今年の奈良での九月度月次祭の時、初めて着物を着ましたので、私の祭典での話のひと言目は、「これ、夢ではないですよ」(一同笑声)ということと、あと、「今度来る時はちょんまげでは来ませんよ」(一同笑声)と言ったのですが、その通り、今日はちょんまげでは来ませんでした(一同笑声)。 今日は、着物はもう2回目なので夢とかそういうことではないのですが、そのことより、今日、このように徳島で祭典をしているのは夢のようですね。徳島、そして四国の皆さん、おめでとうございます(一同拍手)。 もちろん今日は全国から集まってきていますけれども、徳島でこのように祭典ができるのも、佐藤教区長のもと四国の皆様が、、、(神床から話されているため、立ち位置が高いことを思われた真明様は)今日は目線が高いですね。なにか皆様を見下ろす感じになってしまい申し訳ない。 あ、ですから、四国でこういう祭典ができるのも、四国の皆様が尊い信仰を捧げてくださっているからだなと思いまして、感謝しております。 ちなみにマミは、今日、人生初四国みたいですよ(一同拍手)。(真明様、マミ奥様に向かわれ)着物も着ているし、せっかくだからなにかひと言ご挨拶させていただいたら?突然お願いしてしまってすいません。 (マミ奥様登壇される)【マミ奥様】 本日はこのように皆様とお会いできまして、本当に嬉しく思います。真明様と共に和装で来させていただいて、胸がいっぱいでございます。皆様お一人おひとりがいらっしゃるからこそ、メシア教が前へ前へ進ませていただいていると思います。これからも、真明様のみもとで皆様と共に御用にお仕えさせていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございます(一同拍手)。 【真明様】 着物の柄の説明はされなくていいの?(一同笑声)【マミ奥様】 今日のお着物はですね、よく見ると貝殻の柄がありますけれども、貝殻というのは、合わさった時、上下で全く同じサイズなんですね。そして、必ず同じサイズということは、夫婦一緒に心を一つにして歩ませていただくという意味がございまして、今日私は、真明様と共に一つ心で歩ませていただきたいという思いでこちらを着させていただき、また、祭典に臨ませていただいております(一同拍手)。ありがとうございます。 (マミ奥様降壇される)【真明様】 (マミ奥様に)ありがとうございました。本当に突然お願いしてしまってすいません(一同笑声)。 今のマミの話を聞きまして、やはり我々も、神様の御心が降ってくるのに(貝殻の上半分が閉じてくるかのような動きをされる)ピタッと合う貝殻の下半分にならなきゃいけないんだなということをちょっと思ったりしました。 ちなみに私の着物はですね、これも一応説明しますと(一同笑声)、麻と綿のみです。だから、絹無しで、麻と綿のみでできたものでございます。せっかくですのでちょっと説明したくなってしまいました。絹は使ってない。絹は動物性ですのでね。だからこれ、ヴィーガン着物ですけど、ヴィーガンはヴィーガンでも、化学繊維とかではなくて、天然素材です。 で、今日お話ししたいのはですね、ま、他でもないと言いますか、今日の明主様聖言と聖書にあった、善悪を知る木の実とか、禁断の木の実についてのことです。 今日の聖言で、明主様は、エデンの園でアダムとエバが食べた木の実というのは実は薬であって、なんとそれが人類の悪の発生源であると、そう仰せでしたね。そして、薬を通して人類を弱らせて、それで物質文化を発展させたんだ、だけど物質文化はもう行き止まりを迎えているのであって、薬の使用をやめれば悪の世界が終わって、ミロクの世であるエデンの園が来ますよと、そうおっしゃってましたね、明主様は。 この聖言、もちろん私は知っておりましたけれども、自分の中で聖書の世界観をイメージします時、この明主様の聖言の内容にちょっと唐突感があったんですね。エデンの園の善悪を知る木の実をイメージする時、僕は勝手にリンゴみたいな感じを持っていたのですが、明主様はそれが薬だと仰せになる。その明主様の解釈が、自分の中の聖書の世界観に対してなかなかピタッとこないところがあったんです。 でも、今回ちょっと気づいたことがありまして、ようやく、なるほど矛盾は無いんだ、聖書と明主様のおっしゃっていることに矛盾は無いんだというところにたどり着くことができました。 「薬を飲む」という時、確かにその物質的、現実的な意味はありますけれども、結局薬を飲む行為が何を象徴しているのかといったら、それは、神様の命に生きるのか、それとも、この薬という、なんか人間の命を長らえさせるという手段を選ぶのかというこの二択の中でのことですよね、実は。で、まあ、多くの人は寿命を長くしたいという目的をもって、通常薬を飲むほうを選択していますね。 明主様がメシアとして新しくお生まれになった時、脳溢血になられましたね。明主様、脳溢血になられた。で、その時、ここにも二択があったわけです。明主様は脳溢血になっておられるんですから、明主様にとって、病院に行かれて医療を受けるか、それとも神様を信じるかという二択があったわけです。 その時明主様は、医療は受けない、病院には行かれないという選択をされた。 脳溢血で、しかも右半身がまひ状況なのに病院に行かれないというのは、現代においても信じられないことですし、当時も、当時の世相としてはそれは信じられないようなことだったんですよ。でも明主様はそういう選択をされた。 そのあと明主様がどうなられたかというと、病院に行かれず、脳溢血の影響により、脳溢血になられてから10か月後の1955年2月10日に亡くなられた。ですね? ただ、この時明主様は、同時に、メシアとして新しく生まれたとも仰せになりました。これは、この地上の命とは違う命のことですね。要は、明主様は永遠の命のことを言っておられたわけです。 今日拝聴した聖書(創世記第2章及び第3章)において神様は、アダムとエバに向かって、善悪を知る木の実から取って食べたら、きっと死ぬであろう、死んじゃうよと、そう仰せですね。 だから、この聖書の文言がどういう意味かというと、明主様が脳溢血を受けられた時、もし明主様が、自分はこの世の寿命をなんとか長らえさせたいと思って、薬を飲まれる道を選ばれていたら、確かにこの世の寿命としては長生きされたかもしれないけれども、結局、永遠の命は獲得されずにきっと死んでいただろうと、そういうことじゃないのかなと思います。 