皆さまこんにちは。 先ほどは私の誕生日のお祝いの拍手をしてくださいまして(一同笑声)、ありがとうございました。 最近私は、「明主様流の生き方」ということをよく思います。 明主様流の生き方とはなんなんだろう、いや、なんなんだろうというか、自分は明主様流の生き方をしてこなかったと、そのことを非常に感じさせられるんですね。 前回の大祭の立春祭でも明主様流の生き方についての話をしたんですけれども、私は、明主様は、「鳴かぬなら私が鳴こうホトトギス」という生き方だったんじゃないかと話したんですね。明主様は、とにかく実践力がすごいと、そういう話です。 その時私は自然農法のことを取り上げたのですが、明主様は、薬毒ということから連想されて、農作物についても、人類は農薬や化学肥料を使ってない野菜を作らなければならないということを訴えられた。 でも、当時の日本においてそういう野菜はあまりない。そうなると、我々の感覚からすると、「できる範囲でがんばろう」「減農薬の物、できるだけ農薬の使ってない物を買おう」「有機の物を買おう」「オーガニックの物を買おう」くらいの発想なんですけれども、明主様は、無いならもう自分で作っちゃおうと、そういうことで自然農法をされた。私は、明主様のこの実行力がすごいなと、そのような話を立春祭でいたしました。 今日も明主様流の生き方についてお話ししたいのですが、今日お話ししたい明主様流の生き方というのは、「与えられている世界を当たり前と思わない」、これですね。今与えられている世界、これを当たり前と思わない、これですね。 そうすると、いや、明主様は宗教家なんだから、当然、一見与えられていない世界に属するような神様とか霊界を信じられておられるわけであって、その生き方は何も特別なことではないと、そのように思われるかもしれませんけれども、でも、明主様は、信仰に目覚められる前は、この目に見える世界、与えられている世界のみで生きておられたんですよ。 皆さまご存じのように、明主様は信仰に目覚められる前は無神論者であられた。神様にお参りしている人たちを見て、おかしなことしてるなと思っておられたわけです。だから、その時の明主様にとっては、与えられている世界こそすべてだった。 そのように生きておられた明主様だったんですけれども、ご自身に降りかかる度重なる病、子供の死亡、最初の奥様との死別、そして最終的には商売で失敗されて多額の借金をしょい込む、そういうことが重なって、人生に悲観される。絶望ですね。明主様は絶望に入られる。 その絶望の中にあって何が起きたのかというと、これが、明主様は信仰を求められるんですね。聖言「私の歩んだ信仰生活」にありますように、信仰!信仰!これによる他はない、信仰の暖かい光を空の彼方に仰ぐだけでも仰ぎたい、それだけでも私には救いになったと、そういう心境に明主様は至られる。 目に見える、与えられている世界とは別の、「信仰」という世界があると思われただけで、絶望されていた明主様の心に癒しが流れ込んできたんですね。具体的には大本という宗教を通して明主様は神様との出会いを果たされた。 それまで、明主様にとっては与えられている世界こそすべてだった。でも、大本に出会って、神様に出会って、信仰に出会って、明主様はどうなられたのかというと、今日の明主様聖言(「昭和29年2月27日 御講話」)にもありましたように、明主様の世界観は完全にひっくり返ったわけです、ひっくり返った(真明様、手のひらを返す動きをされる)。 それまでは、この目に見える世界である現界しかなかったのが、手のひらが返ったあとは、霊という存在、これに目覚められる。 明主様は、人間の目には見えない霊という存在、霊界という世界があるんだということに目覚められ、その研究に没頭されるわけですね。霊というものをどうやって感知することができるんだろうということで霊の研究に没頭される。 そして、それまでの明主様にとっては、この目に見える体の世界しか存在しなかったのが、今度は、ただ「霊の世界がある」どころではなくて、むしろ霊の世界こそ主なんだということで、霊主体従を訴えられるわけです。 それまでの明主様は、体主霊従までもいかない、体の世界しか存在してなかったのが、霊の世界に目覚められたあとは、霊主体従、目に見えない霊の世界こそ主なんだ、本当の世界なんだという認識に至られる。 そういう明主様のご認識から生まれたのが浄霊ですよね。