皆様こんにちは。 今日は立春ですね。2月4日。この204(にーまるよん)という数字―立春がまれに5日になることもありますけれども―この2月4日というのは、私たちにとって大切な、意義深い日ですね。 まず、1950年2月4日。これは明主様が、それまでは、仏教的な名前である「日本観音教団」と「日本五六七教会」という二つの団体を使ってご神業を進めておられたのを、もう仏教の時代は終わりだということで、観音、ミロクというのは止められて、キリスト教的なワードであるメシアという名前が入った「世界メシア教」という教団名でご神業をスタートされた。それが1950年の2月4日。 そしてこれは、教団名を変えられただけではなく、世界メシア教にされた明主様のご意図は、メシア教というのはキリスト教と呼応して人類を救っていくんだと、そういうことを打ち出されたのが1950年の2月4日。 というように、明主様ご在世中はずっと世界メシア教の名で進まれるんだけれども、明主様ご昇天後2年経った1957年、教団名が世界メシア教から世界救世(きゅうせい)教に変えられて、それから60年以上ずっと世界きゅうせい教で来ていたところ、「明主様ご在世中の教団名は世界メシア教だったんだから、この世界メシア教という名前を大切にしようじゃないか」ということで、1950年2月4日から70年経った2020年2月4日、この世界メシア教という名前が、教主様のもと、皆様と共に復活した。そうですね? そしてこの復活は、当然教団名だけではなくて、明主様が世界メシア教を立ち上げられた時のみ心である、キリスト教と呼応して人類救済を進めるということの復活でもあったわけです。 明主様は、キリスト教と呼応して人類救済を進めることに全智全能をあげて働いてゆきたいと仰せになった。全智全能。ということは、明主様がお持ちのすべての知恵と、すべての能力を使ってキリスト教と呼応して人類を救済したいと、そういうことです。 というように、その明主様のみ心にお応えしようじゃないかということで世界メシア教が復活したのが、これも2020年2月4日、ですね。 また、2月4日と言えば、もちろん、2017年の2月4日というのがありますね。7年前の2月4日。これは何があったのかというと、これは、その年の2月4日の立春祭において、教主様が、当時我々は世界きゅうせい教だったわけなんですけれども、そのきゅうせい教が抱えている実情について信徒の皆様にご発表くださった。 当然教主様は、そのようなことをなさることによって、いわゆるきゅうせい教の執行部からいろんな意味で攻撃されるということは分かっておられたわけです。教主様は、分かっておられた。 だけど教主様は、どうしても明主様の真のみ心を求めなければならないということで、それこそ文字通りご自分の身を挺して、ご自分の身を犠牲にして、そのようにしてくださった。そして、教主様はそのあと追放されたことになっていますね。 教主様は、あのように教団の実情を信徒の皆様に話せば、そのようなことになるだろうことは想定されている中で、でも、明主様のみ心のほうがどうしても上だということで、私たちに教団が置かれていた実情を伝えてくださった。これも2017年の2月4日です。 あと、我々は忘れがちですけれども、明主様が教主様の座をご用意くださったのも、これも1950年の2月4日です。明主様は、世界メシア教を立ち上げられたのと同時に教主様の座を作ってくださって、そして明主様ご自身が世界メシア教の初代教主に就位されたわけですね。 だから、今私たちは教主様、教主様と言わせていただいておりますけれども、その教主様の座というのは1950年の2月4日に生まれたんですね。 というように、この地上においては明主様が初代教主の座を全うされて、1955年2月10日に明主様がご昇天になったあと、今度は二代様が引き継がれた。 明主様が亡くなると明主様のご神業は止まるのかというと止まらない。ご自分の遺言によって二代様に後を託されて、教主を通して私は働くんですよということになりましたね。そして二代様、三代様、で、現四代教主様に至って今私たちがいると、そういうことです。 だからそう考えると、この2月4日という日は我々にとって非常に大切であり、何と言うのでしょうか、よく、「初心忘るべからず」というのがありますけれども、そういう我々の初心ということを思い出す日じゃないかなと思います。 明主様が教主様の座をご用意してくださった日でもあるし、キリスト教と呼応するというメッセージを出してくださった時でもあるし、世界メシア教をスタートしてくださった日でもあるし、また、教主様が、明主様の真のみ心を求めて立ち上がってくださった日でもある。 だから2月4日、この204(にーまるよん)という数字は、私たちにとっては、初心を思い出すという、忘れてはならない大切な日、数字だと思います。 今日お話ししたいことというのは、教主様は長年私たちにご教導くださっていますけれども、その中で私たちの心に強く残ったご教導の一つとしてこういうのがあったんじゃないかなと思うんですけれども、それは、「何をするかも大切だけど、どういう心でするかが最も大切なんですよ」というもの。 これは、もう10年とか20年とかそれくらい前のことですけれども、当時、教主様が、何をするかも大切だけどどういう心でするかが最も大切なんだということをご教導くださって、それを聞いた私たちは、その時、「あ、確かにそうだ」「いろいろなんかするのも大切だけど、どういう心や思いでするか、それがもっと大切じゃないか」と思って、今でもまだその時の教主様のご教導が印象に残っておられる方々もいらっしゃるのかなと思います。 教主様がそう仰せになったご意図はなんだろうかと思うわけなんですけれども、もちろん、ご意図も何も、まず、その言葉通りの意味というのがありますよね。何をするかも大切だけれども、どういう心でするかが最も大切なんだというその聖言通りの意味をまず受けとめなければならない。 