今、皆様と「Jesus」を歌っていまして、正確には思い出せないんですけれども、明主様の御歌で、信徒の誠心に迸しるという言葉から始まる御歌(「信徒の誠心に迸しる声ぞ世界の動かざらめや」)があるのですが、それを思い出しまして、今、年末ですが、この一年間、人間の営みが溜め込んだいろんな負の空気感というのかな、それを皆様のお声で清めた、今年一年の汚れを全部清めたというそういう感じを受けまして、この歌を参拝者全員で歌うこともなにか意味があったことなのかなと思っておりました。皆様たくさん練習してくださってありがとうございました。 この「Jesus」については後にもう少し話したいんですけれども、その前に、今日はちょっといくつかお話ししたいことがございます。 マミが祭典に出るようになりまして、そうなると、着物を着ようじゃないかということになりますよね、というか、女性だから着物も選択肢の一つですよね。 で、その時には、もう、ミロクの世は菜食だということでヴィーガン食は打ち出していまして、そして、ご存じのように、着物は普通絹から作るんですね。蚕ちゃんですね、蚕。 この蚕ですが、いや、僕はそれまで知らなくて、今回マミの着物のことに関わる中でだんだん学んだんですけれども、蚕は糸を作りますね。それで繭みたいのができて、それを絹の糸として使う。 もしその繭を放っておくと、中の蚕はだんだん大きくなって、最終的には蛾とか蝶みたいになって外に出ることになります。そうすると繭から外に出ようとする時、繭を噛んで出ていくので、糸が傷ついてしまう。だから、そうなってきれいな糸が入手できなくなる前に、蚕がまだ生きて繭の中にいる間に煮殺すんですね。熱湯の中に入れて煮殺す。だって生きたまま蚕だけ取り出せないですからね。 蚕の立場からすれば、一生懸命自分の家を作ってそこで暮らしていて、だんだん大きくなってきたのでそろそろ外に出ようかなと思ったタイミングで、沸騰したお湯の中で煮て殺されるわけで、そのような方法できれいな絹の糸を取っているということです。 一着の着物を作るのに3000匹ぐらい煮殺すらしいですね。3000匹。約3000匹の蚕を煮殺して取った糸で着物は作られている。 で、ミロクの世は菜食ということですから、明主様がイメージされるミロクの世においては、人間消費のために動物は殺してないということですよね。 だから、服についても、人間が服を消費するということを考えた時、蚕を殺している絹の入った着物は良くないんじゃないかなというのが自然な流れですので、じゃあ絹を使っていない着物を探そうということになるんですけれども、基本ポリエステルになります。もちろん、麻とか綿とかの天然素材もありますけれども、絹の着物はやはりきれいですもんね。きれいであることは否めない事実だから、もちろん天然素材は天然素材の良さがあるんですけれども、絹の着物みたいな見た目を求めるとすると、当然化学繊維、つまりポリエステルということになるわけです。 それで探し始めるわけですが、生地の感じもありますが、柄の問題もあります。柄と、柄のデザイン。あと色味。絹のだったら選択肢は豊富なんだけど、ポリエステルは主流じゃないですから、選択肢は限られてくるわけです。 なので、「こういう着物あります」となっても、なんか柄の感じがもう一つだなとか、なかなかいいの無いなみたいなことをしている時に、我々の秘書が、「東京の飯田橋にこういうお店ありますよ」ということになりまして、それが、ポリエステルはポリエステルでも最高級のポリエステルで、その生地で着物を作っている場所を見つけましたと、そうなったんですね。 これが東京飯田橋の「きもの英(はなぶさ)」というお店。「きもの英」さん。ちなみに「はなぶさ」というのは、英雄の「英」とか、Englishの英語の「英」、この漢字一文字で「はなぶさ」と読むらしいんですが、僕、この漢字を「はなぶさ」と読むって知らなかった。皆さん知ってた? 「はなぶさ」という意味は、英雄とか英傑という言葉がありますように、すばらしいという意味とか、あとは、花の塊という意味とかありますが、それはあとでちょっと皆さんで調べてください(一同笑声)。 でも、スマホで、ひらがなで「はなぶさ」と打ち込むと、英語の「英」という字出てきますよ。私もそれやったところ、あ、本当だと思って、、、ま、それは別にいいんですけれども(一同笑声)。 とにかく「きもの英」さんという場所がありまして、創業60年ということで、いや歴史もあってすごいねということで、じゃあマミと一緒に行こうということで行きまして、そこで女将にいろいろ見せてもらったりしまして、いや本当にすばらしいと、なんと言いますか、ただポリエステルだとかヴィーガンの素材だというのではなくて、色味とか、デザインのセンスとか、品があるとか、服の場合そういうことが結構大事ですよね。それが、私なんかが偉そうですけれども、ドンピシャだな、すごいなと思ったんですね。 あと、女将とも、息が合うというか、馬が合うというか――あったと勝手にこちらが思っているのですが(一同笑声)――ということでいろいろお話ししているうちに、秘書を通して、「今度東京で祭典しますからぜひ来てください」とお誘いしまして、女将のお名前は武田佳保里さんといいますけれども、その方、今日来てくださったんですよ(信徒一同驚きをもって拍手)。 ということで女将、よろしいですかちょっと立っていただいて。「きもの英」の武田佳保里女将(一同拍手)。 (女将が挨拶し、着席したのち)ありがとうございました。 女将、おきれいでしょ?(一同喝采) いやあ、なんとかご紹介できて良かったです(一同笑声)。 女将も本当にいろいろご苦労になって、ヴィーガン素材である最高級のポリエステルの着物を作ってこられたんですけれども、それが結果的に、ミロクの世は菜食であり、すばらしい世界を造ろうじゃないかという我々の活動の中で、マミがこちらの着物を着ることになって、それを見た方々が、「あっ、ヴィーガンの着物もあるんだ」とか、あるいは、「もうちょっとヴィーガン食がんばろうかな」とか、そういう波及効果があるじゃないですか。 だから、ただヴィーガン着物だからすごいということではなくて、マミは、我々を代表してこういう着物を着させていただいているのであって、そう考えると、こういう女将のような方を、神様、明主様が用意してくださっていたんだなというふうに受けとめております。 あと、女将は、信徒の皆様と同じくらいメシア教のインスタグラムはチェックしてくださってるのですが、皆さん、チェックしてる回数で負けちゃってるかもしれませんよ(一同笑声)。 というか、僕の中では、女将は、もうメシア教の信徒の方よりも熱心だから、女将、メシア教の信徒になってください(真明様、女将に頭を下げられ、一同拍手)。 壇上から入信のお誘いをしてしまいました(一同笑声)。 でも、本当に、今日来てくださってうれしかったです。今日のマミの着物も、「きもの英」さんで一番最初にいいなと思った、女将との出会いの思い出の物だったので、それをマミは着ております。まあ、マミが着ている「きもの英」さんの着物は、また祭典が終わったあと見てください(一同笑声)。色味とデザインの妙、それがすばらしいなと思っています。 あといくつかちょっと雑談したいんですけれども――雑談というのは不適切な表現ですけれども――いくつか話したいことあります。 皆様ご存じのように我が家は子供たちは砂糖無しなんですけれども――子供たちというか大人も子供も砂糖無しですが――そうすると子供たちは、自然に、かぼちゃとかさつまいもとか、あるいはご飯とかの自然の甘みに大興奮するみたいになるんですね――ちなみに一時期はニンジンが好物でした。子供たちの好物がニンジン。やはりそういうのがすごいなと思っております。 普通子供は、僕なんかも小さい時はニンジンはなんか苦くて苦手だなみたいなイメージがあったんですけれども、砂糖無しですと、やはり野菜の持つ自然の甘みを分かるようになるのかなと思っていまして、で、この間も長女の遠足があって、おやつ持参ということだったんですね、おやつ持参。 その時、長女に、「何持ってく?」