皆様こんにちは。 私には3人の子供がいるんですけれども、朝、学校とか幼稚園に車で送りに行くことがありまして、ちょうどその時、ごみ収集車ってありますよね、ごみを回収する、それが、朝、ごみ収集車の人が私の地域を回る時間にちょうど合って、その車の後ろについたり、ちょっと通り越したり、すれ違ったりということが日常的にあります。 それで私は、「ごみ収集車とか、ごみを集めてる人に対して、自分はどういう思いを持ってるのかな」と最近そんなことを思うわけなんですね。 これが今日のテーマです。 この話を頭の片隅に置いて、このあとの私の話を聞いていただきたいと思います。 先月の月次祭で私は信徒の皆様に質問をしたんですけれども、それは、もし自分が全能の神様だったら何をしますかと、そういう問いを投げかけました。全知全能ではなくて全能の神様だったらどうしますかという問い。なぜ全知を外したかというと、もし全知ということですべてを知っていると、することも結局神様と同じになっちゃいますので、だから、もし全能の神様だったら何をされますかということを皆様に問いました。 その話についての信徒の皆様の感想文を拝読してましたら、結構多かったのが、その問いを聞いた時、最初に思ったのは世界平和でしたとか、世界が平和になりますようにということを思ったとか、もし自分が全能の力を持っていたら、戦争を止めて世界平和を成し遂げると、そのような内容のことを書かれている方が結構おられまして、でももちろん、感想文としてはそこで終わりではなくて、そのように思っていたけれども、その日の私の話を聞いて、本当はこういうことだったんだなとか、そういう感想文ですね。 でも、全能の力があったら何をするかと質問されて、とっさに世界平和と思う方が結構おられた事実を見て、私が思ったのは、私たちは、まさか、自分自身が、今起きてる戦争――ウクライナとロシアとか、イスラエルとイランとか――まさか自分がそれらの戦争の主原因であるとは思ってもいないんだな、ということ。 というのは、もし自分が今の戦争の主原因であると認識していたら、そんなふうに、自分は客観者みたいになって、世界平和が成し遂げられるといいな、なんて思わないですからね。 我々は、まさか、我々の日々の思いが、戦争とか、殺人とか、いろんな事件の直接的な主原因になっているなんて思ってもいない。一見関係無いみたいですもんね。自分は一生懸命生きてて、よく分からない人たちが戦争をしている、自分はまともで、戦争なんてとんでもないという見方ですから。 だけど、我々の日常生活を見てみれば、なにかちょっとあれば、あの人は気に入らないと愚痴ったり、自分の家族、隣人に対してもそんなことを思ったり、あるいは店員さんがなんか言ってきたりしたら、すぐ、「なにあの人」となりますよね。 それをいろんな形で表現するかしないかは別ですよ。あまり表現しなかったり、心の中で思ったり、あるいは、近い人にちょっと言うぐらいですよね。でも、そういう感情を我々は常に抱いている。 あるいは自分の優越性を保つために、他の人に対してこれをしてやろうとか、これを言ってやろうとか、この手を打とうとか、そんなことばっかり考えてますよね、我々は。いや、我々は、そんなことばっかり考えてますよ、正直言ってですね。誰がというのではなくて、例外なくそういうことばかり考えてますね。 で、それは、我々は、ただ、権力とお金が無いがゆえに実行できないだけで、もし絶大なる権力とお金があれば、自分の優越性を保つために、よし、じゃああの国を侵略しようとか、あの人をもういなくなっちゃうようにしようとか、そういうことを絶対しますよ、我々はですね。 だから、規模が違うだけのことです。人に対して「気に入らない」という思いに満たされている我々の日常をして、もしそれが大きくなれば、形としては、個人的な規模で言えば殺人ですし、より規模が大きくなれば戦争ですね。 じゃあ明主様は、そのような戦争とか殺人が起きている世の中についてどう仰せなのかというと、今日拝聴した明主様御歌の1首目、「世を挙げて忌はしき事ども繁かるは神を忘れし罪なればなり」。 世の中でいろいろ起きているのは、一見人間同士が争ってるみたいだけども、根本的には、我々の神を忘れた罪、人類が神を忘れた罪であると明主様は仰せになっている。「あ、忘れちゃった」ということですね。神様を忘れちゃった。 2首目は、「大前に額く我となりにけり神に背きし罪を悔みて」。 神を忘れたという1首目。この2首目は、神に背いた。これ、似てますけれども意味は全然違うんですよ。 神を忘れたというのは楽ですよね。それを指摘されても、そうです、忘れてました、意識してませんでした、失念しちゃいました、ということで終われる。 でも、明主様ご自身は、「神に背きし罪を悔みて」、ですよ。背いたということは「忘れてない」ですよね。忘れるどころか、むしろ覚えていた、神様というご存在を覚えていたけれども反抗して逆らった、これが神に背くということ。ですので、この2つの表現には雲泥の差がありますね。 上司からなにか言われて、あ、上司の指示を忘れてました、というのが1首目。2首目は、上司からなにか言われて、それは覚えていたけれども、だけど、上司が気に入らないから背く。上司を認識してるけれども、上司が気に入らないから自分の主体性をもって反抗する。 ということは、一番目の神を忘れた罪でさえ世の中が大変なことになってしまうのに、明主様は、ご自身はもっとひどい存在であられたと認めておられます。 我々、明主様というご存在を考えた時、明主様が神様に真向かわれているお姿をイメージしたとして、明主様が神様に対して、私はあなたに背いた存在です、お赦しくださいということで神様に真向かっておられたとあまり考えたことないんじゃないですか。