我々が長年実践してきた手をかざしてする浄霊。人間の身体を良くするのは、表面的なことを治していたのではどうにもならない、人間というのはそもそも霊が主なんだから、人間に内在する霊を浄めることによって、そして霊主体従の法則によって、実際の身体も良くなるんだ、だから浄霊をするんだと、そういうことですね。ということで明主様はこの浄霊ということを一生懸命された。 でも明主様は、最晩年にまた違う道を示される。それまでは、手を掲げたことによって出る神様の光、これによって人間の身体に影響を与えるということだったんですけれども、最晩年には、浄霊は二の問題でお念じしなさいと、突然そう仰せになるわけです。 念じなさい、ということは、祈りなさい、ということですよ。「念じる」というのは言葉が介在するんですから、事実上明主様は、これからは祈りなさいと仰せになった。神様に悔い改めの祈りを捧げることが本当の浄霊なんですよ、そういう行為が本当の意味で我々を浄めて、そして、霊主体従の法則によって、我々の身体もなにかいい影響を受けることができるかもしれないよと、そういう道を明主様は最晩年に我々にお示しくださったわけです。 また、明主様が目覚められた霊という世界は、なんと言いますか、無味無臭でぼわっとしたような世界ではなくて、明主様は、霊界というのは美しい世界なんだと仰せになった。 明主様は芸術が非常にお好きでしたね。与えられている世界だけで終わりだったら、それらの芸術は美しいな、ということだけなんですけれども、明主様はそこで終わらなくて、この世には美しい芸術はいろいろあるけれども、本当はもっと美しい世界があるんだ、この世のものは確かに美しい、だけど、霊の世界はもっと美しいんだ、自分が知り得たこの霊界というのは最も美しい世界なんだと、そこにたどり着かれるわけです。 だからそれは、ひと言で言えば天国ですね、天国。明主様は、最も美しい世界である天国があるんだ、その天国が私たちの中に存在していると、そこにたどり着かれる。 そして明主様は多くの人にもその世界に目覚めてほしいということで、我々が聖地と言ってきた、この地上天国の模型―きれいな庭ですね、簡単に言えば―それを造ると仰せになった。目に見えない最も美しい天国の世界を地上にも投影させると仰せになった。 目に見えない世界である天国は美しい、それはこんなところなんですよ、ということで明主様は、いわゆる聖地建設、地上天国の模型作りということに精魂を込められる。 そして、神様の栄光ある天上の世界が地上に写し出されることによって、この現界―与えられている世界―もどんどんいい世界になっていって、真善美という言葉に代表されるような調和ある理想世界、これが少しずつこの地上にできていくんだと、そう明主様は仰せになったわけです。 浄霊、芸術、あと残っているのは、明主様と言えば自然農法ですね。明主様と言えば、切っても切れないのは自然農法ですね。 明主様は、地上天国とかミロクの世とか理想世界とか、いろんな表現をされましたけれども、それを作り上げていくのに自然農法というのが大きな役割を果たすと、そう仰せになった。 そして、明主様の自然農法のビジョンとは何かといったら、それは、肉食してるとガンのような病気にもなるし性格も攻撃的になってしまうよ、だから、自然農法によってお米とかのおいしい穀物や野菜を作る、それによって人類はもっと野菜や穀物を食べる、食べなきゃいけない、そのような食を通して人間の性質、性格も変わって、そして理想世界であるミロクの世ができますよ、だから自分は自然農法を推進してるんだ、そしてミロクの世において人類は全員菜食家になる―これが明主様の自然農法のビジョンです。 これは私が作り上げている話ではなくて、明主様がありとあらゆるところでこういうことを表現されていますよ、肉食の害とか、野菜を食べなさいとか、ミロクの世には人類菜食家になるとか、これら全部、明主様がいろんなところで言われてることです。 ですので、私たちが、「明主様はミロクの世には人類は菜食家になると仰せだった」と聞いて、もし「なんだそれ」と思うのだとしたら、それは、我々が、明主様ご昇天後の長い間、明主様流の生き方ではなくて、結局我々自身の望む生き方がありますから、そういう生き方をしながら明主様の聖言をただ一部利用して歩んできたから、だからじゃないかと思います。 