あけましておめでとうございます。 我が家では、例年通りと言いますか、初日の出を見ようと思ってカーテンを開けたら、外、全然雲が無くて――普通、少しは雲がある時もありますけれども――今年は全く雲が無くて、いやぁ、幸先いいな(一同笑声)と思いまして、それで初日の出を家族で見ました。一人寝てたんですけれども、私たちが「初日の出だ」と大騒ぎしてるうちにその子も起きてきて、でも、初日の出を見たらまた寝ました。二度寝(一同笑声)ですね。 そのあと、ありがたいことに、妻が作ったいわゆるヴィーガンおせちとか餅とかを食べまして、でも、あんまり食べ過ぎないようにしました。お腹いっぱいだと、祭典で話す時の集中力大丈夫かなと思って、適切な量を食べてきました(一同笑声)。くだらない話ですみません(一同笑声)。 裁判が終わりまして、世界救世(きゅうせい)教が13億円、世界メシア教に払うということになりましたね。 13億円と言いますけれども、それプラス、今世界メシア教が全国で使用している世界救世教名義の土地と建物は、世界メシア教の名義に変わるんですね。それが数億円分ありますので、13億プラス数億円で20億円弱ですね。 ちなみにメシア教側は1円も払わなくていいんですよ、だから13億円対ゼロですね。20億円弱対ゼロというのでしょうか。 我々のほうは、今日祭典を行っているここ、この本部から出ていくということですけれども、これは、以前もちょっとお伝えしたように、この場所は、まあ、すばらしい場所ですけれども、おそらく、世界メシア教の皆様が集まるのにもっとふさわしい場所があると思いますのでね、だからそれも、皆様としてはいいこととして捉えられたらどうかなと思います。もっとすばらしいところをみんなで建てようと、そういうことですね。 裁判の大きな流れを振り返りますと、これはまず、皆様ご存じのように、2018年1月30日に、世界救世教が、包括被包括関係というのがあるのですが――これはちょっと複雑な言葉ですけれども、要は、世界メシア教は世界救世教に包括されてる、世界救世教につながる団体だということ――だったんだけれども、それについて世界救世教が、世界メシア教はもう世界救世教ではないという責任役員会の議決をしたのがこの2018年1月30日ということです。 もちろんその後同じ年の6月22日に、世界救世教は、岡田陽一教主様の推戴取り消しということも議決しました(編集注:現在の世界救世教教主は五代教主でヒンズー教学者の渡瀬信之氏。ただ、岡田家の許可なく勝手に岡田姓を名乗り、岡田信之教主と称している)。 だけど、世界メシア教の立場としては、2018年1月30日の世界救世教の議決について、この議決はおかしいということで裁判を起こしたわけですね。我々はまだ世界救世教につながってる存在だよということを主張した。一方の世界救世教側は、自分たちの責任役員会の議決は正しいんだということを主張して、これが司法上の争いになったわけです。 日本は三審制(地裁、高裁、最高裁)を取りますので、一審がまず地方裁判所の沼津で行われまして、審理の結果、我々の起こした訴えは「棄却」されました。棄却。 僕も今回初めて知ったんですけれども、棄却というのは、裁判所が双方の主張をしっかり検討した上で訴えを退けるということなので、今回のことで言えば、我々世界メシア教側の訴えは認められないとなったわけです。つまり、世界救世教の2018年1月30日の議決は正しいという判決だった。世界メシア教が間違えていて、世界救世教が正しい、これが沼津地裁一審の判決。 それに対して我々は東京高裁に控訴というものをしまして――難しい裁判用語を連発しておりますけれども(一同笑声)――控訴というものをしまして、今度は地方裁判所から高等裁判所に舞台が移ったわけですね。 もちろんその先には最高裁判所があるんですけれども、最高裁判所は、事実上、憲法判断ということしかしないということで、その正確な意味は私には分かりかねますが、とにかく、この高等裁判所での議論が事実上最後の舞台だったわけです。 ここでどういう展開になったかといいますと、東京高等裁判所は、「沼津地裁の一審の判決に疑義がある」ということを言われて、したがって、「棄却ではなく却下とする」ということになった。 疑義は難しい言葉なので(一同笑声)、簡単に言えば――非常に平たい言葉で言えば――沼津地裁の判決がちょっと間違えてますよということですね、と私は受けとめております。 そして東京高裁は、「却下なので和解したらどうですか」ということを言われるわけなんですが、その時一番最初に僕が思ったのは、「棄却と却下と何が違うんだ」と、そのように思いました。 「ききゃく」も「きゃっか」も、両方とも、「き」と、なんか小さい「や行」みたいのと、「か行」のなんか(一同笑声)の言葉で成り立ってて、こんなのほとんど同じ言葉じゃないか、ひらがなで書いたらもう読み間違えるぐらい、ほとんど差が無いじゃないか(一同笑声)と思ったんですけれども、これはもう雲泥の差があるんですね、実は。 第一審で出た「棄却」というのは、裁判所で審理をし尽くした上で下される判決、これが棄却。一方の「却下」というのは、裁判所はそもそも審理もしない、検討もしない、ということです。 今回の場合は、特に、高裁としては、宗教上の問題だから審理できない、なので却下だと、そういうことでした。だから、ま、門前払いということですね。我々の訴えはもう門前払いだと、審理もしないと、そういうことです。 そうだとすると、「なぜ却下になると救世教はメシア教に20億近い負担をしなければならないのか」という疑問が当然湧いてくると思うんですけれども、その説明の前に、まず確認しておきたいのは、高裁が却下ということを示唆したということは、少なくとも、もし世界救世教の2018年1月30日の議決が法的に正しければ、高裁においても、当然、却下ではなく、一審の判決は維持されて棄却ですよね、そのまま棄却。