(屋外で参拝している信徒のほうを向かれて)外におられる方々、ありがとうございます。 (ブラジルポルトガル語のアクセントで)おはようございます! (ヨーロッパポルトガル語のアクセントで)おはようございます、のほうが正確ですね。 まずポルトガルの信徒の皆様へのお詫びから始めなければならないと思うのですが、私が学んでいるポルトガル語は、主に故・渡辺哲男先生の影響で、ブラジルポルトガル語でございます。「おはようございます」の発音一つでも違いますものね。 渡辺先生のブラジルとの関係がありましたので、私もその影響を受けることになり、ブラジルのポルトガル語を学ぶことになりました。 今回の巡教には、ちょうど、私のポルトガル語の先生二人も同行していますが、もし私のポルトガル語に問題があれば、それはこのお二人の責任、、、ということにはなりませんね(一同笑声)。 私がポルトガルに来させていただくのは、これで5回目になります。 2006年、私はイギリスの大学院におりましたが、その時、当時本部のあったリスボン教会に行かせていただきました。 その時私はポルトガル語を一切学んでいなかったのですが、ある方が一つのフレーズを教えてくれまして、それを信徒の皆様へのご挨拶の時に言わせていただきました。そのフレーズとは、「ビール飲みたいけどお金は無い」(一同笑声)です。 2006年、皆様にお話ししたのはこのフレーズだけでしたが、20年近く経った今日、もっとたくさんのポルトガル語を話させていただいています。ありがたいことです。 2006年の翌年、2007年も、当時、渡辺先生がポルトガル全土を回られることがあって、それに同行させていただきました。その次が、先ほどのフェルナンド本部長のご挨拶にもありましたが、2019年、教主様がご巡教になった際にご一緒させていただいた時です。 でも、実は、子供の時にも1回ポルトガルに来たことがあるんですね。私は小さい時ロンドンで育ったのですが、夏休みのような時に、両親がアルガルヴェ(編集注:ポルトガル南部のリゾート地。美しいビーチで有名)のビーチに連れていってくれたことがあります。ですので、これが実は最初にポルトガルに行かせていただいた時。ですので、2006、2007、2019の3回、今回、また子供の時、このすべてを合わせると、今回は5回目ということになります。 本当に、このように直接信徒の皆様とお会いできることは最高にうれしいことです。いつもは、日本で、フェルナンド本部長のご報告をお伺いするだけですが、直接会うというのは全然違う経験ですね。 そもそも、今回ポルトガルに来させていただきたいと思ったのは、いつもフェルナンド本部長からお受けする皆様の信仰の実践報告があまりにもすばらしく、それでどうしても皆様にお会いしたいという思いが湧いてきたから、なんですね。なので、それがこのように実現していること、本当にうれしいです。 今回は妻も同行してくれていますが、私たちには子供がいますので、日本の教団が本当に大変なバックアップ、サポートをしてくれまして、それでこの巡教が実現しており、ありがたいことです。 妻にもひと言皆様に話してもらいたいと思いますが、いかがでしょうか?(信徒一同、「もちろん!」) マミ奥様 (ポルトガル語で)皆さま、おはようございます(信徒、「おはようございます!」)。 皆さまとお会いできて、とてもうれしいです(一同大喝采)。 覚えてきたポルトガル語はこれだけなので、あとは日本語で話してもいいですか?(一同笑声&拍手) 真明様 (ポルトガル語で、マミ奥様に向かわれて)でも今は、「ビール飲みたいけどお金は無い」というポルトガル語も学びましたね(一同笑声)。 マミ奥様 (日本語で)この度、初めて、真明様の海外へのご巡教にお供させていただくことになりまして、本当に私自身、身が引き締まる思いでございます。 ここポルトガルが、本当に私にとって、初めての海外ご巡教でのお供の場所となります。 私は、一信徒という立場でしたが、畏れ多くも、真明様と結婚させていただきまして、神様の真実の愛に目覚めました。 