となったんですが、ちょうどその時、家に、私は余ったご飯でせんべいを作るものですから、娘が、その自家製のせんべいを持っていきたいと言いまして、そのせんべいを持っていきました。いや、無理にじゃないですよ。私が、「せんべい持っていきなさい」と言ったわけじゃなくて(一同笑声)本人がせんべいを希望したんですね。 ということで遠足に私のせんべいを持っていって食べてました。というか食べてたと思う、食べたところ僕は見てないからね(一同笑声)。 で、普通おやつというと、一般的にはチョコレートとかプリンとかクッキーとか、だいたいそういうものが家にありますよね。でも、砂糖無しの我が家のおやつはなにかというと、おしゃぶり昆布です(一同笑声)。おしゃぶり昆布。私のせんべいとおしゃぶり昆布だけあります。 ちなみにみことは「おしゃぶり昆布」という音がまだ発音できなくて、いつも、「おしゃらら昆布」と言って(一同笑声)、それで上の二人の娘も、「おしゃらら昆布、おしゃらら昆布」と言ってまして、この間は、みことがなんか言い間違えて「おしゃれ昆布」と言ってました(一同笑声)。そしたら長女と次女が、「今みこと、おしゃれ昆布と言ってたよ!」みたいになって盛り上がってました(一同笑声)。 いや、皆様は、「おしゃぶり昆布なんて」と思うかもしれませんけれども、我が家の子供三人にとってはもう最高のお菓子ですから、だから、棚のどこに置いてあるかももう知ってますし、お食事が終わった途端、三人で、「おしゃぶり昆布、おしゃぶり昆布」と言いながらその棚を開けて、みことも自分で開けて、競うように食べてますよ。競うように食べるというか、ま、そんなにたくさんはあげないですけどね、塩分もあるから。 でも本当に、三人でおしゃぶり昆布を競うように食べてますね。誰か一人が、「おしゃぶり昆布食べていい?」と言うと、他の子たちも、「私も、私も」みたいになって、いつも競って食べて、それをずっと口に入れて、海藻の自然の味を味わってます。あれ、簡単に溶けないというか、全部噛み切るのは難しいから、ずっと口に入れたりして、でもそうするとよだれが垂れちゃったりして(一同笑声)、その場合は、「それ、一旦まず食べちゃおう」みたいなことも巻き起こります。 もちろん三人とも、朝昼晩の三食、お米はたっぷり食べます。 で、私が言いたいのは、なにも、我が家の子供はすごいでしょという話ではなくて、それこそ他の家の子供とかと遊びに行くと、みんなもう朝と昼の間の時間とかから清涼飲料水普通に買って、飲んでるじゃないですか、カルピスウォーターとかコーラとかピーチのジュースとか、砂糖いっぱい入ったリンゴジュースとかね。 めいとかみゆの友達の子供たちはそういうのをがんがん飲んだり、あるいはマシュマロとかチョコレートとかを昼前に食べさせたりしている。 いや、例えば朝の10時にカルピスウォーター1本飲んだら、お昼は、多分もう普通の野菜とかご飯は食べられないと思うんですね、ジュースで強烈な甘味摂っちゃってますから。 そうなると親としては、普通の食事食べないならということで、味の強いものを出すしかないですから、結局マクドナルドとかね、そういうものを与えることになる。 で、そういう親がなんて言ってるかというと、「家の子供は偏食で」と言うんですね。「家の子供は偏食で」とか、「家の子供は野菜が嫌いなんです」とか、そういうことを親がだいたい言います。 我が家の子供たちは朝から晩までご飯たくさん食べている。でも、そういう子供たちは、ジュース飲んで、もう普通のご飯食べられないからマックを食べて、そうすると夜まで大して食べられないまま、場合によってはそのままその日の食事は終わるとかもあり得ますよね。 砂糖をいっぱい摂ると、確かに一瞬血糖値はバーッと上がるから、テンションが上がって子供たちは元気みたいになるんですけれども、その状態になると今度は身体がインスリンを大量に出しますから、逆に血糖値がガクッと下がりますね。そうすると今度は不機嫌になる。子供が不機嫌になると、親は、「アイスクリーム食べようか?」になるわけですね。「チョコレート食べる?」「アイスクリーム買ってあげるよ」となって、そうすると大量の砂糖でまた機嫌良くなったみたいになる。のようなことで10年、20年、30年育っていっちゃう子供が本当にかわいそうだなと思うんですね。 私もこういう性格だから言える人にはどんどん言っちゃいますが、でも、なんとなく受け入れる方もおられますけれども、基本結構難しいですよね、やはり、そもそも親のほうがそういうものを食べたいというのがありますのでね。 だけど、今日お上げした祝詞でもありましたように、やはり日本人はお米を食べることが大事かなと思います。 砂糖から離れられないまま今言ったような食生活を子供の時から10年、20年、30年と積み重ねたら、やはり、40歳とか50歳になった時、なかなか幸せな人生は待ってないと思いますよ。昔と違って、特に今は極端にそういうお菓子のようなものが増えてますからね。 今我々は、和菜食とか和ヴィーガン食とか、あるいはお米づくりという活動を進めていますけれども、そういう境遇の子供たちを見ると、皆様と一緒に、これらのことの伝道や推進活動など、もっと私たちにさせていただけることがあるんじゃないかと思ったりするんですね。 結果として、そういう子供たちが毎食口いっぱいにお米をほおばる幸せに目覚めることができたらこんなすばらしいことないですよね。日本は西洋のアイスクリームとか、そういうのに餌付けされた状態になっちゃってますからね。 でも日本人は、今日は私はスーツを着てますけれども、やはり着物ですよね。 着物、ご飯、みそ汁――これですよね。 戦後、我々はそれらをちょっと横に置いてここまで来たんですけれども、そうではなくて、やはり日本人は日本人としての生き方をしていく。そういう世の中に少しずつ変わっていくことの一環として、このメシア教においても、和菜食、和ヴィーガン食を皆様と共に広げていけたらいいなと、特にそういう砂糖漬けのお子様方を見るたびに、私は思います。 もう一つ共有したいことがあるのですが、それは、次女のみゆの運動会でのことです。 10月5日に秋季大祭を大阪でしまして、それから約1週間後の10月11日の土曜日、だから、6日後かな、その時にみゆの運動会が幼稚園でありまして、それ、私は行ったんですね。 その日は雨だったので体育館での開催になったんですけれども、体育館の天井に万国旗がかかってました。それはなにか確認しましたら、運動会の準備で、全学年というのかな、年少、年中、年長の3学年の全員が、大きい世界地図、アトラスみたいので、世界中の国旗があるページがありますよね。200個前後の国旗がある。それを子供たちに見せて、生徒一人ひとりが自分の好きな国旗を選ぶ。選んで、本物の国旗を見ながらそれを書き写して、そして自分の名前も書くと、そういうことをしたようです。 だから体育館の天井には、それこそ生徒は100人ぐらいはいますから、それぞれの園児の名前と、その園児が好きで選んだ国旗、ということで、いろんな国旗がかかっていました。 で、みゆのどこかなと思って探して、見つけまして、おお、みゆのだと思って、「『岡田みゆ』、あった」ということで、まあやはり普通スマホで撮りますよね。なのでスマホで撮って、国旗はなんか青っぽいやつで、どこの国かな?とか、その時はあまり思わなかった。ただ、あ、みゆの見つけたと思って写真撮って、それでもう満足してました。もうみゆのは撮った、これで役目果たした(一同笑声)ということで、あとは妻にLINEで送って、ミッション果たしたぞ(一同笑声)となりますよね。 それで、運動会が始まったのですが、途中、だんだん冷静になって、そういえばあの国旗はどこの国のだったんだろうということを疑問に思い始めたんですね。 でも全然見当つかない。なんか水色っぽいけどどこだろう?ということでいろいろ調べて、でもなんかアフリカっぽいなと思って、なので、Googleで「アフリカ 国旗」と打ち込みましたら、アフリカの国旗の一覧が出てきましたので、「あ、これだ」と思ったら、みゆの選んだ国旗は、なんと、コンゴ民主共和国の国旗だったんですね(参拝席から驚きの声が上がる)。