世界メシア教側の訴えは正しくないですよ、世界救世教の議決は法的にちゃんとしたものですよ、なので棄却ですよ、となるわけです。 でも、却下を示したということは、要は、世界救世教の、この、包括被包括関係を切るという議決は法的に維持できるものではなかった、ということですね。これは間違いないですね。 もし2018年1月30日の議決が本当に法的に正しかったなら、世界メシア教が何を言ったとしても世界救世教の議決、主張は法的に正しいんだから棄却だと、そうなったはずです。 世界メシア教――当時は世界救世教主之光教団ですけれども――それを追い出した議決、あるいは教主様の推戴取り消しの議決:世界救世教側はそれらの議決は正しいと主張してたんだけれども、高裁がこのたび却下の意思を示したということは、要は、それらの世界救世教の議決は法的に維持できるものではないと、そういうことです。 で、却下という方向性になるとなぜ和解という話になるのかという疑問についてですが、説明しますと、世界メシア教の訴えは宗教上の問題なので門前払い、却下だと。でも、世界メシア教と世界救世教の間には他の裁判もあるわけです。メシア教側が救世教を訴えている裁判もあれば、救世教側がメシア教を訴えている裁判もある。例えば、メシア教は世界救世教の聖地から出ていきなさいという、いわゆる立ち退き請求の裁判をメシア教に起こしている。 そういう中にあって、今回の裁判において東京高裁で、宗教上の問題なので却下だとなりますと、では例えばこの立ち退き請求裁判がどうなるかというと、まず沼津地裁では、当然、東京高裁のほうが上位ですから、高裁の判断である「宗教上の理由なので却下」という判決を尊重しなければなりませんので、ほぼ却下の判決が出るだろうとなるわけです。 万が一地裁で却下が出なくても、審理が進んで東京高裁に舞台が移れば、高裁としてはすでに今回の裁判で一旦却下を出しているわけですから、救世教側の訴えも却下になるわけです。その可能性が高い。 だから、この、世界救世教の聖地内にある本部から出ていきなさいという立ち退き請求裁判も、また、皆様メシア教が使用しておられる救世教名義の拠点から出ていきなさいという裁判も、却下の判決が出る可能性が極めて高いと、そうなるわけです。 ということは、もし今回我々が和解をしないで却下判決が出ることになれば、我々は、ここが本部だとずっと言い続けることになりますし、全国で皆様方が使っておられる救世教名義の場所――もちろんこれは一部ですね、世界メシア教として持っていたり借りたりしている場所が他にたくさんありますので――この世界救世教名義の土地や教会ということについての立ち退き請求裁判も却下になりますので、要は、法的には放り出される状況になります、司法判断は下されないということですから。 そうするとどうなるかというと、一つは、この膠着状況がずっと続く。裁判所としては、救世教のしたことは法的には認められないしメシア教の訴えも聞かない、なので司法判断は下さない、そして、これは宗教上の争いなんだから自分たちで片を付けなさいということですからね。 ということは、今の状況が永続的に続くということですが、それはどういう意味かというと、場合によっては、それこそ救世教は尾行・盗聴・盗撮を是とする団体ですから、メシア教の本部を人が手薄な時に奪ってしまおうとか、あるいは、全国の教会でも、信徒があまり出入りしていない時間に占拠してしまおうとか、そういうことがありえるわけです。 つまり、却下の判決が出た場合は、当然本部も24時間で警備する宿直体制になりますし、現場でも、教会を守るとか、そういうことをずっとしていく、ということですね。 メシア教の理事会としては、そういうことを鑑みて、信徒の皆様お一人おひとりの現実的な身の安全と、そしてまた健全な信仰活動を進めるということの上において、却下というのが出るよりも、和解をしたほうがいいんじゃないかという決断をしたのだと、私はそう思います。 でなければ、教会を守るとか、本部を守るとか、警備体制どうするか、監視カメラ付けるかとか、もうその世界ですよ。昔の教団浄化にまた戻るみたいな感じですね。だから、我々またそれをするのかということで、もうそんなことしてもしょうがないわけですから、和解して先進もうじゃないかと、そういうことだと思います。 そしてまた、当然、これだけの金銭的なものをメシア教側が受け取るということは、やはり、メシア教の主張のほうが正しかったからという側面もあると思いますよ、だって我々は救世教側に何も払わなくていいんですからね。 だから、この棄却と却下というのは、言葉はもうほとんど同じですけれども――「き」と、小さい「や行」の言葉かなんかのコンビネーションで(一同笑声)――ほぼ同じ言葉みたいだけれども、大きな差がある。 仮に、もし2018年1月30日の世界救世教の議決が法的に正しいということで我々の訴えが高裁においても棄却になった場合どうなっていたか。 まず、冒頭でお話しした13億円はもらえませんし、当然、本部や全国の教会についても、立ち退き請求裁判においては、「本訴のほうで棄却が出たということは救世教の議決は正しいんだから、あなた方は本部と全国の教会から出ていきなさい」となる可能性が高い。 だから、冒頭にお話しした、13億円プラスアルファ数億の20億円弱という利益は当然無いです。 しかも、それだけじゃないんですよ。というのは、もし世界救世教の議決が法的に正しいなら、2018年1月30日以降ずっと世界救世教が正しかったことになるので、遡って2018年1月30日から我々が使用してきた本部と現場の教会の使用料を払えということになるんですね。