皆様、あけましておめでとうございます。 今日は本当に暖かくなりましたね。新年にもかかわらず、ある程度話しますので(一同笑声)、やはり、どうしてもお伝えしたいものというのがございまして、ですけれども、リラックスして、トイレ等行かれつつ聞いていただければなと思います。 毎年のことですけれども、今日も、家からちょうど日の出が見えますので、家族みなで初日の出を見まして、それから、妻が用意してくれたおせち―菜食のおせちなんですけれども―を頂戴しまして、そんなことをしていましたら、世界メシア教のインスタグラムで、先日メシア教が購入した、メシア教の聖地となるべき場所からの日の出の動画が出ていましたので―まだ見ておられない方はぜひご覧になってください―これを拝見しまして、ですから、今日は日の出を2回見ました(一同笑声)。自分の家で見て、それでスマホでも見て、まあ太陽は一つですけれどもね(一同笑声)。 そんなことをしながら、今日皆様は、元旦をどのような思いで迎えられたのかなと、そんなことを思っていました。 私が今朝ちょっと思っていましたのは、去年も一年間皆様に本当に支えていただいて、そして、今年も、信徒の皆様と共に歩んでいきたいなと、そんなことを思って、でも特に、今朝は、なにか、今年は皆様と、一つの家族のようにして歩んでいきたいなと、そんな思いを抱きました。 家族と言っても、この世の家族はありますけれども、そういうことではなくて、私たちは、神様のもとにある「聖なる家族」ですから、そういう聖なる家族として共に歩んでいきたいなと、そんなことを思っていました。 ちなみに、バルセロナでアントニオ・ガウディが建てようとしているあの有名な「サグラダ・ファミリア」という教会がありますよね。 サグラダ・ファミリアという言葉はスペイン語ですけれども、日本語では「聖なる家族」という意味なんですね。いや、これは完全に余談なんですけれども(一同笑声)、ただ、ガウディも、なにか、神のもとにある全人類のことを思って、全人類は聖なる家族だということをイメージしてああいう名前を使われたのかなと、そんなことを思ったりもします。 で、一般的に家族はどういうものかといったら、それは、いいことも悪いことも、喜びも悲しみも、それらすべてを分かち合って共に乗り越えるというのが家族ですよね。 ですから、今年も一年いろいろあると思うんですけれども、私は、皆様と、いろんな喜びとか悲しみとか、いいこととか悪いこととか、それら全部共に分かち合って、そして共に乗り越えていきたいなと、そんなことを思っております。 去年も皆様にいろいろお話しさせていただいたんですけれども、その中で、皆様の印象に残ってるんじゃないのかなと思うことの一つとして、食のことがございますね。 去年私は、明主様の、「ミロクの世は全人類菜食家になる」旨の聖言を皆様に紹介させていただいた、と言いますか、取り上げさせていただきまして、そして、その聖言に対する私の思いをお伝えいたしました。 この菜食というのは、前にも言いましたように、当然強制ではないんですよ。強制ではない。メシア教は、教団としては専従者に対して完全菜食、ヴィーガン食を推奨しているわけなんですけれども、専従者に対しても決して強制しているわけではなくて、あくまで推奨をしている、ということですね。 ですので、ご家族の方となにかもめたり、例えば料理を作ってくださる奥様ともめて(一同笑声)までさせていただくということではなくて、やはり、一人ひとり今までの生き方、考え方がありますから、それを尊重しながら、ということが大切だと思います。 私が思うのは、もし明主様が本当に神様からのみことばを受け取られたご存在であるならば、「全人類は菜食家になる」ということは絶対に成し遂げられるわけです。逆に言えば、もし成し遂げられないとしたら、我々は信じるに値しない教祖を信じている、ということになってしまいますね。 だけど、もし明主様が本当に神様のみことばをお受けになっていたのだとしたら、神様のお力によって、世の中は必ずそういうふうになっていくはずですね。 私の場合は、幸いにも、私の家族である妻と子供たちと一緒に完全菜食を実践できる環境にあるわけなんですけれども、環境的にそういうことがなかなか難しいという方もいらっしゃるでしょうし、また、そういう気持ちにはなかなかなれないという方もいらっしゃるのかもしれません。 でも、もし明主様が本当に神様からのみことばを賜ったご存在であるならば、きっと神様・明主様がしかるべき時を用意してくださって、そういうふうな道に自然に導いてくださるんじゃないかなと思います。 だからそれを、無理にどうこうするとか、なにか家族と仲違いしてまでも実践するとか、そういうふうにならないよう我々は気を付けなきゃいけないのかなと思います。 またね、もちろん、昔みたいに医学拒否だということでもないわけですからね。明主様ご在世当時は、信徒も含めて西洋医学拒否という姿勢ははっきりしていたんですけれども、今はそうではなくて、私たちは、私も含めて、なにかあったら病院のお世話にならなきゃいけないということは否定できない事実ですし、お医者さんが「死にました」と言わなければ葬儀屋も頼めないですしね。だから、また昔みたいに、極端にだめだと言うのではなくて、でも、一方で、じゃあなんでもいいんだ、というのでもなく、なにか、自然なあり方、バランスの取れたあり方でなければならないのかなと思います。 とにかく、教団は西洋医学は否定していないんですから、なにかあったら当然お医者さんに相談して、お医者さんの言うことは聞かなきゃいけない。 昔みたいに、菜食をしているんだから医学絶対拒否だ、薬絶対拒否だということではないですからね。そこは私も含めて注意したいところだなと思います。 またそういうことで世の中とトラブルみたいになるべきでもない。ありますよね、そういう問題。こんな状態なのにお医者さんに診てもらってなかったのですか?という問題。そういうことは避けなければならないなと思います。 なにかそういう問題が発生してしまって、教団全体としてそういうふうな目で社会から見られてしまうと、せっかく、なんて言いますか、いいことを世の中に伝えようとしているのに、そういうことがあると、宗教ということでそもそもうがった目で見られているのが、さらにうがった目で見られる(一同笑声)ということになってしまいますのでね、そういうことにならないようにしたいなと私は思っております。 