皆様、こんにちは。 今のビデオ(秋季大祭上映「真明様アンゴラご巡教 大いなる旅路」)、僕のことは置いておいて、出来がすばらしいですね(一同拍手)。 専従者の方が制作されたわけですけれども、プロの方が作った本物のドキュメンタリーのようですね。 今参拝席で皆様と見てたわけですが、自分の顔が大きくスクリーンに出るから、いや恥ずかしいな、どんな顔して見たらいいんだろうと思ってたら、その様子を撮りに広報の方が来られまして(一同笑声)、スクリーンには自分が映っていて、でもスクリーンを見てる様子も撮られてるし、どういう顔したらいいんだろうと思って、とにかくちょっと笑っておきましたけれども(一同笑声)、でも、今も左右のスクリーンに映っちゃってますね。逃げ場が無い(一同笑声)。 ビデオの中でもありましたように、アフリカの飢饉を無くすプロジェクト、これが始まるということで、壮大な話ですね。ワクワク感とか、未来への楽しみとか、希望とか、そんなことに携わっている団体に属している幸せだとか、そういうことを感じます。 飢饉を無くすプロジェクト。飢饉というのは、食べ物が無いということですが、これは、明主様が仰せの病貧争の中では、貧ですね。 でも、病貧争の貧と言っても、明主様にとっては貧の元は病です。今日の明主様の聖言でもちらっとありましたけれども、とにかく病の解決が大事なんだと、そういうことですね(「一つの苦しみ」1950年6月3日)。 飢饉を無くすプロジェクトということは、アフリカに食べ物を供給するということですが、これも、どんな食べ物でもいいかというとそうではなくて、明主様が「ミロクの世は菜食」と仰せになったように、菜食を通して病(やまい)を解決していくということであって、菜食ということは、穀物とか根菜とか野菜とかフルーツとか、そういう物ですね。 だから、アフリカで進めようとしてるのは、飢饉を無くすプロジェクトでもあると同時に、根本的には病を無くすプロジェクトじゃないかなと思うんですね。明主様にとっては、病を解決することによって貧も争も解決するんだということですからね。 というように、病の解決というのは明主様のご生涯の一大テーマですね。世の中を見ても病だらけじゃないか、だからなんとかしたい、というのが明主様ですから。 で、この病。明主様にとって病の原因ははっきりしていましたね。薬ですね。明主様はもうそれをずっと仰せになりました。薬の弊害。 それと肉ですね。肉食は血を濁すということを仰せだった。だけれども、一義的には薬ですね。結局薬が血を濁して、それが病を作ってるんだというのが明主様がずっと仰せになってたことですね。つまり薬毒ですね、薬毒。 薬毒という言葉は皆様最近あまりお聞きになっておられないかもしれませんけれども、明主様はもうこれを何回も何回も仰せになった。薬が良くないということを繰り返しお示しになった。 これに対して我々の中には、明主様、そうは言っても薬効いてます、薬によって体調良くなりました、ということを言いたい方もおられると思うんですけれども、間違えてはいけないのは、明主様は、なにも、薬は効かないとは仰せになってないんですよ。明主様は、薬は効くんだ、むしろ効き過ぎるんだと仰せになった(「薬毒」1950年4月20日)。 なぜ薬が効くのかというと、そもそも病気というのは、身体が元気な時に、身体が汚いものを出そうとして起こるものである。つまり、元気だから病気になるわけです。 だけど、明主様が仰せなのは、薬というのは元気な人間を弱める。弱まると、今度は、身体に溜まったいろんな老廃物とか、そういう汚いものを出す力が無くなって病気が止まる。だから、薬が効いてるように見えると、そういうことです。 世の中でも、単に薬と言っても強さの段階があって、まず普通の薬、次に強いのが劇薬、次にもっと強いのが毒薬。これ、皮肉にも医学界でも毒という言葉を使ってしまってますけれども、でも、お医者さんから渡される時には、別に「これ毒薬ですよ」と言って渡されはしないですよ(一同笑声)。ただ、薬ですよ、と言って渡されますね。 というように、基本的には、一番強いのが毒薬で、次に劇薬なんですけれども、劇薬というのは、ある程度の量を与えるとモルモットと言いますか、マウスとかネズミ、が100匹中50匹死んでしまうのが劇薬で、毒薬というのはその10倍強い物。だから、劇薬で与えたのと同じ量の毒薬をモルモットに与えたら、簡単に100匹全部死んじゃう。 というように、薬というのは血の通(かよ)った生(せい)物(ぶつ)を殺す、薬を通して生物を死に向かわせるわけで、人間も生物ですから、人間に与えれば当然人間は弱まりますよ。生きる活力が弱まる(「健康の自由主義」1953年)。 モルモットが死んじゃうんですから人間も弱まりますよ。生命力が無くなる。結果病気は治まったかのように見えて、我々は薬が効いたと錯覚するわけです。 だから、病院に行ったら、検査されて、いや、こういうのありますよと言われてしまって、そしたら、検査、薬、検査、薬ということで、もう一生抜けられませんよ、下手したらね。 僕は、なにもこの場で西洋医学を否定しようとしているわけではない。ただ、こういうことを明主様は仰せでしたよということをお伝えしている。もちろん、必要な西洋医学もあると思いますよ。ま、明主様にとってはほとんど必要無いということで、それを強く訴えられましたね。 