ここ、聖書において、へびがエバに対して、善悪を知る木の実を食べても決して死にませんよと言ってますね。神様に頼らなくても長生きできる方法がありますよ、要は、この「薬」を飲んだら寿命延びますよと、そうそそのかしてるわけですね。 で、結局、アダムとエバは実際その木の実を取って食べてしまったことにより、本来は神様の永遠の命に生きられた存在だったのが、アダムとエバが考える自分たちの命に長く生きたいということによって、逆に永遠の命を得られない存在になってしまったわけです。 へびは、善悪を知る木の実を食べたら死なないよと言う。一方神様は、それを食べたら死ぬよと言われる。 だから、薬というのも、これと全く同じことじゃないですか。 明主様は、薬を飲むと霊が曇ると仰せだったわけで、それはもちろん物質的な意味もありますね。だけど、その物質的な意味プラス、それを飲む時の精神の作用のこともあると私は思うわけなんですね。 どういうことかというと、薬を飲もうという時の我々の思いは、神様の永遠の命に生きる、というのではなく、この世の寿命をなんとか延ばしたいということなんですから、まさにアダムとエバが直面した選択と同じところに入り込む。だから、そうなると、明主様が仰せのことと聖書、全く矛盾は無い。 当時明主様がなぜ今私が話しているような言い方をされなかったかといえば、当然時期の関係もあったと思いますね。今日拝聴した明主様の聖言の最後でも、時期のことを仰せでしたものね、明主様は。 とにかく我々は、そのようにして、その時、善悪を知る木の実を食べたことにより、神様の命に生きるのではなくて、人間の命によって、人間の生を営むことをチョイスしたわけです。 そして明主様は、神様は、これによって人間を弱らせ、物質文化を発展させたと仰せですね。ここ、「人間が弱る」という言葉の意味は、神様から離れるということですよ。神様から離れることで人間は弱くなると、そういう意味です。 不思議なことに、人間は、神様から離れることで自分は強くなれると思ってますね。でも、人間の本当の強さというのは、自分は弱いなと思っているのが本当の強さなんですよ。だって自分の弱さを認識してはじめて、神の命に生きなきゃいけないと思えるんですから。 でも結局、神様に頼らず自分たちでなんでもできると思い込んで、人間は、テクノロジーとかも含めた物質文化の大繁栄を極めてますね、今も。飽くなき欲望ですね、人類の飽くなき欲望。もっと新しいもの、もっといいものを求め続けている。 でも明主様は、これはもう終わりですよと仰せです。物質文化はもう限界を迎えてますよ、核なんか作って地球が滅びたらどうするんだと、そう仰せです。 だから、もう神様のもとに帰りなさいということですね。 でも、神様のもとに帰って、また善悪を知る木の実を食べても仕方がないんですよ。 我々は、今、この「私だ」という感覚は、善悪を知る木の実を食べたからこの感覚がある。 教主様がたまに「すじこ」と「いくら」の例えをされますけれども、善悪を知る木の実を食べる前はいわゆるすじこ状況ですね。神様と完全に一体である。だから、自分の名前はなになにですという感覚は無いし、この聖書にもあったように服を着てなくても恥ずかしいと思わなかった。 だけど、ひとたび善悪を知る木の実を取って食べた瞬間、「あ、自分」と思えるわけで、そうしたら急に恥ずかしくなって服を着たくなったわけですね。だから神様から呼ばれてもアダムとエバは隠れてしまった。 だから、これが薬を飲むことと同じ作用なわけです。薬を飲む選択をすることによって、神様に顔向けできないという状況に人類はなっているわけです。神様の命に生きるよりも、人間の力で命を長くしたいということですからね。 で、その元がアダムとエバで、そのような選択をしてしまったがゆえにもう神様に顔向けできない、恥ずかしいとなってしまったわけです。 そのようなことで人類は神様の天国から追放されて地球というところに来たのですが、最初は「追い出されちゃった」だったのが、だんだん居心地がよくなって、「神様なんていなくていいや」となっているのが今の人類の姿ですね。だから薬なんかもばんばん飲みますものね。 例えば仕事のことでも、非常に頼りがいのある上司がいる時はいいけれども、ひとたびその上司がいなくなったら、最初は困ったなと思うかもしれませんけれども、しばらく経ったら、「上司がいないほうがどれだけ楽だろうか」と思いますよ、だって自分たちの好きなようにできるんですから。そうなると、上司にはずっと出張に行っててほしい、帰ってきてほしくないとなるわけですが、我々は、神様というご存在についてもそういう感じで見るようになって、自分たちで繁栄してきたと、そういうことです。 でも、神様としては、実は、「これは私がそのようにお前たちをさせたんだ」と、そう仰せなわけです。 いや、本当はですよ、善悪を知る木の実なんか食べずに天国ですばらしい家族のまま過ごしていったほうが我々にとってはよっぽど幸せだったんですよ。だけど、まあ、神様からだめだと言われてたのに我々は取って食べてしまいましたからね、、、。 でも神様は、この事件は本当に大変なことだったんですけれども、それを悪いことと捉えるようなことはなされず、「人間は善悪を知る木の実を食べたことにより、私、神様のようになった。だから、今度は命の木の実を食べたら永遠に生きられるかもしれない」と前向きに受けとめてくださったわけです。 いや、我々は今、神の領域を持ってるんですよ。今この「自分」「私だ」という感覚があって、いろいろな判断を下してますでしょ? 世の中の問題とかでも、この人はだめだ、あの人はすばらしいとか裁きを下してますよね、四六時中。だからそれは、神の立場ですよ。今の我々人間の立場というのは神の立場ですよ。でも、結局それだけだと、寿命が来た時にまだ神との融合ということがなければそのまま死んでしまう、滅んでしまう、ということです。だからそこに我々が命の木の実を食べなきゃいけない必然性が出てくるわけですね。 善悪を知る木の実を食べて神様のようになった。明主様流に言えば、神様から離れて物質文化がずっと発展したと、そういうことですね。 人間の欲望、人間都合の生や命を象徴しているのが薬ですね。人間世界の繁栄、人間世界での不老不死を目指すのが薬ですからね。