でも、結局、この食のことで僕が大事だなと思うことがあるのですが、この間ブラジルに行った時にこういうことがあったんですね。 それは、飛行機でサンパウロからボリビアのサンタクルスに行く時、朝の早い時間の便だったので、みな朝食をほぼ何も食べずにホテルを出まして、それで、飛行機に乗りまして、みなお腹空いたなという状況だったんですね。 私の隣にはブラジルメシア教のサントス本部長が座っていました。あっ、ちなみに本日は、ブラジルメシア教副本部長のマツムラ副本部長の奥様が参拝しておられます(一同拍手)。 奥様、すみません、突然に(一同笑声)。しかも、話のついでにご紹介したみたいになりまして申し訳ない(一同笑声)。 話を戻しまして、その時、朝食を食べずに6時とか6時半ぐらいにホテルを出まして、空港へ行って飛行機に乗りました。ちなみに、言うまでもないことですが、私も含めてみな、完全菜食、ヴィーガン食を実践している中にあって、そのボリビア行きの飛行機に乗ったら朝食が出てきたのですが、それが、チーズサンドイッチだった(一同笑声)。 私の隣にサントス本部長が座っていまして、みな心の中で、「いや、どうしようかな」(一同笑声)ということになって、しかもみな朝食抜きでお腹空いてるから、お腹がグーグーグーグー鳴ってる状態ですね(一同笑声)。グーグーグーグーさせながら「いやどうしようか」(一同笑声)ということになったんですけれども、その時僕が同行者の方々に言ったのは、「これは神様がご用意くださったものだから感謝していただきましょう」と、ということでみなで頂戴しました。 教主様がご教導くださっているように、万物は私たちを通して神様のもとに帰りたいわけですね。だってすべてのものは神様のもとから出たんですから。 だからその時、隣に座っているサントス本部長には、「「万物と共に立ち返らせていただきます」という思いをもって、神様に感謝して頂戴しましょう」ということをお伝えし、そしてそのサンドイッチをいただきました。 先日の祭典でも言いましたように、信徒の皆様の中には、お肉とか魚とか乳製品を扱われている方もいらっしゃると思うんです。でも、私が言いたいのは、それを負い目に感じることは一切無いと、それを言いたいんですね。 というのは、そういう物を求めている世の中が実際に存在している以上、そういうことで商売をすることはなんの恥でもないわけです。そういうことだって、なにか神様のほうで必要があってそういう道を用意されたわけですからね。 だからそこで、なにか負い目を感じてしまうというほうに自分の心を置くのではなくて、やはり、「こういう動物とか魚とか、牛さんとか豚さんとか鳥さんも魚さんも、みんな、我々人間を通して神のもとに帰りたいんだな」「そういう御用にお仕えさせていただきます」と言ってそのような商売をさせていただくのが最も大事なんじゃないのかなと思います。 もちろんね、先ほども言いましたように、もし明主様が本当に神様のみことばをお受けになったご存在であって、そしてその明主様が、ミロクの世には全人類菜食家になるということを仰せなのであれば、それはきっと、将来的に、無理な形ではなく、自然な形でその商売のこともそのような時代にふさわしいあり方に転換する道を明主様がお示しくださるのではないのかなと思います。 我々の意識というのは、目に見えるものに焦点が行きがちですね。そして、これはいい、これは悪いということで選別をしてしまう。 だから、そういうことに関しても、今まで私たちはそういうことで医療拒否だとか、これを拒否だとかしてきたわけですけれども、またそこに行ってしまうのではなくて、もちろん明主様は、もう、ミロクの世とはこういうものだという大方針は打ち出していらっしゃるんだけれども、当然過程はあるわけですからね。 その過程の中で、さっきのチーズサンドイッチの話もそうですし、また、動物とか魚とかいろんな万物と接する中で、いろんな思いが湧いてきますね。明主様の聖言に対して裏切っているような思いであったりだとか、この先どうしたらいいのだろうかとか、そういう思いも含めて、まるまる、「万物も私の思いも、すべて神様のもとにお返しします」というふうにさせていただく、それが最も大切なことですね。 もちろんね、今私が話していることを免罪符のようにして(一同笑声)使うのとは違うんですよ。人によっては、明主様のこの食の聖言をお受けするのから逃げるため、今私が話していることを免罪符のように使うということもあり得ますね。 だから、そういうふうに極端にならないように気を付けなければいけませんね。 前の私たちは、ややもすると、極端な方向に行って、「すべて神様がお造りになったんだから何を食べてもいいじゃないか」ということを言って、「すべては神様のもの」という教えを自分の都合の良いように利用してたんじゃないのかなと思います。 でも、明主様は我々一人ひとりの境遇を十分ご存じなんですから、きっと、無理のない自然なあり方で一人ひとりを導いてくださるのではないのかなと思います。 そうなんですから、周りの方も、そのような商売やお仕事をされている方を裁くようなことは決してあってはならないし、また、ご本人も、そのことでなにか悪いことをしてるんじゃないかと思うようなことも一切ない。私は、神様・明主様が、絶対力によって必ず良いふうに導いてくださると信じていますので、共に、それを信頼して歩んでいただきたいなと思っております。 先ほど今日の明主様聖言と聖書を拝聴しまして、司会の方、岩間さんという女性の方なんですけれども、声が本当にいいですね。私はもう聞き入っちゃって、拝聴したあと、これで今日の祭典はもう終わっていいんじゃないかなと(一同笑声)、そんなことを思いまして、岩間さんが、一番最後の聖書の言葉、「清くなりなさい」というようなことを言われて、それを聞いて、「その通りです。分かりました。これで祭典終わり」(一同笑声)とも思ったりしたんですけれども、ただ、かと言ってこの参拝席から誰にも気づかれずにささっと出ていくわけにはいかないのでね(一同笑声)、与えられた責任だけはなんとか全うしなきゃいけない、ということで今お話しさせていただいております。 明主様聖言は、新年にふさわしい「新人たれ」でしたね。新しくなりなさい、ということですね。これについては後ほど少し触れますけれども、聖書のほうはいろんな内容に触れておられましたね(「コリント人への第二の手紙」第4章7節~第7章1節)。 