はじめに 質疑応答に入る前に、たった今話したことについて触れたいのですが、「ブラジルが水の聖地に」ということは、日本を出発する時はまったく考えていませんでした。 でも、ブラジルに到着して、ある日の朝、早朝、ホテルにいる時、この思いが現れました。 そして、このことについて考えれば考えるほど、明主様が、「このことをブラジル信徒に話しなさい」と私に命じておられると思わずにはおれませんでした。 しかし事があまりにも大きいことから、私は何度も明主様にお伺いしました、「本当にこのことを祭典において話してもよろしいのでしょうか」と、何度もお伺いしました。 しかし、この思いは消えるどころかより強くなっていき、段々と、ああ、明主様は本当にこの使命をブラジル信徒の皆様に託されたいのだなということの確信が芽生え、まさに今日は、そのことについて皆様にお伝えした次第です。 この先たくさんの困難が待ち受けているかと存じますが、必ずや私たちは明主様にお喜びいただける場所を探し当てることができると思っています。 共に、明主様のみ心に適う水の聖地建設に向かって歩んでまいりましょう(一同拍手)。 ではご質問どうぞ。質問1 明主様の聖言は簡単なのか 信徒:真明様、教主様の代行として、私たちに、この、偉大で神聖なご面会の場、すなわち、神様、明主様、イエス・キリストとのご面会の場を用意してくださり誠にありがとうございます。また、質問をさせていただけるお許しに深く感謝申し上げます。 世の人々は、健康や金銭の問題に直面した時、特効薬的な解決策を得るため、宗教を求めます。宗教のほうも、それらの問題に対する解決策を提示することで人々の関心を引き、人々を集めることで発展、成長してきました。 明主様の信徒と呼ばれる方々においてでさえ、明主様の「浄化」という教えを受け入れるのに常に難しさを感じてきました。 私たちのほとんどは世界救世教出身ですが、世界救世教時代の私たちは、「浄霊、献金、奉仕」を通して浄化を乗り越え、ご守護をいただき、そして、これらのことを活用して布教をしてきました。 その時代確かに私たちはたくさんの奇蹟をいただきましたが、今私たちは、教主様のおかげで、明主様が、手を掲げる浄霊は二の問題であること、もう想念の時代に入ったこと、そして念じることが大切であると仰せになっていたことを教えていただきました。 しかし私は、いまだに、まだ多くのメシア教信徒が、本当の意味で悔い改めるとはどういう意味なのか、本当の意味で「念じる」とはどういうことなのかを理解するのに難しさを感じているように思います。特に、この世で現実的な悩みや問題に直面した時に難しさを感じているように思います。 真明様、このことについて聖言を賜れますでしょうか。 ルイス・フェリペ・ハシビ(理事兼教区長 男性 41歳)真明様:よく分かりました、ハシビさん。難しい質問ですね。 まず、「明主様の「浄化」という教えを受け入れるのに常に難しさを感じてきました」ということで、「感じてきました」とおっしゃいました。「た」なので過去形ですね(一同笑声)。 昔我々はそうだった、ということですが、ハシビさんはもうこの問題は乗り越えられましたか?すでに明主様の浄化の教えについては実践できている、ということですか? 浄化の教えは極めてシンプルな教えではありますが、実際に実践するのは至難の業なんですよ、実は。私にとってもそうです。私にとっては、まだ、過去形にはできずに、実践しようと努めている種類のことです。皆様にとってもそうではないのでしょうか。 といいますか、あの明主様ですら、いざ脳溢血のご浄化をお受けになった時、何度も自殺をされようとしたくらい苦しまれた。しかし、その苦しみを乗り越え、浄化と受けとめることができ、そしてその病を神からの祝福であり恩寵だと思われることができた。明主様ですら浄化という教えを実践されるのに苦しまれたという事実を私たちは軽く思わないほうがよいと思います。 私たちは、つい批評家の立場に自分を置き、「基本的な教えについて自分はすでに理解している」となりがちですが、浄化のような一見基本的な教えを実際に実践するのは本当に難しいことです。 確かに、人生がうまくいっている時は浄化の教えも割と簡単に受け入れることができるかもしれませんね。