(和装姿の真明様が登壇されるや参拝席から感動の拍手が強く沸き起こる)これ、夢ではないですよ(一同笑声)。 ちなみに着物を着たのは妻との結婚式以来ですので、十何年ぶりです。アフリカに行きました時にアフリカの民族衣装を着たんですけれども、日本に帰ってきまして、やはり日本人だから和装かな(一同笑声)ということを思ったのと、あと、妻も着物を着てるので、なんか自然かなと思いましたし、また、そもそも明主様は基本着物であられましたので―――日比谷公会堂の時などはスーツを着られたりしましたけれども――基本着物であられたので、ということもありますね。 でも、今度ちょんまげで来ることはないのでご安心ください(一同笑声)。 これ、今回の決めぜりふだったんですね(一同笑声)。今日の祭典で、着物を着て、「今度はちょんまげでは来ませんよ」と言ったら面白いかなと思って、思い付いた時は妻にも言いたかったんですけれども、妻にもこの場で笑ってほしかったので(一同笑声)ずっと我慢してました。皆様に笑っていただけてよかったです。 本題に入る前に、好評だった――自分で好評と言うのも変ですけれども(一同笑声)――先月の祖霊大祭の時に、「我が家の近況」ということで少し子供たちのこととかを話したのですが、今日もそれを少ししようかなと思います。 ま、今は子供たちがまだ反抗期ではないので子供の話題もあるんですけれども、もし私の口から子供の話題が減ってきたら、「反抗期に入ったんだな」(一同笑声)と、それは察してください。「なんか奥さんの話ばっかりしてるな」ということで、察してください(一同笑声)。 子供が3人いますと毎日いろんなことが起こるんですけれども、でも、内容関係無く話すわけにもいきませんので、やはり、少し信仰に関係があると思われることがいいかなと思っています。 それで、この間、家で、一番下の長男のみことが、床でゴロゴロ回転するのが楽しくなったのか、そうやって遊んでたんですね。なんかあるじゃないですか、春巻きみたいに(一同笑声)こうゴロゴロ回転するというの。それを彼が一人でやってたんです。 そうしたら、その時の回転の具合で、右手をくじいたかなにかしまして、それで突然泣き出したんですね。で、なかなか泣きやまない。でも、なにか激しい音がしたわけでもなかったので、そのうちに収まるかなと思って見てました。 (信徒の多くがうちわで扇いでいるのをご覧になり)皆さん暑いですよね(一同笑声)。この着物も、超暑いですよ。超暑い(一同笑声)。(前方に座っている参拝者が扇子を掲げ、真明様にお貸ししようとする動作をする)あ、それ、お貸しくださるの?(一同笑声) でも、もし体調等なにかありましたら、ご遠慮なくスタッフの方にお伝えください。 みことの話ですね。みことがゴロゴロ床で回転してたら突然泣き出して、結構泣いてたので上の女の子たちもちょっと心配してまして、で、痛そうにしてたのが右手だったので、彼は朝の食事も左手で食べたりしました。その時は泣いてなかったですね。なので、もう落ち着くかなと思ったんですけれども、そしたらその後、朝食後また泣き出しまして、それでそのまま寝ちゃったんですね。寝ちゃった。 それで相当長い間寝てまして、起きたらまた泣き出したので、ちょっと大変かなと思ってましたら、突然、急に上機嫌になったんですね。いや、本当に、突然(一同笑声)。 それで、めいとかみゆに、突然良くなっちゃったねみたいなことを言いましたら、めいが、「神様が治したんだね」みたいなことを言いましたので、「うん、さすが宗教家の子供だ!」(一同笑声)、「さすが宗教家の子供はよく分かってる」(一同笑声)と思ってました。でも、実際、家では神様の話はあまりしませんけれどもね。 そしたら次女のみゆが、「神様はここ(真明様、ご自身の眉間を示される)にいるから、ここからなんかこうして(真明様、眉間から右肩、右腕を順番に示される)治したのかな」(一同笑声)みたいな、非常に具体的に考えてて面白いなと思ったりして、だから、結局、みことは大丈夫だったんですね、そのあと普通にしてましたので。 という話と、あとはヴィーガンに関わることなんですけれども、スーパーとかに行くと、お店の人が子供に試食をさせようとしますよね、「子供ちゃん、飴ちゃんいる?」とか、「クッキーちょっと食べる?」みたいなことで。 で、長女のめいは、親の我々よりも熱心にヴィーガンをしていますので、そういう時になにかもらうと、すぐ、「これは何が入ってるの?」みたいに聞いてくるので、「卵とバター入ってるよ」と言うと、さっと返す(一同笑声)みたいなことで、普通子供は、油断してるとそういうのはすぐ食べちゃいますけれども、めいは、やはり年齢が一番上ということもあって、すごいなと思ってます。 あとは、ヴィーガンではない物を人からもらう、ということがありますよね。 (向けられた扇風機の風に対して)いやものすごい気持ちいいですね(一同笑声)。ありがとうございます。なんか湯上りの気分ですね(一同笑声)。湯上りに扇風機の前に立った時の気分(一同笑声)で、すごく気持ちがいいです。ありがとうございます。 ヴィーガンでない物をもらってしまって、そういう物は仕方なく食べてます、と言われる方もおられますけれども、この間、めいの友達が北海道に行かれたということで、そのお父さんからお土産をもらったんですね。 いつもすごい早い時間に私が駅に送っていって、その時、そのお父さんとは毎日のようにお会いして、そういう時ちょっとした会話もするので仲がいいということもあって、それで、「北海道に行ってきたのでお土産です」ということでお土産をいただきまして、「ありがとうございます」とか言ってそれを家に持って帰って見たら、『白い恋人』だったんですね(一同笑声)。 ヴィーガンの物ではないのでどうしようかなと思ったんですが、今後の付き合いもあるから、きちんとお詫びしてお返ししようということになりまして、それをめいに伝えたんですね。「今日あの子のお父さんからお土産ということでお菓子もらったけど、ヴィーガンの物じゃないから、『家はヴィーガンなんです』と言ってお返ししようね」と言ったら、そしたらめいが言ったのは、「うん、そうしよう」ということと、そのあと、「そうやって伝えておいたらもしかしたら今度はヴィーガンの物をもらえるかもしれないよ」(一同笑声)ということで、なるほど、さすが一歩先を行ってるな(一同笑声)と思いまして、ただ返すだけではなくて、次のことまで考えているなということで、「そうだね。そういうこともあったらいいね」「すごいね、めい」とか言ったりしてました。 で、次の日の朝、お父さんにお会いしまして、そしてひたすらお詫びしてですね、「お気持ち大変ありがたいんですけれども、家、家族全員ヴィーガンでして」と言ったところ、そのお父さんはヴィーガンという言葉を知っておりまして、「あ、ヴィーガンですか」とか言われまして、でも、私の中では、なんか怒らせちゃったかなみたいなことで、とにかくひたすらお詫びしたんですね。 で、次の日。