また、私が思うのは、ここでの教主様の言われ方を見つめますと、次のようなこともあるのかなと思います。この聖言を教主様が言われた当時、教団は、教主様中心というより教団の活動中心であったことは間違いない事実ですね。理事長中心、理事会中心、教団中心。 今のように教主様の聖言―当時はお言葉だったわけですけれども―それをお受けするより、教団が進める活動というのが中心だったですね、私たちは。それは否めない事実ですね。 その中にあって、教主様は、そのように教団主導で進められる活動について、はっきりこれはおかしいと言われたのではなくて、皆様の活動はあるけれども、本当はもっと大切なことがその背後にはあるんだよ、それを実はこの教主である私が皆様にお伝えしたいんだよという、教主様の教主としての自負心みたいのもおありだったんじゃないかと思うわけですね。「どういう心でするかということについては教主である私が知ってるんだ」と、有り体に言えばそういうことですね。 また、今の私たちの活動と当時の活動を比べると、全然違いますね。もし当時我々がしていた活動が、本当に明主様のみ心に適ったものであったなら、教主様は、その活動をがんばりなさい、そして、その活動はこういう心でするんですよ、という言い方をされたかもしれない。 でも教主様の言われ方というのは、「何をするかも大切だけれども、どういう心でするかが最も大切だ」、ですから、もしかしたら、本当は、当時我々がしていた活動に対して、それは本当に明主様のみ心に適ったものですか?ということを教主様は我々に投げかけておられたんじゃないかと、そうも思います。 だけど、とにかく教主様はそのようなことを当時おっしゃった。そして、その結果、次のようなことが起きたんじゃないのかなと思うんです。 この教主様の聖言をお受けする前の我々は、例えばこの「何をするか」という実際の活動について100パーセントでがんばっていたとしますね。 だけど、教主様から、どういう心でするかが最も大切だと言われた時、もしかして、我々の心の中に、今まで人間力100パーセントでがんばってたんだけれども、もし神様が働かれるんだとしたら、今まで人間力100でがんばっていたものを、これからは80ぐらいにしてとか、70ぐらいにしてとか、そして、残りの20とか30を神様に働いていただこうという思いが湧いてきたこともあったんじゃないかと思うわけです。 それまでは目一杯していた。目一杯。でも、教主様から、お働きになるのは人間ではなく神様だというのを聞いた時、我々の心の中に、「もしそうなら前のように目一杯しなくてもいいじゃないか」という思いが湧いてきたんじゃないかと、そう思うわけですね。 ということで、それまで目一杯の100だったのを減らしていって、80、70、50、場合によってはもう0にして、そして、それでいいんだ、神様が働かれるからいいんだ、自分はお任せしてるんだ、お委ねしてるんだと言って、教主様のメッセージのご意図はそういうことではなかったのに、我々は、この教主様の聖言を、目一杯の実践をしない、目一杯の自分を捧げないための正当化として利用してきたこともあったんじゃないかと思うわけです。 私たちは、「昔は自分の力で一生懸命がんばって苦しかったけれども、今は自分は気が楽です。なぜなら教主様のご教導によって神様が働かれることを知って、もう自分は努力をしなくていいので、今私の心は安らぎの中にあります。昔は人力でがんばってた。でも、教主様が、最も大切なのはどういう心でするかということを仰せになってくださったんだから、人力はもう必要無いんだ。努力しなくていいんだ。だって神様が働かれるんだから」と、そんなことを言いながら、我々は、精一杯の努力をしなくてもいい、という自分を正当化するためにこの教主様のメッセージを利用してしまっていた側面もあるんじゃないかと思うわけです。 だけど明主様は、今日の「頑張り」という聖言において、神様にお任せしなきゃいけないけれども、でも、まず、どこまでも人力を最大級に尽くしておいて、そしてお任せすると、そうお説きになっておられますね。 だから明主様は、人力は最大級に尽くしておられますよ。明主様は、神様がいらっしゃるからといって、「神様がされるんなら自分は努力しなくていいんだ。ああ、安心した。今まで自分はずっと人力、人力でがんばってきたけれども、もうそんなに努力しなくていいんだ。だってこれからは神様の時代なんだから」、とはしておられませんよ、明主様は。そうではない。 だから、神様にお委ねするとか、お任せするとか、神様の力が現れるということの意味は、決して、今まで人力100でがんばってきたものを少しずつ減らして、これからは人間50、神様50とか、そういうことではない。明主様は、「人力を最大限に尽くす」と仰せなんですから、人力は目一杯の100のままですよ。100は100のまま、だけどその上で神様にお任せするんだと、そう明主様は仰せです。 私は、教主様が我々にご教導くださるようになって、この、「人力を最大級に尽くす」ということについて、「教主様はこう仰せだから」というように教主様の聖言を利用しながら、妥協してきた部分があるんじゃないかと、そう思うわけなんです。 例えば救いの三本柱の一つである「祈り」。これは昔はご浄霊だったわけですね。ご浄霊。これは私たち毎日のように実践してましたよね。毎日自分は浄霊してます、今日は3人に浄霊しました、4人に浄霊しました、今日は何時間浄霊しました、あの人は毎日ご浄霊してて偉いなと、そんなことを言いながら、毎日目一杯実践していた。 でも明主様は、最晩年、「ご浄霊は二の問題でこれから想念の世界である。お念じしなさい」ということを仰せになって、それまでの、この手を上げるご浄霊という行為から、今度は、念じるという世界に入っていかれました。念じるということは「祈りなさい」ということですね。言葉をもって祈るのが念じるということですから、「祈りなさい」ということです。明主様は、最晩年に「祈り」を訴えられた。 