自分は明主様を信じている、と思えるかもしれません。でも、ひとたび神様が浄化を与えようと思われて、その結果我々が病に見舞われ、お金の問題に直面したら、急に難しくなりませんか? 同じように、ハシビさんは、「まだ多くのメシア教信徒が、本当の意味で悔い改めるとはどういう意味なのか、本当の意味で「念じる」とはどういうことなのかを理解するのに難しさを感じていると思っています」とおっしゃいましたが、「難しさを感じている」人の中からご自身を省いておられますね。 ハシビさん、本当は、この「難しさを感じている」という人の中にハシビさんご自身も含まねばならないのですよ。 私たちは、周りの方たちを見た時、「私は実践できているが、あの人はできてない」という相手を裁く思いが湧いてきてしまいますね。 そうですね、聖書がいいかもしれません。聖書はここにありますか? (舞台袖より運ばれてきた聖書を開かれて)「マタイによる福音書」第7章のここ、有名なところですね、少し読みます。 人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばき で、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう(1節~5節)。 私たちの目には、「明主様がこう仰せなのにそれを受け入れてない人々」とか、「明主様が悔い改めよと仰せなのにあの人は悔い改めてない」ということが発生した時、私たちが思うべきは、なぜそのような方々を神様が私たちの周りに用意しておられるかということ。このように思うことは、一人の信仰者として大事なことだと思いませんか? ハシビさんのご質問の中で私が最も引っかかった点は、もしかしてこれはハシビさんが意図されていたことではないのかもしれませんが、ご質問の前提に、「すでに私はこれらの教えについては克服している、理解している」というご姿勢があるところ、これです。私は克服したが他の人はまだ難しさを感じている、とか、今は克服したが昔は難しかった、とか、そのハシビさんのお持ちの前提に私たちが見つめさせていただけることがあると思いました。 ご質問を拝聴して私が最も大切だと思ったのは、「私たちは、全員、例外なく、明主様が本当に仰せになりたかったことを受け入れることはできなかったのだ」という認識を持つこと、これだと思います。 宗教に関わっていますと、一種の「道徳」とか「教え化」という穴に落ちてしまい、そして、他人に教えを課し、少しずつ自分が他人より勝ったものだと思ってしまうという、この穴に簡単に落ちてしまう。 だけど、誰一人として他人を下に見る資格はありません。私たちはみな、例外なく、神に、そして神が伝えようとされたことに反し、そして罪を犯した。だからこそイエスの存在というのはかけがえのないものなのです。 もし私たちがこのような教えを問題無く実践できるなら、イエスがこの世に来る必要はありませんでした。 だからこそ私たちは、「明主様お赦しください。私は長年がんばってきましたが、明主様のこんな単純な教えでさえ、私は受けとめ、実践することはできませんでした」と認めさせていただくことが大切だと思います。 私たちは、ややもすると、「自分は理解して実践しているが、あの人はなかなか受けとめようとしない」となりがちです。 でも本当は、神様は、そのような方たちを私たちの周りに用意してくださって、そして、私たちが一体全体どのようなところから救われたのかを教えてくださろうとしているのです。 私たち世界メシア教においては、誰が上で誰が下というのは一切存在しません。誰がより理解していて、誰がより理解していない、というのは存在しません。教主様は確かに教団の中心的お立場に立たれていますが、だからといって、教主様が信徒の方々より上だということではないのです。 私たちはみな兄弟姉妹であって、平等なのです。100パーセント、完全に平等なのです。誰かが特別、などということはないのです。私たちはみな、神の赦しを受けねばならない存在なのです。違いますか? いや、確かにこの世には秩序というのがありますので、導く立場の人もいれば、そうではない方もおられる。そういう秩序というのはあります。