皆様、こんにちは。 ただいまは、タイ世界メシア教のチャイワット本部長――布教区長でもありますけれども――と奥様の起世子夫人の決意発表、お二人、ありがとうございました。 タイは仏教国ですが、今日の明主様の聖言にも仏教のことがございましたね。仏教のいろんな僧侶の方々は今、メシア教のために働きたいと願ってると、そう明主様は仰せになった。 明主様がそう仰せなんですから、仏教国のタイにおいても、チャイワットご夫妻のもとに、メシア教の役に立ちたいということで集まる方をきっと明主様はご用意くださっているだろうと思うと同時に、一方で、私たちは真理をタイに持っていくわけで、明主様は仏教というのは滅ぶと仰せですけれども、やはり真理に照らされての抵抗はありますから、だから、手伝ってくれる方々もおられるでしょうけれども、抵抗というのも必ずあると思いますよ。 またタイは、仏教以前にまずタイの救世(きゅうせい)教がありますのでね、実際にこの真理を持っていって、それに照らされた人がメシア教に集まってくれば、当然それは都合悪いわけですから、仏教というか、主にはタイの救世教から、いろんな意味での嫌がらせのようなことをお二人が受けることになるであろうことは十分想像できますね。 だから、お二人には大変な困難が待ち受けていると思います。文字通り、身に危険が及ぶようなこともあるかもしれない。 でも、今こういう展開になっているということは、今日の明主様の聖言はもう何十年も前のものですけれども、いよいよメシアの真理を仏教圏に届けるということになったわけですから、今日は、その出発の日ではないかなと思います。 困難の中、我々の仲間であるお二人がこの御用にお仕えくださる。我々としては、離れた日本でさせていただけることは限られてはいるけれども、でも、お二人は日本から派遣しますのでね、私たちの献金によってお二人の生活とタイでのご神業を支えることができますので、皆様にはよろしくお願いしたいと思います。 今から1か月半ぐらい前、チャイワットご夫妻と話す機会をいただいたんですね。その時チャイワットさんがいろいろ質問してくださったんですけれども、そのうちの一つは、タイの救世教の方々は教主様は大切だということを受け入れる方は結構いますが、やはり仏教国だから、イエス・キリストを受け入れるのに抵抗がある方が多い、だから、教主様のことはしっかり打ち出しますが、イエス・キリストのことは少しトーンを落として伝えてもいいですか、そのほうがタイの救世教の信徒に訴えやすいと、そのような内容だったと思います。 その時に私が彼に言ったのは、いや、それが弱点だと思うなら、むしろその弱点を、布教する上で一番前に持ってこなきゃだめだ、もしキリストのことが弱点だと思うなら、それを一番前に出さなきゃだめだと、そうお伝えしたんですね。 というのは、結局、弱点だと思ってることを少しトーンダウンして伝えようとか、あるいはそれを隠そうとしたら、今後、ずっとそうなりますよ。ひとたびその道に入ったら――1回でもそれをしたら――もうずっと隠して歩んでいかないといけなくなる。 救世教の歩みはそうでしたよね。せっかく明主様が「世界救世(メシア)教」ということで進んでおられたのに、メシアというのをあまり表に出したくないとか、キリスト教と呼応するということはトーンダウンしたいとか、意味的にメシアという言葉は世を救うということなんだからメシアという言葉を使わなくてもいいじゃないか、救世という言葉でいいじゃないかということで、せっかく明主様が付けてくださった世界メシア教という教団名を、明主様ご昇天後、世界救世教に変えましたよね。ちょっと隠そう、ということで変えた。 1回それをしたら、気づいたらもう今度は宗教も隠そうということになっちゃったじゃないですか。 実際そうなりましたよね。ずっと宗教隠そうとして歩んできたじゃないですか。日本は宗教ということへの抵抗が強いから、できるだけ宗教色を消そうとしてきた。 というように、1回でも隠したり、少しトーンダウンして最初の一歩を踏み出したら、そのあとは、一生、我々が優先するのは、明主様のみ心ではなくて、人が受け入れるか受け入れないかになる、だからチャイワットさん、それは絶対だめだ、むしろ、一番弱点だと思うところを逆に一番真正面に持ってこないと意味が無いと、そう伝えたんですね。 だって明主様もそうだったじゃないですか。日本だって基本的には仏教圏ですよ。まあ、神道と仏教。その中にあって、日本観音教団と日本五六七教会だったのをいきなり世界メシア教という教団名にされて、さらに明主様は、仏滅なんだ、仏教は滅ぶんだと仰せになった。 仏教徒のことに配慮してたらそんなことできませんよ。神様は、これからは世界メシア教として進んでいきなさい、仏教はもう滅ぶと言いなさいと仰せなのに、いや神様、仏教圏である日本で仏滅なんて言うと大変ですからやめましょうと、そういうことだったら、世界メシア教も誕生していませんし、キリスト教と呼応ということも打ち出されていない。 そもそも、本格的に宗教団体として活動する前、明主様は、宗教ではない浄化療法ということでされていた。でも宗教として歩むと決断されて、そしたらその途端、たくさんの方が明主様のもとから離れたんですよ、なんだ宗教なのかということで。 信徒が離れないように、信徒に抵抗があることはしないようにしようということであれば、明主様は宗教団体を立ち上げられる必要も無かったし、世界メシア教を立ち上げられる必要も無かった。