれども、それを考えた時、我々、明主様が生きておられた時は、それこそ、「生き神様」という感じで、明主様が仰せになることは神様がお話しになっていることなんだという認識でしたよね、間違いなく。 だから、明主様の時代は、今メシア教がしていることよりどんどん変化に次ぐ変化で、教団名を何回も何回も変えたり、機関紙の名前もどんどん変えたりされたけれども、当時の信徒にとってそれはあまり問題ではなかったですよね。なぜなら、中心が明主様ですから、たとえなにか活動を紹介したとしても、とにかく「明主様」というご存在を世の人に知ってほしいということだから、教団名が変わろうとも、明主様がそうおっしゃってるんだから当たり前だ、くらいの感じでしたよね。 信徒の焦点は、神のメッセージを託してくださっている明主様だから、今みたいに、「付いていけません」みたいにもなりませんよね。だって、教団の方向性に付いていけないとかではなくて、明主様が言われることをお受けするのが喜びだったわけですからね。 というように、明主様が生きておられた時は、我々、間違いなく神のメッセージをお受けしていた。ま、少なくとも当時の信徒はそう思ってましたよね。 しかしここで、1955年2月10日、明主様がご昇天になります。そして、明主様のご遺言によって二代教主の時代になるんですけれども、そこで我々の受けとめ方としては、簡単に言えば、明主様のご昇天によって、神のメッセージはそこで止まったという見方が入り込んできたわけですね。止まっちゃった。明主様ご昇天によって、あ、もう神のメッセージはいただけないんだな、神様ご直々のメッセージはいただけないんだなというのが入り込んできた。 その理解になるとどうなるかというと、残された者は、教祖が残した遺産でやっていこうということになる。遺産。だから、なんか、教えを体系化したり、まとめたりとか、そういう整理整頓のほうですね。どちらかというと、整理整頓していこうということになっていく。 そして、整理整頓ということは、「神様は今は生きてない」という見方ですよね。明主様ご在世中は良かったけれども、明主様が亡くなったと同時に、「神様はもうメッセージを止められた」イコール「神様はもう死んでる」という見方ですね。神様は明主様と共に死なれたみたいなイメージ、これですね。 そして、この見方だと教団に命はもう無いですよね、だって神様は生きてないという認識で信徒が進んでいったら、その宗教団体はだんだん滅びていきますよね。だって命が無いから。 というように、教えを体系化するとか、管理するほうに行っていた我々を見て、二代様はやはり危機感を感じられたんでしょうね。それが今日の二代様聖言にもよく現れていますね(「本筋活動に入る」1956年7月1日)。 明主様はご昇天になったからといってどこかに行ってしまわれたわけではなくて、教主である私と一緒にいるんだ、私と一つなんだと、だから、私、教主の言うことは明主様の言われることで、私が示す方向は明主様の示される方向ですよということを二代様が仰せになったのは、要は、神のメッセージは止まってない、神様は死んでないと、そういうことを二代様は仰せになりたかったわけです。 二代様がこう仰せになるということは、二代様は、信徒が、「ああ明主様ご昇天とともに神のメッセージは止まったんだ」と認識しているのを感じ取られて、このままだと教団が滅びるという危機感を感じられて、それでこのようなことを言わざるを得なかったんじゃないかと思いますね。明主様は死んでおられない、教主の座を通して生きて働いておられて、我々は今も神様のメッセージを受け取っているんだ、ということですね。 この二代様の聖言を聞くと、二代様すばらしいことを仰せだと思うかもしれませんけれども、案外この二代様の聖言を受けとめるのは難しいんですよ。 というのは、明主様が生きておられた時はいいですけれども、ひとたび明主様が亡くなって、じゃあその遺産で生きていこうということになった場合、その遺産の中でも、どの部分を大切にするかという方向性がいろいろ出てきますよね。 自分はこれがいいな、というのが出てくる。二代様は、そういう世界に入っていっている私たちをご覧になって、これは本当に大変なことだ、教団存亡の危機だと思われたんでしょうね。 こうなってしまう我々の姿、ま、当たり前ですよね。明主様が生きておられた時は、例えばこういう方向性に進みたいと思っても、明主様が、それはやめなさいとか、これはいいですよと仰せくださる。だって明主様は生きた人物ですからね。 