PDFダウンロード:https://ourl.jp/vtuKm 皆様こんにちは。 市岡さん、ピアノ演奏ありがとうございました。下で聴きながら癒されていたんですけれども、このままずっとピアノを聴いて、この、緊張する人前で話すということがもう永遠に来なければいいなみたいに一瞬思ってしまいました(一同笑声)。冗談です(一同笑声)。半分冗談です(一同笑声)。 あと、ただいまは私の誕生日ということで皆様には拍手をいただきまして、ありがとうございました(一同拍手)。結果、もう一回拍手を強制的に(一同笑声)していただくことになりましてすみません。 今年で46歳になりまして、この間教主様とちょっとお話ししてたら、「真明ももう46か。だいぶ歳だね」と言われました(一同笑声)。それについて僕は何も反論はしませんでした。「はい」と言ってお受けしました(一同笑声)。 で、我が家の近況──半分我が家の近況、半分ちょっと真面目な話──なんですけれども、こないだというか、一昨日ですね、一昨日。 一昨日は金曜日で、今日はイースターなんですが、今日は西方教会のイースターですね。東方教会のイースターはまた来週。西方教会、だからカトリックとプロテスタントですね、のイースターとメシア教のイースター祝典が今回はちょうど同じタイミングになったわけです。 そしてイースターというのはイエスが復活したことを思い出すというか、記念する日で、その2日前は金曜日ですね。これは「聖金曜日」とか、英語だと「Good Friday」とか言いますけれども、この金曜日はイエスが十字架に上がって命を捧げられた日です。 一昨日、その聖金曜日に朝起きたら──起きたらというか、僕はもう起きてたんだけど──次女のみゆが起きてきて、夢を見たと言うんですね。 それはどういう夢かというと、みゆは雲の上にいて、目の前にイエス様がいらっしゃる。他には、みゆは今6歳ですけれども、みゆより年下の男の子二人ぐらいがイエス様のそば、雲の上で遊んでるという情景ですね。この子供たち二人は、僕はなんとなく天使を象徴してるのかなというふうに勝手に解釈しました。 イエス様は虹色に輝く服を着ておられて、足元はサンダル。イエスは中東で暑いところですからサンダルを履いておられたのかなとか僕は勝手に想像しておりました。 ということで、みゆとイエス様の二人が雲の上で浮いてるという状況で、イエスは手を広げておられて、そして笑顔。手を広げてるといっても、十字架に磔られてるというよりかは、いわゆる迎え入れるポーズというのかな、ブラジルのコルコバードのキリスト像ありますよね。あれは「迎え入れる」というポーズなんですけれども、そういうような感じでイエス様が両手を広げておられて、そしたらみゆに向かって、「ハロー」と言った(一同笑声)ということで、みゆもそれに対して「ハロー」と言ってお返事した。 そしたら両手を広げておられたイエス様がだんだん近寄ってきて、最終的にみゆを抱きしめた。抱きしめたら、その次の瞬間、雲のところからずっと降っていって、今自分が住んでいる家というか、寝ていたところというのかな、そこまでイエス様にハグされたまま降りてきて、そこまでたどり着いて終わりという、そういう夢を見たということでした。 その夢を見て起きたみゆは、その夢を長女のめいに伝えていたのですが、それを伝えている途中急にみゆは、「今雲の上にいたけど外の雲を見てみたい」と言って、外に出て行って雲の形を確認したんですね。家から見える雲の形を確認した。そしたらその雲の形が夢で見た雲と同じだと言って感激してました(参拝席から驚きの声が上がる)。 いや、なんかすごい夢だな、うらやましいな(一同笑声)と思ったりしまして、でもとにかくすごい夢だと思ったので、記憶がフレッシュなうちに絵を描いてほしいと、その日にすぐお願いしてその夢のイメージの絵を描いてくれました。 で、この夢はどういう意味があるのかなということを自然に思いまして、普通キリスト教においては、いわゆる「キリストの再臨」ということが待たれてて、イエスはいつか雲に乗って降りてくるということになってるんですね。 キリスト教においては、時が満ちた時にキリストの再臨というのがあって、イエスが雲に乗って戻ってきて、人類を裁いて、善の人が生き残って、悪が滅ぶというそういう考えなんですけれども、我々メシア教は、もうキリストは降ってる、一人ひとりの中に降ってる、キリストの再臨はもう成し遂げられたんだというのが我々の信仰ですし、またこれは、事実でもありますね。イエスがもう再臨したというのは、信仰に関わることであると同時に事実ですね。だから、信じる、信じないということを超越してますね、本来。信じようと信じまいと、イエス様が今すでに私たちと共にいらっしゃるということは事実ですね。 キリストが復活したことを思い出そうというイースターの直前に、娘からそういう夢を見たという話を聞かされた私は、やはりキリスト・イエスという存在が、もう再臨して、あなたの中にというか、全人類一人ひとりの中にいるんだよということを確認しなさいと言われている気がしました。 と同時に、その時点で2日後が今日の祭典ですから、だから、信徒の方々に、この夢のことを共有して、イエスが再臨したことを共に確認しなさいということを明主様が私に仰せになっているのかなということを思いました。 で、今からあることをしようと思うんだけど、我々は家で、食前の祈りというか、お食事の前に家族でお祈りをするんですけれども、その時に家族全員で手をつなぐんですね。これは西洋のほうではよくやりますけれども、そうやって手をつないで一緒にお祈りすると、なんか一つになるというか、当然自分一人で神様の御心はお受けするんだけど、同時に兄弟姉妹という存在もいますから、だから手をつないでお祈りすると、兄弟姉妹と共にお受けしているというのをなんか肌で感じられていいなと思って、だから今日はですね、今、隣にいる方と手をつないでいただきたいんですね。 今から私は、「イエス・キリストのことをお受けします」のような短い言葉を言いますので、それを共にお受けしたいなと思っております。(真明様、会場をご覧になりながら)来賓の方もしていただいているんですね、ありがとうございます(一同笑声)。 あの、裏方の方もしてください。裏方の、あ、されてた、司会の方もされてた(一同笑声)。しちゃだめなのは取材してる人たちだけですね(一同笑声)。あと警備の方。 皆様、つないでますか。では、ちょっと目を閉じていただいて(真明様も目を閉じられる)、私のあとで繰り返してください。 「キリスト・イエスの再臨は、私の中で成し遂げられました」「この大いなる喜びが」「すべてのものにありますように」「神様に祝福を帰します」「アーメン」(参拝者全員復唱)。 ありがとうございました。どうでしたか、この新しい試み(一同拍手)。ありがとうございます。 今、なんかありますよね、皆様が感じられてる思いが。それは一人ひとり違うと思うんですけれども、今お一人おひとりが感じておられるその説明できない思いみたいのが、実はこれが天国とつながってるんですよ。 だから今、皆様お一人おひとりが感じているその思いを大切にしていただきたいですね。それぞれ、他の誰も感じてないものです。その、今皆様お一人おひとりが感じているものは、神様が皆様に感じさせている、皆様と神様との綱、命綱ですから、それを大切にしていただきたいなと思います。 我が家の近況はもう一個ありまして、それは長男のみことのことですが、先日みことの入園式がありまして、ちょうど私行けたので参列したんですけれども、みことが新しい環境に戸惑ってる顔というのを、最近はなんでもスマホで撮りまくりますので、妻のマミはみことと一緒に座っていまして、私はそれを撮影する係でした。 