皆様、こんにちは。 皆様もご存じのように、先月の7月上旬、教主様のご名代、また代行として、そして、皆様と一つという思いでアフリカのアンゴラにまいりまして、明主様の聖地の地鎮祭・聖別式を執り行いました。聖別式ということは、「聖」に「別ける」ですから、「ここは聖なる場所ですよ」「ここからここの区画は聖なる場所ですよ」と定めるという、そういうお祈りを捧げてまいりました。 これは大変なことですね。地球上における明主様にとっての唯一の聖地、これがアフリカに生まれた、これは大変なことですね。 そうすると、「いや、世界救世(きゅうせい)教は聖地持ってるじゃないか」と思われる方もいるかもしれませんけれども、違うんですよ、もちろん。 それはどういうことかというと、長年、世界救世教においては、その規則と教規において、教主様は信者統合の象徴と定められている(世界救世教「規則」及び「教規」第5条第2項)。 ということは、世界救世教においては、教主様というご存在が全信徒を一身に引き受けておられるのであって、世界救世教はその教主様を追い出した。つまり、全信徒を追い出した、ということです。 全信徒を追い出したと同時に、これもまた世界救世教においては、長年、教主様というのは教祖の聖業を継承する、明主様の聖業を継承するお立場であるということが定められている(「世界救世教「規則」及び「教規」第5条第1項)。 明主様の他の教団はともかく、少なくとも世界救世教においては、「現界の明主様は教主様だ」ということですね。そう定められている。 ということは、世界救世教は、教主様を追い出したことにより、自分たちの全信徒と明主様を追い出したわけですから、そんな場所に聖地があるわけないですね。 世界救世教につながる、タイとかブラジルにある教団も教主様を追い出したことを認めているわけですから、これらの教団も自分たちの全信徒と明主様を追い出している。ということは、もぬけの殻ですよ、これらの教団は。明主様と一切関係無い教団。そんな教団は明主様の聖地は持っていない。 だから、今回アフリカの聖地が生まれる前は、メシア教とか救世教とか関係無く、世界中で、明主様にとっての聖地というのは存在していなかったわけです。それははっきりしている。 それが今回、先月2024年7月7日、人類発祥の地と言われるアフリカに、明主様の聖地ができた。これは大変な喜び事ですね。 少し余談なんですけれども、その地鎮祭・聖別式が行われた7月7日のその日の晩ですね、その日の夜。私はアンゴラのルアンダ(首都)というところに滞在していたのですが、ホテルの部屋で私が思ったのは、たとえ今日なんかの具合で私は死んでしまっても(一同笑声)、この地球上に明主様の聖地を造るお祈りを捧げる御用にお使いいただいたということだけで、その栄えある御用に携われたその誇りだけで、たとえ今死んでも悔い無いな、こんなどうしようもない私がそういうことにお使いいただいただけで、もう死んでも悔い無いなと、なんかそういう不思議な感情を抱きました。まあ、結局その日は死ななかったんですけれどもね(一同笑声)。 ちなみに、今日も、出てくる前に身支度をしていまして、この靴(真明様、ご自分の靴をお示しになる)を履いた時に―この同じ靴で地鎮祭・聖別式に臨んだんですが―あ、土の聖地を踏みしめた靴だと思ってですね、一人で感慨深い思いになりながら着替えておりました。 というように、この聖地ができたことは非常な喜び事ですね。 その7月7日がありまして、翌日の7月8日が、主にアンゴラですけれども、アフリカ全土の理事、教区長、専従者の方たちとの面会がありました。アンゴラでの活動状況とか、アフリカの他の国々での活動状況とかをお聞きして、それで、私も少しお話しさせていただくというそういう機会がありました。 お話しさせていただくということだけれども、どういうことをお伝えさせていただければいいかなと思ったりしていまして、私は、アフリカに聖地が誕生した喜びを、アフリカ信徒の代表であるアフリカの専従者の方たちと分かち合うということなのかなと、漠然とそんなことを思いながらその場に臨みました。 まず最初、1時間か2時間かいろいろご報告をお聞きしまして、それで、私が話すことになって、喜びを分かち合えたらいいなということで話し始めたんですけれども、いざ話し始めましたら、事前には計画していなかったんですけれども、その時になんか思わされることがありまして、それをその場でお話しすることになったのですが、その内容が、私たち全体にとって大事な話だなと思ったので、今日その一部を皆様にお伝えしたいなと思っています。 