コンゴ民主共和国。 この運動会があった10月11日という日にちはどういう状況だったかというと、まず僕が8月にアンゴラに行きました。で、その時に、コンゴ民主共和国のアウベルチ本部長がすごいということになったんですね、いや本当に命がけの信仰を捧げておられるということで。 アウベルチ本部長は、コンゴ民主共和国から私が行くアンゴラに行こうということで、ただ、内戦かなにかの影響か分かりませんけれども飛行機が使えなかったので、バスとかバイクとかを乗り継いで55、6時間かけてコンゴ民主共和国の、おそらくキンシャサだと思うんですけれども、そこからアンゴラにいる私のところまで会いに来てくれた。行きで56時間。帰りも合わせると往復で112時間ぐらいですから、日本とブラジルを飛行機で2往復するのと同じ時間ですね。 しかも当時、コンゴ民主共和国においてアウベルチ本部長は、要は、反教主様グループというのかな、から攻撃を受けてまして、そのグループは、警察に対して、アウベルチさんというのはこんな問題がある、金銭問題がある、こんな法を犯しているということを言われてまして、アウベルチ本部長は、そのグループに対して「すいません」と言えばそれで話は済んだのに、教主様への信仰を貫いたがゆえに結局警察に捕まって牢屋に入れられてしまった。 ということで、コンゴ民主共和国のアウベルチ本部長はすごいなという思いを抱えながら私は日本に帰ってきまして、そのすぐあとの奈良での9月1日の月次祭でアウベルチ本部長の話をさんざんしまして、その次の祭典の10月5日の秋季大祭でも、まだ私の中でその余韻が残ってましたから、アウベルチ本部長の話を皆様と共有しました。 一方の運動会は10月11日ですから、当然準備は9月の末とか10月の頭ぐらいにされてたと思いますので、それくらいの時に、園児たちに、「どの国旗にする」と言って選ばせて、その流れで、200ぐらいある国旗の中からみゆが選んだのがコンゴ民主共和国ってちょっとあり得なくないですか(一同笑声)。 みゆの描いた国旗がコンゴ民主共和国だということが分かった時、そんなことあるのかと我ながら鳥肌立ちましたね。今我々は当時の感じを忘れてるかもしれませんけれども――まあ忘れてないかな――10月の頭頃、メシア教としては、もうアウベルチ本部長、コンゴ民主共和国のこと一色だったじゃないですか。みゆが「これ!」と言ってコンゴ民主共和国を選ぶ確率はほぼ不可能なことだなと思って、、、これ、すごい話ですよね?(一同うなずきながら、笑声) でも結局、これはどういうことなのかなということに自動的に頭が行くわけですが、やはり、アウベルチ本部長が示されている命がけの信仰というものについて、「真明、あなたはこれに真剣に向き合いなさい」と、そう神様、明主様が強く言っておられるんだなというのをものすごい感じました。 運動会の日にコンゴ民主共和国の国旗をスマホで見た時の衝撃が大きくて、その余韻の中でいろいろ思わされていましたら、命がけの信仰と言ったらやはり長崎。長崎の殉教したキリシタンの方々のことがなんか思われました、自分の中で。 だってあの方たちは、いわゆる踏み絵。棄教しなさいということで、イエス様とかマリアの絵を踏めと言われて、結局それを踏まないと処刑されるということでしたよね。僕も一回行ったことがあるけれども、「二十六聖人」と言って、26人、あれ石像なのかな?みたいなモニュメントになってますね。 あれは処刑されたわけですね。キリスト・イエスを信じることをあきらめないからじゃあ殺しちゃおうということで、何千人という江戸の民衆が高みの見物みたいな感じで見てる前で殺された。 で、僕が今回知ったのは、この26人にとっては、このように民衆の前で処刑されたのは、なんというか、意義があった。というのは、自分たちはイエス・キリストのように処刑されているというのを民衆に見られて、あたかも――あたかもと言っても大変なことですけれどもね、幼い子供とかもいましたので――でも、これは、自分たちも、イエス・キリストが十字架にかかったのと同じような道を歩んだということで意義があったわけで、これは江戸幕府にとっては都合悪かったんですね。 要は、「この人たちすごい」になったわけです。この人たちは、処刑されてもイエス様への信仰を貫いて、命がけの信仰すごいとなってしまった。江戸時代で数千人ぐらいが殺されたみたいですね、イエス・キリストを信じているということで。 でも、結局、この26人が英雄みたいになってしまいましたので、キリスト教を弾圧したい江戸幕府にとってはこれが都合悪いとなったんですね。 で、幕府はどういう手を取ったかというと、イエス・キリストを信じている、よしじゃあ皆の前で処刑だ、ではなくて、むしろ信仰をあきらめさせたいとなったわけです。 だから、拷問ですね。拷問。十字架のように処刑するのは簡単なんだけど、それよりも、むしろものすごい厳しい拷問をして、そして、キリシタンの人たちから、イエス・キリストを信じるのはもうやめますというのを引き出したいと、江戸幕府はそう考えたわけですね。だって、あきらめるのはかっこ悪いみたいになりますよね。あんなにイエス・キリストのことを信じてると言ってたのに、結局拷問されたら棄てちゃうんだ、転んじゃうんだとなる。当時は棄教することを「転ぶ」と言ってたみたいですね。 だから、江戸幕府としてはこれのほうが効果的だとなったわけです。皆の前で処刑しちゃうと、キリスト教すごいとなっちゃうから、むしろ厳しい拷問を課して、そして、もうやめてください、もうイエス・キリストのこと信じません、という人をたくさん出したほうがキリスト教のいいイメージを壊せますのでね、ということで、日本は、世界でも一番と言われるぐらい厳しい拷問をキリスト教徒に対してこの時代にしたらしいんですね。 その一つに「穴吊り」と呼ばれる拷問があるのですが、それは、まず穴を掘りまして、そしてその上に、足を紐で結んだ人を吊る――宙吊りというのかな?――足が上、頭が下になるように吊る。そうすると当然、内臓とか血が全部頭のほうに行ってしまってすぐに死んでしまうので、で、すぐに死んでしまったら拷問にならないので、内臓がぐちゃぐちゃにならないよう、布のようなもので身体をきつくぐるぐる巻きにして、その状況で逆さに吊る。 でも、結局逆さに吊られてますから、頭に血が上ってしまいますよね。頭が血でいっぱいになったらもう脳は停止してしまってすぐ死んでしまいますので、そうならないように、ぐるぐる巻きプラス、こめかみとか耳たぶとかに小さな穴を開けたらしいんですね。要は、頭に集まった血が出るところを設けたわけです。そうしておくと、血が、ゆっくりゆっくり例えばこめかみの小さな穴から垂れ続けますので、頭に血が溜まり過ぎてすぐ死ぬということにならない。 しかも、ひどい臭いを通してでもめげさせようということで、掘った穴の中には糞なんかも入れていたらしいですね。その状況で、血が少しずつ出て、あまりの過酷さに、転んだ人、あきらめた人も何人もいるみたいですよ。でも、たくさんの人は何日間もそれに耐えて、そのまま絶命されて殉教された。 だから、今我々は「命がけの信仰」と言ってますが、この文明世界に生きている我々が、いや私も含めてですよ、誰がというのではなくて、少し寒ければ暖房だとか、逆に暑ければ冷房だとか、ヴィーガン食だと言ったらやれ肉食べたいとか、チョコレート食べたい、チーズ食べたいと、そういうの、ありますよね。その我々が、当時殉教した命がけの信仰を貫かれた方々と比べた場合どうなんだと、それを思わざるを得ません。 例えばですが、教主様を通して明主様とイエスのみ心を受けるということについて、もし拷問に遭うほどのことがあったとして、メシア教の我々はこの信仰を貫けるのかなと、そう思いますね。 でも僕は、もし我々が命がけの信仰を捧げることができるとしたら、他になにもなくてただ命をかけるのは難しいと思いますよ。キリシタンの方たちが命がけの信仰を捧げることができたのは、やはり、この世の命よりももっと尊い命があるという信念から、ですよね。 