でも、だからといって、例えば、教主様だけ他の人より特別なのではない。 特別な人は誰もいないのであって、他の人より上の人など存在しないのです(一同拍手)。そしてこれは、ご質問にあったような、教えをどう受けとめるか、ということについても同様なのです。 最後、ご質問にお答えしますと、確かに、ある教えをなかなか受けとめられないとか、人それぞれいろいろですね。そうなんですから、私たちの役目は、そういう方たちに寄り添って、話を聞いてあげて、ハグしてあげることではないのでしょうか。 私たちは、どんな時も、一緒に前に進んでいかなければならない。そして、私たちの目にはどのように映ったとしても、神がすでにすべてを救ったことは間違いがないんですよ。 これが私たちの取るべき姿勢であり、これをもって私の答えとしたいと思います。 ありがとうございました。質問2 メシア教とキリスト教の間に「壁」はあるのか信徒:真明様、これから真明様の聖言を賜れますことに心より感謝します。 ブラジルはキリスト教国とみなされています。しかし、多くのキリスト教徒は新しいことを受け入れず、自分たちの周りに壁を作っていると私は感じます。 真明様、キリスト教徒の方たちが明主様の「キリスト教と呼応する」という教えを受け入れるため、私たちはどのようにしたらこの重い壁を動かすことができるのでしょうか? また、キリスト教と呼応するという使命を果たすため、私個人として、また信徒と共に、何をさせていただけばよいのでしょうか。この点についても聖言を賜りたく、よろしくお願いします。 エドゥアルド・エンヒキ・アウベス(教会長 男性 62歳) 真明様:エドゥアルドさんは先ほど歌われましたよね?すばらしい歌をありがとうございました。感動しました。 ご質問ありがとうございます。私も、エドゥアルドさんがおっしゃっていること、よく分かります。 キリスト教の信徒と呼ばれる方たちが作り上げている壁があると、そういうことですね。「どのようにしたらこの重い壁を動かすことができるのか」。これがご質問ですね。 また少し聖書を読んでみましょう。 再び「マタイによる福音書」から。今度は第17章。 さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう(14節~20節)。 イエスは、私たちにほんの少しでも信仰があれば、山でも動くと仰せです。つまり、我々にとって最も大切なことは、神に対する信仰だということです。 ご質問の「壁」について考えますと、私たちが、もし私たちの力によって、なんかしらの方法でこの壁を動かすことができると思うなら、一生動かすことはできないでしょう。 この「キリスト教と呼応する」という明主様の聖言についても、要は、それを私たちが信じられるかどうか、そこが鍵だと思います。 このことは、ご質問の後半の、「キリスト教と呼応するという使命を果たすため、私個人として、また信徒と共に、何をさせていただけばよいのか」という点にも関わってきます。 私たちの知恵では神様がどのようにしてこの壁を取り除くのかは分からない。聖書には神は山をも動かすと書かれていますが、これがどのように行われるか私たちには見当もつきませんね。でもイエスは、私たちにからし種ほどの信仰があれば、つまり、ほんのちょっとでも信仰があれば、それは成し遂げられると仰せである。 というように、我々では神の御心は分からないけれども、少なくとも今明主様が私たちに言われているのは、「祈り、食、音楽」の実践をしなさいということ。しかし、私たち人間の目には、この3つの実践がキリスト教徒に――この壁に――どのような影響を与えるか全く想像できませんね。でも明主様は実践しなさいと仰せである。 私のことについて少し話しますと、私は、妻と一緒に、公園に行ったりどこか出かけた時には、教団のリーフレットなどを配布するよう努めています。 私には神様のご経綸は分かりませんけれども、でも少なくとも、明主様は今このようなリーフレットを私たちにご用意くださっている。そして、私たちが3つのことを実践することを願っておられる。 ということは、私たちは、神様のご計画が分からなくても、今明主様から言われていることを実践することが大事なのではないでしょうか。