「ミロクの世には全人類は菜食家に」と明主様がおっしゃったのにそれをこんにちまで聞いたことがないとしたら、それは、なんてことはない、その聖言が我々にとって都合が悪かったからですよ。「そういうことは言われたくないなあ」があったから、それだけですよ。だって本当に明主様はそういうことを仰せになったんですから。そして我々は、本来、明主様を信じる信徒である。ですね? というように明主様は、理想世界の建設を目指して歩まれる中で、最終的には、最晩年、メシア降誕のご事蹟、メシアとして新しく生まれるというところに到達されます。 で、これは度々申し上げているように、新しく生まれるとか、メシアが生まれたと仰せになったということは、少なくとも「生まれた」と仰せなんですから、明主様を生んだ方がいらっしゃる。当たり前の話ですね。 明主様は、新しく生まれられたとおっしゃるんですから、誰かが生んでいるわけです。じゃあそれは誰なのか。明主様の肉の親はその時生きているのかといったら、もうとうに亡くなってるわけですから、だから、誰が明主様を生んだのかといったら、それは神様しかいない。ということは、明主様は、神様の子供であるメシアとして生まれた、そういうことにならざるを得ないですね。 この与えられている世界では自分の親がいますね。もちろんそれは、実の親がいる方もいれば、育ての親であるとか、それはいろいろですけれども、この世に生まれた以上、誰でも、絶対に親はいますね。 でも明主様は、この与えられている世界を当たり前だと思ってそこで話を終わらせてしまうのではなくて、自分にはこの世の親はいるけれども、目に見えない本当の親がいるんじゃないか、肉の親は自分のことを愛してくれた、でも、本当に私のことを愛してくれている親がいるんじゃないか、ということでその本当の親であられる神様の愛に目覚められた。 というように明主様は、最晩年、全人類の一人ひとりの中にあるメシアの御霊に目覚められ、そして神様との出会いを果たされた。 だから、明主様は、元は全然神様を信じておられなかったのが、今日の明主様聖言にあったように、完全に手のひらが返ったわけですね。神様に出会われる前までは、神様なんか拝んでるのはおかしい、目に見えない世界なんて無い、だったのが、今度は、霊の世界とか天国とか神様とかを信じるということで、明主様の手のひらは完全に返ってしまったわけです。 今日の聖言で、明主様は、文明はひっくり返るよ、手のひらが返ったみたいになるよ、今まで人類が一生懸命やってきたことがもう反対になっちゃうよと仰せですね。今日の聖言は長い御講話の一部ですけれども、今日抜粋したところのすぐ次に来る文章は、「信者さんはみんな手のひらが返った人です」と、そう明主様は仰せです。 だから明主様は、我々のことを、ご自分と同じ状態だと認識してくださっている。文明が一生懸命やっていること、世の中で一生懸命やっていることとは違う生き方をしていて、もう、手のひらが返ったのが自分の信者なんだ、それが自分を信じてる者たちなんだと、そう仰せです。 本当に、明主様にそのように見ていただける、おっしゃっていただけるのは光栄なことですけれども、では我々は、長年、この明主様の思いにふさわしい存在だったんだろうか。 霊主体従ということを教えていただいていても、病気になったら、浄霊で早く治りたいとか、できれば病気になりたくないとか言って、霊を信じるよりも、とにかくこの苦しみから逃れたいということで、与えられている状況、与えられた病気という状況を主にしてきたのではないでしょうか。 浄霊と言っても、結局病気が治ればそれでいいんだとなっていた。だから結局、与えられている世界を主にしていたわけです、我々は、長年。 天国ということも、天国を投影する、天国を地上に投影するとしたら、まず我々は天国に上がらないといけない。明主様聖言「本教救いの特異性」。「本教救いの特異性」。我々の宗教の救いの特徴、他の宗教に無い特徴は何かというと、我々はまず天国に上がる、まず天国に上がって天国人となって、それから苦しんでいる大衆を救い上げる、これが我々メシア教なんだと明主様に言われても、我々は、自分の中に天国があると言われても私の生活はこうだ、こういう病気もある、実感が無い、この現実の世界を天国にしなきゃ意味無いじゃないかと、そう言ってきた。 