(真明様ご登壇への拍手に対し)ありがとうございます。 皆様、こんにちは。 今の理事長のご挨拶にもありましたように、私は、先月、ボリビアとブラジル―今日はブラジルメシア教副本部長夫人であるトモミ奥様も来られていますけれども―に行かせていただきまして、これは新穀感謝祭の時にもお伝えしたんですけれども、私が巡教で無事に役割を果たせて、また、現地の信徒と共に感動を分かち合うことができたのも、日本にいらっしゃる信徒の皆様のお支えあってこそと思いまして、そのことを今日改めて皆様に感謝したいと思っております。ありがとうございました。 (真明様、参拝席のマツムラ・トモミ夫人にポルトガル語で声をかけられる)Foi emocionante, não foi?(「本当に感動的でしたよね?」) 感動を強制しました、今(一同笑声)。「感動しましたよね?」と言って、「はい」と言っていただきました(一同笑声)。でも、確かに世界の信徒と我々は常に一つなんですけれども、実際に行かせていただいて信徒と交流させていただけたのは皆様のおかげですので、ありがたく思っております。 今日は、メシア教の信徒である私たちに限らず、信仰者の持っている弱点、信仰者の陥りやすい弱点、そういうことについて少しお話ししたいと思います。 まあ、弱点と言っても、我々はもちろん弱点はいっぱい持っていますけれども、今日は、その中でも三つについて、ちょっとお話ししたいなと思います。 一つ目は、我々の、「これをしたからこうなった」という、これですね。 神様にお祈りをしたからなにかいいことがあった、とか。これは逆もありますね。こういうことをしたからこうなっちゃった、とか。また、お委ねをしてなにかいいことがあった時に、ああ、自分がお委ねをしたからだ、お委ねをしたからこういういいことがあったんだ、とか、あるいは、例えばご祈願書。ご祈願書を書きました。ご祈願書を書いて、そしてなにかあった時に、ああ、ご祈願書を書いたからこういうことがあったんだ、とか、そういう種類のことがいろいろとありますよね。 で、もちろんね、こういうこと自身は完全に否定することではないんですけれども、ただ、我々が陥りやすい弱点とか落とし穴は、今言ったようなことを戒律のようにしてしまって、自分とか人に課していく、これですね。私たちはこちらのほうに行ってしまうんですね。 例えば、自分はご祈願書を書いてこうなったんだから、みんなもすべきだ、全員すべきだ、ということで、確かに、勧めること自体は悪いことではないんですけれども、それが、ご祈願書をちゃんと書いてる私は偉い、あの人はなんでやらないんだ、とか、私はこのことについてお委ねしてるのに、あの人はなんでやらないんだ、という思いのもとで、そういう種類のことをどんどん「教え化」「戒律化」していくというこの姿がありますね。これが私たちの弱点だと思うんですね。 もちろん、自分自身に対しても、こうしなきゃいけない、ということで自分自身を縛って、周りの人もそれで縛ってという、この姿。 ある教えや行動のようなものを一律化しようとして人と自分に課してしまう、というこれ、これが一つ目の弱点。 二つ目の弱点は何かというと、それは、なにか神的なメッセージを受け取った時―教主様の聖言とか明主様の聖言とか聖書とか、なんでもいいんですけれども―そういうものを例えば拝読しました、というその時、我々がよく言葉に発する、「分からない」「実感が無い」「難しい」という言葉。これ言いますよね、我々。「分からない」「実感が無い」「難しい」。 なにか聖言を聞いた時にでも、言いますよね。というか、我々、この三つの言葉を三種の神器のようにして(一同笑声)使ってますよね。なにか聞いて、その内容が、なかなか受け入れがたいみたいなことだと、分からない、実感が無い、難しいと、そういうことを言っている。 あと、「なかなかそうは思えない」というのもありますね(一同笑声)。これもよく言いますね。なので、三種の神器ではなくて、四種の神器(一同笑声)、我々は常にこれを手元に持って、なにか言われてしまって受け入れるのが難しい時に、「分からない」「難しい」「実感が無い」「なかなかそうは思えない」、今回はどれを使おうかな、これを使おうかな(一同笑声)、ということをしていますよね。 いやもちろんね、そういうふうに感じていること自体は丸々否定することではないと思うんですけれども、でも我々は、ややもすると、自分が受け入れたくない内容の話を聞いた時とかに、その話を受け入れなくていいようにするため、我々自身の心の中の一つの逃げとしてそういう言葉を使っていることもあるんじゃないかと思うわけです。 だって本当から言えば、我々は朝夕拝とかで、「神さま、あなたは生きています。わたしの中で、生きています」と言ってますよね。そしてこの神様というのは全知全能のお方ですね。全知全能。ということは、神様はすべてを知っている、ということです。そしてそのすべてをご存じのお方が私たちの中にいらっしゃる。というか、その方は私の中にいます、というお祈りを日々お捧げしているわけですから、そう信じているわけです、我々は。 だとしたら、本当は、「分からない」「実感が無い」「難しい」という受けとめになるはずはない。そうではなくて、「このことは今は自分は分からないかもしれないけれども、私の中にいらっしゃる神様はご存じだから、いつか必要なタイミングで教えていただけるんですね、ありがとうございます」と、本当ならそういう思いが湧くべきだと思うんですよ、もし本当に私の中に神様が生きていると信じるならばね。