その彼の不安そうな顔というか、新しい環境に慣れようとしている顔を見て、ふと自分のことが思い出されまして、私はイギリスのロンドンの幼稚園に行きましたけれども、私の時は何十人かいるそのクラスで、こういうジャパニーズの見た目が私だけで、あとはもういわゆる白人ですから、ただ、今となってはそういうことで私が不安だったのかどうかは分かりませんけれども──この話は別の機会でもお話ししたことがありますが──入園式みたいのはあっちはあまりないので、多分いきなり園に行くことが始まったその最初の日か、その次の日ぐらいの幼稚園の玄関で、「泣きじゃくってる私を見守る母」、というこの光景がね、いまだに私の脳裏に残ってるんですね。 みことを見ながらなんかそんなことも思い出してましたが、でもそんな私も気づいたらなんかもうこんな図々しくなっちゃいましたけれども(一同笑声)、でもみことも含めた我々の子供も、今は不安がってても、いろいろ独り立ちしていくんだなとかそんなことも思ってました。 我々は誰でも、子供の時って結構その瞬間瞬間に生きるというのか、悲しいことは悲しい、不安なことは不安みたいなことなんですけれども、大きくなってくると、だんだん周りとの比較ということになってきますよね。 小さい時、物心付くまではあまりそういうのはないと思うんですけれども、大人になってくると、自分というものが周りに対してどうだということにだんだんなってきて、そうすると、なんか自分はこういうところがいいとかだめだとか、身体のことも、あの人はあんな元気そうなのに自分はなんかアレルギー体質でこれが弱いとか、あるいは心の問題も、自分はすぐ怒りやすいとかなんか意気地がないとか勇気がないとか、だんだんいろいろそうなりますよね。あの人はいいなという思いが出てくる。 あの人は勇気があっていいなとか、あの人は健康でいいなみたいなことで、だんだん他人との比較の世界に入っていって、もちろんそれはそれで大切な側面はあると思いますね、客観的に自分を認識するということで。 でも、普段こういう道徳的な話を私はあまりしないんですけれども、確かに私たちは周りと自分を比較してしまうんだけど、身体と心をいただいてこの世に生を受けたというのは、自分のお父さんとかお母さんがいて、特にお母さんはお腹を痛めて自分を産んでくれて、それでそのあと育ててくれる。それは、基本的には肉親が育てるけれども、そうじゃないケースもありますよね。親代わりの人が育てるというケースもある。 で、十戒にも父母を敬いなさいとありますけれども、その敬い方というのが、我々は普段比較の世界ばっかりに入っちゃうんですけれども、それだけではなくて、時には、自分自身を認めるというのかな、ありのままの自分を認める、それも必要だなと思うんですね。 なんと言いますか、自分の至らないところばかりを見るのではなくて、お父さんお母さんとか、その代わりになる人とかが一生懸命自分に命を授けてくださったわけで、その命のおかげで、今はさらに永遠の命という人間最大の喜びへの糸口、その命を獲得できるという道に入らせていただいていて、これは大変なことですから、だから、父と母を敬うというのは、自分を産んで育ててくれた父と母がくれたこの心と身体を愛します、というのかな、そういう思いも大切なのかなと思います。我々は足りないところばかり見てしまいますからね。 ですので、「ああ今自分は完全に祝福されてるんだな」ということを思うことが、実は父と母を敬うことにつながるのかなということを今ちょっと思っておりまして、確かにこれはなかなか思えないですけれども、でもふとした時に、自分は病気がちかもしれない、心もそんな安定しないような自分かもしれないけれども、でもそれが自分自身の姿ですし、そしてそれはやはりお父さんとお母さんのおかげで自分は存在できたわけですから、だから、自分をありのまま受け入れるというのかな、そういうことは大人になると私たち忘れがちなんですけれども、それもなんか大切なことかなということを私はちょっと思っております。 本題に入る前に、、、と言っても本題に入る前にこんなに話してしまっているのでちょっとあれですけれども、本題に入る前にもう一つお伝えしたいことがあって、それは服のことですが、先日はマミのヴィーガン着物ということで、今日も「きもの英」さん来てくださっていますが、男性の場合、もちろん着物という選択肢もありますが、スーツというのもありますよね。スーツ。 で、ヴィーガンのスーツということを考えた場合、例えばなんかジャケットくらいならいろいろありそうですよね。ポリエステルで作ったジャケットとか、麻のジャケットとか、あるじゃないですか。だけど、カチッとしたスーツで完全ヴィーガンということになると、これ、ありそうで無いんですね、実は。 いや、一見あるんですよ。ポリエステル100%のスーツです、とかあるんですけれども、秘書の方がいろいろ調べてくださったところ、やはり見えないところでちょっと使っちゃうんですね、動物を。肩パッドのところにとかですね。 だから、ありそうでなかなか売ってない、そういうのを作ってくれるところも無いということだったんですが、なんと秘書の方がヴィーガンスーツをしてくれそうなところを見つけてくださいまして、それが東京銀座の「サルト」というお店。「サルト」。 この「サルト」さんがやってくれるかもしれないということになりまして、そして今日、私が着ているこちらが完成品のヴィーガンスーツです(参拝席から驚きの声が上がる)。これは竹で作っています(参拝席から再び驚きの声)。竹の繊維。想像できないですよね。スーツは竹のように硬くないですよ(一同笑声)。硬くない。柔らかいです。 この竹の生地はイタリアで作ってるみたいです。ちなみにこのネクタイも同じ竹の繊維です(参拝席から再び驚きの声)。竹なんて、面白いですよね。 このヴィーガンスーツは、「サルト」の関杏輔さんという方が、やりたいというのかな、やってくださるということだったんですが、今日私これ初めて着ていまして、しかもこれ、結構プロジェクトに時間かかってるんですよ。最初のやろうという時から最低1年はかかってると思います。 関さんとも何回もいろいろやり取りして、サイズがどうだとか生地が伸びやすいからちょっとこうしようとかそういうことがあって、それで今日初めてこのヴィーガンスーツを着て祭典に臨むということで、僕はその晴れの舞台にぜひ関さんに来てほしいなと思って、で、今日関さん来てくださったんです(一同驚きの声及び拍手)。 男前ですよね、関さん。「英」の女将の時は「美人ですよね」と言ったけれども、関さん男前ですよね。今日来てくださって本当にありがたいなと思っております。 あの、アンゴラで私が着たなんか緑っぽい生地、あれも関さんがやってくださったんです(一同拍手)。だから今日、カブーソ本部長がしてらっしゃるネクタイも私の服と同じ生地ですから、関さんが作られたものです(一同歓声及び拍手)。 えーと、言い残したことないかな(一同笑声)。本題に入ってからだと、真面目な話をしてる時に急に、「関さんのことなんですけれども」(一同笑声)とならなければいけないのでね。でも本当、関さんありがとうございました(一同拍手)。 ではいよいよ本題ですが、今日は、「真明様信仰」という言葉がありますね。真明様信仰。 これは専従者の方とか、信徒の方とかが使ってくださっているというのかな、そういう言葉。それについて、「真明さんはどう思ってるんだろうか」ということがあるのかなと勝手に想像して、今日はその話をちょっとしたいなと思います。 まず大前提として、この言葉は、神様、神様と一体であられる明主様、と一体であられる教主様、の代行の私、真明、という秩序順序の中で、私を通して、教主様、明主様、神様につながるというのかな、そういうことが表現されているのだと思います。 もう一個の大前提として、「真明様信仰」と言う時は、真明の神様側の立場としての話ではない。ですね? というのは、神様側の立場としては、我々は一人ひとり神様の分霊をいただいているわけですから、兄弟姉妹ですよね。兄弟姉妹。誰が上とか誰が下とかが無い完全な平等な関係ですね。イエスが長子ということはありますけれども、我々全部兄弟姉妹で、そこに上下関係は一切存在してない。 だから、神様側の立場としてこういう言葉を使っているのではなく、人間的な側面、人間的な立場ということの中での真明様信仰ということだと思うんですね。 