新しく生まれるということも、我々の中に神様がいる、その神様が我々の本当の親であって、我々はその子供にならなきゃいけないんだと言われても、それも、そんなこと言われても分からない、実感が無い、あるいは、そもそももう我々は神様の子供じゃないのかと、そう言ったりするくらいですね。神様の子供として新しく生まれると言うけれども、もう我々神様の子供なんだからそんなことを目指す必要があるのか、今の自分を一生懸命生きていけばいいじゃないかと、そう言ってきた。 ミロクの世は菜食ということも、これは明主様が仰せになったことですけれども、このことについての我々の明主様に対する姿勢はどうなんだと、そういうことです。 だから、この、与えられている世界を当たり前と思わない、という明主様流の生き方、これを実践するのは大変なことですね、実は。 心理学かなにか分かりませんけれども、ある実験がありまして、完全に正確じゃないかもしれないんですけれども、その実験は大体次のようなものです。 駅に電車が来ることになっている。それで、その駅を普段利用しない人が来た時に、電車を待つために列に並ぼうとする。そこに、電車を待っている人たちのものすごい長い列がある。そのとなりには、普通に考えたら乗り口なんだけれども、そこには誰も並んでいない。 そういう状況に出会った時、その実験によると、みんな大体ものすごい長い列のほうに並ぶと、そういう実験結果です。 そういう人間の心理ですね。みんなと同じことをしておこうとか、自分だけ誰も並んでないところに行ったら、なんだあの人と思われちゃうんじゃないかとか、そういういろんなことから、普通の感覚からすれば乗り口なのに誰もそこに並ばない。そういう実験結果です。 でも、私は、こういう姿が我々にもあるんじゃないかなと、そう思うわけです。 そして僕は、明主様は、周りの人からどう思われようとも、それは正しいことなんだからということで、その誰もいない列に並ばれるのが明主様なんじゃないかと、そう思うんですね。 菜食のことに関しても、明主様は、肉食すると血を濁してガンになると聖言くださったわけですが、明主様は、そういうことを70年以上前から仰せになっていた。70年前の日本といえば、まさにこれからどんどんどんどん肉食しようという時代ですよ。肉を食べるのは体にいい、元気になる、という世の中です。大体、明主様ご昇天以降も、肉食の習慣は、さらにどんどんどんどん増えてますね。世界中で増えている。明主様は、そういう流れにあって肉食の害を訴えられた。それは、文明の反対を行くことですから、勇気のいることですよ。 なぜ明主様はそういうことを訴えられたのかというと、確かに明主様は、お若い時、ご自分の病を肉をやめて菜食にされたことによって治されたこともありましたけれども、でも、究極的にはそれが神様からのメッセージだったからですよね。 神様から、理想世界はこうなんだと示されたものがあった。だから明主様は、それを信じられて、誰もいない列に並ばれたわけです。 日本全体が、いや肉食のほうが正しいでしょ、科学的根拠もある、日本が憧れてやまない西洋もそういう生き方、食事をしてる、という中にあって明主様は、その列には並ばれずに、たったお一人、「私はこの列に並ぶ」ということで誰もいない列に先頭で並ばれた。 だから本当は、もう手のひらが返った我々こそが、明主様を信じて、明主様のあとに並ぶべきだったんですよ。明主様が乗られる電車がどこに行くか分からないけれども、自分は明主様と一緒の電車に乗りたい、明主様が行かれる世界を見たいと、そう言うべきだったのが、それがずっと遅れて遅れて、明主様ご昇天後もう何十年も経ってしまって、で、気が付いたら、我々の前に、まず西洋の人たちが、明主様が仰せだった肉食をすると血が濁るということを証明し始めてしまっていますよ。 これは、『ゲームチェンジャー:スポーツ栄養学の真実』というドキュメンタリーなんですけれども、それを見たら、もうまさに明主様が仰せのまんまですよ。スポーツ選手に肉を食べさせて血を調べる。そしたらまさに血が濁るんですね。こういうこと、本当は明主様の信徒である我々がしてこなきゃいけなかったんじゃないですか?明主様の信徒ですよ、我々は。 でも、もう明主様の信徒でもない人たちのほうが先に明主様の道を歩み始めてしまっている。もちろん、明主様は、西洋科学がそういうことを証明する何十年も前にそのことを言われて、今ようやく世の中が明主様に追いついてきた、ということなのかどうか分かりませんけれどもね。 