皆さん、こんにちは。ただいまは母の誕生日に際しまして、皆様の温かな拍手、ありがとうございました(一同拍手)。 私は3人の子供がいるんですけれども、現在3人のうち2人が夏休み中ということで、3人でよく一緒に遊んでるんですけれども、おままごとってありますよね、食べ物とかお皿を使って遊ぶおままごと。 だけど、日本で売っているおままごとの食べ物って西洋のものが多いんですね、ハンバーグとか、パンケーキとか。でも、うちではよく「ヴィーガン」という言葉が使われているので、おままごとをする時、上の2人は、自然に、「これはヴィーガンのハンバーグだよ」(一同笑声)とか、「これヴィーガンの」(一同笑声)みたいなことで遊んでいるのですが、それを見ている一番下の2歳の長男のみことが、「お、食べ物を運ぶ時は、なんか、『ヴィーガン』という音を発するのか」ということを学びまして――それで、みことは今ちょうど、いろんな言葉を吸収してどんどん話す時期でして――そしたらこの間、1週間ぐらい前かな、私は家で仕事をしてたんですけれども、みことが、なんかおままごとの食べ物をお皿の上に乗っけて、「ヴィーガン、ヴィーガン」と言いながら私のもとに運んできました(一同笑声)。 彼はまだ「ヴィーガン」という言葉の意味は分かってないと思うんだけれども、食べ物を運ぶ時はヴィーガンという音を発するんだな(一同笑声)ということを学びまして、まだ2歳なのに、もう、ヴィーガンという非常に難しい言葉を使っててすごいなと思ったという話と、あともう一つはですね、今は夏休みだから、当然、いわゆるおじいちゃん、おばあちゃんとの交流がありますよね、学校に行かないですから。おじいちゃん、おばあちゃんといっても教主様と母ですね(一同笑声)。当然妻側のおじいちゃん、おばあちゃんもいますが、教主様と母は同じ熱海に住んでいるのでよく一緒に遊ぶわけですね。 で、この話は母と長女のめいから聞いたのですが、先日めいが、折り紙を使って4階建ての家を作っていたのですが、、、いやすごいですよね(一同笑声)――もう7歳なので結構複雑なものを作ってしまいますよね――その家は、エレベーター付きで、しかもバリアフリーなんですが、それは、母――めいたちは「大ママ」と呼んでますけれども――が車椅子で1階から4階のどこにでも行けるようにということでそういう家を折り紙で作ったらしいんですね。 私はこの話を聞いた時、確かに母にとって脳梗塞となってしまったことは、それまで元気に動き回っていたわけなので、大きく人生が変わってしまった大変な出来事だったんですけれども、そして、それについて母自身は、「なんでこうなっちゃったんだろう」という思いはもちろんあると思うんですけれども、でも、なんと言いますか、めいを含めた我々の子供たちが、小さい時から、ああ、世の中には車椅子で動かなきゃいけないとか、普通の人のようには移動できないとか、そういう、いろいろなハンデや難しさを抱えている方もいらっしゃるんだということを自然に学べる環境にいられるというのは、母にとって脳梗塞とそれに伴うすべては大変なことなんですけれども、結果、それによって、我々の子供たちが、いわば、人の心の痛みが分かる大人に育っていくことができたら、それは母に感謝させていただきたいことだなと、そんなことを私は今思っております。ということで、本題に入る前に、岡田家の近況を少し共有させていただきました(一同拍手)。ありがとうございます。 今日お話ししたいのは、教主様中心の神業体制ということなんですが――いきなり話が大きく変わりましたね(一同笑声)、めいの折り紙で作った家の話から、「教主様中心の神業体制」という漢字が連続で来る言葉の話を急に始めちゃってすみません(一同笑声)――我々は、教主様中心の神業体制、要は教主様を通して明主様のみ心をお受けしようということですね、ということで、特に元いづのめ教団の方はこの体制を確立しようということで歩んでこられましたね。 でも、教主様中心の神業体制のもともとのスタートは明主様ですね――明主様が1950年2月4日に世界メシア教を開教された時、基本的にはその時ですね。 明主様は、その前までは顧問というお立場であられたのですが、この2月4日に、「教主」というポジションを作られて、そしてご自分がこの教主というお立場にご就位になった。 で、明主様によると、この教主というお立場は何かというと、神の代行者として表に出たまでであると、そう仰せです。だから、教主というのは、神の代行者としてのお立場なんだということですね。 当時明主様は、明主様と呼ばれ始めている時期でもありますし、大先生とか、岡田大先生とも呼ばれていたわけですが、明主様は、それらにプラスして、教主というお立場を設立されたわけです。 「明主様」というのはずっと岡田茂吉というご存在を指す言葉として使われてきたわけですが、一方、「教主様」というのは、明主様がご昇天になった時、明主様のご遺言によって教主の座というのは二代に託すよとされた。 ということで、「明主様」というのは明主様だけですけれども、神の代行者として表に出る立場の教主について、明主様は、二代様に継承させまして、そしてその後、三代様、現四代教主様にまで続いている、ということですね。 この教主という座について、明主様は、神の代行者として表に出る立場なんだということを言われたんですけれども、二代様は、教主というのは、当然神の代行者ではあるんだけれども、神様のみならず、明主様とも一体のご存在として信徒を導いていく――これについて二代様は「教主教権」というお言葉を使われましたけれども――ということで、信徒にとって教主とは何かということを二代様がさらに明確にされて今日にまで至るということです。 というように、教主様側のほうとしては、簡単に言えば、今の神様、明主様の御心を信徒や世に伝えていかれるということですけれども、一方、教主様をお受けする我々信徒側の立場とはなんなのかと言えば、それは、教主様を通して、あるいは、今教主様が私を教主の代行と定めていますので、教主様とか私を通して明主様のみ心をお受けしようということになりますね。それが「教主様中心の神業体制」ということですね。 それを確認させていただいた上で、今回教団浄化がありまして、世界メシア教の我々は、教主様中心を守ったんだということになっている。教主様は明主様のみ心を表されるご存在なんだ、そのために我々は立ち上がったんだ、という我々のこの信仰の発露によって教主様中心の神業体制が守られ、確立した、ということになっておりますね。 でも、数年前、教主様が国内をご巡教になっている時に仰せになったことで、非常に印象に残ったことがあったんですけれども、それは、岡田陽一という私といえども、あくまでも教主の座に仕えている存在なんだ、神様がご用意になった神様の座である教主の座に仕えている立場なんだと、そういうことを仰せになったんですね。 今回の教団浄化、原因ははっきりしてますね。要は、教主様はおかしい、だから受け入れない、というほうと、いや私は教主様を受け入れるというこのどちらかですよね、結局。 そして、さらにその時教主様が仰せになったのは、結局どちらにしても、神様が用意された教主の座が中心である。一方は反発してる、一方は受け入れてる、でも中心は神様の座、教主の座じゃないか。だから、メシア教の我々だけが教主様中心なのではなくて、今回教主様に反発されて明主様の教団から去ってしまった方たちも、詰まるところは教主様の座という「中心」に反発してるんだから、結局彼らも教主様中心なんだと、正確な文言はこんな文言ではなかったんだけれども、教主様がそういう趣旨のことを仰せになって、それが非常に私の印象に残ったんですね。 