ただ、多くの人が受け入れてくれることをやって進んでいこう、ということになるだけですからね。 だとしたら私たちは、一生、神様にお仕えするのではなく、人間の都合の世界に入り込むだけですね。どんなに明主様がキリスト教と呼応すると言われても、「まあ、それは横に置いておこう」ということになりますのでね。 隠して進んでいったところ、多くの人が集まってきましたとなったらその後どうするのか。ずっと真理を隠し続けて生きていくのか、あるいは、ある日、実はこうなんですと打ち明けて多くの人が離れてしまうのか。 ということは、どうせ離れちゃうんだったら、最初からすべてをさらけ出したほうがいいんですよ。だって我々は本物の信徒を作りたいわけですからね。本物の信徒を作るタイミングを10年先、20年先に延ばす必要は無いんです。だから私は、自分たちにとって一番弱点だと思われるところを一番前に出さなきゃいけないと言っているわけです。 これは、今まさにそうなんですよ。例えば日本にいる私たちにとっての弱点は、私たちが宗教であるという点、これは弱点ですね。だからそれを表に出さなきゃいけない。キリスト教のことも、これは弱点かどうか分かりませんけれども、これも出さなきゃいけない。あとは、ヴィーガン食も弱点ですよ、だってみんななんでも食べたいんですから。だからそれも表に出さなきゃいけない。 出さないとしたら、「ミロクの世は菜食だ」という明主様の聖言は一生捨て去りましょうねということですね。弱点なんだから、臭いものに蓋をしろという感じで扱うということですね。でも、それが我々の歩みでしたね。明主様がせっかく遺してくださったきらめく言葉を、臭いものに蓋をするみたいな扱いで今日まで我々は来てしまった。 でも、今、本物の信徒になる、作るというタイミングはもう来ている。だから、弱点を出すのを恐れてはいけない。むしろ、弱点だと思うことがあるならば、それを、明主様の信徒として歩むということの中で一番正面に持ってこなきゃいけないんです。 そもそも、メシア教というのはキリスト教と呼応する団体だということを思うと、仏教圏ということはそれだけ我々の教えを広げる可能性があるということでもありますよ。逆にブラジルみたいにキリスト教圏だとまた全然違いますよね。 イエス・キリストのことをすでに受け入れてる方たちに対してどういうふうに訴えていこうかと、これはこれの難しさがあると思います。 でも、タイは仏教圏ですから、それだけ布教させていただける可能性があるということですね。 メシア教はキリスト教と呼応するということ、これは、明主様が75年前の立春に仰せになった一大獅子吼ですね、一大獅子吼。 メシア教というのは、キリスト教と呼応して人類を救済するんだ、西洋にキリストあり、東洋にメシアあり、この二大勢力が共にたたかって永遠の平和を樹ち立てるんだと、これ、すごいご宣言ですね。 私たちはよく、地上天国建設は明主様の悲願と言いますけれども、僕は、この、メシア教はキリスト教と呼応して人類を救うというのは、明主様の大悲願だと思いますね、大悲願。 それはなぜか。 去年の年末に裁判が終わりまして、和解しましたね。でも、教団浄化は三代様の時代にもあって、その時も和解で決着した。その時は、今後は教主様を先頭に明主様帰一の道を進んでいこうということで和解した。 和解してその後は順調に行くかなと思ったら、結局やはり主導権争いが残ってましたので、その流れの中で、教主様というご存在が都合悪いなというようなことが出てきて、そんな中、8年前の立春、2017年の2月4日、救世会館において、教主様が教団の実情を明かされました。 それから、紆余曲折あって去年の年末和解したわけですが、我々の願いとしては、救世教内の明主様信徒同士の争いにはこれでピリオドを打ちたい、これ以上争いはもうしない、ということですよね。 だとしたら、これは8年前からの争いが終わったのではなくて、実は、もう40年以上も前からの教団浄化が終わったことでもありますね。前回の三代様の時のごちゃごちゃで終わったのかなと思ったら終わってなかったんですよ。 ということは、みっともない話ですけれども、内輪同士で8年間どころか40年間争ってきたわけで、今回、この長い争いにピリオドを打って、これからは明主様のみ心一筋に歩んでいこう、明主様のみ心を本当に実現するために歩んでいこうと、それが今の我々の決心だと思いますね。 そういう新しい歩みの出発となったのがこの間の和解ですね。我々の今までの40年間の争いにピリオドを打って、明主様のみ心を成し遂げるための新たな出発が、この間の和解だった。 その栄えある我々の再スタートの日として明主様が選ばれた日付はなにかというと、2024年の12月24日ですね。12月24日。 この日付について、もし我々で決められるなら、例えば明主様ご生誕の12月23日がいいじゃないかとか、いや、ここ数年教団の祭日にもなっているクリスマスの25日がいいじゃないかとか我々は思うけれども、23でも25でもなく、12月24日だった。この日に和解が結ばれた。 これは我々が決めるんじゃないんですよ。基本的には裁判所の都合でその日になったわけです。 先ほど僕は、明主様の大悲願はメシア教とキリスト教が相呼応して人類を救うことなんだと言いましたが、なぜそう確信しているのかというと、この12月24日という日付ですよね。 というのは、明主様のご生誕の日は12月23日。24日ということは、明主様は、一歩、キリスト教にとって大切な日付であるクリスマスの25日に歩み寄ってますね。