またそのお父さんにお会いしましたら、お父さんが、「おはようございます」と言われながら、なんかこう(真明様、袋を差し出す動作をされ、一同笑声)するわけですね。 それで、「え?なんですか」ということでその袋を開けたら、中は海藻だったんですね、利尻昆布(一同笑声)。しかも天然物。天然物の利尻昆布。 その時、これ、完全にめいの言った通りだ(一同笑声)と思って、やっぱり、はっきりお伝えしたことにより、ヴィーガンの物、しかも、我が家は海藻が大好きで、さらに、海藻は海藻でも天然物のいいものをいただきまして、、、だから、結論的には、うれしかったな(一同笑声)という話なわけですが、とにかく、思い切ってお伝えして良かったなと思いましたですね。しかも今後、そのお父さんに対してなにかヴィーガンのことについて会話する糸口もできたわけですし、やはり思い切って言って良かったなと、そういう話でございます。という我が家の近況でした(一同拍手)。 このままずっと子供たちの話をしててもいいんですけれども(一同笑声)、少し真面目な話ということで、本題に入りまして、今日の本題はアフリカですね。 先月、皆様のご献金によるお支えのおかげをもってアフリカに参りまして、多くのアフリカの信徒に会うことができました。今日参拝に来られている方の中でも何人か行かれた方もいらっしゃると思います。でも、皆様のお支えで行くことができまして、ありがとうございました。 また今回のアンゴラへの巡教には妻が初めて同行しましたので、今、ここで妻にもひと言皆様に感謝の言葉を言ってもらおうかなと思うんですけれどもいかがでしょうか(一同拍手マミ奥様 すいません、突然だったので(一同笑声)。この度は皆様のおかげで、真明様のお供でアフリカへ参らせていただくことができまして、本当にありがとうございました。教主様のご代行であられる真明様を通して、明主様のみ心を一心にお受けしよう、また、お仕えさせていただこうという現地の信徒の皆様の熱い思いが伝わってまいりまして、本当に毎日感動で胸がいっぱいでございました。 私自身、真明様がお進めになるご神業の壮大さを目の当たりにさせていただき、大変な感銘を受けまして、さらに一層お仕えさせていただきたいと思わせていただきました。 そして真明様はですね、本当に、どこに行かれてもパッと皆様をね、明るくさせてくださいました。例えばですね、お食事を作ってくださっているアフリカの信徒の皆様のキッチンにお邪魔させていただいた時、真明様はこのように仰せになったんですけれども、、、真明様 あ、それ、言って大丈夫な内容ですか?言って大丈夫な内容?(一同笑声)マミ奥様 はい。言って大丈夫だと思います(一同笑声)。真明様 うん。どうぞ。マミ奥様 それは、「私たちの胃は、あなた方を愛しています」(一同笑声)とおっしゃったんですね。で、そこにいた信徒の皆様は大変なお喜びようで、、、真明様 今、皆様は小笑いだったけれども、現地では大爆笑してましたよ。なんか言葉のチョイスの感じでですね(一同笑声)。マミ奥様 そうですね。そして、さらに続けて真明様は、「でも私たちはもっと皆様方のことを愛してます」とおっしゃったんですね。そしたらその場が喜びと感動で本当にもう一体となったというようなエピソードもございました。 本当に真明様が常に常に私たちを愛してくださってるんだなというのを感じさせていただきました。 私も、皆様方お一人おひとりと共に、真明様が先頭に立ってお進めになるご神業にお仕えさせていただきたいと思っておりますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました(一同拍手)。真明様 ありがとうございました。 現地で私がほとんどそんなことしか言わないといいますか、言うことの90%ぐらいがジョークだったので(一同笑声)、最初は皆さん、「真明様はとにかくなにかすごいことを言われるんだろう」みたいな感じでしたが、後半は皆様もう慣れてきまして(一同笑声)、「この方はジョークばかりおっしゃる方なんだ」(一同笑声)というのが浸透しまして、それはそれでよかったです。 それで、もともとアフリカはですね、今年は行く予定は無かったんですね。というのは、去年土の聖地の地鎮祭・聖別式をしまして、当時のアフォンソ本部長を中心に安定した体制が続くだろうということで、もともと行く予定ではなかった。 アフォンソ本部長とカブーソ副本部長という二人の体制で、教主様と私としてはそのお二人とも非常に信頼していました。 今回の教団浄化の時、真っ先に立ち上がってくださったのがカブーソ現本部長で、アフォンソ本部長も立ち上がってくださいましたので、このお二人のもとで安泰だなと思ってたんですね。 でも、やはり、アフリカは教団が大きいですからね、なかなかそうもいかなくて、日本の場合、教団が小さすぎてもう喧嘩する余力も無いのかどうか分かりませんけれども(一同笑声)、ただ、やはり、教団が大きいともめごとは出てきますよね。お金もありますから、運営の仕方でもめるとかですね。 私自身、去年行かせていただく前、アフォンソ、カブーソの間で少し緊張感というか、なにか争いに発展しそうな空気感があるなというのはなんとなく感じてはいたんですけれども、去年私が聖別式をしまして、私が日本に戻ってきてから初めて争いが思い切って表面化したわけですね。 やはり、私が聖地を聖別する前はアフリカ側としても喧嘩しにくいですよね。これから明主様の聖地がアフリカにできるという一大事業がある中では喧嘩しにくい。 なので、そういううごめいたものがありながらも、聖別式の前はなんとかお二人も協力しながらやってたんですけれども、その事業が終わって私が帰りましたら、それまで我慢していたものが思い切って表に出ることになったわけです。 だから対立ですね。アフォンソ対カブーソになったわけです。明確にそうなった。 我々がもともとイメージしていたのは、アフォンソさんは60歳前後、カブーソさんは40歳ちょっとなので、あと数年アフォンソ先生がされたら、アフォンソ先生は退かれて、そのあとは若いカブーソ副本部長が跡を継いでと、そういうことでもう安泰だなと教主様と私は思ってましたし、今言いましたように、お二人とも非常に私たちは信頼していました。 お二人とも日本に来られて、お二人のお話を聞く集いに出られた方もいらっしゃると思うんですけれども、お二人ともすごい信仰ですよね。なので安心していたんだけれども、この二人が喧嘩するということになりまして、喧嘩というか、アフリカでの教団浄化みたいなことが始まったわけですね。 その争いが表面化した当初、日本側としては、仲介役をしようとしたわけです。要は、アフォンソ本部長も認めるし、だけど、アフリカの将来のことを考えまして、若いカブーソ副本部長も大切にしないとアフリカの将来は無いなということで、だから、両方を立てたいということで、仲介役。日本側としては、両方を支持しますよという姿勢を取ろうとなった。 