なんか、明主様はすごい、明主様は神様とご一体だ、くらいのことしか思ってこなかったし、思ってない。 でも、ここ2首目、明主様は、1首目のよりもよっぽど重い罪を自白されていますね。告白されている。 という明主様だから、3首目の、「罪多き我身我家を赦しませ大慈大悲の大御心に」、という表現になるわけです。 罪多き我が身、ですよ。これ、明主様ご自身のことですよ。明主様が、私の身と私の先祖というのは罪が多い、だから、神様の絶大なる寛大さをもってお赦しいただきたいのですという御歌ですね、これは。明主様は神様に赦しを乞うに乞うてますね。 今日拝聴した聖書(「ローマ人への手紙」第3章9節~31節)にも、「義人はいない、ひとりもいない」とありますね。我々が神様から言われているのは、「義人はいない、ひとりもいない」、そして、「善を行う者はいない、ひとりもいない」、ですよ。神様の御目から見たら、善を行う者は一人もいないし、神様が義と認めることができる人は一人もいない。 「神を求める人はいない」。誰も神様を求めてないんですよ、全人類例外なく。他人に対してなにか誇れるところがあるのか、なにか勝っているところがあるのか、絶対に無いと、そう書かれていますね。 我々は口を使ったとしても、人を罵ることとか苦い言葉しか言わない。人を批判するようなことしか言わない。また、足は血を流すのに速いというように、すぐ誰かを殺しちゃうということですね。我々は、神様からいただいた栄光の体を、人を殺すためにしか使わないということ。 また、平和の道も知らない、神に対する恐れがないと聖書に書かれていましたが、平和の道を知らないのに、世界平和を願いようないですよ、本来は。自分の思い描く世界平和はあるかもしれませんけれども、人間では平和の道は本来分からない。 というように、義人は一人もいない、善を行う者は一人もいないと言われてしまった我々はそれを克服するためにどうしたかというと、行いによる義を求めたわけです。行いによる義。 要は、昔で言えば浄霊、参拝、奉仕、利他愛、ですね。これしてます、献金してます、身魂磨きしてます、毎日浄霊してます、朝夕参拝してます、献金たくさんしてますということで、我々は、自分が他の人より勝ったかのような気分にすぐなってた。 しかも、自分がするだけではなく、他の人に対しても、あの人は毎日浄霊してすごいとか、あの人は毎日参拝してすごいとか言って、もう、行いによる義の世界ど真ん中でしたよ。要は、そのような営みを通して、自分を他の人と比べて少しでも勝った者としたいということですね。 でもここ、「ローマ人への手紙」でパウロが言っているのは、行いによっては神様の前では義とはされない(「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」「ローマ人への手紙」第3章20節)ということ。 義ということは、神様から、「よし」と言われるということですね。我々は、神様の御前に行った時、神様から「よし」と言われるのを、行いによる義でしようとしていたわけです。 自分は悪いことは考えません、一日一善、人にいいことしてます、挨拶ちゃんとしてます、分かりやすく言えば、あの子はちゃんと挨拶できてすばらしいねと、まさにそういう世界のことです。我々、今でもこの行いによる義の世界にどっぷり浸かってますね。 でもパウロは、行いでは神様の前では義とはされないと言っている。むしろ、神の義というのはキリスト・イエスの贖いによる血なんだと言っている。 つまり、あなた方はそもそも善を行えるような存在じゃないんだから、神の赦しを受けなければ、神様の御前で「よし」と言われることはない。あなた方は行いをしたことで何を誇れるのか、すべての人は平等じゃないか、すべての人は罪を犯したじゃないかと、そう言っている。だって、明主様ですら罪を犯したことを告白されてるんですからね。 しかし、もしそうだとしたら、律法はどうなってしまうのか。裁くなかれ、いいことしなさい、挨拶しなさい、人に優しくしなさい――そういうルールとか律法はもう無駄なのか、無効なのかと、そうパウロは私たちに問いかけていますね(「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか」「ローマ人への手紙」第3章31節)。 しかしパウロは、いやそうじゃない、むしろイエスの血を受け入れることで律法を確立するのであると言っている(「断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」「ローマ人への手紙」第3章31節)。 どういう意味でしょうか、これは。律法を確立する。どういう意味でしょうか。どうせ罪人で何もできないということだったら、もはや律法必要無いじゃないかということになりますけれども、パウロは、むしろ私たちは律法を確立すると言っている。 どういう意味かといったら、それは、「律法を与えていただきましたけれども、「できませんでした」ということが確定しました」ということですね。「私はできませんでした」ということが確定する、ということです。 だってパウロは、律法によっては罪の自覚が生じるだけと言っていますよ。普通我々は、律法を、自分の心や道徳を少しでも向上させようということのために使っていると思っていますけれども、パウロは、律法では罪の自覚が生じるだけだと言っている。 でも、当然そうですよ。「自分はできませんでした」ということを私たちは認めないといけない。裁くなかれと言われても、我々は裁くじゃないですか。