確かにそうですよね。今回の教団浄化において反発された世界救世教の方々は、教主様はこういうことを仰せになってるからおかしい、とか、あるいは真明がこう言っていることがおかしいということで、もうそれを一生懸命されましたよね。 世界救世教は、教義違反で教主様を追放したと言ってるのに、その後もたくさんの文章を出しました、教主様の聖言のここがおかしい、明主様の聖言と比べてどうだということでね。 いや、ある意味、世界救世教の方々の教主様の聖言を求める熱意というのは、下手したらメシア教の皆様よりも(一同笑声)すごいかもしれませんよ。だって世界救世教は、教主様の一挙手一投足が気になりすぎて、最終的には尾行・盗聴・盗撮までしたんだからものすごい教主様中心ですよ(一同笑声)。 教主様が何をされるんだろうということがもう気になって気になってしょうがない(一同笑声)。だから、世界救世教にとっては、もう教主様が中心も中心ですよね(一同笑声)。彼らが隠れて撮影しているど真ん中の人物が教主様なんですからね。そう考えるとなんか面白いですよね(一同笑声)。 一方我々は、例えば世界救世教に所属する理事長とかが出している言葉とか、彼らには大変申し訳ないけれども、まったく興味無いじゃないですか(一同笑声)。いや、興味無いという表現をするのも憚られるぐらい、まったく気にならないというか、何をしているのかすらまったく分からない。 でも世界救世教側は、教主様がこれを言った、真明はこうだ(一同笑声)と言って、実際、教主様と私を批判することで自分たちの信徒の歓心を買ってるぐらいですね。教主・岡田陽一はこんなにおかしい、岡田真明はこんなにおかしい、だから自分たちは正しいんだということでね。 そう考えると、救世教に少し私のお給料を払ってほしいぐらいですね(一同笑声)。私を利用して信徒を導かれるなら、ちょっとお給料分けてくれないかな(一同笑声)と思ったりしますね。 救世教側のしていることは、世の中的に言えば、寄生虫みたいなことですね。教主様と私に反発するおこぼれによって信仰を進めていこうということですから、寄生虫。 でも、実はそういうことではなくて、やはりこの神様ということについて、それを素直に受け入れる表現(世界メシア教)と、逆に反発するという表現(世界救世教)をさせられてるんじゃないかなと、そう思うわけです。 だから、世界メシア教も、世界救世教も、そういう意味においては、良くも悪くもどちらも教主様中心ですね、本当はね。 私が2年前の2023年11月にブラジルに行った時、11月15日にブラジルメシア教の人たちとの集いをしたんですね。で、この11月15日というのは、ブラジル国家にとって、建国記念日とは少し違いますけれども、そういう種類の祝日なんですね。11月15日は毎年祝日。ということで、そのタイミングだと信徒の皆様も集まりやすいということで、その時に私が行かせていただいて祭典をしようということになった。 そしたら、ブラジル救世教がありますよね。ブラジルにも世界救世教がある。ブラジル救世教としては、普通、11月15日は国民の祝日なので大きな活動はしないんですけれども、私が行くということで、そのタイミングに合わせて、ブラジル全土の教会で大浄霊会をするということにしたんですね。ブラジル全土で大浄霊会。だから、すごい意識してますよね(一同笑声)。いや、ほっとけばいいじゃないか(一同笑声)となりますけれども、もう、ものすごい意識しているわけです。なんか逆効果な気がしますけれどもね(一同笑声)、なんで全国的に大浄霊会をするんですかみたいなことになっちゃいますから。 このようなお話をして私が何を言わんとしているかというと、結局我々は、教主様中心の神業体制を確立するとか、教主様を通して明主様をお受けするということに対して、それが、我々の信仰だとか、我々発の思いのように思うんだけれども、本当はそうではない。 天上において神様というのは絶対であり、唯一の讃えるべきお方であって、他のすべての存在は神様にお仕えしているという絶対的な秩序があるわけです。 だから天上は、神様をお讃えし、この唯一のお方にすべてを帰すという波動で満ち満ちている場所なわけです。そして、この天上のパワーというのは、今この瞬間も、もうふんだんにこの「地」という世界に降り注いでいますので――まあ、天国と地上ということを考える時、あまり上下という感覚で捉えないほうがいいかもしれませんけれども――でもとにかく、天上は常に地上を獲得せんとしている。地上を、天上のようなすばらしい世界にしたいということで、天上の秩序が常にこの「地」に対してものすごいアクティブに働いている。 その天上の秩序の力を無意識にいただいているから、私たちは、「神様の座である教主様の座を通して神様にお仕えしたい」とか、「神様の御心をお受けしたい」というふうな思いにさせられるわけです。天上の力によって、有無も言わさずそうさせられるわけです。 反発するのも同じなんですよ。神様の秩序のパワーというのはとにかくものすごいですから、だから人間は大慌てするわけです。それを考えたら、世界救世教がした尾行・盗聴・盗撮なんてかわいいものですよ。神様から逃げたい存在にとって、神様の本当の秩序が臨んでくることはとにかく恐ろしいわけです。 人間というのは、この地上においても、この天上の秩序を表すということの真似事をさせられていますから、その中にあって、「教主」というものが象徴しているのは、明主様であり、究極的には神様ですね。だから人間というのは、「教主の座」というものについて、受け入れるほうもあれば、なにか嫌悪感を感じて反発したい思いも出てくる。 だから、人間はそれを素直に表現させられているだけの話であって、いいほうに出ればメシア教、悪いほうに出れば世界救世教となるわけです。「悪いほう」とも言えないですね、だってそれはそれで「神様に反発する」というのを素直に表現させられているだけの話ですからね。反発するのも神様に使われてるだけの話なんですよ実は、だって神様はすべてを照らしておられますのでね。照らせば影もできる。 そう考えると、メシア教の我々は、いわば、手柄は一切無いんですよ。天上から来る秩序の力があるがゆえに教主様をお受けさせていただいているだけの話であって、我々は教主様を受け入れない方々よりもましな人間だとか、あるいは、我々はまともな信仰をしているからメシア教に所属してるとか、そういうことではないんですよ。我々の手柄はゼロです。 だからこれが、霊主体従の法則ですよね、霊主体従の法則。法則ということは、心がけとか関係無くそうなります、ということですね。だから、神様の大きな御力の中で、なにか、「神様に心を向ける」という感情を湧かせていただいているだけの話ですね、湧かせていただいているだけ。 聖地ということでは、今、火の聖地のこともありますが、私たちが言っているのは、聖地を通して天国を思い出す、これを言ってますよね。明主様がなぜ聖地造営をされたのか。それは、地上の聖地を通して目に見えない天国を思い出すということ。だからそのためにメシア聖堂の建設をがんばろうと、そういうことを私たちは言っている。ですね? でも、そもそも、我々が、聖地を造ろうとか、聖地を造らなきゃいけないとかそういう活動をしてるのは、これも、今の教主様のことと同じで、なにも、我々の主体性があってしていることではないんですよ、実はね。 というのは、まず、天国という場所には圧倒的な美しさが存在する。これがどれほどの美しさか、我々では想像もできませんね。天国の美しさと安らぎ。これはもう我々人間では想像すらできない、本当はね。それぐらい天国の波動というのは地上とは違う。