皆様こんにちは。 今日は天気が良くて暖かいですね。でも、3日後には雪降るみたいですよ、熱海(一同笑声)。今朝天気予報を調べてましたら、3日後の火曜日のところに雪マークがありました。でも今日は暖かくて良かったですね。今日雪だったら大変でしたもんね(一同笑声)。宇和島の方がいらっしゃってますね。遠くからありがとうございます。 この場所で教主様ご出座の祭典をさせていただくのも、今日の豊穣祈願祭と五月度月次祭のあと2回ですね。6月にはもうここを出まして、7月は私はヨーロッパに参りますので信徒の皆様が集まっての月次祭は無いですね。8月が祖霊大祭ですから、次は9月。 5月のあと、教主様ご出座の月次祭は9月。どういうあり方を明主様がご用意くださっているのか、今私は、ワクワクした気持ちでおります。 本部にお祀りしていますこちらの祖霊のみたまや様をどうさせていただくかということですけれども、祭儀を司るのは教主様ですから、今後は教主公邸の中にちゃんとお祀りしまして、教主様のもと、日々しっかりとお祀りするというあり方を考えております。 去年の12月24日の和解ではっきりしたのは、今後、世界救世(きゅうせい)教の祭儀を司るのは渡瀬信之さんという方になった。世界救世教はこの方が教主。今の世界救世教教主は、東海大学名誉教授の渡瀬信之さん。岡田家の許可なく「岡田信之」と名乗っておりますけれども(一同笑声)、ま、いいんですけれども、それはね。 でも、きっと渡瀬さんはそのようなことはされないので、役員の方とかがされるのでしょうか。どちらにしましても、そのようなあり方か、あるいは明主様のお孫様である教主様のもとでしっかり祖霊様をお祀りするのか、そのどちらが良いかというのは、はっきりしていると思います。 いきなりちょっと重たい話になりましたけれども、今日はマミが来ておりまして、ちょっと立ってご挨拶させていただきましょう(マミ奥様が席を立ってご挨拶をされ、一同拍手)。ありがとうございました。立っていただいて、ありがとうございました(一同笑声)。 マミがこのような公務に出るのはいつぶりかというと、2022年のメシア降誕本祝典以来ということで、3年ぶりですね。 ただ、その前も、またそのあとも、表には出てきてませんでしたけれども、家のこととか、家族のこととか、子供のこと、また御用のことも、私はありとあらゆることを妻に相談しますので、もう妻無しには生きていけないので、妻のこと、大変ありがたく思っております。ちょっと妻のポイントを稼ぎました(一同笑声)。 で、メシア降誕本祝典に臨みました時に、「この話をいつか信徒の皆様にできたらいいね」と妻と話していたことがあったんですね。それは何かというと、当時メシア降誕本祝典というのは、一生に一回というか、歴史上一回しか行われないということで、私たち非常にこの祭典に重きを置いて臨んで向かっていく中にあって――今はその時の空気感を私たち少し忘れてしまった面もあるかもしれませんけれども――そういう中にあって、祭典は6月15日でしたが、その3日前の6月12日に妻の妊娠が分かったんですね。その子は、結果、みことになります。 この妊娠について我々は、メシア降誕本祝典に向かう中にあって、吉兆といいますか、なにか非常におめでたいことだなと思い、また、メシア降誕本祝典に向かう盛り上がりの気持ちと非常に一致した感じを受けておりました。 6月15日の時、これを皆様に言いたい気持ちはいっぱいあったんですよ、「このお腹の中にいるんですよ」「妊娠発覚したんですよ」と言いたかったんですけれども(一同笑声)、安定期に入らないと万が一なにかあった場合ちょっと問題になりますので、だから、二人でぐっとこらえておりました。 でも、最終的に無事子供は生まれましたので、今日こうやって皆様に、マミと私の3年越し(一同笑声)の願いが叶って良かったな、皆様にお伝えできて良かったなと、そう思っております。 これは、もちろん、ただ、「マミと私の子供だ」ということだけだったらこのことは皆様に関係無いんですけれども、長らく世界救世教は、また、当然世界メシア教は、明主様が二代様にご遺言で教主の座を託されてからは、岡田家のもとにある教主制を敷いていますので、だから我々の子供というのは、信徒の皆様にとっても大切な存在である、信徒の皆様の子供でもあると、そういうことですね。 真明様注:祭典では上皇陛下の御歌を引用しましたが、この御歌は私の記憶違いからの間違いであり、存在しない御歌でございまして、信徒の皆様に深くお詫び申し上げます。上皇陛下にも伏してお詫び申し上げたい所存です。従って、そこの部分はカットしてございます。 ですので、私たちとしては、私たちの子供は当然神様からお預かりしているということですけれども、それだけではなく、信徒の皆様からお預かりしている尊い子供だなと、そういう心境もございます。 そしてこの心境は、もちろん長男のみことだけではなくて、我々の最初の二人の女の子たちについても同じです。 ここで僕が思うのは、今まで私たちが従ってきた救世教の規程の中においては、教主を継ぐのは男子が優先される。日本の皇室もまだそういう状況ですね。 でも、よく考えると、そもそも救世教は今まで四人の教主のうち二人が女性ですよね。