神様側の立場で言えば皆様それぞれ神様ですからね、本当は。だって一神にして多神ですよね。一神にして多神。我々全員神の分霊を有している。私たちの本体は神様である。だから、真明様信仰というのはそういうことではなくて、人間的な立場として真明様信仰ということがあるということですね。 ではその私の人間的立場はどういう立場かというと、今日拝聴した聖書(「ヨハネによる福音書」第1章)で、水のバプテスマのヨハネの話がありまして、イエスがいよいよ来るというところでしたね。その時ヨハネは、私のあとに来られる方はすごい方なんだ、私のあとに来るけれども、私より先におられた方なんだと、そういう表現をされました(第1章15節)。 皆様、ここの意味分かりますよね。矛盾してるようですけれども、皆様なら分かりますよね。私のあとに来るんだけど私より先にいたということは、イエスという存在は天上で一番最初に用意されてた存在ということですね。その方が時が至って来ることになった。地上に来るのはヨハネのほうが早かったんだけど、ヨハネにとっての本当の先輩はイエスだということですね。 そしてここ、ヨハネは、自分はイエスの靴の紐をほどく価値も無い。靴の紐を解く価値も無い存在が自分だと書いてありましたね(「ヨハネによる福音書」第1章27節)。 イエスの靴の紐を解く値打ちも無いということは、要は、当然ヨハネはイエスの前にひれ伏してるわけですよね。ひれ伏している。だって靴というのは足元ですから、その足元にひれ伏しているんだけど、イエスという存在がすごすぎて、ひれ伏すだけではなく、ひれ伏してなにかさせていただかなきゃいけないと思うんだけど、ひれ伏している時に唯一させていただけそうなイエスの靴の紐をほどいて差し上げたいということすらできないような存在が自分なんだと、そうヨハネは言っているわけです。 では、僕、真明は、人間的な立場においてどういう存在かといえば、イエスの靴の紐をほどく価値も無いヨハネの、そのヨハネの靴の紐をほどく価値も私には無いですね。 イエスという存在は当然偉大ですけれども、だけど、ヨハネという存在が私の前に現れたら、私はヨハネの前にひれ伏す存在です。それぐらい偉大ですね、ヨハネという方は。 今いろんな活動をしてますよね。ヴィーガン食とか祈りとか農業とかいろいろある。でも、これ全部、人間の徳を高めるための活動ではないんですよ。 そうではなくて僕は、こういう活動は、人間が神様にひれ伏している、そのひれ伏し方の現れとしてこういう活動があると思うんですね。 ヴィーガン食で言えば、イエスが最後の捧げものであって、イエスが十字架に上がってくださったという、その神様が成し遂げたみ業にひれ伏しているわけです。 イエスは神の子羊として十字架に上がったわけですね。子羊、という動物を象徴とした言葉ですよ。その存在(イエス)が自分の中にいるというのは大変なことですね。 その神様の業にひれ伏して、お受けしてるわけです。ひれ伏してお受けする現れとして、神への最後の捧げものとしての子羊であるイエスが自分の中にいるのに、なんで他の動物を食べなきゃいけないんだという、その神様のみ業への思いを表現しているのがヴィーガン食ですよね、「クリスチャンヴィーガン食」というのかな。 祈りも、普通祈りというと、世界平和になりますように、ということになりますね。あの人が良くなりますように、世界平和になりますように、世の中が良くなったらいいな、少しでも他人のことを思いやってお祈りしよう、となるんですけれども、本当はこのような祈りは神様にはひれ伏してないんですよ。 だってその見方は、神様が寝ておられるという見方ですよ。世界平和を成し遂げない神様、人間関係のもめごとを解決しない神様、いろんな不調和な状況に介入して、調和ある状況にしない神様、という見方から来ている祈りは、神様の絶対力にひれ伏しているお祈りではないですね。 でもメシア教の祈りというのは、これは教主様が長年お説きくださったことですからここで詳しくは言いませんけれども、要は、「もう成し遂げられました」という祈りですよね。 二千年前に世界平和は成し遂げられました、ありとあらゆる不調和は二千年前にもう調和あるものに成し遂げられました、という祈り。 だから、なんか他人ともめたり、いろいろ怒りが湧いてきても、「あ、ここをお赦しくださったんですね」、という祈り。「た」。過去形ですね。だから我々メシア教の祈りというのは、神様の絶対力にひれ伏しているお祈りです。 「真明様農法」という言葉もありますね。だからそれも、別になんか人間が偉いとかそういうことではなくて、もし真明様農法というのがあるとしたら、それは、神様が二千年前にペンテコステの聖霊を降したことによって、この地球と全宇宙をもう完全に清くしてくださったんだ、その神様のみ業にひれ伏すのが、もし本当の自然農法があるとしたら、それが本当の自然農法であり、真明様農法ですね。すでに清い地上にしてくださった神様にひれ伏すのが本当の自然農法ですね。 だから、真明様農法といって、なんか人間が偉くなるのかなと思うかもしれませんけれども、まったく逆ですよ。もし真明様農法というのが存在するとしたら、人間が圧倒的に神様にひれ伏すのがその農法ですね。 だって我々は自然農法というワードで活動してきたけれども、結局そのワードはもう世の中で一般の人も使っちゃってますよ。無農薬、無肥料でどうだという時、それをもう自然農法と呼んじゃってますよ。でも僕は、それが明主様の自然農法だとは思わないですね。本当の明主様の自然農法は、神様の絶対力にひれ伏してる農法ですね。 絶対大丈夫なんだ、土から食べ物はできるんだ、二千年前にペンテコステの聖霊が降った時地上はもう清められてしまったから大丈夫なんだという神様のみ業にひれ伏すのが本当の自然農法であり、もし私が提唱する農法があるとしたら、そういう農法ですね。 だから歌もそうですよ。 ハレルヤコーラスも、ハレルヤ、ハレルヤと歌ってるのは、イエスが来ますようにというのを願っているのではなくて、もうイエスが再臨したんだということに喜んでいるのであって、そのイエスを再臨させた神様──我々一人ひとりの中にメシアというものを再臨させ、宿らせた神様──にひれ伏すというのがメシア教の歌の活動ですね。 これから来る、という見方は神様にひれ伏してないですよ。それはただ神様に懇願してる姿ですね。 だから、真明様信仰ということは、人間的の意味でなにかこう高みに行くとかそういうことではないし、また、「信仰」ということは信じて仰ぐということですよね。信じて仰ぐ。 仰ぐということは、ちょっと上を見てるわけですよね。だから、真明様信仰を普通の感覚で受けとめて、人間的な思いでなんとなく仰いで上を見ても、そこに私はいませんね。だって私は地べたにひれ伏してますから。神様のみ前に完全にひれ伏してますから。 だから、もし真明様信仰というのがあるとしたら、皆様が私と共に神様にひれ伏してくださるなら、私はそういう言葉というのも受け入れたいなと思います。 だけど、皆様はひれ伏してちょっと上を見る状況だから、ほふく前進みたいな体勢になっちゃいますけれども(一同笑声)、それで大丈夫ですか?首ちょっと痛いみたいな(一同笑声)、それで皆様のほうがよろしいなら、という感じですね。 しかも今日拝聴した聖書の「使徒行伝」のくだりですが(第12章21節~23節)、これは、ヘロデというキリスト教徒をたくさん迫害した王様が民衆に話してた。そしたら民衆が、これは人間の声ではなくて神様の声だと言うのを聞いたヘロデが、その瞬間その栄光を神に帰さなかったから、もうその場で殺された、神様に。 ということは、我々も、なんか褒められた時に、その瞬間神様に栄光を帰さなければ、その場で神様に殺される可能性があるんですよ。だってヘロデの場合「たちまち」ですよ。その場で、たちまち神様に殺された。民衆がヘロデの話を聞いて、「わあすごい、すばらしい話だ」と言っているのをヘロデは聞いて、それを一瞬自分の徳にしたんでしょうね。