真理を知らず、「人のために」と言いながら、神様を蔑ろにし、まるで暗闇の中を彷徨って生きていたような、どうしようもない私を救い、導いてくださった真明様。 私は、もう自分自身がどうなってもいいので、本当に、真明様にすべてをお捧げするつもりで嫁がせていただきました。 まさに、本当の「生きた明主様」のお側近くでお仕えさせていただくということは、大変畏れ多いことではございますが、私には、真明様がお持ちの真理を一人でも多くの人にお伝えさせていただきたいという、強い、強い思いがございます。 ポルトガルに参りまして、空港の中でも、お手洗いの清掃員の方々とか、ふと隣におられた方とか、道行く方々とかにも、世界メシア教のことを伝えさせていただいております。 今後も、皆さまと共に、教主様、真明様のお導きのもと、ご一緒に、真の救いの伝道の道を歩ませていただけましたらとてもうれしく思います。 皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。 Muito obrigada(皆さま、ありがとうございます). Muito obrigada, Masaaki-Sama(真明様、ありがとうございます). 真明様 (冒頭より引き続き、ポルトガル語にて)(マミ奥様に向かわれて)ぜひこの中央の演台に来てもっと話してくださいますか?(一同笑声) マミの通訳をしてくださったチアゴさんのポルトガル語は本当に上手でしたね。 私が日本語で話して、それをチアゴさんが通訳してくれたほうが、もしかしたら、皆様にとってはより分かりやすいのかなと思います。でも、直接話す、ということになにかあるのかなと思います。 私は、言葉に乗せて自分の思いを皆様にお伝えしたいのであって、情の直接的な交流というのはやはり大切だなと思います。ですので、私の拙いポルトガル語については何とぞご容赦いただきたいと思います。私の気持ちが皆様に伝わりますよう、精一杯ポルトガル語で話させていただきます(一同拍手)。 また、この場をお借りし、妻のマミに、私と出会ってくれたこと、結婚してくれたことに対して、「ありがとう」と言わせてください。 妻がいなければ私は何者でもなく、妻との出会いは、私の人生にとって最良の出来事でした。 マミと結婚することを許してくださった神様、明主様、ありがとうございます(一同拍手)。 あと、皆様、妻が着ている着物はどうですか?(一同拍手。口々に、「最高にきれいです!」「彼女の笑顔が素敵です!」の声) 本題に入る前にもう一つだけ言わせていただきたいことがあるのですが、それは、このたびの教団浄化にあたり、皆様方は、明主様は教主様を通して働かれると信じられ、立ち上がってくださった。誠にありがとうございました。 それにより、皆様は、嫌な思いもされたでしょうし、批判もされたことかと思います。そのような難しい状況にあっても、皆様方は教主様が示されている道を歩んでくださった。 教団浄化からもう数年経ちましたが、皆様に直接感謝の言葉を述べる機会が今までありませんでした。ここに、教主様の名にあって、皆様の信仰、決断、ご努力と忍耐に対しまして、深く感謝申し上げます。誠にありがとうございました(一同拍手)。 このあとご面会もありますのであまり長く話したくはないのですが、でも、今日私は、「明主様」について少し皆様にお話ししたいと思います。明主様とは一体なんなのか、ということですね。 というのは、今日私たちがこの祭典を共に執り行うことができているのは、明主様がいてくださったからですし、今もいてくださっているからですし、これからもいてくださるから、ですよね。明主様がおられなければ、今日という日は存在していない。 去年ブラジルに参りました時、現地での入信式のあと、私はイエス・キリストの重要性について即興的に少しお話しさせていただいたのですが、そのあと、昔からの信徒だという方が近寄ってきて、「イエスは確かに大切だと思うけど、自分にとっては明主様のほうが大事だ」と私に言ってきました。 