明主様 観音様は別名光明如来と申され、光に依って一切を救われるのであります。今日迄の宗教は罪障消滅するには非常な努力をしなければならないのでありまして、それでもなかなか一生懸っても消滅は六ケ敷かったんでありますが、それが今度は観音様に依って至極簡単に罪障消滅が出来るんであります。何故かと言えばそれは大きな光であって、光で出来るんであります。罪障なるものは大きな光に遇えば速かに消えてゆくんであります。… 今度は太陽の光が出るんであります。太陽が出れば如何なる光も消されて、世界中が一度に明るくなるんであります。太陽の光は月光の六十倍もあって別段何等の手数を要しないで光に浴する事が出来る、之は誰でも知って居るので有ります。唯然し此太陽が出たのを知った時、素直に戸を開け放てば此大きな光を無雑作に受け入れらるるのであります。然し人類は今迄何千年来、眼に見える太陽の光には毎日浴しておりますが霊界の太陽の光に遇った事が無い。乃で是から、戸を閉め切って電気の光以外に光というものはないと諦めていた人々に、さあ愈々黎明が来たぞ、みんな速く戸を開けろと言うて世界中へ呶鳴って知らせる。 それが観音会の運動になるんであります。でありますから、此の声を聞いて素直に、戸を開けた人が一番早く光に浴して救われるので、躊躇している人は後廻しになるから詰らないのであります。手数や費用も要らなくて斯んな大きな光に遇えるという事を識って人々は非常に驚くのであります。それで申し辛い事でありますが、今迄の宗教の信者が種々苦心惨憺して罪障を除ろうとしたが中々除れなかった。其の為宗教家の方では種々巧い事を拵えて逃げ口上にしたんで有ります。例えば病気や災難が有ると其れは信仰が間違っているとか、信仰が足らないからだ等と言い、或はそういう事が起って来るのは祖先以来溜っていた罪障が出て来たんだと言い、又病気で死ぬ人があるとか又非常な打撃を与えられる様な事があれば、死んだ人が罪を持って行って呉れたんで大変結構な事だと言い、大難を小難に祭り替えて貰ったんだ等と言うのであります。そういう様に病気災難に対し信仰が間違ってるとか、足りないとか言う此の言葉は事実そういう事も無いと言えませんが、巧妙な抜道に使う場合も随分有るのであります。信仰が足りないと言うならば一体何所迄やったら足りるか標準が判らない。金銭の御用もどの位しなければならないのか、その見当も皆無判らない。それが為始終戦々兢々として一種の不安があり、信者は喜びと不安と相半するという様な状態であって、見方に依っては気の毒とも言えるのであります。 …人類は斯ういう様な信仰で何時迄も苦しまねばならぬと言う事は実に悲惨なものだ。黙ってみてはおれぬと思ったのであります。こんな訳ですから、少し学問のある人や知識階級の側では、信仰を馬鹿にし神仏なんて有るものか、そんなものは一切迷信だと片付けて振り向かないのは一面無理のない事であると思います。又信仰者の方ではそれを観て、少し学問があったり知識があると神仏の事は判らないと憤慨する、是等を大きな眼を以て観ると、一方には迷信の集団があって多数の人が苦しんでいるし、一方には神仏に無関心な唯物主義の集団があって、心中不安を感じ乍ら兎も角も満足らしく生きているんであります。斯ういう様な現在の状態、之を称して暗黒無明の世と謂うのでありますが、全く夫に違いないと思うのであります。然るにどちらも実に気の毒な人達で此の気の毒な二種の人達に属しないで、別に只空々寂々で生きている人達もあります。処が今度は斯ういう人達残らずを、一様に大きな救いの力に救われると云う時機が来たのであります。1935年1月11日「大光明世界の建設 光明如来」聖書 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。「ヨハネによる福音書」第1章1節~18節教主様 私どもに赦しを得させ、救いをもたらすために、主神は、予め天界という次元において、「夜昼転換」、即ち、闇の世から光の世へという大転換を成し遂げて下さっていたのではないでしょうか。 この「夜昼転換」を成就した力が、明主様の仰る「メシアの力」であると思います。 この力が、この世という次元を持たされた私どもの自我意識に絶えず働きかけ、私ども人類を等しく主神の子供として迎え入れようと、教え導いて下さっていたのではないでしょうか。 