この『ゲームチェンジャー』というドキュメンタリーを見たら、明主様が食に関して仰せのことが、西洋の科学、アメリカとかでも、どんどんどんどん証明されてることが本当によく分かります。 でも、じゃあ例えばそのドキュメンタリーを見ました、私が今話してるからそのドキュメンタリー見てみましたといって、それを見た時に我々は何を思うのでしょうか。 その時に、あ、本当だ、明主様が仰せの肉を食べると血が濁るというのはアメリカでも科学によって証明されている、いろんな偉いお医者さんも同じことを話している、だから明主様の言ってることは本当だ、となるのでしょうか。でももしそう思うのだとしたら、我々はどちらを信じているのでしょうか。 そのドキュメンタリーを見て、もし明主様の言ってることが本当に真実だったと思うとしたら、結局明主様より科学のほうを信じてるっていうことじゃないですか。 アメリカとか西洋が言えば、あるいは科学で証明されれば、そうであれば明主様が言われていることは正しいことなんですか?となってしまいますよ。 我々は、本当は、科学で証明される前から、アメリカで言われる前から、明主様がおっしゃったことを信じて歩んでこなければならなかったのに、我々が明主様を信じないから、神様は、こういうドキュメンタリーのようなことを通してでも、我々明主様の信徒も少しは目覚めなさいと、そうなってしまっているんです。 ミロクの世には全人類が菜食家になるということも、これを明主様はもう何十年も前におっしゃっていたのに、明主様の信徒である我々が全然それを受けるつもりがなく、ミロクの世はまだ先のことだから、まだ先のことだから、まだ先のことだからと言ってここまできたら、なんてことはない、もう西洋のほうが進んじゃってるじゃないですか。明主様が仰せのことを実践してるじゃないですか。いわゆる「ヴィーガン」という言葉に代表されるように、もう西洋のほうが進んでしまっている。 我々は明主様のお膝元の日本にいるのに、全然じゃないですか。ミロクの世は菜食になると宣言されたその教祖を信じる我々は、全然じゃないですか。全然だった、と言うんですかね。 ミロクの世には菜食という明主様の聖言の流れ通りに、肉食社会による弊害も西洋のほうではもう警笛を鳴らしていますよ。ただ、そういうのは普段我々の目には簡単に入ってきませんよ、利権とかお金が関わりますのでね。 でも、これもドキュメンタリーですけれども、『Dominion(ドミニオン)』というのがあるんですけれども、ここには、肉食社会の弊害が鮮明に描かれていますよ。 いや、私は、ドキュメンタリーの内容うんぬんくんぬんの話をしたいのではなくて、もう世の中が明主様が仰せになったほうに進んでいるのに明主様の信徒である我々はどうなんだと、そういうことを言いたいわけです。 そして、明主様が先頭に立って待っておられるその電車の行き先は、本当は、天国なんですよ。天国に連れていってくれる。明主様の乗られる電車は、天国に向かう。永遠の安らぎと喜びに満ちたその天国に連れていってくれる電車に乗るために明主様は先頭で並ばれたんです。 でも、我々にとって、明主様流の生き方をするのは大変なことです、だって文明の反対を歩まなければいけないわけですし、世の中で一生懸命していることと違うことをするんですから。だからね、明主様流の生き方をするということ、これは我々にとっては重荷ですね、重荷。重荷だから、明主様ご昇天後、我々は、その長いほうの列に並ぶ選択をしたんです。 明主様は、電車が来たらもうすぐ天国ですよ、だって先頭で待っておられるんですから。ま、これは比喩ですけれどもね。 我々のほうはというと、長い列のほうに並んでしまっているから、自分の前にたくさんの人がいる。だから、何本電車が来てもずっと乗れないんですよ。ずっと天国に行けない。 世の中の多くの人が歩む方向、一般的に科学とかで示されている方向、とりあえずこっちに行けばいいんだと思って、決断せずにみんなのいる列に並んでおけば、まあ、安心感はありますね、みんながいるところだから。みんなと、「電車なかなか来ないね」みたいに雑談している。そして我々はもうそれが天国だと思ってるんです。もうそれが世の中だと思ってるんです。それで満足してるんです。