二代様と三代様は女性です。それなのに教主は長男が継承すべきと、そういう規程になっている。 確かに男性と女性の働きは違いますよ。そこは全く同じにはできない。だけれども、最近お話ししているように、男性の中に女性がいて、女性の中に男性がいるわけですから、本来男も女も平等なはずであって、それなのに長男が継ぐという規程に今までなってたのはやはりおかしいんじゃないかと私は思います。 私は、そういう、男性優位の考え方をもとにした規程ではなくて、やはり、「男女は平等である」という見方が反映された規程、規則にすべきだと思うんですね。 ちなみに、それは、もし教主制が存続すればの話です。三代様の時も教団浄化が起きて、四代教主様の時も起きて、今度私の時に完全に追い出されたらもう全然関係無いですからね(一同笑声)。 ですので、あくまでも、もし皆様のほうで教主制を存続されたいということであれば、一番最初に継ぎたいかどうかを選択する権利は長子である長女が持つべきであると、私はそう思います。そして二番目に次女。ここに男女の差があるべきではない。 いや、もし教主の仕事がものすごい激しい肉体的ななにかが伴うということであれば分かりますけれども、教主というのは神様にお仕えすることですから、男女の差を設けるべきではないと思います。 そして、ちょうど今、新しいいろんな規程を国のほうに登録しなければいけませんので、このことについても変えるチャンスですね。ということで、理事長、お願いします(真明様、理事長にお辞儀をされる、一同笑声)。 そういう見方、あり方のほうが、これからの時代にふさわしいあり方かなと思います。 もちろん、私、分かりますよ。男子というものが持っているとされるその意義、分かりますね。だって最初、長女と次女が生まれて、そしたら私に、次は男の子生まれるといいですね、みたいに言ってこられる方(一同笑声)とか、みことが生まれたら今度は、男の子生まれて良かったですね、みたいのがありますよね。 もちろん、昔だったら、僕も、なにか、時代の影響を受けて、そういう考え方をおかしいと思わなかったのかもしれませんけれども、私がそういうことを言われて思ったのは、もしそういう方々の発言をそのまま受けとめるとしたら、自分は、長女とか次女をなにか一歩劣った存在として見ているのか、男子が生まれた時の喜びを100としたら、長女と次女が生まれた時の喜びは99なのかと、そうなってしまいますよね。 私は、そこに矛盾、おかしさを感じたんですね。もしそういう発言を認めてしまうなら、長女と次女に申し訳ないなと思ったんですね。 というふうに私が感じること自体、もはやもうそういう時代ではないと、そういうことではないのかなと思います。 もし教主制が存続したとして、もちろん、結果的に男子であるみことが継ぐということはあるかもしれない。だけど、やはり最初の権利は長子である長女が持つべきだと、私はそう思います。 というように、本来救世教というのは岡田家というものを大切にして歩んできた中にあって、今、この裁判があって、結果、教主様が碧雲荘をお出になることになった。 このことについて、救世教のほうは、裁判で出るように決まったんだということを主張しているかもしれないけれども、新年祭の時にも言いましたように、もし我々メシア教側が和解の提案をのまずに裁判官が示していた却下判決が出た場合は、碧雲荘からの教主様立ち退き請求裁判というのを救世教は訴えていたんですけれども、その立ち退き請求もおそらく却下判決になっていましたよ。宗教的内容に入らなきゃいけないのでそれは裁判所では判断できませんということで却下。なので教主様を碧雲荘から追い出すことはできなかった。 つまり、世界救世教の教主推戴取り消しの議決は適法ではない、違法であったということは間違いないわけですね。 それは、和解の話し合いのプロセスの中で、教主様が、今後もずっと、この土地は自分たちのものだ、この建物や教会は自分たちのものだということで私たちが争わないように、碧雲荘からお出になるという判断をしてくださったわけです。 和解をせず法的に争おうと思えば、出る判決は却下ですから、教主様を追い出すことはできなかった。すなわち、救世教の教主推戴取り消しの議決は、司法の場においては適法ではなかった。これははっきりしていますね。 今私たちが集っている、世界救世教の聖地内にあるこの場所も同じことですよ。今回の和解でメシア教側は出ることに合意したわけですけれども、和解したくないということで却下判決が出れば、我々はずっとここにいることになった。 そうなれば、誰の目にも明らかになっておりましたよ。要は、世界救世教主之光教団(今は世界メシア教)を包括被包括関係を切って追い出したという世界救世教の議決は適法ではなかったんだということは、誰の目にも明らかになった。 だから、皆様には救世教側の知り合いの方々とかがおられて、メシア教が出ていくことになった、だから自分たちのしたことは正しかったんだと主張しているかもしれませんけれども、裁判所は却下の方針を示したんですから、その説明は法的には事実ではないですよ。 世界救世教は、法という観点からすれば、教主様を碧雲荘から追い出すこともできなかったし、世界メシア教を自分たちの聖地から追い出すこともできなかった。 