この中で、裁かない人が一人でもいるんですか?人類の中で人を裁かない人が一人でもいるんですか?私は人を裁いたことは絶対ありませんと神様の前で言える人は一人もいないですよ。 ということは、今我々に残されているのは、神の義となるために、神様の御前に、「自分はどうしようもない存在です」とさらけ出すかどうかですね。私は世界平和を祈れるような存在ではありません、自分の口は苦々しいことしか言いませんし、自分の足も血を流すことにしか使わないような私でした、自分の心はもうどうしようもないんです、神様のことを求めていない私ですと、その自分を神様の御前に投げ出すかどうかを見ておられるわけです、神様は。 そこで明主様の御歌4首目。「浮草のところ定めぬ我心愁れと救ひませる主はも」。これも明主様の御歌ですね。神様のこともよく分からない、浮草のようにさまよっている自分の心を、神様は憐れと思われて救ってくださったという御歌です。 神様というか、「主」と仰せですね。明主様ですよ。明主様が主と仰いでおられる方がいるということです。だから明主様、ご自分を御前に投げ出されてるじゃないですか。 ここ、明主様は、行いによる義によって自分は救われたんだとは言っておられない。自分は神の御前に正しい存在だから主に救われたんだとは仰せではないですよ。 むしろ、浮草のようにふらふらして定まらないような自分の心を主が憐れんでくださって救ってくださったと、そう仰せです。「きみ」は「あなた」ということですね。ということは、明主様が主として仰ぐ「あなた」がいるということ。で、この「あなた」はね、イエス・キリストですよ、間違いなく。人類の罪を贖ったイエス・キリストです、間違いなく。 明主様は、イエス・キリストの贖いをお受けになっておられた。お受けになったというか、明主様のこの4首目の御歌での書かれ方は、神様が一方的に救ってくださったと、そういう感じですね、むしろ。 明主様ご自身が、「お受けします」という意思表示をされたというより、むしろ、それすらもできなかったけれども、神様がそんな自分を憐れんでくださって、一方的に救ってくださったと、そう言われていますね、明主様は。ということは、これは、恩寵ですね、恩寵。「アメイジンググレイス」の「グレイス」。恩寵。 「グレイス」という言葉の意味は、本当はそれをいただくのに値しない存在なんだけど、神様が一方的に与えてくださる恵みということです。だからこれが、「アメイジンググレイス」ですよね。ですので、この4首目の御歌は、計り知れない神様の恩寵について詠まれた御歌です。だって神様は一方的に明主様を救ってくださったわけですから。 だから、明主様というご存在は、すでに神様の前では義とされてるんです。だって明主様は、行いによる義じゃないんですから。むしろ、「あなたは自分がもうどうしようもない存在だというのを認められたね」と神様に言っていただいて、「じゃあ救ってあげるよ」となられた。 だとして我々は、自分の心は今どういう状況なのだろうか。神の前に義とされているだろうか、「よし」と言ってもらえてるだろうか。 我々は、いろいろですよね。というのは、この世の中は行いによる義を非常に強調した形で来ますのでね、だからフラフラフラフラしてますね、私たちの心は。で、結果、神様から「よし」となかなか言っていただけなくなっている。だって自分の中で決めてないからね、まだ。 明主様はご自分を罪人と認められた。神様に、明確に、「私の罪をお赦しください」と言われて、そして、もう罪赦された者となった。 だから、我々自身もそれをはっきりさせないと、我々はすぐ自分を客観者の立場に置いて、世の中良くなったらいいな、世界平和が来たらいいな、あの人はあんなことをして、になっちゃいますよ。 確かに我々自分の生きざまはいろいろですよ。我々自身の生きざまはいろいろですね。いい面もあるし、悪い面もある。だけど、やっぱりね、それを超えて、「私の罪はもう赦されました」としなきゃいけない。というか、まず、自分が罪人であることを認めなきゃいけないですね。認めた上で、「もうお赦しいただきました」と宣言しなきゃいけない。 生きざまのほうを主体としていれば、一生中途半端なままになりますよ。自分はいいところもあるし罪人的なところもあるなという感じで、もうずっと行っちゃいますよ。だから僕は、そう考えた時、「世界が平和になりますように」、じゃないと思うんですよ。そうではなくて、「もう世界平和は成し遂げられました」、これですね。「世界はもう平和になりました」、これですね。 よく、「世界人類が平和になりますように」みたいなカードを街中に貼るということをされている方々がいるけれども、我々は、「世界平和はもう樹ち立てられました」、これですね。 だって我々は、たとえ自分の生きざまがいろいろであったとしても、「私の罪は赦されました」と宣言するわけでしょう、神様に。そうですよね、当然。そうでなければ、一生、いつか自分の罪を取り除いていただけるのかな、の世界に生きていくだけですからね。世界平和来ないかな、平和活動をしなければいけないな、というだけの世界。 でも、明主様のご発想というのは、「感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶとは正に真理だ」、これですよね。感謝が感謝を生むわけです。明主様聖言「人間は想念次第」(1949年9月3日)。 そして明主様は、「喜べば喜び事が来る」、これですね。「喜べば喜び事が来る」。喜び事が来たら喜びなさい、ではないんですよ。世界平和が実際に来て、わぁー世界平和が来た、だから喜ぶ、じゃないんですよ。