だけど、明主様がご昇天ということになれば、たとえ明主様のみ心から離れていても、この方向性がいいなと思って進んでいった時、誰も、「それ違います」と否定する存在がいないじゃないですか。だから、「明主様の願いはこうです」なんて誰でも言えるんですよ、だって明主様はもう亡くなってるんですから。明主様ご本人が、「それ違うよ」とは言ってくださらない。だから、ある意味においては、二代様は、「私の言うことが明主様の言うことですよ」と言わざるを得なかったわけです。 このことは、明主様もそうだし、イエスも同じですよ。世の中のキリスト教徒の人、みんな、イエスがこう、イエスは愛だ、イエスがなんとかだと言って、明主様についても、明主様こうだ、明主様ああだとしてますが、この地上にはおられない明主様とイエスを出すのは簡単ですね。 だって、自分の思い浮かぶ明主様像を作り上げて、「明主様はこういう人物だ」ということで、だいたい、大多数が受け入れられることを言っておけばいいだろうみたいなことになりますし、実際そうだったじゃないですか。明主様の教えがあって、だいたい全体を見て、「これが明主様のみ心だろう」とか言うけど、1950年に世界救世(メシア)教を開教する前にもし明主様が亡くなってたら、残った信徒の誰も「世界メシア教」という名前を教団名にすべきだとは主張してないですよ、絶対。あるいは「浄霊は二の問題」とかも絶対言える人はいない。つまり、明主様が仰せになることは、大多数の人が思わないことを仰せになるわけだから、今、多くの人が、「今の明主様のみ心はこういうことだろう」という方向は全部間違えてますね。 イエスのことも、イエスは愛だ、イエスはこうだと、世界中のキリスト教徒はみんなやってますよね。イエスはあなたのことを愛してるとか、そういうこと、言いたい放題じゃないですか。言いたい放題。だって、イエスを代理する人物がこの地上にいると思ってないから、「それは違うよ」と言われる機会も無い。 というように、みんな、それぞれが思い描くイエス像、明主様像をもって信仰活動をしている。 でも、イエスがしたのは、まさに、生きた神の代理として、「それは違うよ」とされた。当時、いわゆる旧約聖書の中にある神の教えの「遺産」に生きていたユダヤ人──パリサイ人とかもいますが──そういう人たちを真っ向から否定したわけです。真っ向から否定した。 これがパリサイ人とかユダヤ人にとっては都合悪かった。それまで自分たちが築き上げてきた、自分たちの思い描く神様像があって、それで誰にも文句を言われないで来てたわけです。自分たちは律法という神様のルールを守ってると思っていた。そこに、「どんなに律法を守ってたって全人類罪人じゃないか」ということをイエスに言われてしまい、これが結局都合悪いということでどうしたかといったら、イエスを殺したということですね。殺した。 イエスは、そういうパリサイ人の姿が分かるから、「私を受け入れる者は、私を遣わした方を受け入れるんだ」と言ったわけですね(「マタイによる福音書」第10章40節)。だから、「私は神の権威でいろいろしているんだ」ということを言ったわけです。 今は理解しがたいかもしれませんが、イエスは生身の肉体を持った存在だったんですよ。そして、イエスを受け入れる者はイエスを遣わした方を受け入れるんだということを言った。だからこれ、「私が言うことは明主様の言われることだ」という二代様が仰せのことと一緒ですね。イエスは、二代様と同じことを言ってますよね。私が言うことは明主様の言われることだというのと、イエスの、私のことを受け入れる者は私を遣わした方を受け入れるんだというのは同じことですよ。二人とも同じことを言っている。 そして明主様は、ご自分はイエスの予言を成就しに来た存在だということを仰せですよね(「天国予言の具体化」1950年3月20日)。イエスの業を完成させに来たのが明主様である。 ということは、イエスから明主様、明主様から二代様、三代様、現教主様、そこから教主代行の私、というところまでつながるわけですから、今私が進めていることについて、「この真明という人が言っていることはなかなか受け入れられないなあ」という小さい話ではないんですよ、実は。 私が今この場に立って皆様にいろいろお話ししているのは、私個人の、私的な立場でしていることではない。皆様のお支えと教主様の権威によって、公的な立場としてここに立たせていただいている。 だから、ただ私を受け入れたってしょうがないんですよ。ただ私を、「真明という人を受け入れます」、では意味が無いんですよ。そうではなくて、私を受け入れるということは私を遣わした方を受け入れるということですから、私を教主代行に任命したのは教主様です。