聖書 ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。「コリント人への第一の手紙」第15章35節~45節明主様 人間は昔から好いにつけ悪いにつけ、どうも運命だから仕方がないと、諦めたがる癖があり、運命というものは不可抗力なものと決めているのは、誰も知る通りである。処が私は運命は誰でも、自由自在に変えられるという事を教えようと思う。というのは元来運命は人間が作るように出来ているもので、此真相が分ったなら、此世の中は悲観処か大いに楽観していいのである。 言う迄もなく精神病者でない限り、どんな人でも不幸な運命にはなりたくない、何とかして幸運を掴みたいと思うのは当り前な話で、其為血の汗を絞り、命を的にして迄も一生懸命になっているのは、人間通有の欲望であるにも拘わらず、本当に幸運を掴み得る人は、果して幾人あるであろうか、先ず百人に一人も難しいといってよかろう。とすれば幸福者たるにはどうすればいいかという事になり、迷いに迷った揚句の果が彼の世行となるのだから、何と心細い人生ではなかろうか。お釈迦さんの言われた通り、全く諸行無常の娑婆である。とはいうものの偶には本当に幸運を掴む人も、万人に一人位はないではないから、そういう人を見る世人は遂諦め切れず、夢を追う事になるので、それで世の中はいいのだと悟りを開く人もない事はない。若し本当に幸運を掴み得る方法があるとしたら、之程結構な事はあるまい。誰もそれが分らないので不幸な運命を作って了うのである。つまり自分で牢獄を作り、其中へ入って苦しむ訳で、事実此様な愚劣憐れむべき人で世の中は一杯である。では幸運者となるにはどうすればいいかと言うと、分り切った話であるが、善の種を蒔けばいいので、昔からいう善因善果、悪因悪果の言葉通りであるから、悪の種とは人を苦しめ、損害を与え自分さえよければ人はどうでもいいというような利己的観念で、善の種とは他人を喜ばせ、他人に利益を与える利他愛観念である。としたら甚だ簡単のようだが、それが仲々難しいので、人世は厄介なものである。ではどうすればいいかというと、右の道理を信じ、守り得られる心を作る事で、そうなれば嫌でも実行するからである。それには勿論信仰より外ないが、茲で注意すべきは単に信仰といっても色々あるから、充分選択しなくてはならないのは言う迄もない。処で自画自讃ではないが、我メシア教こそ其条件に最も合致している信仰であるから、不幸に苦しんでいる人は、一日も早く入信される事を御勧めする次第である。1952年2月27日「運命は自由に作れる」『栄光』145号教主様 本日の御生誕祭のお歌の一首目は、 「只一人吾只一人主の神の任しを帯びて世ぞ救ふなる」というお歌であります。 ただ一人、わたしただ一人が、主神からの任命をお引き受けして世を救うのであると、このように明主様がお詠みになったということは、ご自身が、主神の分霊としてのご使命、即ち、救いを〝与える側〟として主神にお仕えする立場であるとの確信に至られたからであると思います。 ここで、私は、このお歌の中の「吾只一人」と仰る明主様と私どもとは、どのような関わりがあるのだろうか、と考えざるを得ません。 私どもは、明主様の仰る「吾只一人」という思いの中に含まれていると思います。 と同時に、その「吾只一人」と仰る明主様が、私ども一人ひとりの意識の中心におられると思います。 私どもが明主様とひとつに結ばれているというのは、このことであります。 同様のご心境をお詠みになったお歌の一つに、 「大神の任しのままに吾は今生きとし生ける物みな救はむ」というお歌があります。 このお歌の中の「吾は今」と仰る明主様の「今」と、私どもにとっての「今」とは、別々の「今」なのでしょうか。 主神は、ご自身がお持ちであられる永遠という時間の中で、明主様の「今」と、私ども一人ひとりの「今」とを、ひとつに結び、治めておられます。 主神は、私どもの一瞬一瞬を治めておられます。 過ぎ去った過去のことも、近づいてくる未来のことも、すべては一人ひとりの「今」という思いの中心に結ばれており、そこに明主様がおられ、主神がおられます。 過去も未来も含め、すべてをこの「今」という思いの中心に委ねることが出来れば、自らが自らを赦し、救い、すべてに赦しと救いをもたらすみ業にお仕えすることが出来るのではないでしょうか。 私どもは、明主様の「吾は今」というお言葉を通して、主神が私どもをご自身に結んで下さっておられることを思い出させていただき、たとえ至らない者であったとしても、主神の分霊として、明主様と共に、救いを〝与える側〟としてお仕えする中心軸であるという自覚を持って、自らの意識の中心の一点を見失わないことが大切であると思います。2010年12月22日~23日「御生誕祭」真明様 「ご先祖様は私たちの中に生きていらっしゃる」とおっしゃる意味は、私たちには、その方たちに命の息を分け与えるという責任があるんだよと、そういう意味ですよね。 私たちの中には、枯れた息をして、息絶え絶えみたいになっている方が多くいらっしゃる。その枯れた息が私たちの心と体にありとあらゆる不調をもたらしている。 でもそれは、本当は、救いのためにそうなっているわけなんですね。だから、もし私たちが、その方たちに、明主様が「生まれたての赤ん坊」となった時に神様から授けられた甦りの息を分け与えることができて、そして、その方たちが甦って、本当に生き生きとなったら、そしたら、「祖先の綜合体」である私たちも自動的に生き生きとしてこざるを得ないじゃないですか。 だから、呼吸ですね、呼吸。「明主様と共にあるメシアの御名にある甦りの息をお受けします」「私の中にいらっしゃる多くの枯れた者たちの上に分け与えてほしいのです」ということで呼吸をされたら、本当に、どうなるかわかりませんよ。 今抱えている悩みが一発で解決するということも、あり得ないことではないですよ。大いにあり得ますよ。「もちいてください」2021年4月4日教会誌『グローリー』No. 48, 2024/1月号掲載聖書出典:『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(日本聖書協会)