そして、私たちでは想像もつかない方法で、神様はきっと人類を一つにしてくださるのだと思います。 この話の中でもう一つ大事な点があると思うのですが、それは、「真理」ということ。 真理であり真実が何かというのは私たちの中の誰も知らないかもしれませんけれども、でもそれは存在する。そして神の真理はすべてを超越する。ですね? 今日はたくさんの方が参拝にいらしてますが、もしかしたら、神様のご計画の中では、今日来られている方全員、将来的には神様のもとから離れるということになっているかもしれません。 でも、今から数百年後、数千年後、数万年後、神様が誰か一人の人を用意して、そこから本格的に全人類にご自身の真理を伝えられるのかもしれません(真明様追記:そして私は、その「数万年後」かもしれない時期というのはまさに今であると受けとめております)。 しかし、神の真理が存在するとしたら、いつかそれはすべての人の心に到達する。明主様はこの真理を神からお受けになりましたし、私も、この神の真理を継承しようと努めています。 たとえキリスト教徒の方々や、また、キリスト教徒に限らず世界中の方々が、私たちが伝えようとしていることを受け入れないことがあったとしても、私たちは今、神の真理を知るに至っているのです。神の真理であり、神の御心を知るに至っているのです。 神の真理は一つであり、神の御心も一つ――このことを信じ、受け入れるのは難しいことかもしれません。なぜなら、世界中にはたくさんの宗教があり、それぞれが「私たちは真理を知っている」と言っているからです。 これだと世界中にたくさんの真理があるようですが、でも、真理は一つであり、これを今私たちは知るに至っている。 そもそも「真理」というとなにか難しいことのように聞こえますが、真理と言っても、詰まるところ、それは愛です。神の愛(一同拍手)。 真理という言葉を聞くと、なにか小難しい理屈とか哲学とか言葉とかを連想するかもしれませんが、真理というのは、「私たちを抱きしめたいという神の愛」、たったこれだけのことです。神様は私たちを抱きしめたいのであって、これが真理でなく何が真理なのでしょうか。 私たちは昔、天国において神様の子供でした。しかしこの地上に来てからそれを忘れ、目に見えることだけを考えるようになってしまった。その我々に対して神様は、「あなた方がこの世で直面している苦しみというのは、それを通して私のもとに帰ってきてほしいというメッセージなんだよ」「そして私はあなたをもう一度抱きしめたいんだ」と、そう仰せくださっている。 真理というのは強いものですが、それよりもっと強いのが愛です。神の愛というのは永遠にすたれることはない。常に、何があっても存在している。 ですので、たとえ、全人類が神の愛、すなわち神の真理を受け入れるまで時間がかかったとしても、私は、神の愛はすべてを超越し、そして、ご質問で仰せの「壁」も無くなる日が来ると確信しています。 それを信じて、神に祈り、イエスのことを心に置いて食事をし、そして歌を通して神をお讃えすることを継続させていただきましょう。その先に、きっと神様は私たちの進むべき道を示してくださると思います。 ありがとうございました。質問3 ご先祖様はもう救われたのか信徒:真明様、世界祖霊大祭という大変意義深い祭典に参列が許され、また真明様の聖言を賜れますこと、この栄誉に言葉もございません。 私は私の二人の息子に入信を勧め、彼らはそれを受け入れました。しかし、ご先祖様についてはどうしたらよいのでしょうか? 主の家である天国にいまだ入れていないご先祖様が、まだ霊界において「おひかり」をいただくお許しを賜っていないということはあるのでしょうか? もしお許しを賜っていないとして、私がこのご先祖様を、いわばお導き、お誘いしてもよいのでしょうか? このことについて真明様の聖言を賜りたく、よろしくお願いします。 エジソン・ジュン・カワイ(信徒 男性 64歳)真明様:お答えする前に、まず、ご子息お二人の入信誠におめでとうございます。 質問についてですが、実際には3つ質問をされていますね(一同笑声)。いや、でも確かに、この世のことを主体にして生きていますと、私たちはついご先祖様のことは忘れてしまいますので、大切なことだと思います。