どちらにしろ、今の世の中で正面切って西洋医学を否定すると、教団に対していろんな批判、攻撃もありますので、今の時代においては、西洋医学についてどうするかというのは、一人ひとりの判断に託されているのだろうと思います。 教団のほうが医学についてなにか公式見解を出すことは無いし、判断は一人ひとりに委ねられている。でも、少なくとも僕は、今お話ししたような、明主様が医学について仰せになってた精神、生き方、これは真正面から受けとめて私自身は自分の人生を歩んでいきたいなと、そう思っています。 もう一つの病の原因としては肉ですね。明主様は肉食は血を濁すということを仰せになった。 例えばですが、このことを我々はあまり知らずに来ましたけれども、昔、明主様のところに病人がいろいろ来た時に、明主様はご浄霊もされたけれども、食事は菜食を与えておられたんですよ。浄霊と菜食。これが治療方針。そして、菜食の効果が非常にあるよと、ほとんどみんな良くなるよということを仰せだった。 そういうご事蹟があるのに、我々は、だいたいみんな好きな物を食べたいですから、こういうことを継承せずに、また、あまり取り上げずに今日まで来たんですけれども、明主様はそういうことをされてたんですよ。 というように、薬と同様、肉食が血を濁して病を作るということなんですから、アフリカの飢饉を無くすプロジェクトというのは、飢饉を無くすと同時に、菜食によって病を無くすプロジェクトでもある。 明主様が、「ミロクの世は菜食」と仰せになった時、当然、ミロクの世において人類は病をしてない状況を想定しておられるわけですね、明主様は。明主様の言われるミロクの世はみんな病気で苦しんでいる世ではない。そして、その時にみんな菜食してるだろう、ということですね。 だから僕は、このアフリカのプロジェクトというのは、飢饉を無くすプロジェクトでもあるし、病を無くすプロジェクトでもあると、そう思っております。 少し話を変えますが、今回、アフリカに土の聖地ができたり――東京ドーム7個分の大きさということで、あまり想像つかないですけれども、とにかく広大な敷地ですね――また、今お話ししたように飢饉を無くすプロジェクトが行われるということになってきているわけですが、このようなこと、1、2年前の我々の誰がそんなことを想像しただろうか。誰も想像もしていなかったと思いますよ。そんなふうにご神業が展開していくということを誰も想像していなかった。 だけど、明主様が臨まれて、今、ものすごいスピードでそういうことが起きている。いろんな展開があって、ご神業がどんどんどんどん進んでいる。 そうすると、付いていけない、ということを言われる方々が出てきますね。今日来られている皆様はそんなことは無いと思いますけれども、皆様の周りの、皆様がお世話をされている信徒の方とかの中で、今のいろんな変化に付いていけない、メシア教のご神業に付いていけないと言われる方もおられるのかなと想像します。 でも、もし今のメシア教のご神業のスピードに付いていけないんだとしたら、我々は、明主様時代のご神業のスピードにはとうてい付いていけないですよ。 我々は、明主様のご神業ということを考える時、「明主様信仰とはこういうものだ」というのが自分の中にあって、それがただ、百年も二百年も三百年も続いていく、先祖代々それを守っていくみたいなイメージを持つかもしれません。明主様がご昇天になって残された我々は、なんか明主様信仰というのをカチッと固めて、これが明主様信仰だ、ということで行きたい。でも、明主様ご在世中の明主様のご神業の展開の速さは、もう想像を絶する速さですよ。 少し我々のことを考えてみますと、我々はずっと明主様のご神業のいろんなことに向き合ってこなかったわけですが、それと向き合って、本格的に今の道を歩み出したのは、やはり2017年の立春からですね。 この時教主様が立ち上がってくださった。というか、教主様はずっと立ち上がっておられたんですけれども、教団が、教主様を排除しよう、黙らせようとする動きになった時に教主様が立ち上がられたのが2017年の2月ですね。立春。 今は2024年の10月なので、その時から今日まで、だいたい7年8か月ですね。まあ約7年半経った。2017年の2月の立春から今日まで約7年半。その間、世界メシア教が復活したりとかいろいろありました。 明主様のご神業ということで考えますと、明主様のスタートはもちろん1935年1月1日の大日本観音会発足の時ですけれども、実際には、戦前戦後は日本の混乱期であって、明主様が元々所属していた大本が弾圧されたりしましたので、事実上は何も本格的にはできず、明主様が本格的にご神業を開始されたのは、やはり戦後、日本において信教の自由が保障されて、1947年8月30日に日本観音教団を立ち上げられて、そこからですね。明主様は、その時からたくさんご論文とか、ご講話とかを出された。ですので、明主様にとっては、基本的にはこの時がご神業の本格的なスタートですね。 ここからスタートされて、1955年の2月10日にご昇天になるまで。この期間。ということは、日本観音教団発足が1947年8月30日ですから、そこからご昇天になるまで約7年と5、6か月だから、ま、7年半ですね。 だから同じぐらいですね。教主様が立ち上がられてから今日まで約7年半。明主様が本格的にご神業をご開始になってからご昇天まで約7年半。 この7年半の間の明主様のご神業の展開は、もうすさまじいですよ。 今も言いましたように、我々は、明主様のご神業というと結構固定的に捉えるわけです。現在から過去を見ますから、結構固まって見えるわけですね。