だって神様は全知全能のお方ですから、そのお方にとって難しいことは一つも無いわけです。 でもなぜそうしていないのかというと、それは、我々にとって受け入れるのが都合が悪いなということがある時、今言った四種の神器を使って―そういう言葉を使って―神様からの真理を受けるのを巧みにかわしている姿があるんじゃないのかなと思います。これが私たちの二つ目の弱点。 三つ目のは、今の二つ目のと逆と言いますか、分からないというより、分かり過ぎる、受けとめ過ぎるというかね、それで、自分は罪人です、至らない存在です、まったく至らない存在です、という、こういう姿勢に関わることです。こういう姿勢、ありますよね。こんなすばらしいことには値しない自分です、自分は罪人です、至らない存在です、というこの姿勢。 これも、もちろんこういう姿勢自身は悪いことではないんだけれども、結局我々は、極端に自分を卑下する形を取ることによって、自分を守ろうとする、そういう心もあるんですね。自分はもう罪人ですから、とか、至らない存在ですから、というふうにしておくと楽だというのが私たちの中にありますね。 俗っぽい言い方をすると、いやいや自分なんて、とか、いやいやいやいや、と自分を卑下することによって自分を守る。 確かに自分が罪人だという認識に至るのは大切なんだけれども、下手をすると、本来我々はどんどん向上していかなければならないのに、自分は至らない存在だから今のままでいいんだ、変わらなくていいんだ、ということを口上に、現状維持を正当化してそこに留まるみたいなこともありますね。こういう姿が私たちの三つ目の弱点。 私は、少なくともこの三つが、我々信仰者が陥りやすいところであり、弱点なんじゃないのかなと思います。 でも、そう言われても、いや、それのどこが弱点なんだ、今まさにあなたが言った三つこそが世の中の宗教の基本じゃないかと、そう思われる方もいらっしゃると思うんですね。 というのは、例えば一つ目の、「こうしたらこうなった」というのも、普通世の中では、感謝するといいことがあるから感謝しましょう、ということで感謝行みたいにしてます。あるいは、人にいいことをするといいことがあるから利他の行いをどんどんしましょう、という利他行みたいなこともあります。 こういう、「なんとか行」というのは世の宗教ではむしろいいこととされてますよ。ありがとうとちゃんと言いましょう、感謝の気持ちを持ちましょう、人にいいことしましょう―これらのことは普通いいこととされてますね。 二つ目の弱点も、難しくて分からないから一生懸命勉強しよう、教祖の教えを一生懸命勉強して理解できるように努めていこうということは普通じゃないか、そんなの全然弱点じゃないじゃないかと言われたい方もいらっしゃるかもしれない。 あるいは三つ目のことも、普通は、あなた方は罪人なんだから悔い改めて反省して、救われるためにちゃんとお金出しなさいとかね、そういうことを普通宗教はしますね。 だから、今お話しした弱点三つは、世の宗教であれば普通の話ですね、本来は。でも、たとえこれらが世の中の宗教では普通であったとしても、我々メシア教の信徒にとってはこれは弱点になるんだと、それを私は言いたいわけです。 どういうことかというと、今言った三つの弱点に共通しているのは、結局、神様と人間という存在を分ける、というそういう受けとめですね。 世の中で言ってる「信仰」というのは何か。それは、偉大な神様がいらして、それを一生懸命拝んでいる人間がいる、そういうことが前提とされているのが普通世の中で言う「信仰」ですね。 だから、今言った弱点の一つ目に関連して言えば、神様から言われることを一生懸命実践してます、自分は朝夕ちゃんとお祈りしてます、これも実践してます、感謝行してます、利他行してます、お委ねしてます、ご祈願書書いてます、そして、そのようにちゃんとしていますので、何かいいことを恵んでくださいという、そういう、「偉大な神様に対して一生懸命実践する人間」というような、そんな人間の姿が非常に強調されているのがこの一つ目の弱点の底辺にあることですね。 二つ目の、「分からない」「難しい」「実感が無い」についても基本的には同じですよ。全知全能の神様に対しての小さい人間、なかなか真理が分からない人間、それが人間なんだ、という理解ですね。「分からない」「難しい」「実感が無い」ということがあるのが人間なんだという理解。 これは、例えば誰かが「教主様の聖言は難しい」と言うと、その時に、「自分にとっても難しいです」と言うのは楽ですよね。だから、誰かが「難しい」と言うと、私も私も、というふうによく我々はなってしまう。 この二つ目の弱点も、「なかなか理解できない」という、そういう人間の立場というのを強調している。 三つ目の悔い改めについても、神様に対して罪を犯してしまった惨めで愚かな人間、その人間が、「悔い改めます、私は至らない存在です」というようにすることによって、至らない人間の立場というところが強調されていますね。 だから、私が言った弱点というのは、こういう人間の立場を強調するが故に弱点である。 でも、この弱点というのは、神様と人間がまったく別の存在なのは当たり前じゃないか、としている宗教にとっては弱点でもなんでもないわけです。 感謝行しなさい、一生懸命神の言葉を理解しなさい、悔い改めなさい―もうこれだけでいいんですよ。というか、世の宗教ではこれを良しとしている、だってそれが世の宗教のしてることですからね。