違うけれども、でも、今の天上の秩序の話と一緒で、この天国の美しさとか安らぎというのは地上にもどんどん降り注いでいるのであって、天国は地上と一つになろうとしている。 というように、天国は地上を獲得しようとしているわけですから、地上の汚れているところはばんばん照らされます。破壊と創造が一緒に行われるというように、破壊のほうとしては、人間のいろんな営み――戦争とか、殺人とか――そういう姿が今もどんどん照らされていますね。これは、天上からのパワーがものすごいからそういうことが起きているわけです。地上と一つにならんという天上からのパワーですね。 このパワーがあるから、汚れてるものであれば、それが清められるといいますか、汚いものが表面に出てくるという作用になりますし、一方、聖地を造るというように、美しい場所を造ろうじゃないかということにもなるわけです。これ、同じ働きですよ。だから、この破壊と創造というのは表裏一体ですね、表裏一体。 ぱっと見、世の中はなんにも変わりませんね。我々の外の世界はなにも変わっていないように見える。でも、我々がなんにも努力をしなくても、この破壊と創造の神様のみ業というのは、今、ものすごいスピードで進んでいるのであって、神様は地上をどんどん天国化されているわけです。今も、一秒一秒、毎瞬間毎瞬間、この地上をどんどんどんどん清めて、きれいにして、すばらしい場所にするということが行われている。 そして、たとえ我々がなんの努力をしなくても、この地球というのは、最終的には天国と一つとなって、すばらしい地球、すばらしい世界になるわけです。 だから、今我々が、聖地のようなきれいな場所を造ろうとしているのは、なにか我々発のことではなくて、天国が地上を獲得せんとする霊主体従の法則の圧倒的なパワーが存在していて、そのパワーのほんの端を我々が感じますので、というか、感じ取らされているので、だから、じゃあ聖地を造ろうという思いが我々の心に湧くように神様がさせているだけの話なわけです、本来は。 このことを理解していないと、我々は、地上のことを主体としたいですから、ややもすると、美しい場所にいっぱい行って、いっぱい天国を思い出そう、みたいになってしまう。今度はこの場所、今度はこの公園とか、あそこはみんなすごいきれいだと言ってるからそこに行って天国を思い出そう、みたいなことになってしまう。 要は、地上のことを主体にして、その中で天国のことを見るとか思うという姿勢にどんどんどんどんなってしまうわけです。ま、ひと言で言えば「教え化」しちゃうわけですね。聖地を通して天国を思い出す、というのを我々は教え化しようとしますから、そうすると、じゃあ毎週末きれいなところに行って、毎週末天国を思い出したらいいね、みたいになっちゃうわけです。 でも明主様は、「まず天国に上がりなさい」と仰せですね(「本教救いの特異性」1949年10月5日)。「まず」ですよ。まず、ということは、天国があるとか無いとか関係無いんですよ。天国が見える、見えない、実感がある、無い、分かる、分からない、明主様はその全部をすっ飛ばされて、まず天国に上がりなさいと仰せになっている。 まず天国のことを分かりなさい、知りなさい、あ、そうですか、ではないんですよ。天国のことをまず学びなさい、あ、そうですか、まず学びます、学んで分かるようになります、じゃないんですよ。 じゃなくて、「まず、上がりなさい」ということですから、我々が天国のことが分かるとか分かんないとか、実感があるとか無いとか、あることが定かであるとか無いとか、これ全部、一切関係無いんですよ。 いや、ね、まず、地上のいろんなきれいな場所に行きなさい、なら分かりますよ。まずそういうところにいっぱい行って、天国がどれだけ美しいか思い出しなさい、なら分かりますよ。でもそうじゃないんですよ。そういう地球上の営みを全部すっ飛ばして、明主様は、いきなり、まず天国に上がりなさいと仰せである。まずですよ、まず。だから、我々が最初にすべきことは天国に上がるということです。 で、そうしないと、我々今、聖地建設ということで一生懸命美しい場所を造ろうとしてますけれども、どんなに地球上の美しいところをいろいろ見て、これを参考にしようとかしたって、そんなことから表現される美しさというのはたかが知れてますね。 だけど、もし我々が、分かっても分からなくても、まず自分の中にある天国に上がらせていただきますとさせていただければ、霊主体従の法則がありますから、神様が、「そうだ」「霊が主なんだ」「体は従うんだ」ということを仰せくださって、我々では想像もつかないような美しい聖地をご用意くださるかもしれないですね。 だから、この営みというのは逆じゃないんですよ。逆ではない。地球の美しい場所があって、天国があるのではない、ということです。 祭典についても、地上の祭典というのを通して天国の祭典を思い出すとかそういう方向に行きがちですね。いやあ今日の祭典は本当にすばらしかった、だから天上の祭典もきっとこうなんじゃないだろうかと、そうなりがちですね。 でも、天上の祭典というのは、いや、天上の祭典というか、祭典というのは詰まるところ「神様をお讃えする」ということであって、天国という場所は神様をお讃えするエネルギーと波動でもう満ち満ちていて、そして、そのエネルギーとか波動は、地球上で今我々がしている祭典の比ではない。 だからどんなに、わー今回の祭典はすばらしかった、じゃあ今度はこういうことをしてみよう、こういうことを企画してみようということで、どんなに人間の力で努力をしても、ま、それはたかが知れてますね。人間の世界でたどり着けることはたかが知れている。 でも、まず、「天上の祭典がどのようなものか私に分かりませんけれども、それをお受けします」というふうに我々が思えば、そうすれば、この地上の祭典も、今我々がしてるのよりも、もっと新しい形、もっと新しい方向を神様がお示しくださって、もし今我々が祭典において感動や神様の波動を感じているとしたら、それらとは比じゃない感動や波動を経験できるんですよ、本当はね。 歌についても、神様をお讃えするために歌を歌ってますということで、なんか我々発の信仰活動のようですが、これも実は、人間発のことでしているのではない。 そうではなくて、まず、天国において、唯一の神様をお讃えするという恐ろしいまでの波動であり波長があるわけです。それが今も地上にふんだんに降り注いでるから、だから我々が、あっ、じゃあ歌を歌って神様をお讃えしようかなとか、音楽活動しようかなとか、一生懸命努力したいというふうに思わされてるわけです、神様から。 だから、今私がしている話は、普通は、面白くないみたいな話ですよ。 人間のほうとしては、祭典のためにこんなに一生懸命努力しました、一生懸命歌の練習しました、教主様のことも一生懸命信じてます、ということでそれを手柄としたいのに、そのすべて、なんてことはない、ただ、天上の秩序と波動がふんだんに我々の心に毎秒毎秒あふれんばかりに来ていますので、だから自然な思いの発露として、反発しますとか、歌いたくないとか、歌います、お讃えします、祭典に参拝させていただきます、となっているだけのことなんですね。 参拝するという行為一つを取ったって、確かに現実的にはいろんなことがあって皆様参拝されることになるんですけれども、結局は、我々が参拝したいと思うようにしておられる方がいらっしゃるわけですね。「参拝に行こう」とさせる気にしておられる方がいらっしゃる。 だから、つまらないみたいなことですよ、本当はね。普通我々は人間の努力や手柄にしたいのに、特に若い人とかは、これから自分はこれもこれもこれもしたい、ということになりますが、本当は、そのもとがあるわけですね。 