家賃のようなものですね。もし我々の訴えが棄却になった場合はこれも請求されます。 で、2018年から2024年までのそのすべての使用料は、去年の時点の試算でざっと見積もって14億円。6年間ぐらいの家賃代といいますか、使用料、これがだいたい14億円。でも、これは去年の試算ですから、今年ではそれはもう16億円とか17億円ぐらいになってるかもしれませんね。 却下になってプラス20億円弱。棄却だったら、当然この20億円弱のプラス分は一切ないどころか、さらにマイナス16億くらいにはなるわけですから、棄却が却下になったことによって軽く30億、40億の差ですね、今、完全にお金の話をしてますけれども(一同笑声)。言葉はこんなに似てるのに、この差はすごいですね。皆さんおめでとうございます(一同拍手)。 一方、一審の棄却が却下になったことについて、世界救世教側から見た場合どうなるかということがありますね。 当然、もし一審判決の棄却が高裁でも維持されて、2018年1月30日の世界救世教の議決が正しかったなら、まず、このメシア教に払う13億円は出費しなくていいですね。またもちろん、現在メシア教が使用している世界救世教名義の土地と建物もすべて救世教に戻るわけですから、それを合わせて20億円弱。 また、この本部と全国の教会の立ち退き請求裁判の使用代についてどのような判決が出たかは分かりませんが、でも、もしメシア教側が全額払わなければならない場合は、16億とかそれくらいのお金は世界救世教に入る。 でも、棄却ではなく却下になってしまったことにより、救世教側としては、13億円も失って、全国の土地と教会も失って、これでまず20億円弱、そしてまたその使用代の16億円ぐらいを得るチャンスも失ったわけですから、全部合わせたら40億近くはいきますね。 しかもこれだけではないんですよ。このことを皆様ご存じかどうか分かりませんけれども、世界救世教は、教主様が立ち上がられて多くの信徒が教主様のもとに行ってしまい上納が著しく減少したということで、教主様と私に、18億円の損害賠償裁判を起こしてたんですね。1年間で18億円の被害が出たのでそれを払え、という裁判です。この裁判も今回の和解で向こうは取り下げざるを得なくなった。 私の家に急に世界救世教から訴状が届きましてびっくりしましたけれども(一同笑声)、18億円。いや私個人で18億円は払えないなと思って(一同笑声)、こういうのも突然普通に家に届くんですよ。 ということは、世界救世教は、教主様と私のせいで、1年間に18億円損してしまったということ。そうすると、実際に世界救世教として被害を被ったのは、先ほどの30億円から40億円の損害プラス、18億円の上納減少分もありますので、少なく見積もっても50億円くらいにはなりますね。 でも、まだここで終わりませんよ。というのは、この18億円の損害というのは、世界救世教としては1年間でこの額の損害を受けたということですが、その裁判を私たちに起こしてからもう7年は経っていまして、この間教団の状況というのはそこまで大きく変わっていませんから――たくさんの信徒が世界救世教に戻っている、ということはないわけですから――単純計算で年間18億円の損害は7年間は継続しているとしますと、18掛ける7で、126ですよ。126億円。教主様と私のせいで、世界救世教は、この7年間で126億円の損害が出た、ということです。 しかも、この18億円の損害というのは今後解消される見込みは無いわけですから、今後10年経てば180億円、20年経てば360億円、というように、未来的にも世界救世教はずっと被害を受けていくことになるわけです。 ということで、東京高裁で、一審の棄却ではなく却下になったことによって、世界救世教が被ったすべての損害を合わせると、今の126億円プラス他の30から40億円の被害もあるわけですから、ざっと見て150億円は軽く超えてきますよ。 問題は、世界救世教が、150億円も使って何を成し遂げようとしてたのかということですが、それは、教主様を追い出す、ということですね。世界救世教は、教主様を追い出すために150億円も使用していると、そういうことです。 でも、今日拝聴した二代様聖言にもありましたように、本来、教主様が明主様の働きをされるというのが世界救世教であって、これは世界救世教の教規第5条第1項にも、教主は教祖の聖業を継承するということが明記されている。 今まで、この世界救世教の、教主様を明主様として受け入れるというルールを守れない方たちは救世教から出ていったわけですが、今回世界救世教は、その教主様そのものを追い出した。 これが何を意味するのかというと、今回世界救世教は、事実上、150億円もかけて、明主様を自分たちの教団から追い出した、ということです。世界救世教は、明主様を追い出すために150億円ものお金を使ったと、そういうことです。 じゃあその明主様が何を訴えておられたのかといったら、それはもうはっきりしてますね。今日拝聴した二つの明主様聖言にもありましたように、明主様は、キリスト教と呼応して人類を救済するんだと、それを訴えられた。 それを踏まえて、改めて、なぜ世界救世教が教主様を追い出そうとしたのかというと、簡単に言えば、結局、キリスト教と交流してることが問題とされましたね。 世界救世教は教主様を尾行・盗聴・盗撮して、そして、キリスト教の友人がいる、キリスト教の人と交流してる、これが問題だと、つまりこういうことでしたね。 でも、明主様はなんと仰せかというと、キリスト教の人とメシア教の人を合わせた全信徒が共にたたかっていきなさい、なんですから、教主様のされてたことは明主様の聖言から見ればなんら問題無いはずなのに、救世教はそれが問題だと言い張って、教主様を追い出そうとしたと、そういうことです。 