皆様こんにちは。 ただいまは、長女・めいの誕生日に際しまして、皆様の温かな拍手、誠にありがとうございました。マミ共々感謝しております。 そして、この、大好評の我が家の近況ですね――自分で大好評と言っておりますけれども(一同笑声)――について、特別ものすごい何かがあるわけではないんですけれども、最近私とマミが結構家を空けるようになりまして、いろんな方のお世話になるわけなんですけれども、それによって、なんかこう、子供たち3人の結束が強まったかなという印象を持っております。 私、出張が多いですので、今後もこの状況は続いてしまいますが、少なくとも、出張が無い時は、「お父さんの顔なんてもう見たくない」と言われるまで(一同笑声)、できる限り一緒にいてあげたいなと思っております。 あとは、妻のマミは、家で、ヴィーガン食、いわゆる和菜食を用意してくれるんですけれども、最近子供たちもだんだん手伝うようになりまして、一番下の長男のみことも、まだ2歳なんですけれどもちょっと手伝ったり、上のお姉ちゃんたちもよく手伝ってくれます。 お野菜とかも、場合によっては信徒の皆様の献上品とか、お届けいただいたものを使うということがあります。 ですので当然、一つひとつの食材を大切にして食事させていただくことになるわけなんですが、そういうふうに暮らしていますと、私たちは、「豊かさ」というと、なにかこう、例えば世界中のいろんな食材が食卓に並ぶとか、これもこれもこれもあるとか、それが「豊かさ」というイメージがあると思うんですけれども、本当は、なにか、自分が住んでいるこの日本という土地で採れた野菜とご飯と味噌汁をいただくことこそが本当の豊かさなんじゃないかなと思っております。 人によってはそういう食事は豊かさとは正反対な貧相な食事だと思うかもしれませんけれども、私は、本当は、家族で一つになって、明主様のみ心である「ミロクの世は菜食」というのに、毎日、全力で楽しく向き合って、そして、一つひとつの野菜について、「こういう方からいただいたんだね」とか、「こういう方が作ってくださったんだね」とか言いながらみんなで食べるという、なんか、そういう「豊かさ」というのがあるんじゃないのかなと思いますですね。 世の中にはいろんな情報があふれてますから、そうすると、「豊かさ」というのが、我々の中で、世界中のものでいっぱいなのが豊かさなんだみたいになりがちなんですけれども、私は、今お伝えしたような慎ましい食事の中にこそ本当の豊かさというのがあるんじゃないかなと、そう思います。 それは、もちろん食べ物の味もありますし、明主様のみ心にお応えしてる味もあるんですけれども、さらに、家族みんなで作って、子供が作ったものについて、「なんか面白い形だね」と笑い合ったり、そしてまた、「食べ物が無い貧しい人たちにも食べ物が渡るようになるといいね」ということを確認しながら家族で囲む食卓の中にも、豊かさというのがあるんじゃないかなと思いますね。 我が家では主に妻が食事を用意してくれるのですが、日々の食事は1日2回とか3回ありますので、そういう日々の糧を用意してくれている妻に感謝したいなと、そう思っております。 今日はアフリカのカブーソ本部長がいらっしゃっています。 今回のアンゴラご巡教において、日本からの建設奉仕隊は約40名。それプラス、ヨーロッパやブラジル等から10名ぐらいいましたので、全部で50名くらいですね。それをアンゴラ全体として迎え入れてくださった。特に食事。 食事は、我々はヴィーガン食を実践したいということなんですけれども、アンゴラにはそういうレストランとかがたくさんあるわけではない。もちろん、レストランに行って特別にお願いすればできないことはないと思いますけれども、そもそも、日本みたいにレストランがたくさんあるとか、そういう感じではありませんので、現地の信徒が参拝団のためにヴィーガン食を用意してくださった。 そのために、現地の信徒約70名がご奉仕をしてくださって、ご挨拶したら、9割以上が女性のように思いました。 日本人は普通一日三食食べますけれども、朝昼晩の三食を現地で用意するのはちょっと大変なんじゃないかなと思いまして、というのは、食材の調達、調理、また、後片付けもありますし、そして、参拝団のスケジュールによっては朝食が結構早い時間に発生しますので、ものすごく早起きをしないといけないとか、だから、一日三食をご用意いただくのはちょっと大変じゃないかなと思いまして、一日二食をご用意いただくことでお願いしておりました。 それは、70名が一気にされるのではなくて、70名の中で交代交代しながら、また、参拝団の方々が泊まってるホテルの近くに一室借りて、そこに臨時のキッチンを設けて食事を用意してくださったんですね。 しかも、一日二食といっても、やはり朝早くて夜遅くなってしまうわけで、疲れからもうその場で休憩しなきゃいけないということもあったんですよ。そういう場合、その臨時のキッチンで休まれていた。 でも、休まれるといっても、この臨時のキッチンに、なんか、ソファーとか布団なんて無いんですよ。だから、休憩されるのは、単純に、硬いフローリングの上ですよ。そこで服を着たまま横になるだけ。それでまた起きて料理を作ってくださった。 しかも、我々としては、一日二食でもしょうがない、みたいな感じかもしれませんけれども、アンゴラの人たちの中には、一日一食食べられたらそれで幸せという人たちもいるんですよ。だけど我々参拝団には一日二食ご用意くださって、疲れた時は、毛布も布団も無い硬い床で休憩されていた。 で、なぜそこまでのことをしてくださったのかというと、だからそれは、当然、教主の代行である私が来るから、それと一緒に来る参拝団の方も精一杯お迎えしたいという、その心からです。 そして今日、そこまでして日本の信徒の代表である参拝団を迎え入れてくれたアフリカでありアンゴラ信徒の代表であるカブーソ本部長がいらしてますから、みなで感謝の拍手をぜひ送りたいと思います(一同拍手)。ありがとうございました。 先月もお話ししたように、「土の聖地」は、去年行った時は農地がまだ本当に一部だったんですけれども、その後切り開いて、今回行かせていただいた時、その切り開いた農地を一望できる小高い丘がありまして、カブーソ先生は、そこにベンチなどを作って農地を見渡したり、景色を楽しめる場所にされたいということを仰せだったんですけれども、実際そこに行ってその開かれた農地を見ると、周りには当然なんにもありません。ビルとか家とかはなにも無くて、そこには、アフリカの大地に広がる畑とか、アフリカの大地でたくましく育つ木とかがあって、その光景を見ると、「これが地上天国そのものでなくてなんであろう」という感じですね、受ける心境としては。 しかも、この動きは、今後もどんどんどんどん進んでいきます。農地はどんどん広がります。世界人類の飢餓をアフリカが終わらせるんだということで真剣な情熱でヴィーガン食に向き合っているアフリカ信徒の様子、またそのアフリカ信徒が精魂を込めて世話をしている農園を見たら、もうそれは、本当に、言葉にならないですね。 