喜べば、ですから、世界平和が成し遂げられる前の段階で、「世界平和は成し遂げられています」と喜べば、実際に世界平和という本当の喜び事が来ると、そういうことです。 リンゴの種を蒔いたらリンゴの実ができる。ニンジンの種を蒔いたらニンジンの実ができる。感謝の種を蒔いたら感謝の実がなる。世界平和は成し遂げられてますという喜びの種を蒔いたら、世界平和の実が結ばれる、そういうことです。 リンゴの種を食べてもおいしくはないですよ。種はおいしくない。だから、一緒じゃないですか。「喜べば喜び事が来る」という時、まず喜んでいる時にはまだ喜び事は来てないんですから、味としてはまだ味わってない。おいしいという味は味わってない。でも明主様は、「まず喜びなさい」と仰せになっている。 そうなんですから、世界が平和になりますように、という祈りでは一生世界平和は来ないんですよ。「世界平和はもう来ました」の種を蒔かない限り、一生世界平和の実はならない。 なぜなら、神様からしたら、あなたは認めないんだな、私が絶大なる力をもって完璧な世界をもう二千年前に確立したことをあなたは認めないんだな、となりますから、人間にとって喜ばしいことは起きてこない。 でも、これこそが神様を忘れた姿じゃないですか。世界平和が来てほしいというのは、神様が寝てるという見方ですね。神様、起きてください、起きて、介入して、この世界をすばらしい世界にしてくださいという見方。神様を忘れてるのと同じですね、この姿勢は。 そんな姿勢であれば、じゃあまだまだ悪いこと起きますよ。世をあげて忌まわしいことどもがどんどん起きますよ。だって神様からしたら、あなたは私の力を認めないのかとなりますからね。 じゃあね、世界平和の種を蒔くからといって、世界平和実現のために一日一善とか、利他愛とか、隣の人と和の状況を作り出していこう、それが世界平和の種を蒔くことになるんだとなったら、これはまた行いの義の世界に戻っちゃいますよ。でも、我々が求めているのは行いによる義ではなく信仰による義ですから、「信じる」ということ、ここがポイントですね。 だから、世界平和の種を蒔くということはどういうことかというと、「神様は世界平和をすでに成し遂げておられたんですね。それを信じます」という種です。世界平和は実現されました、ありがとうございます、喜びます、ということですね。というように喜べば喜び事が来るんです。喜べば、ですよ。 本当は、神様は、ずっと昔、天上の時に完璧なものを用意されて、もう我々の罪を赦すことも決めておられた。神様は、一番最初から我々の罪を赦すことは決めておられたんです、自分の愛する子供なんですから。 そして、世界平和という言葉にもあるように、すばらしい理想世界をこの地上に造ることも決めておられた。そしてその神様の業は、もうね、二千年前全部完結したんです。ずっと昔神様が天上で定められたみ業は、二千年前、イエスの十字架とペンテコステの聖霊が降ったことで、もう勝負あったんですね。 だから、それが夜昼転換ですよ。夜昼転換。明主様は、二千年の時を経てそれを感得された。だからもう、すべて終わった話です。これからじゃないんですよ。 だから今、世の中は、「喜べば喜び事が来る世界」になってるんです。そういう法則になっている。 だから、まず喜ばなければ、喜びの人生は一生来ないんですよ。もう成し遂げておられたんですね、喜びますとすれば、その法則の力が働きますから、自分の人生に具体的に喜ぶことが起こりうるんです。 そしてこれがなかなか難しいんですね、我々には。というのは、我々は経過の世界に生きてますから、そうすると、今私が話していることは、この人何言ってんだ、になるわけです。 で、この世でまともとされているのは、世の中戦争があるから外交努力しようとか、あの人たちは世界平和のために活動しててすごいとか、そういうことですね。それがこの世の常識になってしまっている。でも、本当は、全然違う神の常識があるんです、神の常識がね。 私は、「愛の翼」の歌詞で、「何度倒れても何度でも立ち上がる」と書かせていただきました。また別の機会で、私は、倒れることを恐れないほうがいい、むしろ立ち上がれなくなることを恐れなければならないと、そういうことも言ったことがあります。 でも、そもそも、我々のために倒れてくださった方がいるんです。我々のために倒れてくださった方がいる。だから、「何度倒れても何度でも立ち上がる」というのは、確かに、なにかね、そのような言葉で自分を鼓舞して、人生のいろんな逆境に立ち向かっていこうというそういう趣旨もありますよ。そういう表面的な意味ももちろんある。だけど本当は、このような歌詞を通して我々は、我々のために倒れてくださった方、そして、我々のために立ち上がってくださった方がいる、その方を思い出さなきゃいけないと、そういうことですね。 で、それは誰かと言ったら、当然、イエスですよね。イエス・キリスト。だってイエスは、倒れて、死んで、結局そのままもう一番下の死の世界まで行かれたじゃないですか。我々のために倒れてくださった。 十字架を背負ってゴルゴタの丘に行く時も、文字通り倒れて、助けてもらったりということもあったんですよ。こういう一つひとつのイエスの事蹟というのは神秘ですね、神秘ですけれども、イエスは倒れて、黄泉の世界である一番下の世界まで行ってくださった。でも倒れただけで終わりではなくて、立ち上がられたじゃないですか。だって死んでから3日目に復活されて、永遠の命を獲得されたわけですからね、イエスは。 というように、我々のために倒れて、立ち上がってくださった方がいるんです。 そうは言っても、我々の人生は苦難の連続ですよね。