でも、全然そうではないですよ。 どういうことかというと、そもそも日本観音教団を立ち上げられた時、その前は宗教じゃないということでされてた。岡田式浄化療法、日本浄化療法、ということでやっていた。 でも、それから、宗教として日本観音教団を立ち上げられたら、なんだ宗教なのかということでたくさんの方々が明主様のもとから離れた。 だから明主様は、スタートからいきなり教団の根本的なありようを変えておられるわけです。いきなり、非宗教から宗教だということです。この変化は大きいですね。明主様は、スタートからいきなり、非宗教だったものを宗教にされた。 その1年後には、日本観音教団はそのままで、二つ目の団体として日本五六七教会を立ち上げられる。これが1948年の10月30日ですので、日本観音教団を立ち上げられてからちょうど1年2か月後にそのようなことをされて、日本観音教団と日本五六七教会、この二つの団体を両輪のようにしてご神業を進めていくというご構想を明主様は打ち出された。 ということでこれからは観音とミロクなんだと思ったら、もうそこから1年ちょっとしか経っていない1950年の2月4日、ご存じのように世界救世(メシア)教になるわけです。日本観音教団も日本五六七教会も解散させてしまって、これからは世界メシア教なんだとなった。これ、日本五六七教会を立ち上げてからたった1年と3か月くらいですよ。 最初の団体名は大日本観音会ですから、ずっと観音、ミロクという仏教的な名前を使われていて、仏教的なのかと思ったら、いや、世界メシア教なんだということで、メシアというキリスト教的ワードを使われて、しかも世界メシア教はキリスト教と呼応していく、仏教は夜の時代の救いで、仏教はもう終わりなんだ、仏滅なんだと仰せになった。 この変化もすごいですね。非宗教から宗教になったのもすごい変化でしたが、日本五六七教会を立ち上げられてから1年ちょっとで、もう仏教を止められて、キリスト教的な団体として進んでいこうとされた。 もはや教団のアイデンティティの根幹的なところを変えておられますね。いや、明主様にとっては全然変化無いんですよ。だけど信徒にとっては、「観音とかミロクだったのがメシアになるんですか?キリスト教と呼応するんですか?仏滅なんですか?仏教滅びるんですか?」ということですから、大変な変化ですね。 また、その1950年には、例えば機関紙も、『光』という機関紙だったのが、『救世(メシア)』になって、その同じ年の内にまた『栄光』に変わりました。 だから、機関紙に1年で三つの名前を使われています。『光』、『救世(メシア)』、『栄光』。 その1950年の年末になったら今度は「浄霊法変る」。浄霊法も変えようじゃないかということですね。この変化。 翌年の1951年には「おひかり」についてのことがありますが、そもそも「おひかり」は明主様時代は「お守り」という呼称ですからね。「おひかり」とは呼んでなかった。 その「おひかり」、今まではずっと「光、光明、大光明」で来ましたね。もちろん、皆様ご存じのように、メシア教においては、神様の光に区別は付けられない、一人ひとりの信徒は平等に神様の大光明をいただいているということで、「大光明」のみですけれども、今までずっと「光、光明、大光明」で来ましたね。 これが始まったのが1951年。その前は「浄、浄光、大浄光」だったんですね。これが1951年の7月に「光、光明、大光明」になった。 で、そういう宗教的なことばかりなのかというとそうではなくて、聖地とか美術館建設みたいなことも展開しておられて、翌1952年にはご存じのように箱根美術館を開館されました。 と思ったら翌1953年は今度は自然農法普及会発足。我々は農業もやるんだと、そういうことですね。そしてもう翌1954年には脳溢血のご浄化でお倒れになる。 こうお話ししていますと、人によっては、いや、明主様はいろいろ変えられたけれども変わらないものがある、それが浄霊じゃないかと言われたい方もおられるかもしれませんが、それも違うんですよ。 浄霊についても明主様は、脳溢血のご浄化でお倒れになった時、浄霊は二の問題なんだ、想念の世界に入ったんだということを繰り返し仰せになった。 普通、明主様信仰と言えば浄霊ですよ。その浄霊を明主様は、最晩年にもうあっさりですよ、それは二の問題なんだと仰せになって、そしてそのまま翌1955年にご昇天になるんですけれども、その時も、ただご昇天になったのではなくて、これから皆さんに奇想天外な話をしていくということを仰せになってご昇天になった。ということは、またなにかもっと新しい展開を考えておられたわけです、明主様は。 今さっと見ただけでも、たった7年半で、明主様は大変なことをされてますね。すさまじい変化ですね。 だから、もし今のメシア教のご神業の展開が速い、付いていけないと思うようなことがあれば、我々は明主様時代にはもう一瞬にして振り落とされてますね。明主様はどんどんどんどん、新しく新しく、先に進まれますから。 メシア教にとっては千年が10年なんですからね。世の中の千年分をメシア教は10年でやっちゃうと、そう明主様は仰せになった。 そうだとして、ではなぜ明主様はここまでのスピードをもってご神業を展開されることができたんだろうか、というと、それは、僕は、明主様の御歌の、「只神の御心に叶ふやうにせよ人の目口に心惹かれそ」、これだと思いますね。 ひたすら神様の御心を叶えたい、御心を成し遂げたい。