それは、アフリカに聖地ができた。これは、明主様の信徒にとって唯一の聖地であり、それ自体はすばらしいことである。 そのことについて我々は、「教団浄化があり、いわゆる昔我々が聖地と思っていたところから出なきゃいけなくなったが、今回メシア教として聖地を造るようになった」というような、そういうぼわっとしたイメージがあるんですけれども、私が思ったのは、そういう、教団浄化がどうとかは置いておいて、冒頭にも言いましたように、現在、メシア教であれ救世教であれ、もはや聖地は存在しない。 で、なぜそうなったのかというと、やはり、本当は、我々の明主様に対する思い、明主様への信仰の仕方、あるいは我々が聖地をどう思っているのか、どう扱っているのか、これらのことが、明主様からご覧になって、明主様のみ心にそぐわないことがあったから、我々は聖地を明主様から取り上げられたんですよ、本当はね。私はアフリカでそれを思ったんですね。 我々は、なにかこう、教団浄化がどうとか、世界救世教がどうとか、そういう外的要因によって聖地から離れなきゃいけなくなったとか、聖地が無くなったとか思っていますけれども、やはり本当は、我々の明主様信仰、我々の聖地の扱い方、思い方、捉え方、これが明主様からご覧になった時、「あなた方は聖地を持つのにふさわしい存在ではない」と明主様に思われたから、明主様はご自分の信徒から聖地を召し上げた、取り上げた、奪い去った、そういうことじゃないかと思ったわけです。 そもそも、明主様は聖地をなんのために造られたのか。これはもう明確ですよ。それはなにかというと、人類一人ひとりの内にある最も美しい場所を思い出すため。 神様と天国はここ(真明様、眉間の天庭を指し示される)ですよ。ここ(真明様、胸のあたりを指し示される)じゃなくて、ここ(真明様、眉間の天庭を指し示される)ですよ。 眉間のところが天国であり神様がいらっしゃるところ。胸のところではないんですよ。胸のところは心であり、ご先祖様がいらっしゃるところですね。 この、天国という、あなた方の中にある、目には見えない、最も美しい世界を思い出してほしいということのために、明主様は聖地をご用意くださった。 でも我々の明主様ご昇天後の歩みはと言えば、霊の体とか、天国とかということよりも、浄霊によって病気が治るか治らないか、自分の身体が健康かどうか、それだけでしたよ。 いや確かにね、奇蹟が起こるのはいいですよ。でも、奇蹟が起きるのは神様とか天国を思い出すためです。それなのに我々は、ずっと、奇蹟ほしい、奇蹟ほしい、奇蹟ほしい、奇蹟ほしい、この世での奇蹟ほしい、ということで歩んできた。 聖地についても、明主様の「聖地にさえ行けばいい」というのは、本当は一人ひとりが自分の天国に触れなさいということなんだけど、我々はこの目に見える世界のことしか分からないから、聖地はすばらしい場所ですよ、浄霊すばらしいですよ、病気治りますよということしか言ってこなかったわけです。 その歩み自身が、もう、明主様からご覧になって、あなた方全員、とうてい私の名を冠した聖地を保持するのにふさわしくないと思われて、もう聖地を取り上げると決められた。そのように明主様が決められたから、だから明主様は教団浄化を起こされて、いろいろなごたごたを通して全信徒から聖地を召し上げられた、没収された。 しかも、いきなり没収されたのではなく、もう何年も前から、明主様は、教主様を通して、目に見える聖地よりも大切な場所があるんですよ、天国がありますよということを伝えてくださっていたわけです。明主様は、教主様を通して、言わば私たちに警告をされていたわけです。 でも我々は、その警告に対しても全然聞く耳持たなかったじゃないですか。これは、誰かを責めているわけでなく、我々全員そうだったじゃないか、この世を主体とした生き方だったじゃないかと、それをお伝えしているわけですね。 ということでもう限界が来て、明主様としては、これ以上やっても意味が無いということから今回の教団浄化を起こされて、そして我々の手から聖地を取り上げられてしまった。 そうなった時、世界メシア教の皆様は、教団浄化の時、目に見える聖地とか目に見える教会とか、いろんなそういう目に見えるものがありますが、そういうものよりも、明主様が教主様を通してお伝えになろうとしている永遠の命の道のほうが尊いんじゃないか、なにかそこに真実、真理があるんじゃないか、ということで立ち上がられた。