今日拝聴した「コリント人への第二の手紙」というのはパウロという人が書いたんですけれども、パウロは、昔はキリスト教を激しく迫害してたんですね。キリスト教徒を殺して、男も女も関係無く引きずり出して獄に入れてたという方で、だけど、彼がキリストに出会って変わってしまうんですね。 キリストに出会うと言っても、パウロがキリストに会ったのはもうキリストが十字架で死んだあとのことなんですね。 どういうことかというと、パウロが、ダマスコ―現在のシリアの首都のダマスカスのことです―に、もっとキリスト教徒を捕まえるぞと言って向かっている時に、突然天から光がパーッと射してきて、パウロはその光に包まれて地面にバタンと倒れてしまうんですね。 パウロはサウロとも呼ばれていたんですけれども、その時、声が聞こえてくるんですね、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声が。 それでパウロは、「あなたは誰ですか」と言ったら、その声は、「私はあなたが迫害しているイエスだよ」と、こうなるんですね。それでイエスは、とにかくダマスカスに行きなさいとパウロに言いまして、それを聞いてパウロは立ち上がってダマスカスに行こうと思ったら、目は開いてるけれども何も見えないんですね。見えない。 一方、ダマスカスには、また別のアナニヤというキリスト教徒がいたんですけれども、パウロが街に来た時、その方がパウロのところまで行って、パウロの頭に手を置くんですね。そしたらパウロの目から鱗のようなものが取れて、パウロはまた見えるようになると、そういう話です。ちなみにこれが「目から鱗」という言葉の語源です。このパウロの聖書でのエピソードが、我々日本人がよく使う「目から鱗」という言葉の語源です。 目が見えるようになったパウロはどうなったかというと、そこからは、今まではキリスト教徒を殺してたのが全く真逆になって、今度はイエス・キリストの救いの福音を宣べ伝えるということになったんですね(「使徒行伝」第9章1節~22節)。 で、今日の聖書のこのコリント人のコリントというのは、ギリシャにある街の名前です。だからパウロは、イスラエルからギリシャまで、船とか使ったり、歩いていったりとかして、ものすごい苦労をしながら布教活動をされていた。そのギリシャ人に宛てて書いた手紙を今日拝聴した、ということです。 今日拝聴したところの内容は何かといったら、基本的には命のことですね。命。 そうすると、「いや聖書は難しい」と、そういうことを言われる方もいらっしゃるかもしれませんけれども、でも、実は、聖書よりもっと難しいのは明主様の聖言ですよ。 だから、もし聖書が難しいと思っているなら、明主様の聖言の内容は理解できていないと、そう思ったほうがいいくらいですね。 だって明主様は、おそらくこれは誰も気が付かないと思うけれども、私の文章くらい難しいものはあるまいと、そう言われてますよ、「私の文章とその他」というタイトルの聖言の中で。私の文章くらい難しいものはあるまい、おそらく文字が出て以来例しがないだろうと、そう仰せですよ。 明主様のご文章は、文字が出て以来例しがないぐらい難しいご文章なんですよ。あんまりそのように思っていないんじゃないですかね、私たちは。明主様は分かりやすく書いてくださった、くらいしか思っていないんじゃないですか? だから、ここで明主様が何を言わんとされているのかというと、我々が額面的に捉える明主様の聖言のその奥があると、そういうことですね。 おそらく誰も気が付かない、と仰せのように、我々は気づいてないんですよ、その難しさに。みんなで、「ここはこう書いてあるから、おお、そうだ、こういう意味だ」くらいで、難しいと思ってない。 でも、明主様聖言は文字が出て以来例しがないぐらい難しいんですから、当然聖書より難しいですよ、明主様聖言は。 そんな今日の聖書の中で、今日は一部分だけ取り上げたいと思います。というのは、今日拝聴した部分は長いですから、そこにある大事な点一つひとつ、全部について話したらもう日が暮れちゃう(一同笑声)。 で、一つ取り上げたいのは、「和解」ということで、「和解」という言葉が出てきましたね。 世の罪過を―世の罪過と言ってもそれは私たちの罪のことですね―それをイエス・キリストの血によって神と和解してくださったと、そう書かれていましたね。 和解した、ということは、その前は和解してない状況であったということで、我々は、神様と敵対してたわけです。 我々はイエスによって神と和解したわけですから、その前の我々は神と敵対してたということであって、神様から見たら我々は敵みたいなことだったわけです。というか、本当は、神様のほうは私たちを敵とは見ておられませんでしたけれども、我々人間のほうが、神様に対して勝手に、「受け入れたくない」という敵対心を抱いていた。 我々は神様から離れて、もうどうしようもなくなっていたところ、神様は、罪を知らない方、罪をなんにも負っていないイエス・キリストという存在を選ばれて、そして、その方の十字架で捧げた血を通して、もう相いれないみたいになっていた神様と我々との間の関係を和解してくださったと、そう書いてありましたね。 だからこれは大変なことですよ。ずっと神様とは相いれない存在となるべきところを、イエスは和解してくださった。これは大変なことです。 だけど、それだけではなくて、ここに書いてあるのは、私たちに和解の務めを授けてくださったと、そうありますね(「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった」(「コリント人への第二の手紙」第5章18節))。 要は、まず認識しなければならないのは、イエス・キリストは、神と神に敵対していた我々人間を和解させるというすごい業をした。そうしたら、普通は、「イエス・キリストはすごいなあ」で終わりですよ。 でもなんと、我々は、イエスによって神と和解させてもらっただけではなくて、神様は、今度はお前たちも和解の務めをしなさいと、そう仰せなんです。 神様は我々のことを、「神と共に働く者」と仰せですよ。「神と共に働く者」。大変な表現ですね、これは。神と共に働くということは、我々の立場というのはもう神様の立場ですよ、それはね。 だから、神様は確かにイエス・キリストに和解の務めを授けた。でも、それだけではなくて、「わたしたちに授けて下さった」と書かれていますから、イエス以外の全人類、ですよ、それに対しても神様はこの和解の務めを授けてくださっている。 