ということは、私を受け入れる人は教主様を受け入れることになり、その教主様をお遣わしになったのは誰かといったら三代様ですよね。三代様が教主交代するということで今の教主様に託された。で、三代様は二代様。二代様が託された。二代様は明主様の遺言によって教主の座を継承されましたから、二代様を受け入れる方は二代様をお遣わしになった明主様を受け入れることになる。で、明主様を受け入れる方は当然イエスを受け入れることになるんですよ、だってイエスの業を成就しに来たのが明主様なんですから。そしてイエスを受け入れるということは、究極的には神様ですね、神様を受け入れることになる。だから、そこにあるんです、筋が。 ただ、「教主が代わったんですね」ということではないんですよ。今までの教団の変遷ありますよね。明主様、二代様、三代様、現教主様、そして今。この中で変遷はいろいろある。でもそれは、結局全部神様から出てることです。 時代時代の教主が進めた一つひとつのことを取ってああだこうだと言い出したら、それはもう人間の都合でどうにでもなりますよね。いや、この教主が言っていることはいいけれどもこの教主が言っていることは嫌だと言ったら、もうそれはその方が自分が教主になっているわけです。じゃああなたご自身で一宗立ち上げてくださいということになりますね、それなら。 クリスチャンヴィーガンということも、この間のメシア降誕祭で、「真明提唱の」と言わずにクリスチャンヴィーガンという言葉を使うべきではない、という話をしましたが、そのように出どころを隠してやりたいという思いの中に、今ずっと話してきている、明主様が亡くなったあと、教えを遺産と捉えて、自分たちのやり方で進めたいという思いと同じものがあると思いますね。要は、今この世にいて進めている人物を中心にするのではなく、「教え」とか「活動」をもってやっていきたい、という思いですね。 でも、明主様の時代は今言ったようにそうではなかったんですよ。もちろん活動はしてましたよ。だけど、多岐にわたる活動があっても、明主様が進めておられるわけだから、いろんな変化があってもみんな柔軟に付いていったじゃないですか。中心が明主様だから大丈夫なわけです。 でも、明主様後の教主様ということになると、そういう認識が無くなってしまって、だから教団浄化とかが起きるわけです。「今の明主様の願いはこうだ」と言っても、「いや、自分たちは遺産を守ってて、遺産の中ではこれが最も大切だから」としたいから、結局、「じゃあ教主様出てってください」としましたよね。 クリスチャンヴィーガンということも、いや、もちろんそう簡単にクリスチャンヴィーガンを撤回することはないけれども、もしかして全然方向性が違うことを打ち出すということは十分あり得ますよね。神様からのメッセージが来て、本来こうだとか、そういうのはいくらでもあり得る、だって明主様の時代だっていっぱい変わったわけですから。 そういうことがあるから、今日の祝詞で、「教主の座を世に伝道」という内容が入ってきたわけですね。そちらのほうが大事じゃないかと思うわけです。 我々の意識が、「教え化」するとか、食のことについて伝道するとか、クリスチャンヴィーガンのことを伝道するとかとなると、やはりどうしても命の無いものになってしまう。本来最も大切なのは、「神様が今メッセージをくださってること」であるはずなのに、なんか人間的な都合で、浄霊が好きだとか、こういう活動が好きだとか言って、そういうふうに、活動を主体にしたい我々の生き方があるじゃないですか。 だって二代様はあのように仰せになってたけれども、結局そのお心は実現しなかったんですよ。だって、二代様から引き継いだ三代様の時も、教主様のご存在に対してよく分からない姿勢で教団浄化が巻き起こって、結局現教主様の時に救世教は教主様を追い出しちゃったじゃないですか。 それぐらい我々は、なにか言われてしまう存在──生き身の明主様であられる教主様──がいるというのが都合悪いわけです。明主様が残されたものから自分の都合いいものを取って、それで生きていきたいというのが潜在的というか、潜在的じゃないですね、自分の中心にどっかりとあるからね。 だって、教主様いらっしゃったら、教主様に対して、「明主様のこの聖言はこういう意味です」と言ったとして、「違います」と言われちゃうじゃないですか。「合ってます」とか「違います」とか言われちゃう。我々その存在欲しくないですよね。要らない。だって自分が好きに解釈したいじゃないですか。 