PDFダウンロード:20260614_メシア降誕祭_真明様聖言_直球勝負!.pdf (拍手をお受けになり)ありがとうございます。 (この日は教主様と共に祭員を務められたことから、いつものように参拝席ではなく、舞台袖からご登壇になったことに触れられ)こっちから出てくるパターンはほぼ初めてですね(一同笑声)。パーテーションの裏で立って待ってたんですけれども、市岡さんのピアノを聴きながら、このまま10分、20分ぐらいの曲にならないかなと思って(一同笑声)、と思ったら1分半ちょっとで終わっちゃいましたので、「出番来た」と思って、がんばって出てきました(一同笑声)。 祭典の前にトイレに行ったんですけれども、ちょうどコーラスの方たちと同じタイミングになりまして、女性トイレは20人から30人ぐらい並んでまして、男性は10人ぐらい並んでたかな、で、僕も教主様と一緒に並んだので、8番目と9番目ぐらいになって(一同笑声)、コーラスの方々が、すいません、すいませんという感じになりまして、その時、なんか、「教主様」とか「真明様」とかになっても、結局人間は「食べて、出して、寝る」(一同笑声)ということだなと思って(一同笑声)、「食べて、出して、怒って、泣いて、笑って、寝る」、これはもう一緒だなと思って、人間は最終的には結局そういうことになるなみたいなことをなんとなく思ってました。 でも、コーラスの皆様、祭典の始めで非常に緊張したと思うんですけれども、歌っていただきまして、ありがとうございました(一同拍手)。 我が家の近況でもないんですけれども、今月の6月6日、妻と神静教区の持ってる飛鳥水田というところで田植えをしまして、田植えは今年が2回目で、去年初めて田植えをしたんですね。 今となっては時効というのか、その時は誰にも言わなかったんですけれども、去年九州に行きまして初めて田植えをした時、ブーツとかは使わず裸足でしたんですね、裸足で入ると気持ちいいですし。 で、最初に裸足で泥に足を入れるじゃないですか。入れる。その入れた瞬間になんか噛まれたみたいな感じになったんですね(一同笑声)。右足の甲のあたりが噛まれたというかチクッみたいな感じがして、で、なんか痛がゆいみたいな感じだったんですけれども、初めてだからこういうものなのかなと思って(一同笑声)、あと、言ったら、「いや普通そういうもんですよ」(一同笑声)とか、「そんなことで弱音吐いてるのか」みたいになるとかっこ悪いじゃないですか(一同笑声)。だから何も言わなかったんですけれども、でも、今年は何も無かったから、だからあれはやっぱりなにかに噛まれてたんだなと(一同笑声)。 去年は、なんか痛がゆいなと思って家に帰ったらやっぱりちょっとプクッとふくらんで、1週間ぐらい痕が結構残りまして、かゆいなと思ってたんですね。そしたらちょうどこの時期って蚊が多いじゃないですか。だからかゆいな、かゆいなと思ってたら、ほとんど同じ位置に蚊に刺されまして(一同笑声)、踏んだり蹴ったりだなと思ってたんですけれども(一同笑声)、でもね、ここでちょっと真面目な話をしたいんですけれども、その時、確かに最初は、踏んだり蹴ったりだな、偶然こんな運が悪いことあるのかみたいに思ってたんだけど、そのあと、ああ、やっぱりきれいにならなければいけない汚い血が私の中にあって、だから田んぼに入った時に虫がパッと来てくれて、噛んでくれて、でもまだ清まらない、もうちょっと清めなきゃいけないということで、蚊も協力して血を吸ってくれて(一同笑声)、きれいにしてくれたんだなと思ったんですね。 そういうことって、本当は全部そうなんですよ。発熱というのも体内に余分な水分があって、これを出さなきゃいけないということで高熱とか発汗とか鼻水とか尿とかでその水を排泄してるわけです。 だから、すり傷なんて偶然みたいですけれども、本当は、そこの場所の汚い血が出なきゃいけないということで発生する。 骨折も偶然みたいだけど、すり傷のようなことで血がちょっと出るぐらいじゃもう間に合わない、清まらないということになると、骨折によってそこを思い切ってきれいにしなきゃいけないということも起きますね。もっと重篤だと、それこそ内臓の一部なんかを取らなきゃいけないということもあります。 まあ、そういう重い病気とかだと思いやすいけれども、実は、すり傷とか虫に刺されるというのも、偶然なんかではなく、虫とかも協力して我々の身体を清くしてくれてるんですね。 あと、普通はみんな薬を使っちゃうんだけど、本来、食によって内臓とかが汚くなった場合、やっぱり食で立て直して治してあげるということが身体に負担無い形かなと私は思います。 思いっきり話が逸れちゃいましたが、田植えの話に戻りますと、今年は、田植えしながら自分の中で、自分は宗教家だから、「田植えする宗教家」(一同笑声)だなと思って、このフレーズがちょっと自分でも気に入りました(一同笑声)、田植えする宗教家(一同笑声)。 でも、そんなことを思ってたら、明主様のことを思って、「明主様は田植えをされたことがあったんだろうか」とかそんなことを思ったりしながら信徒の方と一緒に田植えをしたんですけれども、でも、本来これは明主様の水田だから、明主様のみもとで、私も信徒の方々も、こういう、お米を植えるということをさせていただいてるんだなと思って、そう思ったら、なんかこう、ジーンとくる瞬間もありました。 でもまた、明主様の田んぼということはすなわち教主様の田んぼですから、ああ、今日は教主様が迎え入れてくださってるんだなと思って、その時にふと思ったことがあって、それは、これを言われた信徒の方はまったく悪気は無かったと思うんですけれども、ちょうどマミと私が飛鳥水田に着いた時、この方は私たちに向かって、「ようこそ」ということを言われたんですね。「ようこそ」と言われた。 だから、ああ、こういう言葉で迎え入れてくださってるんだと思ったんだけど、でもそのあと思いましたのは、ここの田んぼは教主様の田んぼで、僕は教主代行として教主様の代わりに行ってるわけですから、本来、「ようこそ」と言うのは僕だなと思ったんですね。 でも、僕がそういう意識をあまり持たずにその田植えの行事に臨んだので、本当はあなたの責任のもとでこの田んぼが存在しているんですよ、それを少しは思い出しなさい、信徒に対して「ようこそ」という思いをちゃんと持ちなさいと、それを教えてくれるためにこの信徒は「ようこそ」という言葉を発してくれたのかなと、そんなことを思いました。 なぜ私がこの話をしているのかというと、これは、教主様を追い出すに至った教団浄化と関係してると思うんですね。 どういうことかというと、要は、その信徒の方が「ようこそ」と言われたのは、普段信徒の方々が田んぼの管理をしてくださってますから、管理しているのは自分たちで、教主代行が自分たちの土地に来るみたいな感じになってそう言ったわけですね。だけど本来我々は、教主様に「ようこそ」と言ってもらう立場ですね。ここを間違えてはいけない。 でも、教団浄化が起こる前、教主様が聖地とか美術館とかどこに行かれても、もう完全にお客様扱いでしたね。本来元々は、教主様とか岡田家というものに全部属してて、それがいろんな法律の便宜上、名義は救世教名義にしようということにしてたんだけど、ひとたびそうなると、管理も自分たちがしてるんだからとなって、だんだん、自分たちが主体だというふうになっていったんじゃないかなと思いますね。 そうなると、教主様が聖地に来られるといっても、意識として、ゲストの方、私たちの聖地にようこそみたいな感じにだんだんなっていった。 それによって、本来聖地は明主様のもの、すなわち教主様のものであったのに、運営管理している理事会のものだとか、私たちのものだみたいになって、だからこれが、それこそ「ようこそ」の精神ですよね。教主様に対して「ようこそ」と言うみたいな感じになってしまった。本来は教主様に「ようこそ」と言ってもらわなきゃいけないのにそれが逆になってしまって、そのまま最終的に教団浄化の大揉めに突入しましたね。 我々も、神様から、目とか鼻とか口とかいろいろなものをお預かりしているけれども、やっぱり自分で使えちゃいますから、だんだん自分のものだと思って、神様からいただいているということとか、神様がいて初めて使わせていただけてるという思いが希薄になっちゃうと思うんだけど、やっぱりこの、筋というのかな、これは大切なことだなとちょっと思って、この「ようこそ」の話をしてみました。 もう一つの近況としては、みことの話。長男のみことは今3歳で、彼の保育参観会がありまして、僕は行かなかったんですけれども、妻のマミが行って、そしたら園の先生たちがみんなさかんに、マミに向かって、「みことくんものすごい食べますね」と言ってきました。みことには和菜食のお弁当を持たせているんですが、本当にご飯がぎゅうぎゅうに詰まってて、それを彼がものすごい勢いで食べるので、それで先生方はそういうことを言われたんだと思います。 