だから神様は、この前まで神様のことを敵としていたこんな我々であっても和解してくださって、しかもそれだけではなく、今度は、「私と一緒に働いてくれないか」と仰せであるということです。 だから、家出をしちゃった。お父さんお母さん嫌いだ、ということで家出をしちゃった。で、親としては、いつでも家に帰ってきていいですよと言ってる。そしてその家の扉を開ける鍵は、「イエス・キリストを受け入れなさい」「イエス・キリストの十字架を受け入れなさい」ですよ。その鍵を使って家の中に入ったら、そんな親に反抗してた我々であっても、親は迎え入れてくれて、そして、今度一緒に料理しようとか、一緒に買い物に行こうとか、家の修復を一緒にしようとか、そう言ってくれている状況と同じですね。 神様がお持ちなのはそういう親の愛です。我々は神様のことを敵だと思っていたけども、親心としてはそんなことなんてどうでもいいんですよ、だって神様は私たちのことを愛しておられるんですからね。 ということで、ではこの和解の務めとは一体なんだろう、我々に託されている和解の務めとは具体的には一体どういうことだろうということになりますね。和解の務めがあると聞くと、話としては「ああ、すばらしい」ということになるんですけれども、その務めとは一体なんなのか。 普通和解と言うと、例えばここに二グループあって、このグループとこのグループは敵対している。その二グループの仲裁をして、みんな仲良くすればいいじゃないかとするのが和解の務めなのかな、いろんな人とけんかせずに仲良くすることが我々の務めなのかなと思うけれども、今日拝聴した聖書の後半部分には、光と闇になんの交わりがあるのか、信仰と不信仰となんの関わりがあるのか、汚れたものからは離れなさいと、そう神様は仰せですね。 ということは、神様が我々に授けてくださろうとしている「和解の務め」というのは、決して、ただ周りの人たちと仲良くすればいいということではない。 では具体的にこの「和解の務め」とはなんなのかといったら、それは、ひと言で言えば、浄霊ですね、浄霊。 浄霊なんだけど、それは、明主様が、浄霊は二の問題で想念の世界に入った、だから「お念じしなさい」とおっしゃったように、その浄霊は、念じるということ、祈るということですね。 同じ時期に、「悔い改めなさい」とも仰せになった。悔い改めて想念でお詫びしなさいと、そう仰せになった。だから、これが真の浄霊であり、和解の務めだと思うわけですね。 神様に対して悔い改めるべき要素が私たちの中に存在しているわけです。だからそれは、教主様はお委ねすると仰せですし、渡辺先生は、それを「想念の実践」という呼ばれ方もされましたね、一時期。明主様は、それを、「お念じしなさい」という言い方をされた。だからそのことですよ、和解の務めというのは。 私たちの心の中で日常、表面的に感じるのは、例えばあの人が気に入らないとか、そういう周りの人のことを思うんだけれども、その思いが発生することになった元々の発端は、結局我々が、神様に反して人間の都合で生きていきたい、自分を主体として生きていきたいということ、それが発端になって、いろんなこの世の問題が発生しているわけです。それが発端になって、結局、周りの人と敵対するような状況を生み出してしまっているわけです。 周りと敵対するような思いは、もう瞬時に生まれますね。人間の心というのはそういうものですよね。 今日は機嫌いいなと思っていたら、ちょっとしたことで、例えば、なんでこのお店の人はこんな失礼な対応なんだろうか、あの人にはあんないい対応なのに(一同笑声)、というような思いがあっという間に湧きますでしょう、私たちの中に。 それぐらい我々の心の中というのは神と敵対するもので満ち満ちている。だから、「それを和解しなさい」という務めが我々に課されているわけです。 自分の中で、「周りの人に対してこのような思いを発生するに至る、神様に対して敵対する思いが私の中にありました」ということを思って、そして神様は私たちに和解の務めを授けてくださっているんですから、「言葉」をもって神様と向き合わなければならない。明主様は「お念じしなさい」と仰せです。念じるということは言葉をもって神様と交流するわけですから、「祈りなさい」ということですよ。 どういう言葉をもってお祈りするかといったら、そういう敵対心というのは、イエス・キリストの贖いの血汐によってすでに赦されたわけですから、いつも言っているように、湧いてきている負の思いに対して、「あなた方はもう赦されてるんですよ」ということを告げ知らせていただく。それが和解の務めです。それが神と共に働く者としての我々の務めです。 私たちの中に湧いてくる思いは、それはいろいろありますよね。誰かに敵対する思いとか、嫉妬とか、不安とか、そういう思いですね。 つい最近も、教団のほうからいろんなご報告をお聞きする中で、いや、他人事ではなくて、こういう思いは確かに自分の中にもあるなと思ったことがあったんですけれども、それは、あまり劇的ではないんですけれども、「隣の芝生が青く見える」というのありますね。これも、基本的には嫉妬の思いだとは思いますけれども、こういう思いありますよね、隣の芝生が、というの。 相手の人がどういう人生を歩んで、どういう苦しみを持っているかというのを全然知らないにもかかわらず、我々が、なにか、自分の価値や基準で相手の人を判断して、きっとあの人は幸せだろう、幸せなのはいいな、私は恵まれない、あの人はいいな、というこういう思い、隣の芝生が青く見えるという思いが確かに私の中にあるなと、そう思ったんですね。 この思いのことを考えますと、この思いというのは、結局自分を中心とした思いで、相手の立場を考えようというのはゼロですよね。 相手の人に対して、「きっとこの人は自分には分からない苦労がおありなんだな」ということを考えるのではなくて、自分の善悪の基準をもって相手の人を判断して、そして勝手に自分で苦しんでいる。 だからこれは、利他愛ではなくて、利己愛の姿ですよね。利己愛。 利己愛というのは、明主様が、人間の愛は結局は悪だと仰せになるように、神様に敵対する思いですね。 今回私がこのご報告をお聞きした時、これは他人事ではなくて、私の中に利己愛の思い、神様に敵対するとんでもない思いがあるなということを思ったんです。 そして神様は、もうそういう思いは赦してくださったと仰せですのでね、そのご報告の中でお聞きした方と共に、という思いで、私の中に存在している利己愛的な思いをお受け取りくださいというふうにさせていただきました。 