そもそも世界救世教においては、比べるのも畏れ多いですけれども、要は天皇制と似たシステムであったわけです。ですので、碧雲荘はいわば皇居ですね。 世界救世教の方々は教主様を碧雲荘から追い出した、碧雲荘は自分たちのものだと言っているけれども、それは、いわば、天皇陛下要らない、でも皇居はすばらしい場所だ、それなら天皇陛下を追い出して皇居を自分たちのものにしようということですね。 そんなことをしたところで、その奪い取った皇居になんの価値も無いですよ。だって東京にある皇居は、天皇陛下がお住みになっているから皇居であって、尊いわけですよね。天皇陛下が住まわれるところが皇居。生きた生身の身体を持った存在が住むから尊い皇居ということになっているわけで、天皇陛下を、いわば教主様を碧雲荘から追い出して、ここは自分たちのものだと言っても、それは天皇陛下のいない皇居と同じで、ただ、歴史的になんか価値のある建物なんですねと、それだけのことです。なんか歴史的な建造物を手に入れました、ということだけですね。 だって碧雲荘にこれから渡瀬信之さんが住むわけではないと思いますよ。いや、もし住んだらごめんなさいということですけれども(一同笑声)、でもそうじゃないと思いますよ。 だから、そういう意味において、今日の明主様の御歌にもありましたように、やはり、最も尊いものは人だと思えるのが人として本当に正しいと、そういうことですね(「いと高き尊きものは人なりと思ふ人こそ人たる人なり」)。 確かにこの世界救世教の姿勢は完全に私たちの姿勢ですけれども、でも、彼らが表現しているこのありようというのは、結局、人よりも物ということですね、物。 世界救世教は教主様をないがしろにしたわけですが、世界救世教の教規では教主様は信者統合の象徴ですから、ということは、「教主様即ち信徒」ですね。 そういう中で教主様をないがしろにして、物を崇めるということについて、今日の明主様の御歌にもあったように、物欲とかね(「物慾の外望みとてなき人を見る毎神知る人の尊し」)、物にのみ頼りしとか(「物にのみ頼りし事の愚かさを世人悟らむ時ぞ来ぬるも」)、すれど逃げ行く幸福の二字(「物のみに頼り只管つかまんとすれど逃げ行く幸福の二字」)ですよね。 物。美術品。碧雲荘。教主様なんて尾行・盗聴・盗撮していろんな負担かけてもいいんだ、とにかく取り除こうじゃないか。とにかく物、碧雲荘という建物が手に入ればいいんだ、美術品が自分たちの手に入ればいいんだ、聖地が自分たちの手に入ればいいんだ、ですよね、世界救世教の考え方は。物欲ですよね。だから、「逃げ行く幸福の二字」じゃないですけれども、その歩みの中に本当の幸福がどれほどあるんだろうかと、そう私は思います。 では一方教主様は、碧雲荘を出られるとか聖地のこととか、いろいろありますよね、この事態に対してどうお感じになっておられるのだろうか、というと、僕は、教主様は今、悲しんでおられると、そう思います。それは、碧雲荘を出なきゃいけないから悲しいなあ、の悲しみじゃないんですよ、当然ね。 いや、もちろんね、これから世界メシア教として進んでいけるという喜び、明主様のみ心にお応えになっておられる喜びは感じておられると思います。だけど教主様は、同時に、悲しんでおられる。 それはどういう悲しみかというと、それは、2024年12月24日まで、教主様は世界救世教の教主であられた。しかし、12月24日以降世界救世教はもう完全な別団体になった。ということは、教主様は、その日以来、世界救世教信徒に思いを馳せ、お祈りをさせていただくことができなくなってしまった。この悲しみですね。 大切な人のことを思う時、空間は関係ありませんよね、遠距離恋愛とかもありますように。大切な人のことを思うと、自分の想念の中につながってきますよね、霊線という明主様の聖言もありますけれどもね。 というように教主様は、たとえ世界救世教側からとんでもない仕打ちにあったとしても、今まで、それを裁かれるのではなくて、「これは自分の姿なんだ」「こういう私の姿を許していただいたんですね」「明主様にお受け取りいただきたいのです」ということでずっと世界救世教の信徒の方々のためにお祈りを捧げてきてくださっていた。「これは私の姿なんですね」「お許しください」というお祈りですね。昨年の12月24日まで、世界救世教の全信徒のためにこのようなお祈りを捧げてきてくださった、教主様は。 教主様は、もちろんこれからも全人類のために祈りを捧げられるんですけれども、今後、直接的に世界救世教信徒のためにもはやお祈りをさせていただくことができないと、その悲しみをお持ちだと思うんです。 この話、世界救世教の方々にとっては信じられないような話だと思いますよ。物が大事、碧雲荘が大事、美術品が大事、聖地が大事だという世界救世教の方々にとって、教主様がまさかそんなことに悲しみを感じておられるなんて、にわかには信じられない。 世界救世教の方々は、碧雲荘を出ることが教主様にとって一番悲しいんだろうと思い込んでいると思いますよ、だって自分たちにとっては物が手に入るのが喜びだから、他の人もそうだろうと思い込んでいる。