その保育参観会は、午前中、園児のすることを見て、そのままお昼ご飯も親がちょっと見学するみたいな行事だったんですけれども、みことはいつものようにご飯を食べていくわけですが、やっぱり他の子供たちは少し違う。 そもそも園側がよそう量も少ないんだけど、そこからさらに「ちょっと減らす?」みたいなことで先生が聞いたりして、それでもあまり食が進まない。 そういう話を妻から聞いてて思ったのが、我々、周りに、「うちではお米いっぱい食べさせてます」とか、「ヴィーガンしてます」ということを言うと、だいたい、「うちはなんでも食べさせてます」とか、「バランスよく食べさせてます」「バランスが大事ですよね」みたいに、半分反論みたいな感じで言ってこられる方が結構おられます。 で、この場合の「バランス」というのは、いわゆる西洋から来ている「栄養バランス」のことだと思うんですね。それこそ、たんぱく質、炭水化物、脂質、ビタミンとかミネラルとかそういうものをちゃんとバランスよく摂ろうという西洋の栄養というものを基準とした「バランス」。今は、それが、「バランスいい食事」ということになってますよね。その基準の中で、「なんでも食べましょう」とか、「お肉も魚も乳製品もなんでも食べましょう。そうするといろんな栄養素が摂れますから」という感じになって、これがバランスという言葉の定義になってますよね。 でも僕は、食ということに関しては本来もっと大事な「バランス」があるんじゃないかなと思うわけです。それは、まず、自分が住んでる土地とのバランスがありますよね。自分が住んでいる土地とのバランス。あるいは、季節とのバランスもありますよ。 僕は、こっちのバランスのほうが本当は大事じゃないかなと思うんですね。自分が生きている土地と自分の身体が一体となっているのかどうかというバランス。 西洋のほうは、西洋科学の栄養素をもとにしたバランスですが、ちなみに、この西洋基準の「バランスのある食事」を日本人が信じてくれるのは西洋にとってはうれしいんですよ。だってそれは、本来西洋人のために作られたのに、それを日本人も信じるということになれば、西洋で作っている牛肉を輸出できる、小麦粉を輸出できる、西洋の国々も潤う、となるわけですから。 そうすると、日本人は、どんどんどんどんお米を作らなくなる。今までずっと作っていたお米作りを放棄して、輸入したお肉、小麦粉、パン、乳製品とかを食べて、それで、日本人がみんな口をそろえて、「バランスのいい食事が大事だ」と言うんですけれども、結果、日本人にとって大切なご飯をちょっとしか食べられなかったら、それ、アンバランスな食事じゃないかと思いますね、本来。 一見、栄養価的にはバランスがあるみたいなんだけれども、お米も食べられないようなら、日本という土地で生きている我々日本人にとってはアンバランスなんじゃないかと思いますね。 バランスがいいとか言いながら、朝からベーコンとかソーセージとかそういうものを与える。これは子供の腸に負担がかかる。だから結局お昼の時間になってもまだお腹すいてなくてお米がちょっとしか食べられない。あるいは、ミルク、チーズ、バター、ヨーグルトという乳製品を与える。パンにもだいたいミルクが入ってたりしますね。でも、日本人はそもそも乳糖不耐症といって、乳製品を消化する酵素というのはほとんど持ってないから、そうすると、子供の胃腸がすっきりしないので、気分もいまいちだみたいなことでお昼も大して食べられない。そんなのはバランスがいい食事ではないですよ、本当はね。 あと砂糖。この精製砂糖というのはパンにもヨーグルトにも蒸しパンにもヤクルトにも、もう全部に入ってる。ここで問題は、砂糖が血糖値を上げてしまうことではなくて、精製された糖分を摂ると血糖値がバッと上がるんですね、上がる。上がるとどうなるかというと、身体としては、血の中の糖分が多すぎるなと思うからインスリンを出すわけです。でも、精製されている糖分だから不自然にインスリンを出しすぎちゃって、今度は逆に血糖値が下がるわけですね、下がる。 そうすると、まず、精製砂糖摂取直後は血糖値が上がって極端に元気みたいになるんですけれども、そのあと、なんか不機嫌になったり、やる気が出なかったり、集中力が出なかったりするのは、それは、血糖値が下がって低血糖状況だからそうなるわけです。 その低血糖状態にいる子供としては、今度は血糖値を上げたいと思うわけですね。そうすると、本来ご飯とか野菜にも糖分はあって、それは正常な糖分のはずなんだけど、低血糖状態になってると、精製砂糖くらい血糖値を一気に上げてくれるものが来ないと血糖値が戻らないと本能的に感じて、だからご飯とか野菜を見ても、「これを食べても自分の低血糖は治らないな」ということを感じて、そうするとお昼の時間になってもあまりお米食べないなと思っていると、親が、「じゃあアイスクリームでも食べる?」というふうになる。これ、本当に多いですよ。 子供がお昼は大して食べずになんかグズグズしちゃってると、親が、じゃあアイスクリームでも食べに行く?とか、ドーナツとかチョコレートとか食べる?とかになって、それは子供もうれしいんですよ。だって、今の低血糖の状態を一気に回復してくれるだろうと直感的に思いますからね。だからお米を食べないんですよ。お米には健全な糖分があるんだけど、そういうのを食べても今の自分の不快感は解消されないと思って、結局、精製砂糖とかの強い糖分を求めちゃって、結果またお米や野菜を食べなくなるという、そういう悪循環のシーソーみたいなことになっちゃってますね。 でも、日本人はお米を食べるべきですね。やはり自分の住んでいる土地で採れるものを食べるというのが本当のバランスの良さだと思います。西洋が言っている「バランスのいい食事」を食べて、とか、「なんでも食べさせてます」とか言って、結果お米食べられなくなるなら無意味だし、それは実は「アンバランス」だなと思います。 この、お米を主体とした食事というのが、僕の訴えている「クリスチャンヴィーガン」であり「クリスチャンヴィーガン食」なんですね。 私が提唱しているクリスチャンヴィーガン食には2つの柱があって、それは、まず、今言った穀物ですよね、穀物。なぜクリスチャンヴィーガン食で穀物というかお米を推進しているのかというと、これは、ただ、お米が日本で育つからとか、日本人はお米を食べるべきだとか、そういうことではなくて、イエスが最後の晩餐の時、「これは私の体だよ」と言って弟子に食べさせたのはパンですよね。種無し(イースト不使用)のパンだから、いわゆる「マッツァ」というものなんだけど、とにかくパン。それはどういうことかというと、イエスが示したかったのは、穀物を使った日々食べる基本となる食事について、それを食べる時に私のことを思いなさいということですよね。中東においてそれはパンだった。 だから、クリスチャンヴィーガン食においてお米を食べようというのは、ただ健康のためとかではなくて、我々はメシアとして新しく生まれることを目指しているわけですから、日々の食事の中で、「復活したイエスの体をお受けします」「私も新しく生まれることができますように」という思いでお米を食べさせていただく。 という理由で日本におけるクリスチャンヴィーガン食においてはお米が大事なんですね。ちなみに、精米された白米じゃないですよ。三分づき、できれば土鍋で炊いたご飯。 だから、我々にとって、穀物を食べる、お米を食べる、ヴィーガン食をするというのは健康のためではない。クリスチャンヴィーガンというように、「クリスチャン」という言葉が付いてますから、だから信仰がもとなわけです。 2本目の柱はなにかというと、「神様は人間を養うためにそれぞれの土地と季節に合うものを用意してくださっていることを信じる」という点ですね。世の中では身土不二とか言いますね。身体と土が離れていない、ということですが、自然なことですよね。可能な限り自分が住んでいる土地からできるものを食べるということと、あとは、神様が、それぞれの季節に合う作物を用意してくださってるわけですから、それを信じる。 真冬に、それこそ、極端に暖かい環境を作って育てられた夏野菜みたいなのを食べるのはクリスチャンヴィーガン食ではない。だって当然、夏野菜は身体を冷やすために神様が用意してくださってるわけですからね。季節季節に合うものがある。夏野菜は身体を冷やすもの。トマトとかキュウリとか、そういうものですね。冬になったらにんじんやごぼうなどの根菜ですね。逆に春とか夏になって温かくなってきてるのに、にんじんやごぼうなんて食べるべきではない。元々神様がそれぞれの季節に合う野菜を用意されているわけですから、その神様を信じるのがクリスチャンヴィーガン食の2本目の柱です。 