ありがとうございます。 ご質問の、「主の家である天国にいまだ入れていないご先祖様が、まだ霊界において「おひかり」をいただくお許しを賜っていないということはあるのでしょうか?」というところですが、まず明快な答えを申し上げますと、そのようなことは、ありません。 なぜかというと、ご先祖様も含めすべての人類は、すでに神の天国に迎え入れられてしまったからです。また一方では、少し不思議な言い方をさせていただきますが、この世で「おひかり」を拝受したからと言って、その人物がすでに救われたことを意味するものでもありません。 どちらにしましても、エジソンさん、「我々が努力しないとご先祖様は天国に入れないのではないか」という心配を持たれる必要は無いのですよ。 では多くのご先祖様は今どういう状況なのかというと、「まだ知らされていない」という姿になっています。 神様は全人類を救った、赦したとの宣言をなされた。でも、まだこの事実を知らないご先祖様がいらっしゃる、ということです。 ご質問で、「もしお許しを賜っていないとして、私がこのご先祖様を、いわばお導き、お誘いしてもよいのでしょうか」とございましたね。お誘いしてもいいですが、実は、彼らはすでにお誘いされているのです。 どういうことかというと、私たちは日々、いろんな感情を抱きますね。困難にも出会う。その中で私たちは、怒り、嫉妬、優越性、劣等感、他人に対しての差別的な思いなど、いろんな思いを感じさせられます。 なぜ私たちはこのような感情を持たされるのでしょうか。なぜかというと、それはまさに、神様が、まだこの救いを知らされていないご先祖様を誘ってくださっているからです。 言い方によっては、私たちの一生というのは、私たちのご先祖様の救いのためにあるといっても過言ではないのです。なぜなら、私たちの心の苦しみを通して、ご先祖様は救われているのですから。 いや、ご先祖様は救われてはいますが、まだ知らない。なので、地上にいる私たちの心を通して、神様はこれらのご先祖様に告げ知らせておられるのです。 このことを聞いた私たちには二つの選択肢があると思います。 一つ目は、「ああ、すばらしい!神様がされているんですね。なら私はなにもする必要は無い。すべて神様にお任せしておこう」というもの。 神様はご先祖様のことを思われて、そのご先祖様に救いのメッセージを伝えようとしておられる。私どもの心を通して、それをされている。常に、されている。そしてこのことは、なにもこの救いを知っている人たちの心の中だけでなされているのでもない。神様は、全人類の心を使ってこの救いを推し進めているわけです。なぜなら、誰もが怒りを感じるし、それによって戦争が起きたりしているように、人類の誰もが、常に日々、たくさんの感情を抱かされている。 ですので、このことを知った私たちは、「神様がすべてなされるんだから、そういうことは神様に任せて自分は自分の人生を楽しもう」と思うことも可能です。これが一つ目の選択肢。 二つ目の選択肢は何かというと、神から賜ったこの計り知れないほどすばらしい恵み――イエスを通しての赦しという恵み――に思いをいたして、「神である私の父になんとしても恩返ししたい、父を助けて、ほんの少しでも父のお役に立ちたい」と思うこと。これが二つ目。 一つはっきりさせておきたいのは、そうです、たとえ私たちが全くなにもしなくても、神様は理想世界を建設されます。神は神であって、神を止めることは誰にもできません。 でも神様は、私たちに、「あなた自身は父である私の手伝いをしたいか?」と訊いてきておられる。私たちの世界メシア教というのは、まさにこのために存在しているのです。神様のお手伝いをさせていただくために存在している。 「お手伝い」という言葉は、一見神様に対して無礼なようですが、いや、でも、いいんです。使ってもいいんです。だって神様は私たちの本当の親なんですから。私たちは、肉親に対して話すのと同じように、神様に対して話すべきなんです。 「私はこの大いなる恵みをいただきました。あなたは私の罪を赦してくださったのです!あなたの愛になんとしても報いたい、お応えしたい。お父さま、あなたのお手伝いをさせていただいてもよろしいですか?」。このように言わせていただいていいのです。 