まあ、不老不死というか、寿命を少しでも延ばそうということですよね。だから、「薬」が象徴するものは人類の繁栄ですね。物質文化の繁栄。でも明主様は、そういう種類の人類の繁栄の時期はもう終わったんだから帰ってきなさいと、そう仰せなわけです。 そうすると、必然的に、「どこに帰るの?」ということになりますね。当然エデンの園になるわけですが、聖書では、このエデンの園を「東のかた」に作ったということが書いてありました。だから、東のほうということですね。でも、どこを基準として東のほうということは書かれていませんね。ただ、東のほうにエデンの園を作ったと、そう書いてある。 そして、その中でも、命の木があるところに行きたいわけですが、この命の木は、もともと東のほうにあるエデンの園の中でも、さらに東のほうにあると、そう書かれています。そうなると、それはどこだろうということになりますけれども、これはなんてことはない、東というのは太陽が昇るところですから、原因のほう、つまり、最も中心のところということになりますね。「東のほう」というのは中心であり、原因のほうであり、物事がスタートしたほうだということです。 これが何を意味しているのかというと、簡単に言えば、あなたの中心の中心の最も奥深いところに命の木の実というのがありますよという意味ですね、複雑なことじゃなくて。 だから、エデンの園ってどこだろう、エデンの園の東ってどこだろうというところで終わるのではなくて、あっ、自分の中心の中心に永遠の命を獲得できる場所があるんだ、永遠の命のパワーをくれるものがあるんだと思ったほうがいいですね。 少し話逸れますが、ここ、面白いなと思ったのは、明主様は「ミロクの世は菜食だ」と仰せになっていて、しかも、今日拝聴した聖言で、「ミロクの世はエデンの園である」という趣旨のことを仰せになってますね(「今度は絢爛たる文化によるミロクの世が出来るのです。つまりエデンの園が出来るのです」(「昭和28年1月7日 御講話」)。 で、聖書においてエデンの園で神様が人類に許しておられた食事というのは菜食ですよ。あなたがたは草を食べなさい、木の実を食べなさい、それがあなたがたの食事だよと、そういうことを神様は、確か「創世記」の第1章だと思いますけれど、でおっしゃっていて、そして明主様は、「ミロクの世は菜食である」「ミロクの世というのはエデンの園である」と仰せになっておられる。明主様の聖言と、聖書において神様がエデンの園で人類に許しておられたのが菜食であるというこの一致も興味深いなと私は思っております。 どちらにしても、今我々は、この物質文化を全部携えて命の木のところまで帰らなければいけない。そして、物質文化といっても結局は「我々」のことですよ。 我々人類が生まれたのはこのエデンの園というパラダイスというか天国という世界であって、そこから出てきて、そしてまた万物を通してこの物質世界、物質文化が発展してきた。それらが最終的に集約された形が人間一人の姿です。 この身体もそうですし、人間の心の働きのこともありますね。動物たちも喜怒哀楽を表現するいろんな感覚ありますもんね。というように、そういう進化を経て、神様は、この人間というすばらしい存在を作られたわけです。 だから今、それらすべてを携えて、つまり自分自身丸ごとエデンの園に帰って、命の木の実を食べるということが我々に課せられているわけですね。 皆さん今、難しい話を聞いているように感じるかもしれませんけれども、これ、我々の命に関わる重大なことなんですよ、実はね。 今日拝聴した明主様の聖言は、単純に、薬飲むのがいい悪いという、そういうレベルだけで捉えられる聖言ではないですからね。 そうでなければこの世の話だけになりますものね。永遠の命ということを抜かしてこの世の繁栄ということだけを考えるなら、皆様は、今日わざわざこんなところに集まってこんな話聞かなくていいわけです。家にいてテレビ見て、音楽聞いて、美味しいもの食べて一生終えたほうがいいですよね、よっぽど。 でも神様としては、我々が本当の意味でもっと欲深くなって、本当の幸せをつかんでほしいと、そう願っておられる。 明主様は、薬を飲むことで悪が発生して、その人間の世界というのは不幸せな世界ですよとも仰せでしたね。 マリア。そして、マリアを通して人類の物質文化のすべてを受け継いだイエス。 いや、だからこのイエスというのが神様のもとに帰って命の木の実を食べたわけです。マリアから継承された人類の営みすべてを背負ったイエス・キリストという存在がエデンの園の東、つまり天国の中心に行かれて、命の木の実を食べられた。 だから、その天国の中心というのは皆様お一人おひとりのここにあるんですよ。ここ(真明様、眉と眉の間の天庭を指し示される)。エデンの園の東、そして、そこにある命の木の実はここにあるんですよ、今。だって、ここ(真明様、眉間の天庭を指し示される)に天国ありますからね。白毫とか天庭と言われているここに天国がある。だから、皆様お一人おひとりの中に命の木があるわけです。 で、イエスというのは、特別な使命を持たれて、人類で最初に命の木の実を食べられた存在ですね。 今日拝聴した「創世記」第3章の終わりにある神様の聖言、人間はこれで善悪を知るようになった、あるいはいつか命の木の実も食べて、永遠に生きるようになるかもしれない、を最初に成し遂げたのはイエスですよ。 ということでイエスが成し遂げました。そして、それから二千年後、明主様が登場するわけですね。 でもね、本当に明主様が2人目かどうかは分かりませんよ。だってアブラハムとかダビデとかすごい存在いますし、あのアブラハムでさえも仕えたメルキゼデクという存在も聖書に書いてありますけれどもね。メルキゼデク。この方は、あのアブラハムが捧げ物をしたというぐらいの存在ですよ(「創世記」第14章20節)。 だからそういう人たちも、もう永遠の命を得てるかもしれないですね。それは分からない。 でも少なくとも明主様は永遠の命を獲得された。 明主様は、脳溢血になられた時に神様から聞かれたんでしょうね。「あなたは最初善悪を知る木の実を食べて人間になってますね」「この地上で宗教家として成功してますね」「病になった今、薬という名の善悪を知る木の実をまた食べますか?どうしますか?」と聞かれて、そして、「あるいは私の命の木の実を食べますか?」