取ってやったとか、その程度のことしか考えられない、感じられない。 だから教主様のこの深い愛のことを話しても、そんなことは嘘だ、きれいごとだとしか思えない。でも教主様は、そういう一種の悲しみの中におられると思いますよ。 だけど、最後に愛は勝つのでね――最後に愛は勝ちますよ(真明様、涙ぐまれ目を閉じられる)――いつかそういう方々が、教主様の愛に気づいてくれたらいいなと、そういうことを願っております。 泣くつもりじゃなかったんですけれども(一同笑声)、話しているうちになんか感極まりまして、すみません。 そういう我々の教主様に対する姿勢の根本にあるのはなんなのか。 まず、教主様というのは、霊的なご存在でもありますね。理事会が体だとしたら教主様は霊であって、教主様は、この世のいろいろな現実的なことに関してはあまり関与しないということでずっときた。ということは、そういう霊的存在である教主様に対する姿勢というのは、いわば神様とか明主様という、もはや体が無いご存在、霊のご存在に対する我々の姿勢が如実に現れるわけです。 つまり、我々の教主様に対する姿勢というのは、我々の霊に対する姿勢、我々の神様・明主様に対する姿勢である。そう考えると、世界救世教の方々がしたことは、恐れも知らない姿勢とやり方ですね、尾行をするとか、追い出すとか。 だから、我々の姿勢の根本にあるものはなにかと言えば、今日の明主様御歌の1首目(「神を恐れ正しき道を守る人つくるぞわれの使命なるらん」)にもあったように、「神を恐れる」ということの欠如。 神を恐れるという感覚が、やはり我々全体として希薄である。それは救世教の方々だけじゃないですよ。我々の意識もその点において非常に希薄である。だって我々、分からないですね、神様を恐れなさいと言われても。でも明主様は、神を恐れる人を作るのが自分の使命なんだと今日の御歌で仰せです。 で、今日拝聴した聖書。ノアの箱舟のところを選んだんですけれども(「創世記」第6章~第9章)、神様は一度、人類を完全に滅ぼそうとされたんですよ。神様は人を造ったことを悔いたんだとそう書かれていますね。 神様は、初めは愛を持って人間であり人類を造り出した。だけど、ふたを開けてみたら、人間が心に思うことが悪いことばかりだから、神様は我々を造ったことを悔いられて、全員滅ぼすと決められた。 神様が、我々に対してそんなことを思われていたことがあったんですよ。大変なことですね。もう生き物すべて滅ぼす、地球も滅ぼす、それはなぜか、我々が悪いからだ、我々の心が悪いからだ、だけどノアだけは助けようと、そういうことがあった。 だから、当初の神様のご計画では、神様は、あらゆる動物とか全人類を滅ぼして、残ったノアとその子供たちとか、残った動物とか、それらは最終的に天上に引き上げて、それで人類の歴史はもう終わりだったかもしれないんですよ。 でも神様は、激しい洪水を起こされて、ものすごい数の人が亡くなって、そのあと心を変えてくださるわけですね。ノアが祭壇を作って、お祈りを捧げて、それで神様は、もう人類を滅ぼすことはしないというふうに思いを変えてくださった。だから、今我々が生き残ってるのはノアのおかげですね。 神様は人を造られた。でも、愛のご存在である神様が、我々の所業があまりにもひどいがゆえに我々を造られたことを悔いた。要は、自分で生んだ自分の子供があまりにも自分の言うことを聞かないがゆえに、「なんでこんな子供を生んでしまったんだ」と悔いて、人間を滅ぼそうとされた。 でも、ノアがとりなしてくださったおかげで神様は思いを入れ替えてくださって、人類を滅ぼすのを取りやめてくださったんです。そして、ノアの子孫からまた人類繁栄してもいいですよとしてくださった。 だけど、ここ、聖書をお読みいただければ分かりますけれども、神様は何も、我々の心がけが良くなったから、「どうぞこれからも生きていいですよ」と仰せになったわけではないんですよ。 そうではなくて、神様は、人間が幼い頃から思うことはもうどうせ悪いことだから滅ぼしても仕方がないと書いてありますね、聖書に。要は、神様はもう諦めたということです。だから、「もう二度と滅ぼさない」としてくださったのは、あなた方が心変わりしたから、いい人になったからもう滅ぼさないよ、ではなくて、神様は、どうせ生まれた時からあなた方が思うことは悪いことなんだから、もう滅ぼすのは諦めたと、そういうことです。 この時からノアに肉食を許してますね。今までは青草を与えていたけど、これから肉食も与えようと確かに書かれている。でもここは、我々が心変わりしたから、我々が良くなったから、「じゃああなた方は肉も食べていいよ」ではなくて、もう我々のことは諦めたんですよ、神様は。お前たちが肉食べたいなら食べろと、そういうことです。 その我々の悪の心をどうするかということについては、ノア以降の時代のある人物に託したわけです、神様はね。我々の心を生まれながらにして善のものにしてあげるよということ、これはノアの時代には神様はされなかった。 だから、それをしたのが誰かといったら、イエスですよね。 人類の長い歴史の中で、人類は一度ノアの時に滅ぼされかけたけれども、ノアのおかげで一命を取り留めた。だけど、あなた方の心がけは変わらないんだからもういいよと諦められた。