だから、大切なのは、こういうことを本当に実践するということ。 以前の我々は、浄霊でしたので、浄霊というのは手を掲げますから非常に具体的ですよね。でも明主様は、最終的には、浄霊は二の問題でお念じしなさいと仰せになった。念じるとなると、今度は目には見えないですから、やらなくても周りからは分からない。 だけどこれは、善悪の戦い、明主様の聖言の「善悪の戦い」にあるように、メシア教が出ることによって、邪神というのは大変なことになってると、そう明主様は仰せなんですね。 それはなぜかといったら、邪神というのは何を願うのかというと、人間の世界の繁栄、これを彼らは願うわけです。 邪神は、人間の世界の繁栄が止まってしまうのは困るわけですね。利他愛ではなくて利己愛の世界が勝っていくことを願うわけです、邪神は。 「邪神」と言ったって、何か空想の世界の話だとか、どっかにいるのかな、ということではなくて、本当は我々一人ひとりの心の中に邪神が潜んでますよね。自分を愛したい利己愛の思いが潜んでますよね。 そして、全人類が利己愛になるのが邪神の願いです。人間の都合、人間の尺度に満ちた世界。人間の世界の基準で一番強い者が勝つ、一番金を持っている国が勝つというそういう世界ですね。武力や財力、これを一番持っている国が勝つというその世界ですね。まあ、我々は普通にその常識を前提とした世界で当たり前のように生きておりますけれどもね、普段。 だから邪神は、そういう人間を主体とした思いとか、利己愛の思いがもし神様と和解しちゃったら困るんですよ。それでは人間主体の世界が継続しないんですから。 では邪神はどういう手を使うかというと、聖言「善悪の戦い」の中で明主様ははっきり仰せですね、「頭脳を占領して想念を奪う」と、それが邪神の手口なわけです(「彼等邪神群は、本教妨害に当って役立ちそうな者が選抜され、人間一人一人に憑依される。人間とは勿論無神論者であり、唯物主義者であり、稀には唯心主義者もあるが、之は何かの動機によって邪念発生する場合邪神の虜となる事もある。邪神が憑依するやその人間を自由自在に駆使する。その手段として頭脳を占領し想念を奪って了う。例えば本教へ対して何となく癪にさわる、虫が好かない、困らしてやりたい、やっつけてやれという観念が執拗に浮ぶ。処が知性的人間にはそれに合うような想念を起させる。即ち迷信邪教であるからブッ潰すのが社会の為であると思い込ませるのである」「善悪の戦い」1950年3月18日)。 明主様がご浄霊を進めていらした時、邪神は、ああ、ご浄霊だ、ご浄霊だ、光が出てしまった、困った困ったとなっていたわけです。 でも今度、明主様が、「浄霊は二の問題で想念だ」「念じなさい」となった時、邪神はもっと困ったんですよ。だって、それまでは、なんか人間の病気が治るとか、そういう目に見える世界の話までのことだったのに、今度は目に見えない心のほうにまで明主様の光が進出しようとしてきてるわけですから、これに邪神は慌てたわけです。 病気が治るぐらいのことはいいけれども、心まで支配されたら大変だとなったわけです。 今までは目に見える世界の話だった。これが、明主様の光によって取られそうになっていた。でも邪神としては、でもまだ目に見えない心のほうは取られてない、なんとか生き残れると思ってたところ、突然明主様が、最晩年に「お念じしなさい」「祈りなさい」「心で悔い改めて、お念じしなさい」ということを言われたので、これに邪神は、まあ大慌てしたわけですね。大慌て。 というように明主様ご昇天前に大慌てしたんだけど、結局、その明主様のみ心を教団としてはずっと受け継がなかったですから、その状態は、邪神としては、しめしめだったわけです。 「お念じしなさい」ということに関しては、明主様が、「これが唯一の見本だよ」という火傷が治ってしまうエピソードがありまして(『地上天国』68号 1955年3月15日発行)、明主様としては、これからはお祈りによって進む、という道を我々に遺されたんだけれども、明主様ご昇天後、結局我々はまた手を掲げる浄霊に戻りましたのでね、邪神としてはやれやれ、しめしめ、だったんです。ぎりぎり心は取られなかったわと安心してた。 ところが今度教主様が出てこられて、「明主様はこうおっしゃってたじゃないか」ということを言い出されたので、これに邪神は困ったんですよね。これは困りました。 だって、せっかく明主様がお亡くなりになってもうそのみ心を継承する人はいない。邪神たちは、これからは人間主体の世界でいけると思って何十年間も大喜びしてたわけですからね。 でも、教主様が出てこられて、明主様はこうおっしゃってるじゃないか、浄霊ということもあるけれどもこれからは想念の世界なんだ、お念じしなさいと仰せだったじゃないかと言い出されたわけです。 で、困った邪神はどうするかといったら、明主様が、邪神は頭脳を占領して想念を奪うと仰せのように、教主様は明主様のことを仰せなのに、例えばですけどね、よく言われてたのは、教主様は布教経験が無いじゃないかと、教主様は布教経験が無いんだから教主様の言うことは聞くに値しないと、こういう言葉で自分を納得させたい人たちが出てくるわけですね。 これは、邪神がそういう人たちの中で働いてるんですよ。だって、教主様は明主様のことを話されているわけですから、本来教主様がどうとか関係が無いことのはずなのに、そういう意味が分からないことで自分たちを納得させようとする人たちが出てくる。 あるいは、教主様はもう我々とお立場も違ってお幸せであられて、物質的にも恵まれていらっしゃるから我々の気持ちなんて分からないだろうと、そういう思いですね、そういうのも湧かせてくる。 というように、教主様は明主様のみ心を伝えられようとしていらっしゃるのに、そういう本質とは全然関係無い話が出てくる。教主様の布教経験がどうだとか、教主様は豊かでお幸せなんだから我々の気持ちはお分かりにならないだろうとか、そういうことが出てくる。 これは、普通で考えたらそんなことはおかしな話なんです。でも、我々としては、教主様のメッセージを受け入れるということは、明主様のみ心をお受けするということであり、それは、神様の御心をお受けすることですから、我々の中にいる邪神はそれを必死で止めようとしているから、それこそ我々の頭脳を占領して、いろんな思いを湧かせてきているわけですね。 なので、教主様の聖言などを聞いている時、我々の心の中でささやきが聞こえてくるんですよ。