一方キリスト教のほうも25日から一歩、明主様のほうに歩み寄っている。 だって、12月25日はイエス・キリストの聖誕の日とされていて、12月23日は明主様ご生誕の日。お互いが歩み寄った真ん中は24日ですよ、12月24日。 いや、こじつけと言われるかもしれませんけれども、和解を結ぶ日は、1年のいつでもあり得たんですよ。1月、2月、3月、4月、5月、6月、7、8、9、10、11のいつでもあり得た。でも、6、7年続いた裁判の終わりの日がちょうど12月の、しかも12月の上旬でも中旬でもなく、20日でも27日でもなく、24日なんですよ。 1月でも2月でも3月でもよかったじゃないですか。12月の上旬でもよかったじゃないですか。この日付、偶然なんですか?偶然なはずないじゃないですか。 1年365日ある中で、この8年だか40年だか続いた教団浄化をもう終わりにしようということで明主様が決められた日が、ちょうど、12月24日なんですよ。あなた方は再出発しなさいと明主様が我々にお示しになった日は12月24日だったんです。 明主様のご生誕から1日だけキリストの聖誕に歩み寄った日。キリストも明主様のお誕生日に1日歩み寄った日。 だから、この日付に絶対に明主様からのメッセージがありますよ。それはなにかといったら、メシア教はキリスト教と呼応して人類救済をするというのが私のみ心なんだよ、というメッセージ以外考えられないじゃないですか。 当然これは、キリスト教の方に押し付けることではないですよ。だってキリスト教の方は別にメシア教と呼応しろと言われてないんですから。でも、メシア教徒である我々としては、和解のこの日付についての意義というのを受けとめる必要はありますね。 この日付から鑑みて、あなた方が再出発したいというなら、私の願いというのはメシア教とキリスト教が一つになって人類を救っていくことなんだよという明主様のみ心はもう明確ですよ。 だからある意味においては、ここまで明主様がはっきりご自身のみ心を示されたのに、もしそのみ心に従わないというのであれば、また教団浄化は起こるでしょうね。 明主様の信徒を結び付けるのは、キリスト教と呼応することにお仕えすればこそ、ということですね。 キリスト教と呼応するといっても、それは、簡単に言えば、イエス・キリストを受け入れなさいということですね。だって、キリスト教と呼応して人類を救うのに、イエス・キリストのことを受け入れずして進みようが無いわけですから。 そして、ここまで明主様のみ心がはっきり打ち出された以上、これからははっきりしていくと思いますよ。つまり、この明主様のみ心を受け入れない方々や団体は、自然と廃れていくということですね。 例えば、世界救世教は割と大きな団体ですけれども、この世界救世教は教主様を尾行・盗聴・盗撮した。 尾行・盗聴・盗撮して、教主様は教義違反をしてると言って、教主の推戴を取り消して追い出したと、そういうことをしました。 でも、教主様を追い出してしまったら、今度は、その教主様に多くの信徒が付いていってしまって宗教活動費もままならないということで、今度は教主様に対して18億円の損害賠償の裁判を起こした。救世教は教主様に18億円の損害賠償裁判を起こしてたんですよ。 自分たちで尾行・盗聴・盗撮して追い出した。そしたら信徒離れちゃった。じゃあ教主の岡田陽一、あなた私たちが損した分のお金払いなさいと、救世教はこんなことをしてたんですよ。これ、事実ですよ。 あと、奥津城のこともありますね。箱根の奥津城という場所。向かって右側のお墓には亡くなられた明主様のご遺体そのものを埋めた。その左隣は二代様の御墓所。二代様の場合は火葬しましたのでね、いわゆるお骨というか灰を埋めた。これが奥津城という場所ですね、ご存じの方もたくさんいらっしゃると思いますけれども。 で、これは、もちろん明主様は偉大な方であられるけれども、この世的に言えば、いわば岡田家の配慮の中で、「世界救世教さんにとって大事ならばどうぞ。あなた方は明主様のご遺体埋めてもいいですよ」ということになって、そういうことが行われた。 二代様のお骨についても同じことですね。明主様と二代様といったって、それは、教主様にとっては祖父と祖母ですから、教主様は、世界救世教に対して、祖父と祖母をそこに埋めてもいいですよという、この世的に言えば岡田家のすごい配慮があって救世教はそういうことをさせてもらっているのに、世界救世教は、その岡田家そのものを救世教から追い出してるんですよ。 明主様が亡くなられた。ご遺体がある。それを救世教は、「この体は我々のものだ」と言って、ご遺体を岡田家から奪い取るみたいなものです。だから、救世教がしたこと、していること、これは普通じゃないですよ。 いや皆さん、これご自分のことで考えたら普通じゃないことはお分かりになると思いますよ。ある団体が、皆様方のご家族の亡くなった子供とか主人とか父親とかの体を奪い取って、そしてそれを自分たちが埋めようとする。そして、皆様方遺族に対しては、あなた方はもうここから出てってくださいとする。そういうことですよ。だから、そういう遺体とかを奪い取って、その上で、岡田家全部出てってくださいというのは、どう考えても普通じゃないですよ。 じゃあ祖霊祭祀が大切とか言ってることはどうなるんですか。救世教は祖霊祭祀大切だと言ってるんですよね?でも、教主様、もう行かれないじゃないですか。祖父と祖母の供養できないじゃないですか。 祖霊の供養をするとその子孫が幸せになるということを訴えてるのに、明主様の子孫である岡田陽一という人物をこんな扱い方して、追い出して、そうだとしてどうやって救世教は先祖供養説けるんですか? 