だから僕は、もし外国に行ったら、その外国の土地で食べている穀物(主食)と、その季節に採れる野菜のものを食べます。ヨーロッパとかに行って「ご飯、味噌汁」は食べませんよ、私は。だってそれは身土不二ではないですから。ですので、外国に行ったらその国のクリスチャンヴィーガン食をしますね。 それは、もしかしたら寿命的に見たら、ご飯、味噌汁を日本から持っていくとか、現地でこういう和食を調達するとかして食べたほうが日本人の身体に合って、それで長生きするかもしれないけれども、僕は、外国に行ったら、その国の人と一緒に、その土地のものを一緒に食べるというのが自然だと思いますね。僕は今日本にいるから、日本人が食べてきたもの、日本人が育ててきたものを食べるというのが自然なことだなと思って日本食をいただいています。 というようにクリスチャンヴィーガン食というのは大きく言ってこの2本の柱があるんですけれども、私は、この、「クリスチャンヴィーガン」という言葉が、なんか魔力があるかなと思うんですね、魔力。「なんか使いたいな」と思わせる魔力。 この横文字の感じと、あと、「クリスチャン」という言葉が、我々は普段新宗教ということでもう非難の限りを浴びてるけれども、「クリスチャン」だったら世の中で受け入れられてる言葉だし、ヴィーガンという言葉も、最近西洋から来た新しい言葉みたいな感じで、だから、皆さん、クリスチャンヴィーガンというワードを使いたくなると思うんですね。メシア教の信徒でヴィーガン食をしていると、「私、クリスチャンヴィーガンしてます」とか言いたくなる。 でも、例えば、日本にいて大豆ミートを使っているのはクリスチャンヴィーガン食ではないんですよ、だって今言った2本の柱からずれてきますからね。確かにヴィーガン食ではあると思うんですけれども。 でも、今の時期に「クリスチャンヴィーガン」という言葉を使うのであれば、その背後にある信仰とか、2つの柱があってのクリスチャンヴィーガンですから、やはり、「岡田真明提唱のクリスチャンヴィーガン」と、はっきり、「岡田真明提唱の」というのを加えることが大切なことだと思いますね。 そうじゃないと、みんなそれぞれの解釈で、それこそ大豆ミートとか、いろんな外国の野菜を使って作ったヴィーガン食を、「これはクリスチャンヴィーガンです」みたいなことを言い出して、そうなると、そもそもクリスチャンヴィーガンを訴えている張本人の私の願っていることと違う「クリスチャンヴィーガン」とか「クリスチャンヴィーガン食」が独り歩きしちゃいますからね。 だから今の時期は、「岡田真明提唱のクリスチャンヴィーガン食」とか、「岡田真明提唱のクリスチャンヴィーガン」というように、必ず「岡田真明提唱の」を付ける。キリスト農法についても、ただ無農薬無肥料でどうだということだけではなくて、ペンテコステの聖霊を信じるというのが土台にあっての農法ですから、そしてそれを訴えたのは私ですから、「岡田真明提唱のキリスト農法」という言葉を使うことが大切かなと思います。 相対性理論ありますよね。アインシュタインの相対性理論。で、今相対性理論といえば、みな、即「アインシュタイン」と思うじゃないですか。相対性理論という言葉を聞いたら、「アインシュタインのね」となるじゃないですか。 だから、もし僕がこのクリスチャンヴィーガンでノーベル賞でも取って(一同笑声)、クリスチャンヴィーガンという言葉を使った時、「あ、岡田真明のね」というふうに世界中でなったら、そしたらもう「岡田真明提唱の」は付けなくていいと思うんですね。だって、相対性理論はみんなアインシュタインが提唱したと知ってるから、別に、毎回、「アインシュタインの相対性理論」と言わなくてもいいじゃないですか。「相対性理論」と言うだけで、もうアインシュタインはすぐ連想されるわけですから。 だけど今、「クリスチャンヴィーガン」という言葉を「岡田真明提唱の」という言葉を付けずに使えば、「へぇ、クリスチャンヴィーガン?それ、なんかキリスト教の考え方?」みたいになりますよね。そしたらそのままクリスチャンヴィーガンという言葉とその意味が独り歩きしちゃいますでしょ?それはちょっとおかしなことかなと思いますね。相対性理論の計算式がちょっとずれちゃうみたいな感じですね、まあ、ちょっと変な例えだけど。 だから、僕がクリスチャンヴィーガンによってノーベル賞を取るまでは(一同笑声)、やはり皆様には、「岡田真明提唱のクリスチャンヴィーガン」とか「岡田真明提唱のクリスチャンヴィーガン食」と言っていただいたほうが、この言葉が独り歩きしないのでそっちのほうがいいかなと思います。でも、皆さんの、「岡田真明提唱の」を付けずに単独で使いたいお気持ち、なんか分かります。そういう魔力がこの「クリスチャンヴィーガン」という言葉にはあるなと僕も思いますね。 で、これは内緒なんですけれども(一同笑声)、だから誰にも言っちゃだめですよ(一同笑声)、皆さん。誰にも言っちゃだめ。これから言おうとしてることは誰にも言っちゃだめなんだけど(一同笑声)、今、実はですね、私、『クリスチャンヴィーガンに生きる』という本を書いてますから、本(一同拍手)。 『クリスチャンヴィーガンに生きる』。まだ仮称ですけれどもね。そして実は、もうほとんど書き終わりました。これからマミに読んでもらったりしようかなと思っているところです。ただ、出版してくれるところがあるのかどうか分かりませんけれども(一同笑声)、でも、今日政治家の先生たくさんいらっしゃってるから(一同笑声)なんとかしてくださるかもしれない(一同笑声)。でも出たら、皆さん買ってくださいね(一同拍手)。 クリスチャンヴィーガンを一般の人に知っていただくのに、一般書籍でお伝えするのが効果あるかなと思って、この数か月間ずっと秘密にして執筆していました。でもこれは秘密ですよ、秘密(一同笑声)。皆さんの中だけで留めておいてください(一同笑声)。 少しイエス様の話をしたいんですけれども、イエスをお受けする、とか、イエスを受け入れる、ということがありますね。こういう場合、普通、我々もキリスト教徒も、「イエスを受け入れるというのはイエスを贖い主として受け入れることだ」となりますよね。我々の罪を贖って、赦して、救ってくださったイエスをお受けします、ということになる。 でも僕は、それとは違う、イエスをお受けする本当のポイントというのがあると思いまして、これは先月も話したんですけれども、我々がこの地上に生まれる前の話のことです。 ずっと昔、地上ができる前、神様は最初、天国で無数の霊を生みました。そしてその時神様は、その無数の霊から最も良いと思われるものを一つだけ選ばれたんですね、選ばれた。それがだからイエスの御霊ですね。神様がイエスを選ばれた。 我々はその時のことは今覚えてないけれども、それ、見てたんですよ。天上で神様がイエスを選ぶのを見ていた。いや、本当に、「思い出したいのです」と願えば、その時の光景、神様から見せていただけるかもしれませんよ。思い出させていただけるかもしれない。全然覚えてないみたいに思っていますけどね。 しかもこれは、メシア教信徒だけに関わることじゃないんですよ。メシア教信徒が、「イエスを選ばれたのを信じます」ということではなくて、今日皆さんいろいろ未信徒の方もご案内くださっておられますけれども、この時のことは全人類が立ち会っていたんですから、信徒、未信徒関係無く、全人類は、神様がイエス・キリストを選ぶ瞬間というのに立ち会って、目撃してたんですね。目撃した。 で、僕は、もし「イエスをお受けする」としたら、神様がイエスを選ばれたこの瞬間をお受けしなきゃいけないと、そう思うわけです。 これ、簡単みたいなことですね。「ああ、今まではイエスを贖い主としてお受けしてたけれども本当はこっちが大切なんだ。神様がイエス様を最初選ばれた時のことをお受けします、認めます」とすればいいんだから簡単なことじゃないかと思うかもしれませんけれども、これ、そう簡単な話でもないんですよ。 なぜかというと、イエスを生み出すということを考えると、神様はそのためにユダヤ人を用意されましたね。ユダヤ人。ユダヤ人はイエスを生み出すために神様が用意された民族。ということで、イエスを地上に送る前、まずユダヤ民族を送って、で、そこでノアとかアブラハムとかがいて、結局ダビデ。そしてそのダビデの系譜からヨセフ。そのヨセフとマリアの間にイエスが生まれるということになる。 というように、神様の中で最も大事なのはまずイエスですが、次がユダヤ民族。これを聞くと、「ああそうなんだ」と思うかもしれませんけれども、結局この秩序を我々は受け入れられなかったんですよ。だって我々、自分が複数の子供の親であるとか、あるいは自分に兄弟や姉妹がいるとかの場合はよく分かると思うんですけれども、例えば親だったら、複数の子供がいたとして、一人だけを優先しませんよね。