ご浄霊の時は非常に分かりやすかったですね。見た目の形がありますからね。だから私たちは、あの人は朝から晩までご浄霊をしてすばらしいとか、今日は浄化者訪問行ってきました、病院行って浄霊してきました、いやすばらしいですねのようなことを言っていた。そのように褒めたり褒められたりすることががんばるモチベーションにもなっていた。手を掲げるご浄霊というのは目で確認できますから、自分の徳にもしやすいわけです。 でも今度、祈りということになってしまうと、例えば目の前に二人座ってて、一人は今晩の夕食どうしようかなとか思って、もう一人の人が一生懸命お祈りしてたとしても、はたから見てる我々には分からないじゃないですか(一同笑声)。神様には分かりますよ、神様にはね。 だけど結局、ぱっと見ても分からないから、そうなると、それは浄霊時代とは違いますよね。浄霊の時は、あの人は浄霊実践をしていてすばらしい、自分もがんばろうでよかったんですけれども、祈りということになるともう外からは見えない、分からない。 「人力を最大級に尽くす」。すごい表現ですね、明主様。人力を最大級に尽くすですから、人の力を最も大きく尽くすわけです。だから、ある活動に自分の全身を捧げるということですね。この明主様のご姿勢の中に、神様がされるんだからこれくらいでいいだろうという妥協は一切無いですね。 我々は、手を掲げるご浄霊をしていた時は人力を最大級に尽くしていたかもしれない。でも、本当は、それが「祈り」になった今も、我々は、ご浄霊をしてた時と同じように、お祈りということについても、誠心誠意、一生懸命、実践しなければならない、だって「祈り」が本当の浄霊なんですから。 私たちの心にいろんな思いが湧いてくる。怒り、不安、焦り、誰かを嫌いだとか、優越したいという思いが私たちの中に湧いてくる。でも実は、神様は、神の愛の御手によって、その私たちの思いを包んで受け取ってくださっている。これが本当の浄霊なんだと、そういうことですね。 だから私たちは、その神様の浄霊を認めなきゃいけない。日々の生活の中で一瞬一瞬湧き起こる思いを、「ああ、神様。あなたの浄霊、あなたの愛の御手によって私を包んでくださっているのですね、お受け取りください」、これですよね、真の浄霊である「祈り」の実践とは。 この「祈り」を私たちは人力を最大級に尽くして実践しなければいけない、ということです。そしてそれはまた、残りの「食」とか「音楽」についても同じなんですよ。そうだとして、今、私たちのこれらの活動に対する向き合い方はどうなんだろうか。 もちろんね、どんな信仰活動もそれを実践するかしないかは一人ひとりの自由ですね。「食」について、実践されない方は別にそれでいいんですけれども、実践される方については、その向き合い方はどうなんだろうか。 人力を最大級に尽くすより、できる範囲でやります程度の思いでこの祈りとか食とか音楽と向き合っているところもあるんじゃないだろうか。 私は、なにか、冒頭に紹介した教主様の聖言を利用しながら、妥協した実践をしてもいいんだと思ってしまうような心が、長い間をかけて、私たちの中に少しずつこびりついてしまったところもあるんじゃないかと思うわけです。 もちろん、教主様のご意図はそうではなかったんですよ。でも、我々のほうでそれを利用したところがあったんじゃないかと思うわけです。 ではね、明主様はどういうお方だったのかというと、当然、人力を最大級に尽くすというお方でもあったし、そして、ご存じのように、プラグマチズムということを大切にされたお方でもありますね。 プラグマチズムという考えを取り上げられて、自分の生き方というのは宗教行為主義なんだ、宗教的思考と日々の生活をもう一つにしてしまって、宗教的考えを日々の生活の中で実践していく、行動に移していくというのを非常に大切にされた。 例えば自然農法のことについて言えば、明主様は、当時、日本国内において食べ物が足りないという時、また、食べ物があったとしてももう農薬まみれ肥料まみれという現状があって、明主様はそれに直面された。もう食べる物が無いじゃないか、あっても農薬まみれ、肥料まみれでとうてい食べられないじゃないかと、そういう状況に明主様は直面された。 明主様はその時どうされたのでしょうか。 できる範囲でがんばろうとか、できるだけ農薬の少ない物を買おうかとか、持ってる人からちょっと分けてもらおうかとか、あるいは、今は世の中こうだけど、神様がきっと未来に向けて変えてくださるから、その時までは自分のできる範囲のことをしてがんばろうとか、時を待とうとか、そういうことはされなかったんですよ、明主様は。 明主様はその事態に直面された時にどうされたかといったら、なんと、「じゃあ私が自分で作ろう」、ですよ、明主様は。 食べ物が無い、食べ物は農薬まみれ、肥料まみれだという事態に直面された時、明主様は、じゃあ肥料の少ない物を買おうかなとか、無農薬の野菜が世の中に増えてくるといいな、でも、それまではある程度農薬の付いた物を食べてもしょうがないな、じゃないんですよ。明主様は、もうご自分で作っちゃおうと、そうされた。 だからこの実行力がすごいですよ。ただの日本の一宗教の本当に小さな団体の教祖なんだけれども、明主様は、自分が世の中を変えるんだ、日本の社会を変えるんだ、ということでたったお一人から始められるんです。「無いなら作ろうじゃないか」ということですね。 この明主様の実行力、これを私たちは忘れてるところもあるんじゃないかと思うんです。 あの有名な、「鳴かぬなら」のことわざがありますね。織田信長と豊臣秀吉と徳川家康の「鳴かぬなら」のことわざ。この三人の性格を表現したというものですね。 皆様ご存じだと思いますけれども、ホトトギスの鳴き声を聞こうじゃないかということで、鳥籠の中にホトトギスがいた。それを鳴くのを三人で待っているわけですね。実際そういう場面はなかったと思うんですけれども、そういう話にしてあるわけですね。 