いろんな制約があって確かに簡単に行ける場所ではないと思うんですけれども、でも、可能であれば、行ける環境にある人は、一生に一度はぜひ行っていただきたいなと、そう思います。 今回は、先月お話ししたアフリカの話の続きをさせていただきたいと思うのですが、先月の九月度月次祭では、コンゴ民主共和国のアウベルチ本部長という方の話を結構させていただきまして、詳しくはその九月度月次祭の私の話をまた見ていただきたいと思うんですけれども、その時に皆様にお伝えしたことを自分の中で思い返したりして、まだお伝えしたいことがあるなと思っております。 先月もお伝えしたように、アウベルチ本部長は、今回私がアンゴラに行くにあたって、ぜひ私をアンゴラでお迎えしたいということで、コンゴ民主共和国のご自分が住まわれているところから、私がいるアンゴラの首都まで行くことになりました。 で、これが、飛行機でパカッと1時間で行けるとかそういうことではないんですね。先月もお話ししたように、アウベルチ先生はまずバイクの後ろに乗るわけですね。タクシーのバイク版ですね、タクシーバイク。それに乗ってまず24時間。ご自分のコンゴ民主共和国のお住まいからアンゴラの国境までバイクの後ろで24時間。これはアンゴラでご本人から直接お聞きした話です。 まず24時間。で、そこからアンゴラに入国できるかというとできない。ですので、入国できるところまで移動しなきゃいけませんので、これが車で7、8時間。アンゴラ国境沿いを車で7、8時間北上する。 そこに行きましてようやくアンゴラに入国できますので、はい、入国しましたとなりますが、今度は、そこからアンゴラの首都のルアンダまで行きます。国のルワンダではないですよ。ちょっと紛らわしいんですけれども、アンゴラの首都はルアンダで、アフリカの国のルワンダとは違います。 とにかく、アンゴラの首都のルアンダまで行くのに今度はバスでまた24時間。 だから24+8+24で、56ですね、56時間。アウベルチ本部長は、日本から来る私に会うためにその旅路を経たわけです。しかも、これも先月言いましたけれども、私は、アウベルチ本部長とは去年もアンゴラで会ってるんですよ。一生に一度とかではない。 この旅路のことを先月お伝えしたんですけれども、これ、非常にインパクトのある話でして、祭典後ある専従者の方が話していることでなるほどと思ったことがあったのですが、その方が言われたのは、56時間あれば、飛行機で日本とブラジル間1往復できるじゃないかと、そういうことでした。 日本から一番遠い国であるブラジルに飛行機を使って行きます。で、ブラジルに着きました。そこからまた日本に戻ります。その往復と同じ時間だとその専従者の方が言うんですね。なるほど。 それで、私もブラジルに行きますので、去年の自分の旅程を調べましたら、本当に、片道28時間とか29時間でした。 アウベルチ本部長は56時間だから、56の半分は28――なんか細かい数字の話になっちゃって(一同笑声)、簡単な算数ですけれども計算間違いしないように今高速で脳を動かしております(一同笑声)――56の半分が28ですから、だから日本からブラジルまでの片道28とか29時間ぐらいでその倍ですから、あ、本当だ、専従者の方が言う通りだなということで、改めてやはりアウベルチ本部長はすごいなと思ったんですね。 でも、そのあと私は思ったんですね。いや、アウベルチ本部長にはまだ帰りの旅もあるじゃないかと(一同笑声)。行きの旅程がすごすぎて私は帰りのことを完全に忘れてたんですね(一同笑声)、だってアウベルチ本部長は家に帰らなきゃいけないですから。 で、帰りの旅程についてはご本人に聞いたことはないんですけれども、もし同じふうに帰れば56+56ですから、112時間ですね。もはやもう分かりませんね(一同笑声)。112時間と言われてももはや分かりませんね。 でも、少なくとも、日本からブラジルの旅2往復分ですね、2往復。日本からブラジルに行ってブラジルから日本に戻って、また日本からブラジルに行ってブラジルから日本に戻る――というだけの時間をかけて、アウベルチ本部長は教主の代行である私に会いに来てくださった。 しかもですよ、私は、アンゴラにいる時は、日本語よりは上手ではないポルトガル語で話しますので、皆様は、「アウベルチさんは真明のポルトガル語の話を直接聞けて良かったね」と思うかもしれませんけれども、アウベルチさんは、ポルトガル語は話せないんですよ。ポルトガル語は話せない。 コンゴ民主共和国の公用語はフランス語ですので、アウベルチ本部長はアンゴラでは通訳が必要なんですね。 だから、真明がポルトガル語で話すのを直接聞きに来ました、なら分かるけれども、言葉も分からないんですよ。私が話している言葉の意味はまったく分からない。通訳を介さないといけないわけです。 ということは、アウベルチ本部長は、そもそもあまり上手じゃない私のポルトガル語の通訳されたフランス語を聞くために、この旅路をしておられるんです。いや、百歩譲って私が話すポルトガル語を直接聞きに来ました、なら分かりますけれど、それも分からないんですよ。 だから、本当にすごいですね。ちょっと言葉が出ないという感じですね。日本人の我々ではもはや言葉が出ない。 しかもですよ、こちらも先月詳しくお話ししましたけれども、アフリカ全体の教団浄化の影響で、アウベルチ本部長は、ご自身のコンゴ民主共和国の理事10人のうちの6人から反対に遭うことになったんですね。カブーソ先生と争っていたグループの人たちがコンゴ民主共和国で結構影響力を持っておりましたのでね。 だから、この6人の理事がアウベルチ本部長を教団から追い出そうとするわけです。で、その追い出し方というのが、彼らは、教主様のご認証とかそういうのは得られないということが分かってますから、だからもう、アウベルチ本部長が警察に捕まるようにしようということで動いてた。 そして、結果、アウベルチ本部長は本当に警察に捕まって拘置所に入れられてしまったんですね。こういう金銭疑惑があるとか、運営の仕方にこういう問題があるということを訴えられて、実際本当に警察に捕まって、刑務所みたいなところに入れられてしまった。 ではね、なぜアウベルチ本部長は、日本からあんなにも離れているコンゴ民主共和国においてそういう姿勢を貫かれたのかというと、それは、教主様がご認証になったカブーソ本部長に従うのが筋だということを思われてそうされたわけです。だから、これは抽象的なことですよ。 なにか、こうすればお金が入るとかそういうことではなくて、教主様が認証されたカブーソ本部長を受け入れるということが、ひいては、教主様、明主様、神様を受け入れることなんだ、それが自分の人生にとって絶対大切なんだと思われて、それを貫かれた結果、警察に捕まってしまったんです。 いや、なかなか理解できないかもしれませんが、アウベルチ本部長は、もしその6人の理事に従っていれば警察に捕まる恐れはないんですよ。警察に捕まるくらいなら6人の言うこと聞きます、でよかったんですよ。 でも、アウベルチ本部長は、警察に捕まってしまうことうんぬんより、教主様中心の信仰を貫くことのほうが大事だと思われたわけです。大変な信仰ですね。