「うん、そうだ」と思っていた。そしたらその瞬間ですよ。ヘロデは虫に噛まれて神様に殺されてしまった。 だから、もし私が「真明様信仰」という言葉をなにか思い違いして受けとめて、神様に栄光を帰さないようなことがあれば、下手したら私にもヘロデと同じこと起きますよ。今、皆様の目の前でそういうことが起こる可能性ありますよ、神様はなんでもされますから。 だから、「真明様信仰」という言葉によって今私は神様から試されてますね。もし私がなにか少しでも自分に徳を帰すようなことがあったら、即打たれますね。冒頭少しお話ししたように、神様につながるという意味でこの言葉を私が受けとめないならば、こういう場で、ほんと皆様の目の前で死ぬかもしれませんよ、私。 でも、もしそういうことが実際目の前で起きたとしたら、皆様には、これは真明がなにか神様から罰せられたんだ、というふうに見るのではなくて、ああ、そういう神様に栄光を帰さない人間のおごり高ぶった姿というのを神様は赦してくださったんだなということで受けとめてほしいですね。残ってる皆様にはそう受けとめてほしい、というのかな、私はもう死んじゃってるから(一同笑声)。 でも、ヘロデは当時はこういうことで大変でしたけれども、でも、こんなことでも神様の御用に使われたということは本当はものすごい誉れなことなんですよ。 だから、たとえ僕がそういうことでヘロデのような形で神様に使われなきゃいけなくなったとしても、もちろん自分のおごりについては悔い改めなきゃいけないけれども、それはものすごい誉れですね。どんな御用であっても神様の御用にお使いいただけるというのは誉れなんですよ、我々人間にとって。 というように、神様の秩序というのは非常に厳しいんですね。厳しい。絶対に厳としたものがあるわけです。やっぱり神様の許しがなければ何も起きませんのでね。 今回教団浄化がありまして、世界メシア教と世界救世教との間で、勝ち負けというのかな、ということでいろいろありましたよね。施設から追い出されるとか、裁判で勝つとか負けるとか、聖地がどうとかいろいろあった。 その中で我々も心の紆余曲折というのが常時いろいろありながらこの教団浄化を経て、で今我々ここにいるわけですが、でも本当は、ものすごいはっきりした、また俗っぽい言い方をすれば、世界メシア教の勝ちはもう決まっているんですよ。世界メシア教の勝ちはもう決まっている。 どういうことかというと、ま、勝ち負けですから、この世で一番強いものはなんだろうかということになりますね。 だってこの世で一番強いものが勝つわけですから、この世で一番強いものはなんだろうかということになる。 この世で強いもの、いろいろありますよね。ボクサー的な強さもありますよね。肉体的な強さ。そういう肉体的な強さは確かに強いけれども、でも、この世の中で本当に一番強いものは何かというと、これは、実は、「言葉」ですね。言葉。 言葉で人の心を傷つけるということがありますよね。言葉によって心にグサッと、とか、そういう比喩もありますよね。言葉によって脳天を叩かれたような気がした、とかもありますよね。というように、一見物理的な力が強いみたいなんですけれども、本当は世の中で言葉が一番強いんですよ。 そして、この世に何百万、何千万とある言葉の中で最も強い言葉は何かというと──というか、あるんですよ、最も強い言葉というのがある──これがだから「メシア」ですよね。メシア。メシアという言葉。 というか、より正確に言うと、メシアという言葉のヘブライ語、ヘブライ音である「メシャハ」という音ですね。この言葉、音が最も強いんですね。 こう言われてもなかなか信じがたいですよね。信じがたい。 メシャハという音、一見何も害が無さそうですもんね。でも、これが最も強い言葉であり、この世で最も一番強いものなんですね。 だって、「初めに言があった」。「ヨハネによる福音書」。「初めに言があった」。ここの「言」はなにかというと、「メシア」ですよ。 またここに次のように書いてありますね。「言は神であった」。皆様、これ理解できますか?神様であり天の父というご存在は言葉であられたんだということ。ちょっと戸惑いますよね。皆様も、急に、「あなたは言葉だ」と言われたら戸惑いませんか?「何々さん、あなたは言葉ですよ」と言われたら戸惑いますよね。 だからこのヨハネの言葉は人智を超越してますね。超越してる。ちなみにこのヨハネは先ほどの水のバプテスマのヨハネとは別人ですよ。「ヨハネによる福音書」を書かれたのは十二弟子の一人のヨハネです。これは水のバプテスマのヨハネとは違うヨハネ。水のバプテスマのヨハネは十二弟子じゃないですから。 とにかく、ここ、十二弟子の一人のヨハネが書いてる境地は人智を超えてますね。そしてヨハネがなんと言っているかというと、この「言」に結局闇は勝たなかったんでしょ。だってこのメシアという言葉が一番強いんですからね。 「初めに言があった」ということは、初めに「メシャハ」という音があったということですけれども、不思議ですよね、よく考えると。初めにその言葉と音が存在してたんですよ。創造の一番最初ですよ。 で、なぜ私がこの言葉が一番強いと言ってるかというと、だって一番初めに存在してるんだから一番最後まで残るに決まってるじゃないですか。いや、一番最初に神様がこの言葉を造られたということは、それが神様にとって最も大切なものだったからですよね。いわば、人類にとって最も大切なものを神様は一番最初に造られたわけです。 だから、この先、最後の最後まで永遠に残るのはこの「メシア」というか「メシャハ」という言葉ですね。この地球が滅んでも、この宇宙が滅んでも、この言葉と音は永遠に残る。今私がお話ししていることはもう人間の知恵を超越してる話で、皆様にとって雲をつかむような話だとは思うんですけれども、かと言って我々の心の中に、これが完全に嘘だとも言い切れない感じも起きてきますね。 教団浄化があって、信仰でということもありましたが、人間関係でどちらに行くかということもありましたよね。あの人がもし救世教に行ってたら自分は救世教だったかもしれないというの、ありますよね。綾があるじゃないですか、時の綾がある。自分の旦那がもし救世教だったら救世教だったかもしれない、とかですね。でも、そんな人間的なことがきっかけであったとしても、結果皆様はこの世界メシア教につながられた。 そして、今回のもめごとは──今回というか、もうだいぶ前、数年前ですね──今回のことは、もちろん教主様というご存在をどう受けとめるかということでもあったけれども、でも、教主様がお説きになってたのは究極的にはメシアのことですよね。 明主様がお説きになっているメシアとはなんなのか。明主様がメシアとして新しくお生まれになったと仰せになった時のメシアというのはどういう意味なのか。世界中でメシアと言われているイエス・キリストとはどういう存在なのか──これですよね、教主様が我々に伝えようとしておられたのは。 ですので、今回の教団浄化は、もちろん教主様に付いていくという側面もあったけれども、その教主様がお説きになっているのはメシアのことなんですから、別の言い方をすれば、我々はメシアの側を選んだわけですね。 これ、皆様にとっては本当にラッキーなことだったんですよ。ありふれた言葉を使えばラッキーだった。だってメシアという言葉は最後まで残るわけですからね。 今日の聖書に「隅のかしら石」の話がありましたね(「マタイによる福音書」第21章42節~44節)。隅のかしら石。この石は、家を建てる時に一番最初に据える石なんですね。それを基準にして家全体を建てる。この最初の石が変だと家全体も変になっちゃうわけです。そして、メシアの御名を体現したイエスが隅のかしら石なんだということです。 