人の目口、ということは、人にどう思われるかとか、人の評価とか、社会でどう思われるかとか、そのようなことに心惹かれないで、自分はただ神様の願われてることを実現したいと、それが明主様のみ心ですね。 明主様はいろいろ新しいことを出される時、いつも、「これはご神意で」というようなことを仰せになっておられますね。「浄霊法変る」の時もそうです。これは神様が示されていることなんだから、私の言うことをそのまま受け入れてほしいと仰せになっている。 そう仰せになるということは、「人の目口に心惹かれ」てしまう要素が信徒の中にあることを分かっておられたからですよ。 でも明主様は、神様の願いが一番大事じゃないかということを訴えられた。 だって、普通、人の目口を優先したら、宗教にして人が離れていくことは想定されるわけですから、わざわざ宗教としないですよ。そのまま岡田式浄化療法、日本浄化療法ということで、非宗教ということでやればいいじゃないですか。だって、宗教なら嫌だということでいっぱい離れちゃったんですよ、信徒が。 日本はキリスト教国か仏教国かと言ったら、完全な仏教国ですよ。その日本において明主様は、もう仏滅なんだと仰せになった。人間の都合を考えれば、仏教も大切だよ、観音もミロクも大切だよと言ってるほうがよっぽどいいですよ。 浄霊のことも、いや、信徒は一生懸命浄霊してますということに対して、明主様が、「そうなんだね」ということであれば、浄霊は二の問題なんて絶対言われませんよ。 人の都合を優先すれば、人の目口を優先すれば、明主様がされたこと、一つも起きてないですよ。宗教団体が立ち上がることもないし、世界メシア教にして仏教はもう終わりだと仰せになることもないし、これから想念の世界に入ったと仰せになることもないし、ミロクの世は菜食だということも、いや、みんな好きな物食べたいでしょうからということであれば、明主様はそんなこと言われないですよ。誰が好き好んで菜食なんて訴えるんですか? でも明主様は、人の願いではなくて、神様の願いがそこにあると感じられるから、たとえ人が離れたとしても自分は神様から流れてくる御心というのを表現しなきゃいけないと思われたんです。 というように明主様はそういう生き方を貫かれたんですけれども、明主様ご昇天後の我々はどうだったかと言ったら、結局我々は明主様のように、ただ神の御心に叶うという生き方はできませんから、神か人かと言われたら人を取る。取りたいわけです、我々は、人を。 それで結局人に受け入れられることを主体にしていって、じゃあ宗教色をちょっと消そうじゃないかとか、文化活動してますということにしようとか、自然農法も、神様を出すよりも、むしろ、大自然の力がどうだとか、そういう、人に受け入れられるあり方、社会に受け入れられるあり方に変えていった。これですよね、我々の今までの歩みは。 美術館のことは人や社会に受け入れられるからこれを強調しようじゃないかとか、明主様が昔にもう止めた活動をするとか、オウムの問題があって以降、宗教ということだと人の目口が気になるから宗教はあんまり出さないほうがいいとか、そんなことで、もう完全に人の目口に心惹かれてますよ。明主様が仰せになったことよりも、どうやったら人に受け入れられるか、どうやったら社会に受け入れられるか、これだけですよ、我々の焦点は。 だから僕は、2017年立春祭以降の世界メシア教の歩みというのは、せっかく明主様が宗教にされたのに、我々はまた宗教じゃないかのようにしようとしていたわけですから、もうそういうことは絶対にしないという反省を込めて、明主様が本当に実現されたかったことをしようじゃないかという歩みだと思うんですよ。 世界メシア教という名前を使おうじゃないか、キリスト教と呼応していこうじゃないか、浄霊は二の問題、「分かりました、明主様」、ミロクの世は菜食、「分かりました、明主様」、ですよ、私たちがやろうとしていることは。 人間の都合で言えば、食事のことを言うと信徒が離れちゃいますよ、浄霊は二の問題なんて言っちゃだめですよと、そうなりますよ。そしたらもうなにもできないですよ。明主様のみ心は無視し続けていくだけですよ。 でも、教団というのは、我々人間信徒の願いを叶えるためではなくて、神様、明主様の願いを叶えるためのものなんでしょ? これ、口で言うのは簡単だけど、大変ですよ、これはね。それを明主様はひょうひょうとされましたけれどもね、これはご神意だ、ということで。 だから、今我々がやろうとしているのも同じことです。神の都合と人の都合があるとして、我々は神の都合を優先して生きていかなきゃいけない。当然人の都合はいろいろありますよ、世の中ですからね。もちろんこの世で賢くは生きていかなきゃいけない。だけど、明主様のみ教えの根幹に関わることについて人の都合を優先したらもう意味無いじゃないですか。 この、神を取るのか、人を取るのかというのは、何も我々だけの問題ではなくて、今日の聖書(「マタイによる福音書」第16章21節~26節)にもあったように、二千年前からもうありましたね。 イエスが、自分は偉い人たちに捕まっちゃって苦しんで死ぬ、だけど甦るんだよということを弟子たちに言ったら、弟子の一人のペテロが、イエスに、ちょっとこっち来てください、そんなこと言わないでくださいと言った。 これ、普通ですよね。自分にとって偉い先生であるイエス、しかも奇蹟をばんばん起こす方ですから、このままイエスが生きてれば世の中救われるんじゃないかと思ってる。