2人とか3人とか4人の子供がいたとして、そのうちのたった一人に、「私はお前を特別愛してるよ」とは絶対言わないじゃないですか。なぜかといったら、そしたら他の兄弟姉妹が傷ついちゃうから、だからそれ、やりませんよね。 だから、イエスを最初に選ばれた神様の御心とか、ユダヤ民族を受け入れるのは簡単そうなんだけど、実は我々は、神様がイエスを選んだとか、ユダヤ民族を優先されたとか、それが受け入れ難かったんですね。受け入れ難かった。だって、「なんで神様は自分のことを一番愛してくれないんだ」となりますから。 「いや、自分は受け入れられる」「受け入れてない証拠があるのか」と言われたい方もおられるかもしれませんけれども、証拠は、人類史を見ればユダヤ民族への迫害でもう明白じゃないですか。 最も有名なのは第二次世界大戦の時のヒトラーのナチス・ドイツですね。ユダヤ民族を抹殺しようとしたんですよ、地球上から。「Extermination(エクスターミネーション)」と言って、抹殺しようとした。その時ヒトラーは、ユダヤ民族よりも白人でブロンドのアーリア人種のほうが勝ってるんだと訴えたんですから、彼は神様の秩序に真っ向から戦いを挑んだわけです。いや、日本人もそういうのありますよ。日本民族がどう、大和民族がどうとか言ってますけれども、ユダヤ民族には絶対敵わない。 だから我々は、メシアであるイエスを受け入れたくないという思いもあるんだけど、そもそもイエスを用意したユダヤ民族も受け入れたくないというのがあるんですね。ユダヤ民族がなんか気に入らないという思い、これが潜在的にある。他の兄弟姉妹が自分の親である神様からより好かれてるというのが潜在的に気に入らないというのがある。 いや、実は、人類史というのは本当はこれに集約されるんですよ。イエスとユダヤ民族とメシアという名の周りで起きていることがすべてですね、人類史の。それを受け入れたくないということであらゆることが起きていて、派生していろんな戦争も全部そうなんですよ。だから、これを基準にして世の中を見ると、だいたいの世の流れが、ああそういうことだなと分かってくることもあるかもしれませんね。 そもそも、イエスを贖い主として受け入れますというのは簡単ですね。いやもちろん、当時、教団浄化の時、教主様と私がイエスのことを話したのは、あの時は教団内でイエスのイの字もなかったからそれは勇気が必要なことではあったけれども、でも、イエスを贖い主として受け入れるのは、「あなたの罪を贖ってくださったんですよ」「それを受け入れましょう」ということで、それを受け入れるのは簡単ですね。 だって、あなたは罪人です、イエスを受け入れたら罪が赦されますよと言われたら、分かっても分からなくても受け入れたほうがいいに決まってるじゃないですか。ま、自分の力で生きていきたいと思う人はなかなか受け入れられないと思うかもしれないけれども、普通はそれ受け入れますよ。だって、あなたの罪きれいにしてあげますよと言われたら、普通受け入れますよね。例えて言うなら、「あなたの服は汚いけど、クリーニング屋に持っていったらきれいになりますよ」と言われたら、「じゃあクリーニングお願いします」となるじゃないですか。罪を取り除いてきれいにしてくださる存在は当然受け入れたいですよね。 だから、「イエスを贖罪主として受け入れます」というのは誰でも言える。自分の都合で、誰でも言えます。だって自分の罪がきれいになるんだったら、それを拒絶する理由無いですからね。 でも一番最初に神様がイエスを選ばれた、そのイエスを受け入れなさいというのはきついですね。だって我々は自分が一番愛されたいと思ってますから。 もしこの世で、自分の肉親に一番愛されたいとか、他の兄弟と同じく平等に愛されたいというふうに思うものがあるなら、天上の神様に対しても同じ思いを持っているはずですね。というか、本来は、天上の神様にそういう思いを抱いているから地上でもその思いを肉親に対して持つわけです。 だから、それが受け入れたくないがゆえに、というか、まあ、ただ、「受け入れたくない」で済めば良かったんだけど、この人類の戦争の歴史とかを見れば、これが簡単な問題ではないというのはすぐ分かりますね。 もちろん私は、ナチス・ドイツがしたことを正当化するとか、そういうつもりは一切ないですよ。でも、ヒトラーがしたことを、一方的に、「あいつはただの悪い奴で、俺たちは無関係だ」とは言えませんね。 あれはドイツだけの問題じゃないんですよ。やっぱり我々全人類の中に潜在的にある、「ユダヤ民族とかイエスを神様が選ばれたということが受け入れられない」という、ものすごく俗っぽく言えば、「だだをこねる思い」があって、それがナチスのああいう形として出たわけです。 だけど、神様のほうとしては、絶対動かせない秩序があるんですね。イエス様が一番、その次にユダヤ民族、そして我々異邦人。「異邦人」ということは全部ですよ。日本人だけではなくて、西洋人、白人、中国人、インド人とかを含めたユダヤ民族以外の残り全部。 神様の御前において、「全人類平等だ」「兄弟姉妹平等だ」と言いたいかもしれませんけれども、神様はえこひいきをされる神様なんです。だって神様は理想となる存在(イエスのこと)を選ばれてるんですからね。なのに我々は、人間のほうの理屈で、勝手に、神様は全人類を平等に愛してくださってる、えこひいきはしないというふうにしたいんですけれども、この秩序ということについては神様としては譲れないものがあるわけです。 だって今日お上げした祝詞でも、我々は「イスラエルに結ばれし」とありましたね。イスラエルに結ばれし、ということは、神様が、イスラエルか我々のどちらを優先しているかは明白ですね。 我々の聖旨にもある、「イエス無くして明主様無し。明主様無くして教主様無し。教主様無くして我ら無し」という文言ですが、これも、そもそもユダヤ民族無くしてイエス無しですから、本来は、「ユダヤ民族無くしてイエス無し。イエス無くして明主様無し」となるべきですね。 普通、罪の贖いをしてくれたイエスなんだから日本人はもっと受け入れたらいいじゃないかと思うけれども、日本人はイエスのことなかなか受け入れませんよね。受け入れたら罪の赦しが得られるのになんで受け入れないの?、理解できない、みたいになるんだけど、やはり昔天上にいた時の心の傷があって、それで難しいとなってるわけなんですね。 でも、それは乗り越えなきゃいけない。いつまで経っても、「お父さんはイエスを長子に選んだことが気に入らない」とだだこねて、赤ちゃんのようにしてるんじゃなくて、「親である神様の都合があってそのようにされたんですね」と思わせていただかないといけない。大人にならなきゃいけないということですね。 我々は、ご先祖様ということを考えた時、通常、岡田家のご先祖様がどうとか、〇〇家のご先祖様がどうということで考えますね。まず、そもそもなぜご先祖様が大切かというと、我々が今日生きてるのはご先祖様のおかげだということですよね。そして、ご先祖様に感謝しなければ我々の地上での幸せは無いということですよね、どう考えても。これが基本。 だって、今日生きてるのは、お父さん、お母さんとそれに連なるご先祖のおかげだとして、その人たちをないがしろにして、この世、この地上での幸せは絶対神様は与えてくださらない。 それを確認した上でもう一度、ユダヤ民族無くしてイエス無し。イエス無くして明主様無し。明主様無くして教主様無くして我ら無し、ですから、間違いなく、我々にとって最も大切なご先祖様はユダヤ民族ですよね。 一人だけ選べといったらイエスです。最も大切なご先祖様はイエス。だって、イエス無くして我々今日生きてないわけですから。 明主様の御歌でもありますよね。「常立の神の贖なかりせば此天地は滅びしならめ」かな。常立という神様の贖いの業がなければもうこの天地は滅んでますよということですが、贖いの頂点はイエス様ですから、イエス様の贖いが無ければ天地も滅んでるということは、明主様も存在してなければ、メシア教も存在してなければ、我々も存在していない。だから、最も大切なご先祖様一人誰かといったらイエス様ですね。だけど、集合体としては当然そのイエスを生み出したユダヤ民族ということになりますよ。 我々は、「ご先祖様」というと、なんか自分の身近なおじいちゃん、ひいおじいちゃんとか、自分は何々家だみたいな感じで、自分の都合のご先祖様を作り上げていますけれども、本当のご先祖様はイエスでありユダヤ民族です。 で、我々の本当のご先祖様が喜ばずして、いわゆるおじいちゃんとかおばあちゃんという、我々の身近なご先祖様の幸せも無いんですよ。そして、この世の「幸せ」はなにかと言ったら、永遠の命です。 この永遠の命に我々が出会うためにユダヤ民族がイエスを生み出してくれたわけで、そのユダヤ民族とイエス無くして我々の身近なご先祖様もいないとして、そのユダヤ民族をいわば先祖崇拝しなくて、この世での幸せは絶対無いですね。