だから我々は、すぐ、「ああ、クリスチャンヴィーガンだ」とか「キリスト農法だ」とか言って活動のほうに思いが向いちゃうんですけれども、もし我々が本当に今、明主様時代と同じように、教主の座を通して神からのメッセージを受け取っているのだとしたら、そのこと自身が最も大切なことですよね。 そして、もし今、神のメッセージを受けているとしたら、すべては神様の御心に貫かれているわけですから、たとえどんな活動があったとしても、そのすべては神様のためですね。神様のため。 例えばクリスチャンヴィーガン。このクリスチャンヴィーガンというのは神様のために存在してるんですよ。動物のためじゃない。まあ人間の健康とかそういう側面もいろいろありますけれども、もし我々が神様からのメッセージを受け取っているのだとしたら、クリスチャンヴィーガンのみならず、キリスト農法も、歌も、すべての我々の活動は神様のためなんですよ。 普通ヴィーガンというと動物のためですよね。動物愛護というか動物を救うためとされている。でも我々のクリスチャンヴィーガンは神のためですよ。神のためということは、じゃあその神が何を願っておられるのかというと、ご自分の子供たち──我々人間ですね──が神様のもとに帰って新しく生まれることなわけですから、つまり、クリスチャンヴィーガンの目的は神様のためであり、人類が等しく神様の子供であるメシアとして新しく生まれるためである。 だから、ある意味においては人のためなんですよ。クリスチャンヴィーガンは人のため。あくまでもその副産物として、健康のこともあるし、地球環境も良くなるし、動物も救われるということがあるんですね。動物が主ではない。 だから僕、クリスチャンヴィーガンは、世界で唯一、動物のためではなくて人のために存在しているヴィーガンだと思いますね。ヴィーガンというとみんな動物のためと言いますから。 ヴィーガンというとみんなすぐ栄養がどうだとか言いまして、今日は栄養に関する話はあまり突っ込んでしないけれども、でも、少なくとも、例えばテニスプレイヤーのジョコビッチ。男子テニスで、最も勝つのが難しいグランドスラムを一番勝ってるのが彼ですが、彼はヴィーガン食ですよ。テニスという、筋力、持久力、瞬発力などが極限まで求められるスポーツで最も成功している人物がヴィーガン食。 あるいは脳の神経ということで言えばモータースポーツのF1。このF1で歴代最多優勝を誇っているのが、これが、イギリス人のルイス・ハミルトンという人ですが、彼は完全なヴィーガン。食事もヴィーガン食。 かの有名なカール・ルイスも、人生で一番パフォーマンスが良かった時の食事はヴィーガン食だったと言ってますから、ヴィーガン食の栄養に対する批判は、もうこれだけで説明要らないですよね。でも今日はその話はちょっと置いといて。 神のために生きるというと簡単そうですが、我々は今まで、人や社会のために尽くし、人とか社会が喜ぶのが、神様が喜ぶことなんだというふうにしてきたと思うんですね。 「人とか社会のために尽くすのが神様のためなんだ」としてきた。これ、一見聞こえはいいですよね。多くの人が喜んでいる状態を見て、「これだけの人が喜んでるんだから神様はきっとお喜びだろう」という見方。みんなでなにかの活動をして、みんな笑顔で笑ってるというのを見て、ああ、きっと神様はお喜びなんだろうという見方。でもこれは、「人主神従」ですね、この生き方は。人が主ですよね。 人の喜びを見て、「人間が喜んでるなら神様もお喜びだろう」というのは、「霊主体従」ではなくて、人が主で神が従の人主神従ですね。 人主神従というのを言葉として聞くと、とんでもない不敬だなと思うかもしれませんけれども、これが我々の生き方ですよ。もうそうやって我々は生きてる。神様のことよりも、自分の身の周りの人の喜びを優先した生き方してますね、我々は。 我々が救世教時代ずっとしてたMOA活動はそれの最たるものですね。要は、方向として、できるだけ多くの人に受け入れてもらう。社会に受け入れてもらう。で、そうしておいて、社会とか人が受け入れてるんだからこれでいいんだというあり方。これは、人主神従ですね。 でもイエスは、自分のことを人の前で話せと言ってますよ。人前で私のことを話すなら、あなたのことも天上で受け入れてあげるよと言ってる。だから、隠すなということですね。 でも、隠すと、人が喜ぶみたいになるじゃないですか。宗教を隠すと、なんか受け入れてもらえるみたいになる。ま、その落とし穴に長年はまり続けてきたのが我々の歩みであったことは認めざるを得ないと思いますね。それは否定できない。 