何が言いたいかというと、僕は、この裁判の結果と150億円という額、これは、結局イエス・キリストと関わることではないかと思うんですね。 我々は長年、明主様が仰せの「キリスト教と呼応する」という聖言などがあるにもかかわらず、キリスト教の人に歩み寄ろうとするよりも、明主様のほうがイエスより上なんだという聖言――これも確かに存在しますからね――だから、それだけを取り上げて、明主様はイエス・キリストより上なんだ、だからイエス・キリストは受け入れなくていいんだと、そういうことでずっと来た。 イエス・キリストというのは、贖い主、贖罪主ですから、あなた方の罪を贖ったよ、ということですね。 で、これは簡単なメッセージのようなんだけれども、結局、このメッセージの都合が悪いからイエスの時代の聖職者たちはイエスを十字架にかけましたね。聖職者たちは、自分は罪人じゃない、正しいことしてる、信仰実践もしてる、だからイエスを受け入れたくないとなったわけです。 つまり、贖罪主という存在は都合が悪いわけです、だって自分が罪人と定められてしまうわけですからね。どんなに自分の宗教的権威を誇って、自分は先生だ、光明持ってます、大光明持ってますと言っても関係無いんですよ。だって、大光明を持ってる人だって罪有りということですのでね。 だから、宗教的権威を誇りたい方々にとっては、贖罪主という存在を受け入れるのは潜在的に都合が悪いわけです。自分は明主様に近かったからどうだとか、自分は大光明持ってる、こんなに浄霊実践した、これだけお導きした、ということで出来上がってる組織にとって、全人類を罪有りに定めるというイエス・キリストという存在が持ってる意義、これが都合悪かったわけです。 しかも、救世教側としては、明主様がご昇天になって、明主様の聖言におけるイエスの影響力を少しずつ消しつつあったのに、ということですね。 要は、教団名を世界メシア教から世界救世教にしたり、さらに進んで、もう明主様のご神業は宗教ではないみたいにして、イエス・キリストを受け入れるというところから着々と離れていたのに、ということですね。 それでどうしようとしていたかというと、贖罪主であるイエスの存在感を消して、人にいいことしましょう、浄霊たくさんしましょう、祖霊様にちゃんと尽くしましょう、ということで、自分たちにとって都合の良い「明主様信仰」を作り上げようとしてたわけです。 というように、明主様の遺された世界メシア教というのからうまく離れてたと思っていたわけです、世界救世教は。 だって明主様は、キリスト教と呼応しなさい、キリスト教の方々と共にたたかいなさいと我々に命令しておられるわけですから、そうなると我々は、当然、イエス・キリストのことを受け入れなきゃいけない。だから、「キリスト教と呼応しなさい」という明主様聖言は都合悪い。 それで結局、教主様にキリスト教の友人がいることなんて、明主様の聖言から見たらなんの問題も無いことなのに、世界救世教は、盗撮映像を流して、なんか、おどろおどろしいことかのようにしなきゃいけないぐらい、イエスという存在を受け入れなきゃいけないというのは、もう恐怖なんですね、恐怖。 せっかく明主様が遺されたものからうまく離れてきて、もう宗教でもないところまで来て、なんとかイエスという存在から逃れられたかなと思ったところに、教団の中心である教主様そのものがイエス・キリストを贖罪主として受け入れてるかもしれないというのは、とにかくもう都合が悪いと思ったんですね、世界救世教は。明主様が「イエス・キリストは贖罪主だ」と仰せだったにもかかわらず、ですよ。 でもこれ、私たちの誰もがですよ。だって最初世界救世教側が流した情報を聞いた時、誰もが、「えっ」と思っていたじゃないですか。それは、それだけ我々が明主様のみ心から離れていたからです。 本来、明主様の聖言からしたら、教主様がキリスト教の方と交流されていることは当然だで終わりの話だったのに、それをそのように我々思わなかったということは、この世界救世教の取った姿勢は、他人事ではなく、我々ももろ一枚噛んでますよ。 というように、教主様がイエス・キリストを受け入れておられるなら、このまま行くと自分たちも贖罪主であるイエス・キリストを受け入れなきゃいけなくなる、罪有りということを認めなきゃいけなくなると思って、そこからなんとしても逃げなきゃいけないというこのあがきによって追い詰められて、尾行・盗聴・盗撮のようなこともしなければいけなくなったし、慌てて、教主様を受け入れている世界メシア教との包括被包括関係を切るとか、教主様を追い出すとか、明主様の家族も全部聖地から追い出すとか、そういうことをせざるを得なくなった。世界救世教としては、それはもうパニックだったわけですね。 だからまあ、世界救世教がしてきたこと、していることは十分理解できますね。 でも一方で、最終的に地裁の判決が通らずこういう裁判結果になったということは、やはり、イエス・キリストは明主様が仰せのように贖罪主であり我々の罪の代償を支払ってくださった方ですから、その存在を救世教側は受け入れないがゆえに、自分たちで払わされたんだと思いますよ、150億円。そして、これからも払い続けなきゃいけない。 イエス・キリストのことから逃げる限り――代償を支払ったイエス・キリストという存在を受け入れない限り――じゃあ世界救世教の方たち、あなたたちは自分で払いなさいと、そういうことなのかなと思います。 だって、棄却というのが却下になって、イエス・キリストを贖罪主として受け入れてる世界メシア教はほぼ無傷じゃないですか。無傷どころかすごいお金を受け取った。 いや、だからと言ってむやみやたらにお金を使っていいということではなく、健全な運営は必要だと思いますけれども、でも、結果的には、イエス・キリストというものを受け入れようとしている私たち世界メシア教のほうが大きなお金を支払うことなく済んだわけですね。 