絶対に無い。 皆様の中には、ご先祖様を祀っている「みたまや」がご自宅にある方もおられると思いますけれども、我々の本当のご先祖様であるユダヤ民族のご苦労に思いを馳せて、「ユダヤ民族の方々のおかげで自分は今日も生きています。ありがとうございます」「〇〇家の先祖もユダヤ民族、イスラエルに連なって存在することができました」ということを思えたらいいなと思いますよね。 だって、我々のご先祖様が幸せだったら我々の人生は幸せになるんですよね?それ、よくみんな言ってるじゃないですか。世界中というか、まあ、特に日本ではよく言ってますよね。 そのユダヤ民族の方たちがものすごい苦労をしたことは、近代史をちょっと見ても今の第二次世界大戦の話がありましたけれども、そもそも、イエスを生み出すために用意されたというだけあって、イエスを生み出す前もとんでもない苦労をしてるんですよ、ユダヤ民族の方々は。イエスを生み出すのにふさわしい民族となるために、神様に徹底的に鍛えられた。バビロン捕囚とかのこともよく聞きますよね。日本の学校でも少し学んだりしますよね、バビロン捕囚。 だから僕は、みたまやがお家にある方は、そのユダヤ人の苦労の話は旧約聖書にたくさん載ってますから、だから、毎日1ページでも、一章でも、旧約聖書のどこかを開いて、それをみたまやの前で読ませていただいて、我々のご先祖様(ユダヤ民族のこと)の苦労に思いを馳せるということも大切なことかなと思います。 我々今、もし人生でなにか行き詰まっていることがあるとしたら、その行き詰まりは、当然、神様は我々になにか気づいてほしくてそれを巻き起こしているわけですが、その時に、我々の本当のご先祖様であるユダヤ民族のことを自分の胸に置いて、「ああ、この方たちの苦労のおかげで自分の何々家のご先祖様も存在したし自分も存在してるんだな」ということを思ったら、今皆様が抱えているその問題も、いわばいいことが起きる、解決する、ということが発生するかもしれませんよ。だからだまされたと思って、みたまやの前で旧約聖書を少し読んでみるというのをやっていただきたいですね。 ちょっと前の祭典で、僕は、本物の永代祭祀はメシア教にしかないという話をしましたけれども(「立ち上がるのは今――霊的ノアの箱舟に救う」2026年4月5日)、そもそも、本物の祖霊祭祀もメシア教にしか存在しないんですよ。 だって、ユダヤ民族のことをちゃんとお祀りしなさいということ、世の中のほとんどの宗教は言ってないし、祖霊様のことをよく話す仏教とかでも、まあ言ってないですよね。だから、本当にご先祖様が幸せになって、その子孫である我々も幸せになることのできる祖霊祭祀はメシア教にしか存在しない。 我々の身近なご先祖様を通して、そこからユダヤ民族とイエスとメシアの御名の真実と神様にまでつながるんですから、これは一本の線であって、そしたら神様からの力が自分のところにも流れてくるに決まってるじゃないですか。ユダヤ民族を除いたらもう神様のもとには行けないんですよ。 我々はイスラエルに連なってる。イスラエルに連なってるのに、「ご先祖様」と思う時に、「ご先祖様と言えば、私の〇〇家のご先祖様だから、私のおじいちゃんだ、ひいおじいちゃんだ」とか、そういう人たちのことを思ってたってどうにもならないんですよ。だって、その元があるわけですからね。我々のご先祖様にはその元があって、それがユダヤ民族であり、それが我々の本当のご先祖様です。 永代祭祀というのは、もう祖霊祭祀とかをしてくれる子孫がいないということで「今後は永続的にメシア教に祖霊様への祈りを託します」ということですよね。で、先日も話したように、メシア教はメシアの御名に連なってるから、永遠に続く永代祭祀が絶対できますよ、という話だったんですが、本物の祖霊祭祀もメシア教にしか存在しないですね。それはどういう祖霊祭祀かというと、ユダヤ民族を頂点とした祖霊祭祀の世界とでも言うのかな。「ご先祖様」と考えた時に、自分からご先祖様、そしてご先祖様から神様へとのつながりが、なんかぶつ切れの祖霊祭祀ではなくて、ユダヤ民族を頂点として神様につながる唯一本物の祖霊祭祀、それがメシア教にはある。 だってこのメシア教においては、教主様が、日々、「イスラエルに連なっているのでお願いします」とお祈りしてくださっているわけですから、神様のほうとしては、「よし分かった」と言われるに決まってるじゃないですか。だから、ひと言みたいですけれども、「イスラエルに結ばれし」というあのひと言、あれが鍵ですね。 明主様は日本人であられて、そして地上天国というのは、箱根、熱海、京都、九州、中国、イスラエルというふうに、西に西に進んでいくと仰せになった。 明主様はご自身のことを一番東の存在と見ておられた。これは、あくまでも象徴的に、ですね。だって日本よりも東に位置している国はいっぱいありますから。というか地球は円ですから一番東のところは決められないけれども、象徴的に当時世界の極東と言われていた日本の、その東の都の東京の、その一番東の橋場というところでお生まれになったということが、もう末端だということで受けとめられたわけですね。末端。一番最後。そこでメシアの光をお受けして、それを今度は西に返す。 ということでご自身が箱根、熱海、京都というふうに移動して、そして、当時のご構想ではさらに九州、中国と進んで、最終的にはエルサレムまで行く。「エルサレムに行ったらおしまい」だと明主様仰せですよ(「御講話」1952年10月18日)。 エルサレムに行っておしまいということは、明主様が一番東でお受けになったというメシアというのはどこから出たんですか?エルサレムしかないじゃないですか。エルサレムに戻ったらおしまいということは、元々そこから出たからですよ。 そしてこの明主様聖言での「地上天国」という言葉ですが、それはひと言で言えば明主様というご存在です。だって明主様は、ご自身が箱根、熱海、京都と移動していることについて、それを「地上天国」と表現されているわけですけれども、具体的に言えば、それは明主様の御御体のご移動の推移ですよね。箱根、熱海、京都。 そしてその明主様というご存在は、最後、「メシアとして新しく生まれる」というところにご到達になったということは、明主様が、「地上天国がエルサレムまで戻ったらおしまい」ということは、明主様がお受けになったメシアの御名がエルサレムまで戻ったら、という意味です。 エルサレムから出たメシアの御名というのがずーっと巡り巡って日本の端、世界の端まで来て、そして今度はそれがエルサレムに戻るということですね。 エルサレムに到達したらおしまいなんですよ。我々、地上天国建設が目標なんですよね。地上天国建設。ということは、我々の仕事は、エルサレムまで到達したらおしまいなんですよ。エルサレムが我々の最終目標地点。 この聖言での明主様の言われ方は、エルサレムに地上天国ができたら、それが地上天国の初めになって世界が統一されるということで、その意味は、そこから本当の人類の幸せな世界がスタートしますよということですね。エルサレムまで行ったらおしまい。エルサレムまで行ったら本当の人類世界の幸せな時が始まって、世界が統一されますよと、そういうことですが、これは今後起こることですね。 で、これがどういう意味かといったら、聖書にもこの奥義について書いてあります(「ローマ人への手紙」第11章全体参照)。パウロが、この奥義について忘れてほしくない、ということで書かれているのは、ユダヤ人は、イエス・キリストのことはほとんど受け入れてない。なぜ受け入れてないのかといったら、それは、まず異邦人が受け入れる時までのことである。異邦人がイエスを受け入れたら、最後、ユダヤ人がイエス・キリストを受け入れるというのが神様のご計画ですよということでパウロは書いていますね。 真明様追記:参考までに、以下の聖書抜粋します。 そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。 そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか。もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。 兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、 「救う者がシオンからきて、 ヤコブから不信心を追い払うであろう。 そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、 彼らに対して立てるわたしの契約である」。福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。神の賜物と召しとは、変えられることがない。あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。 ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。 「だれが、主の心を知っていたか。 だれが、主の計画にあずかったか。 また、だれが、まず主に与えて、 その報いを受けるであろうか」。万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。 「ローマ人への手紙」第11章11節~36節 だから我々は、異邦人として、メシアの御名を受けたという事実を、エルサレムに行って、ユダヤの人に対して、「あなたたちのおかげでイエス様が生まれて、あなたたちのおかげで日本の端で、私たちが明主様と呼ばせていただいている岡田茂吉という存在がメシアという御名を受け入れて、それに連なって我々もこの御名を受け入れさせていただくことができました」ということをユダヤの人に言うことができたら、それはすばらしいことですよね。 「あなたたちユダヤ人は私たちの本当のご先祖様であって、皆様のおかげで私は自分の魂に付いてたメシアという名前に出会わせていただけて、本当の幸せを知るに至りました」ということをユダヤ人に言えたら、それ、ユダヤ人の方喜ばれると思いますよ。 明主様もそういう御歌お詠みになってますよ、真のメシアにイスラエルの人々も歓喜するであろうという御歌。正確な文言忘れちゃったけれども、そういう御歌明主様作っておられますよ(イスラエルの民も歓呼の声あげむ輝きいでます真のメシアに/イスラエルの民も歓呼の声挙げむあくがれ待ちし真のメシアに)。 この御歌の具体的な内容については当時明主様は詳しくはお話しになりませんでしたけれども、でも今、それお受けしてるじゃないですか。今私から聞いているメッセージのことですよ。これ、大変なことなんですよ。 そうすると、いや、エルサレムにまで到達するのはいつかなと思っちゃうんだけど、明主様はエルサレムのことを「西の都」と呼んでおられたわけです。エルサレムは西のみやこ(「世に勝てるメシアはいともはればれと西の都に入らすよき時」)。で、メシア聖堂を建てるのは西宮じゃないんですか?西宮市。これ、偶然じゃないですよ。 だから我々は、メシア聖堂が建つ場所をエルサレムだと思って、その場所に、自分が永遠の命に結ばれた歓喜をお返ししにいく。だって、死んじゃうと思ってたけれども、神様と共に永遠に生きられるんですから。「死ぬと思ってたけど生きられる」。私たちの教えはこれですよ。簡単なメッセージですね。 文字通り、西に西に、中国も、モンゴルも、土地を買収していってそこで地上天国の模型を作っていって、それでエルサレムまで到達しないとだめだというなら、もう何千何万年もかかりますね。そういうことではないと、そう明主様は仰せだと思います。 だから、もしメシア聖堂が完成したら、そこに、「ユダヤ民族のおかげでメシアの御名にある真実を知るに至りました」という思いで帰らせていただくことが、明主様が、地上天国は西に西に進んでいってエルサレムに到達したらおしまいなんだとか、それから本当のすばらしい人類世界が始まるんだとか、世界が統一されるんだとか仰せになったことの意味だと思いますし、ということがもうすぐですよ、もう数年経ったらメシア聖堂が建っちゃうわけですから、だから今、人類にとって大変な時期なんですよ、本当は。 我々は、もう本当に小さい小さい宗教団体だけど、そういうことでユダヤ民族の人に感謝申し上げたら、やっぱり神様が、なんと言いますか、我々の人生とか我々の家族の人生とかを祝福してくださると思いますし、もしそうなら、一人でも多くの人が我々につながったほうがいいですよね。 だから、ひと言で「クリスチャンヴィーガン」と言っても、その中には我々の信仰の部分というか、奥義があって、この、「クリスチャン」というひと言の中にとんでもないすごいものが詰まってるんですね。 そう考えた時、ちょっと目線を変えて、ものすごい現実的な話をしたいと思いますが、我々がクリスチャンヴィーガンを広めるのも、結局、今言った真理につなげたい、人々に知ってもらいたいということでもあると思うんですけれども、そのようにしてヴィーガンとかクリスチャンヴィーガンということを広げようとすると、最も多い批判の一つに栄養のことがありますよね。 というか、ヴィーガンを広めようとしていると確かにいろいろな批判がありますが、でも、宗教団体ほど批判は受けてませんね。確かにヴィーガンの方々もものすごい批判を受けているけれども、日本における宗教団体ほど批判を受けてることはないんじゃないかなと思いますね。 とにかく、ヴィーガンに対して多い批判の一つが、栄養が足りなくなるということと、もう一つよくあるのが、「植物とか微生物とかそういうのも命なんだから、動物だけ食べないのは偽善じゃないか」という種類の批判ありますね。これ、結構ありますよ。「植物が動物みたいに動いたり話さないからって、植物を食べるのはよくて動物を食べるのはだめなんておかしい。動物も植物も一緒じゃないか。動物だけ食べないなんて偽善だ」という批判。この批判、栄養に関しての批判と同じくらい、結構ありますね。 この批判の趣旨、ポイントは、動物と植物の命の重みは同じじゃないか、ということですよね。そういう前提。その前提の上で、動物も植物も命の重みは一緒なんだから、動物だけ食べないというのは偽善だという批判。 で、我々はやっぱりクリスチャンヴィーガン広げたいわけですから、これに対して、自分の中で、もちろん口論はしなくていいんですけれども、なにか言えるものは持っとかなきゃいけないかなと思うんですけれども、僕がこういうことを言う方に対してまず言いたいのは、例えば、鎌を渡すから、これから1か月、毎日、草を刈るか、それとも、牛とか豚とか犬、これを1匹殺す、このどちらかをしてみてくださいということ。もし命の重みが一緒だというなら、問題無くどっちもできるということになるはずですよね。 草を刈るのも命を奪う行為で、それが動物の命を奪うのと同じだと言うなら――植物と動物の命の重みが同じだというなら――草を刈るのと同じふうに、牛とか馬とか豚とか犬とか猫も殺せるはずですよね。 ちなみに、もし実際動物を殺そうとした場合、動物というのは痛みを感じますから、だから、抵抗しますよ。下手したら攻撃される可能性ありますね。反撃。やばいと思って動物が反撃してくる可能性はある。でも、もし植物と動物の命の重みが一緒だと言うなら問題無く動物のほうを殺せるはずですね。 あるいは、これはどこかで話したことありますが、子供が芝生駆けずり回ってるのを見る時に感じる思いと、犬がいて、大人がその犬の上を踏み倒して、結局その犬はキャンキャンキャンキャン言いながら死ぬ、という状況を見て、もし植物と動物の命の重みが一緒なら、感じる思いはまったく同じはずですね。 そのように言われる方は、子供が芝生で走ってるのを見て、「わっ、芝生痛そうでかわいそうだな」とでも思うのでしょうか。芝生が踏まれているのと、犬が踏まれているの、同じ思いで見るのでしょうか。 でも、実際そんな気分にはならないじゃないですか。本能的に、子供が芝生の上を走り回ってるのは「楽しそうだな」のようなことを思いますよね。だから、動物と植物の命の重みの違いを直感的に感じてるからそうなるわけです。 あるいは、僕には幼稚園児と小学生の子供がいますけれども、学校とかの行事で、さつまいも掘り、みかん狩り、じゃがいも掘り、とかありますけれども、もし植物と動物の命の重みが一緒なら、牛とか馬とか豚とか犬とか猫を殺させることを、幼稚園児や小学生にもさせるべきですよね。 まあ、犬とか猫は日本人はあまり食べないけれども、牛とか豚とか鶏肉は食べるとして、もし植物と動物の命の重みが一緒だというなら、学校でもそれさせればいいじゃないですか。でも、じゃがいも掘りみたいのをするか、動物殺すことをするか、どちらか選べたら、どちらを選ぶかははっきりしてますよね。だから本能的に違いを感じてるわけです。だから、こういう批判はただの屁理屈ですね。 いや、小学校とかでもまれにありますよ。命の大切さを教えるといって、屠殺の経験をさせるというのはないことはないけれども、じゃあ本当に命の重みが一緒だとしたら、じゃがいも掘りなどの行事と、動物を殺す行事の実施回数はほとんど一緒ぐらいになるはずなのに、実際は、何十万対一とか何百万対一とか、ものすごい差があると思いますね。だからそれは、命の重みに差があることが直感的に分かってるからそうなるわけです。 実際、道端の雑草を1本抜くと仮定すると、そのように批判される方にとっては、これは、1匹の動物を殺すのと同じことですね。雑草1つ抜く、ということは雑草の命を一つ奪ったということ。いや、それは確かに間違いないですよ。