ですね? そして今、アフリカのことやメシア聖堂のことが始まっている。 勘違いしてはいけないのは、これは、我々の信仰が良かったからということでは決してない。決してそうではないけれども、明主様としては、もしあなた方がそのように私が聖地に込めた心を本当に求めるならば、再び目に見える聖地というものに携わってもいいよと仰せくださったんです。 明主様は、教団浄化を通して明主様に関わる全信徒の手から聖地を召し上げられた、取り上げられた。明主様が神様と力を合わせればなんだって簡単にお出来になるわけですからね。そうなると、その時明主様は、聖地というものを天上において持っておられる状況になったわけです。 でも、その後の変遷の中で、我々の信仰姿勢をご覧になって、明主様は、私の聖地に込めた目的を見失わないのであれば、目に見える聖地を管理する御用にまたお仕えしてもいいよ、ということで、一度はこの地球上から明主様の名を冠した聖地はすべて召し上げられたんですけれども、教主様の不断の努力と、また、教主様の中に明主様が働いておられることを信じる皆様の信仰姿勢をご覧になって、そういうことならばいいよ、と仰せくださり、そして、では明主様はどこを選ばれたのかというと、なんと、いわゆる人類の発祥の地と言われるアフリカに、再びご自分の聖地を降ろされたわけですね。 アフリカになった、ということには、もちろん神様の深い御仕組があると思いますし、確かにこれについて我々は喜ぶべきですね。アフリカに聖地できた、土の聖地ができた、確かにこれは喜ぶべきことではある。 だけど明主様は、ご自分の生まれた国である日本を選ばれなかったんですよ。再び聖地を下付されるにあたり、その最初の国というか場所として、日本を選ばれなかった。これは、日本人の私、日本にいる我々にとっては恥ですよ。 明主様からご覧になって、日本の信徒の信仰よりも、アフリカ信徒の信仰のほうがすばらしいと思われた。だから明主様はアフリカ選ばれたわけです。そういうことなんですよ、当然。 だから、我々日本は明主様から選ばれなかったんです。教団浄化が起きて、私たちは一生懸命尽くしたつもりだった。でも、もし我々の心と明主様のみ心が本当に合致してたら、もうすぐ日本にくださいましたよ、下付してくださいましたよ、聖地を。 でも、明主様からご覧になって、結局、信仰の純粋性ですね、この信仰の純粋性が、日本の我々が捧げているものよりもアフリカ信徒が捧げているもののほうがすばらしいと、そう明主様は思われた。 だからこれは、日本にいる我々としては悔しがるべきことなんですよ。悔しがるべきことであり、恥ずべきこと。 明主様は我々に一体何を求めておられるのでしょうか。この世でうまく立ち回って、明主様が社会に受け入れられて、明主様の思想が、わー、すばらしいですねとなったり、岡田茂吉という人はすばらしいですねとなる、そういうことを明主様は我々に願っておられるのだろうか。違うんですよ。そういうことでは決してない。 本当に明主様が我々から願っておられるのは、信仰の純粋性です。神様に一心にお仕えしますという信仰の純粋性。 だからこれが、アフリカ信徒の信仰の純粋性のほうが我々より遥かに勝ってたわけです。神様にすべてをお捧げしますという姿勢のことですね。 だから結局、我々がまず先にメシア聖堂の取り組みということで始めたけれども、アフリカにあっという間に追い抜かれたじゃないですか。アフリカが始めたら、あれよあれよという間に追い越されたじゃないですか。 いや、アンゴラの方々は、お金無いんですよ、本当に。でも明主様のためにすべてをお捧げしたいということで一生懸命された。 我々日本人はどうなのか、というか、日本にいる我々は、私も含めて、アンゴラとは比べ物にならないほど物質的に恵まれている。アンゴラに行かれたら分かりますけれども、もう比べ物にならないですよ、本当に。 日本にはありとあらゆるものがある。洋服にしろ、食料にしろ、水にしろ、社会制度的なものも、すべてある。もちろんそれは、長年、戦後、多くの日本人のものすごいご努力と、アメリカをはじめとする海外のいろんな援助があって発展したわけで、私はそれを否定しているわけではないですよ。 だけど我々は、物質的に豊かになったが故に、代わりに大切なものを失っているんじゃないかと、そう思うわけです。だから、それは、簡単に言えば、「神様を信じる心」ですね。だって、ありますから、物が。