という問いかけが神様から明主様にあったわけです。 そして明主様は、非常に分かりやすい形でお答えになりましたね。 だって明主様は、病院にも行かれなければ薬も何も飲まれなかった。それで10か月後に亡くなられたんですから。いや、私は、これを真似しろと言っているわけではないですよ、決して。いつも言うように、医療の選択というのは現代においては皆様お一人おひとりに託されている。だけど、私たち明主様の信徒にとって、明主様の生きざまというのを見つめることは必要ですね。 ということで明主様は、この神様の問いかけに対して、「私は命の木の実が食べたいです」と、そうお返事になったんじゃないですか?それしかないですよ。だって明主様は脳溢血でも病院にも行かれない、薬も飲まれないんですから。 そしてこの時明主様は何とおっしゃったのか。頭が痛いとか、もう死んじゃうかもしれないとか、そんなこと仰せになってないですよ。そうではなくて、「メシアとして新しく生まれたんだ」と仰せですから、実際に起きていることと正反対のことを仰せになった。 普通なら死んでいくというか、命を奪う病気に襲われて、そして実際それで10か月後に亡くなられた。でもその時明主様が何を仰せになったのかというと、私はメシアとして新しく生まれたんだ、これは生まれ変わるというのとは違うんだと、そう仰せになりました。 これは、明主様が、「私岡田茂吉は、これからメシア・岡田茂吉という存在として永遠に生きる存在になったんだよ」ということを私たちに示してくださったわけです。これ、大変なことですよ。 だから明主様は、その時、再び善悪を知る木の実を食べられたのではなくて、物質文化がすべて集約された「私」という存在そのものを携えてあなたのもとに帰ります、エデンの園に帰りますとされたわけです。 というようにご自分の命をお返しになったら、今度は神様が、「じゃあ新しい命をあげるよ」と仰せくださって、新しい命を送ってくださった。そして、その新しい命が来た時、明主様は、その命があまりにも命に満ちあふれていたがために、生まれ変わるというのとは全然違う、つまり、今まで長年継続してきた命とは全然違う、全く新しい命が来たと思われたから、「新しく生まれた」と仰せになったんでしょうね。そう言わざるを得なかった。 そうなると、では我々はどうなのか。我々も、命の木の実が自分の中にあるんですよ。でも我々は、新しく生まれるどころか、「死にたくない」と思ってますもんね。むしろ、「病気になったら大変だ」「死にたくない」と思ってますもんね。 「死にたくない」ということは、命をつかんで手放したくないという思いですから、新しく生まれるとは全く逆の方向ですよ。だからなかなか命の木の実を食べるのは難しいですよね。 明主様は、ご自分が病気になり、たとえ死んでしまっても心配することはないという確信がおありだったんでしょう。当然、この脳溢血に関して明主様は、これはもうご自分の命を奪うようなものすごい重篤な病であることは認識しておられたと思いますよ。だって、右半身まひしておられるわけですからね。 だからこの病は、明主様にとっては神様から与えられた最後の試練だったわけです。神様から、「薬ではなくて私の命のほうがより大切だと言うなら、あなたはこのような病になっても私のことを信じられるか」という最後の試練だったわけです。 そして明主様は、この神様からの試練にお応えになって――試練を乗り越えられて――本来我々自身も願って願ってやまない命の木の実から食べるということを成し遂げてしまわれたわけですね。 そう考えると、我々が持っている死の恐怖というのはこの明主様のご姿勢とは真逆ですね。我々は、自分の命を失いたくないと思ってる。 いやそれはね、そうではない、自分は命を捧げられるということは、これ、観念的に実行するのは簡単ですよ。だけど、いざ自分の家族が病気になりました、自分の子供が病気になりました、自分の旦那が病気になりました、自分が病気になりましたという時、そこであぶり出されるじゃないですか。私たちの心の奥底があぶり出されるわけです、その時に。神様の命に生きたくないという、善悪を知る木の実を取った我々の姿がそこであぶり出される。薬飲みたい、医療に頼りたいという姿があぶり出されるじゃないですか。 この我々の姿というのは、心がけではどうにもならないんですよ。絶対決心しますと言っても難しいですね。 だから我々としては、贖い主という存在を受け入れますというところに行かざるを得ないじゃないですか。もし自分のメンタルの強さで乗り越えることができるのなら、この明主様の御神影を掲げる必要も無いですよ。自分の力でできるなら、自分の写真を飾ればいいですね、なんかちょっと不思議な(一同笑声)言い方ですけれどもね。 しかも、今日の明主様の御歌「罪多き我身我家を赦しませ大慈大悲の大御心に」にありますように、明主様ご自身が、もうご自分が罪人であることを認めておられる。そして、常立の神の贖なかりせばもうこの宇宙は滅んでたんだと仰せである(「常立の神の贖なかりせば此天地は滅びしならめ」)。 だから我々も、イエスという存在を受け入れざるを得ない。そして、キリスト・イエスという存在を受け入れなければ、我々が命の木の実を食べるということは起こり得ないんですよ。 ただ、「明主様はすごい」ではどうにもならないんですよ。ただ、「明主様のようになりたい」ではどうにもならないんですよ。なぜなら、その明主様ご自身が、ご自分は贖いがなければ自分は赦されない存在なんだ、神のみ前に立てない存在なんだと仰せなんですから。だから、なおさら我々は、贖罪主であるイエス・キリストを受け入れなければ命の木の実からは食べさせてもらえないんです。 命の木のところに向かう入口のところには、回る炎の剣がその木を守っていると書いてありましたが(「創世記」第3章24節)、炎の剣が回っているということは、「裁き」がその木を守っているということですね。もし命の木の実を食べたいとしたら、厳しい審判が待ってますよということですね。 そこ、回る炎の剣の内側には、イエスもいるし、明主様もいるし、それこそアブラハムとか、今言ったメルキゼデクという存在もいるかもしれないですよ、その中に。