で、信長はどうだったかというと、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」ですね。織田信長は、ホトトギス鳴かないならもう殺しちゃおうと、それが信長ですね。 秀吉は、「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」。信長はあっさり殺しちゃったんだけど、秀吉は、創意工夫によってなんとかホトトギスを鳴かせてみせようじゃないかと、これが豊臣秀吉。 最後、家康は、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」。信長は殺しちゃう。秀吉はなんとか鳴かせようとする。で、家康は待つ。鳴かないなら待とうじゃないかというのが徳川家康。 このことわざというのは、話としては、きっと、家康のこの「待つ」美徳というのを説いたものだとは思いますよ。というのは、信長と秀吉は最終的には勝ち残らずに、家康が最後に残って、あの長期にわたる江戸政権を徳川家によって進め大成功したわけですのでね。 で、私が思ったのは、では明主様はこのどれに当てはまるのかなということを考えたんですね。明主様流はどれだろう。明主様流というのは三人のうちのどれに当てはまるんだろうと、それを考えました。 僕は、結論としては、この三つのうちのどれにも当てはまらないんじゃないかと、そう思いました。 そして僕は、明主様流というのは、「鳴かぬなら私が鳴こうホトトギス」(一同笑声)であると、そう言いたい。 なんとか鳴かせようとなにか工夫をするわけでも、待つわけでも、殺してしまうわけでもなく、むしろ、鳥は音をどうやって出してるんだろうかというのを研究して、もう自分が鳴いちゃおうと(一同笑声)、それが明主様流じゃないか、明主様流の生き方じゃないかと思うわけです。 要は、何か問題に直面した時、それを殺して、つまり、その問題を避けて無かったことにするのでもなく、あるいは、工夫ということで、その時のできる限りの対応をしようとするのでもない。 今の自然農法のことで言えば、もう無かったこととして目を背けるのでもなく、無農薬の野菜を分けてもらおうとか、なかなか完全にというのは難しいから、創意工夫をして可能な限りやっていこうとか、あるいは、神様がいつかそういう時代にしてくださるんだからその時が来るまで待とうとかでもなく、明主様というのは、即実行ですね。 しかも即実行するその度合いが、「食べ物が無い」「よしそれなら自分で作ろう」というのはものすごい前向きであって、この実行力、実践力がまあ本当にすごいなと思うわけなんですね。 それを思った時、今メシア教は、ミロクの世の食であるヴィーガン食を推奨するということですけれども、これに直面する中でいろいろあるじゃないですか。 これは先ほども言ったように、決してこういう食を強制しているわけではないですよ。でも、実践される方については、それと向き合う時に、明主様流の向き合い方があるんじゃないかと思うわけです。 どういう向き合い方をするのか。それは、今言った三つのことわざのように、殺してしまう、つまり、それから目を背けて、この問題は自分とは関係無いとすることも可能です。 あるいは創意工夫の道もありますね。明主様は菜食とおっしゃっているけれども、まあある程度やむを得ない、できる範囲でがんばろうという向き合い方。 あるいは、待つというあり方。その時代が神様のお力によって来るんだから、自分は自分のできる限りのことをして待つというあり方。 でも私は、もし今明主様が生きていらっしゃって、その明主様に、「菜食と言われてもなかなか難しいです。世の中肉ばかりでなかなか実践は難しいです」とお伝えしたら、明主様は、間髪いれずに、「それなら私は自分で作る」と言われるお方だと思うんですよ。それが明主様ですよね。明主様流の生き方ですよね。 しかも我々の場合は個人個人の食事ですでに大騒ぎしているわけですけれども、明主様の自然農法というのは、当時、日本人全体のことを考えておられたわけですからね。 その明主様の大きさを思う時、我々の今の姿というのはどうなんだろうか。 我々は、長年、いつの間にか、この明主様の、即実行、宗教行為主義、人力を最大級に尽くす、神様に精一杯をお捧げする、という明主様流の生き方から、いつの間にか世の常識の中で生きることが当たり前になってしまったんじゃないのかなと思います。 だって、世の常識で見れば、一宗の教祖が農業始めたところで、別に日本の食糧問題なんて解決しませんよと、それが世の常識の考え方ですよね。でも明主様はそんな生き方ではない。 だから、明主様のスケールの大きさはすごいですよ。だって、日本国すべての人に食料を行き渡らせるということに向き合えば、そこにいろんな困難が待ち受けていることは想定されるわけです、それはね。 明主様は、別に、意識的にね、なんと言いますか、この困難をなんとしても乗り越えるぞ、というような、そんな片意地を張ってされてたわけじゃないと思うんです。 でも、この明主様の生き方というのは、私には、不撓不屈の精神の現れですね。いろんな困難がある。でも、それに負けないわけですよ、明主様は。 明主様は、こういう理由がある、ああいう理由もある、だからなかなか難しいなあ、じゃないんですよ。そうではなくて、明主様は、もう、すぐ実践しようと、そういうお方です。そして、たとえ失敗をされても、「失敗したら今度はこっちだ」とおっしゃってまた違う方向で挑戦された。 だから僕は、明主様は、不撓不屈の精神をお持ちのお方じゃないかなと思います。 明主様流の生き方というのは、人力を最大級に尽くす、絶対諦めないでやり切る、人ではなくて自分がやる、思い立ったら即実践する。これが明主様流の生き方なんじゃないかと僕は思います。 そして当然、明主様の信徒である我々としては、教祖である明主様流の生き方に倣っていきたいですよね。倣っていくべきであると言いますか。 