新年祭 2024年1月1日明主様御歌新玉の年を迎へて身も魂もいと清しけれ神に在る身は御光の炬火をかざして驀ぐらに進め平和を打樹つるため穢れたるもの悉滅び新しき美しの御代は生れなんとすも厭離穢土清め浄みて新しき楽しき御代を造る神業長き世の仮の文明打砕き真の文明打樹てんかも過ぎ去りし事を悔まず前途を案ずる勿れ神にある身はとく進めただはげめよと大宣示きこゆる如く思ふかなわれ明主様聖言新人たれ 昭和25年10月11日 人は常に進歩向上を心掛けねばならない。特に信仰者にして然りである。処が世間宗教や信仰などを口にすると、どうも古臭く思われたり、旧人扱いされたりする。成程在来の宗教信者は、そういう傾きがあるのは否めないが、本教信者に限っては全然反対である。否反対たるべく心掛けねばならない。先ず何よりも大自然を見るがいい。大自然に於ては、一瞬の休みもなく新しく新しくと不断の進歩向上を続けている。見よ、人間の数は年々殖える。地球上の土地も年々開発される。交通機関も、建造物も機械も、一として退嬰するものはない。草も木も天に向って伸びつつある。一本と雖も下を向いているものはない。此様に森羅万象悉く進歩向上しつつある実態をみて、人間と雖もそれに傚うべきが真理である。 此意味に於て、私と雖も去年より今年、今月より来月というように、飽く迄進歩向上心の弛まないよう努めている、といっても只物質的の事業や職業や地位が向上する、というそれだけでは、根底のない浮遊的のものである。根無し草である。どうしても魂の進歩向上でなくてはならない。要するに人格の向上である。此心掛けを持って一歩ずつ気長に、自己を積み上げてゆくのである。無論焦ってはならない。ほんの僅かずつでもいい。長い歳月によれば必ず立派な人間になる。否そのように実行せんとする心掛け、それだけでもう既に立派な人間になっている。そのようにすれば、世間からは信用を受け万事巧くゆき幸福者となる事は請合である。 斯ういう言い方をすると、現代青年などは何だか旧道徳論を聞くようで、陳腐に思うかも知れないが、実は陳腐処ではない。之が出来れば本当の新人である。此様な点を規準として私は多くの人を見ると、古臭く見えて仕方がない。何等進歩がなく、相変らずの考え方や話で、何処にも変り栄えが見出せない。だから斯ういう人に逢っても少しの興味も湧かない。話し合ってみても世間話以外何物もない。宗教も政治も哲学も、芸術などの匂いすらない。世間の大部分は斯ういう人が殆んどであるが、それも敢て咎める気はないが、少なくとも救世教の信者だけは、そういう旧人型は感心しないし、又そういう人は余りないようだ。本教は知らるる如く、世界の転換期に際し、全人類救いの為に、誤れる文化に目醒めさせ、理想的新世界を造るにある以上、飽く迄新人たる事を心掛けねばならない。私がいつもいう二十一世紀的文化人にならなくてはいけないと言うのは、その意味である。『栄光』73号聖書「コリント人への第二の手紙」第4章7節~第7章1節 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。 わたしたちの住んでいる地上の幕屋*がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。 このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。 わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、 「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、 救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。 コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている。あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい。 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアル*となんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、 「わたしは彼らの間に住み、 かつ出入りをするであろう。 そして、わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となるであろう」。 だから、「彼らの間から出て行き、 彼らと分離せよ、と主は言われる。 そして、汚れたものに触れてはならない。 触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。 そしてわたしは、あなたがたの父となり、 あなたがたは、 わたしのむすこ、むすめとなるであろう。 全能の主が、こう言われる」。 愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。* 幕屋 神殿の意。* ベリアル 悪魔、サタンの別称。『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(⽇本聖書協会)※注釈は世界メシア教によるもの。