信徒に戒律を課して、教えを課して、悔い改めを課して、そして、偉大な神様に対して、「私は神様を信仰している」「信仰心のある人間が偉いんだ」という世界、それを良しとしている。 偉大な神様のみ前で一生懸命実践する小さな人間、一生懸命神様からのメッセージを理解しようとする人間、悔い改めて「罪人です」と言う謙虚な人―世の中では、これこそが立派な信仰者だということですからね。 でも、メシア教はそうではない。 メシア教はどうかというと、今日の明主様聖言にもあったように、前の時代は、罪ということに関しては、感謝して礼拝して祈っていればよかったんだけれども、メシア教になったらもうその必要は無い、なぜなら最早キリストは再臨されたからだと、そう明主様は言われていますね(「御講話」1951年9月25日)。 メシア教信者になれば、偉大な神的な存在に対して礼拝する必要は無い、最早キリストは再臨された、これには深い神意がある、いずれ詳しく説きますよと、そう言われていますね、明主様は。 深い神意とおっしゃるんですから、当然、ただ明主様お一人がキリストの再臨だったら深くもなんともないですよ。しかも、以前もお話ししましたように(「決断の時」2020年12月1日)、もし明主様だけがキリストの再臨なのだとしたら、メシア教信者になったからと言って、いきなりキリストに対して礼拝しなくていいとはなりませんからね。 だから、メシア教の信徒になったらもうキリストという存在に対して礼拝しなくていいというこの「深い神意」の意味は、要は、メシア教信徒全部が―本当は全人類がお受けできるんですけれども―メシア教信徒すべて、キリストの再臨というものを受けることができるんだと、そういう意味であり、明主様も、我々を、キリストの再臨を共に受けた存在として見なしてくださっているんです。 だって、それまでは、キリストに対して感謝し礼拝して祈っていた。でも、最早キリストが再臨された以上、もうキリストに対して祈る必要が無いということは、それは、もしキリストが再臨して自分の本体がキリストだということに目覚めたのだとしたら、我々がキリストに祈ることは自分自身に祈ることになってしまうわけで、そんなことできないじゃないですか。 そして、キリストと言っても、それは、神様の魂ですよ。明主様が仰せのように、キリストの再臨はメシアですからね。 だから、キリストの再臨となる、ということは、地上に生きている小さい人間の立場としての自分ではなくて、天から降ってきた神様の魂の立場としての自分として生きる、ということですから、もし自分の本体がキリストの再臨であり神様の御霊であれば、礼拝のしようがないじゃないですか、だって、自分が「そのもの」なんですから。 私たちは、今こういうことを聞くと、これが、「難しい」、みたいになるんですよ。なぜ「難しい」と感じるのかというと、それは、我々が、「信仰というのは、小さい人間が偉大な神様に対して捧げるものだ。それが信仰で、それが自分のしていることなんだ」、という世界で止まってしまってるからなんですね。 でも、メシア教がやろうとしていることは、信仰を超えてますよ。 メシア教は、ただ、一生懸命感謝しましょう、一生懸命利他の実践しましょう、神様にお祈りしましょう、じゃないんですよ。もうね、「神様の子供」という、神様と同等の存在になれるということを訴えているのがメシア教なんですよ。 だから本当は、弱点の二つ目にあったような、「分からない」、と言うほうじゃなくて、分からせるほうであるし、悔い改めるほうではなくて、悔い改めさせるほうなんですよ、我々は。だって我々の本体は神様側なんですから。 だから、メシア教の教えは、「信仰」という言葉では捉えきれないですね。だって、普通、小さい人間が神に対して一生懸命お捧げするのが信仰だということになってますからね。 でも我々は、そういう人間自身が作り上げた「信仰」という小さい世界に生きるのではなくて、一人ひとりがすべてのものに祝福を分け与えるという、そういう偉大な業にお仕えさせていただける。 ということは、逆に言えば、メシア教の信徒である以上、この世の中において、世の中の人が持っているような普通の感覚で生きていくのは難しいですよ。だって世の中は、神様というのは偉大な存在だ、そこに愚かだけど精一杯生きている人間がいる、とか、あるいは、神なんていない、人間ががんばっていく、という、そういう図式が出来上がった世界ですからね。 世の中はそういうことが前提で構成されていますから、そこから脱出するためには、明主様も、本当に、まったく世の常識とは異なった価値観を持たれて生きておられたわけですけれども、我々も、世の常識から脱却して、「メシア教というのはものすごい偉大な使命を持っているんだ」ということを常に心に留めておかないと、すぐ世の考えに流されますよ。 だから、今日の明主様の聖言は、最早キリストは再臨された、それには深い神意があるという内容でして、これから、一人ひとり、「キリストの再臨」という使命を果たそうとする我々にとってとても大切な聖言だと思うんですけれども、この明主様の聖言の前半部分は、キリストの贖罪のことについて書かれていますね。 イエスが万人の罪を一身に背負ってその罪を償ってくれたと、そうありましたね。ここの「万人」というのは我々のことですよ、万人というのは、「一万人」という意味ではないですからね。すべての人、という意味ですからね。 すべての人、ということは、「私」の罪ですね。