私自身、もちろん、この明主様のご姿勢には遠く及ばないけれども、例えば食のことで言えば、明主様が「ミロクの世は菜食だ」と仰せになったことになんとかお応えしたいと思い実践させていただくと、なんと言いますか、そこに感動があるんですよね。 「ご飯一口でこんなにおいしいのか」「ニンジン一つでこんなにおいしいのか」「タマネギ一つでこんなにおいしいのか」という感動がある。当然それは、味ということだけではなくて、明主様のみ心にお応えしてる、お応えしようとしている喜びがあるから余計だと思います。 もちろん私なんか、明主様から見たらまだまだひよっこだということだと思いますけれども、でも、自分なりに精一杯実践する中で、やはりあるんですよ、感動がね。 今まで私は、ニンジン一つでここまで感動したことがあったんだろうか、お米一口でここまで感動したことがあったんだろうか、と思うと、そんなこと無かったですよね。無かった。 だから、明主様の聖言を実践されたい方には僕が味わった感動を味わっていただきたいなと思うんですね。 教主様が仰せくださっている、万物は神様のもとに立ち返りたいということ、これは、知識としては知ってましたよね。知ってましたというか、教えていただいて実践しているつもりでした。 万物と言ったって、当然そこには「食べ物」も含まれますね。食べ物も我々の身体を通して神様のもとに立ち返りたい。 今までは、漠然と、「万物と一緒に立ち返ります」というのは私の心の中にありましたよ。でも今は、感動の中で、「このニンジン一つ。このタマネギ一つ。神様が土を用意してくださって、こんなすばらしい野菜を作ってくださっている。このすばらしい色、このすばらしい形。神様は人間を養うために、こんなにすばらしい野菜とか穀物をご用意くださって、そして今、これらの物が神様のもとに立ち返りたいんだ」と、そんな感動今まで私には無かったですよ。むしろ、「なんでもあり」みたいなことでしたからね。 今日の二代様の御歌で、大自然の「神力」と書いて「神力」。この大自然の神力の前に世の人がひざまずいて祈る時が来る、というのがありましたね(「大自然の神力の前にひざまづき世人祈らむ時は近づく」)。 この御歌は確かにいろんな受けとめ方ができまして、もちろんね、大自然の力の前にひざまずくからといって、ニンジンとかタマネギの前にひざまずいて祈るわけではないですけれども(一同笑声)、でも、神様のお力によってご用意くださったこの大自然の恵みである万物と共に、神様のみ前にひざまずいて、「万物と共に私をお受け取りください」と祈る、その時が来たんじゃないかと、そんなことを思います。 もちろんね、明主様はもっと大きな感動をこの先もご用意くださっているかもしれませんけれども、でも、もし私自身の中で明主様の聖言に中途半端に向き合って、できることをしようぐらいの感覚だったら、今私が感じている感動を味わうことはなかったと思うんです。 明主様のみ心にお応えさせていただこうとしている感動、努力させていただける感動はもちろん、ご飯で感動、一食一食、毎食感動できるというのは大変なみ恵みだなと思うんですね。 そして当然、この「祈り、食、音楽」というのを、我々はただ漠然と実践しているのではなくて、実践している目的は何かといったら、それは言うまでもなく、神様の子供たるメシアとして新しく生まれるため、これが目的ですね。 すべてのものを携えて神様のもとに帰り、神様の子供たるメシアとして新しく生まれる、これが目的である。 教主様の祝詞にも、万物更新して人新たに生まれるという趣旨の聖言がありますね。というように我々は、すべてをもって神様のもとに帰らなきゃいけないわけです。帰って新しく生まれなければならない。そのための3つの活動なんですね。 確かにこの世の中のこともありますよ。普及させようとか、実践しようとか、そういうことはある。 だけどこの3つの活動の真の目的は、我々が神様の子供であるメシアとして新しく生まれるため、そのためにこれらのことをさせていただくんです。 「祈り」。この祈りについては、長年教主様に教えられてきたことですね。一日一日の中でいろいろ湧いてくる思いがある。それは自分の中におられる多くのご先祖様の思いなんだ。そして神様は自分の中におられるんだから、「明主様と共にあるメシアの御名にあってこういう思いをお受け取りいただきたいのです」、これですよね、この「祈り」というのは。これを我々は長年一生懸命実践しようとしてきましたね。 当然、自分の中には、全人類も万物も結ばれているけれども、より象徴的には我々に結び連なるご先祖様の救い、このためにこの祈りというのをずっと実践してきました。 そうした中、今度は、最近になって「音楽」が出ました。音楽。祈りから始まって今度は音楽が出た。確かに音楽も一人で歌うことはできますけれども、基本的には、今までは自分の中でお祈りしていて、「自分とご先祖様」という世界で完結していたのから、音楽が出て今度は横の拡がりができたわけです。教主様を通して伝えられている神様のメッセージ、明主様のメッセージを音楽を通して周りの人に拡げていこうじゃないかということになってきた。 もちろん、祈りについても、この祈りについて周りの人に伝える、というのはありますけれども、でも音楽とか歌ということは、もっとはっきりと身近な人にそれを歌う、音楽を通して歌詞の世界観を伝える、ということですから、横への拡がりがある。 というように、祈りという一人でできることから、次に音楽が出たことによって、今度は拡がりが出て、それによって全人類が含まれ始めたわけです。身近な人に歌う。それを通して全人類に神様の波動を行き渡らせたい。そういうことですね。 だから、「自分とご先祖様」という祈りから、今度は音楽が入ったことにより横の拡がりが出たわけです。「全人類」という要素が加わった。 ではあと何が欠けてるかと言ったら、それは、「万物」ですよ。だから「食」ですね。 ご先祖様とか全人類というように、人間、人間、人間だけではなくて、万物も存在している。