ホトトギス鳴いてましたね、今。 車の中で秘書の方と立ち位置をどうするかということで話していたのですが、秘書の方が、「立たれるところに目印となる石を置いておきます」ということだったので、私が、まさかその石のところに行ったら落とし穴があって落ちちゃうということはないですよね(一同笑声)とか言っていたのですが、本当に落ちなかったです、岩澤さん。落とし穴じゃなかったですね(一同笑声)。 今日は、天気がどうなるかということを数日前からずっと心配していまして、いろんなサイトの天気予報を調べて、いや、Yahooだと雨だけどこの別のサイトでは晴れだからこの晴れのほうを信じよう(一同笑声)とか、そんなことをしていましたが、近づくにつれ、天気は大丈夫そうだなということになりまして、でも、今度僕としては、天気大丈夫なのはいいけど、晴れすぎると、僕が長く話した場合、専従者の方にはテントが無いから暑すぎになっちゃうなとか――あ、でも今日はそんなに長く話しませんのでご心配無く(一同笑声)――でも、とにかくその心配もしてたんですよ。要は、晴れすぎても問題だなみたいなことを思っておりました。 そうしたらですね、今朝ある夢を見まして、それはどんな夢かというと、僕は「岡田真明」ではなくて第三者なのですが、なにか、岡田真明という人が話す講演会みたいのが夜7時から始まるということで、僕もその講演会に話を聞く立場として参加するんですね。講演が始まって、いろいろあって、それで夢の中で時計を見たら、7時27分となってまして、いや、でもどう考えても始まってから30分弱ということはないだろうと思っていろいろ確認したら、なんと、この岡田真明という人は、夜の7時から朝の7時過ぎまで、12時間(一同笑声)話してたんですね。12時間以上話してた。そんな夢を見て、で、起きました(一同笑声)。 おそらく、いつも私は長く話すので、そのことによって皆様に負担をかけてるんだろうなという、そういう自分の精神的ストレスからこのような夢を見たと思うんですけれども(一同笑声)、でもこれ、本当の話です(一同笑声)。本当にこんな夢を見ました。夢の主人公の第三者の方も、この人は12時間も話したのかとびっくりしてました。 今日はこんな大変すばらしいお祭りなんですけれども、夢の内容が面白くて皆様にお伝えしたいなと思いまして話させていただきました。 今教主様が祝詞を上げられましたね。この土地を聖別してくださった。我々が立って祝詞を拝聴している間に、このなんでもない土地みたいのが聖なる土地に変わったという、まさにその瞬間に我々は今立ち会ったわけですね。「火の聖地」が誕生したと、そういうことです。 また併せて教主様は、こちらの岩ですね(真明様、後方の岩をお示しになる)、皆様からはちょっと下の部分が見えていると思うんですけれども、この辺りの土地は岩がいっぱいありまして、この岩も、長年、お隣の越木岩神社さんにとっても大切な岩だったそうで、今までも、この岩を取り除くとか取り除かないということで、万物であるこの岩に関して人間の思いがいろいろあったわけなのですが、今、祝詞の後半で教主様は、この岩に対しても聖言をかけられまして、要は、長年御用にお仕えしてくださってありがとう、共に神様のもとに帰ろうじゃないかと、そういうことだと思うんですね。 皆様は、ここの土地についてあまりご存じないと思うので、私も大して詳しくはないのですが、少し説明させていただきたいと思います。 世界メシア教として聖地を造ろうということになったのが3年前ですね。それからいろんな土地を探しました。で、これは、全国いろいろ探したんですよ。明主様は、箱根、熱海、京都と来てさらに西へということですから、確かに漠然とは京都の西ならいいなとかは思ってましたけれども、そういうこととは関係無く、関東圏も中部も九州も含めて全国を探しました。 その中でいろんな候補が出てきまして、それについてはすべて理事長からご奉告を受けてたんですけれども、なかなかピタッとくる土地が無いといいますか、なかなかいい土地が見つからないという中で、ここの土地は、ある信徒の方が、ご自分の娘さんのお墓参りに行かれる時、ちょうどこの近くを通られるということで、この土地が空きに出てるということに気づかれまして、そして、ここ西宮は北陸関西教区ですので、この信徒の方は北陸関西教区の教区長の大野先生のもとに、こういう土地があるというご報告をしてくださった。 