私も今までこの話はしたことありませんけれども、これが実際起きてることなんですよ。起きたし、起きてる。救世教がしてること、普通じゃないですよ。これは、信仰以前に人の道としての問題ですね。 そういう団体を明主様が喜んで祝福されるはずないわけで、自然と廃れていくことははっきりしてますね。 一方、逆に、世界メシア教の歩む道に入りたいという方々も出てくるかもしれませんよ。 これは『グローリー』のブラジル巡教特別号に少し載っておりますけれども、ブラジルでは、通称「メシア観音」という団体が、法人を全部解散して丸々、サントス本部長のもとにあるブラジルメシア教に合流しようとしています。 この間ブラジルで私が入信式をした時も、メシア観音からたくさんの方が入信されたのですが、これ、大変なことですね。一個の別団体が法人を解散してメシア教に入るということですからね。 これはブラジルのことですけれども、和解の日付に見られるように、ここまで明主様のみ心がはっきりしている以上、日本でもそういうことが起きてくるかもしれませんよ。 というのは、我々世界メシア教は明主様信仰の最後の救いの綱であり、救いの光なんですから。そして、本当の救いの光はメシアの御名にある光です。だから、それを求めてメシア教に来るみたいなこともあるかもしれませんよ。 「キリスト教と呼応する。うん、それは大きい話ですばらしい」となるのですが、そこで、では具体的にどうするんだという問題にぶち当たりますね。メシア教はキリスト教と呼応するのはいいけど、具体的にどうするんですかという問題ですね。 でも、少なくとも、我々は今、「祈り、食、音楽」という活動を明主様から与えられている。 この「食」ということに関しては、明主様が「ミロクの世は菜食だ」と仰せになったことが元なんですけれども、私は、その根本は、イエス・キリストが神に対しての最後にして唯一の捧げものであるがゆえに最早生き物の肉と血は食べる必要無い、神様に捧げる必要は無い、だから明主様はミロクの世は菜食になると言われることができたんだと、そう私は主張しています。 ということは、このメシア教の「食」の実践もイエスのことと関係してるんですよ。さらに、今日拝聴した聖書の「創世記」ですが、エデンの園での神様の創造の業のことが書いてありましたね。 (真明様、栞をご覧になりながら)6日目、「神はまた言われた、『わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう』」(「創世記」第1章29節)、こう書いてあります。 「種をもつすべての草」ですから、穀物とか小松菜とか、そういうものですね。「種のある実を結ぶすべての木」は、フルーツとかナッツとかですね。動物はどうするのかというと、「海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(「創世記」第1章28節)ということですから、動物は食べるのではなく管理しなさい。そして、あなた方が食べる物は、これ食べなさいと命じておられる。 ここ、エデンの園で神様が人に命じておられる食事は、完全に菜食ですよ。菜食でありヴィーガン食。 聖書のこのあとの物語としては、聖書をお読みになった方はご存じでしょうけれども、このあと、アダムとエバが蛇にそそのかされて、結果二人はエデンの園から追放されて、そこからアベルとカインが出て、それで、ノアですね。ノアの時代に神様は人類を滅ぼそうとされて、大洪水を起こされた。そして、この大洪水のあと、神様は人間に、「肉食べていいですよ」と仰せになるんですね。でもこれは、エデンの園を追放されたあとの話です。 神様がエデンの園で人類に許された食事はヴィーガン食です。その大昔の人類の食事と、「ミロクの世は菜食」ということは未来の食ですから、明主様は、「人類の未来の食は菜食なんだ」と仰せになっているのであって、人類が理想世界において食べるべき食と、一番最初、エデンの園で神様が人間にさせてた食の内容は一緒なんです。両方ともヴィーガン食です。 だから、ミロクの世の食はエデンの園の食でもありますね。 もちろん、本当の天国というのは食とかそういうものを超越した場所ですけれども、でも、現界で生きる我々がどういう食をするかというのは、今私が話してることというのは一つの道として提示されておりますよ。 だから、「ミロクの世は菜食」とか「食」の活動というと、全然キリスト教と関係無いみたいなんだけど、関係無いどころではなくて、まず、イエスが最後にして唯一の捧げものであるということと関係しているし、しかも、キリスト教徒が聖典と崇める『聖書』において、エデンの園という大事な場所で神様が人間に許可してたのは菜食。だから、食の実践そのものがキリスト教と密接に関わっているわけですね。 「祈り、食、音楽」の中の「音楽」は、当然、明主様が我々にハレルヤコーラスを歌わせようとされたことでキリスト教と呼応する型を示してくださいましたように、メシア教もイエス・キリストに関する歌をたくさん持っていますので、できれば、キリスト教徒の方々と共に神様をお讃えする歌を歌えたらいいなということを願いますね。 「祈り、食、音楽」ということで最後の「祈り」ということで私が今日お話ししたいのは、祈りそのものというより、祈りのもとにある真理とでもいうのでしょうか、に関してですが、やはり、キリスト教と呼応するといったら、それは、「新しく生まれる」というテーマですね。