もちろん人間も万物でできているけれども、より象徴的に、大自然、山とか川とか土とか水とか火とか食べ物とか、それらの物ですね。食が始まったことにより、今度は万物も含まれるようになったんですね。 最初の「祈り」の時は自分とご先祖様。もちろんこれは象徴的に、ですよ。というのは、結局は自分の中に全部集約してありますからね。でも、象徴的な意味において、まず、「祈り」ということで自分とご先祖様。そこから今度は「音楽」によって全人類に神様の思いを拡げようじゃないかとなって、最後、「食」によって万物も加わったわけです。 だから、これらの3つの活動が何を意味しているのかというと、なんてことはない、我々は、自分と自分に結ばれたご先祖様と全人類と万物、そのすべてを携えて神様のもとに帰る、これだけのことです。これだけのことですよ。だから、この3つの活動はばらばらに存在しているのではなくて、3つで一つです。 日々のお祈り。音楽を通して周りに神様の波動を拡げ共に神様に心を向けたい。そして食。食べる物を通して、また、食からさらに拡がって例えば自分が着る服とか、それらすべての万物は神様の物であると認める。 神様は、この3つに関わるすべての要素、それらをもれなく私のもとに返してきなさいと仰せなんです。 確かに形のほうの活動はありますよ。でも、主眼は、むしろ、そのような活動を通して我々が神様にすべてをお捧げして、そして神様がそれを受け取ってくださって、新しいものにしてくださる。新しく生まれさせてくださる。そのことのためにこの3つの活動を神様はご用意くださっているわけです。 神様がなぜこのような活動を今のタイミングでご用意くださったか、その深いところは我々では分かりませんね。でもなぜか、音楽の活動においても必要な方々を神様がご用意くださったりしている。私が「土の聖地」と言いましたアフリカのこともありますね。 そういうことがなぜ今起こっているのか、その神様の御心は我々には分からない。分からないけれども、分からなくてもいいんですよ。だって我々の目的は、すべてを携えて神様のもとに帰って新しく生まれるということに尽きるんですから。 だから、分かっても分からなくても、新しく生まれるという目的が達成できるようにこういう活動を神様がご用意くださったことは間違いがないんですから、それを、明主様が仰せのように人力を最大級に尽くしてさせていただければ、神様は、その我々の一生懸命の姿をご覧になって、「ああ、あなたを受け取ってあげるよ」と、そう仰せくださると思います。 だから、「あなた方にこういう活動を与えよう。それを通して私のもとに帰ってきなさい」ということ以外無いですよ、神様のご意図というのはね。 世の中でも似たような活動はいろいろありますよね。みんなで世界平和を祈りましょうとか、音楽を拡げましょうとか、こういう食事を実践しましょうとか、そういうのは世の中にいろいろありますね。 でも我々は、すべてのものを携えて神様のもとに帰る、このためにこれらの活動をしているわけです。 というように、我々の目的は新しく生まれることだということになってますね。新しく生まれる。 メシア教の目的はなんですか?と言われれば、神様の子供たるメシアとして新しく生まれることだと、そうなってますね。 だけど、改めて聖書を見ると、イエスの言い方はこうですよ。「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(「ヨハネによる福音書」第3章3節)。「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。だから、目的は、新しく生まれることではないですよ。そうではなくて、「神の国を見ること」、これが目的です。 我々は、新しく生まれるということを目的にすることによって、なにか、「自分は神様の子供というすばらしい存在になれるんだ」「人間というところから脱却して、もっと神様に近づいて、どんどん偉い存在になっていけるんだ」というふうになっている。 もちろんそれは間違ってはいないけれども、我々は自分がすごい存在になるとか、そっちのほうが好きですから、だから、「難しいような話だけれども、そういうことがあるんだ。メシアとか神様の子供とか、そういうすばらしい存在になれるんだ」というところに自分の心がいきがちですね。だけど、本当の目的は神国を見ることが目的ですよ。神国。 神の国を見ることがなぜ目的かと言ったら、神国には神がいらっしゃいますね。神の国だから当然そこには神様がいらっしゃる。ということは、新しく生まれるのは、神の国に行って、そこで神様にお仕えするためですよ。それが目的なんです。なにか、ただ、自分はメシアとして新しく生まれて、人も癒せる、これもできる、あれもできる、水の上も歩ける、ああだこうだ、では意味が無いんですよ。 新しく生まれるのは神の国を見るため。ということは、新しく生まれるのは神にお仕えするため。これが目的です。 そして、神様というのは永遠というご存在ですから、私たちは、新しく生まれさせていただくことによって、永遠に神様にお仕えさせていただける。で、本当はこれは喜ばしいことなんだけれども、世の中の人にメシア教を拡めたい、拡めたいと言ってもなかなか難しいみたいになるのは当然なんですよ。だって、「永遠に神様に仕えなさい」という言葉だけ聞いたら、なんにも楽しくなさそうですよね(一同笑声)。「永遠に神様に仕えなさい」と言ったら、「つまんなそうだな」(一同笑声)ということになって、だから世の人としてはそれは受け入れがたいと感じるんですね。 ここ、「世の人」と言ってもそれは我々ですよ。我々の姿勢ですよ。結局我々が、仕えるということを大切にするより、この世とか自分の都合や主体を優先して生きていきたいですからね。 というように、我々の本当の目的は、新しく生まれて偉い存在になるということではないんです。 