私たちの罪。一人ひとりの立場から言えば「私」の罪。それを償ってくれたことへの大愛に感謝し礼拝し祈りなさい。でも、今まではそれでよかったけど、キリストの再臨を受け入れるというメシア教信者になればそうする必要は無いですよと、そう仰せですね。 で、私たちが、キリストの再臨という偉大な存在になれるんだということを知って、真のメシア教信徒とならせていただける道に入ったのは、たったここ数年の話ですね。 だとしたら、明主様が、「今まではそれでよかった」と仰せのことを我々はしてきましたか? 今まではそれでよかった、これからは必要無い、ということは、今までは必要だった、ということですよ。その、今までは必要であったイエス・キリストの贖罪の大愛に対して、私たちは、長年、感謝し礼拝して祈ってきたんですか? だって我々は、ここをクリアしなければ、キリストの再臨という立場をお受けし、世の人に祝福を分け与えるというすばらしい業にお仕えすることはできないんですよ。 その業のことを我々はここ数年で知った。じゃあ私たちは、その前の何十年間という信仰生活の中で、キリストの大愛に感謝して礼拝して祈ってきましたか? 感謝する―私の罪を贖ってくださったイエスの愛に感謝します。 礼拝する―イエスを祭典等でお祭りさせていただきます、イエスのもとにお参りさせていただきます。 祈る―イエス様の大愛に深く感謝します。ありがとうございます、ということを心の中で祈る。 そういうこと、してきたんですか?明主様が、「今まではそれでよかった」と仰せのことすらもしてきてなかったじゃないですか。 だって、この聖言を拝見すると、明主様にとっては、メシア教の信者になってキリストの再臨の業にお仕えするのは、イエスが万人の罪を贖ってくれた愛に対しての感謝、礼拝、祈り、これをさせていただくことが前提となっていますよ。それを私たちはしてきたんですか? これをせずして―これを経ずして―明主様の願っておられる真のメシア教の業にお仕えすることはできないんです。 でも、してこなかったじゃないですか、はっきり言えば。 だって、教主様にキリスト教の友人がいるというだけでこんな大騒ぎになるということは、もう全然してませんよ。キリストの愛に感謝して礼拝して祈らなきゃいけないんだとしたら、教主様がキリスト教の方と触れ合うことはなんの問題も無いじゃないですか。だって明主様にとっては、メシア教というのはキリスト教が土台にあるということなんですから。 だとしたら、明主様が持たれている前提と、我々が持っている前提があまりにも違うじゃないですか。 罪ということに関しても、我々は、ややもすると、明主様はそんなに悔い改めについては説かれてない、くらいのこと思ってきたじゃないですか。 だけど、今日の明主様の御歌はものすごい厳しさですね。最後の審判の時になって悔い改めてももう遅い。審判の火は凄まじい。そのようなものすごい厳しい神様の審判が来てから悔い改めてももう遅いんだと、そういう御歌の数々でしたね(「天叫び地震雷轟かん最後の時の恐しき状」「審判の火の凄じさ天仰ぎ神に祈るも已に遅かり」「夢にだも思ほえぬかも大いなる審判の状の恐ろしきさま」「大峠の最中となりて悔むとて已に遅かり心せよ今」)。 まあ、これは、本当を言えばね、もう遅いということは無いんですよ、はっきり言っちゃうと。だけど、もう遅い、もう間に合わないぞ、というぐらい言われないと反応しない我々の姿がありますからね。 我々は、ちょっとぐらい「悔い改めなさい」と言われても、そのうち悔い改めます、とか、自分はそんな罪人ではないのでいつか悪いことをしたら悔い改めます、とか言って神様の裁きを甘く見てるから、明主様にここまで言わせてしまっているんです。もう遅い、間に合わない、悔い改めなければあなたの心はこんな世界になっちゃうんだよと、そういうことを明主様に言わせてしまっている。 だから、ここまで明主様に言わせてしまっているのは、我々が、自分は罪人であって悔い改めなきゃいけないんだということについてあまりにも無自覚だからですよ。自覚が無いんですね。自覚が無い。自覚が無いが故に、明主様にここまで言わせてしまっている。 そもそも、「最後の審判」という言葉ですら、神様にそこまで言わせてしまっている。それくらい言われなければ悔い改めの思いすら湧かないくらい、我々は自分が罪人だと思っていない。 我々は、こういう祭典に、わざわざなんのために来ているのか。人によっては、せっかくこんなところまで来たのに、悔い改めなさいとか、我々は罪人だとか、そんなこと聞きたくない、私は、自分の日々している生きざまについて神様に認めてもらってよかったよかったとしたいのに、自分は罪人だなんていうことは認めたくないし、そんな話は耳にしたくないと、そう思われる方もいらっしゃるのかもしれません。 でも、私の言い方より、明主様の言い方のほうがよっぽど厳しいですよ。もう間に合わない、もう遅い、すでに遅かりと断言しておられるんですから。 もう遅かったらどうするんですか。それは、もう死んでしまうということです。死んだらもう終わりですよ。今我々は、自分が、「生きてる」と思っているけれども、神様から命を取られたらもう終わりですよ、本当はね。 だから、なぜ我々はこういう場でこういういろんな話を聞かなければならないのかというと、それは、我々は、人間の本当の生き方について知らなきゃいけない、だから神様がこういうところに集わせてくださっているし、我々としては、共にその神様の御心をお受けさせていただこうと、そういうことだと思います。 