だからそのイエスに向かって、そんなこと言わないでくださいと言った。 でもイエスは、自分の血を捧げて、目の前にいる自分の弟子たちだけではなくて、全人類の罪を贖って、そして人類が永遠の命の道に入るその礎を樹ち立てなきゃいけない、それが自分の使命である、だからこの地上に来た、そしてそれが神の御心であることを知っている。 でもペテロは、この神様の御心よりも、結局目の前にいる自分の先生のことを思っている。でも、ペテロがしたことは普通のことですよ。いやいや先生そんなこと言わないで私たちと一緒にいてください――これ、普通のことですよ。 でも、このペテロに対してイエスは、「サタンよ、引きさがれ」と言った。サタン、下がりなさい、あなたは私の邪魔をしている、あなたは神のことではなくて、人のことを思ってると、そうイエスは言った。 ペテロは自分の先生のことを思っただけなんですよ?でも、もしそれがサタンだとしたら、我々の日常生活はほとんどサタンに支配されたまま一日を送ってるんじゃないかと思うぐらいですね。 だって、普通ですよ、ペテロがしたことは。自分の大切な人に死んでほしくないなと、ただそれだけですよ。でもそれがイエスにとっては、あなたは神ではなくて人の都合を優先してる、サタンよ引きさがれ、という内容だった。ま、イエスはペテロの中にいるサタンに対してこう言われたんでしょうけれどもね。 我々の日常生活を思うと、自分の隣の人がどうとか、家族がどうとか、子供がどうとか言ってもうそれに支配されていますね。そう考えると、なかなかサタン的なものから逃(のが)れるのは難しいと思うかもしれませんけれども、実は、サタンはもう滅んだんですよ、二千年前に。滅んだ。このような、人の都合を優先してしまう人類の姿というのはもう滅んだんですね。サタンは滅んだ。 どういうことかというと、ユダですね。イスカリオテのユダ。イエスを裏切ったとされるユダ。キリスト教圏では最大の悪人とされてるユダ。 具体的には、あの有名な最後の晩餐ですね。最後の晩餐。イエスが弟子たちと一緒に食事をしている時、イエスが、この中の一人が私を裏切ろうとしてると言うんですね。そうすると皆、いやいやいやいやとなりますね。誰もそんなこと考えてませんと言い出した。 だけど、イエスはユダであることをお示しになった。そして、その時に、サタンはユダの中に入ったと書いてありますよ、聖書に。サタンがユダの中に入った。十二弟子の一人であるイスカリオテのユダの中にサタンが入った。 で、ユダはどうしたかというと、偉い人たちがイエスを捕まえようとしてますから、この偉い人たちはイエスの居場所を知りたいわけです。でもなかなか捕まえられない。そこでユダは、十二弟子の一人ですから、イエスの居場所を教えてあげるよということで、イエスを捕まえたい人たちにイエスの居場所を教えてあげるわけですね。 結果、イエスは捕まる。ユダが場所を教えたわけですからすぐ捕まってしまうわけです。捕まって、それでイエスが十字架の刑に処せられるということになってしまうんですけれども、それを知った時、ユダは非常に後悔するんですね、大変なことをしてしまったということで。そして、首を吊って死にます。 だから、その時、サタンはユダの中に入って、それでユダと共に死んだんです。サタンは死んでくださった。滅んでくださった。神様はユダをその御用に使われた。二千年前、サタンはユダの中に入って、そのユダは首を吊って死んだんですから、サタンはもう滅んだんですよ、その時に。 しかもですよ、ユダはものすごい悪人扱いされてますけれども、別にものすごい悪いことをしようとしたわけではないですよ。 昔一回お話ししたことがありますけれども、ユダは、当時、ユダヤ人がローマの圧政に苦しんでるのからなんとかユダヤ人を解放したいと思った。で、イエスはすごい。だから、このイエスを追い詰めれば、イエスはものすごい力を発揮してユダヤ人の王国を樹ち立ててくれるんじゃないかと思ったわけです、だってそれがメシアという存在ですからね。 だから、ユダは裏切ったというより、ユダヤ人にとっていいことが起きてほしいということでそれをされたんです。 そう考えると、全然普通ですよ、ユダのしたことは。良かれと思ってしたわけです。だから我々は彼を全然悪人扱いできないですよ、今も大変な汚名を着せられてますけれどもね、ユダは。 むしろ、ユダがそういうことをしてくれたおかげで、ユダと共にサタンは滅んでくださったんです。ユダがその御用にお仕えくださった。 確かにイエスの贖いの業はすごいですよ。すごい。でも、これはイエス一人では成し遂げられなかったんです。イエスとイエスの弟子たち十二人によって成し遂げられた。弟子十二人。でも、ユダが首吊って死んじゃいましたから、十一人になってしまいましたね。なので、十一人になったので十二人にしようということで、二人候補がいまして、それをくじ引きで後に決めるんですね、イエスの亡くなったあと。だから、最初の十二人プラスその候補の二人、併せて十四人。 つまり、二千年前、イエスプラスその十四人が協力して、人類の罪を贖うということ、サタンに終わりを告げるということ、これをしてくださったんです。だからもう滅んだんです、サタンは。 私が何を言おうとしてるのかというと、確かに明主様のご神業はいろいろある。そこで人間的な思いもいろいろ湧いてくる。その時、そのような思いを自分の中であいまいにしていれば、ずっと人間的都合が残り続けてしまって、明主様のみ心をお受けするのはなかなか難しいなとなりますよ。