「新しく生まれる」というと、なにかこう、自分がどんどん偉い存在になっていくイメージを持たれるかもしれませんけれども、まったくそうではない。 だって、新しく生まれるということは、自分、自分に結び連なるご先祖様、全人類、万物、これらすべてのものを神様にお返しして、それらのものを新しくしていただかなければならない。ということは、自分のものがどんどん無くなっちゃうということです。だとしたら、自分が偉い存在になろうとしてたらなかなかこの道は歩めませんね。 しかも、万物とかならまだいいと思っていたら、神様は、今度は、命と意識と魂、これもすべて返せと仰せになっているんですからね。神様は、あなたの命と意識と魂、これらは誰のものなんだと仰せである。 だから、ちょっとでも自分を優位に保ちたい思いがあれば、もう一生新しく生まれるというところにはたどり着けませんよ。 勘違いしてはいけないのは、明主様は新しく生まれられたことによって、偉い存在になられたんじゃないんです。むしろ、自分の命すらも、意識すらも、魂すらも、「神様、これらはあなたのものでした」というように神様に対して完全にへりくだられた。だからまったく逆ですよ。明主様は、偉い存在になられたどころか、むしろ謙虚に、謙虚に、謙虚になられて、そしてすべてを神様にお返しになった時、神様が、「じゃああなたに新しい命を与えてあげるよ」「あなたは私に永遠に仕える私の子供、私と一生離れることのない存在だよ」と、そうなったわけです。これが新しく生まれるということ。 ここに私たちの大いなる錯覚があるんじゃないかと思うわけです。 明主様を見た時、また、自分の生きざまやこれからどうやって生きていくかというのを見た時に、我々のイメージする方向性がまったく逆なんです。 「すべてを携えて天国に帰る」というのは簡単なようだけれども、全然簡単ではないですよ。だって我々は自分という存在にしがみつきたいですからね、本当は。 しがみつきたいから、「この話難しい」「分からない」「なかなか実践できない」ということにしたいわけです、我々は。難しいということにしたい。どんなに簡単に話しても、「難しい」ということにしたいんですね。それは、誰が、ということではなくて、我々の心の中に神様に対してそういう頑固なものがあるんですね。 でも、いかに否定しようとも、我々の中には神の国である天国は存在しているし、神様の目的もすでにはっきりしているんです。 それで、少し余談に入って申し訳ないんですけれども、この間、長女と次女に、夜中ちょっと本を読んであげてたんですね。自分と長女と次女の三人。 その時、普段はほとんどしないんですけれども、珍しくなにか信仰の話みたいになりまして、その中で僕が、「天国というのはここ(真明様、眉間のところの天庭、あるいは天帝と呼ばれる場所を指し示される)にあるんだよ。天庭にあるんだよ。ここに、とってもすばらしい世界があるんだよ。この外の世界、美しいと思うでしょう?でも、それよりももっと美しい世界がここにあって、ここには本当の安らぎがあるんだよ。そして、ここには神様がいらっしゃって、明主様もいらっしゃって、イエス・キリストという存在にも会えるんだよ。ここにいるんだよ」と、なんかそんな話を娘たちにしました。 そしたら、それを聞いた長女が自分の足をその眉間の天庭のところまで持ち上げたり、両手を眉間に突っ込むような動作をしながら、「どうやって入るの?どうしたらそこに行けるの?」と言いながら、一生懸命ジャンプしながら天庭の自分の眉間のところに入ろうとしていました(一同笑声)。 長女は6歳、次女は4歳くらいで、次女のほうは、その話を聞いたあと普通に私が本を読むのを聞いてたんですけれども―我が家では、私がちょっと英語ができる関係で子供たちをバイリンガルに育てようとしているので、今言った天庭の話を英語でしてたんですけれども―そしたらその次女が、読んでる本に出てくる登場人物の眉間のところを、毎回、「heaven、heaven、heaven」と言いながら指をさして(一同笑声)、「ここに天国、ここに天国」ということですね、そしたらなんかそれがおかしくなって、長女も私も加わって三人で登場人物の眉間を指さしながら、みんなでheaven、heavenと言いながらずっと笑ってました。 そんなことをして、そのあと思っていたのは、次女はまだ4歳で、神国を出てからまだこっちの世界での時間も短いですし、そしてまた、まだ物心が付くか付かないかぐらいですから、私が話したことを非常に素直に受け入れたんじゃないかと思ったんですね。「あ、ここに天国があるんだ」ということで。 それを受け入れたから、本に出てくる人たちの眉間の中にも天国があるんだと思って、それで、「heaven、heaven」と言って指をさしていたんじゃないかなと、そんなことを思いました。 一方長女は、もう6歳ですから、それくらいの年齢になるとだんだん人間の知恵が付いてくるわけです。そうなると、小さい時はなんでも受け入れられたのに、今度は、だんだん、見えないことは分からないというその世界に入っていくわけです。 で、その時僕が思ったのは、長女は、ついに、このすばらしい「信仰」という世界の営みに足を踏み入れたんだと、そう思いました。信仰ということは、要は、見えない、分からない、ということについて、それを、見えなくても信じる、分からなくても信じる、という世界ですね。 みんなで眉間の天庭のところに入ろうとしても入れないし(一同笑声)、そのすばらしい天国を見せてくれと言われても見せられないわけですね。 だから私たちは、信じるしかないんですよね。そういうすばらしい世界は確かにあります、見えないけどあります、というように信じるしかない。 幼いころは確かにいいですよね。すべてを素直に受け入れられるのはいいけれども、だけど、そこからまたさらに成長して、今度は、いよいよ独り立ちして、彼女は彼女なりにこの信仰の世界をつかんでいかなければならない。