だって、今日の明主様の御歌の7首目にありましたように、神様が裁きを下されるのは、世を生かすためなんでしょ。高き低き、誰も差別をしないですべての人をなぜ神様は裁かれるのか。それは、世を生かすためなんだと、そう明主様は仰せですね(「高き低きの差別さへなく大神は裁き給はむ世ぞ生かす為」)。 「世ぞ生かす」。我々は世に含まれてないんですか?含まれてますよ。ということは、神様が裁かれるのは、私たちを生かすためですよ。 ということはですよ、我々は、今は生きてもないということです、本当はね。だって明主様は、裁かれて生きなさいと、そう仰せですね。だから我々は、今は死んでるような存在。 明主様から言わせれば、「あなた方は自分は生きていると思ってるけれども、悔い改めて神の裁きを受けなければ、あなた方は生きている存在でもない」と、そういうことです。 今我々は、「生きてる、生きてる」と思っているけれども、神様、明主様から見たら、「いや死んでる」「神の裁きを受けなければあなたは死んだような存在だ」と、そういうことです。 しかも、その裁きの時に神様の愛が現れるんですよ。祭典御歌の1首目にありましたね。愛の力が現れるんでしょ?(「いやはての審判の日にぞ大神の愛の御力顕れ出でなん」) だから、愛のある裁きは何かと言ったら、「赦す」しかないじゃないですか。 「世ぞ生かす為」なんでしょ?生かしたいんだとしたら、「赦す」しかないじゃないですか。「赦さない」と言ったらもう死んじゃいますでしょ。そしたら、裁くのは、世を生かすためではなくて殺すためになってしまいますよ。世を滅ぼすための裁きになってしまいますよ。 ということは、最後の審判だ、厳しいぞ、裁きが来るぞ、もう遅いぞと書いてありますけれども、もし生かすことが目的だとしたら、その裁きは、「赦す」ですよ。「あなた方を赦す」ですよ。 だから、悔い改めという話を聞いて、なんで自分はこんなに罪人だ、罪人だと言われなきゃいけないんだ、聞きたくないと言って、それで悔い改めずに終わったら、我々は死んだような存在として終わっちゃうんですよ。 でも、神様と明主様は、「あなた方は本当は死んでるような存在だけど、赦して生かしてあげるよ」と仰せくださっているということは、本当は、自分が罪人だと自覚をするのは喜ばしいことなんですよ。だって我々は、それによって初めて生きた存在となれるんですから。 で、じゃあ生きる存在となりました、といって、生きてどうするんですかと言ったら、それは、明主様が仰せのように、今度はキリストの再臨という立場になるわけであって、それは神様側の立場です。キリストとかメシアというのは最高最貴の神様側の立場です。で、神様は何をされるのかといったら、神様は祝福を分け与えるご存在なんですから、今月頭の新穀感謝祭の折にも少しお話ししましたように、今神様は私たちに対して、あなた方を赦す、生きなさい、そして、祝福を分け与える者になりなさいと、そういうことを言っておられるんです。 ということは、まず、万人の罪を償った存在を受け入れない限り、もう一生死んだままの存在ですよ。だから神様は、「裁きを受けなさい」と仰せなんです。 だって明主様は、最後の裁きの時に神様の愛が現れると仰せなんでしょ? 人間の愛は、一時は愛してたけれどももう愛さない、とかありますけれども、私たちに注がれているのは神様の愛なのであって、それは、永遠に我々を愛する愛です。 だとしたら、愛のある裁きとは何かと言ったら、それは「赦す」ですよ。 確かにね、神様のみ前に行って神様の審判を受けるのは恐ろしいことのようですけれども、神様のみ前に行けば、神様は、私たちに対し、「赦す」「赦す、生きた者になりなさい」と仰せくださるんです。だって、神様が裁かれるのは世を生かすためなんでしょ? そして神様は、「生かすから、私と同じことをしてくれ」と仰せなんです。だからそれは、祝福を分け与えるということです。 世の人に対してもそうですし、自分の心に湧き上がってくる思いとかに対して、「祝福ありますように」とさせていただく。というのは、我々の中には遺伝情報として多くのご先祖様がいらっしゃる。だから我々の中に負の思いが湧いてくる。 他の人より優越したい思いとか、あの人が気に入らないとか、そういう思い。 ですので、なにか家庭や仕事のことなどを通してそういう思いが湧いてきた時は、もちろん、この世ではきちんと対応しなければならないことはありますけれども、心の中では、「このように、『自分のほうが正しい』という正当性を主張したまま、結局、神様の赦しを受けずに滅んでしまった人たちの思いが今私の中に湧いてるんですね」と思わせていただいて、そして、「あなた方はもう赦されたんですよ。生きなさい。そして、今までのように生きるのではなく、祝福を分け与える者となりなさい」ということをさせていただく。 そういうすばらしい御用にお使いいただくために、まず一歩目は、イエス・キリストを受け入れなければならない。 だってイエス・キリストは、万人の罪を一身に引き受けたんでしょ?そう明主様は仰せですよ。「一身」ですから、一人、一つの体ですよ。イエスという一人の人物がそうしてくださった、ということです。だから、イエスはなんでそんなことをしてくださったのかと言ったら、それは、明主様が「大愛」と仰せになったように、イエスの我々人類への大きな愛のために彼が私たちの罪を償ってくださった。 