というように神様の圧倒的な力が私たちのもとに到達しているから、今日拝聴した聖書にありましたように、我々が言える言葉は、「しかり、しかり、否、否」しかないわけです(「マタイによる福音書」第5章37節)。 「しかり」ということは「はい」ということですから、だから我々は、「はい」か「いいえ」しか言えない。それ以外の言葉は全部悪なんですよ(「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである」)。 だから、本来、天上のパワーと秩序が我々の中に満ちてきて、それでいろいろ思い起こされていることについて、我々は、「自分はこう思っている」とか、「あの人はああ思っている」ということで、良くも悪くも自分の手柄にしてるんだけれども、本当は、「自分はこういうことをしたい」と思ったら、我々ができることは「しかり」と言うことしかないんですよ。あるいは「否」ですね、嫌なら。それしかないんです。 だから、我々の人生というのは、「お受けします」か「お受けしません」の二択しかないわけです。 神様がメシア教を通して進められてるみ業について、「したい」ということであれば、「はい」しかないわけです。あるいはしたくないのであれば、「否」ですね。 他の、「こうこうこういう理由でしたい」とか、「こういう理由でなかなか難しい」とか、そういうのは全部悪なわけです。 だから、神様に対しての我々の生き方というのは、「はい」か「いいえ」しかないんです。「しかり」か「否」しかないんです。逆に言えば、それだけ神様がすべてをしてくださってるということでもありますね。 でも我々は、人間の努力に比重を置きたいのであって、神様の働きについて、「してくださってない」というふうにしたいわけです。「はい」か「いいえ」の世界をお受けする立場ではつまらないからそうしたいわけですね。つまらない。 メシア教のしているいろんな活動についても、今日までの歩みとかその方向性が、なにか、教主様、あるいは私が、いわば私たちの個人的な思いで進めているということを感じられる方もおられるかもしれませんけれども、実際は全然そんなことはないんですよ。 例えば、キリスト教と呼応しようじゃないかというメシア教の方向性はどうして出てきたのかというと、教主様にキリスト教の友人の方がおられることが問題だと世界救世教が言い出しましたので、別にもともとこのような方針を打ち出すつもりはなかったけれども、いや、そう言われてしまうと、明主様は一応こういうことを仰せですよということになりますよね。 要は、メシア教を開教された時明主様は、メシア教はキリスト教と呼応して人類救済をするとか、メシア教はよほどキリスト教に近くなると、そういうことを仰せですよと言わざるを得なくなった。 あるいは、教主様が浄霊を否定しているとか、想念とか悔い改めということはおかしいということを世界救世教が言い出しましたので、いや、そう言われてしまうと、明主様は、最晩年、ご浄霊は二の問題であると仰せになり、また、想念による新しい浄霊を発見したと、そういうことが側近奉仕者の日記にありますよと、まあ、そういうことを言わざるを得ない状況になったわけですね。 あるいは聖地ということに関しても、本来明主様の信徒はもともと聖地を持っていたわけですけれども、世界救世教が、教主様、すなわち明主様を追い出してしまった。明主様がいらっしゃらない場所が聖地となり得るわけないですから、そうすると、この地球上にもう明主様の聖地が一つも無くなってしまった。だとしたら、明主様のご付託に応えられるのは我々しかいないじゃないかということで、聖地を明主様のためにお捧げさせていただこうじゃないかということになってメシア教として聖地建設をするようになったわけですね。 だから、これら全部、「しかり、しかり」なわけです。「否、否、しかり、しかり」なだけですよ。教主様と私が、なにか一生懸命考えて、これから1年先どうしようか、2年先どうしようか、ということで、人間の力で考えながら進めるのは大変ですね。 だから、誤解を恐れずに言いますと、ある意味において、教主様と私は非常にリラックスしている状態なんですよ。こういうふうに進めなきゃいけないということで悩んだりすることは一切無い。 もちろん、人間心として、教団の未来ということを考えたり、その中で人間的な思いはいろいろありますけれども、人為的にこうしようということは一切無いわけです。むしろ、いろいろ現れてくることに対してリアクションするという感じですね。アクションというよりもリアクションですね。 目の前に起きてくることについてリアクションを取らなきゃいけないということが重なる中で、気づいたら今日の教団の姿があるという感じですね。だから、これは、今後もそういうことで進んでいくんですよ。 そういう意味においては、一寸先は闇とも言えますね。人間の力ですべて計画して行うんでしたら、ある程度計画を固めて進めていこうということになりますが――いや、もちろんね、経営体制とかは盤石でなければなりませんし、人力については最大限尽くすわけですけれども――最終的に神様がどうされるか分からないということにおいては、一寸先は闇ですよね。次、神様はどういうことを我々にお示しになるのだろうと、そういう状況ですからね。 だから、実は結構大変なんですよ。明主様のご在世中もご神業がどんどんどんどん変化しましたように、神様が新しい道をどんどんどんどん示された時に、結構、「しかり」よりも「否」のほうを言いたいというのが我々の中に出てきますのでね(例えば菜食についてとか)、だから、リラックスしてるとかリアクションといっても、実は結構大変ですよ。 というように、この天上のパワーとかエネルギーが地上を獲得して天地一つになろうという動きは、目に見えないけれども確かに進んでるんですね。そして、聖地建設とか今日の祭典とかのことは、これは私たちの体の外の世界で起きていることですけれども、これは、人間の体の中でも起きているわけです。天上に用意されている清い霊の体が、地の体と一つになろうとしている。 これ、私は今、病気のことについて話してるんですよ。 だってもう病気は現れてこざるを得ないじゃないですか。この地上だって、戦争のように、積年の人間のいろんな営みが照らし出されるように、人間の体についても、清い霊の体が、我々の、いわば汚い地の体と一つになろうとするわけですから、当然病気が現れてくるわけです。 軽く言えば風邪とか発熱、もっと強く出れば、より重篤な病ですね。だっていろんな病気ありますものね。ありとあらゆる病気。精神的なものも肉体的なものも、あるいは、科学的にもまだつかめてないようないろんな種類の病気、それらが全部現れざるを得ない。 だから、病気ということについては、もう待った無しですよ。どんどん現れる。だって、天上の清い体は、常に、地の体を清めてそれと一つとなりたい、よりすばらしい存在になりたいと願っているわけですから。 ここ、私は今、新しく生まれるということについて言ってるんですよ。天上の体が我々の体を獲得したら、それは新しく生まれるということですからね。それがためにいろんな病気が出てきてるわけです。 そして、明主様はそのプロセスを完全に信頼されていたがゆえに、今日拝聴した明主様の聖言と御歌にもありましたように、病は止めるべきではないと明主様は仰せになった。 病というのは、神様が私たちを清めてくださっている、より清い存在にしてくださっている、地の体が霊の体と一つになるという営みを神様がしてくださっている、だからその働きは止めるべきではないんだ、そして、薬みたいなものを使って病を止めてしまうと楽にはなるけれども、霊の体が地の体を獲得するという営みが弱まるんだ、ということで明主様は医学に関わったり薬を摂取することについては明確にご反対になった。