皆様こんにちは。 お話ししたいことはありましたけれども、歌のほうで全部言っていただいたのでこのまま席に戻ろうかな(一同笑声)というのは冗談ですけれども、コーラスの方々、練習等大変だったと思いますので、もう一度私たちで拍手しましょう(一同拍手)。 僕が座ってて感じたのは、鬼塚さんのサックスの時、女性陣の目が(一同笑声)、ハートになってるのを感じました、ひしひしと(一同笑声)。いや、かっこよかったですよね。僕も見とれました。男ですけれども見とれてました。参拝席最前列の至近距離で見とれてました(一同笑声)。 いろいろあった今年もこれが最後の祭典ということで、このように華やかに一年の最後を締めくくらせていただいて、ありがたいことだなと思っております。 今年を振り返ってみますと、自分の中で、この言葉が最も象徴的だったなと思うのは、「信仰の純粋性」という言葉です。信仰の純粋性。 これは、アフリカのアンゴラで「土の聖地」の地鎮祭・聖別式をしまして、そこにアフリカ全土から2万人の方が集ったわけですが、その時、アフリカの方々は物質的には貧しいにもかかわらず――というか、貧しいからというんですかね、本当は――アフリカの方々の信仰心、信仰の純粋さがすごいなということで、この言葉を皆様にお伝えしました。 アフリカの方々は、「自分の血には教主様の血が流れている」ということをよく言われますけれども、「教主様を明主様として受けとめる」という、その信仰の純粋性、これがすごいということで、我々もそれに倣わせていただこうじゃないかということでしたね。 我々のように日本という国に住む者は、物質的に恵まれてしまったがゆえに、なにか、神様への純粋な信仰心を忘れてたんじゃないか、我々も、昔の明主様時代の先達の方々がお持ちだったような、そういう清い、純粋な信仰を取り戻そうじゃないかと、そういうことでしたね。 というように、アフリカ信徒の信仰の純粋性ということはあるんですけれども、もう一つ、信仰の純粋性ということで我々が思い出すべき大切なことがあると思うんですね。それは、明主様の信仰の純粋性ですね。我々の教祖である明主様の信仰の純粋性。 純粋というのは普通子供とかに使われる言葉ですので、我々は、明主様というと、純粋というよりかは、なにかこう、いろんな活動をされましたし、世の中的に言えば、難しいというか複雑なことをされている印象を持ってたりとか、あるいはもう手の届かないところにいらっしゃるお方だということになりがちですけれども、僕は、明主様の信仰の純粋性というのがあるんじゃないのかなと思うわけです。 例えばですが、2週間前の本部での新穀感謝祭の時にも申し上げたように、農業ということに関して、明主様は、一見非常に単純な考えですけれども、土というのは、そもそも、その土で作られる農作物を通して人類を養うために神様が造られた物であると仰せですね。これ、非常に簡単なアイデアですね。単純なアイデア。 でも明主様は、一途に、もし土というのを神様が造られたんだとしたら農薬とか肥料は使うべきではない、神様が土を造られているなら、土そのものに「無限の肥料」があると仰せになった。無限の肥料ですよ。無限の肥料が土そのものにある。 もちろん、これは当時も、そして今も科学的に証明されてたわけではないですが、明主様は、神様が人類を養うために土を造ったならば、その中に必ず無限の肥料があるんだと信じられたわけです。 そして、もし土は神様が造られた物ならば、これは尊い、清い物なんだ、だから汚してはいけない、ということで、鶏糞とか牛糞とか馬糞とか、そういうのを土に入れるというのは、人間の分際で神様を軽蔑してる、神様への反逆だと仰せになった。 土に糞を入れる――そんなことみんなしてますよ。でもそれは、明主様からしたら神様への反逆なんです。ものすごい強い言葉ですよ、反逆というのはね。 というように、神様が土を造られたならば、そして土が清い物であるならば、ということを、架空のことではなく、現実的に自然農法という農法によってご自分の信仰を形にされようとしたわけです。 また、これも2週間前にお話ししましたように、芸術ということに関しても、「美はしき花見る毎に意ふかな神のたくみの妙なる御技を」という御歌があります。 花をご覧になるたびに、ですよ。花をご覧になるたびに神様のことを思われるというこの明主様の純粋さはすごいですね。この一途さ。明主様は、お花をご覧になるたびに、「ああ、神様はすばらしい」と思われていたんです。 