明主様は、ミロクの世には全人類は菜食を実践しているとお宣べになりました。 では、キリスト教の方々は、この明主様の食についてのお考えを受け入れることができるのでしょうか。 明主様は、キリスト教と呼応して人類を救済すると仰せなのですから、この食についての明主様のお考えをキリスト教徒の方々が受け入れてくれない限り、キリスト教と呼応してのご神業は進みようがありません。明主様のみ心が成し遂げられようがありません。 メシア教徒の皆様は、キリスト教徒の方々が、明主様がお示しの食を実践するのは難しいと思われますでしょうか。いかがでしょうか。 私はそうは思いません。不可能ではないと、そう思っています。 「ヘブル人への手紙」には、次のように記されています。 それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、 「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、 わたしのために、からだを備えて下さった。 あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。 その時、わたしは言った、 『神よ、わたしにつき、 巻物の書物に書いてあるとおり、 見よ、御旨を行うためにまいりました』」。 ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。 こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。(第10章5節~14節) 聖書にこのように記されています。 ここの「燔祭」とは、神様に感謝などを伝えるため、牛や羊などの動物を丸焼きにして、神様にお供えした行為を指します。 これは、「主にささげる香ばしいかおりである」(「レビ記」第1章9節)とあるように、事実上、神様に捧げた食べ物のことです。 焼いた動物、いや、焼いた牛肉とその香ばしい香り――これを神様に捧げていたのです。 当時人類は、神様は、肉を食べることと、焼いた肉の香り、バーベキューの香りがお好きであると思い込んでいたのです。 しかしイエスはなんと言っているでしょうか。イエスは、実は神様は、そのような焼いた肉は望んでもいなかったと、そう教えてくれています。実は、神様は、バーベキューの臭いを好んでもおられなかったと、そう教えてくれています。 神様は、肉を食べることを望んでもおられなかったし、焼いた肉の臭いを好んでもおられなかった。 ローストビーフ、ステーキ、焼肉、ハンバーグ―神様はこれらの食を望まれていなかった。その臭いを好まれていなかった。 皆様。皆様は神様が私たち一人ひとりの中に生きておられることを認めておられますね?「祈りの言葉」において、「神さま、あなたは生きています。わたしの中で、生きています」とお唱えになっておられますね? もし神様が私たちの中に生きておられるとして、皆様は、その神様を喜ばせたいと思われませんでしょうか。いや、もし私たちの中におられる神様が喜んでおられなければ、どうやって私たちの人生が幸せに満ちたものになりえるのでしょうか。 はっきり申せば、私たちの中におられる神様が望んでもおられないのに、どうして私たちが肉と肉の焼いた臭いを望む必要があるのでしょうか。 しかし、ここで一つの疑問が湧いてきます。私たちは、肉を食べるのが好きです。違いますか?焼いた肉の臭いが好きです。違いますか? 明主様が地上天国には全人類が食べていると仰せになったヴィーガン食を、今現在実践している方にとっても、昔は肉は好きだった。ですね? 私たちは、今まで、誰しも肉を好み、肉が焼けている臭いは最高だと言ってきませんでしたでしょうか。 である以上、私たちは、次の問いに直面しなければなりません。「私たちの中に生きておられる神様が望まれも好まれもしておられないのだとしたら、肉や肉の焼けた臭いを望んでるのは誰なのか?」――この問いに直面しなければなりません。 答えは簡単です。それは、悪魔以外いません。サタン以外いません。神様が望まれてない物を望んでいるのですから、それは、神様とイエスの敵である悪魔でありサタン以外あり得ません。 私たちは昔、神様は肉を好まれていると思い、それを神様に捧げてきました。