「新しく生まれる」とは一体なんなのかということ。 というのも、明主様はメシアとして新しくお生まれになったと仰せになった。メシア降誕ですね。またイエスも、誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることはできないと仰せになってる。だからそこにありますね、我々が克服しなければいけないなにかが。 この「新しく生まれる」ということ、キリスト教徒の方々はもう克服したと思ってるんですよ。新しく生まれることについて、イエスは、水と霊から生まれなきゃいけないと言ってる、ということは、キリスト教徒となるための洗礼である水のバプテスマを受けて、そして、これからの人生、イエス・キリストを信じて生きていく、それが新しく生まれることなんだということになっているようですが、そんなことじゃないわけですね。「新しく生まれる」というのはそんな甘いものではない。 新しく生まれるということは、やはり、神秘ですよね。だから我々は、キリスト教と呼応して人類救済するということの中において、明主様が遺してくださったこの新しく生まれるということの神秘をつかんで、そして、キリスト教の方を目覚めさせなければならない。 新しく生まれるというんだから、ただ「水の洗礼受けました」ぐらいのことではなくて、今日の明主様聖言(「昭和28年4月8日 御講話」)にもありましたように、明主様は、母であるお釈迦さんと父である阿弥陀の間から生まれたのが観音の私だと仰せのように、当然、父的なものと母的なものが一つにならなければ生まれないですね、子供は。 当時明主様は、このことについて、まだいろいろ深い意味があるけれどもまだ詳しく話せないと仰せになりました。 で、明主様としては、生まれた子供は観音だよということだったんですけれども、これは最終的には「メシア」として新しく生まれるというところに到達されましたね。 お釈迦さんと阿弥陀の子供が観音だというところから、最終的には、生まれた子供はメシアというところに行かれましたよね。 当然、この話は比喩ですよ。実際にお釈迦さんと阿弥陀さんが明主様の外にいて、結婚して、はい自分は観音として生まれました、じゃないわけです。ということは、この「新しく生まれる」というのは、明主様の中側で起きてることです。 簡単に言えば、確かに明主様の見た目は男性的だけれども、明主様の中側に女性的なものがあったから、明主様はそれと一つとなって新しく生まれることができた――これはもう間違いないですね。だって明主様、今日の御歌でも仰せじゃないですか、経緯が結ばれて玉の御子が生まれると、そう書いてありますね(「経緯の結びの要に美しき玉の御子は生れ給ひぬ」)。 出口なおと出口王仁三郎の間で自分だというのもありますね。父性的な出口なおと母性的な出口王仁三郎の間に生まれたのが自分なんだと明主様は仰せです。この「新しく生まれる」というのは本当に神秘ですね。 先月の新年祭の時私は、新しく生まれるというのは、「あなたは新しく生まれたんだ」と言われた時、もし「そうだ!」と言えたら、それが新しく生まれたことだというお話をしましたね。 だけど、なかなか「そうだ」と思えない、そこにギャップがある、だから私たちはそのギャップを救いにきてるんだという話でしたね。 この話を聞いた時、我々の心の動きとして一番多いのが、「自分はまだ『そうだ』とは思えません、ギャップがたくさんあります、なので自分はそのギャップの救いにがんばります」というこの心の動き、これが一番多い。 次に多い心の動きとしては、なにかこの世で喜ぶことがあった時、「自分はあの瞬間『そうだ』と思えたかもしれない。だから、あの時『新しく生まれる』ということを少し味わうことができた。これが大切なんだ」という動き、これもありますね。 でも、やはり一番多いのは、最初に言った、「そうだ」となかなか自分は思えないからギャップの救いの御用をがんばりますというもの。 でも、どちらにしても、この心の動き、両方とも、これだったらもうずっとなにも変わりませんよ。千年経っても二千年経っても、「自分はなかなかそうだとは思えません、なのでこのギャップを救います」となるし、あるいは、自分の気分がいい時、気分が悪い時を主体にするなら、気分がいい時は思えます、気分が悪い時は思えません、ということで、これも千年も二千年もそのままずっといきます。 いや確かにね、「新しく生まれる」というのは心の問題ですから、実際雲をつかむような話ではありますね。明主様は新しく生まれたと仰せになった時、少しは身体の変化はありましたけれども、それ以上のことはありませんでしたものね。新しく生まれたんだ、という結果だけお示しになった。だから確かにこれは神秘的なことではあるけれども、でも事実ですよね、我々が新しく生まれなければならないというのは。 私がなにを言いたいのかというと、とにかく、新しく生まれた時に「そうだ」と言う本体は、いわば、「自分」じゃないんですよ。 だって明主様も、また教主様も何度も仰せのように、我々の本体は霊の体ですよね。神様からいただいたメシアと名の付いた魂が我々の本体である。 だから、「あなたは新しく生まれました」と言われたとして、それを聞いている自分の立場はどの立場ですか?現界にいる、現身の仮の姿の自分ですか?もし現身の自分の立場を優先すれば、そりゃなかなか「そうだ」とは思えませんよ、だって現界の自分というのはご先祖様のいろんな思いにまみれてるんですからね。 