だから、メシア教の業にお仕えしたいのであれば、この一歩目を外すことはあり得ないですよ。 だけど我々は、長年、じゃあこのクリスマスという時をどうやって過ごしてきたのでしょうか。 12月23日は明主様のお誕生日。で、クリスマスに対してはどうでしたか?まあ、いろいろでしたね。明主様のほうが上だから、クリスマスというのは明主様とは関係無いんだと、そういう思いもありましたね。 明主様のほうが上、というのはね、もちろん、明主様に託された使命の大きさということはありますけれども、それは決して、イエス・キリストを貶めたり、無視していいということにはならない。 にもかかわらず我々は、12月23日の明主様のご生誕はお祝いしても、クリスマスのほうは無視して関係無いと思ったり、あるいは、世の中はクリスマスでお祝いしてるから、それにちょっと乗っかってなんかクリスマスの置物をしたりとか、クリスマスディナーとか、クリスマスプレゼントとか、それくらいのことはしたりと、結局、イエスのことは中途半端にしてきましたよね。 でも、今、世の中は、この祭典の場所から一歩外を出れば分かるように、どこもクリスマス一色ですよ。 ちょっと余談になるんですけれども、この間長女の幼稚園の発表会があって行かせていただいたんですけれども、そこで劇とか歌とかがあって、長女は今年年長なので、今年で3回目の発表会だったんですが、今年は、一番最後に、他の学年の園児も含めて、幼稚園全体として、最後にみんなでクリスマスソングを歌ったんですね(なお、長女の幼稚園はキリスト教系の幼稚園ではなく、普通の幼稚園です)。私は、日本の他の幼稚園で普通にこういうことが行われているのかは知らないんですけれども、私にとってはこの3年間で初めてのことでした。 クリスマスソングを2曲歌って、その発表会を締めくくる一番最後に、園児全員が一つのセリフを大きな声で言ったのですが―あの、これらのことは私が幼稚園にそういうことをしたらどうかとか言ったことではないんですよ、私にはそんな力は無いので(一同笑声)。なので、幼稚園の先生方が決めたことですが―発表会最後の園児のセリフが、「メリークリスマス!」だったんですね。それを園児全員大きな声で言って、発表会が終わった。 ということが普通に行われまして、私は、まあ、どう言ったらいいか、驚いた、とでも言うのでしょうか。 だって、「メリークリスマス」という言葉の意味は、クリスマスは、「キリスト」「マス(ミサ、礼拝の意)」ですから、簡単に言えば、キリストの誕生のお祭り、という意味であって、そのキリストの誕生が「メリー」である、ということですね。「メリー」は、英語で、楽しいとか、嬉しいとか、そういう意味です。 だから、日本の普通の幼稚園の発表会において、その発表会を締めくくる最後に、「キリストの聖誕は嬉しいです!」ということを園児全員で言っている、ということです。 これは、「いやそれは日本がだんだん西洋化しているからだ」とか、どんな理由を持ってきたとしても、言葉としては「メリークリスマス」と言っているんですから、「キリストの聖誕は嬉しいことです!」と言っているということですし、そして、それを、先生方や見てる親御さんも普通に受け入れている。 いや、きっと受け入れているんだと思うんですよ。その時に、これはおかしい、と思った親御さんはほとんどいなかったと思うのでね。 でもこれは、全然普通のことではないんですよ。 だって本来ね、例えば私がイギリスにいた時なんか、じゃあクリスマスの時期にイギリス人全員が「メリークリスマス」と言うのかといったら、全然そんなことは無いんですよ。言わない人もたくさんいるんですよ。だって、「メリークリスマス」は、「キリストの聖誕おめでとうございます」という意味であって、これは、キリスト教徒が使う言葉ですからね。 イギリスには、日本もそうですが、他の宗教を信じている方やいろんな民族の方もいらっしゃるから、普通、「ホリデーシーズンおめでとう」みたいな中立的な言葉を使うわけです。だって、イスラムの人にとってはメリークリスマスと言われても、それはちょっと違う、ということになりますのでね。 だけど、別にほとんどキリスト教徒もいないここ日本においてですよ、キリストの聖誕はおめでたい、という「メリークリスマス」という言葉が普通に発せられている。我々は、この現実を見つめる必要があると思いますよ。 日本人は、もはや、短くして「メリクリ」と言ってますけれどもね(一同笑声)。四文字。メリクリ(一同笑声)。 だからね、なぜキリスト教徒も大していない日本とか、また、世界の多くの人々が、「メリークリスマス」という言葉を使ったり、クリスマスの文化を受け入れているかといったら、それは、結局、人類にとって、イエス・キリストの聖誕ということの意義があるからですよ。 だってイエスは全人類の罪を一身に受けて我々の罪を贖ってくださったんですよね? そういう意義があるから、日本人がクリスマスツリーを飾るのも抵抗が無いし、クリスマスディナーとかクリスマスプレゼントとかいろんなクリスマスの飾り物をするのも抵抗が無い。 それは、それだけイエス・キリストが人類にとって大切で、絶対に欠かせない役割を担ったんだよということを我々が暗に認めてるからだと思うんですよ、日本人のみならず、世界中の人が。 だとしたら、宗教者である我々はなおさらですよ、本来。 しかもメシア教の我々は、明主様が、メシア教はキリスト教と呼応するとか、また今日のキリストの再臨の聖言もあるからなおさらですよ。 