あったとしたらどうやって信じるんですか、神様を。アンゴラの人は本当に無いんですよ。物が無い。 人間の目から見たら、アンゴラは貧しい国だなで終わりですよ。日本はもうこんなに発展してますからね。でも、貧しいが故に、神様を信じるという本当の幸がアンゴラにはある。物が無い状況にあっても神様を信じるという本当の富、本当の幸、そういう信仰の純粋性をアフリカの方々は持っておられるんじゃないかと、そう思います。 でも、この8日の時アフリカの皆さんに言ったんですが、今後、アンゴラも、アフリカ全体も、当然もっともっと経済的には発展していくでしょう。だけどもし、それによって、今アフリカの皆様がお持ちのこの信仰の純粋性を失って我々日本人みたいになれば―というのは、日本の教団浄化によって世界に迷惑かけているわけですから、我々日本にいる者の信仰心のせいで教団浄化は起きたんですよ―それと同じように、もしアフリカが日本の我々のようになれば、せっかくできた「土の聖地」も、明主様は簡単に取り上げられますよと、そういうことをお伝えしたんですね、アフリカの方々に。 またお伝えしましたのは、皆様の信仰の純粋性によって、物質に囚われて迷子になっている我々を皆様が今甦らせてくださっているんだから、アフリカの皆様には今皆様がお持ちの信仰の純粋性を失ってほしくない、皆様のその信仰の純粋性をそのまま持ち続けてください、また、そうでなければ、持ち続けなければ、聖地は取り上げられてしまいますよと、そういう警告もお伝えしました。 信仰の純粋性を失うのは簡単なことです、それはね。ちょっと物質的に恵まれれば、もう、すぐ失いますよ。 だから私は、来年から、日本の多くの皆様、また世界中の多くの信徒も、実際アフリカでは今聖地建設を進めているわけですから、その聖地建設の奉仕隊ということで、ぜひ多くの方々に、アフリカのアンゴラに行ってほしいと、そう願っています。 アンゴラに行って、実際の聖地建設に携わるのはもちろんなんですけれども、それ以上に、アフリカ信徒の持ってる信仰の純粋性に触れていただいて、ぜひ我々の信仰を甦らせたいなと、そう思います。 この経験は、文字通り人生が変わりますよ、それはね。ほとんど地球の反対側の、もうなんにも無いところで、みんな一生懸命生きてる。同じ信仰をしている仲間がいるんです、アンゴラにね。 だから、教団から正式に発表されたら、一度行かれた方がまた行かれてもいいんですけれども、やはりみな一生に一度は行っていただきたいですし、また、教団浄化後の今だから特に、我々自身の信仰を甦らせる、自分自身の信仰を見つめ直すということのために、ぜひ行っていただきたいです。 日本の我々はアフリカに負けてる場合じゃないんですよ。だってすでにメシア聖堂という明確なものを明主様からお示しいただいてるわけですからね。だから皆様には大いに悔しがっていただいて、また、アフリカに追いついて追い越すんだという気持ちを持って、日本における聖地建設にも向き合っていただきたいなと、そう思います。 そうなりますと、問題は、天国とはなんなのかということ、ここですね。 私たちは、目に見えない天国の写しをこの地上にも現そうということなんですから、結局問題は、天国とは一体なんなんだということ、これが大事になってくるわけですね。 日本におけるメシア聖堂の建設にしても、アフリカの聖地建設奉仕隊にしても、我々はその御用に参画したいわけですから、そうなると、それは、天国をこの地上にも写すわけですから、この、目に見えない天国とは一体なんなんだと、これを知らなきゃ進めないわけですね。 でも我々は、天国というと、自分にとって何かいいことがあった時とか、なんか心地良いことが起きた時とか、なんか平和で安らぎに満ちた状態が生まれた時に、ああこれは天国的だな、これが天国なんじゃないかと思っている。 でも、今日の明主様の聖言(「寸鉄活人」1952年2月20日)、これが、「なぜメシア教が美術館を作るのか」ということですけれども、これは、「なぜメシア教が天国的世界を造るのか」ということですから、明主様の願われるそういう美しい世界が現れるとどうなるかということが書かれていましたね。 この聖言で明主様は、天国が地上に現れると、みんなただ、「おー」という感じで安らぎに満ちる、とは仰せではないですよ。 天国が現れるとどうなるかと言ったら、腸がひっくり返ったり、目玉が飛び出たり、みんな頭おかしくなって逆立ちして歩いちゃったり、また、息が止まる者も出るということですから、死んでしまう、ということですよ。