でも、神様のことを人前で隠すなということは、我々の文脈で言えば、「宗教を出しなさい」ということですよ。世の人に対して宗教とか神様を隠せば、あなたは天上では受け入れられませんよと、そういうことです。 そう考えると、日本だと宗教を出すと嫌われるなら、我々は、日本で一番嫌われる宗教団体になるべきだなと思いますね。もし宗教を出すことによって批判を受けるなら、日本で一番批判を受ける宗教になるべきだと、私はそう思います。神様を出すことで批判を受けるなら、そういう批判を受ける宗教になるのが本来我々が目指すべきところだと思いますね。 我々は、人のため、社会のために生きていくことによって生き残れると錯覚してるんですね。人のため、社会のために生きていくことで命を長らえることができるんだと思い込んでる。 でもね、本当は、神様から、「お前たちが必要だ」と言ってもらわなければもう終わりなんですよ。それ、ほとんど考えないじゃないですか。むしろ、人間から「必要だ」と言われることばかり考えている。 人間から必要とされることがいいことだ、それが喜びだみたいになってる。で、その落とし穴に入ったら、もうずっとそれで行きますね。神様ではなくて、社会に喜ばれる活動、人に喜ばれる活動をしていくだけ。 でも、我々にとって最も大切なのは、神様が、「世界メシア教のあなた方、あなた方は私にとって必要だよ」と言ってくださるかどうかですよ。 でも、そこ、我々は錯覚していると思いますね。できるだけ社会とか多くの人に知られて、そうすれば、人間関係のつてとかそういうことで、なんか危機があってもそういう人に相談して、じゃあちょっと大目に見てもらおうとか、ちょっと融通利かせてもらおうとか、そうやって生き残れると錯覚している。思い込んでいる。 でも、そんなのよりもっと力があるのは、神様からの「お前たち必要だ」のひと言であって、それは、人間がどうとかの何百倍、何千倍も超える力を持ってるんですよ。それ、我々思ってないですよ。神様に必要とされる宗団でありたいというの、結構無いですよ。というか、今日までは無かったというのかな。 そんなことなど考えずに、社会に受け入れられること、人に受け入れられること、これを主体としてきた。 またみことの話なんですけど、この間家で、夕食の前、みことがもう「お腹空いた、お腹空いた」「Hungry! Hungry!」(一同笑声)と言って、そんな中夕食の支度をしてたのですが、それで、当然ご飯は山盛り。我が家ではおかずはほとんど無くてご飯がご馳走だから、お茶碗山盛りのご飯を彼の前に置いたら、すぐ椅子に飛び乗って、いや、夕食の時間が遅れるともうキレるぐらいですよね(一同笑声)。ま、キレるという表現は適切じゃないけれども、とにかく夕食というものに対しての情熱(一同笑声)、お米に対しての情熱がすごいから、非常に大騒ぎするんだけど、とにかくお米の準備ができて、彼が椅子に飛び乗りました。目の前には山盛りのご飯。 で、その時私も支度とかいろいろしてて、ちょうどテーブルに空の茶碗が一つあったんですね。空いてるご飯茶碗。で、彼がずっと「お腹空いた、お腹空いた」と言ってたから、半分冗談で、空のご飯茶碗を彼に見せながら、「あれ?みことはいっぱいあるけどパパ何も無い」とか言ったんですね。 そしたらみことが、大変だと思ったのか、パパがかわいそうと思ったのか、間髪いれずに自分のスプーンを取って、自分の目の前にある山盛りのご飯のど真ん中にスプーンを突っ込んで、半分ぐらい分けようとしてくれたんですね(一同笑声)。優しいよね(一同笑声)。 それも、スプーンの刺さった位置からすると、50・50ということで半分に分けるというより、パパ分のほうが55、56%で、残りの40%ちょっとが自分ということで、自分が食べるより多く僕に分けてくれようとした。 いや、これは、僕の息子優しいでしょという自慢の話じゃなくて(一同笑声)、でも、すごいと思った、本当に。彼はずっと待ってたのに、あんな食べたかったものを、パパが無いと思った瞬間迷わずスプーンで山盛りのご飯を半分以上分けてくれようとした、というそのシーンが僕の目の裏に焼き付いてますね。 で、僕が思ったのは、これは、彼が優しいねという話ではなくて、要は、彼はまだ3歳で、天上から離れてそんなに時が経ってないから、これは神様の性質だなと思ったんですね。神様というのはすべてを平等に分け与えられたいんだなと、そのことを思いました。 ま、子供は今言ったようなこともするし、そうじゃない時もあるし、いろいろだけど、少なくとも、大人だったら絶対しないですよね。