倒されて、いやなんとかがんばらなきゃいけないと自分を奮い立たせて立ち上がる、というように、一日一日が戦いですよね。朝起きることすら気が重い時もたくさんありますね。立ち上がる力がいただけるだろうかというくらいの時もありますし、結果、立ち上がれずに自殺されちゃう方もいますね。自殺されちゃう方もいる。 それくらい、我々の人生というのは苦難の連続ですね。でもこれは、ただ自分の戦いのためではないんです。戦って戦って、なんとか自分の人生を全うするということのためではないんです、本当はね。 人生において苦難に出会う。倒れたり、立ち上がらなきゃいけないと思ったり、とにかくいろいろ降りかかってくる。そういう時、がんばることも大切なんだけど、本当は神様が我々に何に気づいてほしいのかというと、「あなたのために倒れた方のことを思い出しなさい」、ということなんです。 人生で倒れた、苦労している、立ち上がれない、その時に神様は、あなたのために倒れた方がいるじゃないか、その方を思い出してほしいんだと、そう仰せなんです。 また、いろんな苦労があったけれども、逆境に打ち勝って立ち上がりました、みたいになると、普通これが、人生の後半になると、だんだんその生きざまを誇るみたいになりますよね。 自分は今こういう事業をして成功しているのはあの時の失敗があったからだ、みたいなことで、これは世の中ではもう普通の考え方ですね。でも本当は、それも、我々が倒れても立ち上がることができたのは、我々のために立ち上がってくださった方がいたからなんですよ。 だから本当は、私たちの人生のすべての営みというのは、たとえそれがどんな営みであったとしても、最終的には、イエス・キリストという存在に集約されるわけです、はっきり言って。 もうイエス一人に集約される。 我々は、何を経験しようと、我々のために倒れ、そして立ち上がってくださった方を受け入れるのかどうかということを常に問われてるんです。人生においてのすべて、毎日の営みすべて、宗教的文脈と関係あろうが無かろうが、すべての出来事がもうその一点に集約されるんです。だから、我々が次のステップに行くためには、イエス・キリストという存在を受け入れるかどうかにかかってるわけですね。 今日の明主様御歌の6首目、明主様は、「きよめる」という同じ言葉を2回使っておられますね。「村肝の心を浄め醜の世を清むる業の人となれかし」。 自分の心を浄めて、その上で、この醜い世を清める業の人となりなさいと仰せです。「きよい」という同じ言葉が、違う漢字で使われていますね。 我々は今まで、この1、2句目のほうだけはよく知ってるんですね。心を浄めなきゃいけない、心を浄めていい人にならなきゃいけない、善行しなきゃいけない、一日一善、人にいいことした、なかなかできなかった、がんばろう――ずっとこれをしてきたし、している。自分の心を浄めることばかりに意識がいってるんですね。自分、自分、自分ですね。自分、自分、自分。 でも明主様は、もうそれは終えて、次のステップに行きなさいと仰せになっている。自分の心は浄めてしまって、そして、その上で、醜い世を清める業の人になりなさいと仰せになっている。 我々は、どっちを望んでるんですか?我々は、もう、ずっと1、2句目のほうばっかり望んでますよ。自分の心が浄くなりたいなぁばかり望んでいる。世の中の罪を犯した人を見て、あの人あんなことしちゃったんだな、自分は悪いことしないように生きていこうと言って、善悪の優劣の世界を自分の中に作って、そして、自分はあの人よりはちょっとはましだということで生きている。 でも明主様が仰せなのは、あなた方はもう浄めてあげたんだから、醜い世を清める業にお仕えしなさいと、そういうことなんです。清める、ということは、掃除しなさい、ということですよ。 だって明主様は、洗い浄める時が来たと仰せじゃないですか(「人の世の塵も芥も残りなく洗ひ浄むる時ぞ来ぬめり」)。洗い浄めなさい、ですよ。塵と芥。芥はごみという意味ですけれども、それらを残りなく洗い浄めなさい、埃とかごみとかを残りなく洗い浄めなさいと仰せです。だから、「掃除しなさい」ですよ。明主様は、あなた方は世の中を掃除しなさいと仰せなんです。 それなのに我々は、自分のことばっかり見てますよ。でも我々の使命は、残りなく掃除すること。残りなく、ですから、そこら辺をちょっと軽く拭くぐらいじゃ終わらないですね。表面のところを掃除機ちょっとかけたぐらいでは終わらない。残りなくきれいな状況にはならない。 残りなく浄める、掃除しなさいということは、最後残っているのは、長年手つかずの、しつこいベトベトの、どんな洗剤を使っても取れないような、そんな汚れですよ。 だから我々の心はいろんなところに遣わされるんです。ものすごい嫉妬心とかですね。神様は、「あなた方は、そういう、誰も掃除したくないところに行って掃除せい」ということで、我々の心を誰も行きたくないところに連れて行ってくださって、だから我々はいろいろ思わされるんですよ。 優越感だったり、劣等感だったり、怒り、不安、焦りとか、それはそうですよね。だって今残っているのは本当に一番汚いごみですよ。一番汚いごみが残っているところをメシア教の人たちは掃除しなさいと、そうなってるんですからね。 それなのに、それを自分の心の問題だとしたら全然醜の世を清めるほうにはならないじゃないですか。掃除しなければならないのに、ずっと、これは自分の心の問題なんだ、よりいい人になりたいで終わってしまっている。でも、「よりいい人」なんていないんです。だって、善を行う者は一人もいないんですよ。だから、無理なんですよ。だとしたらその道は諦めて、むしろ、その自分を神様の前にさらけ出せば、そしたら、じゃああなたをこの醜の世を掃除するという役目に使ってあげますよということになるわけです。 