でも、もう滅んだんですよ。サタンは滅んだ。 だから、それを認めなきゃいけない。認めない限りは、もうずっとズルズルいきますよ。神様は、「あなたがサタンが滅んだことを認めないなら、じゃあ、そういう世界でずるずるとあなたは生きていくよ」と、そう仰せである。 だけど、もう滅んだんです、サタンは。二千年前に滅んだ。 だからそれを信じて、「サタンは滅びました」「私の罪も贖っていただきました」「イエスと十二弟子プラス二の十四人、この方たちのおかげでサタンはもう滅びました」と、それを認めなければずっと中途半端な思いと共に生きていくことになりますよ。 我々は、このメシア教というのに明主様が今働いておられると信じてるわけでしょ。もし人間的な都合を優先すれば、今明主様から流れてきてることに対して、ずっと人間的な思いに引きずられたまま進むことになりますよ。 キリスト教と呼応するとかそういうことは、実体がありそうでなかなか無いですから、これを受け入れるのは割と簡単ですね。 でも、ミロクの世は菜食というのは、「食事」という、もういきなり自分の生活のど真ん中に来ますから、そうすると、いろんな思いが湧いてきちゃうじゃないですか、人間的な思いが。それをそのままにしているから、そこで中途半端みたいな思いになって、結局煮え切らないみたいなことでグズグズグズグズ行ってしまってますよ。「神様が造られてる物なのになんで食べちゃだめなんだ」とか、そういう思いですね、例えば。 でも、明主様がミロクの世は菜食と仰せになっているということは、神様がそう仰せになっているということですよ。神様が、人間が食べるべき物は菜食なんだ、穀物なんだ、野菜なんだと仰せである、ということです。 だから、これを信じるかどうかですよ。これを信じるのか、それとも、自分の人間的な思いでずっとグズグズ行くのか。しかも、グズグズ行かなくてもいいんですよ、だってもうサタンは滅んだんですから。 だいたい、ミロクの世は菜食であるというこの明主様の聖言を聞く前の我々の食といったら、世の中の言う通りに従って、なんかテレビとかでこれがいいと言ってたら、急にスーパーからバナナが無くなるとか(一同笑声)、これがいいと言ったらそのものだけ売り切れたりとか、あるいはこれが良くないと言ったら、いや、それはあんまり良くないと言ってあまり食べなかったりと、そういう生き方だったじゃないですか。世の中でいいとされてる物、テレビで栄養士とかの人がいいとか悪いとか言う物、これが我々の食の基準だったじゃないですか。 あんまり揚げ物たくさん食べちゃいけないとか、マクドナルドあんまりたくさん食べちゃいけないとか、そういうことに納得して、世の中で言われていることを基準にして、で、いざ明主様の基準が示されたら、「なんでも食べていいはずだ」と言い出す。本来我々は、世と明主様を天秤にかける存在ではないはずですよ。 あるいはタンパク質の問題。菜食にするとタンパク質が足りなくなるんじゃないか、タンパク質が大事と西洋科学は言ってると、そう言われる方もいますね。 でも、今の世の中で、タンパク質欠乏症で死んでる人なんていないですよ。いや、タンパク質欠乏症というのは本当にあるんですよ。それは、食べ物が本当に無くて、ものすごい貧しさで食べ物が無い人は、あり得るわけです。だからそれは、タンパク質が足りてないんじゃなくて、もうカロリーが足りてないわけです。それは確かに問題としてありますね。 しかも我々は、タンパク質欠乏症で死んだ人の話は聞いたことないけれども、タンパク質を摂ることによって起こるとされてるガンはたくさん耳にするじゃないですか。知り合いで一人は必ずいますよ、ガンの人。 WHO(世界保健機関)がもう加工肉(ハム、ソーセージ、ベーコンなど)は発ガン性物質だと発表してるんですよ。発ガン性物質の強さとしては、加工肉は、タバコとアスベストとプルトニウムと同じなんですよ。何十年前日本でもアスベストの問題で大騒ぎした時、みんな必死に言ってたじゃないですか、アスベスト取り除かなきゃだめだと、誰もがそう言ってましたよ。 というように、科学者たちは、もう、加工肉は発ガン性物質ですよと言っている。加工肉は一番発ガン性があるということでグループ1。加工肉ではない普通の赤身肉はその次のグループ2と指定されていて、おそらく発ガン性物質だとされてる。 だから、簡単に言えば、タンパク質を摂ることはガンになると言われている一方、タンパク質欠乏症はいない。この日本のような社会において、普通に毎日三食とか二食いただけてれば、タンパク質欠乏症なんかにはなり得ない。でも、世の中では、タンパク質が必要だとみんな言ってませんか?これ、おかしいですよね。タンパク質の摂り過ぎのせいで病があるのに、世の中で、「タンパク質をちゃんと摂りましょう」と言ってませんか? だからそれはなぜかと言ったら、当然ね、そこに利権というかお金が関わってるから以外無いわけです。 というように、世の中の基準でいけば、もうずっとその世界ですよ。菜食になってしまったらこれはダメなのかとか、タンパク質がどうだとか、ずっとその世界ですよ。 菜食は健康のため?違いますよ。勘違いしてはいけない。健康のためじゃないんですよ、「ミロクの世は菜食」というのは。菜食という健康的なことをしてすばらしいですね、健康になるために菜食をしましょう、じゃないんですよ。だってこれは信仰の問題なんですから。 我々は明主様の信徒なんでしょ?明主様の信徒ですよ。 