ということは、この世において、どんなに立派な建物を持っていても、聖地のような場所を持っていても、お金たくさんあってこんな施設を持ってますと言っても、メシアの御名を受け入れなければ、つまりそれを体現したイエスと明主様という存在を受け入れなければ──もちろん救世教の方々は明主様は受け入れているつもりなわけですから、究極的にはイエスという存在ですね──イエスを受け入れてなければ、救世教に限らずどんなにこの世で活動して、信徒増えました、発展してます、これだけお金ありますとしても、メシアが隅のかしら石に無いわけですから、最終的には崩壊しちゃうんですよ。滅びちゃう。 でも、隅のかしら石さえあれば、たとえ滅ぶようなことがあったとしても、またいくらでも建てられるんです。 だから皆様方は、このメシア教につながったことによって──もしこの後離れなければの話ですけれども──メシアという名前を冠するこの世界メシア教につながっていることによって、「永遠の命」という人類最大の神秘であり喜びである道を歩んでいけるわけです。 そして、あとのものはもう闇に消えていくと言いますか、光が照らして、光は強ければ吸収しちゃいますので、光に吸収されてしまう。神様の光というのは影ができるような弱い光じゃないですから、それがすべてを吸収してしまい、だから形としては滅びるみたいになっちゃうかもしれませんね。そういう団体とかは滅びる形を取らされて、メシアの光に吸収されてもうおしまいですね。 だから、それはどんな宗教もそうなんですよ。もちろんこの世での栄枯盛衰はいろいろあるでしょうけれども、長期的な人類の視座に立てば、メシアの御名が最も強いわけですから、最後まで生き残るのがメシア教ということですね。もちろん、「世界メシア教」というまったく同じ名前でずっと行くかどうかは分からないですけれどもね。 どちらにしろ、メシアの御名にあるこの神様のご神業というのは継続していきますよ。そして、そうでないのはもう全部吸収されちゃいますね。 いや、これはね、私が個人的な考えで言っているのではなくて、これは真理ですね。メシアの御名がすべてなんですよ。この言葉が一番最初に存在してるんですから、一番最後まで残りますよ。メシアの言葉が最も強いですね。人間の考えてる力なんかよりはるかに強いんですよ。 永代祭祀というのがありますね。永遠に自分の祖先を祀ってほしい、ということですね。これ、本当の永代祭祀はメシア教にしか存在しないんですよ。 いや、確かに数十年規模くらいで言えば、このようなことは仏教もやっているし、救世教などの他の明主様信仰の団体も永代祭祀を受け付けてるとは思うんですけれども、こういう団体では、自分を含めたご先祖様を永遠に祀ってもらうことはできないですね。 でも、メシア教ではできますね。だってメシア教は最も強いメシアの御名に結ばれてるわけですからね。このメシアのことは真理ですよ。そして真理は永続的に変わらない。 だから、救世教とか仏教で永代祭祀してる人はみんなメシア教でしないと意味無いわけですが、そういうふうになるには時が必要だと思うけれども、でもそれもいつかは起きるかもしれませんね。 でも少なくとも、「そういう団体では永遠には祀っていただけないんだよ」ということは伝えたいですよね。いや、自分の生きてる間ぐらいはいけますよ。でも永代祭祀ということは、自分が死んだあと、自分も含めてご先祖様が永続的に神様に結びついて、神様の祝福を受けて幸せでいたいということですよね。その本物の永代祭祀はメシア教にしか存在しないですね。それは絶対保証できますね。 今私がしている宗教的な話は、嘘みたいなんだけど、実は本当の話なんですね。 「嘘みたい」と感じるのは、世の中の人はそういう感じで生きてないですからね。だから、神様を信じないと大変だよと言っても、その感じが誰も分からないじゃないですか。というか今世の中は、むしろもっと神様から離れる方向が良いという形に進んでますよね。 民主主義はもちろんいいですけれども、民主主義というのも結局過半数が正しいということですよね。 今回の教団浄化で、もちろん私は教主様が神様だと言っているわけでは決してないけれども、教団の中では神様を象徴する教主様というのを人間の多数決で追い出したじゃないですか。 神様が気に入らないなら人間の多数決の考え方を優先しようというあり方ですよね。人間で構成された理事会の多数決で教主を追い出しちゃおうというのは、神様よりも人間のほうが主導権を持っているという見方ですね。 で、世の中もどんどんそういうふうになってるじゃないですか。そういう世の中になってるから、今僕が言ってるようなことについて、そんなことあるかと思うわけです。 僕この間、というかもう2、3年前かな、なんかデパートでスローガンみたいのがあって、「心動かす、人の力で」とあったんですね。「心動かす、人の力で」。 そのスローガンを見た時、「このデパート偉そうだな」と確かに一瞬そう思ったけれども、それ以上に、この私という人間がいかに神様を見くびってるかということを痛烈に感じました。ここまでどストレートに神様への無礼を表現している自分自身の姿というのかな、それを思いましたね。 このスローガンで表現されている一人の人間としての自分の姿というのは本当にとんでもないものだなと思いましたね。 だって、そもそも心を作ったのは神様だし、「人の力で」と言うけれども、呼吸する力も、歩く力も、心臓を動かす力も、子供を妊娠させる力も、死ぬ力も、全部神様ですよ。 それを全部すっ飛ばして、「心動かす、人の力で」、ですから、この神様に対しての思い上がりは大変なものだなと思いましたね。 しかもこれは大手のデパートですよ。で、みんなそれ普通に受け入れるじゃないですか。むしろそれが「良し」とされてますよね。いや、人間の努力を否定しているわけではないですよ、私はね。 というぐらい、この世の中というのが神様がいなくたっていいじゃないかとなってる。むしろ、神様を信じてる我々のほうがおかしいという世の中ですね。そんなおかしな世界あるのかと、そう思いますね。 だから結構皆さん信仰からだんだん離れますよね。だって世の中がそうだから、別に自分も神様を信じなくてもいいじゃないかとなるわけです。周りを見ても誰も神様信じてないし、信じてる人は頭おかしいと思われてるぐらいですから。 でも、じゃあ、神様がいらっしゃるということが真実じゃないのかといったら、それは真実ですよね。神様がいらっしゃるということは絶対真実ですよね。私はきれいな理屈は言えないけれども、事実ですよ、神様が存在してるというのは。 このことと似てるなと僕思うのが、ヴィーガン食。 ヴィーガン食も今の神様の話と一緒で、今世の中では食についてはもうなんでもありみたいになってますよね。肉を食べる、卵を食べる、乳製品食べる。なんでもありじゃないですか。 我々は世の中の人が誰も神様を信じないことによって、どんなに神様のことを伝えても拒絶されて、差別も受けて──いや、差別受けますよね、宗教だからということで差別は受ける──でも我々は神様を信じる、というこの状況と、ヴィーガン食も、周りはみんな肉とか普通に食べている中で、我々は、イエス・キリストが最後の捧げものであるがゆえにもはや動物の苦しみを伴う食は必要無いということでヴィーガン食を実践しているわけですが、これ僕、真実だと思いますよ。イエスが最後の捧げものであるというのは真実だと思いますよ。でも世の中の人は受け入れず、むしろ我々が極端みたいになっている。 だから、僕は思うのですが、今世の中はどういう状況かというと、我々は、いわばふかふかのベッドに置かれているわけですね。ふかふかのベッド。 神様は実在している。でも我々は、神様に対して何言っても許されるじゃないですか。「神様なんか信じない」とか、「神様信じてる人はおかしい」とか、しかも神様を信じる人を差別する方たちもいますが、そのすべて、神様は許しの中に置かれてますよね。というか世の中では宗教がおかしいということを推進してるぐらいですよね。 ヴィーガンについても、世の中は、何食べてもいいみたいな世の中になってますよね。というように、人類みんな、ふかふかのベッドに置かれているわけです。 昔は神様はお厳しかったんですよ。だってもう直接介入ですからね。