そしてまず、大野先生が実際にご覧になって、結果、今までの候補の土地に比べて条件としては非常に良さそうだということになりまして、で、そのご報告を理事長から私は受けまして――最初は書類ですけれども――それで、いや、本当に良さそうな土地だなということで、2年前の立春祭は2023年2月5日だったのですが、それが神戸で行われましたので、その翌日の2023年2月6日、成井理事長にご案内いただいて、私はこの土地を初めて見ました。 その時の印象としては、まず、眺望が非常にいいということと、あと、越木岩神社さんの隣ということで、なにか、土地的にも聖地となるのに非常にふさわしい場所なんじゃないかということを思いまして、それで購入の方向に進んでいきまして、それから約1年半とか2年近く、元の土地の所有者の人といろいろやり取りを重ねまして、それで最終的に、今我々がいるところを去年購入したと、そういう流れですね。 購入したら、今度は地鎮祭・聖別式をしようということになりますが、そのタイミングで、今度は、ちょうど県のほうがこの辺りの道路の拡張工事をするということになったんですね。 その拡張工事の影響で、今年の6月末からは、一時的に、この敷地内に一般の人が通ることになるんですね。だから、今日は6月8日で日曜日ですけれども、6月末からは、土日関係なく、一般の人がこの敷地内を歩いていくことになる。 だから、もしその時に地鎮祭をしていたら、そういう人たちに向かって、「お騒がせしてすみません」とか言いながら(一同笑声)やらなければならないことになってしまう。 ですので、今年の立春祭くらいでここの土地だということが確定して、私は4月くらいにここを一旦見にきたわけなんですが、6月末には一般の人が来るようになるなら、もう5月か6月くらいしか地鎮祭・聖別式をさせていただくチャンスが無いと、そうなったわけですね。 そうしたらちょうど今年のペンテコステが6月8日ということで、ペンテコステと言えば、今日は皆さんも赤いバッジをしていらっしゃると思いますけれども、「火」ですね。であれば、「火の聖地」の聖別式に大変ふさわしい日ですね。 キリスト教の教会ではペンテコステの日は、なにか赤いものを身に着けるという習慣があるそうで、要は、ペンテコステの時に炎が降ってそれが弟子たちの上に留まったということで、炎とか火ということと関連してるので赤いものを身に着けるわけですね。 ちなみに皆様からは見えないと思いますが、今日は、母もマミも赤いものを身に着けてますよ。母は胸元にブローチ、マミは首の周りのスカーフ。僕は、バッジ以外は、下着は真っ赤な下着を、、、着てません(一同笑声)。 とにかく、我々みなで赤いものを身に着けて、そして、ペンテコステの時に降った火と霊のバプテスマを共にお受けしようじゃないかと、そういうことです。 例えばもし一般の人が5月の末からこの敷地を歩道として使うことになっていた場合、今日、ペンテコステの日に聖別式はできなかったんですよ。いや、できたことはできたでしょうけれども、普通に、アイスクリームかなんか食べながら若い人が私たちの横を歩いちゃいますから、だから、「なんかすいません」みたいになっちゃいますのでね、事実上難しいということで、5月中に挙行しようとか、そうなったと思います。 しかも、これはあり得ませんが、今は工事を月曜日から金曜日までしていますので、もしペンテコステが平日であれば、工事でドドドドドッとしている中で地鎮祭をしなければならなかった。でも、まあ、ペンテコステは毎年日曜日なので、その点は大丈夫ですね。 教団のほうでは、最初100名くらいの参列をイメージされていたのですが、マミと私は、可能な限り目一杯の方が参列されたほうがいいのではないかと思いまして、で、スペースとしては、前はもうこれが限界ですね。これ以上前にいきますと、教主様がお参りになる時、坂を登りながら正中を進まれることになってしまいますので(一同笑声)。で、後方も、現在より後ろになりますとカーブになってしまいますから、あそこが限界なわけです。 