確かに我々もなにかを見てときめくということはありますね。若い時はあんなにかっこよかったのに、何年間も一緒にいたらもう顔も見たくない(一同笑声)ということもありますけれども、でも、明主様の神様に対する思いは一種の恋愛心ですよね。お花をご覧になるたびにときめかれて、神様のことを思われていた。 これも簡単な考えです。創造主は神様であって、お花も神様が造られた物だという考え。これは、口で言うのは簡単ですが、それを、お花をご覧になるたびに「神様すばらしいな」と思われたり、芸術品をご覧になった時も、「本当の創造主は神様なんですね」と思われる。この明主様の神様に対する純粋さ、一途さはすごいですね。 そして明主様は、神様の最高芸術品は人間なんであって、人間の身体には自然治癒力がある、だから、肥料が土を汚すのと同じように、薬は毒なんだという薬毒を訴えられた。神様がせっかく造られたこんなにすばらしい身体に薬を使うなんてあり得ない、神様が絶対よくしてくださるんだ、ということで、その信仰心の現れとして薬毒を説かれたわけです。簡単に言えば薬を摂取しない、ということです。 そうすると、人によっては、人間の身体も土も神様が造っておられるように、いろんな肥料や鶏糞とか薬だって神様が造った物じゃないか、だから使ってもいいじゃないかという考え方もありますね。すべて神様が造った物じゃないかという理屈ですね。ま、確かにそれは事実ですね。 でも、もしそれがまかり通るなら、もうなんでもいいですよ。そしたら、どんな考えを持ってもいいということになりますよ。人を傷つけるとか、殺めるような思いを持ってそれを実行したとしても、それも神様がされてるんだからいいじゃないかとなりますね。ま、神様がすべてされてるのは確かに事実ではありますね。 でも、もしそうだとしたら、もう明主様は宗教団体を立ち上げる必要無かったですよ。いろんな思いも神様が思わせたものだ、それでいいじゃないか、すべて神様が造られてる、それでいいじゃないか、ということなら、なんで宗教団体を立ち上げる必要があったんですか? 我々も神様のことを世に伝えようとする必要無いですよ。神様のことを信じない人もいる、それは神様がそうされてるんだ、それもいいんだ、うん、そうだ、で終わりじゃないですか。 だから、やはり、基準はあるべきですね。それが今話しているような薬とか農薬とかの明主様の基準であって、そういうことを通して神様のことを知りなさい、神様のことを愛する道を歩みなさいということですから、我々は、最低限、その明主様がお示しの基準は尊重しなければならない。 その基準を通して、我々は世に神様のことを知らしめたいわけです。で、我々がやろうとしていることはムーブメントですよ、一種の。世界メシア教という「宗教」だとなると、宗教には教義があってこういう祭儀があってみたいになりますけれども、神様は生きておられるんですから、ご神業のありようというのは常に変わる。 だから我々がしようとしてるのはムーブメントですね。ムーブ、動く、ですから、常に動いてるということですね(真明様追記:私はこれを「メシアムーブメント Movimento Messias」と名付けたいと思います)。 世の人に対して我々の信念を訴えて、薬毒だとか農薬や肥料や鶏糞とかは全部無しだと言うと、もう気違い扱いされてなかなか理解してもらえないと思うかもしれませんけれども、明主様時代はもっと厳しかったですよ。それでも明主様はこのことを訴えられた。 でも今は、お医者さんでも薬の使用に反対しておられる方々もおられるし、あるいは、まさに明主様が仰せになっていたような、本当になにも使わずに農作物を生産しておられる方々もいらっしゃいますね。我々より先にそこにたどり着いておられる。 一方の我々は、EMだなんだと言って妥協して明主様の基準を捨て去っている。でも本来、明主様は厳しいですよ。そういう薬とか肥料とか鶏糞やEMなどの不自然な物を使用するのは神様への反逆なんですからね。 でも、とにかく明主様の基準を伝えたところ、そんなおかしな考え方があるかということを言われることもあるかもしれませんね。だから、場合によっては、世の中でそういうことを訴えてくださってるお医者さんの考えとかをちょっと我々が勉強する必要もあるかもしれませんよ。であれば、お伝えする時に反対されたとしても、いや、こういう考えもあるよ、お医者さんでもこういうことを言ってるよと伝えられますね。