この世の命のことしか知らなくて、これを貫いたら本当に自分の存在が無くなってしまうと思っていたら、それはなかなか難しいですよね。 でも、この世の命を捨ててまで捧げるべきもっと尊い命がある、もっとすごい宝があると信じていたから、命がけの信仰を捧げられたんじゃないかなと思います。だから我々も、命がけの信仰といっても、何も無しで命がけの信仰は大変ですよ。 でも、この世の命よりも、もっと尊い、清い命があるんだというその信念があれば、命がけの信仰も捧げられるんじゃないかと、そう思いますね。 で、命がけの信仰といっても、究極的にはイエスという存在に集約されますね。だってイエスは手と足をくぎで木に打ち込まれて、そこからゆっくり出る血によって死んだんですから、最初に命を捧げた存在です。 でも、イエスが十字架にかかった時イエスがなんて言ったかというと、イエスは、「父よ、彼らをお赦しください」と言った。「父よ、彼らをお赦しください」、ですよ。だってイエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」、ですもんね。 そして、この迫害している人たち、この人たちは自分たちが何をしているのか分かってないのです、だから父よ、彼らをお赦しください、ですよ。イエスはそう言った。 人類史上最も苦しい状況に置かれたイエスがなんと言ったかというと、「父よ、彼らをお赦しください」。 では我々はどうなのか。我々は、全然イエスとは度合いは違いますけれども、命がけの信仰を捧げたいという中にあって、人生の悩み苦しみがありますよね。 悩み苦しみに対して、イエスはそれにどう向き合ったのかというと、「父よ、彼らをお赦しください」ということで向き合った。では我々は、悩み苦しみに遭った時、それとどう向き合うのかという点がありますね。この点に、結局キリスト教と我らがメシア教の違いというのがあると思うんですね。 我々は、クリスマス祝典という祭典の名前もそうですし、今日のオープニング曲の「明日」とかもそうですが、キリストへの信仰をたくさん表現しているわけですけれども、そうだとして、メシア教とキリスト教は何が違うんだと、そうなりますよね。 というここで、今日皆で歌った「Jesus」という曲が登場するわけです。 この曲は、もともとの英語のタイトルは「One Day」というタイトルです。この言葉は、直訳すると「一日」ですけれども、ここでは「一日」という意味ではなくて、「いつか」とか「いつの日か」という意味です。 というように、この曲のオリジナルの歌詞は、全部、いつか将来の話ということになっています。例えば、「天に上がって イエスの前立つとき」と歌いましたね。あれも、オリジナルの歌詞はone day、だから、いつか天に上がってイエス様に会ったらとなっています。 他のところも、いつか悩み苦しみが無くなったら、いつか争いが無くなったら、いつか病が無くなったら、そうしたらその歓喜はすごいだろうねという内容。いつか病も無くなって、争いも無くなって、天国に行って、イエス様に会ったらその歓喜はすごいだろうなという願望を歌った歌なんですね。もともとの歌詞はそういう意味の歌詞。 でも僕は、今回この曲を訳詞するにあたって、そこを明確にせず、というか、むしろ、そういう世の中がもう来た、我々一人ひとりの中にもう天国は樹ち立てられたと、そういうことが感じられる歌詞にしたいなと思って訳しました。 (真明様、まゆげの間の天庭を指し示されながら)天国と言ってもここですよ。仏像とかで天庭とか白毫と言われてるここ(真明様、再び眉間の天庭を指し示される)に天国があります。インドの人もここを大事にしたりしますね、ちなみに。ここにあるんです。ここに天国は樹ち立てられている。だから、「いつの日か」ということではなく、もうすべて起きたことかのような訳にしたわけです。 今日拝聴した聖書の「ヨハネの黙示録」の第22章で、イエスは「すぐ来る」と言ってますね。「私はすぐに来る」と言っている。 分かりやすく言えば、キリスト教徒は、この、「すぐに来る」ということについて、いつかイエスは来てくれるんだと思いながら、気づいたらもう二千年経ってしまったわけです。二千年経ったのに、いまだに、「いつかイエスに会えたらな」「すばらしい世の中が来たらな」という歌詞の歌を作っている。でも、彼らにとっては、それをイメージするだけでも感動なんですよ。そういう日が来るかもしれないということをイメージするだけでも感動なんですよ。 ユダヤ教、キリスト教、メシア教。 ユダヤ教というのは、いつかユダヤ民族を救うメシアというのが出てくるよ、ということで、そのメシアをいまだに待っているのがユダヤ教ですね。 キリスト教というのは、ユダヤ教徒の中でイエス・キリストをメシアだと認めた方々、ユダヤ民族が待ってたメシアがイエス・キリストだと信じた方々が生み出したもの。 そして、キリスト教の要素はもう一個あります。 キリスト教の要素は二つあって、一つ目は、今言ったユダヤ民族を救うメシア、人類の救済主のメシアはイエス・キリストである――これを信じてるのがキリスト教。 二つ目は、イエスがこの世を去る時、今言ったように「また来ます」「栄光の雲に乗ってまた来ます」と言って去りましたので、イエス・キリストの再臨を待ってるのもキリスト教徒ですね。だからこの二つ。イエス・キリストがメシアであるということ。そして、イエス・キリストが再び戻ってきて、人類を裁いて、善と悪に別けて、悪を滅ぼして善の世界を造るというのを信じてるのがキリスト教です。 メシア教はキリスト教と何が違うのか。今言った一つ目の点は一緒というか、我々の信じることの一つではあるけれども、二つ目の点については、メシア教は、もうイエスは再臨したんだという信仰です。 イエス・キリストはもう人類一人ひとりに再臨しましたということを信じる、キリスト教を完成させに来た宗教が、メシア教ですね。だからメシア教というのは本物のキリスト教でもありますね、実は。 そして我々の教祖である明主様が「メシアとして新しく生まれる」という型を示されたわけで、これは、人類誰もがメシアとして新しく生まれ、神様の子供というすばらしい存在になれるんですよというひな型を示されたわけです。 明主様は、メシアというのはキリストの再臨だとも言われてますね。そしてそれは、もう一人ひとりの中で成し遂げられている。 今日拝聴した明主様聖言にもあったように、明主様の救いというのは、天国に上がって人々を救い上げるのであって、明主様、これは、「信者にしてもその通りである」と仰せですよ(「私の文章とその他」1953年12月9日)。だから、皆様方も天国に上がって人々を救い上げなきゃいけないんですよ、救いを被るのではなくて。 だって、イエスは、「すぐに来る」と言ったわけですが、二千年という期間は、少なくとも「すぐ」ではないですよね。365かける2000だからもうすごい数ですよ、日数にしたらね。 だから、「すぐに来る」という言葉は非常に単純な言葉ですけれども、そこに落とし穴もあるわけです。「すぐに来るんですね」「でも、なかなか来ないな」「いつか来ないかな」となってるのがキリスト教ですね。 でも実は、この問題は、すでに二千年前、イエス・キリストが復活した時、トマスという弟子がいまして、他の弟子たちがイエスは復活したと言っている中で、彼だけは信じなかった。 当然弟子たちは、イエスが十字架にかかって死んだのを見た。そうして落ち込んでいたところ、一部の弟子たちが、いや、イエスは復活したんだと言うのですが、トマスはこれを信じないわけなんですね。信じない。そんな馬鹿なことあるか、自分の目で見ない限りは信じない、となっていた。 そうしたら急にそこにイエスが登場して、それでトマスはびっくりして、手とかをよく見たり、槍に刺されたところとか――イエスは最終的に息絶えたあと脇腹を槍で刺されてますから――をトマスは確認して、「本当に主ですね」ということでトマスは感激して、本当にイエスは復活したんだとなるんですけれども、その時イエスがトマスに言ったのは、「お前は見たから信じるのか」、そして、「見ないで信じるものは幸いである」ということを言いました(「ヨハネによる福音書」第20章29節)。 