自分の心を見たらすぐ分かるじゃないですか。バラ色の思いではないことはすぐ分かりますよね。いや、確かにバラ色になることは望んでますよ。バラ色になることは望んでいる。でも、やっぱり我々には果たさなければならない使命があるわけです。 だって、冒頭に話したごみ収集車、ごみ掃除する人たち、あの人たちがいなければ街はごみであふれますね。実際、そういうのが機能しなくて、街中ごみだらけという場所も世界にはありますよね。 というように、もし我々が自分の心ばかり見るとか、もうこんな思いしたくないから掃除の業にはお仕えしたくないとすれば、その残ったごみはどうなるのかというと、当然、霊主体従の法則によって地上に現れて、で、このよく分からない世の中はずっと続いていきますね。だから、皆さんお一人おひとりにかかってるわけです。 ごみ収集車、汚れ仕事ですよ。近くを通ったらすごい臭いしてますよ。人類が出すごみの臭いですごい臭いしてます。でも、そういう方たちがいなければ大変ですよ、街中臭くて。 だから、そのような仕事をされている方についてどう思うかって、まず、当然、感謝はしますよね。だって、自分がごみにあふれた街で生活することのないように、ごみ収集車の方が汚れ仕事を買って出てくださって、毎日、毎日、毎日、毎日ごみを回収し、掃除をしてくださっている。 だから、それへの感謝、ありますね。感謝しなきゃいけない。これは当たり前の話です。でも我々は、そこで終わってはいけない。自分自身の掃除の使命を思い出さなければいけない。 我々は、ややもすると、自分はあんな仕事じゃなくて良かったなとか、すぐ自分を他人の上に置こうとするし、また、汚れ仕事を避けようとしますね。でも、そんなの卑怯じゃないですか。一部の人にそういう汚れ仕事をさせて、その上で自分を正当化するのは卑怯ですよね。 それに、我々はどこか誇れるところがあるんですか?ごみ収集の仕事を現実的にしてないからといって誇れるところは一つも無いですよ。 ですので、そのように自分を優越したところに置くのではなくて、この世でごみ収集をされる方がおられるということは、本当は、「ああ神様は、私にごみ収集というような、この世をきれいにする掃除の御用を願っておられるんだな」ということも思わなきゃいけないなと、私はそういうことを思ったんですね、毎朝ごみを収集する車とすれ違うことを通して。 というように、掃除をするというのは我々の使命です。 それが病気という形もあり得ますよ。病気。今日の明主様の御歌7首目、「病とは身魂浄むるものなれば此上なき神の恵みなりけり」。 病気になったら、我々の普通の受けとめ方としては、良くなりたいな、とか、病気になんてなりたくないな、ですよ。でも本当は、病気というのも今お話ししている掃除の御用なんですよ。 病というのは、神様が私たちの身体を通して清めの業をなさっているということなんですよ。どんな病気も、ですよ。 明主様は、どんな病気も神様の清めの業であるという神様への絶大なる信頼がおありだったから、だから医学に頼らないということになったわけです。その神様への信仰がおありだったからです。だから明主様は、病は絶対に悪いことではない、いいことなんだと受けとめられた。 だって、病というのは、「此上なき」神様からの恵みなんですよ。「此上なき」だから、これ以上ない神の恵みなんです、病気というのは。「此上なき神の恵みなりけり」、ですから。神の恵みの最上級のものが病気だということです。 だから明主様は、病気になっても絶対大丈夫なんだという信念によって、医学を受けなくてもいいんだと受けとめられた。 だから僕はね、確かに、ま、西洋医学はこれからどんどん発展するでしょう。薬もどんどんいい薬ができていくだろうし、どんどんどんどん発展していくのは間違いないけれども、でも、僕は同時に、科学は、人間という存在がどれだけすばらしいかということも証明し始めると思いますよ。 神様が創造されたこの人間の身体、これがいかにすばらしいか、これも証明しだすと思いますよ、科学は。 薬とかワクチンの比ではないほど、神様が創造された人間の身体というのはこんなにすごいんだということも必ず証明されていくと思います。 だって明主様から言わせれば、「人間の肉体は神の最高芸術品」ですからね。 人間の身体は神の最高芸術品。だから、その視点から言えば、薬もワクチンもどうだっていいんですよ、本当に、そんなのね。どうにもならないですよ、本当は。というくらい人間の身体がすごいということは私は証明されていくと思いますよ。 こういうことを言うのが問題発言だということは十分理解しているけれども、でも、やはり、人間の身体を造られた神様への信仰と、そして、医学と断固戦われた明主様のご人生というのは忘れてはいけない。医学とどのように関わるか、薬やワクチンについて実際にどうされるかというその選択は、皆様一人ひとりに託されてはいますけれどもね。 また、病と言っても、いわゆるガンとかそういう病気だけではなくて、心の問題もありますね。特に病気になったあと、ずっとありますよね。治りたい、良くならないかな、なんで自分だけという思いが出てくる。 特に、改善の見込みが無い病気とか不治の病だと、もうずっとその思いを抱えることになりますね。 本当に、その御用を担うのは大変なことだけども、そういう思いが湧いていることも、本当は、掃除の一環として神様がお使いくださっているんですね、我々の心を。 自分の都合のいいようにずっと生きてきた長年の人類の不調和な状況を、神様が、人間の心というものを使って集めておられるわけです。