でも、この日本側のスタンスは、もし争いがまだそんなに激しくなければそれで収まったと思うんですけれども、時すでに遅しというか、警察沙汰とかそういうことがもう起きてましたので、日本側が、「両方を支持する」となった時、結局それは、現体制にとってすごい有利になったわけですね。アフォンソ先生側にとってすごい有利になってしまった。 というのは、アフォンソ先生側としては、争っている中にあって、いわば、「我々は日本側からの信任を得たぞ」「だから俺たちの言うことを聞け」の流れになってしまい、結果、カブーソ先生側のグループがもっと虐げられるという状況が生まれてしまったんですね。日本が両方を支持するとしたからこうなってしまった。 ちなみにこれは、去年の年末とか、今年の頭の1月とか2月とか、その辺のことです。ということで、この日本の中途半端な姿勢により、逆に争いがどんどんどんどん激化してしまいまして、そうなった時私が心配したのは、もちろん、まず聖地のことがありますね。 「このままいけば聖地の取り合いみたいなことになるのかな」とか、また、日本の信徒の皆様が土の聖地の建設奉仕に行かれるのを非常に楽しみにしていらっしゃるのを知ってましたから、だから、このまま行ったら、そんなことはとうてい実現できない、日本の信徒の皆様がアフリカに行くということが実現できないと、そのことがありました。そして、その当時の状況では、日本の信徒の皆様が行くことができないのはもう明らかでした。 アフォンソ体制に反対する人たちが献金を本部に送るのを止めるとかも起きてましたし、争いがどんどんどんどんエスカレートしていまして、もしこのままなにも手を打たずにいけば、せっかく去年土の聖地が誕生して、日本の信徒の皆様もアフリカに行かれるのを楽しみにしているのに行けない、アフリカ信徒の皆様も、なんと言いますか、この両者の争いに巻き込まれる形になっているわけですから、そこで私は、これは早急な解決が必要だと思ったんですね。このアフリカの問題はなんとしても解決しなきゃいけないと、そう思いました。 というのは、この問題を解決しない限り、日本の信徒の皆さんも、争いがあるのでアフリカには行けないということになり、そんなことで日本の信徒の皆様が悲しむという状況が忍びないというか申し訳ないということで、なんとか解決しないといけないと思ったんですね。 それで、状況を見ました時、状態としては、要は、アフォンソ体制がカブーソ派を追いやっている状態ですから、私は、このままではカブーソさんの芽が潰されるなと、そう思ったんですね。 アフォンソ体制は、もう、カブーソ副本部長の職務停止とかそういうことをしている状況でしたので、このまま放っておいたら、あれだけ教主様と私が信頼しているカブーソ副本部長が、アフリカのメシア教から追放されてしまう。それでは、アフリカメシア教の未来は無いと、そう思いました。 ということで私は、アフリカの将来を見据えて、これ以上仲介役の立場でいるのではなく、むしろ、はっきり、若いカブーソ副本部長支持に切り替えるべきだと、そう思ったわけです。 もちろん、アフォンソ本部長も軽く扱うわけではないんですよ。でも、アフォンソ先生はもう60歳近いわけですので、本部長の立場はカブーソ副本部長にお譲りいただいて、そして、一種の名誉職的な形でカブーソ本部長を支えていってほしいとそう思いまして、また私は、短期間で解決する方法はその道しかないと思ったんですね。 当然アフリカにはカブーソ副本部長を信頼している方々もたくさんいましたので、日本としてその姿勢をはっきり打ち出すことが大切だと思ったわけです。 そしてもちろん、カブーソさんを本部長にということであれば、まずアフリカのアンゴラにおいて選ばれなきゃいけないわけですね。 でも、その時すでに、専従者とか要職を担っている方々の過半数はカブーソ副本部長支持でしたので、アンゴラのそのような方々全員が集まる臨時総会をもって、もしアンゴラ側がカブーソ本部長を選出して、そして、その後の教主様のご認証によってカブーソ体制で行くということをはっきりさせれば、アフォンソ先生側も、教主様のご認証というその重い行為を受け入れて進んでくれるかもしれないということを思って、カブーソ先生支持で行く決断をしたわけです。 その後、実際にアンゴラメシア教の臨時総会において多数決でカブーソ新本部長が選ばれまして、そして教主様がご認証くださって、これでアフォンソ先生側も折れるかなと思ったんですけれども、結局、争いが激しすぎましたのでね、アフォンソ先生側は教主様のご認証ということそのものを受け入れない状況になりました。 教主様はなにか誤った情報を得ているんだとか、そういうことを言い出しまして、教主様のご認証行為そのものを受け入れないという状況になってしまった、アフォンソ側はですね。 でも、教主様のご意思は、「本部長としてはカブーソ」ということがはっきりしていましたので、一部の方々は最初はアフォンソ側に付いたりということもあったのですが、最終的には、ほとんどの皆様が戻ってくるとでも言うのでしょうか、というのは、今年8月17日にしました祭典ですが、肌感覚として、去年の聖別式の時よりも参列者は多いなと感じましたのでね。 だからこの争いは、アンゴラの教団を二分するとかそこまでのことではなくて、アフォンソ前本部長に近いほんの一部の方々がちょっと今はまだ難しいと、それくらいの状況ですね。 どちらにしましても、日本側としてはカブーソ本部長を支えるということを打ち出したわけですが、日本からアンゴラは遠いですからね、だから、アンゴラの信徒の中にも、本当にそうなんだろうかとか、日本側が打ち出してることは本当に真実なんだろうかとか半信半疑の方も一部おられましたので、そういうことであれば、実際に私がアンゴラに行かせていただきまして、私が、体をもって、「私はカブーソ本部長を支持してるよ」というのを見せるほうがアフリカ信徒の皆さんを安心させるであろうと、そういうことで、いわば急遽、行かせていただくことになったわけです。 教団浄化になりますとうわさ話ばっかりになりますからね。怪文書にうわさ話。だから、実際に私が行きまして、教主様と私のカブーソ本部長支持というのを実際にアフリカ信徒に見せること以上強烈なメッセージは無いかなと、そういうことで行かせていただいたわけです。 また、まだ水面下では争いが続いていましたので、日本の信徒の皆様が行かれる時になんか変なもめごとになっても嫌だなとも思ったんですね。でも、私が行くとなりますと大々的になりますので、アフォンソ先生側もなかなか動きを取りづらいですし、日本の信徒の皆様に対してなにか変なことも起こらないだろうなと、そんなことも考えました。 ご安心ください、今はもう落ち着いております。ほとんどの信徒――98、99%ぐらいの信徒――はもうそのままこちらに来てるんじゃないかなという感じはしております。 ということで、本当は行く予定は無かったんですけれども、アフリカの教団浄化がありまして、アフリカの信徒の皆様と、日本の信徒の皆様のことを考えまして、行かせていただいたほうがいいかなということでした。 