「いや、あの人はああ言ってるけれども、全然布教経験無いじゃないか」とか、「あなたの人生苦しいでしょう。教主様を見てごらん。あなたの気持ちなんか分かる存在じゃないでしょう」という声、これが聞こえてくる。 そして我々は、そのささやきに負けたいんですね。負けたい。負けたほうが自分を主体として生きる道が残されますからね。いや、負けたくない方もいっぱいいらっしゃいますけれどもね(一同笑声)。でも、本質的には負けたいわけです、我々は。だって我々は、神様の真理を受けるより、自分の都合を優先して生きていきたいんですから。 だから、そのささやきが聞こえてきた時我々は、「そうだそうだ」と言って、そうなんだからこれは100パーセントお受けする必要は無い、これは明主様のみ心ではないとして、そして、「教主様の聖言はなかなか難しいです」とか言ったり、「いや、教主様は布教経験が無いからお分かりにならない」とか、「教主様では私の境遇のような人の心は分からない」とかいう理由をもって自分を納得させて、そして結局、本当の浄霊である「お念じしなさい」を実践しない、ということになってしまっている。 これは、邪神からすればもう「やった!」ですよね(一同笑声)、いや本当に。もうしめしめですよ、邪神からしたらね。 だから、邪神というのは、私たちの心の弱みを見つけてくるわけです。神様の御心を受け入れさせないために、この人の弱みはどこだろうということで、いろんな思いを我々の心に巻き起こしてきて、一方我々としては、自分が納得のいく説明で自分を納得させたいわけですね。こうこうこういう理由だから実践はできない、実践しなくてもいい、ということですね。 そういう「善悪の戦い」というのは、我々の心の中で始終行われているわけなんです。 神様のほうに心を向けるということは、「来れ」ですからね。だって、「神は光にして光のあるところ」ですから。明主様は、光のところに「来い」と仰せです。だけど、光に照らされちゃうと、結局埃とか汚れが全部見えちゃう(一同笑声)。 だから、家が汚いと人に来てほしくないのと一緒ですね(一同笑声)。「ちょっと今は難しいです」と言って断ったり、あるいは、来てもらっても、お客さんが来る部屋だけきれいにして他のところのドアは全部閉めたりして(一同笑声)見られないようにする状況と似てますよ、心の動きとしてはね。 でも本当は、神様は、その扉を全部開けなさいと、そう仰せなんです。まあ実際ね、客人にものすごいガラクタみたいな部屋を見せなくてもいいんですけれども(一同笑声)、ただ、神様としては、あなたは扉を全部開けて、あなたの汚れたところを全部見せなさい、さらけ出しなさいと仰せなわけです。 このことが邪神が一番困っちゃうんですよ。だって光に照らされたら、光には殺菌効果がありますから(一同笑声)、殺菌されたら邪神はもう滅亡するしかないんですよ。 我々は、我々の心に湧いてくる思いを―いろんなドアを―いろんな理由をつけて閉めちゃってるんですね、自分は閉めてるとは思ってないんだけど。 でも、明主様のメッセージというのは、「その戸を開けなさい」ですよ。「赦しの光が出たんだからもう戸を開けなさい」というのが明主様のメッセージですよ。 だから、教主様と私の表現がどんなに至らなくても、また、教主様と私という存在に対して、例えば布教経験が無いとか、教主様では我々の気持ちは分からないだろうとか、そういう批判のようなことはいろいろあるにしても、で、そういう批判を私は甘んじて受け入れます。でもね、明主様のメッセージは永遠不朽のものですから、これはやっぱり皆様方は受け入れなきゃいけないんじゃないかと、そう思います。 だってその赦しの光というのが救いの光であって、その光によって神様がどんどん我々をきれいにしてくだされば、もっと世の中は良くなるんですからね。 だから、私たちの心が、よりきれいに、より清々しくなればいいわけです。結局それだけのことです。 私たちは年末大掃除しますけれども、まあ、「心の大掃除」という言い方はちょっときざですけれども(一同笑声)、我々にはその心の大掃除が必要なんですね。 しかも、心の大掃除は簡単ですよ。我々が掃除をしなくたっていいんですから。神様が「私の光によってきれいにする」と仰せくださっている。 本当の大掃除は大変ですね。換気扇のここの汚れどうするの?ということありますからね(一同笑声)。それに対して人間は、いろんなスプレーとかを使ってその汚れを取るんですけれども、神様は神様の光によってもう我々の心を一撃できれいにされちゃうんですからね。 だから我々としては、その神様の力を信頼して、思い切って心のドアを開けると、そういうことなわけです。 また我々は、「奇蹟ほしい」「奇蹟ほしい」と言ってますね。 明主様聖言の、有名な、「神を見せる宗教」、ありますね(1952年10月1日)。信じても信じなくても神様は奇蹟を与えられるんですよ、だから、私が言ってることを信じても信じなくても浄霊をすれば治っちゃいますよ、だからすごいでしょ?というのが明主様の、なんというか、ご自慢でしたよね。それが明主様の自負心であられた。 それだけ神様の救いの力はすごいんだということですね。なんか人間が一生懸命「どうだ!この力で治すぞ」としなくても、一生懸命信じなくても、治る。それが明主様の自負心であられた。 ということは、昔は、信じても信じなくても「浄霊受けなさい」。今は、信じても信じてなくても「お念じしなさい」、信じても信じてなくても、祈りなさい、ですね。 だから、信じても信じなくても、実践したら、なにか起きると思いますよ。そうなのに、我々は、ありとあらゆる理由をもって実践しないことを正当化して、なかなか実践しない。 実践するかしないかというのは、これは、祈り、食、音楽のすべてに通じることです。 「祈り」は今言った話のことですね。 「食」は、もちろん、冒頭でもお話ししたように、決して強制ではないけれども、例えば、体調が何か悪い、とか、お医者さんからも事実上見放された、という時に、信じても信じなくても、明主様のミロクの世の菜食というのを信じて実践してみたら、なにかあるかもしれませんよ。 「音楽」も、分かっても分からなくても、「声を出して歌ってみよう」ということで歌ってみたら、なにか起きるかもしれないですよ。 「祈り」と言ったって、これは、昔私たちが「浄霊」と言っていたことと同じですからね。明主様が「お念じしなさい」と仰せになったわけで、ただそれを、「祈り」という新しい言葉をもって明主様の浄霊の業を進めようとしている、私たちは。 