すごい信仰心ですね、明主様は。 で、そのすごい信仰心によって最終的に明主様はどうなったのかといったら、人間的な世界で言えば、脳溢血になって10か月後に亡くなってしまいました、ということですね。脳溢血になっても病院に行かれなかったんですよ、明主様は。今の我々では考えられませんね。 でも、結局脳の病は回復せず、死なれちゃったと、人間的な世界で言えばそういうことになりますね。 ここで問題なのは、明主様は死なれてるのかというこの点ですね。明主様のみならず、人間が死んだ時、本当に死んでるのかどうかというこの点ですね。 だから僕は、この生死の転換――生きている人間が死にましたということが目の前で発生しますね――この生死の転換の瞬間に、地獄への口が大きく開いていると、そう思うわけです。 生死の転換。生きている人が目の前で死にました、お医者さんが「もう死にました」と宣言しますね、その瞬間とかですね、その生死の転換の瞬間に地獄への口が開いている。 で、それはどういう意味かというと、ある人が死んだという時、我々はそれを「死んだ」と見ますけれども、本当は、「死」というのはなんてことない、この霊の体が地の体を獲得せんとする圧倒的なパワーの営みがバンバン継続している中にあって、ただ、体が、そのパワーに耐えきれずに生死の転換点を迎えるだけのことであって、肉の体が死んでもこのパワーは――霊主体従の法則の霊の主のパワーは――継続してますから、体が滅んだところで、死ぬどころか、本当は、体の重荷が取れて、本当はそれからもっとすごい力を発揮する営みに入っているんです。 だから本当は、この世の体の重荷が取れて、これからさらに生きて働こうとしているのに、生死の転換の瞬間に立ち会った我々は、死んだ方に対して、もう、すぐ、「安らかにお眠りください」(一同笑声)と言っている。真実を知ると、自分たちがしていることがおもしろいですよね、滑稽というか。 英語でも「rest in peace」と言うんですけれども、「安らかにお眠りください」という意味ですね。「これでようやくおじいちゃん休めるね」とか、「安らかにお眠りください」と言ってますね。ご本人はこれからバンバン働きたいのに、寝てなさい(一同笑声)と我々は言っているわけです。 というように、我々の思いの中でご先祖様をもう死んで、寝てる者としてるわけです。生死の転換の瞬間に、「死」というものを授けているわけです。だから、なぜ「地獄への口が開いている」と言っているのかというと、地獄といったって、それは死ですよね。地獄の世界は死の世界ですよ。救いようのない世界。その世界に我々は入り込んでしまっているわけです。 ご先祖様に「安らかにお眠りください」と言うということは、我々は、もうね、ご先祖様には眠っててほしいわけです。眠っているか、あるいは、眠っていなくても、「天国に行ってあの人とお酒でも酌み交わしてるわよ」とか言って、大してなにもしていない存在にしたい。 一方、本人、また神様のほうは、その人をさらにもっとパワフルにエネルギッシュにして、ご自分の子供とするために、どんどんどんどん完成に向かいたいんだけど、我々のほうは、骨壺に入れて、墓石の下に入れて(一同笑声)、「お休みください」「お眠りください」と宣言しちゃってますから、だから幽霊とかが出ちゃうのも、「いやいや私は寝てませんよ」ということを示すために出ちゃったりしますよね、幽霊が、文字通り。幽霊、見る人いますよね。我々はもう寝た存在にしておきたいのに、幽霊出てくるじゃないですか。それは、「自分は生きてるんだよ」ということを知ってほしいわけですね。だから出てくる。 我々は、墓石に閉じ込めて一生懸命幽霊が出ないようにしてるわけです。そういうことで事実上殺してるわけですね。まあ、眠らせてるというのかな。 我々は誰かが死んだ時、「さみしい」とかいろいろ言いますよ。確かに身近な人が亡くなるのは悲しいですね。でもね、本当は、やはり、心のどこかにそのまま死んでいてほしいというのがあるんですよ。 だって、本当にご先祖様が我々の中側で生き生きと働いたら、我々の心はいろいろになりますもんね。ご先祖様が、我々をもっともっと良い存在にするためにどんどん働かれてしまうと本当は自分にとって都合が悪いということを本能的に思うから、だから寝ててほしいと思うんです、安らかにしててほしいと思うわけです。これはもう本能ですね。 でも本当は、人生の中でいろいろ降りかかってくる火の粉について、自分の中で生きてるご先祖様と一緒に立ち向かえば、どんどんどんどんどんどん、いわゆる、見た目的にももっと恵まれた人生のほうに行けるんですよ、実はね。 でも我々は、自分主体で生きていきたいですから、そうするとなかなか人生が物質的にもうまくいかないというふうになっちゃうんです、それがね。 だから、本当は誰も死んでないわけです。死んでるどころか、肉体から解放されてもっと働いておられるわけですね。だって肉体がある時は大変ですよね、病気とかにもなりますのでね。 しかも、生きてたほうか、死んだほうか、どちらが楽かというのは一概には言えませんよ。だって肉体があろうとなかろうとずっと成長していかなきゃいけませんから。だから、たとえ自殺したとしても、良くも悪くも、神様の養い育てからは逃れられないんですよ。 というように明主様は、永遠の命があると、それを信じられた。永遠の命に向かう中にあって自分の身体に起こることは絶対にいいことなんだということで、医学や薬は徹底的に批判された。 医学や薬を受け入れることによって神様のほうに心を向けなくなるので、医学や薬はだめだと、それを非常に強く訴えられた。ですね? そして、言うまでもないことですが、この、医学とか薬批判というのは、明主様のご神業の中核をなすものですよ。浄霊だって、要は、病気が治るのは薬ではなくて神の力が治すんだということで浄霊を私たちはしていたわけですからね。 そしてそれは、今も一緒ですよ。今も我々は、神の力によって病が治ることを信じる集団なんですよ。 だけど、これまで我々は、医学とか薬とかお医者さんを批判するとか、そういうことで戦ってしまうと社会との軋轢を生むということから、最初は方便だったわけです。方便で、「いやいや医学を批判しているわけではないですよ」と表向きには言って、実際は明主様のこの中核をなす考えを信じてたんだけど、いつの間にか、その方便が本当になっちゃったと思うんですね。要は、医学とか薬を本当に受け入れるようになってしまった。 明主様といったら、それは薬毒であり、医学批判ですよ。違いますか? 医学とか薬を批判しておられる今日の明主様の御歌とか聖言は、ほんの一部のことではないですよ。明主様の聖言は、どこを切り取ってもこういう内容ですよ。医学とか薬についての明主様のお考えというのは、ご立教からご昇天になるまで貫いたものがある。でも我々は、方便がいつの間にか本当になってしまった。 で、この間、ある専従者の方がちょっと体調悪いということで、それは大変なことですけれども、その方のご報告で、「体調の改善を目的として病院でいろいろ診てもらった」みたいなことが書いてあったんですけれども、これは、明主様からしたら考えられないことですよ。 だって明主様にとっては、むしろ、医者から離れるのが体調を改善することですから、この専従者の方はまったく正反対のことをされている。 