また、途中で私が思いましたのは、もし許されるならば、やはり1年に1回は聖地の様子をちゃんと確認する責務が私にはあるかなと、そんなことも考えましたですね。 で、土の聖地ですけれども、まあね、確かになかなか簡単には行けませんけれども、もし皆様も状況が許されるならぜひ行っていただきたいと思います。 去年行きました時は農地は本当に小さかったんですけれども、それもどんどんどんどん広げて、本当に、あそこは別世界ですね、別世界。人生観が根底から変わると、そういう体験を得られる場所じゃないかなと思います。 私は去年もアフリカの話をたくさんさせていただきましたが、私がよく言っていたのはアフリカ信徒の「信仰の純粋性」ですね、信仰の純粋性。 それを聞くと我々は、「我々もアフリカ信徒のような信仰を持ちたい」と思うと思いますが、その中で、今回アンゴラに参りまして、伺った話ですごいなと思ったことがあったんですけれども、それは、アンゴラの近くにコンゴ民主共和国というところがありまして、ここにも千人とか二千人くらいの信徒がいまして、ここもいつか行かせていただきたいと思っております。アンゴラだけではなくて他のアフリカ諸国もぜひ行かせていただきたいなと思うんですけれども、とにかく、このコンゴ民主共和国の本部長はアウベルチさんと言いまして、コンゴ民主共和国も今回のアフリカの教団浄化に非常に影響を受けました。 それはどういうことかというと、まず、コンゴ民主共和国のメシア教には理事が10名いらっしゃる。そして、この国は、昔アフォンソ先生が布教してましたので、彼が非常に影響力を行使できるわけです。 その流れで、今回の教団浄化を通して、10人の理事のうち6人が反アウベルチ本部長になったんですね。だから、アウベルチさんから見たら、4対6という不利な状況ですね。過半数を取られている状況。 アフォンソ先生がなんかしらの情報を流し、その6人の理事と一緒にやっていると、そう想定されまして、この6人の理事は、要は、アウベルチ本部長を追い出したいと、そういうことですね。 で、少し話を戻しますと、アフリカでの教団浄化が始まった当初は、このアウベルチ本部長も、今言ったようにコンゴ民主共和国はアフォンソ先生とのつながりを持っている方も多かったので、そちらから入る情報に流され、カブーソさんよりもアフォンソさん寄りだった。 でも、日本側が明確にカブーソ先生支持を打ち出し、そしてまた教主様がカブーソ本部長をご認証になりましたので、それですぐに状況を理解しまして、そういうことなのかということで、すぐにカブーソ本部長を通して日本につながりますみたいなことになりました。 そうなると今度は、アンゴラにいるアフォンソ先生たちのグループがその流れが気に入らないということでコンゴ民主共和国にアプローチをかけまして、結果、理事6人を反アウベルチ本部長にしまして、そして、アウベルチ本部長を追放しようと、そういうことです。新しい本部長を擁立したいと、そういうことですね。 だけど同時に彼らは、新しい本部長への教主様のご認証は得られないことは分かっていますから、アウベルチさんがとんでもない人だ、みたいな戦法に出たわけですね。いろんな金銭問題があるとか、こういう悪いことをしてるみたいなことを言い出した。そしてこの6人がなにをしたかというと、そういうことを現地の警察に言ったんですね。現地の警察。警察署に行って、このアウベルチさんというのはこんなに悪いことをしているので逮捕してくださいと、そうなったわけです。 (信徒が呆気に取られているのをご察知になり、真明様)いや、すごいですよね、確かに。日本ではなかなか難しそうですよね、そういうことは。日本は、いわば先進国ですので、もうちょっときちっとした法体制があると思うんですけれども、コンゴ民主共和国ではこういうことができてしまう。 ということで、その6人の理事はそういう運動を続けていた。 一方日本側としましては、コンゴ民主共和国のメシア教が安定した状況ではないということはすでに知っていましたから、日本側のコンゴ民主共和国に対しての姿勢も明確にしておいたほうがいいだろうということで、日本のメシア教はアウベルチ本部長を支持していると、そういう公式な文書を作りまして、それをフランス語訳して(コンゴ民主共和国の公用語はフランス語)、コンゴ民主共和国のほうに送った。 しかし警察は、まずその6人の理事の情報をもとに、とにかくこのアウベルチさんという人を逮捕しなければならないと動き始めていまして、なんと、実際、今回私がアフリカに行く10日前に、本当に逮捕されちゃったんですね。逮捕されちゃった。 逮捕されちゃって、刑務所といいますか、拘置所みたいなところに入れられてしまいました。これ、すべて私がご本人からお聞きしたお話です。 捕まってしまったアウベルチさんは、大変なことになってしまったと思われていたけれども、その拘置所であるお祈りをされたんですね。 それはどういうお祈りかといったら、「自分は今、このコンゴ民主共和国で、教主様の代行として本部長というお役目をいただいている。教主様の代行であるということは、自分は教主様そのものであり、ひいては明主様そのものでもあるんだ。ということは、今自分がこんなに苦しんでいるのは、明主様が苦しまれているということなんだ。自分の至らなさゆえに明主様にこんな苦しみを与えてしまっているなんてとんでもないことだ。悔い改めなければならない」というような悔い改めのお祈りを捧げられたとのことでした。 そして、アウベルチ本部長が言われるには、そのお祈りを捧げたすぐあと、5分くらい経ったら、突然刑務官のような人が自分の部屋に来て鍵を開けてくれて、そしてそこを出られたと、そういうことでした。 これが現実的にはどういうことかというと、6人の理事がいろんな批判をしてアウベルチさん逮捕の動きをしていた。でも、しばらく経ってから、先ほどお話しした日本側のアウベルチ支持の文書もコンゴ民主共和国に届き始めていたんですね。 ですので、残りのアウベルチ支持の4人の理事のほうは、対抗策として、日本側から届いた文書を警察署などに届ける運動をし始めていた。6人はアウベルチ逮捕の運動。残りの4人は、いや、アウベルチさんは正当な本部長で問題無いという運動をしていたわけです。 そんなさなか、結局アウベルチ本部長は捕まってしまうわけですが、そこで、「今日、例のアウベルチというやつを捕まえました」みたいなことで部下が上司に報告したところ、上司は、この新しい日本からの情報も得ていまして、で、警察の対応としては、世界メシア教というのは日本を中心とした国際的な団体のようだから、日本側の判断というものが尊重されなければならないというスタンスを取りまして、結果、アウベルチ本部長は釈放されたと、そういうことのようです。すごい話ですね。 とにかくアウベルチ本部長はついに釈放されました。釈放されたので、私、真明に会いにアンゴラに行こうとなるわけですが、コンゴ民主共和国からアンゴラの首都ルアンダまでの旅路はどういうものかというと、まず、コンゴ民主共和国の中心地からアンゴラの国境まで、タクシーバイクのような、バイクの後ろに乗って運転手に掴まってという移動手段で24時間(参拝席から驚きの声が上がる)。