私とマミは、地鎮祭・聖別式を具体的に聖地内のどこでするかの確認をしたくて、先月の5月もここに来たんですけれども、その時に今言った範囲を提案しまして、そしたら、じゃあ、目一杯で300名ぐらいはいけるねということで喜んでいたのですが、まさにそんな話をしている時、その日は平日で工事をしてたのですが、トラックが私たちの横をバババババッと通り過ぎていったと思ったら、まさに今、後方の3、4列目くらいの位置のところに大量の岩をボボンッと積み下ろしまして、いやー、この岩はどうやってどかすのかなと頭を抱えていたのですが、きっと、今日までのいつかの時点で業者の方がどけてくださったんだと思います。 山側に座っておられる方は、隣に大量の岩が積まれているのでちょっと怖いですね。でも、岩は落ちてこないと思いますけれどもね(まゆみ奥様が「みんなで止めます」とご返答になり、一同笑声)。そうですね。みんなで止めるしかないね。みんなで止める。 そんなこんなで、結果、今日、ペンテコステの日に執り行うことができました。 で、ペンテコステということを思う時、やはり、明主様の1954年6月5日。71年前ですね。その年、1954年のペンテコステは6月6日だったんですけれども、その前日の6月5日に明主様がいわゆるメシア降誕の聖言、「ずいぶん若くなってるよ私のほうは」「生まれ変わるというんじゃない、新しく生まれるんだ」というメシア降誕の宣言をなさった。僕は、このこととペンテコステは非常に関係があるんじゃないかというふうに思うんですね。 先月の月次祭でも言いましたように、ペンテコステというのは、キリスト教においては、その時に聖霊が降ってそこから宣教を開始しましたので、キリスト教会誕生の日であり、宣教開始の日でもあるとされている。 6月5日。 今日から3日前の6月5日何が起きたかというと、今日もご参列になっていますが、仲泊名誉会長がその日文化庁に行かれまして、宗教法人世界メシア教としての認可の交付を受けたのが、この6月5日です。3日前。だから、宗教法人世界メシア教が誕生したのは3日前ですね。 これも、いつになってもよかったんですけれども、結果、ちょうど6月5日になった。単独の宗教法人世界メシア教が誕生したのは6月5日。おめでたいですね(一同拍手)。 なにか妨害みたいなこともあるかなと思ってたけれどもなにも無かったですね。よく分からない団体が「世界メシア教」という名前を使って登録しようとするとかね、そんなことも思いましたけれども、なにも無かったですね。 今まではややこしかったですものね。今までは、「宗教法人名は『世界救世教主之光教団』のままで、宗教活動を世界メシア教としてやっていく」――これだったですからね。 でも、これがなくなって、これからは、宗教法人も世界メシア教です。これがスタートしたのが3日前の6月5日であって、そういう非常におめでたい中、教会誕生とか宣教開始とキリスト教でされているペンテコステの6月8日の今日、このように地鎮祭・聖別式をさせていただいているのは、やはり、私たちでは分からない神様・明主様のご計画があるんじゃないかなと、そう思います。 今日、一点だけちょっと宗教的な内容としてお話ししたいなと思うことがありまして、それは、「感謝」ということについてです。 感謝ということはよく言われますね。感謝する。ありがたい。なんにでも感謝する。浄化に感謝しなさいとか、ありますね。「ありがとうございます」という言葉を発するのがいいんだとか、世の中でもよく言いますね。 感謝行みたいなことですね。「とにかく、ありがとうございます、と言おう」みたいなことで、これは世の中でもみんなこんなことを説いています。感謝するのはいいことだ、ということで。ま、確かにいいことですよ、感謝をするのは。 でも、我々が思いを向けなければいけないのは、ペンテコステの聖霊のこと。このペンテコステの聖霊の発動によって、世の中は本当に一変したんですよ。一変した。 だって我々は、霊の洗礼を受けたことによって罪赦された者となって、生きることができるようになったんですからね。 だから、そもそも、生きてなければ感謝もできないんですよ、当たり前のことですが。生きてなければ感謝すらできない。だから、世の中では、感謝が大事だとか、「有り難い」なんだから、難が有るのに感謝するのが本当の感謝なんだとか言いますけれども、ま、それは確かにそうですね。