でも、我々の本体はメシアと名の付いた霊の魂なんですから、「あなたは新しく生まれました」と聞いたら、「そうだ」も何も、この魂は神様そのものですから、「その通り!」となるだけですよ。「その通り」ですよ。 我々の本体は「その通り」と言ってるというか言いたいわけです。我々の中におられる神様は、「あなたはもう神様だよ」と言いたいわけです。 この話を聞きますと、我々としては、「天国にある霊の体が私の本体なんだから、では私はその天国に立ち返って、その体と一つとなって、『そうだ』と言わせていただきます」ということで新しく生まれられるなら話は簡単ですね。 簡単ですよ。「天国に私の本体があるんですね。立ち返らせていただきます。私の本体である神様の『そうだ』と一つとならせていただきます」なら話は簡単ですね。 ま、確かに新しく生まれるのは簡単なんですよ、簡単なんだけど、唯一残ってる点は男女の問題ですね。男女の問題。だって、自分一人で新しく生まれるわけじゃないですからね。男性的なものと女性的なものが一つにならないと生まれられない。 というように、男性的、女性的という表現もありますし、明主様は父と母という言葉を使われて、父性と母性という表現を主体にしておられますね。聖書では「男女が一体となる」というように、男性的、女性的という表現を主体としてますね。 新しく生まれた子供の立場を主体としたら、父性と母性という表現になるでしょうし、新しく生まれることを目指そうとする中にあっては、男性的なものと女性的なものという表現になりますね。どちらも同じことですけれどもね。 というように、我々の内側にはそういうのがあるんですよ。だって明主様、急にどこかから女性を連れてきて「新しく生まれた」となったわけじゃないんですから。だからそれは、明主様の中に母性的なものがあったからですよ。 我々が新しく生まれられないとしたら、唯一残ってるのは、このことだけですよ。男女の問題。 だってエデンの園で何が起きたんですか?エバが蛇にそそのかされて、アダムにそれを伝えて、それが結局問題となってもうエデンの園から出ていきなさいとなったじゃないですか。 だから、キリスト教の原罪といっても、これは、男女間の問題もろですよ。そして、この原罪を克服したのがイエス・キリストなんでしょ?原罪と言われる罪を克服したのがイエス・キリストですね? ということは、イエスの血には、エデンの園において、男女関係とか父性と母性の関係でずれてたものを修復してくださる力があるということです。 こうなってくると、皆様、急に難しくなりますね。どうですか?受け入れたくないから、イエスをね。だから急に、自分の頭の中で「これは難しいことだな」というのが働きますね。今、私たちの中で働いてますね。今、感じてるじゃないですか、「難しい話だな」って。 でも、なんにも難しい話じゃないんですよ。だってみんな恋愛して、結婚して、子供生んでるじゃないですか。「新しく生まれる」といったって、人類の営みそのものですよ。 だから、非常に俗的な言い方をすれば、この世には、親子関係もありますし、夫婦関係もある。 で、家族が円満にいくためには、親子関係がどんなに良くても、夫婦関係が良くなければ絶対その家族は前へ進んでいけませんよ。 いや、僕は離婚とかを否定しているわけではないですよ。だけど家族が一つとして進んでいこうとするならば、どんなに親と子の間に強い絆があっても、夫婦関係が一致してなければ、その家族は困難を乗り越えられませんね。 でも、夫婦関係が一致してれば、その夫婦のもとにある子供は、この世でどんな困難に出遭ってもそれを乗り越える力が湧いてくる。でも、夫婦がけんかをしてたら、その子供が困難を乗り越えるのは難しいですよ。というくらいこの男女の関係の問題、夫婦の関係の問題は大事なんです、我々の生活にとって。 だから、男女関係の問題とか、夫婦間の問題とか、いろいろこの世でありますね。そういうことをこの世で味わってるということは、本当はそこに神様からのメッセージがあるわけです、「あなた方の夫婦間のずれを私が是正してあげたじゃないか」というメッセージですね。 だから、新しく生まれるという道の中で我々に唯一残されているのはそれですよ。男女間の問題。まあ、父と母の問題ですね。 で、それは、自分の中にあるんですよ。この世で男性なら霊のほうには女性、この世で女性なら霊のほうには男性という存在がいる。だから、新しく生まれるというのは、ただ、「洗礼受けました、これからイエス様を信じて生きていきます」ではない。 天国には我々の片割れが待ってるんです。我々はこの世でも片割れを探しますよね。一生懸命恋愛して自分の片割れ探すじゃないですか。 いや、それはね、地上での表現はいろいろありますよ。男性なのに女性的な要素が強く出る方もいらっしゃいますし、また、女性なんだけど男性的なのが強く出る方もおられる。当然出ますよ、だって、中側に反対の性がいるんですから。だから全然おかしなことじゃないんですよ。中にあるから出てくるんです。そういう方たち、いらっしゃいますよね。 だから我々は、そういう方たちに出会ったら、「自分の中にも女性的なものとか男性的なものがあるということを認めなさいということなんだな」と思わなければだめなんですよ、裁くんじゃなくて。我々はだいたい裁いてますよね。自分は男だとか自分は女だと言って、それ、思い込んでますからね。だから裁いて、おかしな人たちだと思ってる。まさか片割れが自分の中にいるなんて思いませんからね。 