まず、バイクの後ろで24時間。 それでアンゴラの国境まで行きましたが、そこではまだ入国できないので、今度はそこから車で8時間かけて国境沿いを北上しまして、入国できるところまで行く。そこでアンゴラに入国したあと、今度はそこからバス。バスで24時間(再び参拝席から驚きの声が上がる)かけて、教主の代行である私に会わせていただきたいと、そういう旅路です。 しかも、アウベルチ本部長とは去年も会ってるんですよ。いや、今の旅路、一生に一度とかなら分かりますけれども、去年も会ってる。で、来年も戻ってくる可能性が高い、そんな中にあってその旅路を経て私に会いに来る。しかも、そんなにかけて来たとしても、祭典でちらっと会うとか、それくらいのことですよ。 だから我々、簡単に、アフリカ信徒の信仰の純粋性を学びたいとか言うけれども、アフリカ信徒の信仰の純粋性というか、その強さは、大変なものですよ。だって、もう逮捕されるかもしれない――というか実際に逮捕されたわけですが――みたいなところを信仰によって切り抜けていく強さを考えると、我々日本人はもうなまぬる過ぎますね。 なんと言いますか、我々日本人の、この生きてる感覚がもうなまぬる過ぎるなという感じがしますね。でも、なんとか模範とさせていただきたいというぐらい強烈な信仰心ですね。 アフリカ滞在中、アンゴラの全専従者とのご面会の時に、ある質問がありまして、これ、面白い質問だなと思ったのですが、それは、いろいろ教団浄化がありますけれども、詰まるところ教団浄化の原因はなんなんですかという質問。 アフリカは、そもそも救世教とメシア教の教団浄化がありまして、それを切り抜けたのに、またメシア教内部でもめましたので、このように繰り返される教団浄化に対して、これは何が原因なんだろうかと、そういうことを思われての質問なんだろうと思います。 この質問に対しての答え方はいろいろあるわけですけれども、今回私がお答えしたのは、それは、「神様が我々に『イエス』か『ノー』かを決めさせてる、だから教団浄化が起きてくるのだ」と、そうお答えしました。 日本の教団浄化の場合も結局これがはっきりしましたよね。本来世界救世教というのは、もう、ずっと、二代様の時から、教主の口は明主様の口であり、教主が言うことが明主様が言われることであり、教主が示す方向が明主様が示される方向、要は、教主というのは生きた明主様ですよと、それが「世界救世教」であったのに、それについて我々は、教団浄化前、ずっと、「はい」なんだけど「いいえ」みたいな感じで、この返事について中途半端にしてましたですね。 教主様が自分にとって都合のいいことを言われれば、その時は「はい」だし、でも、例えばご浄霊に関することとか、なにか自分が好きなこととかの場合は、「受け入れるのが難しい」みたいなことを思ったり、あるいは、教主様は象徴であられるからどうだみたいなことを言って、非常に都合良く「はい」と「いいえ」を使い分けてきていましたですね、我々は。 だけどそれが、今回の教団浄化で、教主様を通して明主様とか神様を受け入れるのかどうかについて我々は、「はい」か「いいえ」を選ばなきゃならなくなりまして、教団を出て行かれた方々は「いいえ」という答えをはっきり出されましたね。 で、これはアフリカも同じだと思うんですよ。 アフリカといっても、究極的には教主様のご認証という行為がありますから、だから、教主様が認証されたカブーソ本部長を受け入れないということは、それは教主様を受け入れないということであり、ということは、カブーソ本部長を受け入れないということは明主様を受け入れないということで、私たちが長年持ってきた救世教信仰から言えばそうなるわけです。もちろん、今のメシア教の信仰としてもそうなんですけれどもね。 というように、今回アフリカの教団浄化により、神様はそれをはっきりさせましたよね。要は、教主様が認証されたカブーソ本部長を受け入れるか受け入れないかという点によって、教主様、ひいては明主様、神様に対して「はい」と言うのか「いいえ」と言うのかがはっきりした。 今日の聖書のみことばは、先月の祖霊大祭から繰り返し拝聴させていただいているところですけれども、あなた方の言葉は、「しかり、しかり、否、否」であるべきだ、それ以外の言葉は悪から来るんだと、そういう内容です(「マタイによる福音書」第5章37節)。だから、我々が言うべき言葉は「はい」か「いいえ」しかないと、そういうことですね。 これ、よく考えるとちょっと不思議ですよね。というのは、普通、神様が我々に対して、「あなた方が言うべき言葉は『はい』のみだ」なら分かりますよ。 例えば今回の教団浄化でいえば、我々は、「教主様は明主様だ」に対して「はい」と言った。言いましたね。で、我々は、「はい」と言った我々は善で、「いいえ」と言った人は悪だ、神様を受け入れてないから悪だ、となるんですけれども、そうではなくて、「はい」でもいいけど、「いいえ」でもいいんですよ。 だから、神様からすれば、「いいえ」ということは悪くないんですよ。 いや、ここ、神様が仰せになっているのは、「『はい』ならいいですよ」ではないですよ。神様は、「『はい』でもいいけど『ノー』でもいいよ」と、そう仰せなんです。 これ、面白いですね。 だから、これがどういう意味かというと、中途半端な状況が一番良くないですよと、そういうことですね。我々、教団浄化前はずっと中途半端じゃなかったですか? でも、ここ、聖書、不思議な言い方だなと僕は思いますね。「あなた方の言うことは『はい』であるべきだ、それ以外は悪だ」「はい分かりました神様。あなたに従います」なら話分かりますよ。でも神様は我々に「いいえ」も許されている。私に対して「いいえ」と言ってもいいよと仰せになっている。神様に対して「ノー」と言っていいということですね。で、一番だめなのはその間のグレーゾーン、これはだめだと仰せですね。 これはなぜか。 「はい」はもちろんいいですよね。神様にとって「はい」と言う人たちはいい。では、なぜ「いいえ」が神様にとって善になるかと言ったら、それは、はっきり神様に対して「あなたを受け入れません」と言って神様を拒否したら、その姿は神様から見たら、神様を拒否したという一番下の状況ですから、残されているのは悔い改めのみですね。その人物に残されているのは悔い改めのみ。 で、神様が我々に望んでおられるのは悔い改めじゃないの? ただ、「はい」と言って、「私すごい信仰を持っています」となるのを神様は願っておられるわけではないですよね。 ということは、ま、「はい」はもちろんそれはそれで合格なんだけど、「いいえ」でも合格なんですよ。だって、「いいえ」となれば、神様としては、「あなたはついにこれで私をはっきり拒絶したから、あなたに残されているのは、あとは私への悔い改めだね」「あなたには、この先、私を拒絶したことを悔い改めるというものすごい恵みが待ってるね」と、そうなるわけです。