明主様時代はそれがほぼなにも無かったんですから、逆風はもっと強かったんですよ。 我々がもたもたしてる間に、世の中では、明主様が仰せだったいろんなことを我々より先に訴え出してるぐらいですね。だから、そういうところから学ばせていただくということも場合によっては必要かもしれません。 どちらにしろ、明主様は貫かれましたよね。お亡くなりになる前年、脳溢血という病になりまして、普通だったら病院に行きますけれども、明主様は行かれない。だって、これはいいことなんだということですからね。そして、脳溢血になられてから10か月後にご昇天になる。つまり、神様への愛情を貫かれたわけですね。 これは、人によっては、「医療を受けておけばもっと長生きできたのに何してるんだ」と言われることかもしれない。でも明主様は神様への愛を貫かれた。これは絶対にいいことなんだ、だから私は神様に自分の身を委ねるとされて医療は受けられなかった。 でも、僕は思いますが、医療にかかって、薬だ、手術だってしたら、10か月どころじゃなくて、もっと早くご昇天になってたかもしれないですよ。 医療にかかるからって必ず長生きできるかどうか、それは分からないですね。アメリカの研究では、医原病と言って、医療の介入が原因で亡くなる方というのが、心臓病やガンに次いで死因の3位(真明様追記:少なく見積もっても3位ということとされています)という研究もあるみたいですよ。医療が原因で亡くなる方が、脳卒中のような病気で亡くなる方よりも多いということです。 だから、分かりませんよ。明主様が医療をお受けになっていたら本当により長生きされてたかどうかは分からない。もっと早く亡くなられてたかもしれない。 どちらにしろ、明主様は、世の中から見たらおかしいんじゃないかということなんだけれども、そういう病の中にあっても、神様が良くしてくださるという神様への愛を貫かれてご昇天になった。 そして、神様への愛を貫かれて死んだと言ったらもう一人いますね。それは、イエスですね、イエス・キリスト。 イエス・キリストは、今となっては、聖書があって、すばらしい人だとされてて、ベツレヘムで生まれてどうだこうだという物語が出来上がってますけれども、二千年前生まれた時は、ただの大工の息子ですよ。ただの大工の息子がぽこっと生まれてきたと思ったら、自分は全人類の罪を贖うということを言い出した。 罪なんて、形の無いものですね。いや、なにか目に見える具体的な物を取り除くと言ってそれを実行したら、うん、それはすごいことだということになりますけれども、全人類の罪を取り除くなんて、こんな抽象的なことないじゃないですか。ま、本当は最も具体的なことなんですけれどもね。 ということでこの目的のため、イエスは、当時のユダヤ人の権力者たちに戦いを挑むわけです。で、当時の宗教指導者たちは、自分はこういう立派なことをしてる、こういう行いもしてるから罪人じゃないとしてるのに、イエスは、全人類が例外なく罪人なんだと言い出した。 そしたらこの指導者たちは困っちゃうじゃないですか。宗教的権威が地に堕ちてしまう。だって彼らは、自分たちは十戒を守ってる、献金もしてる、これをしてる、あれもしてる、だから他の一般民衆より自分たちは上の存在なんであって、宗教を指導する立場にあるんだとしてたのに、イエスが来て、全人類もれなく罪有りなんだと言い出したら困っちゃうじゃないですか。 だから、イエスがしたことは何かといったら、それはユダヤ教を破壊する行為だったんです。十戒をもとにしてたくさんの戒律でできていたユダヤ教を破壊する行為だった。 だからこれは、今となってはすごい話ですけれども、当時は、そんな強大な組織に対して一人で挑んで、人類の罪を贖うと言って、この人は何を言ってるんだろうぐらいな感じだったんですよ。 しかも、なんかすごい力がありそうだなと思ってたけれども、戦った結果どうなったかといったら、30歳ちょっとで十字架にかかって死んでしまって、なんだ結局死んじゃったじゃないかと、それくらいのことです。 いや、今はイエス・キリストの信徒とされるキリスト教徒はたくさんいますけれども、当時はもう異端も異端も異端だったんですよ。人類の罪を取り除きますということでユダヤ教に戦いを挑んで、そしたらもうすぐ死なれてしまった。今はすごいきれいな物語になってますけれども、イエスがしたことは普通ならもう頭がおかしいと言われることですね。 