この信徒のお気持ちは大変よく理解させていただけますが、「明主様のほうが大事だ」といっても、この「明主様」が一体なんなのか、そこが最も重要な問題なわけです。明主様とは誰なんだと、そこですね。 で、実際のところ、私たちは、この問題について、非常にあやふやな感覚を持っていると、そう私は思います。 通常私たちは、「明主様」と言う時、それは、非常にすばらしいお方で、神人合一を成し遂げられたお方で、人類のひな型であると、そのようなイメージから「明主様」という言葉を使っています。 当然これらのことは事実ではありますが、本日私は、明主様の、おそらく今まで私たちが焦点を当ててこなかった別の側面を皆様にご紹介したいと思います。 日本語であれば、私は多くの明主様の御歌を暗記しておりますので、なにかメモのようなものは必要無いのですが、ポルトガル語ではそうもいかないので、携帯にいくつか明主様の御歌をメモしてきました。 一首目。 「大前に額く我となりにけり神に背きし罪を悔みて」。 明主様は、ご自身が神に背いて罪を犯したと、そう仰せです。それにより神様の御前に頭を下げるご存在になったと、そういうことですね。ここ、ご自分は神に背いた存在なんだということを自白されていますね、明主様は。 二首目。一首目と少し似ていますが、 「大前に額く毎に涙しぬ救はれたりし此身思へば」。 これ、明主様の御歌ですよ。明主様は、神様の御前に行かれるたびに目が涙であふれると仰せです。明主様は神様も同然だ、という私たちが持ってきたイメージとだいぶ違いますね。 次。「罪多き我身我家を赦しませ大慈大悲の大御心に」。 明主様は、御身も、ご自分のご先祖様も――岡田家のことですね――罪まみれだと仰せです。そして、なんとかお赦しいただきたいのですとご自分の罪の赦しを乞い願っておられるわけですが、我々は今まで、明主様を高いところに押し上げて、このような明主様の側面を無視してきたのではないでしょうか。 また、「浮草のところ定めぬ我心愁れと救ひませる主はも」。 ふらふらしておられた明主様を、「きみ」が救われたわけですね。そしてここ、明主様は、ご自分がなにか善い行いをしたから救われたとは仰せではないですよ。 むしろ、定まらないような――時には神様を信じたり、時には信じなかったり――そんな自分の心だったけれども、神様は、一方的に「明主を救う」とされた。罪多い明主様であったけれども、神様は救うと決められた。 ここ、大事な点ですね。というのは、我々は往々にして、なにか善いことをすると神様から祝福をいただけるんだと思い込んでますからね。 次。「有難し救主が御声を聞く毎に我体魂は力増すなり」。 いやー、明主様は救い主の声を聞いておられたんですね。そう仰せじゃないですか?今日まで我々は、明主様が救世主の声を聞いておられたなんて思ったことありましたか? 我々は明主様のお声は聞きましたよね。人によっては、夢に明主様が現れて明主様のお声を聞いたという人もいるかもしれない。でも、この明主様が、この明主様が、どなたかの声を聞いておられて、それが明主様に力を与えておられた。すごいことですね、これは。 次。「御面を朝夕べに仰ぎます毎に悩みは消えてゆくなり」。 明主様はどなたかの御顔を見ておられた。そして、そのお方を毎朝、毎夕、拝まれるたびに、明主様の悩みごとは消えていた。 今までお伝えした御歌は、すべて、例外なく、明主様の御歌ですよ。明主様は「救い主」の御声を聞いておられたし、そして、このお方の御顔を、毎日、毎夕ご覧になっていた。 「喜びの涙制へし目にうつる神々しさの君が御姿」。 この救い主をご覧になった明主様は、喜びで涙を流しておられた。救い主と出会えた喜びで泣いておられた。明主様が、ですよ。 我々は、明主様こそが救い主だと思い込んでいますが、この明主様が、ある「救い主」の声を聞いておられたんです。これ、私たちが今まで持ってきた明主様像と180度違う現実ではないですか? 「断崖の行手にあるが知られけり光の主を拝みてより」。 明主様が崖から落ちるところを救ったお方がおられる。光の主。