我々日本人でこれできるかな?という感じですね。教主様中心の信仰を貫くことで警察に捕まる可能性がある中にあって、それでも我々は教主様中心の信仰を貫くことが果たしてできるだろうかと、そう思わざるを得ないですね。 だから、我々は、結構簡単に、「アフリカ信徒の信仰の純粋性に倣いたい」とか「学びたい」ということを言いますけれども――いや、確かにそれは大切なことですね、我々の見本とさせていただきたい――だけど一方では、アウベルチ本部長に代表されるようなアフリカ信徒の信仰を見つめた時、やはり、軽々しく、アフリカ信徒の信仰に倣いますとか学びますとか、アフリカ信徒のようになりたいとか、そういうことを言うのはとうてい申し訳ないなという慎ましさもなければだめだと思いますね。 アフリカ信徒の方々は、アフリカという国々で生活しておられて、基本的には、この豊かな日本とは違う。また、国家も、日本みたいにある程度法が働くというところとは違って、なにかあれば国家に自分の命もすぐ取られてしまうかもしれないという中にあって、まさに文字通り命がけの信仰をされているわけです。 そういう方々に対して、もちろん目指すべき信仰の姿であることは間違いないけれども、簡単に、「倣いたい」とか、「アフリカ人になりたい」とか、そういう言葉を口に発するのは申し訳ないなと、そういう慎ましさも必要だと思いますね。 しかも、アウベルチ本部長は、最終的には、拘置所の中で捧げられたお祈りによってそこから出ることができたんです。拘置所の中で自分が苦しんでいるのは、つまり教主様が苦しんでおられることなんだ、つまり明主様が苦しんでおられることなんだ、だからこれは、自分のせいで明主様を苦しめてしまっているんだ、明主様申し訳ございません、という悔い改めの祈りを捧げたら、その祈りを捧げてからたった5分後、そこから出られちゃったんです。 というようなことを通過しているアフリカ信徒の信仰の強さは、我々日本人がどうあがいても勝てませんね。いや、ま、諦めるということとは違いますけれども、でもやはり、簡単に、アフリカ信徒に倣いたいとか言えることではないんだという謙虚さも必要だなと思いますね。 そして、なぜアウベルチさんがそこまでの信仰を貫くかといったら、それは、究極的には、「教主様が明主様である」ということを信じているというその一点に尽きますね。 私がアンゴラに行くということを、明主様のひ孫が来るんだとか、明主様の後継者が来るんだという程度の認識では、アウベルチ本部長はそこまでのことはされなかったと思いますよ。だけど、アウベルチさんは、教主様は明主様であられて、その教主の代行が来るということは、すなわち教主であり明主様そのものが来られると信じておられるから、そこまでの旅路を経ることもいとわないわけです。 だから、そういうアウベルチ本部長にとって、ヴィーガン食を実践するなんていうのはもう簡単過ぎることですよ。お茶の子さいさいですよ。これ食べたい、あれ食べたいなんて、絶対言われないですよ。だってもう命をかけておられるんですから、このご神業に。そのアウベルチ本部長が、ヴィーガン食程度でつまずくようなことは絶対あり得ませんよ。だって、命をかけて信仰しているのに、食のことなんて言ってる場合じゃないですからね。 だからそうなると、一方日本にいる我々はどうなんだということになりますですね。 最近ある信徒の方とお会いした時に――これは、その信徒の方がどうとかではなく、私たち日本の信徒全体の認識だと思いますけれども――私と会ってる時にその信徒の方が私に言われたのは、「明主様が実際ここにいらしたら、どういう感じだったでしょうかね」というようなこと。 このような認識というのは、要は、教主様というご存在がある、真明という存在がある、そして明主様というご存在があると、このように分けておられるわけですね。アウベルチ本部長のように、教主様の中にまさに明主様そのものを見るというのとは違う感覚であると、そういうことです。 明主様の御歌に、正確な文言は忘れましたけれども、「神様があると思う人には神様はいます。神様がいませんと思う人には神様はいません」(「神はなしと思ふ人には神はなしありとし思ふ人に神ます」)という御歌があるんですけれども、まさにこれですね。要は、教主様の中に明主様がいらっしゃると思う人にとっては教主様はそのようなお働きをされるでしょうし、教主様の中に明主様がいらっしゃらないと思えば、それはその程度の働きしか受けることはできないということです。 そして、このように教主様と明主様を分ける認識であれば、究極的には、世界救世教がしたように、教主様はもう要らないということにつながっていきますね。 だって、もし別々だとしたら、自分たちは明主様を信じているし、明主様と教主様は別々の存在なんだから、別に教主なんていなくていいじゃないかと、そうなりますね。 これが、今日拝聴した二代様の聖言にもありましたように、この問題について二代様も戦いに戦ってますね。 明主様が偉大すぎたから一年余り暇がかかったとおっしゃってましたね。だからそれは、要は、二代様というのが生き身の明主様なんだという認識が信徒の想念の中にはっきりするまで一年以上かかってしまったと、そういう意味で二代様は仰せです。 二代様は、それこそ我々が世界救世教時代ずっと思ってたような、そして今もまだ思っているような、教主様と明主様はどこか違うんじゃないかというその信徒の想念がご神業に対して悪影響であるということを思われたわけです。というのは、それであれば、結局分裂しちゃうじゃないですか。私の明主様、私の明主様、私の明主様ということになってしまう。 でも、一丸となって明主様のご神業を進めるためには、教主様と明主様がピタッと一つであるということについて、なんとしても信徒に理解してもらわなきゃいけないということで、二代様、もうありとあらゆる方法でお説きくださっていますね。 明主様が私にかかって皆様を育成されているとか――これ、面白い表現ですね、幽霊のようにかかっているということですね――先代の手が当主に伸びてるとか、私が言うことはすなわち明主様が言われていることであって、私の示している方向が明主様がご指示になっていることだとか、いろいろな表現をされています。 これらについて、二代様は偉そうじゃないかという見方もありますね。でも本来、ここまでのことをおっしゃる二代様のご覚悟は大変なものですよ。 二代様にとって楽なのは、私は明主様の跡を継がせていただいております、明主様は偉大な方です、明主様のこういう聖言があります、私はそれをお伝えしているだけです、は楽ですね。だってそこにご自分の責任は一切無いじゃないですか。すべてのことを、もはやこの地上には肉体をもって存在しておられないという明主様という人物のせいにして、自分は責任逃れをする、そういうあり方は楽ですよ、二代様にとって。 二代様にとって本当に厳しいのは、今日の聖言で仰せになったみたいなことを信徒に言われることですね。だって、そうしたら全部の責任が今度はご自分ですよ。生半可な覚悟では二代様はああいうことは仰せになれないですね。 