高裁でも第一審と同じ棄却という判決だったら、軽く30億円、40億円は失ってたわけですよ。しかも、先ほど言い忘れましたが、全国の教会から追い出されたら、そこで終わりではなく、今度は新しい土地とか建物探さなきゃいけませんから、さっき言った額よりももっと被害がありましたよね。 というように僕は、今回の判決の背後には、イエス・キリストという存在の働きがあったと思いますね。 我々はイエス・キリストを受け入れているがゆえに、なにか神様が介入されて、棄却のままではなく却下になって、結果的に、世界救世教側はたくさんのお金を払わなきゃいけなくなった、損することになったんじゃないかと、そう思います。 このように、棄却から却下になるという裁判結果になったのは、当然、信徒の皆様のお支えのおかげです。 さらに言えば、信徒の皆様を代表して前仲泊管長が、ご高齢にもかかわらず、毎月のように東京の弁護士のところに行ってくださっていた。 ご存じでない方もいらっしゃるかもしれませんけれども、教団浄化が始まった時、世界救世教の管長は主之光教団の――世界メシア教の――仲泊管長だったんですよ。 その仲泊前管長が弁護団の先生と毎月毎月打ち合わせてくださって、その結果、我々の主張が一審ではすべてだめだったのが、高裁の時点で変わったということは、メシア教の主張が、なにか東京高等裁判所の裁判長、裁判官に訴えるものがあったんだろうと、そう思います。 今朝調べたら、仲泊先生が管長に就任されたのは2015年の4月でした。だから、それからもう約10年ですね。仲泊先生は、10年もの間、我々はまだ世界救世教である、ということを主張するために世界救世教の管長でいてくださった。 当然、この10年の間はいろいろあったんですよ。世界救世教の包括役員会というのがあるのですが、最終的にはここで、1対6ですからね。6人が一斉に、教主様おかしい、メシア教おかしい、主之光教団おかしいと言ってくるのに対して、管長お一人で本当に戦ってくださった。それはもちろん教主様、明主様のためでもありますし、信徒の皆様がちゃんとした信仰を持てるようにということのために、仲泊先生は、文字通り身を挺して戦ってくださって、世界救世教の管長という重責を9年半、事実上10年近く担ってくださった。 でもこのお役も、この間の12月24日で全うしてくださって、もう「前」管長となられた。だって我々はもう、自分たちは世界救世教ですとは主張しないわけであって、あの日以降我々は、世界メシア教としての道を歩むことが決まったんですからね。 今日は信徒の一部の方々のみが参拝に来られてるわけですが、でも、今回の裁判の結果というのは、世界中のメシア教信徒に関わることです。アンゴラ、ブラジル、ヨーロッパ、アメリカなど。ですので、その世界中の信徒全員を代表して、今日仲泊先生ここにいらしてますから、私たち一同で、先生に感謝の拍手をさせていただきたいと思います(真明様と参拝者一同の拍手を受け、仲泊前管長が席を立って礼をされる)。 ありがとうございました。 前管長は、もともと管長であると同時に、主之光教団の名誉会長というお立場をお持ちだったので、引退されるのではなく、引き続き仲泊名誉会長として共にご神業に臨ませていただけるということですので、引き続きよろしくお願いします。会長がいないのに名誉会長がいるのも不思議な話ですね(一同笑声)。なにか昔の名残ということなのだと思います。 ま、裁判のことはいいんですけれども、世界メシア教はこれからどこに向かうのか、これが問題であって、どこに向かうのかと言ったら、どこに行くもなにも、明主様の大本道を突き進むのみです。明主様信仰の大本道を突き進むのみです。 今日の明主様聖言にもはっきり書いてありましたね、明主様は、ご自身の全智全能をあげて――明主様のすべての知恵とすべての能力を使われて――キリスト教と呼応して人類を救うんだ(「私はわが新教はこのキリスト教と呼応し、東洋において、わけてもまず日本で、人類の善導と救済に全智全能をあげて働いてゆきたい」(「キリスト教と呼応 東洋に洽く布教」1950年2月4日))、そして、西洋にキリストあり、東洋にメシアあり、この二大勢力が東西相呼応して、キリスト教の信徒、メシア教の信徒、それを合わせた全信徒が真面目にたたかってゆくなら、必ず永遠の平和が樹ち立てられると、そう明主様は仰せです(「西洋にキリストあり、東洋にメシアあり、この二大勢力が東西相呼応して平和のために全信徒が、真面目にたたかってゆくなら必ず永遠の平和がもたらされる」(「可能な世界平和 キリスト教と呼応する」1950年3月11日))。 明主様は、キリスト教の信徒も明主様の信徒も、明主様の中では「全信徒」なんですよ。ということは、明主様の宗教というのは、理想世界実現のため、キリスト教徒と共にたたかうということです。 ということは、我々世界メシア教の進む道は、なんていうことはない、我々のすべて、全身全霊をかけて、そしてキリスト教の方々と共にたたかって、より良い世界を造ろうじゃないかと、それだけですね。だから、明主様時代と何も変わらないですよ。 そして当然我々は、二代様が繰り返し仰せだったように、教主様のもとで、明主様信仰の大本道を歩むということです。 今日の二代様の聖言を拝聴していて思ったのは、唯一教主様のみ、霊という存在にお仕えになっておられる、ということです。二代様は、神様、明主様、教主様、信徒という順序礼節があるということを仰せになって、ということは、我々の立場としては教主様に向かわせていただくんですけれども、教主様は唯一、霊である明主様というご存在にお仕えになっておられるということです。 これは簡単なようですけれども、厳しいですよ。