でもイエスは、神様から託された使命を果たさなきゃいけないというその一途な思いを貫かれた。それがイエスの信仰の純粋性ですね。だって逃げようと思えば逃げられたんですよ。 最後、ゲツセマネの園で弟子たちと祈られている時、逃げようと思えば逃げられたじゃないですか。でもイエスは逃げなかった。その場に留まって、結局、ユダがその指導者たちを連れてきて、イエスは捕まっちゃうじゃないですか。なんで逃げなかったんですか?だからそれは、イエスは信仰の純粋性を貫いたわけです。 明主様のご人生の中で、明主様の信仰の純粋性を表すエピソードの内の一つに、メシアとして新しく生まれると仰せになった時、伊豆山神社にお宮参りに行かれるというのがございますね。 実際は、途中まで行かれたんですけれども、体調を崩されたので別の方に代参をさせたわけなんですが、要は、脳溢血になられて、明主様はそれをメシアとして新しく生まれたことだと思われて、新しく生まれたんだから伊豆山神社にお宮参りに行くと、そういうことですね。 これ、普通なら、頭がおかしいのかなというエピソードですよ。だって、いわば71歳のおじいさんが伊豆山神社に行く。周りの人は、「おじいちゃん今日は何しに来たの?」と言ったら、「今日はお宮参りに来た」となりますね。そうなると、「お宮参り?あ、お孫さんが生まれたんですね」ですよ、普通なら。それに対して、「いや、私の中で神の子であるメシアが生まれたからお宮参りに来た」と言ったら、聞いた人はポカンとするだけですよ。 明主様、ものすごい純粋性ですよ。これを形に現すということはすごいですね。自分はメシアとして新しく生まれた、どうだすばらしいだろう、なら分かりますけれども、そうではなく、なら伊豆山神社にお宮参りだ、となるわけですから、この子供みたいな純真性、純真さはすごいですね。 信仰の純粋性といっても、信仰というのは結局神様と子供の親子関係ですからね。 明主様の、自分は新しく生まれたんだからそれを意思表示させていただこう、お宮参りさせていただきます、というその純真さはすごいですね。 神様が生きておられる――これを口で言うのは簡単ですけれども、それを明主様のように自分の生きざまとして現して生きていくというのはまた別の話ですね。 我々のことを考えると、まず、そもそも神様は生きておられない、神様という存在はいらっしゃらないと言うんだったらもう話が始まりませんけれども、だけど本当は、神様がいないとか、宗教を信じないという思いすらも神様が湧かせてくださってるんですよ。 無神論のように、自分は神様のことは信じないという思いすらも神様が湧かせてくださっている。だから、全人類、本当は誰もが逃げ場が無いんです。どんなに「信じない、信じない」と言っても、信じないようにさせておられる方がいらっしゃるんですからね。だから逃げ場は無いです、本当はね。 だけど、もし神様が生きていらっしゃるとして、今我々に神様が、「わが子よ」と話しかけてこられたら、我々はなんとお答えさせていただけばよいのでしょうか。こういうことは起こり得ますよ、だって神様は生きておられるんですから。神様が突然、「わが子よ」と言ってこられる可能性はありますよ。その時我々は、まず、「はい、お父様」ということになるでしょうね。 そのあと何を言うかというと、いろんなお返事の仕方はあると思いますけれども、そのうちの一つとしては、「お父さんは日本語を話せるんですか?」ということがあり得ますね。「お父さんは日本語を話せるんですか?」。 だって、我々の信じている神様は、エホバとかヤハウェと呼ばれるユダヤ教、キリスト教の神様なんでしょ? だから、「え、お父さん、日本語を話せるんですか?」ということになりますね。そうしたら神様は、「話せるよ」「しかも、日本語だけじゃなくて、世界中のいろんな言語も話せるよ」と言われて、それに対して我々は、「お父さんすごいね」となって、神様は、「そうだよ」「だって、私がすべての言語を造ったんだから」。それに対して、「お父さんが全部の言語を造ったの?」となります。 というやり取りを神様はされたいんです。神様としては誇りたいんですよ。息子に、娘に、「私はすごいだろう」と自慢したいんです。 でも我々は、自分で学んでこの言語話せます、と思って、まさか言語を話す力を神様からいただいているなんて露にも思わないから、だから神様から話しかけられた時に、「え、神様は日本語を話せるんですか?」ということすら思い浮かばない。