だから、「形として現れてきたら信じる」というのは、実は、もう二千年前、トマスの時に終わったんです。それなのにキリスト教徒はいまだにそれをずっとしてるわけです。 このトマスの姿勢は、我々の落とし穴でもありますよ。見たら信じる、見なければ信じないというのは、これ、実は信仰ではないですよ。この姿勢は科学ですよね。だから、神様と反対側にあるものです。 でも、そういう人類の姿というのを、すでに二千年前、トマスが代表して捧げてくださったんです。だから、トマス以降の人類というのは、見ないでも信じられるかどうかという時代に入ってしまったわけです。 すぐに来るという言葉について、「もう来ております」と信じられるかどうかにかかってるわけです。 だいたい、すぐに来ると言って二千年も来なかったらもう嘘つきじゃないですか。 しかも、イエスが十字架に上がった時、イエスの左右に他に罪人が二人いた。イエスを含めて三人で十字架の刑に処されたんですね。で、そのうちの一人はずっとイエスのことを批判して、罵詈雑言をイエスに浴びせていた。 でも、もう一人は、その罵詈雑言を言っている人に対して、「お前、我々二人は本当の罪人だから十字架に上がるのは当然だけれども、この真ん中のお方、イエスという人は無罪なのに十字架に上がんなきゃいけないんだよ」「お前何言ってるんだ」みたいなことを言うんですね。 そしてこの方は、続いて、「イエス様、あなたが天国に行くときは私のことを覚えておいてください」のようなことを言うと、イエスはその人に向かって、「よく言っておく」「あなたは今日私と一緒にパラダイスにいるであろう」というようなことを言います(「ルカによる福音書」第23章39節~43節)。 だから、もう二千年前、イエスが十字架に上がった日、この人は罪人ですよ、十字架に上がらなければいけないような罪人、殺人をしたみたいな人、その人物に向かってイエスは、「あなたは今日私と共にパラダイスにいるであろう」と言われたんです。 だから、もう、私たちは、神の国に突入しているんです。今日拝聴した聖書(「ルカによる福音書」第16章16節)でもあったように、水のバプテスマのヨハネ以降、つまりイエスが出て以降、もう人類は神の国に突入してるんです。 だから、そういう時代に生きている我々が悩み苦しみに直面した時、どういうお祈りを捧げるのかということになりますね。 「Jesus」の歌詞では、悩み苦しみは無いということになってますが、でも、悩み苦しみ、あるじゃないですか。もう毎日のようにありますよね、悩み苦しみは。 イエスの時までの祈りというのは、例えばなんかすごい嫌なことを言ってくる人がいました、というか、イエスの場合はそれが究極まで行って十字架に上げて殺されるということになったわけですけれども、とにかく、度合いは違っても我々にもいろいろありますよね、人とのやり取りでこういうこと言われちゃった、こういう悩みがある、法律的な問題があるとか、大家さんがどうとか、隣人がどうとか、いろいろありますね、悩み苦しみ。で、二千年前、イエスの時点までの祈りというのは、「彼らをお赦しください」、これですよね。 でも、そういう、「彼らをお赦しください」というイエスの祈りは、もう二千年前に神様に受け入れられたんでしょ? だから、そういう方たちを神様はもう赦したということです。要は、神様のひとり子という存在を十字架に上げるという人類の罪はもう赦されたのであって、だからイエスが復活したわけでしょ? ということは、イエスが復活してペンテコステの聖霊が降った以降の世の中というのは、見た目は同じでも、もう一変してるんです。 でも問題は、どういう世の中に突入したかということですね。 どういう世の中に突入したかと言ったら、イエスが十字架に上がる前までに人類が犯してきた、何千、何万年の人類の罪穢れはすべて神様が受け取ってくださって、もうすべて赦したとしてくださった。だから、二千年前、神様はもう判決を下されたんです。これからがんばっていい人にならなきゃ赦されないのか、じゃなくて、もう二千年前に判決は下されたんです。全人類を赦す、という判決ですね。 イエスの前の人類の営み。アダム、エバから始まって、ノアからイエス、その間にダビデとかもいますけれども、イエスまでのいろんな人類の姿について、神様は、それを私は受け入れるよ、全部赦すよとしてくださった。 ということは、今もう完全に新しい時代に生きている我々が悩み苦しみに遭った時、我々のその悩み苦しみへの向き合い方は――メシア教の向き合い方は――二千年前のイエスのように、「この人たちをお赦しください」ではなくて、「あっ、神様。ここをあなたは二千年前赦してくださったんですね」、ですよ。「ここを受け取っていただきたいのです」ですね。 このことは、小さいことのように思われるかもしれませんけれども、ここがメシア教とキリスト教が根本的に違うところであって、この差は雲泥の差なんですよ。 キリスト教の方々は、悩み苦しみに遭った時、「お赦しください」「この人たちをお赦しください」と今も言ってると思います。でも我々は違う。その向き合い方はもう二千年前に終わったんです。 でも、ではなぜ我々の人生でいろいろ巻き起こるかというと、我々は、人類が神様に対してどういう罪を犯したかということについて無知ですから、二千年前より前の時代の人類の営みについて今生の間に出遭わされて、そして、それに赦しを与えるというか、神様にお返しする役に使われているからですね。 だからそのために、気づいたら、自分が罪を犯すようなこともありますよね。自分自身を使って表現させられることもありますよ。だから、この世に生きている間、聖人君子というわけにいかないですね。だって人類が二千年前より前の時代に犯したすべての罪について、「こういう罪を犯していたことを知りなさい」「これを私は赦したんですよ」と神様は仰せなんですから。 だからこれは、難しい話ではなくて、当然相手の姿もあるし、相手の姿を見て感じている自分の不快感がありますね。そのことです。 不快感があるということは、やはりなにか神様の御心にそぐわない点があったから不快感を感じさせられているわけです。 だからその時に、「あ、自分のここを赦してくださったんですね」「相手の方のここを二千年前すでに赦してくださったんですね」という向き合い方になるわけです。二千年前、イエスは人類を代表して血を捧げてくださったんです。だから、今巻き起きていることについては、もう赦されたこととして、イエスの血を通して神様に受け取っていただきたいのですと、そういうことです。 「Jesus」の歌詞には、「争いはもうない」とありますが、それを聞くと、いやまだ争いあるじゃないかと思いますよね。だってロシアとウクライナの戦争もありますし、まあ、そんな大きい規模でなくても争いは常にありますよね。これについて、真明、争いがもう無いとはどういうことだってなると思うんですけれども、まず、戦争に直面した時、普通の宗教家がよくやるのは、世界が平和になりますように、みたいなことを言うこと、だって普通、争いはまだある、理想世界は来てないという前提ですから、だからこういう言葉になるわけです。 でも、メシア教が信じるのは、もう二千年前が人類の大転換だったわけです。夜昼転換。これはもう起きたんだということ。夜昼転換はもう起きました。これを信じるのがメシア教。 だけど、普通、それ信じてませんから、争いが無い世の中になるといいなということで、世界が平和になりますようにと祈ってますよね、一般の方々は。 でも以前もお伝えしたように、桃の種を蒔けば桃の実がなりますね。感謝の種を蒔けば感謝の実がなる。喜びますの種を蒔けば、喜ぶ人生になる。 だから、世界平和がまだ実現してないという前提の、世界が平和になりますようにという種を蒔けば、まだ世界平和が実現されてない種を蒔くことになるわけですから、だったら、できる実も、「世界平和はまだ実現してません」という実になるわけです。 