大人は、自分が絶対これ食べたいというものがあって、目の前の人が無いと言った瞬間、自分の半分以上も間髪いれずに分け与える人はなかなかいないですよね。歯食いしばりながらやる人(一同笑声)、やせ我慢でやる人はいるけれども(一同笑声)、子供みたいに純粋にする人はいないですよね。 だから、すべてを分け与えるというのが神様のご性質だとしたら、やはり我々は、神様のもとに帰って一つにならなきゃいけないと、そう思った。だって人間の性質はもう争い、争い、争いですからね。そこからは逃れられない。どんなにいいことを言っても逃れられないですね。愛とか利他愛とか、人にいいことしましょうとか、どんなにいい標語を作っても、どんなにいい活動をしても、その争いの性質からは逃れられない。 だから神様のもとに帰るしかないんだけど、そんなことを思ってたら、みこともそうなんだけど、子供って、主にお母さんですけれども、いつも、「抱っこ、抱っこ」となるじゃないですか。「抱っこ、抱っこ」と言ってる。で、お母さんとかお父さんが抱っこすると安心して泣きやむ。それを普通我々は、「まだ子供だから」みたいな見方をしますよね。 でも僕が思ったのは、我々は、天上にいる時は──この地上に生まれてくる前は──神様と一つでしたよね。その記憶はもう無いけれども神様と一つだった。もうピタッと一つだったんですよ。だから、思いっきり卑近に例えると、要は神様に抱っこされて神様と完全に一つとなってた状況だったわけです。我々は天上で、神様と一つだった。 神様と一つですから、最大の安心ですよ。全人類、天国で神様に抱きかかえられて、最大の安らぎと喜びと安心の中にいたわけです。 僕、以前もこの話をしたことがありますけれども、赤ちゃんは生まれてきた時に泣くじゃないですか。それは、世間では呼吸がどうとかの説明がありますが、本当は、神様との別れを悲しんで泣いてるんじゃないか、それで泣いてるんだと思うという話をしました。 抱っこのことで言えば、要は、天上で神様に抱っこされてたのに、地上に来る時にそれが終わってしまう。それまではずっと神様に抱っこされてた。神様は我々の本当の親ですよ。その神様、つまり自分の本当の親にずーっと抱っこされてたのが、この地上に生まれた瞬間突然それが無くなってしまうから、だからぬくもりが恋しくなるわけですね。神様のぬくもりが恋しい。だから子供たちはこの地上で「抱っこ、抱っこ」と言ってるんじゃないかと、私はそれを思ったわけです。 親が抱っこすると子供は安心しますよね。だからそれは思い出すからですよ。天上で神様に抱っこしていただいてた時のことを思い出すから、それで安心して泣きやむ。まあオムツとかお腹空いてたら簡単には泣きやまないけれども、でも普通、親が抱っこすると落ち着きますよね。だからそれは、天上のことを思い出してるからですね、無意識に。 もちろん、数年ぐらい経ったらこの抱っこ欲というのはだいたい落ち着いちゃうけれども、それまでの時の長さに比べたら一瞬ですよね。だって、この地上に生まれてくる前まで、何千、何万年、いやもっと長い悠久の時を神様と一緒にいて、それに比べたら本当に短い、たった数年でその抱っこ期間も終わっちゃいますよね。もう、5、6、7歳ぐらいになったらだんだんそういうことを要求してこなくなる。 神様から離れちゃって、本当は神様に抱っこしてほしいんだけど、いないから、その代わりとなる肉親に抱っこしてもらう。それで寂しさを癒してたんですよ、我々は。我々全員そうだったんですよ。当たり前ですけど、我々昔全員赤ちゃんだったからね。 そのようにだんだん成長し、親に抱っこしてもらわなくてもいいみたいに独り立ちしてくる。そして、12歳、13歳ぐらいになると、今度は自力で神様のもとに帰んなきゃいけないという、その道がスタートするんですね。 赤ちゃんの時に神様を求めて「抱っこ、抱っこ」というのは、ある意味自分の意思では無かったけれども、これくらいの年齢になると、今度は、自我意識が獲得された状況で、自力で帰るというのが12、13歳ぐらいから始まるんですね。 だって、メシア教でも中学生ぐらいになったらもう「おひかり」いただけますもんね。ということは、あとはもう自力でやれということですね。もう親とかの庇護下にはないと、そういうことです。あなた自身の力で信仰の道に生きなさい、神様のもとに帰りなさいということになるわけです。 でも我々は、この時に気づくんですね。何に気づくかというと、まず、ああ、帰んなきゃいけないと思うわけです、本能的に。いや、意識的には思ってないですよ。思ってない。でも、本能的に思うんですよ。 