だから神様は、「『いいえ』でもいいですよ」ということを仰せなわけです。 一番良くないのはその間ですね。で、今アフォンソ先生方は、カブーソ本部長は認めないのに、教主様とか真明の聖言は大切だとか言いながらやってらっしゃるので、まさにこのグレーゾーンですね。 でも私は、アフリカで、アフリカ信徒の皆さんにはっきり話したんですけれども、教主様が認証されたということは、カブーソ本部長は、アンゴラにおいては教主様の代行、代理をされている方だから、その方を受け入れない方は教主様、明主様、神様を受け入れない方であると、そうはっきり言いました。 なぜそれをはっきり言ったかというと、今、アフォンソ先生方は、「はい」でも「いいえ」でもない状況が続いているので、これでは救いようが無いんですよ。そうではなくて、はっきり、「教主様は受け入れません」と言えばそれでいいんですよ。それが合格ですね。だってその先には悔い改めが待ってますから。だから、どっちかを選ばなきゃいけない。 ここの聖書のみことばについて、上のような理解の仕方もあるし、あるいは、神様を受け入れない人はあなたも受け入れてはならない、断らなければならないことははっきり断りなさい、という意味もあると思いますよ。 というのは、我々は、はっきり「ノー」と言うのが苦手で、なんとなくはっきりせずにやり過ごしたいという思いもありますのでね、だからそういう厳しい意味もあると思いますよ。 でも、ま、私がなぜこの聖書の「しかり、しかり、否、否」じゃなきゃいけない、「はい」か「いいえ」じゃなきゃいけないというみことばが、今という時に大事だなと思っているのかというと、それは、今日の明主様の聖言にもありましたように、我々は行動宗教である。理論宗教ではなく行動宗教。どんなに愛とか慈悲を説いたって、行いが伴わなければ浜の松風ですよ(「愛を説き慈悲諭すとて行の伴なはざれば浜の松風」)という御歌のことです。 当時明主様は、医学革命ということで、実際問題に対してはっきりしたスタンスを取り、そこから生じる行動、それによってこの世の中を変えていこうとされた。 しかも、明主様の言われる世の中の変え方というのは、大本がしてたみたいな、ビラを配って社会変革運動みたいなことではなくて、実生活に即した行動、信仰即生活、信仰してることが即生活の中で行われていくことを通して行われていくべきだという考え方が元になっている。 だから、上からの変革というよりも、下からの変革を望まれたわけです、明主様は。簡単に言えば、我々一人ひとりの日々の行動によって世の中を変えていくということですね。 最近私が、明主様は医学を全面的に否定しておられたことを言っているわけですが、そうすると、人によっては、すぐ、「お医者さんも一生懸命やってるじゃないか」「お医者さんが職を無くしたらどうするんだ」ということを言いますけれども、今日の明主様の聖言(「若しもこの世界から〝悪〟がなくなったら」1953年2月25日)で明主様が仰せのように、医学革命をして医者の仕事が無くなるので、そういう人たちが職を失ったあとのことを考えなきゃいけないと、非常に具体的に考えておられますよ、明主様は。 でも我々、「はい」か「いいえ」の世界で行きたくないから――例えば自分が医者に関わっているということがあると、この明主様のスタンスは都合が悪いなとなりますから――そうすると、いや、そんなこと言ってもお医者さんだって一生懸命がんばってるじゃないかとか、お医者さんとか看護師さんとか製薬関係の仕事をしている人はどうなるのかと言いたくなるけれども、この聖言で明主様は、そのことを明確に仰せですね、医学関係の人はみんな仕事を失うから大変だよ、でも、それは経なければいけないステップだと、そう仰せですね。 だから、ヴィーガンのことも私が話していますと、酪農とか魚とか肉とか精肉とか全部、そういう仕事に関わっている人はどうなるんだと言われる人がいますね。 でも、もしそれを言われるなら、じゃあもう「ミロクの世は菜食」という明主様の聖言は関係無いということになりますね。 明主様が「ミロクの世は菜食」と仰せになっているということは、今日の聖言で明主様が医学関係の人について、みんな職を失ってしまって大変だけどそれは乗り越えなきゃいけないと仰せなのと同じふうに捉えなきゃいけないわけです。「ミロクの世は菜食」ということは、肉食とか酪農とか魚とか、そういうお仕事に関わっている人たちが全部仕事を失うというか、違う仕事に移行していることを明主様は想定しておられるわけですね。 そういう意味において、我々は今、菜食ということに取り組む中で、トップダウンの実践ではなくて、一人ひとりの日々の実践を大切にしている。毎日毎日私たちが何を買い、何を食べるかという、その、信仰即生活の実践に取り組んでいる。行動宗教が信条のメシア教として歩もうとしている。 その中にあって、もし菜食に対して自分の「はい」か「いいえ」の返事が中途半端だと、これ、進みようがないんですよ。 菜食と言われるけれど、これ、明主様の聖言に適ってるんだろうかと言い出したら、もう理論宗教の世界に入ってしまう。でも、「はい」であれば、「実践します」「世の中変えていきましょう」となりますけれども、「はい」でも「いいえ」でもないグレーにしてたら進みようがないし、また、もし「いいえ」だとするならば、明主様のみ心は受け入れないということですから、どう考えても無理じゃないですか。 だって、明主様のみ心を受け入れる集団、明主様に「はい」という人物が集まるのが明主様の宗教団体ですからね。 そして、「行い」の第一歩、行動宗教として踏み出すためには、「はい」と決めなければ一歩目は踏み出せない。 ちなみに今日は、私が菜食のことを最初に話したのが2023年の9月1日でしたので、それからちょうど2年目に当たるんですね。 で、打ち出した当初は、自分でもまだ明主様のみ心を探りながら、という感じで、当時は、もしどうしてもヴィーガンでないもの(肉類、魚類、乳製品や卵などを含んだもの)を食べなきゃいけない状況になったら、共に立ち返らせていただきますということで食べるみたいなことをお伝えしたのですが、もう、その段階は過ぎてると思いますよ、だって我々はムーブメントを起こしたいわけですから。 というのは、そういうものが目の前に出てきた時に、「いや、私はヴィーガンなんです」「ヴィーガンのものがほしいんです」というひと言を発すれば、「ああ、そういう人たちがいるんだな」となるわけですが、もし、「やむを得ないので食べます」としてたら一生そうはならないですよ。ヴィーガンのことを世の中に知らしめるということにはならない。 それは、冒頭のめいの話と一緒で、『白い恋人』を受け取って、その時に、「まあこういうことは仕方ないから受け取ろう」としてたら、相手の方が海藻を用意することもないし、また、お伝えしたことでそれがどういう影響を相手に与えているか分からないですよね。 もしかしてその日、家で食べるものについて、「今日はちょっとヴィーガンにしてみよう」とか、なんとなく食べる肉の量を減らすみたいなことが起きてるかもしれない。 