天国が現れたらそういう状況になると明主様は仰せです。これが明主様の天国観なんですよ。 だとして我々、長年、「聖地だ、美術館だ」と言って、そんなふうな思いでいましたでしょうか。明主様が仰せのようなことが起きましたでしょうか。 そんなことよりも、世の中の人ができるだけ抵抗なく自分たちの場所を受け入れることができるように、というぐらいの思いだったじゃないですか、我々。もう明主様の天国観と全然違うじゃないですか。明主様とのずれが大き過ぎますね。 本当の天国というのは、圧倒的な光と圧倒的な真理の力によって我々を強烈に照らすわけですから、我々の醜いところはさらけ出され、一気にぼろが出ますよ。 だから、私たち、本当は天国なんて全然来てほしくないんですよ。だって、あんな状況になりたい人いますか?頭が気が狂ったようになって逆立ちしたり、息が止まっちゃったり、内臓がひっくり返っちゃったり、目玉が飛び出るような状況になる。そうなりたい人、いますか?それくらい天国の光は、もう、強烈な光ですよ。 我々の心の奥底の奥底の奥底の奥底まで一発でさらけ出される。我々は、本当は、天国の光に照らされたらもう生きていけないですよ。だからそれくらい我々が「天国」と思っているものと、明主様の天国というもののずれが大き過ぎるわけですね。大き過ぎる。 当然、天国の光が照らしているのは、ただそれで、「あなた方は滅びるように」ということではなくて、むしろ、我々は本来このままでいたら滅びてしまうような存在なんだけど、そこから救ってあげるよという意味で照らしてくださっている。だけど我々、自分がさらけ出されるのを恐れますからね。 だから我々、天国なんか望んでないですよ、全然。我々が望んでいるのは、人間が考える「より良い社会」が実現すること、この程度のことですよ。そして、それが天国だと思い込んでいる。 だけど、まあ、確かに、天国の実態を知るのはそんなに簡単なことではない。簡単なことではないけれども、今後聖地建設とかに関わるとしたら―メシア聖堂建設献金します、ということでももう関わることになるんですよ、天国の写しをこの地上に樹ち立てるという明主様の御用の端にお仕えするということになる―もしそうだとしたら、その時に、少なくとも、目に見えない天国というのは、今我々が持ってる天国観とは全然違うんだ、自分がただ居心地がいいということとは全然違うんだ、ということはわきまえておかなければならない。 だいたい、自分が居心地がいいということは、他の人が居心地が悪くなってるということが大いにありますよ。だから、明主様の天国というのは、人間が考えるようなそんななまっちょろいもんじゃないんですね。 だから我々は、少なくとも、天国の実態は自分では分からない、ということをまず思わなきゃいけないですね。自分の持ってる天国観と明主様の天国観というのは全然違うんだということは知らなければならない。 でも、たとえそうだとしても、「天国」という言葉が存在してるのは事実ですね。 そうだとしたら、私たちは、「私の天国ではなく明主様の天国が現れてくださいますようお使いいただきたいのです」、しかないですよ。だって天国がなにかも簡単には分からないですし、しかも、本当の天国に触れたいかと言われたって、それも怖いですからね、我々は。 でも、今後聖地建設に携わるなら、やはり、少なくとも、天国ということを甘く見ないということ。「神様、明主様の天国というものを自分は全く分かりませんし、今まで自分の都合のいいように天国という言葉を利用してきたんですけれども、これからは明主様の天国が現れてくださいますようにお使いいただきたいのです」、という慎ましさを持たないといけない。 そしてまた、当然、天国の主人、主は神様ですけれども、この神様というのも、我々は非常に甘く見てますよ。この地上に天国を現してくださるのも神様のみ力ですけれども、その神様について我々は、神様というのは愛だ、神様はなんでも赦してくださる、神様は大きな愛をお持ちなんだと言ってる。確かにそれは間違いないですけれどもね。 その中で我々は、神様のお声を聞きたいなと思ったりもしますね。これが私の願いごとなんですけれどもいかがでしょうかとか、なんで神様何も言ってくださらないのでしょうかとか、そういうことを思っていますね。 自分がいろいろつらい状況になって神様に声をかける。いろいろお祈りする。でも、神様の声、なんにも聞こえないですよね。 