なにかの言語を話せるのは当たり前だと思ってますからね。自分にはこの能力がある、知恵もあると思い込んでますから。 明主様がメシアとして新しくお生まれになったということは、明主様はどんどんどんどん純粋になられたということですね。「新しく生まれる」。我々は新しく生まれたいんでしょ?新しく生まれるというんだから、それは、もう一度赤ちゃんになるということですよ、だって明主様はお宮参りまでされてるじゃないですか。 イエスは言いました。「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」。新しく生まれなきゃいけないということは、赤ちゃんになれ、純粋な存在になれということです。 でも我々は、明主様をただ高みにおいて、そして、なんか世の中のいろんな考えとか宗教とか哲学とか科学とか環境問題とか倫理とか道徳とか世の中の常識とか、そういうものにがんじがらめになって、全然純粋さを忘れちゃってるじゃないですか。明主様がお持ちだった純粋性を忘れてしまってるじゃないですか。でももし我々の目標が新しく生まれることであれば、我々が目指さなきゃいけないのは、ご晩年に神様と明主様がされてた対話の世界ですよ。そこを我々は目指さなきゃいけない。 「私は新しく生まれました。お宮参りに行ってきます」「そうか」という、親と子の純粋な会話があったんです。でも、今の我々は全然そこにたどり着けないじゃないですか、いろんなものを背負っちゃって。 我々は、なまじっか世の知恵も付いちゃってますから、全然赤ちゃんのほうに戻れないじゃないですか。自分には知恵がある、知識もある、苦労もしてきた――そういうことを鎧のように着けてしまってるじゃないですか。 だから、我々の向かってる方向が逆なんです。明主様は、高みに至られたのではなくて、新しくお生まれになったということは、一旦赤ちゃんになられたということですよ。 朝起きて、目が覚めました。この時我々は何を思うべきなんだろう。よく、「今日も生かされて感謝します」ということを言いますが、そんな抽象的なことではなくて、そもそも、朝起きた瞬間、「あ、自分は呼吸してる」ということを思うべきですね。だって、呼吸は自分の物じゃないんですから。呼吸といったって、神様の物ですよ。 だから、朝起きて気づくべきは、今自分は呼吸してます、目を開けて見ることができます、音を聞くことができます、考えることができますと、そういうことであるべきですね。 我々は、朝起きた時に、「あ、今自分は呼吸してます。神様ありがとうございます」と思わないじゃないですか。いや、まれに思う時もありますけれども、普通は思わない。ということは、それだけ呼吸も含めたすべてのことを当たり前だと思ってるからですよ。今私、簡単な話をしてるんですよ。全く難しい話をしているのではない。 でも、こういう話をされても、我々はピンとこないんです。というのは、我々は、自分は呼吸もできるし、目も見えるし、脳も普通に働いてるし、何かを味わうこともできるし、言語も普通に使うことができるように思ってますから、だから、「そんなこと言われても、自分はそういうことは全部自分の力でできるので、別に神様は必要ありません」となっている。自分としては別に神様の必要性は感じないので、自分の力で生きていく、となっている。 でも本当は、神様が全部その力を与えておられるわけですから、それを認めないということは、要は、自分の肉親を前にして、「自分は自分の力だけで生きてきた」と言ってるのと同じですね。 神様がいない、神様を信じないというのは、ただ甘えてる子供の姿ですね。自分はすごい、自分はすごいと言って親を認めないんですから、神様からは、ただ独り立ちをしてない存在として見られちゃいますよ。まだお前は甘えてるんだなと言われておしまいです。 しかも、自分にはそういう能力があると思ってひとたび世に出ると、いろんな方がいらっしゃいますね。目が見えない方もいらっしゃるし、耳が聞こえない方もいらっしゃるし、物を味わうことができない方もいらっしゃるし、もっと具体的に、手足が無い方もいらっしゃいます。あるいは事故でそうなっちゃう方とかね。我々はそういう方たちに出会った時にどう思うんですか? ただ、「ああ、かわいそうだな」と思うのでしょうか。「自分には見る力も聞く力もあるけれども、この人は見えない、あの人は耳が聞こえない。かわいそうだな」と、そのように思うのでしょうか。 