世の中で起きるいろいろなことについて、あなた方はこれは悪いことだと思ってるかもしれないけれども、本当はこれは悪いことではない、いいことなんだ、だから感謝しなさいと、ま、それは確かに事実ですよ。 今我々の人生で起きていることで悪いことは一つも無い、本当は。悪いことは一つも無い。 でも、というように、「もはや悪いことが一つも起きない」という世界に変えたのが二千年前に降ったペンテコステの聖霊なんです。 だってそれまで我々は、我々の罪が赦されるか赦されないか分からない存在だったのが、二千年前このペンテコステの聖霊が発動したことにより、世の中は、いいことも悪いことも起きる、という段階から、何が起きたとしても、すべて神様のもとに「いいこと」として帰るという、そういう人類にとって全く新しい段階に入ったんです。 これ、二千年前からですよ。いや、もちろん神様はね、それよりさらにずっと昔、そういうすばらしい世界の礎はすでに築いておられたんですけれどもね。 だから、「ありがたい、ありがたい」とか、「ありがとうございます」と私たちは偉そうに言いますけれども、そもそも、ペンテコステの聖霊のおかげで、そういう感謝をさせていただける世界になったんです。感謝をしてもいい世界に入ったんです。要は、「すべて起きることはもういいことだ」という世界になっちゃったんです。難が有ってもありがたいと思える世界に入った、ということです。 ペンテコステの聖霊がなければ、たとえ「難が有っても感謝しなさい」と言われても、実際は大変なことが起きちゃうかもしれない、もしかして死んじゃうかもしれない、火に燃やされちゃうかもしれない、罪人と定められちゃうかもしれない、となるわけですから、たとえ感謝しても未来への不安はずっと残るわけです。 だから、世の中の人が「感謝しなさい、感謝しなさい」とか、「悪いことがあっても感謝しなさい」とか言って、それを聞いた我々が、ああそうなんだと言ってそれを実践できるのは、そもそもペンテコステの聖霊のおかげでそういう世界に変わったからなんですよ。 でもこれ、世の中でほとんどこんなこと言いませんよ、普通ね。 要は、感謝しなさいということはみんな言うけれども、「感謝できるような世界にしてくださったじゃないか」ということはほとんど誰も言いませんね。 でも、これは大きな違いですよ。感謝しなさい、感謝しなさい、はい分かりました感謝します、ということは確かにいいことなんだけれども、ペンテコステの聖霊は、そもそも我々が感謝できる土台を造ってくださったということですね。 だからそういう世界というのが、イエスの贖いの血と、イエス復活50日後に降ったペンテコステの聖霊により、天上ですでに定められた神様の祝福がこの地上にも顕現されるという状況になったんです。 だから、確かに、都合が悪そうなことに対して感謝したらなにかいいことが起きることはありますよ。それはなぜかというと、ペンテコステの聖霊に宿されている力にほんのちょっと触れるから、神様の力を少しだけ見せてあげるよとなるわけです。 もしあなたが、今この世の中がすでにいいものであり、もう悪いことは起きないんだと認めるならば、少しはあなたの人生にとってプラスのことを起こしてあげるよということで、不都合に感謝をしたらいいことも起こり得るんです。 私は今、感謝しちゃだめだと言ってるんじゃないですよ。だけど、「感謝をさせていただける土台がある」ということを認めることが、感謝することよりももっと大事なことなんじゃないかと言いたいわけです。 そう考えると、感謝どころか、呼吸すること、友達と話すこと、食事すること、もう全部ですよ。イエスの血とペンテコステの聖霊が無ければ、生きることに関わるなにもできないですよ。感謝どころか言葉も使えない。 言葉を使わせていただける。呼吸をさせていただける。家族を持たせていただける。朝起きてテレビを見たり、いろいろ考えたり、友達と会ったり、あるいは宗教活動を進めるとか、もうすべてですよ。 それを可能にするという大変なことが二千年前に成し遂げられて、その大変なことを明主様は夜昼転換ということで感得になられた。 これからは、夜の時代ではなくて、もう昼になっちゃったんだということ。昼ですよ。