いや、もし聞こえていらっしゃる方がいたら、それはすばらしいことですよ。でも、ほとんどの人は聞こえてない。どんなに神様に毎日お祈りしても、神様の声は聞こえないですよね。我々の呼びかけに応答されない。 でも、今日拝聴した聖書(「創世記」第22章1節~18節)の中で、アブラハムは聞こえてるじゃないですか。なんでアブラハムは神の声が聞けるのだろうか。 アブラハムは神様の声が聞こえる。ではその神の声がアブラハムになんと言ったのかというと、それは、「あなたの愛する子供を殺して私に捧げなさい」、ですよ。あなたの子供を燔祭としなさいということですけれども、燔祭というのは丸焼きにして神様に捧げるわけですから、あなたの子供を丸焼きにして私に捧げなさい、それが神様がアブラハムに言ったことです。 我々は、まさか神様はそんなことを自分に言われるご存在ではないと思って甘く見てるから、我々の波長と神様の波長が合いようがないじゃないですか。だとしたら、どうやって我々で神様の声が聞こえるんですか。 アブラハムは、神様が、「あなたは自分の子供を殺して私に捧げなさい」ということも言われるご存在であられるという神様への圧倒的な畏れを持っておられたから、神様との波長がぴたっと合う。だから簡単に聞こえるんですよ、アブラハムは、神の声が。 でも我々は、いや神様は愛だとか、なんでこうしてくれないんだとか、そんな感じで神様のことを思ってるから、我々の周波数と神様の周波数が全く一致しない。 そもそも我々は、神様の声なんて聞きたくないんですよ。我々、神様の声なんて聞きたくないと思いますよ、本当は。 我々、「神様はなんで答えてくれないんですか」、とか言ってるけれども、本当に神様の声が聞こえたら、神様はなんでも我々に言ってこられますよ。 「あなたの愛する子供を捧げなさい」とアブラハムに言われているということは、「あなたの命を捧げなさい」ぐらいは簡単に言われるということですから、もうとうてい怖くて聞きたくないですよね、神様の声なんて。 「祈りの言葉」で、「み心のままにお使いください」と口に出していますけれども、我々は本当に、「み心のままにお使いください」と思ってるんだろうか。 我々は、自分都合のすべてが守られた上で、「み心のままにお使いください」は言えますね。これは簡単ですね。というか、今我々はそういうふうな自分都合の中でお祈りしていることすら気づいてないですね。 「み心のままにお使いください」と一生懸命お祈りしてるみたいですけれども、これは私も含めて、自分の都合ががっちり100%入った上で、「み心のままにお使いください」と言ってるだけですよ。そうだとして、我々の波長と神様の波長が合いようがないじゃないですか。 だからここに、我々が目指さなければならない信仰の純粋性というものがある。 神様はアブラハムに、あなたの愛するひとり子を捧げなさいと仰せですけれども、アブラハムは他にも子供はいたはいたんですね。ただ、このひとり子とされるイサクは、正妻であるサラとの間にできた子供。他にも、ハガルという別の奥さんとの間にイシュマエルという子供はいたんですけれども、正妻のサラとは最初の子供だった。 しかもこれが、アブラハムが100歳、サラが90歳の時に、まさかもう生まれないと思って無理だと諦めていたところに神様がイサクを授けてくださって、もうそれは愛してやまなかったと思いますよ。 でも、そこについては聖書にはなんにも書かれていませんね。もう燔祭に捧げるということで、アブラハムはイサクと3日間共に旅をしていますね。その旅をしている時、例えば一日目の晩、息子と一緒にいて、こんなに愛する子供を殺さなきゃいけないわけです、アブラハムは。自分の手で殺すんですよ。聖書にそこのアブラハムの葛藤はなんにも描かれていませんけれども、それはものすごい葛藤だったと思いますよ。 そして、我々では、神様がイエスを十字架に上げなければならなかったその御心というのはとうてい計り知ることはできないですね。ご自分の愛するひとり子を捧げるということ。しかもイエスの場合は死んじゃいましたよ。イサクの場合は殺さなくてよかったんですけれどもね。 だから、我々では分からない。神様がイエスを十字架に架けなければならなかった神様の御心は我々では分からない。 でも少なくとも、アブラハムに起きたことは、これは、ひな型ですよ。だってアブラハムは、神様がイエスにされたことと同じことをさせられてるわけですからね。愛するひとり子であるイサクを捧げなさいとなっていますよね。