そうではなくて、本当は、神様がそういう方たちにその御用を担わせておられるのは、神様が私たちに対して、「あなたは本当は目が見えなかったのを私が見えるようにしてあげたんだ。あなたは本当は盲目だったじゃないか。私があなたに見る力も聞く力も与えてるじゃないか」と、そう仰せになっている。 呼吸のことも、そんなことを言われても自分は呼吸できますと思って、せいぜい我々が考えるのは呼吸法くらいですね、こういう呼吸法がいいとか。でも、呼吸法うんぬんの前に、そもそも神様が呼吸する力を与えてくださっている。だから、そのこと無くしてどんな呼吸法を一生懸命したってなんの意味も無いんですよ。 しかも、自分は呼吸できると思ってたって、脳とか心臓をやられたら一発で呼吸は取られますね。神様が我々を引き上げようと思われたら、我々なんてすぐ死んでしまう。 だから、世のいろんな方々――目が見えない、耳が聞こえない、手足が無いなど、そういう方々に出会わせられるのは、我々がそういうことへの認識があまりにも無いからですよ。だから神様が、「あなた方が元々どういう姿だったのかを少しは知りなさい。今私はあなた方を大いに恵んでいるんだということを少しは知りなさい」ということを私たちに伝えようとされている。 ま、いいですよ、自分は目が見えるけど、この人たちは目が見えなくてかわいそうだな、なんか慈善事業でもしようかなと、そういう生き方でもいいですよ。そういうことは世の中でやっていることですね。もちろん、それ自身は尊い営みではありますけれどもね。 でも我々は、「本当はすべて神様の物であった見る力も、聞く力も、味わう力も、呼吸する力も、考える力も、身体を動かす力もすべて自分の物としてしまったがゆえに、神様はこういう方たちを使って、自分がどういうところから救われたのかを教えてくださろうとしていらっしゃるんですね」としたら、それが本当の意味で人の心の痛みが分かるという意味だと思いますよ。本当の意味で人を思いやるというのはこういうことだと思いますよ。 ただ、自分はできます、あの人はできなくてかわいそうだな、という思いやりは思いやりではないですよ、本当はね。ああ、自分のためにこういう御用に仕えていらっしゃるんだ、自分のせいだったんだ、こういうところを共に救っていただいたんだという姿勢、それが本当の優しさだと私は思います。 我々は、純粋な姿というのを取り戻さないといけない。 でも、一番純粋なのは、本当は、神様ですよ、神様。今日は2024年12月15日、2024年も終わりで、21世紀ももう四半世紀を終えるところに突入していますけれども、我々人類はこれからどこに向かっていくのだろうか。 これからも人類が繁栄して、どんどんテクノロジーが進化していくこと、それを神様はお望みなのだろうか。もちろん、繁栄するのはいいですよ。でも、その背後にいらっしゃる神様抜きに繁栄したってなんの意味も無いじゃないですか。 だって、神様の純粋性を考えますと、神様は元々ただお一人だったところ、自分の子供たちと一緒に住みたいと思われてすべての創造を始められたんですよ。それがあったから今日我々は存在している。そうだとしたら、神様無しでどうやって幸せになり得るんですか? これ、ものすごいシンプルなことですよ。神様は、すばらしい家族と一緒に幸せな世界を生きたいなと思われた、それだけのことです。一人で生きるよりも、多くの家族と――こんなにおられるじゃないですか(真明様、会場中の方を意味されるようなジェスチャーをされる)――すべての子供と家族になって、一大家族で、幸せな世界に生きたい、そういう世界を造りたいと、そういう純粋な思いを持っておられたんです、神様は。 だから、それを神様はエデンの園でされようとしましたね、アダムとエバを通して。美しいエデンの園という天国でそれをされようとしたんです、自分の子供を産んで。聖書の一番最初に書いてありますね。 神様はお一人でおられたのに、家族となるため、人間を造ってくださったんです。 だけどそこで我々は、善悪を知る木の実というのを食べてしまった。神様から「ダメだよ」と言われていたのにそれを食べてしまって、それで人類に罪が入り込んだということになってますね。そのことによって我々はエデンの園から追放されて、労働しなきゃいけないという長い苦しい人生が待ってますよ、そういう人類の営みが待ってますよとなってしまった。 これがいわゆる原罪ですね、原罪。