今我々はもう昼の時代に生きてるんですよ。 だとしたら我々は、一生懸命喜怒哀楽の人生を生きて終わるために生まれたのではなくて、すべてを救いに来るためにこの地上に生まれた。ペンテコステの聖霊を天上で受けたことによって発動した力を持たされて地上に遣わされて、そして今、すべてを神様の栄光の現れとして天上に持ち帰って、そして、すべてのものに天上の祝福を与えるというそのために生きている。もう、全く新しい昼の世界に入ってるんです。これは大変なことですね。 我々の人生というのは、我々一人ひとり苦労して生きてるみたいだけれども、本当はそうではなくて、祝福を分け与えるということのためにある。 だから我々は、なにか、必死に神様にお仕えするとか、感謝をしなきゃいけないとか、これをしなきゃいけないというように義務的に考えるのではなくて、神様は我々に対して、永遠の命を与えるよ、呼吸してもいいよ、ありがとうと言ってもいいよ、なにか食べてもいいよ、なにか思ってもいいよ、頭を使って考えてもいいよ、というその絶大なる自由を与えてくださっているわけですから、我々の人生というのは、その神様への恩返しですね。 ですから、私たちの宗教活動というのは、この闇にまみれた世界を少しずつより良い世界にするという戦いの活動ではなくて、本当は、もう「より良い世界」になってるんです。でも我々は、自分たちがどういうところから救われたかということが分かってませんから、だから、闇の時代の名残みたいなことでいろんなことに出会わされるわけであって、それらのことを、日々の生活の中で、「私のもとに持って帰ってきなさい」という神様の御用に使われてるわけなんですね。 宗教法人世界メシア教が先日の6月5日に誕生して、今日の6月8日のペンテコステは、文字通り世界メシア教の誕生日であり宣教開始の日なわけですけれども、でも、そもそも「宣教する」という力すらも私たちのものじゃないんですから、偉そうに「今日は宣教開始の日だ」と言えることでもないんですね、本当は。 我々は、二千年前にペンテコステの聖霊を受けて、そして、もう死なないという存在になった。赦すと言っていただいた。赦されるというのは大変なことですよ、本当に。神様は、あなた方を赦す、そしてあなた方は生きていいよと言われているんです。 そう考えると、感謝しますとか、呼吸法がどうとか、こういう宣教してますとか、布教してます、どころじゃないんですよ。だって我々は、まず、「生きていいよ」と言われてるんですから。死なないよ、あなた方は永遠に死なないよ、生きていいよと言われている。 我々は、この地上で、自分ができる御用は何も無いとか、もう自分の人生なんていいやのようなことを思うかもしれませんけれども、本当は、すでに絶大なる神様の恩寵を賜っているんですから、我々ができることはあとは恩返しだけですね。 だから、宣教といっても、それは恩返しです。 神様にここまでの恵みを与えていただいたことに少しでもお応えしたい、ということを、死んで、神様のみもとに行ってからそれを開始されてもいいけれども、ま、今ね、その業にお仕えするという千載一遇の機会が来てると、そういうことです。 イエスの成し遂げた十字架の業、ペンテコステの聖霊、そして明主様がそれらを夜昼転換として感得されて、しかも明主様は最終的に、永遠に生きる人類の型としてのメシアとして新しく生まれるというのを我々に見せてくださったわけですから、我々を妨げるものはもう何も無いんですね。我々を妨げるものは何も無いし、神様は今、すべてをご自分の栄光の現れとして迎え入れたいわけなんですね。 今まで我々は、何十年間、ペンテコステの聖霊なんてほとんど意識せずに来た。でも、明主様の夜昼転換として大切な6月15日、私たちはずっと地上天国祭をしてきましたよね。 僕は、明主様が6月15日を非常に大切にされてたのは、このペンテコステのことだと思いますよ。だって夜昼転換を感得されたのは6月のペンテコステの時期と合ってますものね。 私たちはこの日に地上天国祭をずっとしてきましたけれども、地上に天国を造るのはペンテコステの聖霊の力あってこそですから、だから、明主様が6月15日を大切にされてたのは、ペンテコステを大切にされてた明主様のみ心の現れだと思いますね、私は。 