イエスも神様の愛するひとり子とされていますね。同じですよ。 しかもここ、イサクが、「供え物の小羊はどこにあるんですか」とアブラハムに訊いて、アブラハムは、「小羊は神様ご自身が用意してくださるだろう」と返答されていますが、このやり取りは神秘ですね。 だってこれは、その後、何千年後に起きるイエスのことを示しておられるわけですからね、アブラハムとイサクが。 というように、聖書にはアブラハムの心の葛藤は描かれてないですけれども、でも、アブラハムの心の状況は大変なものだったと思いますよ。だって親であれば、自分の子供が苦しんでることについて、なんとか自分が代われないだろうかと思いますよ。子が病気や病に苦しむぐらいなら自分がなんとか代わってあげられないんだろうかと思いますね、親なら。 でも、アブラハムの場合は、そうではなくて、自分の子供を殺さなければならなかった。 だから、確かに、神様がイエスを十字架に上げなければならなかった御心は私たちでは分からないけれども、でも、少なくともアブラハムが経験したこと、愛するひとり子・イサクを捧げなければならなかったということ、その気持ちは我々は知ってますよ、だって、アブラハムは我々のご先祖様ですからね。 私たちの中で生きてますよ、アブラハムは。私たちの中でアブラハムも生きてるし、イサクも生きてる。イサクもすばらしい子供ですね。お父さんに縛られても、一切抵抗しないんですよ。だからそれは、父であるアブラハムを信じてたからですよね。そしてアブラハムは天の父である神様を信じておられた。 だから、このアブラハムの生きざまの中に信仰の純粋性があるし、このアブラハムが我々の中で生きている。 ここで大切なのは、アブラハムは神への畏れという信仰の純粋性を捧げたから、だからこそ、神様から、お前のことを祝福してあげるよと言ってもらえた。神様は、アブラハムに対して、「あなたが私のことを畏れていることを知った。だから私はお前を祝福するよ。お前も祝福するしお前の子孫も祝福するよ」と言われた。ここ、アブラハムの子孫といったって、それは私たちのことですよ。 だから、この聖地のことも、我々にアブラハムのような信仰の純粋性があれば、明主様はいくらでも祝福してくださいますよ。 信仰の純粋性があって初めて祝福してくださるのであって、この順番は逆ではない。 ここに日本人にとっての難しさがありますね。難しいんですよ、祝福されてますから、物質的に。確かに、周りの人と比べてどうだとかいうことはありますね。でも、少なくとも、アンゴラにいらっしゃる方々に比べたらもう大いに祝福されてる。だから信仰の純粋性を持つのが難しいんですよ。アンゴラの方たちよりももっと難しい。 でも、本当は、神様は、信仰の純粋性を持てば物質的にも祝福してあげるよと仰せになっている。神を畏れる信仰の純粋性を貫けば、いくらでも祝福してあげるよと仰せになっている。 今、世の中にはいろんな問題がありますね。戦争とか経済的なこととか、もう問題山積みですね。それに一生懸命いろいろ対策したり対応しなきゃいけないのは確かですね。その努力は必要である。そしてまた、それについて評論家の方がいろいろ話しますね、こうだ、ああだ、こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけないと言ってる。 でも、我々にとっては、なんてことないんですよ。神様が介入されれば、すべてもう一発で解決される。簡単なことですね。なんの心配もいらないんです。神様のみ力をもってすれば、どんな問題も、もうまばたきする間に解決されますよ。 だけど、この総論と言うのかな―総論賛成各論反対じゃないですけれども―この、「神様はなんでもされるんだから安心だ」という総論が、自分の身の問題になると急に難しくなるんですね。 簡単なのは、世の中の問題とかについて、うんそうだ、神様はきっと戦争をすぐに止められるんだ、というのは簡単ですね。ところがこれ、自分の問題になってくるといきなり困るわけです、私たちは。 自分の健康の問題、経済状況、仕事、人間関係、家族、家族の健康状態、隣人との関係。総論では、そうだ神様すばらしい、だったのが、問題が自分に近づけば近づくほど、困るわけです、我々はね。理想とされてる神様への信仰心が揺らいでくるわけです、いきなり。 だからここを我々が神様から試されてるわけです。信仰の純粋性が試されているのは、こういう身近な問題なわけです。 