神様からしたら、「あなたはまだ、私が二千年前もう全部お前たちの面倒を見てやったことを信じないなら、そういう世の中(世界平和が来ない世の中)にしますよ」ということになるわけです。 でも、もし、「世界平和は神様がもう二千年前に成し遂げてくださったんですね」という、「世界平和は実現しました」の種を蒔けば、そしてその実がなれば、本当に世界平和は来るかもしれませんよ。 これは、別に、「祈りの力」がどうとか、そういうことを偉そうに言うことではなくて、我々の思いは、普通、神様は寝てるという見方ですから――神様はなんで戦争を止めないんだろうという見方ですから――それを、メシア教の信徒だけでも、神様あなたはもう完全に働いておられます、二千年前あなたはすでに世界平和を成し遂げられましたということを信じて、今現れているこの人類の至らない姿というのは、二千年前の前の時代、いろんなことで神様から離れて人が神様と相争っていた姿であって、ここを赦してくださったんですねという我々の祈りが神に通じて、神の思いと我々の思いとが一致したら、そしたら神の思いが地上に写されて、我々の知らないところで――地球上の裏のどこかで――ある喧嘩が起きるはずだったのが止まるとか、下手したら戦争も終わっちゃうかもしれませんよ。 もちろん、実際、世界平和実現のために働かれる方も神様は用意されてますよね、いろんな偉い政治家の方とか。その営みはもちろん大切ですけれどもね。 歌詞には、「病も消え失せ」とありましたが、それも、いや、病はまだあるじゃないかというのが世の中の見方ですよね。キリスト教徒のみならず、世界中の人が病はまだあるという見方です。争いはある、悩み苦しみもある、病もまだある、人間はこういう世の中を努力してなんとか乗り越えていかなきゃいけないと、これが世の中の見方ですよね。いや、分かりますよね、だってありますもんね、病。なんというか、きれいごとじゃなくて、病はまだあるじゃないですか。 その中にあって、メシア教の信徒である我々は、病気になった時に、「この病が良くなったらいいな」という見方ではだめなんですよ。 メシア教の我々は、いや、メシア教というか、今話していることは真理ですけれどもね、真理。で、それは、本当は、二千年前我々の血液というのはもう清められてしまったんです。清められてしまった。だから今、我々の身体の中には、イエス様から来る黄金の血がもう流れているんです。 だから、病というのは、自分の身体が悪くなっちゃった、血液が悪くなって病気になっちゃったという見方ではないわけです。 それこそ血液を我々は自分のご先祖から受け継ぎますよね。血脈とか血統とか言いますもんね。というように血はご先祖様から受け継いでいるわけですから、その血の中に、我々のご先祖様の至らない不純物がいっぱいあるわけです。 でも我々の中にはイエスの黄金の血が流れていますから、それがその不純な血を清めようとすれば、それがもろ現れれば病気ですね。だから、清めてるわけです。ということは、病というのは本当は恐れるものではないんです。 我々の思いのところにも、不平不満とか悩み苦しみのように、いろいろな思いが救いを求めて来るように、身体のほうも、血の中にあるアンバランスなものを病を通して救っているんです。あなたがご先祖様から受け継いできた血の中にあるいろんなものを今、人類の救いのために、あなたの血液を使って、一見苦しいこの病気ということを通してどんどん清めているんです。 だから、病は恐れることではないんだけれども、我々の中にあるイエスの血がより働くために、ま、この菜食ということの絡みが出てくると思いますね。菜食。 イエスが出る前、人類というのは、自分たちのいろんな罪に対して動物の血を捧げてたんですね、山羊とか。 我々も動物ということで昔、鯛とか捧げてましたよね。もうイエスが最後の捧げものであるのに鯛を捧げてましたよ。 というように昔は、それこそ山羊とか牛とか羊とかを殺して、その血を祭壇に撒きつけて、で、神様が、「うん、それじゃあ罪赦してあげるよ」ということをしてたんです。で、当然そういうことをしたら残った動物は食べますから、だから人間肉食になるじゃないですか。当然ですよね、だって神様が動物捧げなさいと言われてたんですから。 でも、イエスは、「神の小羊」とされてるじゃないですか。神の小羊というように、それまで人類が何万、何十万頭、何百万頭も捧げてきた動物の最後のとどめは、なんかすごい動物とか、なんか特別な動物とかを最後捧げて、それで神様が、「うん、人類の罪を赦してあげた」となったわけじゃないんですよ。 なんと、それまでは動物で捧げていたことのとどめを刺すのは、神様ご自身が、イエスと共にこの世に降りられて、イエスという人間の血――マリアから受け継いだ人類のすべての血――を捧げて、そして人類の罪を赦していただいたということなんです。要は、動物の血では我々の罪というのは取れなかったということでもありますね。 我々の罪の重荷が大きすぎて、神様は、動物ではもはやらちが明かないということで、最後の捧げものとしてのイエスの血を受け取ってくださったわけです。 でも、神様は、そもそも動物の捧げものは好んでおられなかったんですよ。そして、もはや罪のための捧げものはあり得ないとも仰せです(「ヘブル人への手紙」第10章8節~18節)。だってイエスによってもう罪の捧げものは終わってしまって、我々の血はもう清められたんですからね。というように、それまでのすべての動物を集約した最後の捧げものがイエスなんであって、それを神様が受け取ってくださって、我々の血はもうイエスの血に変わってるんです。 だから、全動物の代表として捧げたイエスの血が我々に流れているのに、そこにまた動物を殺してその血が入った肉を食べれば、明主様が仰せのように当然血は濁りますよ。ガンは肉食病とも仰せですね。 だって、我々の血はもう清められて動物を必要としてないのに、そこで肉食したら、それは身体がバランスを崩しますよね、当然。そしてそれは、もう今の世の中が示してるじゃないですか。ガンもどんどん増える。血管がやられて脳も詰まる。たくさんあるじゃないですか。 だから、病気になった時に、せっかく病気を通して血を清めてるのに、そこでまた肉食とかしたら、それは良くないですよね。そうではなくて、むしろ、イエスが最後の捧げものだと信じた食事――菜食のことですね――をしたらやはり血液は元気になって、病気も速やかに治るかもしれませんよ。 よく、「菜食をしている」と言うと、すぐに、栄養大丈夫なの?とか、栄養足りるの?と、みんな言ってきますよね。 まあ、だいたいこういう場合、「栄養」という言葉を使ってますが、こういう方たちは基本たんぱく質のことを言おうとしているわけですね。 だから、菜食してるんだからやっぱり豆腐いっぱい食べてるんですかとか、大豆いっぱい食べてるんですかとかも言ってきますね、大豆とか豆腐にはたんぱく質がいっぱいあることになってますからね。 で、僕がこういうことを言う方たちに言いたいのは、じゃあなんか体調崩しました、外傷じゃなくてですよ、内臓的になんか気分悪いとかなりまして救急車乗りますとなった時、救急車とか病院で人間の身体に入れる点滴というのは、基本、塩かブドウ糖ですよ。要は、塩分か糖分です。 もう死にそうとなってる時に、じゃあたんぱく質一生懸命補給しなきゃいけないとは絶対にならないですよ。 ということは、人間にとっての根源的な栄養は塩分と糖分ということです。死にそうになったらブドウ糖。点滴はブドウ糖、だから糖分ですよね。あるいは塩水。塩分。というこのこと自体、人間にとっての根源的な栄養素が塩分と糖分であることの証左ですね。 日本人で言えばご飯とみそ汁です。ご飯とみそ汁。ご飯は糖分で、みそ汁は塩分。 自分が本当に死にそうになってる時、ブドウ糖の点滴ほしいですか、それともステーキ食べますかという選択肢があって、普通ステーキ食べたら死んじゃいますよ。糖分のほうが人間にとって全然大事なわけですからね。あるいは塩分。 ただ、菜食で一つ気を付けなきゃいけないのは、カロリーですね。 要は、肉とか乳製品とか卵というのはカロリーが多いですから、昔肉食してた時と同じ量のお米を食べてたら全然カロリー足りなくなっちゃいますからね。