先ほどのヘロデの話にあったように、問題があったらその場で虫を使ってそういう人を殺したりとか、それこそ地面がバーッと割れて何千人も落ちて死ぬとかあるんですよ。 でも神様はもうその手法はやめられたんですね。その手法はやめられた。で、今神様はどういう手法を取っておられるのかというと、それは、「自分の意志で決めなさい」、ですね。 昔は厳しくされた。何十回、何百回、何千回も人間を罰せられたわけですね。神様が罰して、反省します、罰して、反省します、これをずっと繰り返していた。 でも結局これだとどうしても人間が一人前にならないということで手法を変えられたわけです。これはちょうど、子供がずっと同じことで間違えてるのを見て、親が、子供が小さい時は注意してたけれども、だんだん大人になったら、もう自分で気づかなきゃいけないなと思って、本人が失敗するのに任せようという状況と似てますね。 もちろんこの世の親はご自分の考えに従って大人になってもアドバイスするということはありますけれども、神様はその手法はやめられて、むしろふかふかのベッドに人間を置いてるわけです。何をしてもいいよとされている。 だって、人間が言うのは「信教の自由」、ですよ。神様に対してこんな無礼な言葉があるのかと私は思いますね。信教の自由。人間のものすごいおごり高ぶった表現ですね。こういうこと言われる方世の中にあまりいないですけれどもね、でも僕は、神様の視点に立てばこんな無礼な言葉ないですね。信教の自由という言葉。 いや、確かに信教の自由は必要ですね。私は宗教弾圧とかそういうことを正当化しているわけではありませんよ。でも、人類の神様に対しての姿勢として、「自分は自由なことを信じていいんだ」というのがとてつもない無礼ですね。だって神様が信じさせる心を与えてくださってるんですよ、本当はね。この言葉はその神様に対しての無礼さというのがあると思いますね。 だから今人類は、ふかふかのベッドにいて、何をしても、何を食べても許される状態。そして神様は、そういう状況にいながらにして我々一人ひとりが、神様のため、真実のために立ち上がるかどうかを見ておられるわけです。 だから、心地いい世の中に浸りたければ、そのままふかふかベッドのまま一生終わりですね。世の中と同じことをして、神様なんているわけない、何でも食べていいと言いながら一生終わり。 でも本当は、神様は、人類一人ひとりが、ふかふかベッドから立ち上がるかどうかを見ておられる。我々は独り立ちしなきゃいけないわけですね、本当は。その時が来ている。 世の中の人は、我々は洗脳されてると思ってますよね。いや、私たちそう思われてると思いますよ。神様を信じている我々は洗脳されてて、あの人なんか変な宗教してるなぐらいな感じですよ。 でも、じゃあこのメシアの御名にある真実が正しいのか、それとも、我々が洗脳されてると言ってる人たちが正しいのかと言ったら、答えははっきりしてますね。 ヴィーガンのことも、ヴィーガン食なんて洗脳されてるという人いますよね。だって世の中にはいろんな情報あるじゃないですか、肉食べなきゃだめだとか。だから、ヴィーガンなんてたんぱく質も足りなくなるしどうなっちゃうんだ、洗脳されてるじゃないかと言う人がいますね。 でも例えばたんぱく質のことで事実はどうかというと、今病院は「たんぱく質欠乏症」ということでどれだけ混んでるんだろうかといったら、そんな人まったくいないですよ。我々の周りでたんぱく質欠乏症で入院しなきゃいけないって、ゼロですね。極めて特殊なケースを除いてはゼロですね。 一方、当然僕は科学者でもないし、科学的なことは分からないけれども、WHO──世界保健機関というのかな──において、科学者のトップの人たちが、肉はガンになる最大原因と第二原因を占めてるんですよ。 ということで肉を食べてみんなガンとか糖尿病になって病院に行ってるのに、ヴィーガン食をするとたんぱく質が足りなくなっちゃうんだからヴィーガン食をやってる人は洗脳されてるって、いや、どっちが洗脳されてるんだということですね。 目の前の事実として、たんぱく質欠乏症も無い。いつも言うようにカロリーがちゃんと摂れていればそんなことにはならない。一方科学者たちはガンの最大原因の一つが肉食であると言っている──これはアスベストとかタバコとかと一緒なんですよ──という事実があるのにヴィーガンをしてる我々のほうが洗脳されてるということはないですよね。 いや、洗脳されてるって言いますが、我々は少なくとも「私たちは世の中の人から洗脳されてる人たちと思われている」という自覚がありますけれども、本当に洗脳されてる人はその自覚は無いですね。だってそれが洗脳ですから。ですよね? 我々は、世の中の人から、「あなた方は洗脳されてるんじゃないかと思われてる」というのを自覚してるわけですから、洗脳からは脱してますよね。でも、本当に洗脳されている人はそうは思ってないんですよ、だって自分は正しいと思ってるんですから。それこそが洗脳ですよね。 前、日本のテレビかなんかで、新興宗教を揶揄するみたいなことで、ある集団が「神の愛研究所」を持ってる、ということでそれをおどろおどろしくしているドラマを見たことがあって、それを今ふと思い出したんですけれども、日本のテレビというのは「神の愛」を馬鹿にするんですよ。いや、神の愛ですよ。大変な傲慢ですね、それは。 というように今の世の中は、神の愛を信じてる人たちが洗脳されているかのようにして、それをテレビに流して馬鹿にして、一生懸命神の愛を説いてる人は世に出さないようにしてますよね。世に出さないようにしてる。 宗教団体だからこれはできませんとか、こういう広告はできませんとか、いや、もうどれだけ間違った世の中なんだということですね。でも僕はそれに屈したくはないですね。だって真実に生きたほうが清々しいじゃないですか。 で、動物食べないと栄養が足りないとか言ってるけれども、例えば豚。先月も豚については少し話しましたけれども、豚は事柄によってはもう犬よりも頭いいんですよ。 その豚が屠殺場行きましたとなると、そこでスタンガンみたいなのでまず気絶させてから殺すから、だから全然気づかない間に死んでますから大丈夫ですよとか人は言うと思うんだけど、そもそも屠殺場に行ったら自分の仲間の血の臭いがしてるわけですから、分かりますよ、絶対。自分は殺されるんだというのは分かりますよ。馬鹿じゃないですからね、豚は。豚は動物ですよ。生きている動物。 ということで自分はこれから殺されるんだということで後ずさりして逃げたいけれども、なんか狭い通路みたいなところに入れられて、で、ちょっと後ろに下がったら槍みたいのでつつかれたり、軽い電気ショックみたいなのを与えられて、後ろに下がるのも恐怖でもうどこにも行き場が無くて、結局人間の言うことに従って、その恐怖の中殺されて死んだ動物を食べるのが栄養になるはずないじゃないですか。 いや、そういうものを食べてて人類が幸せになるとは私はとうてい思えないですね。どんなに栄養面で、「たんぱく質があります、これがあります」と言われても、私にとっては、死の恐怖に怯えて命を落としたその動物を食べてそれが栄養になると思ってるほうが洗脳ですね。洗脳されてる。 あと先月も言ったように卵。卵を産む雌の鶏の雄は人間が食べる種類の鶏じゃないから、雄のひよこは産まれた時にそのままシュレッダーにかけられるか、あとはまあガス。ガスで一気に殺す。だから、卵を産む雌の鶏が何万、何十万と産まれたら、当然ほぼそれと同じ数の雄も産まれているわけですから、そのひよこは全部すぐ殺される。 で、卵は栄養があるとか言ってますが、そんなふうに育てている卵に真の栄養は絶対無いですね。卵には栄養がある、いや、真の栄養は無いです、そこに。とまあ僕は思いますね。 しかもお母さん鶏はたくさん卵を産まなきゃいけないんだけど、卵って硬い殻みたいになってるじゃないですか。あれ、カルシウムがいっぱい入ってるみたいなんですが、煌々と電気を照らしてバンバン卵産ませてるから、結局それがお母さん自身のカルシウムをどんどん奪っていって、骨折はするし羽は抜けるしそれでどんどんやつれていくわけですね。