喜怒哀楽のある世界、これが人生なんだ、待ってる人たちと仲間になって、みんなで仲良くすればいいじゃないかと、それでもう満足してしまってるんです、我々は。 でも、それでは一生本当の喜びは感じられないんですよ。明主様はもう本当の喜びを感じておられますよ、だって一番最初に先頭で並ばれたんですから。 我々の使命は何かというと、まず、明主様の列に並ぶ。いきなりこれが大変なことですね、だって今までずっとみんながいる長い列に並んでたんですから。長い列に並ぶのは楽ですよ。だから、まず、このしがらみから抜けるのが大変ですね。 でも、我々の使命は、長い列から抜けて明主様の後ろに並ぶだけではなくて、本当は、長い列に並んでる人に向かって、こっちに来いと、そんなところに並んでても一生幸せになれないよ、こっちの列に来いよ、こっちこそが天国にすぐ行ける列だよと、それをするのが我々メシア教の使命です。 だって明主様おっしゃってるじゃないですか。文明はひっくり返るんですよ。手のひらが返ったようになるんですよ。今まで一生懸命人類がしていたことは、その反対になっちゃうんですよ。だとしたら、今、文明がしているところの列に並んでたって一生明主様の信徒にはなれない。だって明主様は我々のことをもうすでに手のひらが返った人と仰せなんですから。 明主様は、与えられている世界を当たり前と思わなかった。我々も、その明主様の生き方に目覚めないといけない。 我々は、生まれて目を開けた時、一番最初に何を見たんだろう。生まれました。生まれて目を開けました。その時、一番最初、何を見たんだろう。 だからそれは何かといったら、神様の御顔ですよ、我々が見たのは。一番最初、生まれて目を開けて目にしたものは神様の御顔です。 我々は今、生まれた時と聞いた時、どこを連想したのでしょうか。 霊主体従、ですよ。だから、我々が生まれたといったらそれは天上の話です。天上。天国。天国で一番最初に神様が我々を生んでくださった時、我々は目を開けて神様の御顔を仰いだんですね。 そう言うと、それは覚えてないということになりますね。覚えてないのでそれは事実じゃない、なので信じられませんと、こうなりますね。 では地上で生まれて一番最初に見たのは誰なのかというと、、、お医者さんとか看護婦さんとかそういう屁理屈は一旦置いておいて(一同笑声)、一番最初に見たのは親の顔ですよね。肉の親の顔。 それ、覚えてないじゃないですか。いや、まれにね、生まれた時の記憶がちょっとある方もいますけれども、基本、覚えてない。でも覚えてなくても、見たということは、そのイメージは今もこの目の網膜に焼き付いてるんですよ、だって見たのは事実なんですから。 オギャーオギャーと生まれて目を開けた時に親の顔を見た、その残像はまだ我々の目にあるんです。それ、覚えてないからじゃあ事実じゃないのかといったら違いますよね。覚えてなくても事実ですよね。 だから、神様が我々を天上で生んでくださった時、我々は目を開けて―霊の目を開けて―神様の御顔を拝した。これは今も我々の目に焼き付いてる。残像が残ってるんです。だって見たんですから、我々は。神様の御顔を見たんです。事実ですよ、これは。「覚えてないから事実ではない」と言うなら、我々は自分の肉の親も否定しなきゃいけないですよ。 でも我々は天上で最初に生まれた時、目を開けて神様の御顔とその栄光を拝したのであって、それは今も我々の目に焼き付いてるんですね。その時神様は、「よく生まれたね」と言ってくださって、我々も、「あ、お父さん」と、もう声にもならない声によって神様と交流した時があったんです。だからそれこそが愛ですね。本当の親子の愛ですよね。 で、その神様の愛ということに関連して、先日家族でショッピングセンターに行きまして、休みの日だったので混んでたんですけれども、家族5人で歩いていまして、そして、右に曲がったんですね、右に曲がった。でも、右に曲がった時、長女は我々が曲がったことに気が付かなくて、長女だけが曲がらずにまっすぐ行ってしまったんですね。 我々は右に曲がってしばらくして気づいたんですね、あれ長女がいない、ということに。いや、最終的に見つかったので何も問題は無かったんです。迷子になって大変になっちゃった(一同笑声)という話ではないです。 とにかく、長女がいないので、「あ、大変だ」ということで、長女の名前を呼んだりして、そういうのは、時間にしたらちょっとだと思うんですけれども、心配してますから時間が長く感じられるんですね。