アブラハムのことですが、神様はアブラハムに対して、「お前はこの世の親子関係を取るのか、霊の父である私とお前との親子関係を取るのかどっちだ」と迫っておられたわけです。大変な厳しさですね。 架空の話じゃないんですよ。神様信じてます、神様が天の父です、と口で言うのは簡単ですね。でも、なら具体的に自分の子供を殺して私への信仰心を示しなさい、なんですよ、今日の聖書の話は。私を天の父と認めるなら自分の子供くらい殺せるでしょ、私との親子関係のほうが大切なんでしょ、じゃあ子供殺しなさい、私の言うことにちゃんと従うかどうか見ますよ、ということですね。 というように神様は、人間の親子関係に完全に剣を投げ入れておられますよ。イエスも、聖書にありますように、私が地上に平和をもたらすために来たと思うな、私は平和ではなく剣を投げ込むために来たんだと、そう仰せですね(「マタイによる福音書」第10章34節~39節)。 親子関係、夫婦関係、兄弟関係、友人関係というようなこの世のものを大事にするのか―いや、この世のそういう人間関係は確かに大切ですよ、それを蔑ろにしていいということでは決してない―でも、今日拝聴した聖書の箇所で神様が訴えておられることは、究極的にあなたはどっちを取るのかということ。 今回の教団浄化の中での皆様の決断は、大変なことでもあったと思いますけれども、すばらしいことだったと思いますよ。 当然信仰というのは自由ですけれども、皆様は、教主様の道こそが明主様の道、神様への道だと信じられて、それによって、結果的に、兄弟とか親子とか夫婦とかの間で別々の道を歩んでしまうということになった方もおられると思います。 我々は一人ひとり、神様から試される時が来るかもしれませんね。あなたは私を信じるのか、それとも、この世の親子関係とか、夫婦関係とか、それを優先するのかどっちなんだと、そういうことですね。 場合によっては、自分が信じることを貫くために、この世の親子関係を失うようなこと、犠牲にしなければならないようなことも発生するかもしれない。 少なくともアブラハムはそれが発生しまして、でも神様への絶大なる信頼によって、神様はそれを良しとされて、息子は殺さなくていいよとなった。 だから、アフリカのことを通して明主様が我々に願っておられるのは何かというと、「信仰の純粋性を取り戻しなさい」、ということです。 天国とか神様と言ったって、それは生半可なものじゃないんですから。でも神様は、本当の父である私を選べば、いくらでもこの世のことも私はお前を支えてあげるよと、そう言っておられるんです。 アフリカに聖地ができた。物質的に恵まれてないかのようなアフリカにできた。だから日本にいる我々も成し遂げられるはずですよ。 我々が全く失ってしまった信仰の純粋性。もう、ずっと、なまぬるーい信仰を捧げてきたんです、我々は。それで結果聖地を明主様から取られてしまった。でも明主様は、アフリカを見てみなさいと仰せです。私はアフリカを祝福したよ、次はあなた方の番じゃないのか、純粋な信仰を捧げたアブラハムはあなた方の中にいるんだよと、そう仰せなんです。 今日は祖霊大祭ですけれども、我々は、あまり、アブラハムが自分のご先祖様だとは思ってないんじゃないですか。でも違うんですよ。信仰の純粋性ということにおいてそういうすばらしい信仰を捧げた方が私たちの中にいらっしゃるんです。 だから、「アブラハムの信仰に触れさせていただきたいのです。アフリカ信徒の信仰の純粋性に触れさせていただきたいのです」と思わせていただいて、そして、我々が信仰の純粋性を取り戻せば、メシア聖堂だけじゃないですよ、当然メシア聖堂も明主様は必ず祝福してくださるし、それだけではなくて、私たち一人ひとりの人生も、それは、我々の100%願ってるほうに行くかどうか分からないけれども、確実に力強いみ手をもって神様は私たちを導いてくださる。 ですから、なんと言ってもこの信仰の純粋性。神を愛し、神を畏れ、神にすべてを尽くすというその信仰を、私たちで共に、神様、明主様にお捧げして、明主様からご覧になって、「あなた方は私の信徒だよ」「だから聖地をまた託してあげるよ」と言ってもらえるような存在、また、「この世のこともいろいろ私が援助してあげるよ」と言ってもらえるような存在、そういう存在になれるよう、アフリカ信徒と共に、また、我々の中にいるアブラハムとかそういうすばらしい方たちと共に、成長していきたいと思っております。よろしくお願いします。 ありがとうございました。