というように私たちは、ミロクの世の食のムーブメントを起こしたいのに、いまだに昔の大教団の世界救世教に所属しているイメージを持って、この聖言がどうだとか、この教団に所属している組織人であるとか、今までこういう活動をしてきてたとか、そういうことでぐちゃぐちゃ言ってるから、だからムーブメントにならないわけです。ムーブメントではなくて、「自分は世界メシア教という既成宗教に所属してます」みたいな感じになっちゃうわけです。で、既成宗教みたいになるのは明主様が一番お嫌いになったことですよ。 我々は行動宗教であって、行動宗教ということは「はい」か「いいえ」を決めなければ行動はできないです。一歩目は踏み出せない。 いや、人によっては、この「はい」の返事をするのに時間がかかるということは確かにありますね。こういう理由があってなかなか難しい、時間がかかる、という側面は確かにある。で、もちろん私はそういう状態を強制的に変えなさい、ということは願わないんだけれども、一方で、決めなきゃいけない、という要素もありますよ。いつかは「決めなきゃいけない」ということもありますね。 都合の話をしだしたら、こういう都合がある、ああいう都合もある、だから難しいとしていて、それが、1年経っても2年経ってもその都合があるなら――そして今日でもう2年経ちました――2年経ってもまだ都合があるなら、それは、3年、4年、5年、10年、100年経っても同じです。何も変わっていかない。だから、決めるかどうか、という問題もあるんですよ。いつかは決めなきゃいけない。 そして、私が皆様にお伝えしたいのは、ヴィーガン食の味というのは、野菜の味だけではなくて、明主様のみ心にお応えしている味というのがある。そして、これはもう何物にも代えがたい味ですね。だって、明主様が「ミロクの世は菜食だ」と仰せになって、そのミロクの世を建設している一員となっているというその味。これがいわば最高のスパイスですよね。 そしてそれは、100%やろうと思わない限りその味には出会えませんよ。で、僕は、なんとかその味を皆さんにも味わってほしいなと願うわけですね。それは、飛び込んだ人にしか分からない味ですね。明主様のみ心にお応えしている味。イエス・キリストを本当に最後の捧げ物として受け入れている味。これは、世の中でヴィーガンを普通に実践している人では出会えない味ですよ。だってこれは信仰実践なんですから。我々にとってヴィーガン食は信仰実践なんですから。 今日の祝詞は、メインの部分を変えたいということで教主様にご了承いただいたものです。その中でも、お米のことに触れた部分がありましたね。日本人と言えばお米ですよね。お米。それを我々で作ろうじゃないかと、そういうことですね(「またヴィーガン食として食す糧 ことに大和民族の魂たる御御米を清き農法を以て生産することに一身を傾け取り組む」)。 だからこれ、すごいことですよ。今日本人が、お米を食べるとか食べないとか、お米が足りるとか足りないとか言ってることについて、メシア教はお米を作ろうじゃないかと言ってる。確かに、この活動が現実的に世の中に対してどういう影響を及ぼすかは分からないけれども、でも、そういうすばらしい活動に取り組むことができるのも、まず、「はい」から始まるわけです。 お米づくりという行動も、「はい」から始まらないと行動宗教にはならないですよ。そうしないと、ずっと「はい」か「いいえ」の間で自分の都合を求めることになりますからね。 だから、そういう意味において、ヴィーガン食というのは、具体的なことであるがゆえに、非常に我々の信仰が試されてると思いますね。我々の神様に対する姿勢がもろに照らされるわけです。 教主様とか私の存在というのは一体なんなのか。 別に、教主様と私がいなくても、世の中は何も変わらないと思いますし、神様はいくらでもその代えは用意されるんだけども、もし教主様と私になにかこの地上での役割があるとしたら、それは、この、筋ですね。神様に対する筋。 この、神様に対する我々の姿勢というものについては、これは教主様と私は感じさせられるものがあるわけですね。 これは、なにも、教主様と私が特別ものすごい知識を持ってるとか、そういうことではないと思います。 で、今、我々の神様に対する姿勢がどのように現れているのかというと、それは、「祈り、食、音楽」という信仰実践を通してですね。この中でも、祈り、音楽は、まあなんと言いますか、受け入れるのにあまり害がないかのように見えますね。でも、「食」というのはもう実生活そのものですから、だから、そこで照らし出されている我々の姿勢があるわけですね。神様に対する我々の姿勢。 ただ、環境問題のためとか、動物愛護がどうだということでヴィーガン食をされる方は確かにおられますね。でも、我々にとってヴィーガン食は信仰実践であって、今、その実践を神様から与えられている。 で、そういう照らされた我々のいろいろな姿勢や姿について、私は、「あ、これは私自身の姿なんだ」「共に成長していかなきゃいけない」と、そう思うわけですね。だから、そういう姿について、放っておくのは楽ですよ。周りの人は自分とは関係無い、だから放っとこう、この人にはこの人の時があるだろう、は楽ですね。 確かに、突っ込んで言わない時もあります。でも、突っ込んで言わなきゃいけないなと思う時もあるんです。なぜそうするかといえば、それは、結局、我々の神様に対する姿勢というのが人生の幸福に関わってくるからですね。 だって、神様にお喜びいただかなくしてどうやったら我々の人生が幸せになり得るんですか?神様は我々の幸せを願っておられるのに、我々の神様に対する姿勢が定かでなければ、人生が幸せになりようがないじゃないですか。ここの「幸せ」は、具体的なことを言ってるんですよ、お金とか家族関係とか隣人関係とか、そのすべて。だから私も言わざるを得ない時もあるわけです。 我々の姿勢を神様が受け入れてくだされば、神様は我々に、あの人に、人類に、もっと幸せな人生を開いてくださるんだと、そう思うから言わざるを得ないこともあるわけです。 というように確かに私たちがさせていただくことは信仰実践なんだけど、私たちの信仰実践を通して、もし、この世の問題が解決したら、こんなにありがたいことないですよね。 この間ニュースで見たのは、日本の小中高生の自殺者が去年は統計を取り始めて以来一番多かったというもの。小中高生の自殺者が1980年に統計を取り始めて以来一番多い。人口は減ってるんですよ、日本人の。でも若い人の自殺は増えている。 そして、それだけではなくて、医療費も増えてる、ガンも増えてる、他の病気も増えてる。であるならば、人類は、絶対、根本的なパラダイムシフトを必要としてますね。 もし、今の世の中が歩んでいる道が正しいなら、医療費とかが増え続けることもないですよ。だって、小中高生が自殺しちゃうんですよ。それは、我々大人の責任ですよ。我々大人が、結局、なにか自分たちの都合を優先する世の中にしてるから、若い人にしわ寄せがいってるんじゃないんですか? だから、世の中の根本的なパラダイムシフトが必要ですね。