そのように書いてありますね、聖書に。昼も夜もまだ続くよ、まだ苦しい時代は続くよと書かれている。 私たちは、エデンの園の時は良かったんですよ。だけど、エデンの園から追放される時、神様から、これからあなた方は苦労して生きていくよということを言われた。 だからここ、ノアのところは、まだこれから苦しい時代は続いていくよと、そう神様は警告しておられるわけです。だから、しばらくの間肉食べてもいいよ、許可するよとなっているのは、我々が良い存在だからではないですよ。 でも、イエスの時代になった時に、イエスの十字架とその後に降ったペンテコステの聖霊というものによって、我々のこの悪の心を善の心に変えてくださったんです、神様は。これは大変なことなんですよ。古い心じゃなくて新しい心をいただけるようにしてくださったんです、神様は。 神様から見捨てられるような悪い思いしか持たない心だったのに、神様は我々に、新しい心を与えるよとしてくださった。それはイエスと、そして聖霊。聖霊によって新しい心を与えるよとしてくださった。だから、エデンの園の状況に戻してあげるよということですね。 ということは、僕は、「ノアのところで神様が人類に肉食を許可しておられるんだからじゃあ肉食べたっていいじゃないか」にはならないと思いますよ。しかも、ノアの時神様はノアからの動物の捧げものを受け取っておられるけれども、イエスの時、神様は、私は捧げものは好まないということを宣言しておられるのであって、神様は、イエスが最後の捧げものなんだ、私はイエスを受け取りたいんだと、そのご意思を明確に示しておられます。 だから神様は、人間の悪の心とそれに付随する肉食ということについてはイエスの時にピリオドを打ってくださって、そして、菜食、ヴィーガン食を許可していたエデンの園である始まりの天国に戻りなさいということを仰せになっている(2025年2月3日立春祭真明様聖言「「新しく生まれる」の真実」参照)、私はそう思いますね。 このノアのところですが、「虹の契約」というのが出てきますね(「創世記」第9章10節~16節)。もう神様は洪水によって生きたものは滅ぼさない、その契約として虹を出すんだと書いてある。 だけど、例えば東日本大震災でも1万5、6千人の方が亡くなって、去年ブラジルでもRio Grande do Sul(リオグランデ・ド・スル)というところで大きな洪水があって、これは死者はそんなに多くはなかったんですけれども、でも我々としては、「おかしいじゃないか」「洪水でこんな多くの人が死んでるじゃないか」「神様が虹の契約を立ててくださって、もう生きたものは滅ぼさないと仰せだったのに、洪水でたくさんの人が死んでるじゃないか」と言いたいかもしれない。 でも本当は、神様が、もはや人類を滅ぼさないと仰せになっている意味は、あなた方に永遠の命を与えてるんだよ、ということです。 だってそうじゃなきゃ矛盾するじゃないですか。滅ぼさないということなのに、ノアの洪水のあとの人類の歩みの中で、洪水とか津波とかの水によってたくさんの人が死んでいるんだから、これは、神様が虹の契約を立ててくださったのにおかしいじゃないかとなってしまいますね。 以前東日本大震災に関してのニュースでなんか見たことがあって、一昨日ぐらいに再度調べてたんですけれども、それは、2020年3月11日の午後2時46分、ちょうど地震発生時刻に、遺族の人たちが集まって慰霊祭みたいなことをしている時、ちょうどその時間ですよ、遺族たちの前に大きな虹が出たというニュース、これをちょっと覚えてまして、それを調べたら、これは2020年のことでした。 その日は、東日本を中心に他のいろんなところでも虹がいっぱい出てたみたいなんですけれどもね。 遺族の方に対してこのように神様が虹を見せておられるということは、あなた方が滅んだと思っている家族の人は死んでないんだ、あなた方は、自分は遺族だ遺族だ、我々は残されちゃった、もう尊い命は失われちゃったと言ってるけれども――もちろんそれは大変ですよ、そのことを軽く見るつもりはないです――だけど、ちょうど3月11日、しかもちょうど地震発生時刻で、さらにちょうど遺族が集まっている目の前に虹を出されたということは、神様としては、虹を見て、我々が、ただ、「これから明るい未来があるのかな」ということではなくて、あなた方は虹の契約を思い出しなさい、私はこの契約をあなた方に思い出してほしいんだと、そういうことではないんですか? だってこの虹の契約というのは、ノア以降に生まれたすべての生きたものと立てた契約なんですよ、動物も含めて。ということは、2020年3月11日の虹というのは、遺族の方々に向かって、また、ニュースを通してこのことを知った我々に対して、津波で死んだと言われている1万5、6千人の方は死んでない、永遠の命があるんだと、そういう神様からの強烈なメッセージがありますよね。 確かに虹が出ることはめでたい。「わー、虹が出た」と喜ぶことではあるけれども、同時に、「虹を見なければ私の心を思い出せないのか?」という神様からの警告という面もありますよ。 だから私たちは、虹を見た時はただ喜ぶのではなくて、私が滅んだと思っていたすべてのものは生きておりますと、そのことを確認させていただかないといけない。 