それこそ、命の木の実を囲んで、ヴィーガンピクニックしてるかもしれませんよ(一同笑声)――あの、話す時に腕を動かしてますが、その時に、着物の袖のところが演台に引っかかって、演台を丸ごとひっくり返してしまうのではないかという恐怖(一同笑声)を抱えながら話しております。 でも、この炎の剣は裁きである。だから、我々もエデンの園に行きまして、「明主様に倣って命の木の実を食べに来ました」と言った時に、神様から、「あなたの罪についてはどうしますか?」「裁きについては受けますか?」と聞かれるわけです。 これは、当然「受ける」としたいわけですが、我々は、日常生活の中で、自分はいいことしてます、人にいいことしてます、他の人よりはましです、という生き方をしてるわけですから、その生き方を継続したいとなれば、もうずっと中には入れないんですよ。神様から、「あなたは『赦される』という裁きを受けたくないんだね」と言われてしまう。 「赦す」という裁きは聞こえはいいですけれども、全人類赦すということは、全人類罪人だよということですから、要は、「あなた罪人ですよ」と言われているわけです。で、これが我々にとっては受け入れ難いんですね。だって我々は、あの人よりはましだという世界で生きてますからね。だからなかなかその炎の剣の中に入れない。 でも、やっぱりね、白旗を上げるということですね。白旗を上げないとそこには到達できないんですからね。だけど、白旗を上げたくないものが我々の中にあるんですね、実は。 物質世界で成功したことをずっと誇りに思っていたい、自分の成し遂げたことを誇りに思っていたいというのがあるから、なかなか「赦す」の裁きを受け入れるわけにはいかない、となってしまってるのが我々の姿なわけですが、でも、ま、死ぬ前に一回でもいいから、「メシアであるイエスの贖いの血汐を受けて赦しをお受けしたいのです」と言わせていただければそれは望みはありますね。 先日私はブラジルに行きまして、水の聖地の「地鎮祭・聖別式」をしたんですけれども、その時ブラジル信徒に話したことがありまして、ただ、これは以前もどこかで日本の信徒の皆様にお伝えしたことはあると思うんですけれども、それは、「水」と言っても究極的にはこれはイエスの血なんですよということ。 なんか、明主様の水の聖地とか、火・水・土とか、三位一体とか、そういう明主様の聖言を今まで私たちは漠然と捉えてきたんですね。でも本当は、「火」というのは神様の赦しと裁きであるし、「土」というのはやはり人類を誕生させた神様の愛の象徴であるし――だって、土から人間を造ったと聖書に書いてありますもんね――そして「水」というのも、究極的には、イエスの贖いの血汐が水なんだということを受け入れなければならない。 今回私は祭典の中でブラジル信徒に質問をしたのですが、皆様方にとってキリスト・イエスはどこにいますかと尋ねましたら、みんな、「自分の中にいます」と答えました。それは確かにそうだ、だけど、これは一種の例えでもあり真実でもあるんですけれども、水と言った場合、当然、この目の前の大気もすべて水で満ち満ちてますね。湿度が無いところはないですから。ちなみに今私は自分の汗という水にちょっと包まれております(一同笑声)。 とにかく、大気中に湿度があるということは、我々は常に水に包まれているのであって、そして、もし水が究極的にはイエスの贖いの血汐だとすれば、本当は、今、この目の前の大気中にイエスの贖いの血というのが遍満してる、存在してるんだと、そういうことをブラジルでお話ししました。確かにイエスは私たちの内側にも存在しているけれども、同時に、この大気中にもイエスの血というのは遍満している(つまり、私たちの内側も、また外側も、すべてイエスという存在に満たされ、包まれているということです)。 そして、我々が息を吸う時、この水を含んだ目の前の空気を吸うわけですから、それは、実は、イエスの贖いの血を吸ってるのと同じですね。そして、息を吐く時は、我々の不純な、汚れた息というのをイエスの贖いの血によって清めてもらうために息を吐くんだと、こういうお話をブラジルでいたしました。 だから、呼吸ですね。 我々は、新しく生まれることを目指しているということですが、明主様は、生きながらにしてそこに到達された。明主様の見た目はそのままずっと明主様であられた中にあって新しくお生まれになったわけですね。いつも言ってますように、突然見た目が赤ちゃんのようになられたわけではないですよね、明主様は。 ということは、要は、明主様のご感覚が新しくなった、ということですよね。だって見た目は変わっておられないわけですから、この新しく生まれるというのは、明主様の感覚の問題ですよね。 それを踏まえた上で、我々がじゃあ息を吐きますということを想定しますと、息をフーッと吐くと、吐き切ったらもうこれ以上吐けないところまで行きますね。フーッと吐いたら、もう吐き切れないところまで行く。で、この時、もし神様が息をくださらなければ我々は死にますよね。でも我々は、息をフーッと吐いたあと、吸うことができる。 これを、いやそんなこと当たり前じゃないかと思えば、その方は、新しく生まれるという境地には一生到達できませんね。 息をフーッと吐きました。限界まで吐きました。ここが創造の終着点なんですよ。我々が息をフーッと吐き切ったところが全創造の終着点。 そして、そこまで行ったら、我々、息を吸えますね。だから、その時息を吸えるということは、それは、神様が私たちに命を与えてくださっているわけです。これ、毎呼吸毎呼吸ですよ。毎呼吸毎呼吸神様は我々に命を与えてくださっている。 だから、息を吸った時に、「あっ、今、命をいただいているんだ」と思えて、新しい命をいただいているという感激が本当にあれば、その方は新しく生まれたと言えますね。 というように、実は、一呼吸一呼吸の中に新しく生まれる営みの全部が入っちゃってるんですよ。一回の呼吸なんて一瞬のことですよ。で、それを当たり前のことだとしたら、もうそのまま一生おしまいですね。 我々はこの世のことをいろいろとしなきゃいけないから、常に呼吸のことを意識するのは確かに大変ですけれども、だけど本当は、我々の一呼吸一呼吸の中に新しく生まれるということの奥義が潜んでるんですね。だって吸えるじゃないですか、息を。死なないじゃないですか。 私がブラジル信徒の方々に言ったのは、もし我々の一呼吸一呼吸によって新しく生まれるという境地に達することができるのだとしたら、本当は、イエス・キリストというのは呼吸に化身してるわけですね。