霊のことは一つのずれも許されませんからね。 つまり我々は、これからも、教主様のもと、すなわち明主様のもと、世界メシア教の名にある明主様信仰の大本道を突き進んでいくということです。 今日拝聴した聖書(「コリント人への第一の手紙」第6章)ですが、裁判に関わる内容が書いてありましたね。本来あなた方は裁く存在なのに、互いに訴え合ってるのはもう敗北だ、神様を見くびるな、神様は正しい方に報われるんだからと、そうありました。 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。 「コリント人への第一の手紙」第6章1節~11節 だから我々が、もし、この裁判の結果によって自分たちの正しさが証明されたんだというようなことを思ってるなら、それは大きな勘違いですよ。 以前も言ったように、我々の裁判は世界救世教を救うための裁判だったわけです(真明様聖言「貫く心、義の心」2021年12月19日)。 だって、盗む者は神の国に入れないと書いてあるじゃないですか。そして、世界救世教は盗んだじゃないですか。教主様の目を盗んで尾行、盗聴、盗撮した。盗聴、盗撮という言葉に「盗む」という字が入っていますよ。盗む。 明主様も「大乗愛」の聖言の中で、「争いのある宗教は、最早宗教人としての資格を喪失した」と仰せです(1952年7月23日)。 ここ、同じことですよ。聖書では、互いに訴え合うことですでにあなた方は敗北したと書かれていて、明主様は、内部の争いがあることであなた方は最早宗教人としての資格を喪失したと仰せです。 ま、それに対して我々は反論する言葉の一つも持ち合わせていませんけれども、でも、我々が裁判をしたのは、昔の仲間が、そういう、盗む行為をしてしまってもう神の国に入れないような姿になってしまったところから悔い改めて、なんとか教主様のもとに立ち返ってほしいなということを願って裁判をしたんだと、そういうことですよね。今回の裁判を振り返って、なにか、救世教との争いはもう終わったんだという小さいスケールで考えるんじゃなくてね。 だから、そういう意味においては、今後も当然、救世教の方々をはじめとして、真の明主様信仰を求める方には、明主様の真実である「メシアとして新しく生まれる」という救いの道を教えてあげたいですよね。 だからその私たちの姿勢は何も変わりませんよ。というか、その営みの一環として裁判があったわけです。もちろん、我々の一番の願いは、教主様がそういう方たちに再び直接ご教導くださるようになればということだったと思うんですけれども、でも、裁判が終わったということは、神様のほうとしては、「世界救世教とそれにつながる信徒については私のほうでなんとかするよ」ということを仰せなのかなと思います。 だから我々という存在は、なにか、裁かれるとか裁いたとか、勝ったとか負けたとか、そういうことはもう超越してるんです。だって聖書に書いてあったじゃないですか、もうあなた方は清められたんだと、そうありましたね。これから清められるのではなくて、もう清められたんですよ。もうきれいになっちゃってるんです、我々はね。 また聖書には、あなた方は代価をもってもう買い取られたんだと書いてありましたね(「コリント人への第一の手紙」第6章20節)。だからあなた方はもうキリストの物だと、そうありました。 明主様も、ご自分はただのメシアの代行者であるから、メシアがどう働くか分からないという聖言もありますように(「本紙一周年を記念して 自観教主感懐を語る 神の力顕現」1950年3月11日)、明主様は、ご自分がメシアという存在に属しておられるという認識を持たれていますね。明主様がなにかされるのは、自分自身のご意志というより、神様が操り人形のように自分を使っているということも仰せですね(「私の観た私」1950年1月30日他)。 だから我々も、もう買い取られてるんです。 もし我々がすでに清められたとすれば、我々は、明主様の物であり、イエス・キリストの物であり、神様の物である。 だって普通、街で売っている物なにか買ったら、それ、自分の物になりますよね。で、イエスは贖罪主なんでしょ?贖罪主の贖というのはお金に関わる貝偏ですよ。 だから、キリストに買い取られているのに全然それに聞く耳を持たないというのは、たとえて言えば、せっかくiPhoneを買ったのに、全然こっちの操作に従わないみたいな感じですよ(一同笑声)。私このスマホ買ったのに、全然言うこと聞いてくれないな――これが我々の姿だったんです。大根買ってきて包丁で切ろうとするとなんかスッと逃げる(一同笑声)、あれ全然切れないなというね、それが我々の姿だった。 でも、我々はイエス・キリストに買い取られちゃったんです。だってイエス・キリストが贖罪主でしょ?だからイエスからは逃げようがないんです。 この間、夜、家で、長女と次女と私の3人で話してましたら、なんか、意図せず、神様とかそういう話になりまして、その中で、イエス・キリストはすごいねということになって、その時私が、「イエス・キリストといっても神様が造られたんだよ」ということを言ってですね、それで子供たちも「あ、そうか」みたいになって、でも、そしたら次女のみゆが、「神様は誰が造ったの?」(一同笑声)という質問をしてきたんですね。 その時私も、なるほどそういう質問もあるなと思って、一瞬慌てまして(一同笑声)、というのは、私みたいに仕事が宗教的なことですと、ややもすると、神様がすべてを造られたというのを大前提としてしまっていることがありますから、「神様は誰が造ったの?」と言われた瞬間、「おっ」と思いまして、でも二人には、「神様は始めも終わりもなくずっと生きておられる方なんだよ」「神様を造られた人はいないんだよ」ということを言ったりしました。