救い主であり光の主。 そうだとしたら、我々に残された質問は、「明主様にとっての救い主は誰ですか?」「明主様を救われた光の主は誰ですか?」「明主様が拝んでいた方は誰ですか?」以外ないじゃないですか。 次の明主様の御歌が、これらの質問の答えのヒントになっていると思います。 「大救主の御名は最後の世を救ふ尊き御名なり心せよかし」。 明主様は崖から落ちるところだった。崖から落ちる時は最後の世、ですよね。 明主様はその時に光の主に出会われたということですから、この光の主というのは、大メシアのことですね。だって大メシアが最後の最後に救いをもたらす存在だと仰せですからね、明主様は。 で、この地上でメシアの御名を体現されたのはイエスじゃないですか?イエス・キリストがこの地上で最初にメシアの御名を体現したんじゃないんですか? 私たちが今まで持っていた明主様のイメージというのは、メシアとして新しくお生まれになったすごいお方、というもの。 一方、今日お話ししているように、ご自分を罪人と認められ、救われなければならないご存在だと認識しておられた明主様もいらっしゃるわけです。 そして普通、この二つの明主様像をつなげることが私たちにはできないから、だから私たちは、前者の明主様像だけを選んで今日まで来た。 でも、明主様には、神的なご側面と、人間的なご側面、この二つの側面があったことを私たちは認めなければならない。 そして、今引用した大メシアの御歌からも明らかなように、この二つの明主様の側面を結びつけるのはメシアの御名ですよ。つまりイエス・キリストですね。イエス・キリストという存在が、救いを必要としているただの人間を、その人間が本来持っている神的な魂と結びつけることができる。 だからこれは、明主様だけの話ではなくて、私たちにとっても同じことなんですよ。私たちも二つの側面を持たされてるんですからね。 ですので、もし、「自分は今日まで大した罪は犯してない」ということで救い主であり、贖罪主であるイエス・キリストを受け入れないなら、一生自分の中にある神的な魂とは結ばれない。 このことは真実であるわけですが、私たちがこのことを受け入れることができるよう、明主様はいろんなヒントを私たちに残してくださっていたと私は思います。 そして私は、明主様が仰がれていた光の主、この救い主というのはイエス・キリストのことであったと確信しています。でなければ一体誰ですか? このようなことを話すことによって私が皆様に何をお伝えしたいのかというと、それは、明主様が、救いの源であるメシアの御名を知ることができたのは、もう何世紀も前に、ポルトガルの宣教師たちが、イエス・キリストと一緒にメシアの御名を日本に持ってきてくれたから。だからです。今日はこのことを皆様にお伝えしたかったんです。 ポルトガルの宣教師の方々がおられたから、明主様はこの救いに出会われることができた。 どうして明主様はメシアの御名やイエス・キリストのことをお知りになることができたのかといったら、それは、ポルトガルの宣教師の方々のおかげ以外ないじゃないですか。 ポルトガルの宣教師の方々がイエス・キリストと一緒にメシアの御名を日本に届けてくださったから、日本人はこのことを知ることができた。間違いないですね。 ポルトガルの宣教師の方々が日本に来られてから数世紀後、明主様はメシアの御名と真の救いを知るに至られた。 そして私たちの救いというのは、キリスト教徒が説いている救いとはちょっと違いますね。私たちは、人類の誰もがメシアとして新しく生まれることができると訴えている。 ということで、まず、ポルトガルの宣教師の方々はご自分たちに与えられた使命を果たし、この尊い御名を日本に届けてくださった。そして明主様がこの御名をお受けになり、この御名を通して、神様の真実もお受けになった。それはなにかというと、人類一人ひとりの中にはメシアの魂が存在しているということ。そして、メシアとして新しく生まれるというのは、イエスだけとか、明主様だけとかではなく、人類の誰もが成し遂げなければならないことだということ。 