だから、信じても信じなくても、今の救いの三本柱である祈り、食、音楽の実践をしてみることによって、私は、なにか一人ひとりに起きると思います。いわゆる奇蹟ということですね、それがどういう形で来るかは分かりませんけれども。 というように我々は、とにかくずっと目に見える奇蹟を求めているんですけれども、明主様の「神を見せる宗教」を読むと、メシア教は、とにかく、疑っても、いろいろご利益もたらす宗教ですよと、そう書かれていますね。 で、このご利益というのも、中途半端なご利益で喜んでちゃだめだと、そう明主様は仰せです。そうではなくて、むしろ医者に見放されるような大病になったにもかかわらず、それが治って、神から命をいただいたことがはっきり分かったら、それこそが正真正銘の信じていい宗教なんだと、そう仰せですね。 僕は、この聖言の額面的な意味はもちろんありますけれども、先ほど明主様のご文章くらい難しい文章はこの世に存在しないということを言いましたように、ここにある本当の意味というのがあると思うんです。 医者から見放される―我々は、医者どころか神様からも世の中からも見放される罪人という存在だった。もう滅んでいく存在であった。 だけど我々は、明主様がメシアとして新しくお生まれになったことによって、神様の命があるんだ、人間は70歳、80歳で死んでしまうような存在ではなく、実は神から命をいただける存在なんだということを知るに至った。神様からいただく命といったら、それは永遠の命ですよ、当然ね。 最初明主様は、物質的な奇蹟によって神様がいらっしゃることを示してくださった。でも最終的には、明主様は、ご自分の中にメシアという神的魂があると、それをお示しくださった。 ということは、我々は、明主様というご存在を見たことによって―これは現身の明主様ではないですよ、明主様の中にいらっしゃる「メシア」というご存在のことです—を見たことによって、本当は我々は神を見たんです、「神を見せる宗教」の言葉通り。明主様の御姿そのものが、もう何よりの証拠なんです。 「凡眼に映り得べしやいと尊き神の御姿現はれ給ふも」。 ありますね、明主様の御歌。 だから、もう現れたんです。明主様がメシアとして新しくお生まれになったことによって、神の御姿はもう現れた。 我々は、どれだけ奇蹟をいただいても、ずっと、「奇蹟ほしい」「奇蹟見たい」「神様見たい」と言ってたじゃないですか。今も言ってるじゃないですか。 でも、メシアとして新しく生まれられた明主様のご存在そのものが神様の御姿であるんです。 しかもですよ、これは、明主様だけではなく、我々もなんですよ。我々も、我々の中にメシアという神の御姿を賜ってるんです。 だから、「奇蹟見たい」「神様見たい」というなら、鏡を見ればいいだけの話ですね。鏡を見て、「あ、私の中に神様が生きていらっしゃるんですね」、だけですよ。それが神様から命をいただくこと、なんです(「というのは医師に見離された大病が治って、神様から生命を頂いた事がハッキリ分ってこそ、全身全霊を打込んでも間違いない信仰である」「神を見せる宗教」)。 明主様は、この「神を見せる宗教」の中で、メシア教は自力じゃなくて他力でご利益をいただけるんだと仰せなんですが、こんな他力なことないですよ。鏡の前に行くだけですよ。鏡はありますもんね、どこにでも。先ほどもトイレに行ったらありました(一同笑声)。そこに行って自分の姿を見るだけでいいんですから。 我々、初期のころは、ずっと、病気が治った時に、「あ、本当に神様いらっしゃるんだ」の世界でしたよ。 でも最後明主様は、ご浄霊は二の問題で想念なんだ、私はメシアとして新しく生まれたんだと仰せになったことによって、神様の姿をまざまざと我々に見せてくださった。 我々は、自分のことを人間だと思ってますけれども、我々の中にいらっしゃるのは神様ですからね。 だから明主様は、「神を見せる宗教」の中で、メシア教は簡単に神を見せられますよと仰せですけれども、まさにその通りじゃないですか。 だってメシア教が訴えているのは、イエスだけが特別なんじゃない、明主様だけが特別なんじゃない、全人類みんなの中に神様の魂があるじゃないか、みんな神様の魂をいただいてるじゃないか、だから鏡を見なさいと、それを訴えている。 そのようにして我々は、なんと人間の子供ではなくて、神様の子供という本当にすばらしい存在として、神と共に和解の務めの働きができますよと、そういうことなんです。 今回教団浄化が起きまして、そうすると、教団が割れてしまいました、自分の教会が割れてしまいました、というような、マイナス的に見る見方が出てきますね。 でも、今日拝聴した聖書の箇所に、光と闇になんの交わりもない、だから、彼らの間から出て行きなさい、離れなさいと書かれていますね。 神様のお立場からすれば、離れるというより、汚れていて受け入れられないものをご自分の口からペッと吐き出したわけです。 我々はまだギリギリ神様の口の中で、神様の唾液の中でモゾモゾッとしている段階ですね、今(一同笑声)。教主様に結ばれているということは明主様に結ばれているということであって、明主様に結ばれているということは神様に結ばれていることですから、まだ吐き出されてませんね。 そしてまた、汚れたものから離れて清くなれば、私の息子であり、娘としてあげるよ、私の子供としてあげるよと今日の聖書に書いてありましたね。ここ、あなたはすでに私の息子であり娘だよとは書かれていないですよ。「わたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう」(「コリント人への第二の手紙」第6章18節)とあります。「なるであろう」ですから、将来のことです。ということは、これから、新しく生まれる、ということです。 だから、分かれてしまった、ではなく、今回教団を分けてくださったおかげで、我々は初めて、神様に本当に受け入れられる存在となり得たわけです。 もちろん、口から吐き出された汚れたものと言ったって、それを神様はそのまま捨て置かないですよ。そういう方々も、いつか必ずや迎え入れられる。でも、今回あのようなことを起こしたことによって、まずは一部の方々―皆様のことですね―にご自分の御心を分け与えようとしておられるわけです、神様は。 