でも、この地上で一生懸命片割れを探してるように、また、探したように、霊の世界にもその片割れが待ってるんです。 この地上の片割れは、自分の言うことを聞いてくれなかったりいろいろですよね。自分の理想の方と思ってたけれども、だんだん年取ってきてなんか顔変わっちゃったなとか(一同笑声)。 でも、我々の霊の片割れというのは、我々がもう望んで望んでやまない存在なんです。だって、望んでましたよね。我々ずっと片割れとの出会いを望んでたじゃないですか。思春期になったら、もう望みに望みましたよね。異性と恋愛したいという思いのことですよ、今私が話しているのは。 それ、霊のことと関係あるに決まってるじゃないですか。恋愛は地上だけのことなんですか?明主様だって神との恋愛ということを説かれましたよね。 それはまさに、キリスト教式で結婚するといったら、教会で、そこに牧師さんがいて、一(ひと)組の男女が牧師さんの前に立ちます、となりますね。 今の我々の状態というのは、「地上」という教会の外みたいなところでうろうろしている状態。でも本当は、その教会には、牧師さんである神様と我々の片割れが待ってるんです。「天国」という美しい教会で待っていてくれている。 だから、「20代も過ぎて、30代も過ぎて、私の美貌は失われちゃってもう恋愛はできない」じゃないんですよ(一同笑声)。こういう例えを今私自身がちょっと楽しんでますけれども(一同笑声)。 でも、天国に帰ります、ということでその美しい教会の中に入ったら、そこには自分の片割れが待っててくれてるんです。この世で男性であれば、その教会の扉を開けたら美しい女性が待ってくださっている。だって、結婚式の時お互いものすごくきれいにしますよね。それと同じで、そういう美しい存在が待ってるんですよ、今、一人ひとりの中で。 で、その片割れのもとに歩を進めて、男女二人で、神様に対して、帰ってまいりました、一つとなりたいのですと言いますね。「結婚したいのです」ということですね。 そうするとその時神様がなんと仰せになるのかというと、「あなた方はイエス・キリストの贖いの血汐を受け入れるのか?」と聞いてこられます。それに対して皆様は、「受け入れます」と言うべきですよ。もしその状況が来たら、そう言うべきですよ。ということで二人でそう神様に申し上げれば、神様は、「そうだ」と仰せくださる。「あなたは新しく生まれたよ」と仰せくださるわけです。 これが明主様に起きたことですよ。これが起きたんです。だって、父的なものと母的なものが一つとなったんだから新しく生まれられたわけでしょ?ということは、明主様は霊の世界である天国に行かれて、ご自分の中にある母性的なもの、女性的なものと一つとなられたんです。 だからこれが私たちの一番の喜びなんです。恋愛をしての喜びは確かに大きいけれども、それを遥かにしのぐ喜びがまだ待ってるんです。 この霊の片割れがいる場所、天国、が、今日拝聴した「ヨハネの黙示録」(第21章1節~8節)にもあったように、新しいエルサレムというものであって、この新しいエルサレムはすでに我々の中に樹ち立てられたんです。 我々一人ひとりの中に、我々の片割れが待つ美しい教会がもう樹ち立てられてるんです。だって、この新しいエルサレムである教会が「天から下って来るのを見た」(2節)と書いてあるじゃないですか。「事はすでに成った」(6節)、ですよ。 だから、私たちの中にその新しいエルサレムがあるんです。我々が自分の片割れと出会って、神様がいらっしゃって、そこで男女一つとなって新しく生まれるという人類にとっての最高の幸せを成し遂げられる場所である新しいエルサレム、天国がすでに私たちの中にある。 そして、この新しいエルサレムを地上に写し出そうというのが明主様の聖地ですね。 明主様の聖地の動きというのは(「昭和27年10月18日 御講話」)、東からずっと西に行く。まずは東京の橋場。そこからどんどんどんどん西に進んで、箱根、熱海、京都、そしてそこからさらに西へ行って、今度は九州。九州から中国(国名)に行って、最後はエルサレム。一番西の端であるエルサレム。 そこに到達したら、そこから本当の世界の地上天国が始まる、世界が統一されると、そう明主様は仰せですね。 今日の明主様御歌の1首目。(真明様、栞をご覧になりながら)「世に勝てるメシアはいともはればれと西の都に入らすよき時」。この「西の都」というのは、だから、エルサレムのことですよ。ずっと西に進み続けて、最後、世に勝ったメシアが晴れ晴れと西の都であるエルサレムに入場したというのを詠った御歌ですね。「にしのみやこ」。 今日理事長が発表された世界メシア教の聖地の場所はどこですか?聞き逃した方もいらっしゃるかもしれませんのでもう一度申し上げますけれども、この場所は、西宮市ですよ。兵庫県西宮。「にしのみや」、「西の宮」ですよ。 いや、それはね、こじつけだということでもいいですよ。あの、これ、この結論を持って「西宮に探そう」じゃないですからね(一同笑声)。今私が話してることをまず考えて、それから、「よし、理事長。西宮に探しましょう」、じゃないですから(一同笑声)。 そうではなくて、これは、全国の土地を探して偶然こうなったんですよ。別に、京都の西にしなければいけないとかそんなことはなく、全国を探して、最終的に明主様が選ばれた場所が、西宮だった。いや、うまく出来すぎてませんか、話が(一同笑声)。 私たちは、これを偶然として片付けることもできますね。