このことを明主様がどの程度明確にご認識になっていたかは分からないけれども、明主様の直感でこの時期は大切なんだと思われたんだと思います。で、それが我々のご神業の土台ですよね、夜昼転換が明主様の土台なんですから。 だから今日我々は、世界中の全人類及びその父母先祖、イスラエルに結び連なる人類の代表としてこの場にいるんですから、「確かに二千年前ペンテコステの聖霊を受けておりました」「赦されて永遠に生きる者としていただきました」という確信をもって、そして、神様の計り知れない恩寵にお応えする人生をこれから歩むと、そういう決心をしたいと思います。 二千年前、イエスの弟子のペテロたちもペンテコステの聖霊を受けて、そこから、一生懸命、受けた恩寵を一人でも多くの人に伝えたいということで努力されたと思うんですけれども、そのペテロたちが受けたことが、二千年の時を経て、日本というところに到達して、それを今我々が受けようと決心しているわけですね。 ペテロという岩の上に私の教会を建てるとイエスは言いましたけれども、この土地も岩ですよ、岩。 というように、ペテロたちは最初の役割を果たした。で、その後、神様のほうのいろんなご都合があって真実をぼやかしておられたのが、二千年経って今、再び、イエスを通して、また明主様を通して、神様が人類に与えようとされていた真実、それを今我々は直視しているんです。 だから我々は、聖霊に対する大いなる畏れを持たないといけない。畏れとまた感謝、ということなんだけど、感謝するなんて偉そうに言えないですね、言えないけれども、お受けしますということしかないわけですから、ペンテコステの聖霊を確かにお受けしておりましたと言わせていただく。 よく、ペンテコステの聖霊の話を聞いても分かりません、その話分かりませんということを言われる方がいますね。分からない、難しい話だなということ。 でも、今私が話しているのは、難しいとかそういうことではなくて、事実なんですよ、事実。 例えば、あなたは子供の時にこのおもちゃの車に乗って遊んでたんですよ、というのは事実ですね。というように、ペンテコステの聖霊を二千年前我々が受けてたのは事実なんです。 親に子供の時のことを言われて、「なかなか難しい話だな」「覚えてないので理解できません」とは言わないじゃないですか。でも、このペンテコステの聖霊の話を宗教的教えとして受けとめようとするから、「難しい」となるんですね。でも、これは事実なんです。二千年前皆様お一人おひとりペンテコステの聖霊を受けてたのは事実であり真理である。 だから、「あ、そうですか」しかないんですよ。「あ、そうですか」ですよ、我々が取るべき反応はですね。 教えとして受けとめれば、難しい、分からない、となりますよ。でも、もう記憶も無いような子供の時自分がどうだったかなんて分からないけれども、今、教主様を通して、あなたは子供の時こうだったんですよと言われてるわけですから、その事実を、「あ、そうですか」と言って素直にお受けしたほうがいいと思いますね。 ということで、なんだかんだで結局結構話しちゃいましたけれども(一同笑声)、話し過ぎると誰かがなんかのボタンを押して、そしたら私の立っているところに穴が開いて私が下に落ちちゃうということがないといいなと思いますよね(一同笑声)。「真明様はもう30分以上話しましたので」とかいうことで誰かがボタンを押してしまう(一同笑声)。 (まゆみ奥様が「大丈夫!まだ12時間経ってないから」と仰せになる)今母が、「12時間は話していい」と言ってました(一同笑声)、僕の夢の話と同じで。 メシア教には、全国にも世界中にも信徒いますよね。今日は海外からも来てくださいました。ですので、みんなで教主様のもと、楽しく歩んでまいりましょう。だって、もう悪いことは起きない、いいことしか無いわけですから、本当はね。 でも実は、そう思うのが難しいんですよね。だって我々はいろんなものを携えてますからね。だから難しいんですよ。その難しさに直面して歩む営みが人生そのものですね。でも、難しいけれども、何が起きてもそれは神様の栄光の現れなんですから、とにかく大丈夫なんです。 ということで、共に支え合いながら、このすばらしい恵みを賜った今日を機に、また一致団結して歩んでまいりましょう。 ありがとうございました。