原罪というと、なんかそれはキリスト教のことだとか、キリスト教には原罪という教義があるということで我々はなんか複雑にしようとしているわけですけれども、原罪といったってそんな複雑なことではなくて、今日私が話していることです。 神様の物である呼吸、取って自分の物としてるじゃないですか。見る力、聞く力、味わう力、考える力、動く力、話す力、言語――全部自分の物としてるじゃないですか。これが木の実を取って食べた姿ですよ。我々の姿そのものですよ。今生きている我々の姿がアダムとエバの原罪の姿そのものですよ。なんの複雑なことでもない。原罪は我々の生きる営みそのものの姿ですよ。 そしてまた、「自分たちはこういうことができる」ということを前提にして我々は文明を築こうとしていますね。我々の力ですばらしい文明を築こうということになっていますね。 でも、このことが分かったとして、そこから逃れようがないじゃないですか。そのような生き方、姿から逃れようがないですよね、我々は。 すべてのことについて常に神様のことを思えるかといったら、思えない。すべて自分の力だと思っていろいろやってしまう。だとしたら我々はもう救われようがないじゃないですか。善悪を知る木の実を食べちゃって、もう救われようがない。この生き方から逃れられない。 でも、なんと、その罪を取り去ってくださったのがイエス・キリストですね、イエス・キリスト。今日聴いた『無償の愛』の歌詞にも、「わたしの自由のため死なれた」とありましたね。 「あなた方はそういう生き方から逃れようがない、私のものを取って、食べて、すべてを自分のものとして誇って生きていく、だから、その姿そのものを赦す。もし赦しを受け入れるならば自由に生きていいよ」と仰せくださっているんです、神様は。 これを聞いて、私たちが、神様申し訳ございません、お返ししますと申し上げた時、神様は、そのお返ししたものをそのまま取り去るようなお方じゃないんです。むしろ、もしそのようにすれば、再び与えてあげるよということを仰せになっている。見る力も、聞く力も、話す力も、呼吸する力も、全部また与えてあげるよと仰せになっている。 だから、その究極が命ですよ。明主様は命をお捧げになった。「神様、私はあなたの命を自分のものとしていました、お返しします」と捧げられて、普通そのまま命を取られて死ぬかと思ったら、死なれなかった。ということは、神様が命を再びくださったわけでしょ、寛大に。だから明主様は新しくお生まれになったんでしょ。再びお生まれになった、ということです。 だから、今我々が自由にしていられるのはイエスのおかげなんですよ。イエスの贖いの血がなければ、神様からは、「あなたはまだ私のものを取った罪有りの姿だ」とされちゃうんですよ。 イエスは贖罪主なんでしょ。ということは、我々の罪を取り去ってくださったということです。そしてそれは、我々の自由のため。 今我々が、神様を信じる自由、信じない自由、何かを受け入れたい自由、受け入れたくない自由、これ全部与えてくださってるんですよ、神様が。 信教の自由という言葉がありますが、神様から見たら、本当は、信教の自由なんてなにを偉そうに、ということなんですよ。信じさせる心を私が与えているのに、自分には信じる権利があるとか、信じない権利があるとか、宗教を選ぶ権利があるなんて何を言ってるんだとなりますけれども、でも神様は、ものすごい寛大に、その自由を与えてくださっておられるんです。その我々の自由のためにイエスは死んでくださったんです。我々が自由に、思い思いのままに生きていけるようにしてくださったんです、イエスがね。 言葉を使う、呼吸する、人と交流する、友達付き合いをして楽しい時間を過ごす、夢を持って生きていくとか、そういう人生における自由のすべてですよ。その我々の自由のために死んでくださったんです、イエスが。 今日本中でクリスマスのお祝いやってますけれども、キリスト教圏である西洋圏とかの人たちは、このクリスマスというのはイエス・キリストの贖いの御血汐があってのお祝いなんだなというのは分かっている。 でも日本人は、なんにもそれを受け入れないで、ただ、クリスマスだ、クリスマスだとしてるのは、本当は、アメリカ人とかヨーロッパの人から見たら、もう馬鹿にされるようなことなんですよ。恥ずかしいことなんですよ、本当はね。だって、クリスマスというのはイエス・キリストの聖誕のお祝いなんですから。 