言うまでもなく、私たちはこの二番目のほうを選択したいですよね。 もちろん、常に神様のことを思えれば一番いいのですが、たとえそうでなくても、生きている中でなにか難しい事態に直面した時には、「ああ神様。神様は私に、今こそ父であるあなたの手伝いをしてほしいと願っておられるのですね。神様は、今私が感じている怒り、嫉妬、優越感、劣等感などの思いを、私を通して受け取ろうとしておられるのですね。神様、私をお使いください。イエスの贖いの血を通して、私の心、私のすべてをお受け取りいただきたいのです」というような思いを持たせていただければ、神様は本当にお喜びになりますし、それが私たちの父のお手伝いをするということではないのでしょうか。 今日は祭典では食のことも少しお話ししましたが、祈りのことは決して忘れてはなりません。もし私たちの祈りが神様の御心に適えば、神様は私たちを大きな愛によって包んでくださり、私たちの中に存在する天国もより輝きを増します。 そして、霊主体従の法則に従い、この天国の輝きというのはこの地上にも投影されてくるのです。ということは、この「祈り」という行為は、地上天国建設に極めて大きな役割を担っているものなのです。 神様は、すでに、ものすごい勢いで、ご先祖様を天国に誘ってくださっている。だからこそ人類はこんなにも日々いろんなことを感じさせられる。これだけいろいろ感じさせられているということは、それだけ神様が理想世界を早く実現したいからです。 この人類の夢である理想世界建設のため、ぜひ天の父のお手伝いをさせていただきたいと思います。 理想世界建設というのは、間違いなく人類の夢ですね。政治家であれ医者であれ誰であれ、みな理想世界実現のために働いているのだろうと思います。でも、我々世界メシア教も、祈りと、ヴィーガン食と、神を讃える音楽を通して理想世界実現に貢献できる。 祈りというのは、一見つまらないことのようですよね。結果がすぐに現れる場合もありますが、現れない場合も多々あります。また、具体的になにかをしているというのが証明しにくい行為でもありますね。なので、全然祈ってなくても、私は毎日祈っていますという嘘をつくことすらできます。 エドゥアルドさんの質問の時にも少し触れましたが、この「祈り」というのも、なにか宗教的な言葉で難しいと思う人もいるかもしれませんが、祈りといっても、それは、要は、「父との会話」です。 「お父様、おはようございます」――これが祈りです。 毎朝起きた時、父である神様に対して、「おはようございます」と言わせていただくこともできますし、なにもしないという選択肢もあります。というように、私たちは、毎日、常に、神様と会話をさせていただくという選択肢があるのです。そして神は私たちに、24時間、耳を傾けてくださっている。 私は、皆様に、私たちの教団で進めているいろんなことや使っている言葉を、複雑で難しい言葉だと思っていただきたくないのです。なぜなら、神の愛というのは、私たちがするすべてのこと、また、私たちが使うすべての言葉――ご先祖様とか、祈りとか、恵みとか、栄光とかのすべての言葉――そのすべてを貫いているからです。 そして、すべての言葉を一つの言葉に集約すれば、それは「愛」という言葉になります。神の愛はすべてに満ちている。 神様は、「私は一部の方たちは救わない」と言われるようなご存在ではない。というか、神様は、すでに全人類とそのご先祖様を救われた。あとは、このすばらしい福音を知らない方々がいるだけのことなのです。そして世界メシア教の信徒というのは、この福音を知らせるという神様の御用のお手伝いをするために、私たちの中に存在するご先祖様にこの救いを大声で叫ばせていただくのが務めなのです。 内向的な性格でもいいじゃないですか。神様は私たちの中に生きておられ、常に私たちの声を聞いておられるんですから。人間の世界で称えられるようなすばらしいことは別にしなくてもいいのです。私たち一人ひとり、自分に与えられた役目を全うする、これが大事なことです。 ですので、ご質問にお答えしますと、神の愛について思い出させていただき、その神の愛に報いましょうと、そういうことを言わせていただきたいと思います。 ありがとうございました。