天上ではずーっと神様に抱っこしてて、次地上に生まれたら、ああ神様のところに帰りたいと思ってずっと親に抱っこしてた。 でも、地上の親に抱っこしているだけでは、あ、これでは神様のもとには帰れないんだということに気づくわけです。赤ちゃんの時は、親に抱っこすることで親のもとに帰る疑似体験をしてたんだけど、これでは本当の意味では神様のもとには帰れないんだ、だから自力で帰らなきゃいけない、と思い始める、本能的にね。 肉親の親を抱っこすることで神様のもとに帰っている疑似体験をしてたんだけど、それを3、4年ぐらい続けた結果、ああ、これでは神様のもとには帰れないんだということをだんだん自覚して、で、12、13歳ぐらいから、あとは自力で帰ってこいということになるわけです。 でもね、そこで気づくんです。何に気づくのかというと、昔自分が神様といた時は、自分は男、女、この二つが一つのものとして神様と一緒にいた。男性性と女性性二つで一つ、あるいは、父性と母性二つが一つという言い方もできますが、そういう状態で神様と一つだった、ということを我々は本能的に知ってますから、いや、全然それ考えてないですよ、そんなこと考えてほぼすべての方々は生きてないけど、でも、それが本能的に分かるから、だから、何に気づくのかというと、「自分一人では帰れないな」ということに気づくわけです。 だからそこから始まるんですよ。12とか13とか、それくらいの年齢から異性とのことが始まるじゃないですか。思春期といって、異性の人の興味を惹きたいとか、なんとか異性と一つになりたいという気持ちが出てくるじゃないですか。だからそれは、神様のもとに帰るために、自分の反対性と共に帰んなきゃいけないということが直感的に分かるからです。だからそれ、すごい努力しますよね。いわゆる「恋愛」ということで、相手を一生懸命探すじゃないですか。必死に探す。なぜそんな必死に探しているかといったら、異性と一つになって、天上に帰って、神様と一つになって、昔抱っこして得てた神様との安らぎを得たいがためなんですよ。 神様のもとに帰るためには自分の片割れと一緒に帰んなきゃだめだということが分かるから、だから必死になって探すんです、異性を。でもそれ、うまくいく時もあるし、うまくいかない時もあるけれども、それは究極的には関係無いんですよ。 でもね、例えばこの世で理想の異性と出会えて、で、結果子供が生まれる。いや、だからそれが新しく生まれるということですよ。だって、あなたは一人だったのに、反対性である異性と出会って子供生まれる。新しく生まれてるじゃないですか。これが「新しく生まれる」ということですよ。この世で真似事しているだけですね。 話少し戻しますけれども、この世では、自分の片割れと出会ったり出会わなかったり、それはいろいろですよ。出会うことがその人が神様のもとに帰るために必要であればそうなるでしょうし、そうでなければそうはならない。 我々は、一生懸命その片割れを求めて、探しに探しますよね。で、場合によってはこの地上では自分にはその片割れがいないとなったとしても、神様は、「いや、あなたの理想の片割れはあなたの中に用意してあります」ということを仰せなんです。あなたの中にいるじゃないかと仰せなんです。 だから、大どんでん返しですよね。我々は、「自分は男性だ」とか「自分は女性だ」ということで必死になって異性を求めて、片割れがいなきゃ帰れない、大変だと思って一生懸命探したんだけれども、神様は、「あなたの中にあなたの最も理想とする異性を用意してあるんだよ」と、そう仰せなわけです。 だから、それを成し遂げるため、もしこの世で結婚というのが必要であれば結婚の形を取らされますし、別に結婚というのが必要なければ結婚しないということもあり得ますよね。 でも、この世のことは関係無いんです。とにかく我々は、我々の内側にいる片割れと出会わなければ神様のもとには帰れないんですからね。 だから、我々が目指しているのは本当になんてことはない、思い切って言っちゃうと、赤ちゃんがお母さんとかお父さんに抱っこしているあの姿ありますよね。あの姿が我々が目指してることなんですよ。 いや、もう想像もつかないですね。それが我々の根本的な教えなんですよ。この世の中で起きていることとか、この世の親子の愛情とか恋愛とか、このすべてが、神様のご神業というのに全部現れている。貫いている。 というように自分の理想の異性と出会って神様のもとに帰りたいんだけど、問題は、我々もう汚れちゃってるじゃないですか。我々の中にいる我々のご先祖様のいろんな罪はもちろんあるけど、そもそも自分の人生も汚れてるじゃないですか。