イエス・キリストの贖いの御血汐を受け入れずして、「メリークリスマス」なんて言ってるのは本当は恥ずかしい話なんですよ。 でもね、ではなぜ西洋圏の人たちが、「日本人のあなたたちはイエスの贖いの血を受け入れずにクリスマスのお祝いなんかして恥ずかしくないのか」と言ってこないのかといったら、それは、お金が儲かるからですよ。 西洋圏の文化を輸入して、日本の1億人以上の人々がその文化を受け入れたら、それに関わることで経済的に儲かるから、だから黙ってるんですよ。でも、日本人が、キリストのことも信じてないのに、わークリスマスだと言って、クリスマスディナーだ、クリスマスプレゼントの交換だとしてるのは、実際は馬鹿にされてると思いますよ。これは、ほとんど植民地政策の一環みたいなものだと思いますよ、私はね。 しかも、本当は、メシア教である我々が、日本人の我々が、アメリカ人とかに、「本当のクリスマスの意味はこうだ」と言わなきゃいけないんです。我々に全然そんな気概はないじゃないですか。もうね、ただ与えられたものを、なんか楽しいことなのかなということでやって、そんな姿は本当はかっこ悪いですよ、日本人として。 でも、少なくとも世界メシア教の我々は、西洋圏の人に対して、本当のクリスマスのお祝いをするのはキリスト教ではなくて世界メシア教なんだ、世界メシア教が本当のクリスマスのお祝いをするんだ、原罪の本当の意味はこうだと、イエスの本当のみ心はこうだと言わなければならない、本当はね。 イエス・キリストの贖いの御血汐を受け入れずに我々の自由が無いんだとしたら、まずそれが我々の第一歩ですよ。そして、その自由を土台にして明主様は全く新しい世界の設計図をいろいろお示しになったわけでしょ。イエスによって罪が全部取り去られた新しい世界の設計図はこうですよということを明主様はお示しくださった。 だから、それが次のステップですよね。地上天国建設。明主様は、私は天国近づけりとは言わない、私は天国を造るんだとおっしゃった。だって、「天国近づけり」はもうイエスで終わりましたよね、贖いが済んだんですから。その明主様の前提を軽く見ないほうがいいと思いますよ、イエス・キリストという前提を。 今、クリスマスも近いし、明主様のご生誕の日も近いですね。 でも、我々にはいろいろありますからね。いろいろあるんですよ。仏教のこととか、神道のこととか、家族のこととか、会社のこととか、隣人付き合いとか、そういうものをいっぱい引きずっている。だから、それを全部かなぐり捨てて神様の真理のもとに飛び込まないとダメなんです、私たちはね。神様、帰ってきました、イエスの血を受けてあなたのもとに帰りましたとしなければならない。 少なくともクリスマスの今、我々は、自分が今ここに存在するためにイエスが自分にしてくださったことを忘れてはいけない。 そして、そのイエスが築いた土台をもとに、明主様の、より良い世界を造るという営みがあるんですから、これに全身全霊を捧げたいと、そういうことですね。 今日はたくさんイエス・キリストに関わる歌がありましたが、それは、明主様が、イエスを受け入れなさいということを強く望んでおられるからだと思いますよ。 今回ブラジルに行った時、長く信仰された方がいらして、その人が、イエス・キリストも大事だけど自分にとっては明主様が大事だ、ということを僕に言ってきたんですね。それはいろいろ皆様と握手とかしてる間の一瞬のことだったんですけれども、僕がそのあと思ったのは、「でも、その明主様が今一番願っておられるのは、我々がイエス・キリストを受け入れることなんだ」ということ。 だって、イエスをまず受け入れなければ次のステップに行けないじゃないですか。それを明主様が強く願っているがゆえに、クリスマスコンサートということでこういう曲をたくさん聞かせていただいてるんじゃないのかなと思いますね。 今年は「信仰の純粋性」の一年でした。明主様の純粋性、純真さ、イエスの純粋性、そして、そのもととなる神様の純粋性。 つまり、すべてをかなぐり捨てて神様のもとに飛び込む、抱擁するということです。架空の話じゃなくてですよ。その道を自分は歩まなきゃいけないし、そこに自分の幸せがある、ということで、我々は、全く新しい生き方に目覚めなきゃいけない。 その全く新しい生き方に目覚めるという決意をして、私たち一同、今年残りあと少しと、また来年以降も、全く新しい命の満ちあふれる希望に満たされて、喜びいっぱい、生き生きと、共に歩んでまいりましょう。 ありがとうございました。