迷子になっちゃったんじゃないかとか、連れ去られたんじゃないかとか。いやこれはね、そういうことを思うんですよ、思う。 それで大丈夫かなと思って探しているうちに偶然会えまして、さまよってる娘(一同笑声)を私が見つけて、さまよってるというか、あれ、いないと思ってこっちに戻ってきていた長女に偶然会えまして、その時に、最初私が声に出したのは、「ちゃんと見てなきゃだめじゃない」と言ったんですね、いや、もう心配でしたから。長女を抱き上げて、「ちゃんと見てなきゃだめじゃない」と言ったんですね。 でも、そのことを言ったあとに、私は、「ちゃんと見ててあげなくてごめんね」と言ったんですね。「ちゃんと見ててあげなくてごめんね」。 とにかくそれで家族再会してよかった、よかったということなんですけれども、その日の夜、そういうことがあったなと思って一人考えていた時に、ふと、神様も我々に対して同じなんじゃないかと思ったんですね。 結局我々は神様というと、要は、最初の、「ちゃんと見てなきゃだめじゃない」のような感じで、人間が罪を犯しちゃいました、だから、神様は怒っておられる。人間のほうは、罪を犯しちゃった、悔い改めなきゃいけない、自分の責任なんだ、なんでこんなことしちゃったんだろうと思ってる。 だけど神様は、本当は、「私がお前のことをちゃんと見ててあげないからこうなっちゃったんだね」「私の責任なんだよ」と、それが神様の御心なんじゃないかと思ったんです、その時。 人間の罪に対して神様は罰してくる、ということで我々は神様を恐れてるわけですけれども、本当は神様は、その反対で、ごめんね、私のせいでお前たちにこんな思いをさせちゃってごめんねと、そう思っておられるんじゃないかと、そう思ったわけです。 人類世界は大変なことになっている。殺人、泥棒、だますとかね。その時に神様は、人間に対して、誰でもいいから罪人の代表をあなた方で選んで私に差し出しなさい、私はその人を殺して、そしてあなた方の罪を赦すよ、じゃないんですよ。そうではなくて、神様は、この人間世界の罪については、私のひとり子であるイエスを送る、そしてイエスに人類の罪を償わせると、そういうことなんです。 ひとり子ということは、神様のたった一人しかいない子供ということですから、少なくともその人物は人間の世界には属してないですね、その表現は。だから、神様側の存在ですよ、イエスはね。 ということは、人類の罪については、神様ご自身が、「私が責任を取る」としてくださった。私自身が私の愛する子供であるイエスを送ってあなた方の罪を取り除くよ、だってお前たちがこんなになったのは私の責任なんだからと、そういうことです。 ということでご自分のひとり子であるイエスを二千年前地上に降ろして、そしてその血によって人類を清めた。元々は動物の血だったわけですね。でも、今日拝聴した聖書(「ヘブル人への手紙」第9章11節~第10章39節)にもありましたけれども、この世の中のいろんな動物の血を我々が捧げるのをそもそも神様は望まれてなかった。でも、とにかく、イエスが生まれる前の時代、我々はずっとそうしていた。 でも、最終的には、動物ではなくて、イエスの血によって人類を清めたと、そうありましたね。大変なことですよ、これはね。もう清められたんですよ。「た」ですから過去形ですよ。 だから、そのためにイエスは死んじゃった。だって、大量の血を流すわけですから、それで死んだんです。イエスは死んだ。でも死んでそれで神様の愛の物語は終わるのかというと終わらなかったんですね。だって甦ったんですから、イエスは。 これも大変なことですよ。死んでたんですよ、イエスは。死んでた。十字架にかかったということは、呼吸の苦しさと血を大量に流したことによって死んだ。でも、その存在が、死んでから3日目の日曜日―金曜日に死なれて3日目、金、土、日の日曜日―その時に甦っちゃったんです。これはもう科学を超えてますよ。 だから、イエスを信じるということは、死んだ存在が生き返るのを信じるということです。これを信じるというのは大変なことですよ、本当にね。 復活したということは、イエスはもう永遠に死なない存在ですね。そして、復活したイエスを祝うのがイースターですね。今日は、「イエス復活祭並びに春季大祭」ということですけれども、イエス復活祭はイースターですから、今日はイエスが復活したことを祝うお祭りですね。 