今日の明主様聖言にもありましたように、医術というのは病を止めちゃうんだと、だから、治っているように見えるけれども、浄めの働きが止まってしまって本当は良くないんだというのが明主様の主たる主張なのに、我々は、ついに、体調を良くするために医者に行くということを言い出してしまっている。ま、これは、この専従者の方が代表して、私とか私たちの中にある明主様聖言に対する姿勢を見せてくださったんだと思うんですけれどもね。 そしてまたこのご報告には、「医師の判断により手術を行うことになった」とありました。でも、今は、日本においては、患者が同意しなければ手術はできませんし、もし医師の判断だけで手術をしたら傷害罪ですよ。患者が同意しなければ傷害罪。だって、手術ということは、人間の身体を切って傷つけるわけですからね(明主様御歌「野蛮なり嗚呼野蛮なり人間の玉の肌切る手術とふもの」)。 でも、そのようなことも思わないくらい、我々にとって、いつの間にか、「お医者さん」がすごい偉い存在になっちゃったんじゃないかと思うわけですね。 でも明主様は、「自分は神様を信じる」「病というのは浄めているのでいいことなんだ」という生き方を貫かれた。 しかも私、明主様がすごいと思うのは、普通宗教家というと、行いといいますか、自分はこういう悪いことをしたから病気になったんだとか、こういうことを言ったから病気になったんだとか、ご先祖様の罪があるから病気になったんだと言うけれども、明主様は、心のことよりも、病気というのは薬と肉が原因なんだ、薬であり、肉食であり、牛乳を飲むとか、それで病気になるんだと訴えられた。これ、よく考えると革命的ですよ、宗教家としては。 普通宗教家というのは、ご先祖様の罪があるからですよとか、悪い行いをしたからですよとなるわけですが、明主様はそういう心の問題は度外視なんですよ。 そういう革命的なことを明主様は仰せだったのに、我々はいつの間にかそれを忘れて、薬を飲んだり肉食を普通にしてきた。明主様は牛乳のことについても仰せですね。しかも、牛乳ということは、明主様当時はあまり日本になかったでしょうけれども、牛乳から派生してチーズがありますからね。チーズは牛乳が元ですから。 だから、薬、肉食――牛肉、豚肉、鶏肉とか――あと加工肉、ベーコン、ソーセージ、ハムとかですね、それと魚全部、プラス、チーズ類すべてと牛乳、これが病気の原因だと明主様仰せなのにもかかわらず、我々は長年この明主様のみ心を完全に度外視して肉食とか薬を摂ってきた、ま、薬を摂ってない方はまれにいらっしゃるけれどもね。 しかも、もし今明主様が生きておられたら、必ずや「薬」に含められたであろういろんな添加物とか、子供の時から摂り続けてきませんでしたか?農薬の使われたもの、食べてきませんでしたか?確かに、薬の世界が圧倒的に支配している現代において、100%無農薬で育つのは難しいけれども、でも、そこをこじ開けようとされたのが明主様ですよね。 ご自分から、ということで自然農法を始められた。明主様は当時、将来人間が食べられる物は無くなると仰せでしたが、明主様から言わせれば、今、我々が食べられる物は世の中にほとんど無いですよ。 そしてそこを、ご自分の行動によってこじ開けようとされたのが明主様であられたのに、そのことを我々は完全に忘れている。本当は、我々が再びこじ開けなければならないのに、ですよ。 だけど、そんなことはせずに、我々は、明主様が毒と言われるであろうものを何十年間も摂取してきたじゃないですか。子供であれば数年とか、十数年、そういうものを摂取してきたじゃないですか。明主様はそれらのものが病の原因だと仰せになっているんですから、当然病気になりますよ。いろんな病気が現れてくる。 確かにね、それで病院に連れて行きたいというなら、ま、それは理解できますけれども、今お話ししているような明主様の基本的な姿勢を完全に忘れるわけにはいかないと思いますよ。それは明主様に失礼だと思います。 明主様は、ずっと、薬、肉、牛乳、牛乳から派生してチーズ、それらが病気の原因だと教えてくださっていたのに、いざ病気になったら、その明主様の聖言を完全に忘れたかのようにして、「病院に連れて行かなきゃ」という姿勢はやはり明主様に失礼だと思いますよ。 いや、本当に、連れて行きたければ連れて行ってもいいんですよ、でも、やっぱり、明主様が仰せだったことに少しは思いを致さなきゃいけないと思いますね。明主様が仰せだったことは本当に革命的だったわけですから。 どちらかというと明主様は、もう心がけの問題は克服されているんだ、という見方だと思いますね、私は。心がけでやっていくのは難しいですよね。 今日拝聴した明主様の聖言、「栄養」。昭和27年の聖言、「栄養」。 私は、しばらく前にこの聖言を読む機会がありまして、その時、明主様は大変なことを仰せだなと思ったところがあったんですね。 それは、この聖言にありますように、明主様は結核になりまして、それが悪化して、三期結核とありましたけれども、三期というのはもう末期だということです。三期の結核。なのでもう死ぬ。どんどん痩せ細って、骨と皮になって、あと1か月で死ぬ。聖言「私の歩んだ信仰生活」にもありますように、医者からも、事実上諦めなさいと言われた。 で、明主様は、ご自分の寿命は持ってもあと1か月だなと思われ、いわばやけくそ、やけくそですよね、だめ元で、もうどうせ1か月後に死ぬなら思い切ったことをしようと思われたわけです。 ということで、明主様が考えうる一番思い切ったことをされた。それが何かというと、だからそれは、生き延びるために栄養を摂らなきゃいけないと医者から言われ、自分も完全に信じていた肉食、栄養は動物性に限るというその時ご自分が最も信じられていたものを、一か八かの賭けに出られて、これをもう止めちゃおうとされたわけです。 当時、病院で、なんか漢方薬の薬草の本を読まれて、葉っぱにこういう栄養があるなら、もしかしたら菜食が効果があるかもしれないと思われた。 しかも、明主様のおっしゃる菜食は、いわゆる今のヴィーガン食ですよ。だって明主様は牛乳反対されているわけですからね。「菜食」とか「ベジタリアン」というと、肉は食べないけど、牛乳とチーズと卵を食べる人のことを指す場合がありますが、ここで明主様が仰せの菜食は、「ヴィーガン食」のことですよ。 ということで明主様は、ヴィーガン食をやってみようとされた。で、1日試されました。肉食べるのを止めて、ヴィーガン食を1日されました。明主様本当にされたんですよ。それで、いや、調子いいじゃないかということで2日目もやってみました。ますます調子いい。ということでもう1日されました。3日目。「栄養」の聖言によると、ここで明主様は間違いないと思われるわけですね。 この3日目の時、明主様の言われ方は、正確な文言としては(真明様、栞をご覧になりながら)、「これは不思議と、翌日も翌々日も続けた処、益々いいので、茲に医学に疑いを起し、薬も廃めて了い」(「栄養」1952年12月1日)と、そう言われています。 先ほども言いましたように、明主様は、薬毒とか医学批判をたくさんされていますね。それらは明主様のご神業の中核をなす事柄です。でも、そのきっかけは、ヴィーガン食なんですよ。 ヴィーガン食を始めて3日目の時に、ついに、栄養といえば動物性であるとか、そういう世の中の一般的な科学の考え方、またそれをもとにした医学、これに疑いを起こされたわけです、明主様は。 しかも明主様は、当時の日本で一番だと言われるくらいのお医者さん(入沢博士)にかかられたことからも分かるように、また、他の聖言でも多々仰せのように、明主様はお医者さん大好きだったんですからね。もう信じ切られていた。どこに行くにもお医者さんがいる場所を確認されてたくらいなんですよ、明主様は。それぐらいお好きだったんです、医者が。