だからお米はしっかり食べないといけない。お米とみそ汁はしっかり食べないとだめですね。 でも、カロリーしっかり足りるだけのご飯とみそ汁などを食べてたら、たんぱく質欠乏症になんて普通ならないですよ。今の世の中で、カロリーちゃんと摂ってる人がたんぱく質欠乏症になるケースなんてほとんど存在しないと思いますよ。 アフリカとか、あるいはアジアとかの貧しいところで食べ物が無くて、それでたんぱく質欠乏症というのはあり得ると思いますが、それは、たんぱく質以前に、栄養失調ですね。そういうケースでたんぱく質が足りないみたいなことはあり得ますけれども、カロリーをちゃんと摂ってたらたんぱく質欠乏症なんて無いですよ。 むしろ、水分の摂り過ぎで低ナトリウム症になるとか、あるいはなにかの具合で低糖症になることはありますね。 だから、菜食にして栄養大丈夫ですか?という人にむしろ言いたいですね、あなたの糖分と塩分は大丈夫ですかと、そう言いたいです。特に今、世の中では、炭水化物がいけないんだとか――だから糖分ですね――、あるいは減塩しなきゃいけないとみんな言ってますから、「あなた方のほうこそ大丈夫ですか?」「塩味足りてますか?」と、逆にそう言いたいですね。 だから、菜食にしてちゃんと食べてれば基本栄養が足りなくなるということはない。 だいたい、なんで減塩と言っているかといったら、肉食べると、肉には血があって、血の中には塩分がありますね。ということで肉を食べちゃうと塩分がある程度いってしまう。でも、肉業界としては肉を人類に売りたいですから、だから、減塩しなさいと言ってるのは肉を食べさせるためですね。 1日の中での塩分が高くなりすぎないようにしなきゃいけない。でも、肉食べちゃうと塩分いっちゃいますから、だから他のものは減塩しなきゃいけないということで、薄いみそ汁とか味の無いおかずを食べさせて、で、肉食べさせてるということです。 そもそも、こんなにはっきり人間の根源的な栄養素が塩分と糖分であるとされてるのに、たんぱく質のことばかり言うんですから、これ、人類は洗脳されてますよ。だって、菜食にすると、栄養大丈夫?とみんな言いますよね。 でも実は、菜食の人も洗脳されちゃってるんですよ。だって、菜食の人も、たんぱく質摂らなきゃいけないと思い込んで、豆腐食べなきゃいけない、納豆食べなきゃいけないとなってる。菜食の人、必死になって納豆食べてますよ、たんぱく質足りなくなるんじゃないかと恐れてね。でも、カロリーちゃんと摂ってればたんぱく質欠乏症なんて無いんですから。 でも、そういう考えが世の中で全然受け入れられてないということは、やはり肉食業界、畜産業界の方たちが莫大なお金と力を持ってますから、人類それによる洗脳下に置かれてるわけですね、と僕は思いますよ。 この菜食というのは、二千年前イエス・キリストに起きたことを土台としているのであって、これは真理なわけです、真理。 で、真理であるということはどういうことかというと、よく、自分は菜食できないからもう信徒を続けられないとか、専従者の方も、菜食できないから専従を続けるのがどうだとか言ったり、あるいは、自分の旦那は未信徒なのでヴィーガン食はしてませんとか、そういうことを言われたり、思われる方おられますよね。 これは、この菜食のことが、単純にメシア教の教えならそれは理解できますよ。メシア教の教えを受け入れられないんですね、はい分かりました、ではやめてくださいということにはあり得ます。でも、この菜食のことは真理なんですから、で、真理じゃないとしたらそもそも実践すること自体が馬鹿らしいじゃないですか。 でも、もし真理だとしたら、そして、真理ということは、「人類全部に対して有効なメッセージ」ということですから、信徒やめたり、専従者やめたところで逃げ場は無いですよ。 我々はそれを勘違いして、菜食を、なんか、「メシア教だけのこと」という小さいこととして捉えてるんじゃないかなと思いますね。だから、「家の旦那は未信徒なのでなかなか難しいです」とか言われるんじゃないかと思うわけです。これ、菜食が真理だと思ってればこういう言い方はされないですよね、だって真理なんですから。 太陽が東から昇って西に沈むのは真理ですね。人類の誰にとっても同じことです。メシア教の菜食も真理なんですよ。だから、専従をやめても、信徒をやめても、最終的には神様から結局そこに引き戻されるとか、あるいは、やめたことにずっと罪悪感を抱えたまま生きていくみたいになりますよ。だって真理というのはずっと輝いていて、それから人類は逃れられないんですから。 薬。薬の問題もありますね。 もう血液はきれいになったんですよ。 二千年前、「もう病は無い」になってるのに、もちろん薬を摂ることによる直接的な身体への悪影響ということはありますけれども、それと、薬を摂る時の我々の思い、想念も問題なわけです。 明主様は薬を摂ると血が濁りますよと仰せになりましたですね。いや、今私はね、なにも医学的なアドバイスをしようとかそういうことではなくて、信仰的な受けとめについて話してるんです。 そしてそれは、イエスのおかげでもう我々の血はきれいになっていて、神様としては、「もう病は無くしたよ」とおっしゃっているのに、我々は、自分の命をちょっと長らえさせたいとか、この病を良くしたいということで薬を摂る。ということは、二千年前のイエスの十字架を認めないという想念で薬を摂ることで、結局明主様が仰せの霊的曇りが発生しているんじゃないかなと思いますね。 アメリカのフロリダ州の公衆衛生長官というのがあるんですね。フロリダ州の公衆衛生長官。この役職は、フロリダ州におけるワクチンとか薬とか医療に関わる全部を決めるトップの人です。これは、日本の県知事に関わるなにかとか、そういうのより権限は強いですよ。だってアメリカはアメリカ合衆国ですので、州一つひとつが結構自治権持ってますからね。 で、そのアメリカのフロリダ州では、今年、フロリダ州の公衆衛生長官が、ワクチンの義務の接種というのを全撤廃すると、そう宣言しました。一つ残らず、ですよ。 子供向けも含めて、すべてのワクチンの義務接種の撤廃をするという宣言をしまして、これはアメリカでは初めてのことみたいですけれども、その時に公衆衛生長官が、「ギフト」という言葉を使ったんですけれども、それは、「一人ひとりの身体というのは神様からのギフトじゃないか」「贈り物じゃないか」と、公衆衛生長官が、この撤廃の話をした記者会見というか、正式な場でそういう言い方をしました。 一人ひとりが神様からいただいている大切な贈り物である身体に、なんで国とか公衆衛生長官である自分が、「こういうワクチンを接種しなさい」ということを言う権利があるのか、そんなの一切無い、あなたの身体に何を入れるかというのは、あなたと神様の関係によって決めるべきなんだ、国がそれについてどうのこうの言う資格は一切無いと、そう言われました。 しかもその時、公衆衛生長官が、あなた方の身体は神様からのギフトじゃないか、ということを言った時、周りで聞いている人たちが一番盛り上がったんですね。いや、僕はね、それがすごいなと思ったんですよ。 アメリカは、もちろんいいところも悪いところもあると思うんですけれども、州の健康に関わるトップの人が、あなた方の身体は神様からの贈り物じゃないか、なんで他の人に決めさせる権利があるんだ、あなたと神との関係で決めるべきだ、だからワクチンの義務接種の撤廃をするんだ、ということができるアメリカはうらやましいなと思いましたね。 だから我々も、ワクチンや薬を飲むことや医療を受けることについては、本当は、我々の信仰によって決めるべきことなんです。 確かに日本の場合、表向きは医療の選択の自由があるとされていますけれども、日本独自の島国から来るコミュニティーの圧力というのがありますからね。 でも、とにかく、もう一変した世の中になってるんです。二千年前に新しい世界にもうなっちゃったんです。身体ももう清いんです。皆様お一人おひとりは、今、完全に清い身体を持ってるんです。今、ですよ。だってもう二千年前にそうしていただいたんですから。 