掃除機でごみを吸い上げるかのように、集めておられる。掃除機で集めてるものが我々の心の状況なんですよ。神様が集めておられるんです、だって神様は掃除しておられるんですから。 今私がお話しさせていただいていることは、本当は、大変な真理なんですよ、これはね。でも、この真理を知ったからといって、見た目的には一緒ですよ。自分の人生が変わるのかといったら、変わることもあるし、変わらないこともある。 でもそれを超えて、今まで自分は自分のために生きてたのが、これからは文字通り神様のために生きるか生きないかという、その差です。でも、神様のために生きるからといって、実際に自分が心で感じることとしては変わらないですよ。 でも、その感じさせられたことを、自分の向上のために使うのか――もっと良くならなきゃいけないから身魂磨きしようとか、もっと献金しようになるのか――それとも私の心というのは神様が人心を集めて世を清める業をしておられると受けとめるのか、そのどちらかなんです。だからこれは、大変な真理なんですよ、真理。真実であり真理。 今回の教団浄化がありまして、人によっては、岡田家の家宝といえば美術品じゃないかと思われた方もいると思うんですね、文字通り国宝とかもありましたから。だけど、僕は、岡田家の家宝というのは、「真理」だと思いますね。明主様から教主様に伝わっている真理。 で、この真理というのは、どんなにお金を積んでも買えるものじゃないんですよ。どんなに勉強しても、どんなに『聖書』を読んでも、どんなに明主様の聖言を一生懸命拝読しても、そして、どれだけお金を積んでも、決して神様の真理は手に入れることはできない。 なので僕は、もし岡田家に家宝があるとしたら、明主様から継承されている真理、今私が皆様にお話ししている真理だと思いますね。 このたび、教主様と私のほうで話し合いまして、教主様も、私を教主代行と定めたというご自分のご意思を重く思われまして――代行ということは代わりに行うということですから――この祭典を期して、月次祭同様、大祭の場においても、信徒の皆様にお話をするのはこれからは私だけということにさせていただきました。 だけど、関係無いんですよ。というのは、たとえ教主様と私の表現が違っても、筋は一緒ですからね。教主様の表現のされ方と私の表現の仕方――スタイルというのかな――に差があっても関係無いんですよ、同じ一本の筋ですからね。 イエス・キリスト、明主様から流れてきている筋、ビジョンがあるんです、神様の。だからこれからも大丈夫なんです。そして私たちは、今もこの一本の筋によって導かれているし、我々はその一本の筋のもと、汚れ仕事をしたいかどうかですね。自分はまともな人間なので掃除なんてしたくないというなら、それは、その方が目覚められる時期を待つということにはなりますね。 でも、たとえ嫌でも、我々の仕事は、世の塵と芥――ごみですね――を残りなく洗い浄めることですからね。つまり掃除が仕事です。 で、私は、ここ、明主様の御歌、「残りなく」がキーワードだと思いますね。だって、残りなく掃除するということは、「最も汚い場所に行きなさい」ということですね。最も汚い場所に行きなさい。しかも、最も汚い場所が一番掃除を求めてますよね。掃除されるのを求めている。 だから、世界メシア教というのは汚れ仕事をする宗教です。最も汚い場所に行くのが我々世界メシア教。最も汚いところに救いの光をもたらすのが我々世界メシア教です。別の言い方をすれば、最も低いところまで行く宗教ということですね。 でも、最も低いところまで行くということは、それは、救いのとどめを刺すということでもありますから、最も低い宗教であると同時に、最も低いところまで行ける宗教というのは世界最高の宗教ですよ。だって、最も汚いものをきれいにするのが最高の宗教ですよね。もうどうしようもないところを救えるのが最高の宗教ですよ。 だから、世界メシア教というのは、汚れ仕事を買って出て、最も低いところまで行く宗教にして、であるからこそ、であるがゆえに、世界最高の宗教でもある。 だから皆様は、そのすばらしい御用に今お使いいただけるんです。自分の心にその汚いものがあるじゃないですか。しかも、この救いは誰にでも言えますよ。 つらいね、つらいねと話を聞いてあげる。でもそれだけではなくて、そこをあなたは掃除しに来てるんだよ、それが最高の御用なんだよ、ごみ収集の人がいなければ世の中回らないじゃないかと、そう言わせていただけるんです。 だから、メシア教の皆様がこの御用を放棄されたら、世界中もう大変なことになりますよ、本当はね。だって、ごみを収集してくれる人がいなければ世の中大変になりますからね。だから、理想世界出現のための皆様お一人おひとりの使命は計り知れないんですね。 しかもこの御用は、今すぐ、偉くなくても、お金が無くても、どんなにみすぼらしい格好をしてても、病気をしてても、誰でも、できるんです。今すぐ、ですよ。 ああ、自分の今の心の苦しみ、ここを自分は掃除しに来たんだな、でいいんです。しかも、難しい言葉を知ってなくていいんです。「メシア」という言葉さえ知っていれば、もうそれに全部入ってますからね。 イエス・キリストも使ったメシアという言葉、ユダヤ人がずっと使ってきたメシアという言葉、明主様も使われたメシアという言葉。これにもう全部入ってるんです。だから、難しいこと知らなくていいんです。「メシアの御名をお受けします」で、もう終わりですね。そしたら神様は、「メシアという名前を受け入れるなら分かった」「じゃああなたを掃除する御用に使ってあげるよ。心の汚れを掃除してあげるよ」ということで、このような営みが、霊主体従の法則によって、すばらしい世界を造っていくんです。 