私は、植物は命を持っていない、と言っているわけではありません。 一方、野良犬を、鎌かなにかを使って首を切って殺す。この場合、日本においては、雑草の草1本抜いても罪には問われないけれども、野良犬を殺したら、5年以下の懲役か、500万以下の罰金ですよ。動物愛護法というのがあるからね。 こういう法律があること自身、植物と動物の命の重みが一緒ではないという証明じゃないですか。で、動物愛護法で殺しちゃいけないのは、愛玩動物と言われる犬とか猫とか、あるいはインコぐらいなのかなと思うと、違うんですよ。牛、豚、鳥、これらも全部含まれるんですよ。意味も無く牛、豚、鳥などを殺したら5年以下の懲役、あるいは500万以下の罰金に課せられる、日本においては。 例外としては、食用にする場合は罪に問わないということになってるわけだけど、食用ではなく牛とか豚を殺したら刑務所行きなんですよ。だから、よく、動物も感謝していただくことが大事だとか言いますけれども、現代の最新の栄養学では、動物性で摂れる栄養は植物性でもほとんど摂れるとされてるんですから、もはや動物を殺す必要性は無い。ということは、本来、すでに殺す必要性が無い状況で殺しているのは、人間の倫理的には本当はもうおかしいということを法律が示してしまっていますよ。 また、動物と植物の命が一緒じゃないかという場合、その意味は、「植物も動物も全部命なんだから、全部の命を大切にしなきゃいけない」ということだと思うんですけれども、でももしそう主張するなら、なおさらヴィーガンにならないとおかしいですね。 というのは、例えば、ブラジル・アマゾンの森林伐採の8割から9割は畜産のためです。牛さんのための放牧地、あるいは牛などの家畜にあげる餌の大豆とかとうもろこしを育てるために大量の木を切ってるわけです。そのようにして大量の野菜を植えて、収穫の時に大量にまたその植物を殺し、しかも餌を与えた動物そのものも殺して食べるわけですから、肉食のほうが命を殺している総数は圧倒的に多い。 だいたい、地球上の食料生産の半分近くが動物の餌のためなんですよ。だから、その方々が言われるようにもし植物と動物の命の重みが同等だとして、命が大事だというなら、そもそも殺す総数を減らしたほうがいいことになりますから、であればこういう論法の方はヴィーガンにならないと自分の論法に矛盾きたしますね。 でも僕は、このような方々の主張の中で一番の問題だと思うのは、もし動物と植物の命の重みが同等だとしたら、じゃあ人間はどうするのかということになりますね、だって人間も動物の一種ですから。こういう方々にとっては、人間を食べることについても、動物とか植物を食べることと同じなのか、というこの問題に入っちゃいますよ。要は、この方たちの論法では、人肉を食べるということも正当化することになってしまうわけです。 動物を殺したら5年以下の懲役だけど、人間を殺したらそんなもんじゃ済まないですね。ということは、人間と動物の命の重みの違いはあるし、動物と植物の命の重みの違いも絶対存在してますよ。これはもう理屈無しですね。理屈無しで存在している。 ライオンのことを言われる方もいますね。自然界のライオンは肉を食べるんだから、人間が肉を食べるのも自然じゃないかという論理。ま、そもそもライオンは肉食動物で、歯の形から違うみたいですよ。ライオンは肉を食べなきゃ生きていけない。人間は別に、肉を食べなきゃ生きていけないわけじゃないですからね。私、肉食べてないけれども生きてますから、今(一同笑声)。笑っていただいてありがとうございます(一同笑声)。 ライオンは、新しい雌に出会った時、その雌のいわば元旦那との子供がいたら、その子供、全部殺しますね、殺す。子殺し。それ、「ライオンがしてるんだから」と言って、我々が再婚相手に会った時に(一同笑声)、、、皆さん、分かっちゃいましたか、結論が。ちなみにそれをする目的は、子供がいると雌ライオンが発情しなくなるからと言われています。子供がいないと、雌ライオンが本能的に子供を作らなきゃいけないと思って発情する。そうすればその雄は自分の子供を残せることになるから、そう思って、前夫との子供を全部殺しちゃうわけです。ま、必ずそうするのではなくて、そういうことをする時もある。 それを、ライオンがしてるし自分も再婚相手に発情してほしいからって(一同笑声)――ちょっとなんか、例えがすみません(一同笑声)――人間がそれ実際にしたらそれは通らないじゃないですか。その理屈は通らない。 あるいは、じゃあライオンが普通野原で排泄しますといって、「ライオンが野原で排泄してるなら我々もこれからは家の中じゃなくて外でさせていただこう」とならないじゃないですか。あるいはよく言われるのが、ライオンは挨拶をする時に相手のお尻のにおいを嗅ぐということなんだけど、それ、人間しないですよね(一同笑声)。捕まっちゃいますよ(一同笑声)。そんなことしたら捕まっちゃう。 だからまったく違う生き物がしていることの一部分だけを捉えて、自然界ではこの動物はこういうことをしてるんだから人間がするのも自然じゃないかというのは、もうまったく理屈に合わないですね。 だけど、この世の中では、肉食の人の、今言ってきたように、まったく論理が破綻している、屁理屈みたいな論法や意見がまかり通るじゃないですか。植物も命なんだから動物だけ食べないのは偽善だと言ってみたりする。これが、今説明したように完全に論理破綻してる意見なのに、世の中は99%以上肉を食べてますから、いかに論理が破綻していたとしても、自分たちが肉を食べるのを正当化できる声を聞きたい人たちがいるから、それがまかり通ってしまう。 動物愛護法にも表現されているように、人間は、本能的、潜在的には肉を食べていることの罪悪感があるわけです。動物を殺して食べていることへの罪悪感がある。だって、今目の前にいる牛殺せ、犬殺せ、それでそれ食べなさいと言われたら、それするより小松菜収穫するほうが絶対楽ですよね(一同笑声)。小松菜をちょっと抜いたほうが楽ですよね。 明らかですよ、植物と動物の命の重みに差があるのは。それは本能的には分かっている。でも、とにかくなんでもいいから食べたい。食べたいから、そういう意見(動物だけ食べないのは偽善のような意見)を聞くと、うん、私もそう思う、とか、植物を食べるのだって命を奪ってることだから、動物も感謝して食べればいいよねと言って自分の中にある潜在的な思いを見て見ぬふりしてる。 だいたい、全部の命の重みが一緒だからといって、じゃあ人肉も感謝して食べればいいのかといったら絶対そうはならないじゃないですか。 でも、結局、論理が破綻しててもその意見が通ってほしいという人が大部分だから、その屁理屈がまかり通って、ヴィーガンの我々は結構言われ放題みたいになってしまってますね。 というように、ヴィーガン食のことを訴えられるのは肉食の人にとっては都合が悪いわけですね。ブラジルでは、ある20年の期間で、畜産関係に反対した人は1100人くらい殺されているんですよ(参拝席から驚きの声が上がる)。だから、今我々はそれくらい世の中にとって都合が悪いことを言ってるわけです。だって、もし都合が悪くなければ、「あ、あなたは肉食べてないんですか。どうぞ」で終わりにすればいいのに、それで終わらないじゃないですか。屁理屈言ったり、最終的には殺して黙らせなきゃいけないぐらい都合の悪いものがあるということですね。 だから皆さんは、ヴィーガンをしていることだけでも大変だけど、それに輪をかけて宗教だから、もう一番大変ですね(一同笑声)。僕、日本の宗教の信徒で、一番大変なのは皆さんだと思いますよ(一同笑声)。 仏教とか神道とかいわゆるキリスト教とかはほとんど批判無いですよね。仏教の方は、「仏教してます」と堂々と言って、みんなも、「ああそうなんだ」で終わりますけれども、これがひとたび新宗教とか唯一の神様ということになった途端、日本で一番批判を受けますよね。 宗教だけでも大変なのに、皆さんはプラスヴィーガンですから、皆さん、世界中で一番勇気のある信仰集団ですね(参拝席から拍手が沸き起こる)。すばらしいですよ。いや、ほんと、そんなに嫌われてる?ということで笑っちゃうくらいですよね(一同笑声)。ヴィーガンだとなんとかまだ人としては認めてもらえるみたいになりますけれども、宗教をしている人に対しては、もう何言ってもいいみたいになりますもんね。 今までは宗教だけでも十分重荷だったのに、そこにヴィーガンの重荷も加えられてしまって、皆さんとしては、「真明さんやめてください」(一同笑声)ということを言われたいですよね。 しかも私の場合、肉食の畜産関係とか酪農関係も敵に回すし、さらに医学のことも言ってまして、もちろん医学もすばらしい面はたくさんあるけれども、でもじゃあ、本当に食とか生き方のようなことで病気が完全に無くなるということになったら、医学界とか製薬業界の人はみんな職を失うわけですから、最終的には絶対その道はサポートしませんね。