神様は、始めも無く終わりも無く、ですからね。無始無終。 で、そんなやり取りをしたあと思ったのが、結局我々は自分のことを思う時、例えば1900何十年何月何日に生まれたのが自分の始まりだとか、いや、本当の始まりは天国で生まれた時だとか、そういうことを言いますね。 でも、もし本当に我々の中に宿っているのが神の霊だとして、そしてそれが我々の本体だとしたら、神様は永遠のお方ですから、本来我々も、始めも無く終わりも無い永遠の存在なんですよ。 こういうことを聞いても私たちはなかなかそれを理解できませんね。というのは、すべてが「今」というのに集約されちゃってますからね。永遠性というのが「今」に集約されている。だからなかなか分かりがたい。 だけど、もし我々の中に神様の御霊が宿っていて、そしてもしそれが我々の本体ならば、我々の今生きてる感覚というのは、本来、始めも終わりも無い、ものすごい感覚なんですよ。我々は、今すでに、とんでもない存在なんです。今生きている感覚というのが、すでにもうとてつもないことを感じてるわけです。今の感覚ですよ。だって今、神様の永遠性と一つになってるわけなんですから。 だから、「新しく生まれるとどうなるんだろう」ということを我々思いますけれども、はっきり申し上げると、新しく生まれたところでなんにも変わりませんよ。なにも変わらない。 今、「なにも変わらない」と言われた時、「そうだ!」と思えたら、それが新しく生まれるということですね。 でもその時に、「いや自分はまだだ」とか、「えっ、そうなの?」とか、そういう思いが湧いてくるじゃないですか。もっといいふうになりたいというのがあるからね。 でも、今がもう完成した姿なんです、我々は。それくらい今生きている感覚というのは大変なことなんですね。 だから、「今生きてるこの私が神様と一つです」と思えたら、神様は、「あなたは新しく生まれた」とおっしゃってくださる。だから、なにか、ものすごい境地になるとかじゃないんですよ。というか、いわば、「今」がものすごい境地なんです。 これを聞いてしまいますと、ちょっとつまらないな(一同笑声)と思ってしまう人もいるかもしれませんね。「新しく生まれることを目指していて、いつか自分はすごいことになるのかな」と思っていたのに、「今の感覚で完成してるんだ」と言われたら、「えっ?今のこの私の状況が?」ということになりますのでね。というようなギャップがあるがゆえに、「新しく生まれる」ということに到達できないと、ただそれだけのことです。 だけどそのギャップは、実は、我々がそれを救うために来てるということなんですね。もっといいものがほしいとか、より良くなりたいとか、他の人より優った者になりたいとか、嫉妬とか、そういうのが全部自分の心に入ってきてますよね。そういうのがあるから、「今がもう神様の子供としての完成図です」と言われた時に、それをすっと受け入れられないんです。逆に言えば、まだそこに救われるべき材料があるということでもありますね。 だけど、中側はもう完成してるんですよ。だって、「聖徒は世をさばくものである」(「コリント人への第一の手紙」第6章2節)とあったじゃないですか、今日の聖書に。あなた方は本来世を裁くべき立場なのに、裁判所に任せてるとはどういうことだということですね(一同笑声)。 というように、我々メシア教聖徒は世を裁くために存在しているんです、本当はね。 じゃあ我々はどういう裁きを下さなければならないのかといったら、それは、「赦す」ですよ。「赦す」という裁きですね。だってもう贖いは済んでるんですから。 だから、今日拝聴した「コリント人への手紙」というパウロの書簡にちらっと書いてある内容は、明主様が、ご自分は赦し主だということをおっしゃってた意味に通じてるものだと思いますよ。要は、イエス・キリストが人類の罪を贖ったあとのステージにおいて、人類というのはどういう存在なのかということですね。 だから我々は、世のことを裁く立場である。これは間違いないですね。 具体的に何を裁くかというと、現実的に出会ういろんな人の姿もありますけれども、それよりも、そのような人を見て感じてる自分の思いですね、気に入らないとか、どうだとか、その思いを裁きに来てるんです。あるいは自分の人生についての不安だとか、将来どうなっちゃうんだろうとか、そういう思いもありますね。 で、裁くということは、赦しを告げ知らすことでもあるし、また、「もう祝福されてるんですよ」というように、祝福を告げ知らすことでもあるんですよ。 だからこれは、明主様が最晩年に、「浄霊は二の問題でお念じしなさい」と仰せになったことと同じことです。その時明主様は、悔い改めなさい、お念じしなさいと仰せになった。だからそれは、世を裁きなさい、世を赦しなさいということです。 我々は、日々いろいろ湧き上がってくる思い、心の中が乱される時こそ世を裁く聖徒としての御用にお仕えできるんです。 また、祈りというのは、呼吸と共にありますからね。祈りは呼吸と共にある。 どういうことかというと、だいたいなにかものすごい嫌なことを言われたりすると、それ、気持ちにずっと残ってますよね。でも、例えば10年前、20年前に起きたことは、自分の心の中でもうだいたい解決してますよね。 だからそれは、我々がたとえ祈ってなくても、神様が我々の呼吸を通していわばそういう身体の不純物を受け取ってくださってるわけです。でしょ?科学的にも、ぐわーっと怒る時にはなにか身体に良くない物質が体内にいろいろ発生するとされてますね。だから、祈りといっても物質ですよ。つまり呼吸。 呼吸と共に、「メシアの御名にあってあなた方は赦されてるんですよ」ということをさせていただく。 でも、この救いを知らない多くの人でも、あいつのこと嫌いだとかそういう思いは、基本的には数日経って無くなっているじゃないですか、いや、確かにもっと長く続くのもありますけれどもね。 