だから逆に言えば、そういう汚れた方たちがいなければ、と言いますか、こういうことがなければ、教主様がおっしゃろうとしている明主様のみ心である、神様の子供として新しく生まれる、ということをはっきり受け入れることはなかったわけですから、そう考えますと、今の道が歩めているのもそういう方たちのおかげでもありますよ、本当はね。だから、ただ一部の方たちを闇雲に批判できるものではないんですね。 なので、まあ、我々の中にいろんな思いが湧きますけれども、神様は我々をご自身の子供とするために今私たちを養い育ててくださっていることは間違いないんです。 今日の明主様聖言は「新人たれ」でした。明主様は、私たちに、新しくなりなさいと仰せですね。二十一世紀的文化人になりなさいと仰せです。二十一世紀的文化人。 二十一世紀ということで言えば、明主様は、「二十一世紀」というタイトルの聖言も書かれましたね。 この聖言は、ご存じのように、1926年の時、明主様が、有名な、「紙と筆を用意しろ」と二代様に仰せになって書かれた時の内容の聖言ですね。1926年ですから、ご立教前の話ですね。大本時代の話です。 しかもこれは、奇しくも、1926年のクリスマス、12月25日の夜、クリスマスの夜、明主様がなにかしゃべりたくなってしまわれて、そして仰せになったのが、「紙と筆を用意しろ」。なんかしゃべりたいなあと思われて出てきた言葉が、「紙と筆を用意しろ」、ですよ。かっこいいなあ(一同笑声)と思ってね、私は。なんか口から出てくるぞと思って音を発したら、その音は、「紙と筆を用意しろ」(一同笑声)ですからね、かっこいいですよね。 それで、その時、神様から百年後の世界を知らされたわけですが、それをもとに書かれたのがあの「二十一世紀」のご論文ですので、だからそれは、2026年のことですよ。明主様が「二十一世紀」のご論文で書かれていることは2026年のことですよ。 ということは、今はもう2024年ですから、ほぼ到達しましたね。「二十一世紀」の中に書かれていることは、もう十分実現されていることもありますし、また、方向性としてはだいぶ実現してるんじゃないかということもありますね。とにかく、というようにして、明主様は百年前の時点で、百年後の世界を見据えておられた。 ということは、2024年に生きる我々は、二十一世紀的文化人になろうとしてたんじゃもう遅いんですよ。だって明主様は、1926年の時にもう2026年の話をされてて、今やその2026年に到達しようとしてるんですから。 ということは、2024年に生きる我々は、これから百年後の2124年であり、二十二世紀を見据えて歩まねばならない。 明主様の聖言「新人たれ」が書かれたのは1950年で、その時まだまだ1900年代、二十世紀に生きている中にあって、明主様は、二十一世紀的文化人になれと仰せになった。 で、今我々は二十一世紀に生きていて、それもすでにもう四半世紀過ぎようとしている。ということは、我々は、二十二世紀的文化人にならなければならない。 だとしたら我々はどうやって生きていけばいいのだろうか。明主様は、二十一世紀にどうすべきかというのは遺してくださっていたけれども、では、二十二世紀的文化人になるにはどうしたらいいのかというと、それが実は、今このメシア教が神様から教えられていることなんだと、そういうことですね。 祈り。私たちの祈りは、今の二十一世紀の人から見たら「なんだそれは」という内容ですよ。世の人が、ありません、ありません、ありませんのところを、あります、あります、ありますという祈り。神様が寝てます、寝てます、寝てますと言っているところを、起きてます、起きてます、キリストの再臨を待ってる、待ってる、というのを、待ってません、待ってません、というのが我々の祈りですからね。 だから、たとえ今の二十一世紀に生きる人にこの祈りが受け入れられないとしても、実は、この祈りこそ、二十二世紀的文化人としてふさわしい祈りであるし、また食のこともありますね。 近い将来必ずや到来するミロクの世。そのミロクの世は菜食だと明主様は仰せですね。もしこれが実現しなければ―明主様の「ミロクの世には全人類は菜食に」が実現しなければ―明主様は神様のみことばを託されていないご存在だったということの証明になってしまいますし、また、明主様はただの嘘つきの教祖でしたということになってしまう。で、私個人のことで言えば、私は明主様を嘘つきにはしたくないのでこの食を実践したいと思うんですね。 現在我々が推進している音楽も、今話したような祈りにあるような、神様はすでに現れた、光はすでに現れたということをもとにした新しい音楽ですからね。 というように、明主様が1926年のクリスマスの日に百年後の世界を神様から教えられてそれを見据えて歩まれたように、今2024年に生きる我々は、二十二世紀を見据えて歩まないといけない。 この新しい世界について、明主様は、ミロクの世とかいろんな言葉をもって表現されていますけれども、とにかく、そういう、新しい世界、新しい時代を樹ち立てるため、神様は今年もどんどん進まれる。 まあ、その時には、ここにいる人、僕も含めて誰も生きてませんね(一同笑声)。でも、この地上での神様の創造の業の推移はありますけれども、この本当の祈りを通して救いを進めていくことは、我々は死んでも天上で続くことですし、全く新しい音楽をもって神様をお讃えもしますし、食というのもまた違う形での養いが天上ではありますからね。 だから、二十二世紀はもう私は死んでるから関係無いやではなくて(一同笑声)、明主様であっても、百年後にはもうこの世にはおられないことが分かっていらしても、すばらしい神様の未来をこの世で造っていくという業にお仕えになって、そして、そういう未来に向かってご自分の足跡をこの地上に遺された。 だから明主様の信徒である我々は、二十二世紀を見据えて、新しい時代を神様がどんどん創造されるという歩みの中で進んでいかないといけない。 なんか「祈り」とか聞くと、世の人からは、今日の明主様聖言にもありましたように、なんだ宗教か、古いなと思われるかもしれないけれども、全然そうじゃないんですよ。我々は、本当に新しいことを全人類の救いのために今進めようとしてるんですからね。 というように、今年一年、神様はいろんなことをどんどん新しく、新しく、新しくとしていかれます。我々は新しいことには抵抗があるんですね。現状維持が好きですから、我々は。だけど、神様のほうはどんどん新しく、新しく進まれますのでね、そちらの方向に、我々、聖なる家族として、共に力を合わせて乗り越え、また進んでいきたいなと思っております。 よろしくお願いします。