だから、この長女のとった反応を見て、ああ、今まさに、彼女は信仰の道の一歩を歩み出した瞬間なんだと思って、なんかそこに私にとっての感動がありました。 今日拝聴した聖書にも、見ていない事実を確認するのが信仰だとありましたでしょ?昔の人は信仰によって神に賞賛されたともありましたね(「へブル人への手紙」第11章1節~2節)。 「見えないけどあります」「天国というすばらしい世界は確かにあります」、それが信仰ですよね。 確かに、普通、天国に帰りなさい、帰りなさいと言われても、見えないんですから意味が分からないですよね。 だから、天庭に天国があると言われても、「どうやって入るんですか?」ということで長女がしたことは、感覚としては大人の我々も同じですよ。素直に表現すれば6歳の子供と大人の我々の感覚は大して変わらないですよ。私たち大人だって、すばらしい世界があると言われれば、「じゃあすぐ行きたいです」ということになるんですから。 でも神様は、すぐに結果を見せられるのではなくて、何を仰せなのかというと、「あなたがたに必要なのは、忍耐である」と、こう仰せなんです(「ヘブル人への手紙」第10章36節)。信じなさい、すぐにそれに触れることはできないけれども信じなさいと、そう仰せなんです。 だって我々が求めてるのは「天にあるふるさと」ですよ(「ヘブル人への手紙」第11章16節)。それがここ(真明様、眉間の天庭を指し示される)にある。 そしてその世界は、見えないけれども、あるんです。そこにはすばらしい世界があって、神様がいらっしゃって、神様はそこに我々を迎え入れて、再び自分の子供としてすばらしい存在にしてあげるよと、そういうことなわけです。 神様に永遠に仕えるのはものすごい喜びなんですよ、本当はね。 今日の話の冒頭、初心の話をしましたね。初心。「初心忘るべからず」の初心。 だけど、本当の初心は、もっと昔の話なんです。だって我々は、天国で神様に生んでいただいていた。「天にあるふるさと」と言われてるじゃないですか。ふるさとということは、昔いた場所、ということじゃないんですか? だからそのふるさとに帰らなきゃいけないんです、私たちは、本当はね。昔、神様がそこで私たちを生んでくださった時、神様は、親の愛情をもって「お前を愛すよ」と言ってくださった。我々はその親の愛に子供として応えたいという喜びがあった。その出会いがあったんです。親子の愛が結ばれたその瞬間があったんです。何が初心かと言ったらそれが初心ですよ。それが私たちの本当の初心。その時に私たちが持っていたのが私たちの本当の心なんです。 で、その時神様は、私たちに対して、「あなた方はこれから地上に行くけれども、すべてのものを携えてまた私のところに帰ってきてくれるね?」と仰せになって、私たちは、「はい、帰ります」と神様と約束したんです。それが私たちの初心なんです。 だけど今我々は、この世に来て、もうその時のことは分かりません、覚えてません、みたいになってしまっている。でも、分からなくても、あるんですよ。帰る場所がある。ふるさとがある。 だから、私たちの日常生活のすべてですよ。人間関係もそうだし、湧いてくる思い、隣人関係、食事、着る物、呼吸、朝起きてからのすべてのことを携えてそこに帰って、そして、「このすべてはあなたのものでした」と言わせていただく、それが我々の使命なんです。 だから、祈るにしても、天国が確かにあるという喜びをもってお祈りさせていただくし、歌を歌う時もその喜びの中で歌う。歌を歌うといったって、ただ横に拡げるだけ、全人類に拡げるだけじゃないですよ。帰るところがある、全人類と共に帰るんだという喜びの中で歌わせていただく。日常生活のありとあらゆることもその喜びの中でさせていただく。その我々の姿をご覧になった神様が良しとしてくだされば、神様は、「ではあなたは私の子供だよ」と仰せくださって、そして、神様と約束したその初心が成し遂げられて、そして我々は永遠の幸せをつかむということができるんです。 神様の愛は永遠の愛であって、それに応える子の愛も永遠なんですから、それが結ばれれば、それは永遠の幸せですよ、当然ね。 だから、救いの三本柱と言ったって、それは、まあ部分的なことですね。本当はすべてを携えて神のもとに帰る。 でも、少なくとも、今神様はそういう活動を与えてくださっているわけですから、やはりそれに対して人力を最大級に尽くさせていただく。 「頑張り」と「人力を最大級に尽くす」というのは違うと明主様は仰せで、一体どう違うんだろうということも思いますけれども(一同笑声)、でも、「頑張り」とか「人力を最大級に尽くす」というそういう言葉もあるし、だけど「親孝行」という言葉もありますね。 だから、努力とか頑張りとかそういう言葉は重たくなりますけれども、それらの言葉の意味は、本当は、親の愛に応えたいという親孝行したい思いですからね。 神様は私たちのことを愛してくださって、そして、「お前に使命を与えたよ」と仰せになってる。その使命を受けた我々は、「神様、愛してくださってありがとうございます」「あなたの親の愛に応えたいのです」というその親孝行の思い、その思いが私たちが努力するエネルギーの動力源ですよ。ただ自分の力とか人力で努力するというのは難しいですよ。「親の愛に応えたい」「親孝行したい」が私たちの動力源ですよ。 だから、冒頭では、この立春の大切な日に初心を思い出そうということをお話ししましたけれども、我々は、本当は、天国で―天にあるふるさとで―神様から初心を与えていただいたんです。 その初心を、本当は毎日思い出さなきゃいけないんだけれども、今日は立春の日ですから、より一層、共に神様の初心に貫かれた愛を思い出させていただいて、そしてあとはもう喜びしかないんですよ、我々には。いや本当に。だって、神様は我々を愛してくださってるんですから。 というように今日、我々は、神様の初心、本当の初心を思い出させていただいたんですから、また今日から、私たちの一瞬一瞬を神様の愛のために生きてまいりましょう。 ありがとうございました。