というように二代様は、教主と明主様の一体性について口酸っぱく当時の信徒の方々に仰せになって、それが成し遂げられるまで一年かかったということでしたが、結局、先ほど話した信徒のことからも明らかなように、明主様ご昇天から今年で70年経っていますが、いまだにこの点ですら克服できてないじゃないですか。 明主様がここにおられたらなんか違うだろうな、という認識がまだ私たちの中にあるじゃないですか。「そうは言っても」とか、「理屈としては分かるけれどもやはり違うじゃないか」とか、そういうものがまだまだ私たちの中にある。 それが、どういう要因でそうなるのかといったら、やはり、日本人にとっては、結局、自分は教主様と同じ日本人であるとか、教主様と同じ言語をしゃべっているからとか、また、教主様にはしょっちゅう会えますし、物理的な意味で近くにおられますからね、だからアフリカ信徒のような信仰を持つのは難しいのかとか、ま、そういうことも影響していると思いますね。 だから、結局、「教主様も明主様と同じように神様から遣わされたご存在なんだ」という見方よりも、なにか、自分の人間的な思いが主体になって、同じ日本人であるとか、同じ言語を話してるとか、同じところに住んでいるということによって、人間のほうの世界に引きずり降ろしたい思いが出てくるわけですね。 この、人間のほうの世界に引きずり降ろしたい究極の行動が、世界救世教が教主様に対して行った尾行・盗聴・盗撮ということだと思いますね。 というのは、明主様でさえ、人間的な意味においては、ご自分のご病気から薬毒や菜食ということの大切さに目覚められたわけで、また、大本の影響も相当あったんですよ。大本の影響もあった。というように、明主様ですら当時の時代のいろんな影響を受けられて聖言を宣べておられたわけですが、我々は、そこにはあまり首を突っ込みませんよね。 そういう人間的なことにはあまり首は突っ込まないで、むしろ、明主様はそのようなことを神様からお受けになったんだというふうに理解しますね。だけどこれが、明主様がご昇天になって、その後継者の「教主様」ということになると、例えば教主様がキリスト教のことを説かれているのを、本来であればご神意として私たちは受けとめるべきところ、それをやはり人間的に見るから、なんで教主様はキリスト教のことをお説きになってるんだろうとか、キリスト教の友人がいるからじゃないかとか、まゆみ奥様がキリスト教系の学校に行かれてたからじゃないかとか、そういうところを見たいと思うわけですね。要は、教主様というご存在を人間の世界に引きずり降ろして、自分と同じところで理解するということにしたいわけです。 そうなると、教主様といえども我々と同じなんだから、究極的には、もういなくてもいいじゃないか、だから尾行・盗聴・盗撮して、教義違反だなんだと言って追い出しちゃおうと、そうなるわけです。 私が打ち出している菜食についても、当然、人間的な見方で言えば、なんで菜食を今になって打ち出しているのかとなりますね。それを知りたいと思う。そのお気持ちは理解できますね。そして、現実的にこの世的には、それこそ人間的な喜怒哀楽の生活の中からそういうことが生まれてくるわけなんですけれども、だけどそれが、なにか、明主様に対してはご神意が降ったという見方になる。 明主様が、同じく人間の喜怒哀楽の世界を通していろんなことを感得させられてたことはご神意として見るのに、これが後継者の段階になると、それをこう、こういうことがあったからこうなんだというように人間的な思いが強く出て、結果、それをご神意として受けるというのに一つクッションが入ってしまうわけですね。 なぜ今私がこういう話をしているのかというと、万教帰一、ありますね。万教帰一。これは、明主様の聖言の中で非常に大切な教えの一つで、要は、万の教え、すべての教えは、明主様の説かれているメシアの教えに帰一される、一つになると、そういうことです。世界中のすべての教えが明主様の説かれているこのメシアの教えのもとに一つになる。これが万教帰一であって、明主様は、メシア教というのは万教帰一を成し遂げるよと、そう説かれた。 これも、元々は大本から出てきている教えですけれども、明主様は、ご自分はそれを成し遂げる役割があるんだということを強調された。 私としては、最近、この万教帰一という言葉は使っておりませんし、ですので、皆様としてもあまり聞かれてない言葉だと思いますけれども、私たちとしては、当然これは諦めてないわけですよ。万教帰一、諦めてない。 メシア教のもとに世界の宗教全部が一つになるなんてあり得ないんじゃないかと思うかもしれませんけれども、明主様が仰せになったんですから、私たちは諦めてないんですよ。ま、少なくとも私は諦めてないですね。 万教帰一。世界中のすべての宗教を一つに。だから、具体的には、キリスト教とかイスラムとか仏教とかヒンズー教とか、そういうありとあらゆる世界の宗教のすべてが明主様のメシアの教えのもとに一つになる、ということを我々は目指しているわけです。 だけど我々は、そんな大きなことを目指しているのに、明主様信仰のいろんな団体すらもまだ帰一できてないじゃないですか。それすらもできてないじゃないですか。 明主様信仰の人たち自身がいくつもの団体に分かれていたら、万教帰一を目指してますと言っても、誰も信じませんね。自分たちの団体すら統合できないのに、万教帰一を目指してますと言ったって、誰も信じませんよ。自分たちが喧嘩して分かれてるじゃないかと、そういうことになりますのでね。 でも、本来、もし明主様の願いは世界中の宗教を一つにすることだとしたら、まずは、少なくとも、明主様信仰の団体ぐらいは世界メシア教のもとに一つにできないようじゃ、もう話になりませんね。スタートすら切れない。 でも、実際はもうバラバラじゃないですか。もし今明主様信仰の団体が10とか20あるとしたら、それぞれの団体で、「自分たちはこの明主様を信じてます」としているわけですから、もう、20人ぐらいの明主様がいらっしゃるわけです。だとしたら、帰一のしようがないじゃないですか。 この状況にあって、もし万教帰一を目指さないとしたら、こういういろんな明主様信仰をされてる方々に対して、「あなたも明主様を信じてるんですか、私も信じてます」でおしまいですね。「あの人はあの明主様信仰の団体でしっかり明主様信仰してます、すばらしいね」で終わりですね。 でも、もし明主様がご遺言によって教主の座を二代様に託されたのだとして――そして当然、二代様はそのことについて嘘をついてるわけじゃないでしょうから――そしてまた、明主様は世界メシア教の教主を通して働き続ける、時代時代の教主というのが生き身の明主様の顕現なんだ、という二代様の聖言を受け入れるならば、そしたら、本物の明主様はお一人しかいらっしゃいませんよ。世界メシア教の教主を通して現れる明主様のお一人のみ、ということですね。 他の、明主様がご遺言によって遺された教主の座をないがしろにしている明主様信仰の人たちが信じている明主様は、明主様ではないですね。そういう方たちは、自分たちで作り上げた「明主様像」を信じているだけの話です。 