でも我々は、今まで全然思ってこなかったじゃないですか。明主様が言われたように、「私の罪を一身に引き受けて償ってくださった愛に感謝します」「イエスの愛に感謝します」と言ったことがあったんだろうか。 だって、明主様おっしゃってますよね。キリストの大愛に感謝し礼拝し祈る、今まではそれでよかったとおっしゃっている。でも、今まで、それすらしてこなかったじゃないですか。クリスマスの時期に、「私はイエスの愛に感謝します」としてたんですか、我々?してなかったですよ。 だから、メシア教の信徒である我々は、なおさら、イエスの愛に―愛ではなくて大愛ですね―ということは、我々では計り知れないほど大きな愛をもって我々の罪を贖ってくださったイエスという存在を受け入れなければいけない。 で、今日最後に申し上げたいのは、明主様の御歌、「罪深き此身も尤め給はずて大いなる幸豊に恵まふ」。 「此身も」だから、明主様のことですね。明主様は、ご自分のことを、ただの「罪人」ではなくて罪が深い存在なんだと仰せですね。 明主様ご自身が、こんなに罪深い私なんだけれども、神様はそんな私をとがめないで、大いなる幸、幸せを恵んでくださっていると、そういう御歌です。 我々は普通、なにか神様からの恵みがあったら、今日の弱点のお話のところでも話しましたように、感謝をしたからこうなったんだ、ちゃんと信仰してるから神様が恵んでくださったんだというように思いがちですけれども、明主様は、まったく逆ですよ。 明主様は、ご自分が罪深いにもかかわらず―そんな自分であるにもかかわらず―神様は恵みをくださっている、いいことを起こしてくださっている、ということを仰せですね。 だから、一方的ということです。 神様が我々を恵んでくださるのは、我々の心がけがいいからとか、今日拝聴した聖書(「ローマ人への手紙」第3章9節~31節)でもパウロが言っているように、我々の「行いによる義」によってじゃないんですよ。「自分はこれをしました」「十戒を守りました」「利他行しました」「人に優しいことをしました」「神様を愛してます」というようなことだから神様が我々になにかを恵んでくださるのではない。 むしろ、そのまったく逆で、そんなことなどとうていできないような我々であっても神様は恵んでくださっている、ということです。だって、義人は一人もいない、善を行う者は一人もいない、ことごとくが罪の下にあると、そう聖書にありましたね。 そんな我々に対して、神様は、一方的に幸を恵んでくださっているんです。 だから、何も誇れることなんて無いじゃないですか。 「行いによる義」であれば誇れますよね。自分がご祈願書を書いたからだ、お委ねをしたからだ、これをしたからだ、あれをしたからだ、自分は信仰をしている、嘘もついてません、自分はこれをしてます、あの人はしてません―それだったら行いによる義になるんですから、誇りますよ。自分がちゃんと実践したからこういう恵みをいただいたんだと、誇る。 でも、そういう我々の姿とはまったく関係無く、というか、むしろ逆ですよ。我々は、罪深い存在にもかかわらず、神様は、そんな我々をとがめないで、一方的に幸を恵んでくださっている。 で、この時にね、この「幸」とはなんなんだろう。「大いなる幸豊に恵まふ」の「幸」とはなんなんだろう、という問題があるんですね。 僕はずっと、これは、明主様のみならず我々全員罪深い存在だけれども、神様は、服とか食べ物とか、そういう衣食住に関わることがありますね、そういう衣食住について、本当はそれをお受けするのに値しない我々なんだけれども、神様は、そのような衣食住というような幸を―物質的な幸を―恵んでくださっていると、そういう意味での「幸」だと思ってきました。 だけど、今回この御歌をずっと拝見してて私が思ったのは、ここで言う「幸」は、今言ったような物質的なこともあると思いますけれども、本当は、今日もずっとお話ししているように、本当は、「赦し」ですよね。 だって神様は、罪深きこの身もとがめないでなにか与えてくださるんですよね。神様はとがめる代わりに何を用意されたんですか?罪深い人がいる、とがめません、としたら、とがめない代わりに神様はどんな幸をご用意くださるのでしょうか。 そしたら、とがめるのではなくて神様が与えてくださる物と言ったら、それは「赦し」ですよ。 だからこの御歌にある「幸」は、「赦し」ということです。 私は罪深くて本当はとがめられて滅びるような存在なんだけれども、神様は、赦しという大いなる幸を豊かに恵んでくださっていると、そういう内容の御歌だと思いますよ、これは。 豊かに恵むよ、と仰せですが、これは、罪深き、という言葉と相応してますね。明主様は、一つの軽い罪を犯してしまったと仰せなのではなく、私は罪深いと仰せなのですから、その重たい罪に対して、神様のほうは、その罪をすべてカバーして余りある赦しという愛を豊かに恵んでくださって、罪人である我々を包んでくださっている―これが大いなる幸ですよね。 イエスの宣教師の一人であったパウロも、イエス・キリストを知ったというその絶大な価値の故に、この世のすべてのものをふん土のように思っていると、そう言われている(「ピリピ人への手紙」第3章8節)。 ふん土というのは、糞とかが混ざった土ということですから、もうどうしようもない物、ということですね。パウロにとっては、イエスを通して「赦し」という幸を知ったことにより、世の中のすべてのものを失ってもまったく構わない、なぜなら、世の中の幸と呼ばれるものは自分にとってはふん土に等しいんだからと、そう言っていますよ。 