いや、未信徒に対して、「疑っても身体にいいかもしれないから菜食やってごらん」と言うのはいいですよ。明主様も、ご浄霊について、「疑ってもいいんだ」「でもやってみなさい」と仰せでしたね。でもそれは未信徒に対して仰せだったわけです、当然。我々は明主様の信徒でしょ? だからいつも言うように、僕はたとえ早死にしても、明主様がミロクの世は菜食だと仰せになったのを信じて実行するだけですよ、だって私は明主様の信徒ですから。 薬が血を濁す、肉食が血を濁す、キリスト教と呼応する、ミロクの世は菜食――これが明主様信仰なんです、だってこれら全部明主様が仰せになったことなんですから。 人間的な都合を入れればどうにでもなりますよ。社会が言ってること、テレビが言ってること、それに合わせて明主様信仰をしていこうとなったらもう関係無いじゃないですか、明主様は。それは、ただ、明主様という名前を利用して、人間の心地いいように生きていこうとしているというだけのことですね。 でも我々は明主様の信徒なんですよ。ということは、まず、明主様が仰せになることを信じてやってみようとする。そしたら、もしかしたらその先に、病無き世界とか、病貧争絶無の世界とか、地上天国とか、ミロクの世とかというすばらしい世界が顕現されるみ業の端に加えていただけるかもしれないですよ。でも、まず信じなきゃだめなんですよ。 そうじゃなければ、ただ世の中で健康的なことをしているような団体に入って、菜食推進しよう、科学者たちと協力してやっていこう、でいいですよ。でも我々がしていることは信仰活動ですよ。少なくとも今日我々は、明主様の信徒ということでこの場に集ってるんでしょ? 病貧争絶無の世界。病無き世界を造る。これが明主様のモットーなんじゃないんですか? ということは、今病院に並んでる多くの人の列を無くさなきゃだめなんです。自分が並んでちゃしょうがないじゃないですか。 いや、それはね、浄化ということでそういう御用にお仕えする必要がある方はおられますよ。でも、我々の本当の目的は、病院に並んでる列を減らして、無くすことですよ。だって、病貧争絶無の世界ですよ?病が絶対に無いんですよ? それについて明主様は非常に具体的にお考えになっておられて、そういう世が来たら製薬会社の人は仕事無くなる、お医者さんも仕事無くなる、看護師さんも仕事無くなると、非常に現実的に考えておられましたよ、明主様は(「若しもこの世界から"悪"がなくなったら」1953年2月25日)。 だけど、より良い社会が来るためには人類はそういう道も経なきゃいけないと明主様は仰せになった。それはきっと、明主様は、今まではそういう医学に関わることに使われていたけれども、そういう方たちに、神様は、きっとまた違う人生の営みというのを用意してくださるだろうと信じておられたからだと思いますよ。 だから、我々は、病無き世界を造りたいんですか? 病貧争絶無の世界を造るのが明主様のモットーなんですよ? ミロクの世は菜食ということは、病貧争絶無の世界は菜食だということ。で、今、世の中ではみんな肉をたくさん食べて、みんな病院に行っている。明主様の信徒である我々はどうするんですか? 今日の明主様の聖言は「一つの苦しみ」でしたけれども、明主様、自分は健康と病気のことについては神様から徹底的に知らされていると仰せでしたね。だけどまだ本当のことは言えない。手加減して言っている。できるだけ刺激しないように言っていると、そう仰せでした。 仰せになりたいことがあるのに言えない。一種のジレンマですね。明主様はジレンマを抱えておられた。病人がたくさんいる。だから本当のことを言いたいけれども、言い過ぎると刺激が強い、だから言えない、手加減しなきゃいけないとそう言われていた。 言いたいけれども神様から止められてるんだと、そう仰せでしたね。神様のほうも、人間側の様子を見て少し配慮してくださっていたということですね。ということは、明主様が言いたくても言えなかった内容は、人間が受け入れたくないことであったということですね。 その状況について明主様は「時よ、早く来い」と仰せだった。でも結局、これをご発表になれずに明主様はご昇天になったわけです。で、僕は、この明主様が言われたかったけれども言われなかったことの内の一つとして、この菜食のことはあると思いますよ。健康と病気のことを徹底的に知らされている、そして、人が受け入れたくないことといったら、菜食のことはあったと思いますよ。 だって人間は抵抗するじゃないですか。誰もが食べたいですよ。そんなこと言われてもという思いが絶対にありますよ。そういう人間の思いが強すぎたから、明主様時代では結局大々的には打ち出せなかった。そしてそれが明主様を苦しめておられた。 そう考えると、畏れ多いことですけれども、もし明主様の信徒である我々が菜食を実践することによってこの明主様の苦しみを取り除くことができたら、信徒としてこれ以上の喜びがあるのかと、そう思いますね。 菜食の実践をすれば、明主様の苦しみを取り除かせていただけるんですよ、畏れ多いことですけれども。 でも、今日私が皆様に最もお伝えしたいことというのがあるんですね。 それはなにかというと、明主様は、病貧争絶無の世界、病無き世界と仰せになった。病貧争絶無、ですから、絶対無いということですね。明主様は絶対的な確信を持ってこれを打ち出しておられる。そうだとして、ではなぜ明主様はここまでの確信を持たれてこれを訴えることができたんだろうか。ここですね。ここについてお伝えしたいんです。 