という認識をもし我々がしっかり持たないのであれば、我々は他の明主様信仰の団体に所属している方に布教をしようという時、その方が、「自分は明主様を信じています」と言ったとして、それに対して、いや、具体的にその方にどう言うかということは置いておいたにしても、自分の中で、「この人が言っている明主様は本当の明主様ではない。世界メシア教には生き身の明主様であられる教主様がおられ、教主様こそ本当の明主様なんだ。あなたの言ってる『明主様』というのは存在しない幽霊みたいな存在なんだ」という確信無くして、絶対万教帰一は成し遂げられませんよ。というか、少なくとも、明主様信仰の団体の万教帰一というのは絶対に成し遂げられませんね。 我々が、他の明主様信仰の団体に所属する明主様を認めたとしたら、明主様は何人もいますねということになるんですから、そんなことでは絶対に万教帰一は成し遂げられません。 ということは、私たちは、他の明主様信仰の団体の人たちのことを思う時、生き身の明主様であられる教主様を信じるのが本当の明主様信仰なんですよとその方たちに言えるものを自分の中で当然持っておかなければいけない。 だから、明主様信仰の団体の万教帰一ということを成し遂げようとする中にあって、その中心点は、アウベルチ本部長の持っておられるような、「教主様は明主様そのものである」という信仰――二代様が一生懸命信徒にお伝えになろうとした信仰――これを我々が持てるかどうかにかかってるわけですね。 それを経て、今度は、世界のすべての宗教をメシアの真理のもとに一つにするということになるわけですけれども、そこには、なんと言いますか、道筋がありまして、私たちは当然その道筋に向かっているわけですね。 で、世界中の教えを一つにするという万教帰一を成し遂げる中にあって一番大事なことは何かといったら、それは、メシアとして新しく生まれた、という明主様のご事蹟ですね。ひと言で言えばこれに尽きるわけです。メシアとして新しくお生まれになったという明主様のご事蹟。これ一つですね。 このご事蹟に真向かうということは、「メシアとは誰か」ということにぶち当たることになりますし、そうなれば、当然、イエス・キリストの存在も避けて通れませんね。だから、これが中心点ですね。万教帰一を目指すにあたっては、メシアとして新しく生まれるというこの明主様のご事蹟が中心の中心である。 そのことを心に置いておいて、一旦ちょっと違う話をしたいと思いますが、次の問いというかテーマについて少し考えたいなと思います。それは、なぜ明主様は薬毒を訴えられたり、医療ということについて非常に批判的な立場をとっておられたんだろうかという、この問いです。 この問いに対しての答えというのは、それは、明主様もふんだんに書かれていますように、簡単に言えば、薬には身体への悪影響がある、医学にかかると人間の健康に悪影響がある、だから薬とか医学というものとは距離を置いて、そして、神の力を信じて生きていくんだ、それによって人間というのは真の健康を得て、そして地上天国が顕現されるんだと、そういうことですね。明主様が薬毒とか医学批判をあれだけされたのは、一義的にはこのような理由ですね。 そして、明主様のご論文とかご講話の90%ぐらいはもうその内容ですよ。もっと多いかもしれない。薬がいかに身体に悪いのか、医学はなぜ受けるべきではないのかということ――明主様の教えの9割以上はこの内容ですよ。非常に具体的に書かれておられる。 で、我々が昔よく読んだり聞いていたりしたような、いわゆる明主様のみ教えというようなのは、全体からしたらほんの一部ですよ。でも今、我々、明主様が医学批判を中心にしてご神業を進めておられたという認識が弱くなったんじゃないのかなと思いますね。 というのは、先日ある専従者の方が手術を受けるということになって、その時に、その専従者の方と、明主様の医学とか薬に関する聖言を共に確認しようとしたら、彼のほうとしてはそれが受け入れられないという状況になったんですけれども、本来それは、明主様というご存在を考えれば、何を言ってるんだということになってしまいますよ。 だって明主様は、大日本観音会から始められて世界メシア教になってその後ご昇天という流れの中で、基本的には、医学批判、薬毒ということが明主様が強く訴えられたことです。もしその側面を無くしたら、もう明主様の信徒ではなくなってしまうのと同じことですね。 だけど今、この医学とか薬について明主様が仰せだったことが受け入れられないということは、それだけ私たちが、明主様というご存在からものすごく離れてしまっているからです。 明主様ご昇天から70年経って、なぜ我々はそういう姿になってしまったのか。明主様があんなに一生懸命薬毒とか、医者にかかっちゃいけないということを強く訴えられたのに、なぜ今、まったくそうじゃない状況になっているのかといったら、その原因は一つですよ。それは、浄霊が効かなかったから以外無いですね。 浄霊が効けば病院にかかる必要無いじゃないですか。なんで我々は今、病院に行くかどうかで悩んだり、実際に病院に行かなきゃいけないと思ったりしてるのは、浄霊で治らないからでしょ。浄霊で治ってれば、そもそも誰も病院に行く必要も無ければ、本来誰だって薬なんて飲みたくないですもんね、そんなの。 でも、どんなに浄霊を受けても治らないから、じゃあもうお医者さんに頼ろうかとか、薬飲もうかとかになっていったわけでしょ。で、それが10年、20年、30年経って、もう今や、我々にとっては医学に頼るのが当たり前になっちゃったわけですね。命を医学に預けるのが当たり前になってしまった。それはそうですよね、だって浄霊が効かないんですから。 だから僕は、そのことを思う時、なぜ明主様が薬毒とか医学を批判されたのかというと、確かに表面的には人間の健康のためとか、地上天国建設ということがありますね、それはある、だけど、その中心というか本質的には、神様の命に生きなさい、命をかける信仰に生きなさい、命がけの信仰に生きなさいと、それが最も中心にあったからです。 明主様は脳溢血ですよ。脳溢血になられてるのに病院に行かれず、結局、その10か月後に亡くなられた。脳溢血という命を取られるような病気だったにもかかわらず明主様は医者に行かれなかったんですよ。 だけれども、その明主様にして初めてメシアとして新しく生まれるというところに到達できたんじゃないんですか?そして我々、これを目指してるんですよね?だってそれが明主様の最後のお姿ですよ。それを我々も目指してるんじゃないんですか? なんで明主様が新しく生まれることを成し遂げられたのかって、それは、なんてことはない、明主様は命を神様に預けられたからじゃないですか。医学に預けられるのではなくて、神様に預けられたからじゃないですか。 で、預けました。自分の命を医者ではなくて神様にお捧げしました。それでどうなったのかといったら、神様が、「じゃああなたに新しい命をあげるよ」と仰せくださったじゃないですか、明主様に。だから明主様としては、「新しく生まれる」という表現にならざるを得ないじゃないですか、新しい命をいただいたんですから。 だから明主様は、文字通り命がけの信仰をされてたわけです。