でもね、メシア教の我々は、イエス・キリストから賜る赦しの幸を知ったのみならず、その次のステップである、あなた方は神様の子供であるメシアとして新しく生まれて、イエス・キリストや明主様のように、世の人々に祝福を分け与える務めがあるんだよ、それがあなた方の本当の姿なんだよ、という幸についても明主様から教えていただいている。 私の罪をお赦しいただいてありがとうございます、という、この幸を知っただけでも、パウロにとっては、世の中のすべてのものがふん土のようなものなんだというぐらいの大変な幸だったんだけれども、我々は、さらに次のステップの幸も知らされているんですよ。 だって、赦されました、生きる存在となりました、として、その先はどうなるんですか? だからそれは、祝福を分け与える者になりなさい、というステップですよ。神様の子供となって嬉々として多くの人に喜びを分け与える御用にお仕えしなさいと、そういう幸まで知らせていただいているんです。 パウロにとっては、赦しの幸を知っただけでも、「もうこの世の物は何も要らない」ほどのことだったのに、我々はどうなんですか。 我々は、どれだけそういうことを聞いても、いや自分はまだこれを手にしてない、これも手にしてない、お金も足りない、これも足りない、あれも足りない―そんなことばかり言ってるじゃないですか、心の中で思ってるじゃないですか。 「真明様、それは全部分かります。宗教的な話は全部分かります。でも、現実的にはまだこんなに叶えられてないことがいっぱいあるじゃないか」と、そんなですよ、我々の姿勢はね。 しかもですよ、そんな姿勢を持った我々ですら、神様は赦して、見逃して、生かしてくださっているんですよ。本当だったら、「何を言ってるんだ」のひと言で終わりなんでしょうけれどもね。 というように、神様が、いかに寛大な御心で臨んでくださっているか、少なくともそれには気づかなければならないと思いますよ。 神様は、強制ではなくて、忍耐をもって、我々一人ひとりが、いつの日か、「自分は神様に対してなんて思い上がっていたんだろう。イエスの贖いを蔑ろにして、明主様の真の福音も蔑ろにして、この世を主体にして生きてきた私に対して、なんて深い大愛を持ってくださっていたんだろう」と気づいてほしいなということを願って、今、我々一人ひとりの中で静かに生きておられるんです。だって、「わたしの中で、生きています」なんでしょ、神様は。生きておられますよ、神様はね、私たちの中で。 だから、我々にとって何が真の幸かと言ったら、それは、イエスの贖いと明主様が教えてくださったメシアとして新しく生まれる道、これですよ。 今までの我々は、明主様ということはもちろんお受けしてましたけれども、でも、その土台となるイエスの大愛、そのイエスの愛に感謝して礼拝することは無かったですよね?でも、今日は礼拝してますよ。だって「御生誕祭並びにイエス聖誕祭」なんですから。礼拝してますよ。 確かに明主様は、もうメシア教の信者になってキリストの再臨をお受けしたらその必要は無いと仰せですけれども、そこで偉そうに、「自分は神様だ、キリストの再臨だ、すごい存在なんだ」と調子に乗るのではなくて、「人にして人にしあらで神にして神にしあらじな我身思へば」という明主様の御歌がありますように、我々には、神様側としてキリストの再臨という立場もあるんですけれども、人の立場というのもあるんです。 だから、ただ、私はキリストの再臨なので偉いんだ、私の言うことを聞け、というふうに思い上がるのではなくて、人の立場としては、自分は罪深い存在だったのを赦していただいたというのもあるんですから、その立場としてはイエスのことを忘れてはいけない。 でも、もう一方、我々は神様側の立場も持たされている。世の人は、「人」の立場のことだけでもう終わっちゃってるんです。だとしたらどうやって本当の幸せがつかめるんですか? でも我々は、明主様とイエスというお二人のおかげによって、真の幸の道を知らせていただいた。 我々は、「なかなかそうは思えない」「イエスの贖いがすごい幸だと思えない」「パウロのように世の中の物がふん土だと思えない」かもしれない。 でも、たとえ思えない我々であったとしても、神様はイエスのことを私たちに教えてくださって、明主様の真の偉大さも教えてくださって、我々を大きな愛をもって導いてくださっている。 だから、明主様のご生誕とクリスマスが近づいたこの今の時期に、神様に対して、「イエスと明主様が築いてくださった道をお受けしてあなたにお仕えしてまいります」と、そういう思いでクリスマスシーズンを過ごさせていただくなら、神様も、「そうだ」と仰せくださって、本当に喜ばしいことを味わわせてくださるかもしれないですよ。 そして、神様が私たちにくださっている最も大きなクリスマスプレゼントは、「イエスの贖いの血」と「明主様というご存在」ですよ。これが神様から我々への何よりのクリスマスプレゼントなんです。 神様は、「それはあなたにもうあげた」と仰せなんです。「クリスマスプレゼントはもうあげました」と仰せなんです。 だから、そのような神様からの大きな幸、大きな富、最高のクリスマスプレゼントを受け取った我々は、その神様の大愛に、明主様とイエスを先頭に、少しでもお応えさせていただきたいですよね。 私は、このクリスマスの時期を、そういうことをしっかり胸に置いて、皆様と共に過ごしていければなと思っております。 ありがとうございました。