で、それは何かというと、イエスですね、イエスの贖い。 贖いというのは苦しみですよね。苦しみをもって罪を取り除く。苦しいこととか痛いこととかという代償を通して罪を取り除く。 この贖いを二千年前にイエスが成し遂げた。要は、二千年前、病の元となるサタンとか罪とかというものをもう取り除いてくださった、イエスは。そしたら、もはや人間は病気で苦しむ必要無いじゃないですか。 痛みとか苦しみは何かといったら、それは贖いですよ。でも、もう贖う必要は無い、贖いはもう終わったんですから。 先月僕は、イエスの贖いの血が流れたことによって、流されるべきすべての生物の血が流されたんだから、もはや動物の血を摂る必要は無い、だから明主様はミロクの世は菜食になることができると仰せになったんだとお伝えしました。 それと同じで、明主様が病無き世界、病貧争絶無の世界を造るということを言われることができたのも、イエスが二千年前にもう贖われたからですよ。イエスの贖いによって、もう苦しみは無くなったんです。もう涙を拭い去ってくださったとありますよ、聖書にも。我々の涙を拭い去ってくださったんです、神様は。 そしたら、病貧争絶無の世界ですよ。だって、もう絶対になりようがないじゃないですか、病に。イエスによって完全に取り除かれたんですから、罪が。病の元となる罪、これが取り除かれたら病無き世界が現れざるを得ないじゃないですか。 だから、病貧争絶無の世界が現れることができるのも、実はこれ、イエスと十二弟子プラス二の十四人、この方たちがものすごいことを成し遂げてくださったからなんです。 明主様の浄化という教えそのものがそれを示してるじゃないですか。浄化という教えは、いろんな病とかは苦しみではない、実はいいことなんだということですが、そういうことを仰せになることができたのも、もう苦しみが終わってるからという前提を明主様がお持ちだったからです。 イエスの贖いが前提におありだったから、明主様は、苦しいことはもはや無い、悪く見えるようなことでも、悪いことではないと仰せになることができた。 我々の人生いろいろありますね。病気、人間関係、病貧争、いろいろありますよ。でも、それは本当は悪いことではないんだ、それは、我々が、より清く、よりすばらしい存在になるために全く新しいステージで行われてることなんだ、ということで明主様は浄化ということを教えてくださった。 イエスの贖いの血が明主様の根底にある。イエスの贖いと罪を取り除いたことが明主様の根底にある。だから明主様は、菜食、病貧争絶無の世界、病無き世界を造る、浄化、そういうことを仰せになることができた。 今アフリカで飢饉を無くすプロジェクトが始まった。日本の我々もアフリカに負けずに明主様のみ心にお応えしていく。ですね? そして我々も、イエスの二千年前の贖いがあったからこその明主様のご神業であることを忘れてはいけない。 キリスト教と呼応するとか、浄霊は二の問題とかいろいろありましたね。メシア教になってからいろいろあった。菜食についても、実践するにあたっていろんな状況がありますね、家庭の状況とか仕事の状況とか、いろんな状況がある。 その時に、人間的な都合を入れればもうそれで終わりですよ。人間の世界で生きていくだけ。まあそういう人生もありますね。でも、我々は明主様の信徒なんですから、明主様を信じて、信じて、信じ抜くのが我々の生きざまである。 それに、そもそも、明主様の信徒であるということは、信徒にさせていただいている、ということなんですよ。 いろいろ先達の人の苦労もありました。教団浄化もありました。だけど今、明主様が、「私を信じる者となっていいよ」と仰せくださってるじゃないですか。 もう解散しなさい、ですよ、普通だったら。世の中的になんか問題起こされて、国から解散命令かなんか出されて終わりですよ。明主様を信じたくても信じられなくなるような状況になることは十分ありえるんですよ。 でもまだ「信じていいよ」と言っていただいている。明主様の信徒であることを許されている。一応宗教法人というものを国から認められている。国が認めていることを甘く見ないほうがいいですよ、それはね。 まだ活動が許されているということは、「信徒になっていいよ」「私のことを信じていいよ」と言っていただいてる、ということです。それなのに、そこで、自分の都合を主体にして、いやいや自分はこうだとかああだとか言ってたら、「じゃあもうあなたは私の信徒じゃなくていい」と明主様に言われてしまいますよ。 だから、それを言われてしまう前に、やはり信じる。今日の時点で明主様は、「まだ私のことを信じていいよ」と仰せくださってるわけですからね。であれば、明主様が遺されたこと、今明主様が生きて働いてくださっていること、これを信じますとしなければならない。 というように信じるその先に、アフリカとか世界中を含めたすばらしい救いの業が展開されると思いますよ、きっとね。でもそれは、我々が明主様を信じれば、ですよ。 だからそういうすばらしい未来に向かうために、我々は明主様を信じ抜く。だってもうサタンは滅んだんですよ。信じるのを妨げるものはもう何も無いんですから。 だから、秋季大祭の今日、明主様の信徒とさせていただいている、この大いなる明主様と神様のお許しに思いを馳せて、そして、明主様のご神業の土台であるイエスとかユダとか、そういう大変な苦労をしてくださった方たちに思いを馳せて、すばらしい理想世界実現のために、また希望を持って歩んでまいりましょう。 ありがとうございました。