ですから、私どもにとっての進化の道筋は、今までの人類の営みの延長線上にある道ではなく、命の源である天界を思い起こし、根源の意識に立ち返らせていただく道なのではないでしょうか。 主神の創造のみ旨の成就のための、即ち、人類をご自身の子供とするための、私どもの進化であり、進歩向上であり、発展なのではないでしょうか。 私どもは、自分が人から評価され、誇り、高ぶり、人と比べて自分が良くなるために進歩向上するのではありません。 自分が何かを知ることが出来、何事かを成し得たと思った時に、また、利他愛の実践においても、主神に対して、〝このことは、あなたがなさって下さっていたのですね。ありがとうございます〟というひと言を発することの出来る者となるために、進歩向上に努めているのではないでしょうか。 このひと言が、主神にお喜びいただく子供になるための大切なひと言なのではないでしょうか。 私どもが「立ち返る」ということも、「委ねる」ということも、このひと言に尽きるのではないでしょうか。 そのために、私どもは、日々、様々な体験や学び、喜怒哀楽を感じさせられながら、養い育てていただいているのではないでしょうか。 そのみ旨を信頼し、日々の訓練を軽んじることのないようにしたいものであります。2009年3月15日「春季大祭」真明様 人間をこの世に送りこんでから、「あっ、大変だ、人間が罪を犯してしまった」「これを何とか浄めないといけない」と思われるような、そんな無計画なお方ではないですよ、神様は。 人間を造られることをご計画になっておられた時から、人間がご自身に背いて罪を犯すというのはもう分かっておられたわけです。一番最初の時ですよ、まだたったお一人の時。 その時に、私は子供を造る、でも彼らは私から一旦離れる、離れるけれども浄めて迎え入れる、そしてすばらしい世界を造る、というそのすべてを一番最初に決められて、そして初めて、そこから、創造の一番最初のきらめきを造られるんです、そこに。 だから、今日拝聴した聖書に「初めに言があった」とありましたでしょ?「メシア」という言葉ですね、それは。 その言葉に全部入ってるんです。お前たちを生んで、お前たちは私から離れるだろうけれども、赦して迎え入れてすばらしい世界でまた共に住もうじゃないか、というのが、もうその一番最初の言葉に全部入ってるんです。 だって「初めに言があった」と言っても、言葉は思いと共にありますでしょ。しかも、思いのほうが先ですよ。 だからもう、本当になんにも無い時に、ですよ。我々がもう「最古の時代私が神様であった時」のそのさらに前に、神様はすべて決めておられたんです。 だって今日の聖言にもありましたよね、「何千年否何万年以前より決定していた神のプログラムなのである」と仰せですよ、明主様は。だから、決定してたじゃないですか、そこで。もう何万年以前に神様は決めておられたじゃないですか。だから、それは、一番最初、たったお一人の時のことですよ。これほど大きな愛があるんだろうかと、そう思います。 だから、今日の御歌、「誰が眼にも映らぬ程のひそけさに神の仕組は已に成りけり」。 「ひそけさ」と仰せですよ。ひっそりと、お一人で、神様の思いの中ですでに神様のご計画は成っていたと、そういうことです。だとしたら誰の目にも映りようがないじゃないですか、まだ誰も生まれてないんですから。だから、すべてが始まる前にもう成ってたんですよ。お前たちは罪を犯すだろうけれども、浄まって私のもとに帰ってこい。いや、お前たちが帰ってくることはもう決まってるんだと、そういうことですね。最初にもう成ってたんですよ、すべてが。 「ひそけさ」というのは良い表現ですよね。何となく神様がお一人のご様子が想像できますよね。子供がまだ誰もいない、神様たったお一人の時、神様の思いの中で成ったんですよ、すべてが。そして、思いの中で「よし、これを成し遂げる」と決められてから全創造を始められたんです、神様は。2022年9月1日「愛に始まり愛に終わる」教会誌『グローリー』No. 47, 2023/12月号掲載聖書出典:『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(日本聖書協会)