そもそも、ノアの洪水で滅んだと言われている人たちも、本当は滅んでないんですよ。誰も滅んでない。神様が愛して生まれた子供はすべて永遠の命を獲得するために神様が養い育てておられるんですから、滅びは存在しないんです。 だから、誰かが亡くなったとか、東日本大震災の慰霊祭とかそういう時、そういう方々に対して、安らかにお休みくださいとかお眠りくださいとか言うのではなくて、我々が捧げるべき思いは、「あなたは生きております」というものであるべきなんですよ。 ユダヤ人と全然関係無い日本人のところに、しかも津波で亡くなった遺族が集まっているところに虹が出るというのは普通じゃないですよね。 そして今、少なくとも我々は知らされましたよね、虹の意味を。日本中で、今私が話しているようなことで虹を受けとめている人はいない。だとしたら、神様のほうとしては、虹を出すことによって「誰も滅んでない」というメッセージを我々に送っておられるのに、キャッチする人がいなければなにも意味無いですよね。 でも皆様方は、今後、虹を見た時に、世界中の人が「わー、きれいだ」「美しい」と言っている中にあって、喜ぶと同時に、「すべてのものは神様との虹の契約によって生かされているんですね。我々はそもそも滅ぼされるような存在だったのに、ノアのとりなしの祈りと、イエスの血によってすでに永遠の命を与えていただいているんですね。神様は、私たちにこれに気づいてほしいんですね」というふうに我々が思えたとしたら、それはすごいことですよ。皆様の使命はすごいんですよ。だって虹の契約というのは我々と神様との間の契約ですからね。もう滅ぼさないよ、永遠の命を与えるよという契約ですね。 そして、永遠の命ということになると、「新しく生まれる」というテーマが入ってきますね。 この新しく生まれるということについては、立春祭の時に、いわば教会の中に牧師さんがいて、この世で女性だったら、その教会に男性の片割れが待ってる、この世で男性だったら、その天国という教会に女性の片割れが待ってると(「「新しく生まれる」の真実」2025年2月3日)、そういう例えを使って話したんですけれども、でも皆様の中には、この話が難しいという声がありますね。 いや、分かりやすいと感じた方もおられると思うけれども、難しいと感じられる方もいらっしゃる。でも、なぜ難しいと感じるのだろうか?ということがありますね。新しく生まれるというのは男女が一つとなって子供が生まれるということなんだけど、そのような一見単純な話が難しいと感じるとなっている。 で、僕は、それは、このような話を我々が「教え」だと思ってるからだと思うんですね。僕は、この場で、いろいろ話したいのですが――いや、話し過ぎという批判もありますけれども(一同笑声)――何をお話ししたいのかというと、ラブストーリーを語りたいわけです。ラブストーリー。愛の話。すみません。なんかかっこいいこと言ってすみません(一同笑声)。 だけど、世界メシア教というと、「教え」という言葉が入ってますね。宗教。教え。そこで、「教え」というと、こうこうこうでこういうものだという我々の棒みたいな固定観念が入り込んでくる。 誰かを愛するのに理屈なんて無いですよね。「なんで私じゃなくてあの人を選んだの?」と突っ込まれても、我々の感情というのはなかなか説明しきれないところもありますよね。まあ説明されたら傷つくかもしれないですけれども(一同笑声)。 なぜ自分はこの人を愛してるんだろうというのは説明しきれない。なぜか。それは、それが愛だからですよ。でも愛と愛の心の通い合いというのは、言葉を超えたつながりがありますよね、説明できないつながりが。 というように、「新しく生まれる」というのは愛の話なのに、それを教え――利他愛の教えとか、浄霊についての教えとか、祖霊様についての教えとか、一日一善とか――そういうものとして捉えようとするから、だから我々は、難しい、分からないとなるんじゃないかと思うわけです。 でも神様は愛ですからね。神様の子供に対する愛。だから、教えではなくてラブストーリーだと思わなければ理解が難しくなりますね。 神様としてはラブストーリーをお伝えになりたいのに、それを、「新しく生まれるとはどのような教えでしょうか」「どのように実践すればいいのでしょうか」「私はどうすればいいのでしょうか」「あなたの愛にどうやって応えたらいいのでしょうか」ということになれば難しいですよ。だって愛というのは理屈を超えてるものであって、愛そのものが原動力なんですから。 で、先月も申し上げたように、我々の中側に存在する教会には我々の愛する片割れが待っている。女性だったら男性が待っているけども、それは神様とは違うんですよ、神様そのものではないんですよ。男女が一つとなって神様の御前に出て子供が生まれるという、結婚式でもそうですもんね、だから牧師さんが神様です。 こういうのを聞いた途端、また難しいなと思いますよね(一同笑声)。うーん、うーんとなりますよね(一同笑声)。 でも少なくとも、僕が思うのは、我々には愛することができる存在がいるというのは大きいですよね。この世でも、好きな人がいないとか、愛する人がいないというのは悲しいですよね。