化身。 改めて思うと、我々のこの呼吸というのは、80歳、90歳くらいになって最後の息を吐き切ったらもうそれで終わりですよね。 じゃあ80歳、90歳になって呼吸止まりましたということだけだったら、これ、死んじゃうじゃないですか。だから、皆さん、これをどうするのかという問題が残ってますよ。だって息止まったら死んじゃうじゃないですか。 だけど明主様は、この地上での呼吸は止まったけれども、今呼吸していらっしゃらないの?してらっしゃるじゃないですか。 ということは、この世の呼吸とは違う呼吸があるということです。いわば、体的呼吸もあるけれども、霊的呼吸もあるということですね。で、この霊的呼吸と一つにならなければ、ま、終わりですよね。行き止まり(息止まり)ですよね。 これは、吸うとか吐くとかという呼吸法の問題ではなくて、まず、少なくとも霊的呼吸があるということを認めなければ話になりませんね。でなければ息が途絶えたら終わりですもんね。もうどうしようもないですよ。 いや、本来今私が話しているようなことをこの地上にいる間に知れるというのは大変なことなんですよ、これは。 だってこんなことは誰も知らずに、普通、この地上での呼吸がすべてだと思って生きて、呼吸が止まったら、はいおしまいということで、そのあと、天国に行ってようやく少し教えてもらえるぐらいのことを今我々は教えていただいているのであって、これは大変なことなんですよ。 原罪とも言われる我々の悪というのは、我々が善悪を知る木の実を取ったところから始まって、それにより、この世で病になったり大変な世の中になっているというのを解消しに来たのがイエス・キリストということになってますね。だってイエス・キリストはその原罪を乗り越えた存在とされているじゃないですか。 そして明主様は、善悪を知る木の実――つまり薬ですね――これを取ることから発生しているこの世の問題は、薬をすべてやめればもうミロクの世になっちゃいますよ、エデンの園来ちゃいますよ、病気が無い世界来ちゃいますよということを仰せになっている。 ということは、病を治す力というのは、実は、イエス・キリストを受け入れるということから来るわけです。それなくしては我々の罪は取り除かれないわけですから、いかなる病気も治りようがない。 そして、実は、呼吸一つでも、本当に今私が言ってるようなことを受け入れることができて、我々の呼吸と神様の呼吸がピタッと一つになれたら、本当に一発で病気が治る可能性もあるんですよ。騙されたと思ってやってみたら治っちゃうかもしれませんよ。 すべての癒しの力というのは元があるんです。元がある。そして、それは贖罪ですね。イエスの贖い。 だからそう考えると、ヴィーガン食は、科学的には、よく、ヴィーガン食をしたらこの病気が治りましたとか、心筋梗塞にいいとか、そういうデータは確かにいっぱいある。アメリカのほうでも栄養学の権威の人が、ガンをはじめとするありとあらゆる病気を治すのには、医療による治療よりも、一番いいのは未精製の穀物を含んだ穀菜食(プラントベースホールフード。PBWFとも)ですよと言っている。ヴィーガン食のことですね。確かにそういう科学的データはいっぱいある。 だけど僕は、いわゆるこのヴィーガン食が――ま、ヴィーガン食といってもピンキリですけれどもね――でもヴィーガン食でいろいろ奇蹟起きてますね。これが治った、あれが治った、この病気も治ったとなっている。それに対して我々は、いや、ヴィーガン食はすごい、野菜の力はすごいと言ってるんだけれども、僕は、そうではなくて、実は、ヴィーガン食というのは、「イエスが最後の捧げものであって、もはや動物の苦しみは必要が無い」ということを受け入れている食事だから、食べる人がそれを意識しててもしてなくても、結果的に、イエス・キリストを受け入れているところから発する力によって、イエス・キリストの癒しの力というのが働いて、ヴィーガン食というのが人の病を癒す力を発揮してるんじゃないかと、そう思うわけです。 だから、いつも言うように、我々のヴィーガン食はどこまで行っても信仰的な営みなんです。まず、明主様が言われた、「ミロクの世は菜食である」ということについて実践するという信仰実践であるし、そしてまた、ヴィーガン食というのは、イエス・キリストが最後の捧げものであって、もはや動物の苦しみは必要が無いというその理念が貫いてるから人を癒す力があるんだと、僕はそう思いますね。 今回私はブラジルで地鎮祭・聖別式をしましたけれども、これは、ある土地を聖別するということですから、具体的に言えば、「今後ここからここの区域は清いものとなりますよ」と、そういうことをしたわけですね、今回。 でも本当は、すべての土地は、もう二千年前に清くなってしまったんです。イエスが十字架に架かって、神様はその血を受け入れて人類の罪を赦された。そのあとペンテコステの聖霊が降った。その時この地球というのはもう全く新しい地球になってしまったんです。もはやなってしまった。だから、すべてもう清いものになってしまってるんです、本当はね。 ということで今回僕は、ブラジルでの聖別式の祝詞で、「すでに二千年前に清くなっていたということを認めます」という趣旨のお祈りを捧げたんですね。 そしてここ、そう考えると、明主様の自然農法のお考えで、土を清浄にしなきゃいけないというのがありますね。農地に動物の糞とか人糞とか入れることで土を汚してるじゃないか、そんなことはすべきではないと、そう明主様は仰せです。 だから、私は、そもそもこの明主様のご発想というのが、たとえそれが明主様にとって無意識的なものであったとしても、もうこの地上とか土というのは清いものとなってしまってるんだと思われていたからだと思いますよ。 こういうことに関しての明主様の表現は強烈ですよ。今、いわゆる身体によいとされている有機農法といったって、鶏糞とかたくさん使ってますね。で、明主様は、そういうクソ――明主様は「クソ」という言葉をお使いになったんだけれども(一同笑声)――クソみたいなものを土に入れてそういう土からできるものを食べてるからクソみたいな人間になっちゃってるんだよと(一同笑声)、そういう明主様の言われ方、すごいですよね。明主様は思いっきり言われてますね。土に入れるものが即、野菜とかを通じて我々の身体に入っちゃいますよと、そう仰せです。 