我々の人生を考えて、自分は一回も嘘ついたことない、いいことしかしたことないという人いないですよね。だから、異性と一つとなるために、この「メシャハ」という御名を体現したイエスという存在をどうしても受け入れざるを得ないんですよ。 そして本当は、イエスを受け入れなきゃいけないというのは分かってると思いますね、人類は。だって、簡単に言えば、みんな帰って神様に抱っこされたいんですからね。 いや、皆様、神様の深い教えが、こんな簡単な言葉で教えてもらえるのは、これは普通なことではないんですよ。だって、「お母さんが赤ちゃんを抱っこしてるのが我々が目指してることなんだ」なんて、そんなことどこも教えてないじゃないですか。 クリスチャンヴィーガン食と言ったってなんてことない、食事の時に、イエスが最後の犠牲だったんだなということでイエスを受け入れるわけですから、そうなれば、自分の生活すべてにイエスを受け入れるということになるんですから、神様と一つになるという我々にとっての幸せは近づきますよね。 今の世の中、お見合いはあまりないかもしれないけれども、お見合いの時、普通、ちょっとなんか問題抱えてたら破談みたいになりますよね。我々は、だいたい取り繕ったプロフィールみたいのを用意して相手に渡してますけれども、もし全部正直に書いたら、そして、もし世界がお見合い制度のみだったら誰も結婚できないですね(一同笑声)。 自分の人生全部正直に書いたら全部破談ですよね。でもだいたい我々は取り繕ったプロフィール用意するから、何が何級ですとか、こういう資格持ってますとか書いて、そうすると、「いやあすばらしいですね」となるけれども、そこには書いてない部分が全部あるじゃないですか。それを出したら全部破談ですけれども、というように破談にならなくていいようにしてくださってる存在がイエス様なんですから、イエスのことを受け入れなきゃいけないということを我々は本能的に分かってる。 今、こういうことを私皆様に話していますが、このことは、まさに「今」、神からのメッセージとして、私自身も、皆様と共にお受けしているんですよ。皆様に話す内容については、なんとなくイメージしてたことはあるけれども、イメージしてなかったこともたくさんありますから、話しながら共に神様のメッセージをお受けしてるんですよ、私も。これは大変な幸せですね。 しかも、幸せと言ったってなんの複雑なことでもなくて、我々にとっての幸せとは、忘れてるかもしれないけれども、赤ちゃんの時にお母さんとかお父さんに抱っこされてる時の幸せというのは、今大人になって我々が感じている幸せよりもっと深い幸せだったと思いますよ。でも、その幸せよりもさらに勝る幸せである、「神様に抱っこされる」という幸せがあるわけです。まあ、「抱っこ」という言葉がなんか赤ちゃんのお世話みたいな言葉になっちゃうけれども、要は、神様と一つになるということですね。その幸せ、安らぎ、喜びはもう計り知れないんですよ。 その幸せを今我々知ったじゃないですか。神が臨んでこられて、このメッセージを今知った。だとしたら、あとはもう伝道しかないじゃないですか。こんなに幸せなことを教えてもらったら、一人でも多くの人に伝えたいという、その伝える相手が幸せになったら、その人の中にあなたのご先祖様も全人類も含まれているんですから、だから、伝道させていただくのは、ご先祖様のためであり、人類のためであり、イエスのためであり、自分のためでもあり、最終的には神様と一つとなって新しく生まれるためでもある。 とにかく、神様は生きておられますから。とにかく、生きておられる。その生きた神様が今我々に臨んでくださってるわけですから、なんか、自分の数世代前の祖霊様がどうとか、社会に批判されるとか、そういう概念は全部取っ払って、もう赤ちゃんは素直ですよ、自分の欲に。だから我々ももう一回赤ちゃんのようにならなきゃいけないんです。具体的には、「神様と抱っこしたいです」と思わなきゃだめなんです。ということは、「イエス様をお受けして自分の片割れと一つとなって帰ります」ということしかないですね。 ま、こうやって言葉にすると簡単なことのように聞こえますけれども、こういう言葉の中に皆様一人ひとりが本当に幸せになれる波動が詰まってますから、そしてその波動を今日この場で我々は共にお受けしたんですから、自分の周りにいる一人でも多くの人にその波動をお届けしたいですよね。 我々は、「神の愛に共に帰ろうじゃないか」という波動、これを携えて、神のもとにある人類の幸せな世界、これを共に造ってまいりましょう。よろしくお願いします。 ありがとうございました。