だってそういう営みがどんどん広がったら、給料無くなっちゃうじゃないですか。家族を養えない。だって、医学業界とか製薬業界にとっての「顧客」は病人なんですよ?彼らにとっては病人が無くなったら終わりです。 で、我々は、医学に頼らずに病人の無い世界を造ろうとしているわけですから、私はもう敵も敵ですよね(一同笑声)。 ワクチンも、以前は、こういうケースではワクチンを、とかでしたけれども、コロナになったらワクチンの対象者は全人類になりましたよね――こういうことを言ってて大丈夫なのかな、私は(一同笑声)――コロナ以降ワクチン業界の顧客は全人類ですよ。それで、受けなきゃいけない、受けなきゃいけない、受けなきゃいけないと迫ってくる。そのワクチンの費用、政府のお金になるとかじゃないんですよ。製薬業界が儲かる。それ、推し進めない法があるのかということですね。 ということで、製薬業界、医学界、酪農、畜産の世界のそういう収益を全部足したら、それは、日本の国家予算のもう何十倍にもなりますね、何十倍。だからほんと、私があまりしゃべり過ぎてると、もうこの人は殺したほうが楽だなとなりますね(一同笑声)。でもそれで死ぬなら私は本望ですね。そういうことで死ぬなら本望です。 それぐらい私は世の中にとって都合の悪いことを言ってるんだけど、僕はやっぱり、直球の生き方をしたいわけですね。直球の生き方。潔い生き方というんですかね。 直球の生き方ということで、よく、肉食べるとそれが男らしいんだとか、それが直球なんだとか言う人がいますが、もしその方が素手で熊と戦ってそれを殺してその熊肉を食べるなら、僕は百歩譲って受け入れますね(一同笑声)。百歩譲って受け入れる。 でも実際はそんなことないじゃないですか。自分は絶対安全なところにいながら肉を食べている。いや、屠殺場の方は結構いろんな事故があって危ないですけれども、でも、屠殺場でも、基本的には自分の身は守った状況で電気ショックしたりとか簡単に殺せる方法で殺す。動物たちが絶対逃げ場が無いようにして、抵抗できない動物を殺して、それを食べて、なんにも男らしくないですよね。なんにも男らしくない。 いや、じゃあ自分は肉食べたいから熊殺しに行こうという話じゃないんですよ(一同笑声)、そういう話じゃなくて。 我々は「神の宮」なんですよ。神の宮。神の宮というと、神社とかいろんな場所があるけれども、皆さんお一人おひとりが神の宮なんです。そしてその神の宮の中には最後の捧げものとしてのイエスがもういらっしゃる。 イエスが現れるまでは動物を殺して犠牲にしてたわけだけど、最後の捧げものとしてのイエスが神の子羊として自分を犠牲にしてくださって、我々の神の宮にその最後の捧げもののイエスが鎮座してくださっている。しかも、聖書にはっきり書いてありますように、神様は肉の捧げものは要らないんだと仰せじゃないですか(「ヘブル人への手紙」第10章6節)。 捧げもの、要らない。私が喜ぶ捧げものはイエスという捧げものなんだと神様仰せなんだから(「エペソ人への手紙」第5章2節)、もう肉を食べる意味無いんですよ。これ以上肉食べて自分の宮を汚してどうするんですか。 しかも女性は子宮といって、子供を宿す大切な宮を持ってますよね。だからこれから大切な子供を産もうという方とか、産んだ後でもいいですが、この大切な子宮があるのに、そこに動物の血とか肉を入れて子宮を汚してどうするんですか。我々は神様をお受けする清い宮なんでしょ? だから、クリスチャンヴィーガンというのは、ただのヴィーガンではないんですよ。イエスが最後の捧げものだということを信じて、肉食をやめて、そして清い身体になって神様をお受けしたいと、それがクリスチャンヴィーガンです。 だって我々、清まらずして、どうやって新しく生まれようとしてるんですか。新しく生まれる、新しく生まれると言ってますが、イエスは、あなたがたは「新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(「ヨハネによる福音書」第3章3節)と仰せになって、要は、新しく生まれなさいということですよね。で、明主様はそれ到達された。なんにもしなくて新しく生まれられないんですよ。ということは、我々自身も贖われなきゃいけないんです、ある意味においては。イエスの贖いを土台にして、我々自身も贖われなければならない。 今日拝聴した聖書、面白い言い方してましたよね。(真明様、栞をご覧になりながら)「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている」「イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである」(「コリント人への第二の手紙」第4章8節~11節)。 というように、我々自身も清められて、神のみもとに近づかなきゃいけないんだから、当然病気とかいろいろ発生しますよ。だって、清まらずして、つまり、病気を受けずして新しく生まれるというところに到達するのは難しいです。 病気とか人生の苦労というものが無くして清まることは絶対無いです。だから、病気とか贖いのようなことを恐れてちゃいけない。新しく生まれるためには清めの働きが絶対来ますから。心の悩み苦しみや身体の不調とかは絶対来るけれども、それは栄光に至る神様からの祝福ですからね。 だから、クリスチャンヴィーガン食というのはただの食のムーブメントではなくて、メシアとして新しく生まれるということに至るためのものであって、しかもこれは、ただ理念上のことだけではなくて、我々一人ひとりが、本当に清い、元気な存在となって、そして世界中の病気も減って、争いも無くなって、貧乏も無くなってという、そういうすばらしい人類や世界を造るためのクリスチャンヴィーガンなんです。 我々は、伝えても、伝えても、伝えても、伝えても、無視される。拒否される。ですね?これ、我々が伝えていることが真実でなければあきらめてもいいですよ。でも私たちが知らされていることは真実であって、今は受け入れなくても、伝えたことによって、その人が将来、「そういえばあの人こういうこと言ってたな」ということでなにか助けとか救いを求めてくることはあり得ますよね。だからあきらめちゃいけないんですよ。あきらめちゃいけない。どんなに無視されても、どんなに誹謗中傷されても、あきらめちゃいけない。 私たちが今知らされていることは真実なんです。僕は、仏教がどうとか、神道がどうとか、キリスト教がどうとか、メシア教がどうとかという小さい話をしているのではなくて、神様、ユダヤ人、イエス・キリスト、メシアということに関わる、人類が知るべき真理をお伝えしているわけです。だから、嫌われてはいけないから伝えないほうがいいかも、とか言って正当化するよりも、場合によっては嫌われてでもしなきゃいけないケースもあるかもしれない。それはケースバイケースですよね。だけど、とにかく伝えることは伝えさせていただいて、それで、すぐ反応してくださる方もまれにいらっしゃるけれども、基本的にはそうではない。でも、たとえそうであったとしてもやはり伝道させていただく。 そのために、「入口」という言い方が適切かどうか分からないけれども、このような「クリスチャンヴィーガン食」というものを用意してくださった神様はすごいと思いますね。だって食ということは極めて具体的なことですから、伝道するための糸口が出てきますよね、食事は毎日起きることだから。というように、食とか健康のことを通して神様の真理ということを伝えられたらすばらしいですよね。 ということでクリスチャンヴィーガン食を推進しているわけですし、また、同様の意味で本も今書かせていただいているし、さらに、このあと聴かせていただく、世界初のクリスチャンヴィーガンソングの「最後の捧げもの」と、世界初のキリスト農法ソングの「祈りの稲穂」、こういう音楽もありますので、そういうもので、世に広く、ありとあらゆる方法をもって、料理とか、土鍋とか、歌とか、本とか、インスタとか、『グローリー』とか、自分の声を届けるとか、相手の声を聞いてあげるとか、そのすべてを使って伝道する。だって、こんなすばらしい救いに招き入れられてるんですからあとはもう恩返ししかないじゃないですか。批判されるぐらいでびびってる場合じゃないんですね(一同笑声)。 聖書にあったように、我々は常に死に渡されているということですから、もう、イエスのために死んだと思って、でも生かしていただいているということは毎瞬間毎瞬間命をいただいているわけですから、その新しい命を、毎日、目一杯、神様に恩返しする気持ちで生きて、そしてこの救いのメッセージを世に広げて、一人でも多くの人が真理に触れられるように、共にめげずにがんばってまいりましょう。 ありがとうございました。