だから、自然農法においても、明主様の土の見方というのは、土は神様が作られた完全に清いものであって、なんにも要らない、農薬も肥料もなんにも要らないんだ、だって土というのは神様が人類の糧を養うためにお造りになったものなんだから、そこに種を蒔けばできる、それを信じなさいと、そういうものですよね。 原理は一緒ですよ、身体も。もう清くなってるんです、身体は。 だから、メシア教とキリスト教の違いということでいえば、祈りそのものも内容が全然違うわけですが、食についても、イエスが二千年前に清い血を私たちにくださったわけで、その血を汚す動物の血を摂取する必要はもはや無いわけです。 ということで、メシア教は、祈りという観念的なことだけではなく、その信仰を形でも表していますね。食と、あと農法ですね、自然農法。もちろん歌もありますよ。 二千年前に成し遂げられたこの新しき世の到来のすばらしさを讃えるということを具体的な行動によって表現するキリスト教の完成版のすごい宗教、これがメシア教ですね。 で、ま、今年もいっぱい話してしまいまして(一同笑声)、こういう場で皆様にお話しするのは今年最後なんですけれど、最後は愛の話で終わりたいなと思っております。ラブですね、ラブの話。 愛というと、私たちは、なんかものすごい悪いことを許したとか、なんか感動するようなこととか、優しさとか、そういうものに出会った時、それを愛の発露だと受けとめるくせがあるんですけれど、でも、今日拝聴した聖書の「ヘブル人への手紙」ですね(第12章)。これによると、神様は我々を訓練されるとありましたね。そしてその訓練を、我々は望ましいことのように感じないとも書いてありました。 というように、人生いろいろ起きますね。悩み苦しみも降りかかるし病にもなる、人生いろいろ起きる。 で、我々は、なにか病が治った時とかに、「あっ、神様は私を愛しておられるんだ」と思うんですけれども、そもそも、神様の訓練そのものが愛なんです。だって子として扱ってくださっているから訓練してくださっているわけですよね。あなたがたは親のいない私生子、みなし子じゃないんだと、そうありました。 だから、我々が人生でいろんな苦労をするのも、神様があなた方を子として認識してくださって、訓練してくださって、それによりのちにすばらしい存在になるために、なんです。 そうだとしたら、本当は、もう全部が愛ですよ。我々は人生で起きるいいことのほうだけを愛にするんですけれども、残りの、いわゆる悪いことの半分も愛なんです。人生で出会うすべてのマイナスというかネガティブなことも愛なんです。 だって、もう、愛は二千年前に勝ったんですよ。迫害されている中にあって、「父よ、彼らをお赦しください」なんて、誰にも言えませんよ、そんなことは。 というそのイエスの愛が二千年前に勝って、それ以降はもうすべてが神様の愛に包まれた世界になってしまって、その世界に生きているんです、我々は。だから、もう、すべてが愛なんです。愛でないことは存在しない。 で、今日の参拝席の入口にある明主様の事実上のご長男の三穂麿様の絵(「丹沢丘陵を望む」)、これはメシア教のカレンダーの12月の絵でもありますね。その一部を切り抜いたのが、クリスマス祝典のバナーというのかな、として飾ってあります。 私、この絵を見た時、「これだな」と思ったんですね。 どういうことかというと、まず、遠景というか、背景には、雪の降った山がある。だから、これは厳しいですよね。厳しい環境。 でも、その手前には、雪の降ってない春の訪れを感じさせる里の様子が描かれている。この二つの要素を、三穂麿様は、一つの絵の中で成立させてますね。一つの絵として成立させている。厳しい冬の雪山も、暖かい春の訪れも、一つのもの、一つの絵画にまとめられている。 これを、三穂麿様がそのように意識されて描いたかどうかは分かりません。だけど僕は、この絵を見た時、これは神様の愛だと思ったんですね。 冬の山の環境というのは厳しい。つまり、我々にとって望ましくないことですね。人生で降りかかるすべての望ましくないこと。一方、春の訪れを告げる里山。これは、人生で起こるいいことですね。希望というのかな。だから、希望と絶望ですね。 我々は、人生で降りかかってくることの中で、希望のほうだけをいいことと見るんですけれども、本当は、全部が愛なんです。 今年も残るところあとわずかですけれども、また次女の話になって恐縮ですが、この間次女の発表会がありまして、次女はずっと家で練習してて、それについては、「すごいね、がんばってるね」と言っていまして、そして当日観に行きました。 で、発表会が終わったあと、親としては、実際どうだったのか聞きたいですよね。それで、「どうだったの?」「すごかったね」みたいに親のほうは言うのですが、子供は、もう、完全に次に行ってるんですね。 発表会の時までは「発表会、発表会」だったのが、終わった途端にもう全然別の遊びに移ってるんですね。親は振り返りたい。振り返って、どうだったのかなとしたいんだけど、子供は、もう他の子供と遊んだり、また違うおもちゃがどうとかで、もうすでに次に行ってるんですね。 もちろん大人になった我々は、ただ無邪気に、起きたことはもう起きたことだ、振り返るなんて意味が無い、とは生きられないんだけれども、でも、子供の、常に前、未来を見る姿ということに尊さはあるなと思ったんですね。 我々も、今年一年間確かにいろんなことが起きました。ありました。あんまり喜ばしくないこともあって、ということもありますね。でも、すでに起きたことについてずっとくよくよしててもしょうがないんですから、そしてそれは、やはり神様が必要があってなさったことなんですから、必要な反省だけはさせていただいて、あとはもう、我々も、子供のように圧倒的な明るさと圧倒的な希望を持って、前と未来、すばらしい世界に向かっていくと、それが必要なんじゃないかと思ったんですね。 だから、今年いろんな起きたこと、また、さらに言えば、今までの人生でいろんな起きたことを抱えたまま年越しをするのではなくて、自分の中で、明確に、これは必要があってこうなったんですね、反省することは反省します、として区切りをつけて、新しい年においては、また、神様と共に新たな気持ちで歩む。 神様は人類のためにすばらしい未来を造ってくださろうとしてるのであって、その材料が必要なんです。そして神様は、「その材料を持って帰ってこい」と仰せなんです。 その材料が人生で出遭う我々の悩み苦しみとか病ですよ。だから、それについては、「これは二千年前の前の時代に犯した罪を赦してくださってたんですね」「今教えてくださっているんですね」ということでお捧げすれば、我々の悩み苦しみを神様が受け取ってくださって、ますます天国が輝いて、その天国の繁栄が地上に投影されてすばらしい世界が造られていくんです。 だって、我々の想念が未来を造るんですよ。 だから我々は、今までの人生で起きたいろんなことを抱えたまま、中途半端な思いで年を越すのではなく、それはもう神様にお捧げして、そして我々は、圧倒的に明るい、圧倒的な喜びに満ちあふれた世界に人類が住んでほしいですよね。 それ、我々から始められるんですよ。だって我々の思いが未来を造るんですから。我々の思いが未来を造るんですよ、我々一人ひとりの思いが。 人類の中でそういうふうに思ってる人はあんまりいないですよね。だって20億のキリスト教徒は、まだかな、まだかな、ですからね。「すぐに来る」とイエスが言って、それからもうずっとですよ。二千年間、ずっと、明日かな、明日かなと待ってるんです、キリスト教徒は。 でも、それはもう来たんです。だから、「まず喜びます」とさせていただく。そして、「神様が明るい未来を造られていることを信じます」とさせていただいて、喜んで、喜んで、喜ぶ。というように、明るい未来に希望を馳せる我々の宗団であれば、その我々の思いが、こんな小さな宗団ですけれども、世の中を変えていって、そして私は、この人類の幸せな未来というのがもう目の前に来てるんじゃないか、と思いますね。それが皆様お一人おひとりの手にかかっているという、その喜びを持ってですね、また来年も共に歩んでいきましょう。 ありがとうございました。