でも、それらのことすべて、神様が呼吸を通して受け取ってくださっているわけです。我々が吐く息を神様が吸ってくださって、そして我々が吸っている時は神様が吐いてくださって、新しい息を与えてくださっている。 あそこに明主様の「神風」という御書がありますが(真明様、ご神前上手側に奉掲されている「神風」の御書を指し示される)、神様は、神風という息を吹いてくださっているわけです。 我々は、息を吸う時まさに神風という神様の息をお受けしているわけです、ま、これは奥義ですけれどもね。なので、詳しいことは知らなくてもいいけれども、とにかく、我々が知っていようがいまいが、神様は我々と呼吸を一つにしてくださって、そして我々の中にあるいろんな不純物を受け取ってくださって、この世の中をどんどんきれいにしてくださってるわけです。確かに人類の歩みというのは遅々として進まないようだけれども、神様としては確実により良い世界を造っておられるんですよ。 息が関わるからこそ我々は文字通り全身をお捧げできるわけです。祈りだけですと言葉だけとなりますけれども、息があると言われたら、どんなに難しいことが分からなくても、神様に全身全霊でお仕えさせていただける望みが出てきますよね。 言葉でうまく祈れなくてもいいじゃないですか、別に。だって呼吸できるんですから。だから、「呼吸しますので、神様受け取ってください」でもういいんです。 山とか行くと、なんか空気がきれいで、呼吸するのも気持ちいいですよね。だからそれは、神様としては、「私の息を受け入れなさい」ということです。 確かに明主様は赦し主としてのひな型ですけれども、我々一人ひとりも世を裁くために来たんですから、もう大変な存在なんですよ。だって、「赦す」と言えるんですから。「赦す、祝福する」と言えるんですから。明主様だけではなくて、皆様お一人おひとりがこれをできるんです。 そして、なぜ我々がこういう「赦す」というような言葉を発せられるかといったら、それは、メシアの御名にある贖い、赦し、救いの力があるからですね。ということは、我々の救いの道は、「世界メシア教」という教団名通りですよ。 今までみたいに、「世界救世教主之光教団が法人名で宗教活動をする時は世界メシア教」という長いタイトル(一同笑声)ではなくて、そこからもう解放されて、世界メシア教として歩んでいける。世界メシア教ということは、世界に対して、メシアの教え、赦し、救いを宣べ伝えるということですから、もう単純明快ですね。 というか、元々単純明快な名前だったのを我々が勝手に世界救世教に変えちゃったんです、イエス・キリストから離れたくてね。 だから、裁判だなんだってずっとごちゃごちゃしてるのではなくて、もう救いに出なさいと、世界メシア教として世に救いに出なさいと、そういうことです。 明主様は、「あなた方は、いつまで世界救世(きゅうせい)教という、私が『東洋的で面白くない』と断言した名前で活動をしようと言うのか」(「何故救世(メシア)教となった乎」1950年3月20日)と、そう仰せなんです。 だって、明主様ご自身がお付けになった教団名であるにもかかわらず、世界救世(きゅうせい)教は今後、絶対に世界メシア教という名前に変えることはないですよ。 だとしたら、そんな明主様のことを無視している団体とずっと争っててもしょうがないじゃないですか。和解せず、却下判決を受けて、我々はまだ救世教ですと言い続けるんですか? だから、明主様としては、もうらちが明かないということで、私たちに対して、もう独り立ちしなさいと仰せになっている。 この裁判、2018年から長かったようですけれど、結局6年半ぐらいですね。包括被包括関係が切れてから約7年ぐらい。 だから僕は、この期間が一体なんだったのかといったら、それは、神様が我々に猶予期間を与えておられたのだと思いますよ。我々に対して、あなた方は世界メシア教として行くのか行かないのか決めなさいと、その猶予期間を与えておられた。 だって我々の中には、まだ世界救世教的要素に浸りたいものがあったじゃないですか。具体的には、イエス・キリストを贖罪主として受け入れたくないという要素ですね。だからそれを、神様が大いなる慈悲をもって6年、7年の猶予を我々に与えてくださっていたんです。 でも今、その猶予の時代はもう終わって、これから世界メシア教として世を救う御用に我々がお仕えする時が来たのが今回の和解の意味であり、そういう意味において、この7年は、我々の助走期間だったんだと思います。 だから、本格的に始まるのはようやくこれからですね、と僕は思う。 だって裁判してるというのはどう考えても足かせですよ。現実的にもそうです。なにかしようとすると、裁判でまだ係争中ですから、みたいになるわけですからね。 で、これが足かせみたいなんだけど、一方で我々はそれを言い訳にもできますからね。このことはまだしなくていい、の言い訳にもできますからね。 でもこれから我々は、明主様信仰の大本道である世界メシア教の名において、キリスト教と呼応して真面目にたたかう、ということです。明主様は、あなた方はキリスト教徒と一緒に真面目にたたかいなさいと仰せなんですよ?だとしたら我々はキリスト教徒と真面目にたたかわなきゃいけないじゃないですか。全智全能をあげて真面目にたたかわないといけないじゃないですか。それが明主様のご姿勢でしたからね。 だからその時が来たということです。 今日教主様がお上げくださった明主様御歌にも、明主様のやる気に満ち満ちておられる思いがあふれていましたね。明主様は今そういうお気持ちだということです。ですので、私たち一同、腹帯をもう一度締め直して、共に、希望を持ってまた今年も一年歩んでまいりましょう。 ありがとうございました。