そんな鶏から産まれた卵に真の栄養は無いですね。 植物も命じゃないかと言う人いますけれども、いつも言うように、芝生で子供が遊んでるのを見て誰も芝生かわいそうだとは思わないけど、犬を踏みつけているのを見たら基本かわいそうだなって思いますよね。だから、そんな理屈っぽいことを言うのではなくて、それは理屈を超えたものがあると思いますよ、感覚的なものが。 私この間熱海を車で運転してたんですけれども、前に2台ものすごい高級車が走っていたんですね。2台前がベンツ。しかもSクラスという最も高いランク。1台前がこれはレクサスで、で、レクサスの中でもLSという最上級ランクの車。熱海の海岸を運転してたら偶然その2台の後ろに付いたんですね。 それで、「お、すごい高級車だ」と思ってたのですが、熱海の海岸を走っていくと、ちょうど途中にちょっと大きな病院があるんですけれども、この2台、そのままその病院に入っていったんですね。 だから、我々は洗脳されてるみたいなんだけど、でも一方では、この世で成功してそんな高級車を買えるぐらいまでになったのに、その高級車でどこに行くのかといったら病院ですよ。 もちろんこの2台の方々がどういう病かというのは私は想像できないけれども、だけど、どんなにお金を得てこの世で成功しても、結局病になっちゃったら意味無いじゃないですか。明主様、これもう何回も仰せですよ。世の富をいくら得ても病気になっちゃったらなんの意味も無いじゃないかと仰せです(「たとえ金銀財宝が山と積まれても山海の美味が食膳に堆高く積まれても、地位や名誉が如何程与えられても病苦に悩んでいたら、一切は零である」(「真の救いとは何ぞや」1949年12月24日))。 家族との楽しい時間とか、仕事での成功とか言っても、じゃあホテル行ってブッフェに行って肉だ魚だ食べて、わあ回転寿司だと言って食べる。ステーキおいしいと言って食べる。それ、若いうちはいいけれども、そこからだんだん成功して家族もできて、で、結局最後病院通いになったらなんの意味も無いじゃないですか。 だって、家族との時間はもうかけがえのないものですよね。家族との時間とかこの世での仕事をしているという達成感。それが結局肉食によって生活習慣病が引き起こされるということになってるのに、これ、誰も言いたくないですよね。受け入れたくない。だってみんな肉食べたいし、「みんな食べてるからいいじゃないか」ということですよね。 それで、「自分たちは洗脳されてない」「たんぱく質必要なんだ」と言い張って、最終的には病院通いになって家族とも時間過ごせずにそういう人生の結末を迎えるというのはもったいないじゃないですか。 だから僕は、神様のことを信じ、ヴィーガン食をしてる我々が洗脳されてるとは思いませんね。 世の中は我々のことを否定して、受け入れない。 だけど僕は、本当の宗教というのはあると思いますね。本当の宗教。 で、それはやっぱり「初めに言があった」というその言である「メシア」の御名に結びついた、本当のキリスト教であるこの世界メシア教であると、そう言いたいと思います。誰もそんなこと信じてませんけれども、でもこれ、本当なんですよ。 皆さんは本当に神様に選ばれて、メシアの御名というのに結びつけていただいたんです。だからこれにしがみついていれば、とにかく神様はなんとかしてくださるわけです。 我々世界メシア教の活動としては、まず日常の「祈り」がありますよね。巻き起こってくることについてとか、誰かと話していろいろ思うとか、あるじゃないですか。複雑な話をしてるんじゃないんですよ。あの人は気に入らないとか、あるいは嫉妬とか不安とか、そういう思いについて、「あ、これはもう二千年前御手に収めていただいたことなんですね」という祈り。これ、誰でもできますよ、この祈りは。 プラス、食。つまり、誰にでもできる──いや、世界には選択肢が無い方も確かにいらっしゃるけれどもね──でも選択肢がある方にとっては誰でもできる、イエス・キリストを最後の捧げものと信じたこのクリスチャンヴィーガン食。だから、祈りと食、この二つですね。 確かに農業もありますけれども、農業の場合、身体が動かせない人とかもいますので、誰でもできるということになると、祈りと食ですね。 もちろんね、我々一人ひとりが与えられている仕事と立場において、まあ、今日のことで言えば服のこととかそういう分野でこのクリスチャンヴィーガンという形を表現することはできると思うんですけれども、でも誰にでもできるということであれば、祈りと食ですね。 さらに多岐にということになれば、当然音楽もありますね。 あとは農業。農業を通して、イエス・キリストが最後の捧げものであるがゆえにもう動物を利用したあらゆる資材は使用しなくていいんだ、もう二千年前に土は清くなっちゃったんだ、人類をすばらしい未来に導くために土があるんだという、まあ、キリスト農法ですね。 でも我々は、基本的には、メシアという真実のもとにある祈りと食。この、誰でもできる救いのもとに人類を救っていこうというのが世界メシア教であって、だから今日は未信徒の方もいらっしゃっているかと思いますけれども、皆様、メシア教の信徒にならない手はないんですよ(一同笑声)。(参拝者が笑ったことに少し驚かれ)いや、真面目のつもりで言ったんですけれども、、、だって、滅びちゃいますよ。メシアの御名に結ばれてなければ、まあ滅びるというか、メシアの光に吸収されちゃいますからね、最終的には。 みんな、生きてる間は自分の力でいろいろできると思ってますから、だからなかなか今私が話していることが受け入れられないみたいになっているんですけれども、でも我々は、この救いを世にもたらさなきゃいけない。 一人でも多くの人を、この、「霊的ノアの箱舟」ですね、霊的ノアの箱舟に救わなければならない。 物理的ノアの箱舟については、これはもう四、五千年前、当時いた人類全部滅んじゃって、ノアの家族と動物一対ずつだけ生き残った、という話ですね。 これは物理的な船という形での救いだったわけですが、我々はそうではなくて、メシアの御名に結ばせるということによって人類を救うという、この霊的ノアの箱舟の役割が託されているわけです。 どんな方法でもいいんですよ。一人でも多くの人を救う。だからそれは祈りかもしれないし、食かもしれないし、農業かもしれないし、それこそ服飾とか建築ということもあるかもしれませんし、どんな手段を使ってもいいんです。メシアの御名に結びつけて救う。 当時ノアの時は神様の怒りが下ったんですけれども、ある意味においては、今回の救いのほうがより具体的ですね。今回は人類をメシアの御名に結ぶ、ということですね。で、そのために明主様は世界メシア教を開教になったんじゃないんですか。なんで明主様は「メシア」という名前をお使いになる必要があったんですか? この教団名は、「初めに言があった」の「言」である「メシア」ですよ。霊的ノアの箱舟の使命があるからですよ、世界メシア教には。 というか、メシアという言葉がその役割を担っているわけですね。人類を救うという役割をメシアという言葉が担っている。明主様はそれを直感的に感じられたから、当時、「救世」という漢字を使われたんでしょ。 このメシアの御名に触れることが、あなたのご先祖様も救うし、あなたのご先祖様が永続的に神様の光に浴して幸せで生きられることにつながるんです。であれば当然、メシアの御名にある世界メシア教に結ばれたほうがいいですよ、と言えるわけです、私たちは。 あるいは、メシアであるイエス・キリストを最後の捧げものとして受け入れた食をしたほうが絶対あなたのためですよ、とも言えますし、その時に、いわゆるヴィーガン食の科学的な情報もいっぱいあるわけですから、そういうものもふんだんに使わせていただく。 農業でもいいんですよ。自分は土を通して人類を救う食べ物(ヴィーガン食のこと)を作ってるんだ、メシアの光が込められた食べ物を作ってるんだと言える。 だって、今聞いているようなこんなすばらしいことを知って、我々の心には利他愛は無いんですか。利他愛は他人への愛ですよね。