しかも明主様は、それを、なにか、悲壮感を漂わせてされていたわけじゃないですよね。「自分は医者には絶対にかからないんだ」ということを、悲壮感漂わせてされていたわけではない。そうではなくて、どこまでも明るく、どんな病気も絶対にいいことなんだという確信をもって、ひょうひょうと、そういうご人生を歩まれた。 だけど我々は、せっかく明主様がそのようなご事蹟を遺してくださっていたのに、浄霊で治らないからということで結局医学に命を預けて、それで今の状況になってしまっている。命がけの信仰からは程遠い状況になってしまっている。 ま、医学の発展はね、それはそれですばらしいことですよ。でもね、発展しているがゆえに難しいんですね。非常に巧みになってますから。非常に巧妙に、副作用もあまり出ないようになってたりしますから、そうなると、より医学への信頼が増すみたいになってしまっていますものね、今は。 だから余計に難しいんですよ。命がけの信仰を持つのが余計難しくなってる。という我々の姿がある。 明主様は、自分の信徒はもれなくメシアとして新しく生まれて神の命に生きるようにということを願っておられたんだけど、気づいたら、もはやそのような姿からはあまりにもかけ離れている我々の現状をご覧になって、今我々に、この、「ミロクの世は菜食」ということを託しておられるんじゃないかと思えてなりません。 浄霊をしても結局なぜ病気が治らないようになってしまったのか。その主原因は、どう考えても、明主様が何回も何回も仰せだったように、肉食とか乳製品とかいろんな添加物とか、そういう毒性のものによって人間の血液が濁ってしまうということなのに、我々はその警告を無視して、そういうものをどんどんどんどんどんどんどんどん食べるようになって、基本的にはこれですよね。どんなに浄霊してももはや病気が治らなくなって病院に行かざるを得ないという姿になったのは、基本的にこの我々の歩み以外ないですね。 こういう現状にあって、もし明主様が、単純に、「私の信徒は今私のみ心と離れて薬とか医学に頼ってしまっているな」ということで、もし、私を通して、「これから薬とか医学に頼るのをやめなさい」ということだけを私たちに伝えてこられて、そして、食については今まで通り普通に肉食とかを続けていたとしたら、私たちは、もう、どんどん死んでいきますよ、単純に。 病院にはかからない。一方食事は今まで通りのを続ける。そんなことをしてたら、我々は、みんな、どんどん体調悪くなってどんどんどんどん早く死んでしまう。 だから明主様は、浄霊をやっても治らないという我々の身体を癒さんとして、この「ミロクの世は菜食」ということについて思い出してほしいと、そう今願っておられるわけです。だから、菜食は愛ですよ、明主様の。 そう考えると、この医学のことと菜食は一つですよ。医学と菜食について、今、明主様は、別々のこととして我々に臨んできておられるわけではない。 というか、お医者さんによっては、「食というのはもう現代医療を超えているんだ」と主張しておられる方もいますよ。医者が、ですよ。お医者さんで、「食はもう現代医療を超えているんだ」と言っている方もいます。 しかも、現在、アメリカにおいても、栄養学における最高峰の食事は、いわゆる未精製の穀物を中心とした菜食(プラントベースホールフード。PBWFとも)とされていて、これが、ガンにもいいし、心臓病にもいいし、ありとあらゆる生活習慣病を治すとされている。科学的な意味において、今の栄養学の最高峰はヴィーガン食なんですよ。 いや、という今の世相にあって、明主様が、菜食が大切だと言われるなら分かりますけれども、明主様は、それをもう70年も前に仰せになってたんですよ。 今になって、環境にも負荷がかからないとか、動物倫理がどうだとかそういうことによってヴィーガン食が大事だ、なら分かりますけれども、明主様は、まだそういうことがほとんど言われてない時代にあって、70年以上も前に、ミロクの世、つまり未来の世の食はヴィーガン食なんだと仰せになったんです。大変な予言というか先見の明ですね。 で、結局、このミロクの世の食の時代はいつ来るんだろう、ミロクの世はいつ来るんだろうということに行かざるを得ませんね。 この間、私はそうでもなかったんですけれども、子供が万博に行きたいと言い出しまして、じゃあ行こうかということで、なんとかチケットが取れて家族で行ったんですけれども、そしたら、入口から入ってすぐのところに、「未来の食体験」という看板があったんですね、「未来の食体験」。 「未来の食体験」ってなんだろうと思いまして――というか、まあ、事前に調べてはあったんですけれども(一同笑声)――そしたらそこで売ってたのはヴィーガンハンバーガーですね。ヴィーガンハンバーガー。 だから、万博に行って、未来の食を体験しようと思うと、出てくるのはヴィーガン食なわけです。それが未来の食なんですよ。今、万博で、来場者が未来の食を体験する場合、ヴィーガン食なんですよ。 明主様が70年以上も前に仰せだったのは「ミロクの世は菜食」。「ミロクの世」は、「未来」ということですね。だから明主様は、「未来の食はヴィーガン食」と仰せになっていたのであって、今、万博という、一般の人が大量に来るところで、「未来の食体験」ということで提供されているのはヴィーガン食なんですよ。 だから、もう来てますよ。明主様が、「ミロクの世は菜食」と言われた時期、そのミロクの世は、どう考えてももう来てますよ。 だって明主様は、もう70年以上も前にそれを言われていたのであって、2025年の今、万博の「未来の食」ということでヴィーガン食が提供されている。その現状を見ても、もし我々が、明主様に、「まだミロクの世は菜食という時期は来てません」と申し上げるとしたら、それはもう明主様に対する侮辱ですね。 ということで僕は、万博に行って、確かに世の中の進歩はすごいなと思いました。環境に負荷をかけないとか、飢餓を救うとか、おそらくそういうことで未来の食はヴィーガン食だという打ち出しをしているのかと思いますが、確かにその現状はすごいなとは思いました。 でも、僕が思う「本当の未来の食」というのは、ま、ハンバーガーということは西洋の食べ物ですから、西洋圏においてそれが未来の食なんだというのは理解できますけれども、私たちは日本人ですから、本来、日本においての未来の食というのがあるのだろうと思って、そしてそれは、実は、なんてことはない、いわゆるご飯と味噌汁と旬の野菜というように、自分たちの土地で採れるものを感謝していただくというのが、本当の未来の食のあるべき姿なんじゃないかなと思うわけですね。 我々、「未来」ということをイメージする時、なんか、西洋的なものをどんどん取り入れてインターナショナルになっていって、というのをイメージすると思うんですけれども、僕はそれは、実は逆だと思いますね。 むしろ、自分の生まれたご先祖様の土地を大事にして、生産者の方とつながって、そして、そういう食べ物を感謝をもっていただく――これが明主様の「ミロクの世は菜食」ということに真にお応えしている意味だと思いますし、これが真の菜食だと思いますね。 