だから、この営みを神様は今されてます。神様は今、掃除されてる。 私たちはどうするのか。要は、親であるこの神様の手伝いをしたいかどうかだけですよ、我々に残されているのは。 神様がずっと掃除されてるのを見て、ああ、じゃあ掃除してくれるならいいやということで自分はずっとテレビ見たりゲームでもして過ごす一生で終わるのか、それとも、自分も神様のお手伝いをさせていただきたいのです、メシアという名前が大切なんですね、じゃあ今、隣人のことをこういうふうに思ってしまってることとか、病気で心がふさいでどうしようもないとかいうことについて、「ここを掃除しに来たんだな」ということで、神様に対して、「メシアの御名にあってよろしくお願いします」、でいいんですよ。そしたら神様は、「それが一番の親孝行なんだよ」と言ってくださるんです。 だって我々、小さい時、親が全部掃除してくれてましたよ、家を。してくれてたじゃないですか。掃除機かけたり洗い物してくれたりというように、洗い浄めてくださっていた。 大人になった今も、ずっと子供のままで、じゃあ自分は寝てよう、二度寝しよう、どっか遊びに行こう、で自分の人生進んでいくのか、それとも、今神様から賜ってる絶大なる救い――だって、浮草のところも分からない我々の心を憐れんでくださったんですよ、神様は、もうあなたは救ってあげたよと仰せくださっている――に思いを馳せ、「親孝行させていただきたいのです」と思わせていただければ、それはその人の人生は変わりますよ。人生変わる。具体的に変わりますよ、これはね。 一人ひとりケースバイケースで、簡単には「こう変わります」とは言えないけれども、でも変わりますよ、絶対に。いろんな難しいことが、栄光の道、喜ばしい道に必ず変わっていきます、親孝行をしようとすればね。だって神様は私たちの親であって、親は子供の喜ぶことがしたいんですからね。 だから私たちは、これからも一生、子供のまま甘えて生きていくのか、それとも、親孝行しますという人生を生きていくのか、それを決めないといけない。このような決断が我々の人生の幸せに大きく関わってくるんですよ。幸せ。親の幸せ無くして子の幸せはあり得ないじゃないですか。 だからまあ、最高の救いを託されてるのがこの世界メシア教ですね。 で、メシア教においてはいろんな活動があって、歌を歌うとか、祈りもあるし、食のこともある。でもやっぱり、ヴィーガン食というのを甘く見ないほうがいいと思いますね、だってイエスが最後の捧げものなんですから。 逆に、子供の世代のほうがもう本当は先を行ってますよ。我が家も、ヴィーガンということに関して、子供が学校で親よりもはっきりしたスタンスでいるから、周りの先生とか友達とかで、「あ、自分もしたい」という人、出てきてますよ。ですので、「ミロクの世には人類は菜食になる」という明主様の聖言を甘く見ないほうがいいですね。 今日は2300人以上の方々が集ってますけれども、皆様お一人おひとり、高いも低いもないんです。我々はことごとく罪の下に置かれてるんです、今。絶体絶命なんです、本当はね。 だから我々は、少なくとも、ごみ収集車に出会った時くらい自分たちの使命を思い出させていただく。だって、ごみの収集というのは、最も汚い、誰もやりたくない仕事ですよ、本当はね。これ、間違いないですよね。ごみを集める仕事なんて誰もやりたくないですよ。ごみは臭いし、自分の服も皮膚も臭くなるし、誰もやりたくない。 それと同じで、この、残りなく塵も芥も洗い浄めるというのも誰もやりたくないんです。そうなると、我々がするかどうかにかかっている。私たち一人ひとりがするかどうかにかかっている。 でもそれをさせていただいて、本当に、もうとんでもないきれいな世界を造るというのが我々の使命なんですね。だから、そのような宗教に所属しているということを誇りに誇っていただきたいですし、でも、実際に自分の心がそういうところに遣わされる時というのは大変ですから、そういう時こそ我々にはこんなにいっぱい仲間がいるんですから、共に手を携えて、分かち合うものは分かち合って、励まし合って、一つの家族として、世の中を掃除して、最高の世界を造るということを、共に、勇気をもって行ってまいりたいと思います。 ありがとうございました。 (真明様、コーラスのあと突然舞台に上がられて聖言をお宣べになる) 歌わないので、大丈夫です(一同笑声、一同拍手)。歌わないんだけど、今、下で「上を向いて歩こう」と「愛は勝つ」を聴いてまして思ったのは、我々は長い間、自分の人生は独りぼっちなんだと思って、上を向きながら泣いて歩いてきたと思うんですね。 だけど、今男性の方が歌ってくださったように、「最後に愛は勝つ」ということで、勝ってくださったんですよね。イエス様が二千年前に勝ってくださって、そしてその喜びを歌いあげたのがヘンデルの「メサイア」。 我々はずっと独りぼっちで、上を向きながらもう泣くことしかできなくて、いいことがあるといいなと思ってたところ、その「上」が来てくださったんですよ。上が自分の中に来てくださった。 だから、これからは、もう遠くの上のほうを向いて歩く必要は無いんです、だってこれからは一緒にいてくださるから。だから、我々はもはや独りぼっちではない。自分の中で愛が勝ったんですね。神様の愛が勝った。 だから、なんと言いますか、その愛が自分の中に満たされているということを確信したほうがいいですね。1個前の曲(「上を向いて歩こう」)の独りぼっちというところで自分の気持ちが終わらないようにしたほうがいいかなと思って、ということを言いたくて(一同拍手)。 (男性ボーカルの一人に)大切なマイク奪っちゃってすみません(一同拍手)。