いや、この道が洗脳されてる道だというならもうそれで話終わりですね。 でもそうじゃないとしたら、我々の心には利他愛は無いんですか?あるじゃないですか。皆さん、それむしろずっとされてきましたよね。救世教時代、「利他愛、利他愛」と言って曲がりなりにも我々してきたじゃないですか。自分の幸せよりも相手の幸せのために、としてきたじゃないですか。 今、この霊的ノアの箱舟の御用にお使いいただきたいと思わなければ、それ、嘘になっちゃいますよ。一人でも多くの人にこの本当の救いを分け与えたいと思わなければ、すべて嘘になっちゃいますよ。 当然受けますよ、差別は。でも、自分が差別を受けてやめるんだったら、それは利他愛じゃないじゃないですか。利己愛ですよ、それは。自分がかわいいだけですよ、それは。でも我々は、利己愛じゃなくて利他愛なんでしょ?ということは自分に都合の悪いことが降りかかってきますよ。 世の中は、宗教以外のことはどんどんみんな受け入れますよね。新しいプリン屋さん作りたい、こういう事業したい、ああいう事業したい、宗教が関係無ければみんなもう全部ウェルカムですよ。どうぞどうぞ、もうどんどんそういうこと進めてください、どんどん発表してください、どんどん広報してください、となるじゃないですか。でも、宗教になった途端だめだとなるわけですね。おかしな世の中なんですよ、本当は。 だけどそれでやめるんだったら、とか、世の中に受け入れられる道で行きたいんだ、ただ自分の徳を積んで、みんなと同じような人生を歩んで楽しいねとしたいんだ、ということだったらそれは利他愛ではないですね。 でも、利他愛ということは、自分の周りの自分の家族、自分の友達、友達の家族、国家、人類──これを愛するのが利他愛でしょ? その利他愛の表現である霊的ノアの箱舟で人類を救う時が来てるんですよ。でも、そんなこと言われてもなかなか分からない。だって我々ふかふかのベッドにいますから、そんなことないだろうと思ってるわけですね。 だってその御用にお仕えしなくたって一見なにも問題無いじゃないですか。神様から、「ふかふかのベッドのままでいてもいいよ」と言われてると思って、家に閉じこもってベッドで寝転がってるのと一緒ですね。その我々の姿がニートみたいな人たちの形として出ちゃってますよ。我々人類の、ふかふかベッドに寝転んだままでいたい、という思いが若い人に影響与えちゃってるじゃないですか。そうだとして、そんなところからはもう脱出したいと思わないんですか? でも我々は、もし曲がりなりにも利他愛を訴えてきたのだとすれば、たとえどんなことを言われたとしても、この霊的ノアの箱舟という御用にお仕えしなければ、今までのことが嘘になっちゃいますよ。利他愛だとか人の幸せのためにとか言ってきたことを嘘にしないほうがいいですよね。 しかも、皆様はもう霊的ノアの箱舟に乗ってるんですよ。なんの徳があって乗らせていただいてるんですか?なんの徳も無いじゃないですか。なんか神様に貢献することしたのかと。してないじゃないですか。それでも神様は乗っていいよということで、我々はメシアの御名に結んでいただいている。 だからもう救われてるんですよ、皆さんは。でも知らない人いっぱいいますよね。いや、中側ではもうみんな本当は知ってるんですよ。 そして我々は、努力をしないという選択をしてもいいんですよ。ベッドにずっといたままでもいいんです。どちらにしろ神様は成し遂げますよ。もちろん最終的には、いつか、神様がベッドの中に入ってきて、毛布を引っぺがして、強引に連れ出すようなことをされるかもしれないけれども、でも実は、我々がなんの努力をしなくても、神様は絶対成し遂げるんです、ご自分の御心を。どういう形かは分からないけれども、神様は、絶対に人類を幸せにするということを成し遂げる。 だから我々は今、このままふかふかのベッドにいて、利己愛の道を歩みます、なのか、それとも、親孝行させていただきたいのです、なのか、そのどちらかですね。 さらに言えば、神様は今、我々に語りかけてきておられるんですよ。「私のために霊的ノアの箱舟の御用に仕えてくれないか」と語りかけてきておられる。 語りかけてきておられると今聞いても、あまり皆さんの心に大きな反応無いですよね。でも、我々、神様が語りかけてくださったら、こんな幸せなことはないんですよ、本当はね。それ、想像したことありますか?もし神様と会話ができたらどれだけ幸せなんだろうかと一度でも思ったことありますか?ひと言でも神様と言葉を交わしたいと思ったことありますか? 我々が神様に「おはよう」と言うのに対して、神様から「おはよう」と言っていただくことが我々にとっての最大の幸せなんですよ。それはもう筆舌に尽くしがたいですね、その幸せは。ということすら一度も思ったことないじゃないですか。人生で、一度でも、神様と会話できたらどれだけ嬉しいんだろうかなんて思ったことあるんですか? それなのに我々は、「人類は神様の子供だ」とか言ってるんですよ。でも実際は、全然子供としての思いの発露をしてないじゃないですか。我々は、親に対して、親と話せたらどれだけ嬉しいだろうか、ということすらも思わない子供たちなんですよ。それが我々の現状なんですよ。 でも、夢でもなんでもいいから、神様と一目お会いしてひと言でも言葉を交わしたら、それは本当に、今まで感じてきた安らぎとか、幸せとか、そんなのは全部吹っ飛ぶような心境ですね。 だから、それ、願ったほうがいいですよ。私が今言っていることがなにも分からなくても、神様と会話してその幸せに触れさせていただきたいのですと、少しは思ったほうがいいですよ、子供の身分として。 そんな悲しい親いないですよ。子供が自分と話して嬉しいなと思ってくれてない子供を持ってる親の悲しみはすごいですよ。それが神様の悲しみなんですよ。人類80億のほとんどがなにも思ってないですよ、そんなこと。80億人以上いるのにですよ。その神様の悲しみを少しでも考えたことあるんですか? でも、そんな我々であっても、神様は我々を赦すどころか、一緒に多くの人に喜びを分け与える御用に一緒に仕えてくれないかと言ってくださってるんです。それはもう自分のすべてを投げうってでもお仕えするに価値あるものだということは、もう私は保証できますね。それはメシア教の信徒がとかではなくて、人類誰か一人でもこのことに目覚めたら、それはもうすごい救いですね。 だからそれが皆様にかかってるんですよ。霊的ノアの箱舟によってメシアの御名を通して神様との再会を多くの人に味わっていただく、ということです。それが皆様にかかっている。 今いろいろいっぱい話してますけれども、複雑じゃないんですよ。すべては親と子ですから。神様の子供になる、それだけですね。「お父さん」、と言うことだけですね。神様にお会いして、「お父さん」と、そう人類が言わせていただくことを我々は目指してるんです。こんな簡単な教えはないですよ。メシア教の教えというのは、神様のみ前に行って、「お父さん」、と言うことだけなんですよ。 ただ、それをもう少し説明しようとすると、メシアとして新しく生まれるとかいろいろ複雑な要素が出てきちゃいますけれども、本当は簡単なことなんですよ。だって、親子関係でそれが一番幸せなことですよね。自分が愛をかけた子供が笑顔で、「お父さん」と言ってくれることに勝る喜びはないですよ。だからそういう人間の世界の幸せが神様の世界と同じなんです。それを我々だけの喜びにしておくのはもったいないじゃないですか。 確かに今までの我々の歩みは紆余曲折あったけれども、それすべてを生かしたほうがいいじゃないですか。このまま舟から降りて、メシアの御名から離れちゃったらもったいないじゃないですか。 だから今我々は、全人類が、神様のみ前──お父さんですね──お父さんのみ前に行って、「お父さん」というふうに言える、そういう未来のために、我々一人ひとりがこの霊的ノアの箱舟の使命に命がけでお仕えしたいと、そういうことを、イースター祝典でありイースターの今日、我々一人ひとり自分の心に置いて、また出発させていただきたいと思います。 ありがとうございました。