だから、真の未来の食は、少なくとも日本においては、ヴィーガンハンバーガーとかではなくて、ご飯、味噌汁と旬の野菜、これです。アンゴラにおいては、いわゆるフンジと地元で採れる野菜とかフルーツですね。フルーツ。アフリカはフルーツいっぱい採れますから。そしてブラジルにおいては、いわゆるarroz e feijão(アホイス・イ・フェジョン)という、ご飯と豆の煮込みを中心とした食事、これらは、今の進化し過ぎた我々の食卓からしたら一見粗食かのように見えるかもしれませんが、真の未来食だと思いますね、私は。 そもそも、自分の土地から切り離された物をいただくようになりますと、食べ物に対する思いもどんどん離れていきますよ。やっぱり、その土地をずっと守ってきてくれた方に感謝して、生産者の方に感謝して、そして、自分の住んでる土地でできるものをいただくというのが自分の血肉になる、これが基本だと思います。 もちろん厳格にはね、世界旅行をするとか、海外在住とかいろいろありますので、そういうことはまた別に考えなければなりませんけれども、大枠の原則、方向性としては、今言ったような食事こそが我々の本来の食のあるべき姿だと思いますね。 でも、今ずっとしているこの話が、万教帰一とどう関係があるのかと、そうなりますね。 だからそれは、「新しく生まれる」。我々、「新しく生まれる」ことを目指しているわけですね。そして、「新しく生まれる」が万教帰一の中心である。 そうだとして、新しく生まれるためには、教主様は、「命と意識と魂をメシアの御名にあって神様に捧げなさい」と仰せですね。命と、意識と、魂を、メシアの御名にあって、神様にお捧げする。あるいは、全身全霊でお仕えするとか、身体の全細胞をお捧げすると、そう仰せです。 で、明主様はそれをされたじゃないですか。「お返しします」ということで、文字通り命を丸ごと神様にお捧げになったじゃないですか。命を捧げるということは死ぬということですよ。もう死んでもいいです、ということですよ。「あなたに命を捧げます」ということは、「私は死んでもいいです」ということですよ。 明主様は命をお捧げになった。ということは、命はここ(真明様、眉間の天庭を指し示される)にあったんだけど、それをお捧げになってしまったわけですから、そうしたら明主様の命は無くなってしまうところだったのを、神様が、「いや、本当はこの命はあなたのものだよ」ということで明主様にお返しくださったわけですね。だから、それについて明主様は、新しく生まれたとしか表現できませんよ、だって神様から新しい命をいただいたんですから。 というように我々も、この明主様に倣わせていただき、命がけの信仰を通して新しく生まれるということを目指しているのに、自分の命について――もちろんケースバイケースでいろいろあることはもう百も承知の上で言ってますけれども――医学に預けたり、また、食事についても、明主様が仰せになっていることよりも、世の中で言われていることに自分の思いを寄せたりしていたら、神様に命を捧げようがないじゃないですか。 自分の命を、もう、がっつり医者とか世の中とか社会とかに預けて、保険があるから大丈夫だとか、病院があるから大丈夫だとか、テレビではこれを食べなさいと言ってるからこれを食べなきゃとか、そんなのが我々の現状じゃないですか。 というように、自分の命を自分でがっつり持ってしまってるじゃないですか。でも、今言ったように、命を神様にお返ししなければ新しく生まれることはできないんですよ。だって、もう1回命をいただかなきゃいけないんでしょ? それ、医学も進化してる、いろんな栄養の考え方もあるという今の状況で、それに頼って生きているのだとしたら、一生新しく生まれるという明主様のところには到達できませんね。絶対できない。 だって、命と意識と魂を捧げますとか、全身全霊を捧げますとか言いながら、現実的なケースバイケースとか自分の都合で、結局、医者とかに自分の命を預けてたら、一生自分の命をがっつりつかんだままになるんですから、新しく生まれることは不可能ですね。 ということは万教帰一も成し遂げられません。 だって、メシアとして新しく生まれるというご事蹟に真剣に向き合ってなくて、万教帰一が成し遂げられようがないじゃないですか。万教帰一ということは、万教というか、つまるところ、万人が明主様の新しくお生まれになった姿に帰一するという意味でもありますよ。その明主様のお姿と一つになるということですね。 だから、明主様と一つになるということですね。明主様と一つになることが万教帰一ですね。 だとしたら、当然、イエス・キリストという存在も受け入れなければ、神様に、命を受け取っていただきたいのですと申し上げる時に、「その命は誰によってきれいにしてもらったんだ」と言われてしまうじゃないですか。その時に、贖罪主であるイエスという存在が出てこざるを得ないじゃないですか。 だから、菜食のこと、医学のこと、新しく生まれること、万教帰一、地上天国建設――これはもう全部一つですよ。 で、言っておくけれども、私は、医学を受けてはいけないということを決して言ってるのではない。この点について、明主様時代は医学を受けることについてはもっと厳しかったわけですけれども、今、それは、お一人おひとりの判断に委ねられているのだろうと思います。 だけど、たとえそうであったとしても、僕は、明主様のこのご事蹟と御生きざま、そして、その明主様を信じられた多くの先達の方々の信仰の姿というのは忘れちゃいけないと思いますね。 当時は、先達の方々も、明主様も、命がけの信仰ですよね。いや、明主様時代だって、なにか病気があったら医学にかかるというのは常識でしたよ。明主様ご自身だって、なにかあったら医者にかかるというご人生を最初はずっと歩まれてたわけですからね。 だけど、その後明主様は、ご自分の信徒に、医者にかかることとか薬を飲むことというのは、それは、神の命を受けることに対しての妨げだということを強く訴えられた。だから、当時の信徒に残されていたのは信仰だけだったんですよ。 今の我々は、なんかあっても医者にかかればいいと思っているから、なんか余裕を持ってますよね。でも、当時の信徒は命がけですよ。だって、命に関わることで普通最終的に寄りかかる場所である医学をもう取られちゃってるんですよ。そこに頼るという選択肢は無いんですよ。ま、無かったんですね。無かった。当時の信徒にはその選択肢は無かった。 当時、病院にどうしても行きたい信徒は、他の信徒から隠れてコソコソ行ったというくらいですから、事実上、病院なんて行かないというのが当時のメシア教にとっての常識だったわけです。 そして僕は、そういう信仰だったから教団が発展したんだと思いますね。いや、確かに浄霊の奇蹟はたくさんあったと思いますよ。浄霊の奇蹟はたくさんあった。だけど僕は、それ以上に、当時の信徒のその命がけの信仰の言葉が周りの人の魂を打ったんだと思いますね。 だって、もう医学は取られてるんですよ。医者にかかるという選択肢は無い。そういう中で信仰を貫いて、そして、そういうことで自分の命は救われたんだと確信している言葉の言霊の強さは大変なものだったでしょうね。 