キリスト教徒は、いまだにイエスが戻ってくるのを待っている。違いますか? 彼らはいまだにキリストの再臨を待ち望み、「いつか戻ってくる」「いつかイエスは戻ってくる」と言っている。 でも、本当は、イエスはもう、皆様方お一人おひとりのここ(真明様、眉間の天庭を指し示される)におられるのです。 これは簡単なことのように聞こえますね。言葉では簡単に聞こえますね。聞いても、「へー、そうなんだ」くらいしか思わない。でもこれは大変なことですよ。そして、キリスト教ではこのことはまったく説いていない。 ブラジルにはブラジルの使命がある。日本には日本の使命がある。アンゴラにはアンゴラの使命がある。でも、ポルトガルにはポルトガルの使命があるんです。 多くのポルトガルの宣教師の方々は、イエス・キリストとメシアの御名の福音を布教する中で、旅の途中で、命を落としたことでしょう。 ポルトガルの宣教師の方々は、当時は気づいていなかったとは思いますが、今、霊界にあって、真実に目覚め始めておられ、皆様方に、メシアの御名にある本当の真実をポルトガル中に伝えてほしいと願っておられると思います。 というか、もしそれを皆様がされないならば、彼らはただ無駄死にをしたことになりますね。ただの無駄死に。 ですので、ポルトガルにいらっしゃる皆様の使命は大きいですよ。ポルトガル人すべてがメシア教が説いている真実について知らされなければならない。 「誰かがやってくれるだろう」と思って、自分は何もせずに傍観者でいるのは簡単なことです。でも、まさに皆様方お一人おひとりは、メシア教のメッセージを、ポルトガル全体に、そして当然ヨーロッパ全土に伝えていかなければならない。誰かにやってもらおう、やる気がある人はすごいな、と言っている時代はもう終わったのです。 確かに、ポルトガル世界メシア教は、ポルトガルのカトリックとかに比べたら本当に小さい教会のように思われるかもしれませんけれども、ただ、我々には真理がある。 そしてその真理とは、「イエスはもう戻ってきた」ということ。「キリストの再臨はもう成し遂げられた」ということ。イエスはこれから先、雲に乗って降ってくることはないんです。だってもう私たち一人ひとりの中に降ってこられたんですから。 すべてのポルトガル人、そしてヨーロッパに住むすべての人たちはこの真理を知らされなければならない。ポルトガルの信徒の皆様は、真理を残すため命を犠牲にした宣教師の方々のために、この責務を全うしなければならないと、私はそう思います。 教主様と私は、明主様の御名にあって、尊いメシアの御名を日本に届けてくださったポルトガル人に感謝をお捧げしたいと思います。でも、感謝だけで終われる時期はもはや終わり、今、ポルトガル人全体、そしてヨーロッパ全土がこの真理を知る時が来た。 今日は、皆様にとっては、その宣教開始宣言の日ではないですか?マミと私はそういう覚悟を持ってポルトガルに来させていただき、だから私たちは、このポルトガルにおいても、どこに行ってもリーフレットの配布に取り組んでおります。 確かに、こういう宗教的メッセージを現代の人が受け入れるのは一見難しいことのようですね、みんな警戒してますから。でも、千人に一人、万人に一人でも受け入れるかもしれない。だから、あきらめちゃだめですね。 ですので、明主様を私たちの胸に置くのはもちろん、イエスのために命を犠牲にされた多くのポルトガルの宣教師たち、また、同様に、イエスのために命を捧げたヨーロッパ全土のご先祖様たちを胸に覚えとして置いて、すべてのポルトガル人とヨーロッパにいるすべての方々が、私たちが知るに至った真理に出会うことができるよう努めてまいりましょう。 だってこの真理は極めてシンプルなことであると同時に、その真理が世界中に知れるのを明主様もイエスも望んでいるんですからね。 ということで、皆様、この「伝える」という御用を引き受けてくださいますか?(信徒一同、「はい!」) このあと「ご面会」もありますので、これくらいにしておきます。 ここまで聞いていただきありがとうございました。