今言ったように、非常に身体にいいとされている有機のものと言っても糞は入ってるし、あと、この間聞いたのが、有機だと、コウモリの糞とかも積極的に使うみたいですよ。むしろいい肥料とされている。 これ、明主様流に言えば、もし有機のものを食べるというなら、我々はコウモリの糞とかを食べちゃってるということですよ。ま、そこから避けて生きていくのはなかなか難しいですけれどもね。 だけど僕は、今何を言わんとしているのかというと、明主様がそのように土を清浄なものにしなきゃいけないというふうに言われたことは、実は、僕は、明主様が、もうこの地球は清いものになってしまったんだという見方を持っておられたからじゃないかと思いますね。 で、そう考えると、明主様の提唱しておられる自然農法というのは、農薬も使わない、肥料も使わない、糞尿も使わない。唯一使うのは落ち葉とかその辺に生えている雑草の堆肥のみであって、動物性は一切使わないわけですから、だから、自然農法というのは、まず、ヴィーガン農法ですよね。ヴィーガン農法。 で、ま、ヴィーガン農法というのは少ないけれども言ってる人はいますけれども、僕はさらに一歩進んで、もし明主様の自然農法というのが、イエス・キリストの血によってもう清められてしまった土地から食べ物を作るのだとしたら、それは贖罪農法であり、キリスト農法とも言えると、そう思うわけです。 だから、私たちの農法は本当の光の農法です。 動物性のものを一切使わなければそれはヴィーガン農法ですね。で、世の中的には明主様のは少なくともヴィーガン農法ではありますね、だって動物性は使わないんですから。でも、それだけではなくて、自然農法は贖罪農法であり、キリスト農法でもあると、そう私は言わせていただきたいと思います。 そして僕は、そういう農法からできるものを食べるのが本当の「薬」だと思いますね。神様が創造された土はもう二千年前に清くしていただいたんだと認めることからできる食べ物が本当の薬ですね。 ヴィーガン農法くらいなら誰にでもできますね。自分の庭の畑かなにかに、もう農薬とか面倒くさいからということで、なにも入れずに種を蒔けば、それはヴィーガン農法にはなりますね。それ、誰でもできますよ。 だけど、ああ、土は二千年前にもう清められてしまって、もう何も入れる必要無いんだ、全地球どころか全宇宙がもう清められたんだということで、そのような土からできるものを食べる、それが、僕は、本当はもしかしたら薬よりももっと人を癒す力を持ってるんじゃないかと思いますね。 で、私は、「菜食は浄霊に勝つ」ということを言っています。菜食、ヴィーガン食、日本人の場合であれば和菜食ですね、和菜食は浄霊に勝つと、そう私は主張しています。 それに対して、いやそんなことない、浄霊のほうが勝ちますと、そういうことを言いたい人もいるのかなとは思います。 そこで、まず、このように、浄霊がいいのか菜食がいいのかと競う場合とか、菜食が浄霊に勝つという話をしている場合、これは、信仰の話というより、この世の健康の話をしてるわけですよね。どちらがより健康にいいかと、そういうことですよね。 信仰的な意味については浄霊も菜食もいろいろありますけれども、菜食は浄霊に勝つ、いや浄霊のほうが上だとか言ってる時は、健康のことについて言っているわけですよね。 で、僕は、菜食は浄霊に勝つというのがまぎれもない事実だなと思ったことがあるのですが、それは、アメリカ人で「ブルーゾーン」というのを研究している人がいるんですね。 ブルーゾーンというのは、100歳以上生きている人がたくさんいる地域のことです。このアメリカ人の方は沖縄もブルーゾーンということで研究してまして、ただ、沖縄の方々は、今、いろんなものを輸入しちゃってファーストフード的なものをいっぱい食べておられるので、今後寿命は落ちていくとは思いますけれども、昔、戦後本当に苦労された方々は、小さい時、それこそ芋とか本当に質素な食事しかなかったので、そういう方たちが非常に長生きしていると、そういうことですね。 このアメリカ人の方は世界で5か所のブルーゾーンを挙げておられるのですが、その一つが沖縄で、また、そのうちの別の一つは、アメリカのカリフォルニア州にあるロマリンダという町。ロマリンダ。この地域に住まわれる方々は、他のアメリカ人よりも10歳ぐらい長生きしているということなんですね。 このロマリンダというのは、宗教の町ということでもないんですけれども、主な住民は、キリスト教の一派であるセブンスデー・アドベンチスト教会の方々なんですね。2万人ちょっとの小さい町なんですけれども、ほとんどがこのキリスト教の一派の人たちが住んでいる。 ロマリンダというのは、特別に自然環境がいいとかいうことでもないんですよ。ロサンゼルスのすぐ近くだから大気汚染もいっぱいあるし、夏は暑いし雨もほとんど降らないという、環境としては過酷なところなのに、そこに住んでいる人たちは他のアメリカ人よりもものすごい長生きであると、そうなっている。 で、セブンスデー・アドベンチスト教会の方々がそこで何をしているのかというと、基本的にヴィーガン食をしてるんですね。要は、教団としてそのような食事を推進していて、そこに住む人たちは基本的に菜食をしているということです。 もちろん、長生きをしている要因は、他にも、例えばそういう宗教のコミュニティーで常にいろんな人とつながりがあるからじゃないかとか、神様を信仰してるからそれが影響してるんじゃないかとか、そういうことが言われているわけですが、だけど、メインの要素は、集団揃ってヴィーガン食をしてること、これに尽きるわけですね。 だから、話を戻して、菜食は浄霊に勝つと言った場合、みんな結構、個人的には、例えば、自分は浄霊して良くなりましたとか、そういうことはあるとは思いますけれども、でも、もし明主様信仰の団体を地域ごとに分けて住まわせたら、10年、20年、30年経ったら、健康という点においては菜食をしてるメシア教が圧勝しますよ。 だってアメリカでは菜食しているグループが長生きしているわけですから、だから、間違いなく、菜食は浄霊にもう勝ちましたよ。もう勝った。この世の健康という意味ではもう勝ちました。 50年、100年したら菜食実践しているメシア教は、他の明主様信仰の団体の信徒――ずっと肉食して牛乳、卵とか食べてる団体の信徒――より絶対長生きしますよ、間違いなく。 