でなければ、病気もなにもかも全部このまま増え続けていくだけです。 いや、そもそもね、このままの人類の姿で急にミロクの世になるんですか? ミロクの世は夢物語なんですか?どうなんですか? いや、皆様にとって夢物語ならいいですよ、なにもされなくても。政治家ががんばる。トランプががんばる。日本の総理とか、なんか分からないけれども、そういう方ががんばって、世の中のいろんな中小企業とか大企業ががんばって、それが地上天国のできる道なんですか? でも、今の我々はもうそういう精神、姿勢になっちゃってるじゃないですか。長年の世界救世教時代を経て、我々はいつの間にか世の中の一部になってしまって、「政治家の人よろしくお願いします」くらいな感じじゃないですか。だとして、自分たちはどうするんですか? でも明主様はなんと仰せなのかというと、生活に密着した社会変革をしなさいと、そう仰せなんです(「理論宗教と行動宗教」1949年4月20日)。 そして、この、「ミロクの世には菜食」という「菜食」はありとあらゆることを解決するかもしれませんよ。だって、菜食にすれば人間の攻撃的な性格も変わる。科学的にも、菜食をすれば地球環境はどんどん良くなると言われている。医療費も減ると言われている。 でも、こういうことが起こるのも、明主様のご神業に対して「はい」と言わない限り、この、ミロクの世を作るとか、地上天国を建設するということが進みようがないじゃないですか。ムーブメントを起こすのは我々なんですよね? だから、今日の祝詞でも言いましたように、伝道、伝道、伝道なわけですが、伝道をする時に、自分が実践してなければ伝道しようがないじゃないですか。 完全菜食をするのは、確かにいろんな難しさはありますね。日本人は魚かもしれませんが、西洋人とかにとって一番難しいのはチーズですね。ミルクとチーズ。でも、主にはチーズですね。 それはなぜかというと、チーズの元となる牛乳。これは、子牛ちゃんが、産まれた時だいたい35キロとか50キロぐらいの体重から、最終的にはその10倍くらいは大きい500キロぐらいまで成長しなければならないので、大量の母乳を必要としている。たくさんおっぱいを飲まなきゃいけないということです。牛さんは、たくさんおっぱいを飲まないと大きくなれず自然界で生き残れないから、神様はどうされたかというと、母乳に中毒性を持たせたわけです。 要は、母乳を飲んで、「おいしいまた飲みたい」と思わないといけないわけです。おっぱいおいしくないから飲みたくないとなったら、牛ちゃん大きくなれないから、そうなると問題ですよね。 だから、母乳に、モルヒネですね。モルヒネ。正式名称は少し違うんですけれども、チーズモルヒネ(正式には「カソモルフィン」。カソはチーズという意味で、モルフィンはモルヒネの意)という、中毒性のある、モルヒネと同じようなものが牛乳には入ってるんですね。これ、人間の母乳にも入ってるんですよ。それを飲むと安心して、ドーパミンが出て、快楽を得る。だからまた飲みたいとなるわけです。おっぱいをほしがらないと牛ちゃんは大きくなれないし、人間も大きくなれませんのでね。 これが牛乳の話ですけれども、チーズというのは、牛乳のチーズモルヒネ部分をさらに凝縮した物ですから、牛乳よりも遥かに強烈な中毒性があるわけです。 だから、人間の赤ちゃんが、小さい時は母乳で育って、そのまま牛乳とか飲んで、ソフトクリームとか食べて、チーズとかも食べて育っていったら、まだ卒乳してないことになりますから、本能的にずっとそのドーパミンをほしがるわけです。いわば、モルヒネ中毒の牛乳版がずっと続いているという状態ですね。 チーズモルヒネというような名前になっているのは、薬物のモルヒネを摂った時と同じ脳の部分を刺激するからです。 ちなみにバターは牛乳の脂肪部分ですからあまり関係無くて、中毒性は別に無いんですけれども、チーズというのは牛乳のチーズモルヒネ部分を凝縮したものですから、やめるのが非常に難しい。 だから、チーズをやめられないというその難しさを抱えるということは理解はできますね。だって我々は、小さい時、みんなお母さんのおっぱいをほしがって、しかも、そこから卒乳しないままずっと来ていれば、それはやめるのは難しいですね。 でも、最終的には決めなきゃいけませんね。卒乳するタイミングは自分で決めなきゃいけない。 赤ちゃんの時は親が強引に卒乳させてくれましたね――まあ、子供が、「もう要らない」ということで自分で決める場合もありますけれどもね――でも、もう小学校とかに入ってまだおっぱい吸ってますという人はあまりいませんね。 だけど、その、おっぱいを飲んでた時と同じ快楽がそのままチーズとかで継続している人は、これ、親はやめさせてくれないですから、やめるためにはもう自分しかいないんですよ。自分の決断によってやめるとしない限り、一生やめられない。 というように、結局、僕は、一人ひとり、決断しなければいけないことはあるなと思いますね。今までの世界救世教時代に持ってたような、自分たちはこういう宗教でこういう教えでこういう実践してます、という考え方から脱して、ムーブメントを起こす団体、行動宗教の団体なんだということへの目覚めですね。 それが自分の生きがいにならないといけない。その生きがいの味に勝るものがないと本当に思えれば、そしたらどんな障害を乗り越えてでもその道にお仕えしたいと、そういうふうになると思います。 だから、その障害がアフリカ信徒は本当に大きくて、実生活も我々では考えられないようなことがいろいろあって、それを乗り越えての信仰ですから、強いんですよ、信仰がね。 でも我々は、世界救世教時代に持ってたような、誰かがやってくれるとか、こういう明主様の聖言もあるとか、なんかそういう「待ち」の姿勢みたいなのがあるんだけど、やはりそこから脱して、「しかり」ですよね、「しかり」。「はい」というお返事をさせていただいて、そして、明主様が仰せのミロクの世であり地上天国を造るということを現実に成し遂げなきゃいけない。そしてそれが、我々一人ひとりにかかってるんです。 我々はアフリカ信徒に負けている場合ではないんですね。負けている場合ではない。だから私たちも神様に「はい」と言わせていただいて、そして、明主様が願っておられた宗教として、一大ムーブメントを起こそうじゃないかと、そういうことです。 だって教団は、浄化、浄化でもうボロボロじゃないですか。ここが明主様の聖言から違うからどうだとか、社会に受け入れられたいからどうだとか、もうね、そういう世界から脱皮しなきゃいけないわけですね。脱皮して、そして我々の手で、アフリカの信徒と、ブラジルの信徒と、世界中の信徒と一緒に、明主様が地上天国建設と言われたことをもう一度思い出して、そして、この、決して夢物語ではない理想世界を、皆様お一人おひとりの手で造ろうと、そういうことなんですから、だから我々一丸となって、「はい」というお返事をさせていただいて、共に歩んでまいりましょう。 ありがとうございました。