でも我々には、一人ひとり、思いきって愛することができる片割れがいる、待っている、自分の中側にですよ。 と同時にその片割れは、私たちのこと一人ひとりを一番愛してくれている。だから、我々一人ひとり、自分を愛してくれている異性がいるということです。これは大変なことですね。 それがたまたまこの世で表現されれば、好きな子と出会って結婚するという、そういう形になるだけのことです。 でもそれは、一人ひとりの中に完成したものがあるんですよ。一人ひとりの中で完成できるものなんです。 我々は、誰かを愛するということばかり思いますけれども、我々のことを愛してくださってる異性が我々の中にいるんですよ。こう言われてもちょっと想像できないかもしれませんけれども、でも、そのときめきがありますよね、ときめきが。 この世での恋愛にもときめきがありますよね。だからあるんですよ、それが、一人ひとりの中に。何歳になってもこのときめきがあるんです。 世の中でもいろんなラブストーリーの映画でハッピーエンディングのもの、ありますよね。だから、そういうのを観て、「あっ」となにか感じるのもいいことだと思いますよ。 悲しいエンディングの、なんか別れちゃっておしまいという映画よりもいいですよね。まあそういう映画は少ないけれども、ちょっと芸術的な映画だとたまにありますよね。なんか深いメッセージというか、伝えたいメッセージがあって、という種類のも確かにありますよね。 だけど、僕が今話してるのは、王道のラブストーリーの映画のことです。そういうのを観るのもいいと思うよという話。それを観て余計寂しくなるという説もありますけれども(一同笑声)、それは置いといて、そういう映画を、ただこの世の話として観るのではなくて、ああ、神様は、こういうハッピーエンディングのラブストーリーを自分のためにも用意してくださったんだなというのを思い出すためにはいいと思いますよね。 でも、最高のラブストーリーは何かと言ったら、それは明主様ですよね。明主様のご存在。明主様がお示しになろうとしたもの。 これを我々は「み教え」とか「ご事蹟」とか呼んでるわけですが、なんか難しいですね、言葉が。本来これは、ラブストーリーなんですよ。明主様が遺されたものは最高のラブストーリー。 だって明主様は最終的に新しくお生まれになったんでしょ。男と女が一つにならなければ生は生まれないですよ。だから、明主様が新しくお生まれになったことを宣言されたということは、明主様はラブストーリーを成就されたということです。 ということは、明主様がこの世で何をされたのかというと、愛の物語をご自分の聖言とかご事蹟によって示してくださってたということなんです。 だから、「世界メシア教」という言葉に引っかかっちゃってるわけですね、今新たに法人登録しようとしてる中にあってあれですけれども(一同笑声)。でも、この教団名が、新しく生まれるということを理解するのを難しいと感じさせている要因の一つでもありますね。世界メシア教で、「教え」となってますから。明主様が伝えられたかったのは教えじゃなくて愛なんです。 だから、我々がしてるのは愛の事業なんですよ、本当はね。私たち、あんまりそういうことを思わないんじゃないですかね。 むしろ、言葉とか文字とか実践するとか、人にいいことする、迷惑かけない、罪、赦し、悔い改め、そういう言葉で私たち自身の思いががんじがらめになってますのでね。 もう一つのすばらしいラブストーリーは、イエスのラブストーリーですね。神様への愛を貫かれた。あんな痛い目に遭っても神様を信じ切られるほどの恋焦がれ方は普通じゃないですよね。 そして、イエスと明主様が示しておられるのは、人類の誰もが新しく生まれて神様の子供になれるんだよ、ラブストーリーにはハッピーエンディングがあるんだよ、ということ。 だから、メシア聖堂といったって、今お話ししている本物のラブストーリーの象徴ですよ。あんまりそういうこと思わないですよね。メシア聖堂がラブストーリーの象徴だなんてほとんど思わない。 でも本当は、メシア聖堂はラブストーリーの象徴ですよ。だって、我々が目指している新しく生まれるというのはラブストーリーなんですから。あまりこういうふうに捉えてないんじゃないですか、我々は。 でも我々の願いというのは、メシア聖堂を建てて、本当のラブストーリーを世の人に知ってもらいたいということですよね。 メシア聖堂ということに関して、ある信徒の方の立春祭における感想を読んで、そういうことがあるのかと思ったことがあったんですが、私は、立春祭において、我々は前回の三代様の時の教団浄化から40年経ってようやく――実際は40年以上ですけれども――40年経ってようやく和解して、これから新たな出発をしようということですね、ということをお話ししました。 この信徒の方が書かれていたのは、この40年というのが、聖書においてユダヤ人が荒野を40年間さまようというストーリーがあるのですが、それと一致しているように感じたというご感想で、なるほどなと思ったんですね。 ユダヤ人がエジプトのほうに行きまして、その後、エジプトでだんだん奴隷みたいになってたところにモーセが来て、エジプトから今のイスラエルのところまで連れ戻そうとするわけです。 