いや、もしかしたら、本当は、私たちが肉が好きだったので、神様もそれが好きなことにしてしまったのかもしれません。 私たちは、動物の血肉を神様に捧げることにより、私たちの罪が取り除かれ、清い存在になれると思っていました。 しかしイエスは、動物の血肉では私たちの罪が取り除かれることもなければ、私たちが清くなることも無いと仰せです。 「ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである」―私たちは、イエスを通して清くならせていただいたのです。なぜなら、「彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされた」からです。 皆様、私たちはすでに清められ、永遠に完全な者としていただいたのです。私たちの罪はすべて取り除かれ、もはや、昔のように、罪の贖(あがな)いのために肉や肉の焼いた臭いを神様に捧げる必要は無いのです。 だとして、なぜまだ肉を食べるのですか?神様が望まれも好まれてもない物を食べる必要はもはや無いのです。 神とイエスを信じる者が肉を食べるのは、もはやなんの意味もなしません。サタンの支配は終わらねばならない。ですね? しかも本当は、サタンの支配は二千年前にもう終わったのです。 である以上、これからも、悪魔であるサタンに感覚器官を支配され、肉欲に負け、肉の焼けた臭いに振り回されるような生き方はしなくてよいのです。 すでに必要な血が十字架にてすべて流された以上、問題は、肉を食べたいか食べたくないかではなく、もはや食べる必要が無いのです。 魚の問題はありますね。魚。 復活したあとのイエスですら魚を食べている。これは事実です。 しかし私たちは今、イエスが生きていたのとは全然違う時代に生きています。今、人類は、食べるため、1日、何十億匹とも言われる量の魚を捕まえている(年間1兆~3兆の魚を捕まえていると言われている)。二千年前、イエスがガリラヤ湖で数匹の魚を食べたことにより、この膨大な量の犠牲を正当化できるのか、はなはだ疑問です。 明主様は、「天ヶ下生きとし生けるものみなの歓ぎ喜ぶ天国造らむ」とお詠みになりました。 明主様の思い描かれた理想世界においては、天ヶ下の生きとし生けるものみなが歓喜しているのです。生きとし生けるもの――当然、これは魚を含みます。 繰り返しますが、明主様は、ミロクの世には全人類はヴィーガン食を実践していると説かれました。ということは、ミロクの世においては、人類の消費のために魚を含む動物は殺されていない、ということです。 結論的に言えば、今日話したすべてのことを鑑みる時、キリスト教の方々にとって、魚以外の肉を食べることを正当化するのは極めて難しい。 魚についてはどう考えたらよいのかというと、私は、明主様の理想世界のヴィジョン――生きとし生けるものみなが喜ぶヴィジョン――を心から受け入れ、その喜びをキリスト教の方々に伝えることではないかと思います。 私たちの喜びに触れ、キリスト教の方々も明主様のミロクの世の食の考えを受け入れてくれるかもしれません。 私たち明主様の信徒についてひと言付け加えるとしたら、私たちは、ひとたび明主様の「地上天国には人類は菜食に」のみ心を知った以上、私たちは、いかなる理由があろうとも魚を含む肉を食べることを正当化することはできない、ということです。 私たちは、明主様のご負託に応え、菜食を実践し、それを世に広めねばならない。 しかも、こんな単純なことがあるでしょうか。全人類に菜食をさせる――そうすればそれが地上天国です。実践し、それを広めない理由などあるでしょうか。信徒である以上、私たちは、明主様のご神業の進展を邪魔する者ではなく、推進する一部とならねばならないのではないでしょうか。 動物は、人間消費のために搾取・利用されるべき存在ではなく、私たちと共に神様のみもとに――すべてをお造りになった神様のみもとに―立ち返らせていただく存在です。 最後に。みなで、ヴィーガンバーベキューを楽しもうではありませんか。なぜなら、このバーベキューこそ、神様、イエス、明主様が望まれ、好まれるバーベキューだから。 次の11月、私はブラジルにまいります。ブラジルの皆様、共に、神様に喜ばれるバーベキューをしましょう。そして楽しみましょう。大いに楽しみましょう。ではまたその時まで!