アメリカのそのキリスト教の一派は菜食実践して、結果、他のアメリカ人より10年近くは長生きしてるわけですから、もう、健康ということについて菜食の効能は示されているわけです。ちなみに他の4個のブルーゾーンも、基本的には肉、魚を極めて少なく摂取している人たちのところなんですよ。だから、菜食が浄霊に勝つというのはもうまぎれもない事実ですね。 今我々は、このキリスト教の一派のように集落を作って一つの場所には住んでないからその結果がはっきり分からないだけで、もし、一つの県の中で明主様信仰の団体全部を村ごとに分けて、ここは世界メシア教村、ここは何々村、ここは神慈秀明会村とかやったら(一同笑声)、30年後にはメシア教が圧勝してますよ。手を掲げる浄霊をしてないのに、メシア教は圧勝しますよ、絶対。そしてこれが、菜食は浄霊に勝つというまぎれもない証左ですね。 というように、食べ物が変われば血液が変わる、だって食べた物で血液はできてるんですから。そして、血液が変われば気分が変わる。気分が変わればやることが変わってきますね。で、やることが変われば人生変わりますよ。 食べ物が変われば血液が変わる。血液が変わればやる気が変わる。やる気が変われば人生変わりますよ。いい方向に、ですよ。 そしてその中心は血液ですね。いい血液でなければやっぱり病気になりますからね。で、その血液というのはもうイエス・キリストによって清められたんでしょ? 私がいつも言うように、イエス・キリストの血というのは、人間も含めた全動物の最後の捧げものです。ということは、もう血液をいいものに変えてもらっているのに、そこに動物性のものを食べたら血がおかしくなるじゃないですか。 明主様は、肉食とか乳製品を食べると血が濁ると仰せですね。で、僕は今まで、なんで肉食すると血が濁るんだろうと思ってたんですけれど、それはなぜかと言ったら、血液はもうイエス・キリストに清めてもらって、イエス・キリストの血になっているわけですから、相容れないんですよ。イエス・キリストによってもはや動物の捧げものは必要無いという血が私たちの中には流れているのに、そこに肉食をして動物の血が入ってきたら、当然濁りますよ、一致しないんですから。 だから、肉食をして私たちの血が濁るということは、我々の血がもうきれいになっている証拠です。 人類の神様に対する全動物の最後の捧げものとしてイエスがその役割を果たしたわけであって、そのイエスの血が我々の中に流れているわけですから、だからもうこれ以上肉食は必要無いんです。だいたい、血が濁るということはもう必要無いということを示しているじゃないですか。 ということで、「イエス・キリストが最後の捧げものであって、動物の苦しみはもはや必要が無い」という食事をすれば、当然血液は喜びますよ。で、血液が喜べばやる気が変わる。やる気が変われば人生変わりますよ。全人類の人生変わります。 だから、私が訴えているのはただの菜食ではないんですよ。イエス・キリストが贖い主であるという信仰に貫かれた生き方であり真理の食じゃないのかなと思います。 今日は新穀感謝祭で、今日のためにお米とかお野菜とかをお捧げくださった農家の方々がいらっしゃいます。 そして我々は、このことを、自分たちの満足のためにするんではないんですよ。あるいはなにか、神道的な意味での新穀感謝祭、八百万の神様にお捧げしますのような小さいことでしているのでもなくて、まさに今、明主様とイエス・キリストがご一緒になって進めておられる大変なご神業の一部としてさせていただいているわけです。この地上に天国をもたらすということのためにさせていただいている。 そしてそのために、メシア教の自然農法の農家さんがいろいろと作ってくださっている。だとすれば、ここにお供えしている物、これは人類の宝ですね。 そういう農家の方たちを我々としても応援するし、またね、皆様の教会とか、また各家庭でもぜひ自然農法をしていただきたいですね。 今まで我々がしてきた自然農法とは違うんですよ。だいたい、世の中で言われている自然栽培とか自然農法というものの一部になってとか、あるいは有機農法の一部になって終わるとか、そんなことのために明主様は自然農法を説かれたのではないと思いますよ、私は。明主様が自然農法をされたのは、絶対救いのためです。 そして今日は新穀感謝祭であって、今私が話していることは農家さんだけの使命ではない。誰もがその使命を持たされているんです。 たとえお米や野菜が作れなくても、「こういう野菜ありますよ」と人に勧めることもできますし、そしてそれが、今までのように、ただ、おいしい野菜を届けて信徒になってもらうというみみっちい話ではなくて、この野菜一つをとっても神様の真理があるんですね、今日ずっとお話ししたように。 だからそれを信じて、確信を持っていただきたいと思います。 なぜなら、自然農法も浄霊も芸術も、それぞれがバラバラに存在してるんじゃないんですよ。 自然農法も、ヴィーガン食も、新しく生まれるも、聖書のことも、イエス・キリストも、明主様も、全部一つです。 というか、今日の私の話でもう全部一つになりましたね。どこにも矛盾は無いじゃないですか。だからそれは、神様というご存在に矛盾が無いから、私の表現がそういう表現にならざるを得ないわけです。 ま、より正確に言えば、矛盾が無いふうに神様が表現されようとしているのを、私の受け皿が至らないがゆえに私の表現が適切になってないかもしれませんけれども、少なくとも、メシア教に神様の真理が臨んでいるというのは間違いないですね。 だから、そもそも、受け皿である下半分の貝にならせていただけるというのは大変なことですよ(真明様、両手で貝殻の形をつくられる)。本当は、神様の受け皿の貝にならせていただくのは畏れ多いことです。 一番最初は、明主様が、その下半分の貝殻という受け皿としての全責任を背負われまして、明主様のあとは、明主様の代理である教主様と我々全信徒が共に、地上での役割は違うけれども神様の御心を一緒に受けているわけですね。 だから、そういう大いなる情熱に燃えて、今日は、小さな新穀感謝祭、ではなく、世界中に真理と救いと癒しを届けるという世界メシア教の信徒の使命に目覚めるための祭典なんですから、それを心に刻みまして、また共に歩んでまいりましょう。 ありがとうございました。