お医者さんの言うことを完全に信じておられたわけです、明主様は。 でも、そういう生き方をしておられたけれども、どうせあと1か月で死ぬなら、もう思い切ったことをしてみようと思われてヴィーガン食をしたところ、とても体調がいいので、ヴィーガン食を開始してから3日目に思われたんですね、「私が信じ切っている医学そのものも真実じゃないかもしれない」と、そう思われた。 いや、私、これまで、ヴィーガン食が明主様が薬毒を説かれるきっかけだと意識したことなかったですね。ですので、しばらく前にこれに気づきました時、いや、確かにこれそのように書かれているなと思いまして、自分では大発見だなと思ったんです。 しかも、もしヴィーガン食が無ければ、明主様は当然動物性のものを信じて、それを食べ続けられたでしょうし、薬も飲まれて、結果、1か月後、亡くなっておられたでしょうね。確かに簡単には断定できないけども、おそらく亡くなってたでしょうね。だって、どんどんどんどん弱まっておられて、唯一明主様がなにか違うことをされたのがヴィーガン食なんですから。 ということは、ヴィーガン食が無ければ、今日は無いんですよ。ヴィーガン食が無ければ、世界メシア教も無ければ、「明主様」というご存在も誕生してませんし、我々が明主様の信徒とならせていただくことも無かったし、今日このように祭典をしていることも無かった。だって宗教団体立ち上げられる前にもう亡くなっていることになりますからね。 だから、ヴィーガン食が明主様を救われたわけです。 というか、ヴィーガン食が無ければ、そもそも私は存在してませんね。私自身が存在してませんね。だって明主様はもうご結婚前に亡くなってることになるんですから。ヴィーガン食によって明主様の命が繋がれて、それが三穂麿様、教主様、私ときていることを考えると、私の命そのものが、菜食、ヴィーガン食のおかげですね。 少し牛乳のことに触れたいのですが、牛乳とか、牛乳から派生してチーズとかプリンとか――チーズやプリンは明主様当時はあまりなかったでしょうけれども――そういうもの、ありますよね。 それで、チーズとかプリンを売っているところとかに行くと、よく、牛さんが非常に幸せそうにしている絵のイメージとかがありますよね。で、人によっては、牛乳とかチーズぐらいいいじゃないかと、そう言われる方もいますね。これがいわゆる「ベジタリアン」と今言われているもので、乳製品とか卵を摂るこのベジタリアンの人の主張としては、「別に動物殺してないからいいじゃないか」ということですね。 このベジタリアンは、正確には「オーヴォラクトベジタリアン」ですね。オーヴォは卵、ラクトは乳製品で、オーヴォラクトベジタリアン。でも現在は、これが事実上「ベジタリアン」という言葉の定義ですけれども、これを実践している方たちとしては、別に牛さん殺してるわけじゃないしいいじゃないかということなんだけれども、実際、牛さんは全然幸せじゃないんですよ。 ちょっと具体的なところに踏み込みますけれども、牛乳を作り出す雌の乳牛、雌の牛さんは、普通であれば20年ぐらい生きるところ、まず、妊娠しなければ乳は出ませんから――牛乳はできませんから――だから、まず妊娠できるようになったらすぐに人工的に妊娠させて子供を産んで、そしたらまた即人工的に妊娠させて子供を10か月後ぐらいに産んで、即また人工的に妊娠させて、、、というサイクルを繰り返し、また当然、その間ずっと搾乳をし続けるわけですので、結果、通常20年ぐらいは生きるところ、5~6年で弱り果てて、おっぱいも出なくなるので、じゃあどうせ死ぬんだからということで、この雌の牛さんは殺して、安いハンバーガーの肉とかにするわけですね。だから、4分の1ぐらいに寿命をカットされてますね。 例えば人間の寿命がだいたい80歳くらいだとして、人間にものすごい過酷な労働を課して、20歳ぐらいで死んでいる状況ですね。 牛さん、こんな衰弱してもうどうせ死ぬんだから殺そうと、そういうことですね。だから、人間のために、ずっとミルクを出し続ける生涯なわけです。 しかも、この牛さんの子供もたくさん産まれますね。ミルクをいっぱい作るためには何度も妊娠するわけですから、子牛もたくさん産まれる。 この子牛はどうするのかというと、人間はこれが非常においしいということで、食べる。子牛肉とかよく言いますね。英語ではveal(ヴィール)と言いますけれども。で、どういう子牛が特においしいとされてるのかというと、肉質が柔らかくて、肉の色がピンクのほうがいいということになっている。人間が好きなのはそういうものですね。 でも、あの柔らかい肉質は子牛が運動しちゃうとそうならないので、だから、産まれた子牛は鉄格子の中に入れる。そうすると動けないので、筋力が発達しないから肉が柔らかくなるわけですね。 ピンク色はどう出すか。あれは、子牛が鉄分をしっかり摂っちゃうとピンク色にならない。つまり、鉄分欠乏の子牛だとその肉がきれいなピンク色になるんですね。普通、鉄分はお母さんのおっぱいにいっぱい入ってるんだけど、もうそれは飲ませませんからね。だってそれ、人間が飲まなきゃいけないんでしょ?本来、子牛に行くべきものを人間が飲まなきゃいけないんでしょ?牛乳おいしい、チーズおいしい、プリンおいしい、バターも必要だ、ですよね?だからその子牛には飲ませない。そうすると子牛は当然鉄分が足りなくなりますね。 そうすると子牛はどうするかというと、本能的に鉄分が必要なのが分かりますから、入れられている鉄格子の柵をずっと舐めるんですね。鉄分を得たいから、鉄格子の鉄の棒をずっとチュパチュパ舐めている。だって鉄分欠乏してますからね。 鉄分が欠乏すると、人間でも気持ち悪いですよね、フラフラしたりして。だからその症状をなんとか克服しようと思って、本能で、鉄格子をずっと舐めるわけです(ここ、人間側は、子牛は鉄分が不足していることを重々承知しながら、ピンク色の肉にしたいため、敢えて鉄分を含まない餌を子牛に与えているという事実も直視する必要があると思います)。だから、プリンとかバターとかの宣伝とかにある幸せな牛さんは全然幸せじゃないんですよ。 しかも明主様が仰せのように、もし人間が牛乳を飲むんだとしたら、本来牛乳は赤ちゃんが飲む物なんだから、その人間はハイハイしなきゃいけないじゃないか、そんなことも分からないんですかと、そう明主様は仰せですよ(「設し、大人が赤児と同じく、乳を飲むとすれば、赤児と同じく、立って歩かないで這って歩くのが当然ではないか。こんな判り切った事さえ判らない、文明人というものは実に、愚かな者であると思うのである」(「七、完全営養食」1935年)、「成人者が牛乳飲用の可否に就て、私に問う毎にいつも私は、嬰児と同様の食物を摂るとすれば、その動作も嬰児と同様に這ったり抱かれたりすべきではないかと嗤うのである」(「栄養学」1943年10月5日))。 だから、もしまだ牛乳を飲んでいたり、チーズやバターやなんかしらの乳製品を食べているとしたら、その方はまだ卒乳してないということですね。というか、人類はほとんど卒乳してないということですね。赤ちゃんがお母さんのおっぱいを飲み終えたら卒乳ですよね。卒乳、まだ、ほとんどの人がしてないんですよ。 それどころか他の哺乳類の牛乳を、本来飲むべき子供に飲ませない――牛のお母さんが子牛のために作っているのをその子牛には飲ませず――鉄分の無い餌をその子牛に与え、運動もさせず、それを、「柔らかくておいしい」とか、「肉の色がピンクできれいだ」とか言いながら食べ、一方、お母さんが子牛のために用意した牛乳を奪い、それを飲み、バターとかチーズとか食べてるのが我々ですよ。恥ずかしくないんですか? しかもこれは、現在普通に行われてることですね。