でもね、じゃあ復活したのはイエスだけなのかというと、これがそうじゃないんですね。神様のひとり子であるイエスだけがこういうすばらしいことになったのかというとそうではなくて、本来、人類誰もが復活しなきゃいけない、神様の命に甦らなきゃいけない、70年、80年生きて終わり、じゃないんですよ。70年、80年、90年生きました、120歳まで生きました―それで?ですよ、それでどうしたの?ですよ。ただ長生きしたってなんの意味も無いんです。 明主様はどうであられたのかというと、メシアとして新しく生まれられた。そして、ご自分は生まれたての赤ん坊だとおっしゃった。だとしたら、その前の明主様はどこに行かれたんですか? だから、その前の明主様は死なれたんです。そうでなければ明主様は二重人格になってしまう。そして明主様は二重人格ではない。その前の、限りある命の明主様は死なれて、今度は神様の子供であるメシアとして新しく生まれることによって、明主様は、永遠の命を獲得されたんです。 明主様は、脳溢血になられてからメシア降誕のことを仰せになったわけですが、本来、脳溢血の時に死なれてもおかしくなかったんですよ。いや、というか死なれたも同然だった、本当はね。死なれたも同然だった。でも脳溢血という病によって死ぬどころか、明主様が仰せなのは、その全く逆の、自分は生まれたての赤ん坊になった、ですよ。 だから、明主様は復活されたんですよね。しかも、その脳溢血を明主様がお受けになったのは、その年のイースターのお祭りとほとんど同じ日ですよ。たった一日違い。その年のイースターは4月18日で、明主様が脳溢血をお受けになったのが4月19日。イエスと明主様、絶対何か関係ありますよね。 だから、確かに今日はイエス復活祭ではありますけれども、実は、明主様復活祭でもありますよ、本当はね。 イエス、確かにすごいですね。明主様もすごいんですよ。だって、神のひとり子であるイエスだけじゃない、我々人類の誰もが神の永遠の命に復活することができるということで新しくお生まれになった模範を示してくださったんですから。 だから、イエスと明主様。これを信じるのが我々世界メシア教である。 我々に残されているのは、イエスと明主様がおられる電車の列に並ぶか否か、そこですね。我々はそこに並ぶ。並んで、そして、世の人に対して、「こっちに来いよ」と言う、これが世界メシア教ですね。 だからこれは大変なことですよ。だって文明がひっくり返るんですよ?そもそも日本人なんてほとんどイエス・キリストのことなんか信じてませんからね。イエス・キリストのことをそもそも信じてない。多くの日本人は、それでいいんだ、みんな信じてないからいいんだ、信じてないほうの、みんなが並んでる長い列に並べばいいじゃないか、多くの人と同じことをすればいいじゃないかとなってる。同調圧力という言葉もあるように、日本においては、周りと同調しないといけないという感覚も強いですからね。 でも、みんなが同じであることが良しとされる世界が心地よければ、もう永遠に明主様の道は歩めないですよ。与えられている世界で満足してれば、明主様の道は絶対歩めないですよ。 だけど、今日拝聴した聖書の最後のほうにもあったように、我々は、信仰を捨ててしまうのではなくて、明主様信仰を貫きたいですよね。明主様流の生き方、明主様信仰を貫きたい。 だって、本当に、神様は、もうあり余るほどに我々を愛してくださっているわけであって、その神の愛に目覚めさせるのが明主様が創立された世界メシア教であり、そのために今、「祈り、食、音楽」の活動があるわけですからね。だから、「祈り、食、音楽」、これを多くの人に大いに拡めていこうじゃないかと、そういうことです。 だからそこに困難が伴うから、我々仲間で共に歩もうと、そういうことですね。信じるのが難しいとか、なかなか実践できないとか、いろいろありますね。だから、そういう時こそお互い支え合って、そして勇気を持って明主様の列に行こうじゃないか、行って、多くの人をまたこの列に導こうじゃないか、そして世の中を一歩一歩、すばらしい世界にしていこうじゃないかと、そういうことです。 そういう大いなる使命を果たすために、イエスと明主様が先頭に立ってくださってるわけですから、イエスと明主様のお背中を追いかけて共に歩んでまいりましょう。 ありがとうございました。