12月24日は偶然なんだ、偶然明主様のご生誕の日とイエスの聖誕の真ん中の日に和解したんだ、この日付にはなんの意味も無い、全国のいろんな市の中で偶然西宮という場所になったんだ、これにはなんの意味も無いと、そう受けとめるのも一つの手ですね。 でも、はっきり言いますけれども、これらのこと、偶然じゃないですよ。 逆に言えば、我々はじゃあね、これから本当に、九州とか中国とか、あるいは明主様が仰せのモンゴルとか、そういうところに聖地を建てていって、それでさらに西に進んでエルサレムまで到達して、それで初めて世界が統一されるんだ、地上天国の始まりなんだといったら、それ、もう何千年もかかりますよ。 でも明主様は、もうあなた方の中にあると仰せなんです。「地上天国の初め」というのがもうあなた方の中にあって、あなた方はもうエルサレムに到達したんだ、それを受け入れなさい、西の都であるエルサレム、新しいエルサレム、天のエルサレムはもうあなた方の中にあるんだからそれを受け入れて、本当の意味で世の人に救いをもたらしなさいと、そう仰せなんです。 だから、京都からさらに西に進んで、本当はもうエルサレムまで到達した象徴として、この西宮という場所を明主様が選ばれたんじゃないんですか? だから、皆様の使命は大きいですよ。 これ、京都の東だったら全然関係無かったですよ。でも、京都から西の「西の宮」市なんでしょ?で、明主様は「西の都」はエルサレムと仰せなんでしょ?明主様のみ心ははっきりしてるじゃないですか。世に勝ったメシアが晴れ晴れと西の都に入る良き時が来た――これ、今ですよ。今、目覚めなさいということですね。 本当は、今私がしている話、先ほどの明主様の御歌をずっと昔拝読した時にすぐ信じるべきだったのに、それを信じないで、40年もかけてけんかしたり、イエス・キリストなんて関係無い、メシアなんて関係無い、キリスト教と呼応するなんてやりたくない、宗教を表に出したくない、という情けない我々に対して、明主様が、12月24日という日付と、また、西宮という場所を用意されて、そして今、「これでもまだ私を受け入れないのか」「偶然と言い続けるのか」「イエス・キリストを受け入れないのか」「エルサレムとか最後の審判とか、そういう言葉を受け入れないことのために、あなた方はこれからもずっと偶然と言って生き続けていくのか」ということで、こんなにはっきり分かる形で見せてくださってるんです、明主様は。 だって、「にしのみや」という音だけじゃないですよ、まさに西の都である「西宮」と漢字で書くんですよ。明主様からしたら、これでもあなた方はまだ偶然と言うのか、ということです。 明主様のみ心はもうはっきりしています。というかはっきりしてた。はっきりしてたのに、分からずやの我々のために、明主様は、こんなにも分かりやすい形で、12月24日という日付とか西宮市というところを選ばれて我々を導いてくださって、あなた方はなんとしても私の心を受け入れて進みなさいと、そう仰せくださっている。 だから、我々の中側に、もう、そういうすばらしい世界があるんです。あって、そして、我々の片割れが待っている。我々が望んで望んで望んでやまない、男性だったら女性、女性だったら男性、という存在が待ってくれている。 だって明主様、このことについて、何十年も前に、今は詳しく言えないと仰せじゃないですか。でも、今それが明かされているんです。今我々は、この神秘な明主様の聖言の真実を受け入れなきゃいけない。 そしてこれは、人類普遍のことですよ。男女関係とかのことは人類普遍のことですからね。だから、すでに樹ち立てられた新しいエルサレムの象徴としてのメシア聖堂、ということですね。 多くの人がメシア聖堂に触れた時、本当は自分の中にこんな美しい場所があって、その中にいる自分の片割れであるもう一個の魂と出会って、そして新しく生まれて神様の子供となるという我々の運命を思い出していただけるためのメシア聖堂ですね。 ということは、我々は、明主様がご昇天前年にメシアとして新しくお生まれになると仰せになった、そこから再スタートですよ。我々は何十年もそのことをすっ飛ばして、無視してきたじゃないですか。 でも教主様が立ち上がってくださって、我々は導かれて導かれて導かれて、今、ここにいる。だから、1954年の4月19日というか、明主様がメシア降誕を発表された6月5日ですね、そこからもう一度仕切り直しですね、我々は。 その時にもう一度戻って、明主様が本当に成し遂げられたかったこの業を託されてるのが皆様であると同時に、その業にお仕えするのが「明主様の信徒」ですよ。そうでなければ、結局、全然明主様のみ心と関係無いことしていくだけですからね。 明主様が世界メシア教開教になって75年目の今日、教主様が立ち上がってくださってから8周年の今日、そしてまた世界メシア教が復活してから5周年の今日、メシア聖堂の建設予定地が発表になった。だからそれは、明主様が今我々に託されようとしているこの大きな使命に全力で仕えなさいということでもありますし、本当の救いの福音、本当の喜びを世の人に伝えていきなさいという出発の日でもありますね、今日は。 今日お上げした明主様御歌の最後のは、「時は今紀元末なり新しき紀元に肇まる地上天国」。だからこれは、今日ですよ。今ですよ。 ということで我々は、明主様が我々に託してくださっているこのご付託に力を合わせてなんとかお応えして、メシア聖堂を建てて、世の人に幸せと光と救いと希望を分け与えるという道――新しく生まれるという道ですね――これを共に歩んでいきたいと思います。よろしくお願いします。 ありがとうございました。