でもそういう情報が表に出てこないのは、それは、乳牛業界にお金と力があるからという以外無いですよ。今私は、別になにも劇的な話をしているわけでもなく、実際何が起きているかという話をしているだけですよ。 今私が話しているようなことがなぜ表に出てこないのかははっきりしてますね。だって、よく考えたら、「そんなおかしなことあるか」ということですけれども、そう思う人が出てきちゃったら酪農業界の人たちが困るじゃないですか。だから隠すわけですよね。隠すどころか、もう完全に嘘のイメージである幸せな牛さんのイメージを出していると、そういうことです。 でも明主様は、ミロクの世は菜食と仰せになった。 今話している牛さんに関わる営みというのは、人類の長い歴史の中において、人類が継承してきている営みですね。これは主に西洋においてですね、日本人は別に牛乳とかチーズとかを歴史的にたくさん摂ってたわけじゃないですから。でも、そのように継承されてきた文化について、それが2025年の現在まだふんだんに残ってるということです。 でも明主様は、1900年代にすでに二十一世紀を見据えておられたように、我々が見据えるべきは二十二世紀であり、二十三世紀ですよ。もっと新しくならなきゃいけないわけです、我々は。明主様はどんどんどんどん新しいことを取り入れられた。新しい考え、新しいライフスタイルをどんどん取り入れられ、新しいものが大好きであられた。 だから我々も、明主様はミロクの世は菜食と仰せになってるんですから、いまだに二十世紀とか二十一世紀の生き方をするのではなく、やはり、二十二世紀、二十三世紀の人が生きる生き方をすることを明主様は願われていると思いますし、そもそも明主様ご自身がそういうお方でしたよね。 今日は祖霊大祭ですね。祖霊様ということに関連して、先月ポルトガルに参りました時、ポルトガルの皆様にお伝えしたのは、ポルトガルの信徒の皆様のご先祖様である宣教師たちが、イエス・キリストと共にメシアの御名を日本に届けてくれた。それによって明主様は、メシアの御名に込められた真実をお知りになることができた、そのようなことをお伝えしました。 「メシアの御名に込められた真実」というとなんか高尚な響きですけれども、なんてことはない、イエス・キリストはもう再臨した、そして、人類一人ひとりメシアとして新しく生まれることができる、というそれだけのことです。ものすごい簡単なことです。 そういう意味においては、イエス・キリストが再臨しているがゆえに、もはや動物の苦しみや犠牲は必要無いんです。だってイエスは子羊だったんでしょ、捧げた子羊。イエス自身が動物的な象徴の形をとっているじゃないですか。 だから、今まで言ってきたように、イエス・キリストが最後の捧げ物であるがゆえにもはや肉を食べる必要が無い、とも言えるし、イエス・キリストはすでに我々一人ひとりの中に再臨しているがゆえに、もはや動物の犠牲は必要無いとも言えますね。 少し話が逸れましたが、ポルトガルで私がお伝えしたのは、メシアの御名にある真実を明主様が感得になられて、そして今、ポルトガルの信徒の皆様はそれを知るに至った。 でも、当時、多くのポルトガルの宣教師は船旅で死んだでしょう。船の中で病気になって死んだ人もいるでしょう。だけど、その方々は死んでないんだ、死んでないどころか、宣教師の多くの方々は、今私がお話ししているこの真実に気づき始めている、そして、そのような宣教師の方たちが何より願っているのは、ポルトガルの信徒の皆様が、キリスト教圏であるヨーロッパにいるすべての方々に、「もうイエス・キリストは再臨した」というこのメッセージを伝えてほしいということ、そしてそれこそが、ポルトガルの信徒の皆様のご先祖様を本当の意味で無駄死にさせないことなんだ、という話をしたんですけれども、それは我々も同じですよ。 我々も、我々のご先祖様のおかげで命が繋がれて、それで、なんの因果か、我々全員メシア教にご縁をいただいて、今、この真実を知るに至っているわけですね。これ、大変な奇蹟ですよ。人間一人が生まれるのも大変な奇蹟だと言いますよね。精子が卵子の中に入るという大変な奇蹟があって、一人の人間が生まれる。 でも、人類が70億人、80億人もいるという中にあって、神様が皆様を選ばれて、この真実を教えてくださっている。確率からいったらもう0.00何%ですね。 今皆様が聞かれていることは真実なんですよ。で、その真実を皆様が知ることができたのは、ご先祖様が命を繋いでくださったからです。そして皆様のご先祖様は今、皆様方に、目覚めてほしい、この真実の喜びの中に生きてほしい、そして、この真実を多くの人に伝えてほしいと願っておられるわけですね。 だから、もし本当の先祖供養があるとしたら、それは、なんか、お墓に行って、「これからも安らかにお眠りください」と言ってずっと寝させるんじゃなくて、本当は、この真実に出会った喜びに満ちあふれて、そして、本当は我々の中に生きているご先祖様のお力を借りて、一人でも多くの人にこの真実を伝道するのが本当の先祖供養ですよ。 だって、神様の真理に出会うことほど大事なことがあるんですか、この世の中で。無いですよ。 そして、その真理に出会うことができるよう、我々のご先祖様は大変な世の中を生きてくださって命を繋いでくださった。 我々はご先祖様を寝かせたいんだけれども、でも、寝ておられないんですよ。誰も死んでないですから。「死ぬ」というのは、ただ我々が決めつけてるだけのことです、「あの人は死んでる」って。 だから、祖霊大祭の今日、もし我々が本当の先祖供養をしたいというなら――で、我々は先祖供養というと、自分で勝手に供養の形を考えて、それはいろんな形がありますけれども――でも、今皆様が知るに至ったこの真理の喜びの中に生きて、それを一人でも多くの人に伝えるのが本当の先祖供養なんです。 だってそれを我々がさせていただいたら喜ぶじゃないですか、ご先祖様は。「自分が一生懸命生きて自分の子孫に命を繋いだ甲斐があった」と思ってくださるじゃないですか。これ以上の先祖供養があるんですか? そういう意味においては、人類の中で、真理を知るに至った皆様だけが本当の先祖供養ができるんですよ。他の人はみんなご先祖様が喜ばない先祖供養をしている。だから幽霊とかになって出ちゃうんです。 でも皆様は、本当に先祖の方々が喜ぶ道、つまり、本当の先祖供養ができる道に導き入れられて、ふんだんに真理を教えていただいているわけですから、この真理の道に生きる、そしてそれを伝道させていただく、これがメシア教の先祖供養ですね。 皆様お一人おひとりの中にいらっしゃるんですよ、ご先祖様は。皆様の細胞一つひとつに生きておられる。だからそれは、もしその方々が喜ばれれば、百人力、千人力、万人力どころじゃないですよ。万どころではない人類のすべてのご先祖様は皆様一人ひとりに結ばれているわけですからね。 だからそれらの多くのご先祖様とご一緒に、もう満ちあふれんばかりのエネルギーとパワーをもって、伝道させていただきましょう。 伝道をさせていただくのに、病気でも関係無いんですよ。最近亡くなった専従者の方で、亡くなる最後まで枕元に入信願書とリーフレットを置かれて布教されていたというご報告をお受けしましたけれども、その方は、いわば死んでも、今、布教されていますよ(真明様、感極まられる)。神様に仕えるということに、喜びを持って生き生きとして仕えていらっしゃると思いますよ。 そういう多くの方々が我々一人ひとりの中にいらっしゃるわけですから、大いに自信を持って、ご先祖様と一緒に、このメシア教の真理の喜びの道、これを共に歩んでまいりましょう。 ありがとうございました。