あの有名なモーセの十戒もその時のことです。ユダヤ人が逃げようとするんだけれどもエジプト人が追いかけてきて、目の前が海――紅海ですね――、もう逃げ場が無いと思ったら海の間が開いて逃げることができた。 そのあとどんどんイスラエルのほうに向かって進んでいく中で、神様はユダヤ人に対して、あなた方にすばらしい場所を用意したよということを言われて、その場所を見に行くことになる。でも、その場所を見に行った人たちが、ここはすでに住んでる人たちがいて、この人たちと戦ったら我々はやられちゃう、だからここは行きたくない、というふうになるんですね。 そうすると、ユダヤ人全体が、もうエジプトに帰りたい、帰りたいとなるんですね。これに神様が怒って、今生きているユダヤ人の大人の世代が全部滅びるまでこの約束の地にあなた方は迎え入れない、あなた方は40年間荒野でさまよいなさい、ということになってしまうんです。まあ、罰せられたわけですね。 そのあと40年経ってようやくその約束の地に入るわけですが、結局モーセはその許可はもらえなかった。神様はモーセに、あなたはその約束の地を見ることはできるけれども、入ることはできないとされた。 それで、最終的には、モーセの次の指導者のヨシュアの時にユダヤ人は今のイスラエルのところにようやくたどり着くと、そういう話です。 私たちも、この信徒の方が言われるように、教団浄化の最初の時から40年間、まあ、結局は教主様というご存在ですね、そのご存在に対する我々の思いにずれがあって40年間さまよい歩かせられていた。 でも、最終的に、40年経ったあとのこの間の2月3日の立春の日に、メシア聖堂建設予定地の場所を発表することができた。 しかもそれは西宮という場所。明主様はエルサレムのことを西の都と呼ばれているけれども、エルサレムはイスラエルの首都ですね。だから、ユダヤの人は40年間苦しんで最終的に今のイスラエルにたどり着いたように、我々も40年間苦しんで、西宮、つまり、イスラエルにある西の都であるエルサレムにたどり着くお許しをようやく賜ったと、そういうことです。 熱海市の市章はなんか温泉マークみたいなやつですね(一同笑声)。だからそれぞれの市で違うわけです、市のマークは。でも、偶然――ま、偶然なのか偶然じゃないのか――西宮市の市章がこのダビデの紋章なんです。 これ、普通じゃないですよね。 だから、この間は12月24日という日付のことも言いましたけれども、聖地予定地が西宮になったこととか、これは偶然ではなくて、やはり神様が我々を一つの方向に導いておられる、神様と明主様が、霊の世界から、教主様を通して我々を導いておられるのは間違いないと、そう思います。 そうなんですから、人類にとっての本当の希望の場所、そういうものをなんとしても我々の手で建てたいじゃないですか。 だって、今日の聖書からもはっきりしているように、もう悪いことは起きないんですよ。人間にとって死が一番悪いことであって、その死がもう無いんですから。ノアの時に、もう二度とあなた方を滅ぼさないよと神様仰せじゃないですか。 ということは、人生で起きるいろんなことで確かに悪いことのように見えることはいっぱいあるけれども、でも、神様がそれを通して何を言わんとしているのかというと、「もう悪いことは起きないよ」ということ。 明主様の浄化の聖言もそういうことですし、イエスが伝えようとしたメッセージもそう。ノアの時の神様のメッセージも、簡単に言えば、人類のあなた方にもう悪いことは起きないんだよと、それなわけです。だからこれは、大変な希望ですね。 世の中で、こんなこと訴えている人たちいないじゃないですか。本当のラブストーリーがある、もう悪いことが起きないなんて訴えている人はいない。 むしろ、ニュースとかを見て、世の中こうなっちゃった、ああなっちゃった、戦争がどうだ、この大統領がどうだ、この隣人がどうだ、学校でどうだ、幼稚園でどうだ、自分の家族がこうだ、そればっかりじゃないですか。 でも我々は、一人ひとり、今日お話しした本当のラブストーリーを持たされているわけであって、しかも我々はその象徴となるメシア聖堂を建てようとしている。だから、メシア聖堂を小さく考えるのではなくて、本当に人類一人ひとりが求めてやまないものの象徴となるものを我々の手で造って、ユダヤ人の人も、ユダヤ教の人も、キリスト教の人も、ありとあらゆる人が本当の救いに与って希望を持って生きていけるようにするのが我々の使命ですよね。 だから、皆様お一人おひとり、このラブストーリーを伝道する使命を持っていますよ。 我々は、12月24日からまた全く新しい段階に入った。今までなんとなく薄っすら見えてたけれどもはっきりしなかった明主様のみ心の全体像というのが見えてきてるじゃないですか。我々は自分たちで難しくし過ぎてるんです。 だから私が作っているいろんな歌とかの歌詞、ものすごい簡単ですよね。でも、簡単な歌詞みたいだけど、そこにあると思いますよ、明主様からのメッセージが。 ですのでね、我々一人ひとり、明主様のラブストーリーを受け継いで、これを世の人に拡げて、そして、希望と喜びと愛を持って共に歩んでまいりましょう。 ありがとうございました。