そもそも、人を宗教の道に導き入れるということは、宗教は命に関わることですから、なんかふざけたトーンで伝えたって絶対それは相手の心に響きようがないじゃないですか。 でも、当時の信徒は医学を取られてますから、いわば、もう、背水の陣ですね。だって、もう逃げ場所は無いんですから、背水の陣ですよ。もう明主様を信じることしかないわけです。明主様に文字通り命を預けていたわけです。 そういう信徒の方々が話す一言一言が周りの人の魂を打ったんだと思いますね。だから発展したんですよ。発展するに決まってるじゃないですか。そんなに命がけの喜びの信仰が波及しないはずないじゃないですか。 だから、今2025年になって、教団がなかなか発展しないとか言われるかもしれませんけれども、それ、当たり前ですよ。だって、当時の命がけの信仰のことを考えたら、今の我々の発する言葉にその力があると思いますか?我々、命がけの信仰をしてないじゃないですか。なんかあったら病院に行く――いや、それを否定しているわけではないですけれども――でも、事実として、そんな状況で、たとえ我々が、メシア教は永遠の命を説く世界最高の宗教なんだ、ここに真理があるんだと言っても、その言葉に力が乗るはずがないじゃないですか。だから発展しようがないじゃないですか、人の魂を打てないんですから。 でも、そんな我々であっても、我々が、万教帰一を成し遂げたい、地上天国をもたらしたい、この真理を世の中に広めたい、と願ってる心にほんの少しの純粋性があると明主様がみなしてくださって、今明主様は、菜食ということもそうですし、またアウベルチ本部長やアフリカ信徒の方々をご用意くださって、知らせてくださって、我々を目覚めさせようとしてくださっているのではないですか? 我々が命がけの信仰を思い出して、その命がけの信仰からほとばしる我々の誠の心が相手の魂の奥底に響いて、そして、「ああ、私ももうこれしかない」と思う人を増やしていきたいということを我々がほんのちょっとでも願っているから、その我々の姿を明主様がご覧になってくださって、アフリカも用意してくださったし、アウベルチ本部長のことも教えてくださったんじゃないんですか? 明主様は、非常に大きな夢をたくさん語られましたですね。万教帰一もその一つですね。本来、途方もない話ですね。 いや、なんとなく、全人類兄弟姉妹ですばらしいね、という話ではないんですよ。それが万教帰一なら話は簡単ですね。じゃあもう宗教団体所属してないほうがいいですよ。いろんな宗教があっていいね、すべて神様が司っておられるんですね、ならもうなんでもいいじゃないですか。神様がすべてを司ってるという認識に立つことが万教帰一なら、もう宗教団体である必要無いですよ。ただ、全人類が、そういうことなんだ、と思って、それで終わりですね。今のこのままの姿でいいんだ、ということになりますからね。だったら宗教団体はもう必要無いですね。 でも、新しく生まれなければ神の国を見ることはできないんでしょ? イエスがニコデモに新しく生まれるということを話したら、ニコデモは、いや、それどうするんですか?もう一度お母さんの胎内に入るんですか?とイエスに尋ねるわけですが、それ、ニコデモの問いに対する答えは、「命を捧げること」ですね。自分の命を捧げること。 で、これ、抽象的なら話分かりますよ。命を捧げるんですね、やってみます、なら話は分かりますし、簡単です。でも、今どうなってるかというと、「命を捧げたいというならじゃあ具体的に少し食のことでやってみてごらんなさい」ということになっているわけです。 新しく生まれることを目指してると我々は言ってきましたね。だから、神様から、「そうか。ならあなたは命を捧げなきゃいけない」となってるわけです。「明主様を信じて倣う存在になりたいです」「そうか。じゃあまず食を通して命を捧げる訓練をしなきゃいけないね」となってるわけです。 だからこれ、当時はこのことを浄霊で教えてくださったわけですね。浄霊を通して神様の力がどれだけ偉大かというのを見せてくださって、我々が神のほうに心を向けるということを明主様が用意してくださった。それ、強烈でしたね。浄霊の結果は強烈でしたもんね、たくさん奇蹟起きましたから。 だけど、実は、今はもっと厳しいんですよ。だって食というのは毎食毎食、毎日毎日向き合うことですから。 当時は、新しく生まれるというところに至らせる手段が浄霊だったわけですけれども、今は、「あなたは食を通して自分の命と向き合いなさい」「本当に私に命を捧げられるのか見てあげよう」ということになってるわけですが、このことを毎食毎食我々に問うてくださっているこの明主様の慈しみはすごいですよ。 だから、万教帰一、地上天国、これは夢物語ではない。 いや、夢物語のように思うけれども、今日の二代様は、中心と末端の真釣り合いが正しく行われれば、なんでもできないことはないと仰せですよ。どんなことでもできないことはありませんと仰せです、二代様は。 我々が夢物語と思っているような万教帰一、それは、究極的には新しく生まれるということ、これは、もし明主様と教主様が違う存在なんだと思ってたら絶対成し遂げられませんよ。明主様はこう考えておられた、今の教主様はこう説いておられる、なにか違うな、では絶対成し遂げられませんね。 だから、そうではなくて、今まさに、明主様が教主様を通して生きて働いておられると見るその全信徒の思いが一つとならなければならない。だって二代様は、一丸となるならどんなことでもできると仰せですよ。一丸となるなら、ですよ。 だから、夢物語じゃないんですよ。教団が発展することも万教帰一も地上天国建設も夢物語じゃないんです。我々が一丸となれば不可能ではない。教主様と明主様は本当に一つなんですねということで、中心と末端の真釣り合いがあれば、一丸となってなんでもできるんだと、そういうことです。 しかも、この道を突き進もうというのが我々日本人だけではなくて、今日カブーソ本部長も来ておられるように、メシア教の最大信徒はアフリカですから、そのアフリカ信徒もおられるし、また来月私はブラジルに行って、神様のお許しがあれば「水の聖地」の聖別をさせていただきますけれども、だから、ブラジル信徒もいます。今日は韓国からもいらしてますね。他の国々もある。 その世界中の信徒が一つとなって、今明主様が、教主様を通して、まさに、この夢物語のようなことを進めておられようとしてるんだ、末端と中心が本当に一つとなって一丸となればどんなことでもできるんだと、そういうことです。 我々は、明主様時代から継承されて今ここにいる。ということは、我々一人ひとりの中に、明主様の魂――明主様に宿った神様の御心――これが宿っていると思いますよ。 その魂が世界中に広がれば、必ずや人類が病貧争から解放された幸せに満ちた時代が来る。 明主様時代は日本の信徒だけでがんばってたんですけれども、今はアフリカもあるし、ブラジルもあるし、ヨーロッパもあるし、アメリカにも信徒はいますから、みんなで一丸となって、明主様の夢を夢物語で終わらせないという二代様のご覚悟をもって、共に歩んでまいりたいと思います。 ありがとうございました。