〝エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る〟〔明主様〕大前に額き拝がむ心こそ岩戸開けし徴しなるらむ大前に額く人の幸こそは何にも代へ得ぬ宝なりけり大前に額く我となりにけり神に背きし罪を悔みて大前に額く毎に涙しぬ救はれたりし此身思へば〔聖書〕 イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、(しかし、イエスみずからが、バプテスマ*をお授けになったのではなく、その弟子たちであった)ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブ*がその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。「ヨハネによる福音書」第4章1節~26節* バプテスマ キリスト教の入信儀礼である洗礼の意。水の中に沈められることで古い自分が死に、キリストと共に神の新たな命に生まれることを象徴する。* ヤコブ イスラエル民族の父祖アブラハムの孫で、のちに「イスラエル」の名を与えられる。イスラエル十二部族はいずれもヤコブの子孫。〔教主様〕未信徒に神様のことを伝えるのは唐突さがあるのではないか、浄霊のようなことを科学的根拠をもって説明したほうがいいのではないかという問いに対して 命の親である神様を未信徒に伝えると唐突さがある、ということも、そういうことを恐れなくていいんですよ。だって、人類に20億はいるというキリスト教徒がそういう天の父を信じているということは、命の親である神様は普遍性を持ったお方だからですよね。だから、命の親である神様のことは誰にだって響くものがある、と信じるほかないと思いますし、我々は、そのお方を表に出すのから逃げることはできない。 それに、キリスト教徒は、イエスは死人の中から甦った、ということを隠してない。それを表看板にして布教してきて、20億にも増えたわけでしょ。つまりキリスト教は、普通で言えば、神様が命の親だ、ということよりよっぽど唐突なことを訴えてきて、そこまで信徒が増えた。マリアが処女でイエスを身ごもったことも、イエスが水の上を歩いたことも、死人の中から甦ったことも、科学的なエビデンスを出して信じさせているわけじゃないでしょ。むしろ、非科学的なことだし、一見、全然今の時代に合っていないみたいなことです。 でも、キリスト教徒は、それらのことは全然隠してないですよ。それどころか、もう子供が読む絵本なんかにも書いてありますよ。なぜそうするかというと、科学的な証拠をもって信じさせたらそんなものは信仰じゃないと理解しているからです。信じられないようなことを信じるから、信仰の価値があるんじゃないんですかね。「ご面会(のちのいづのめ教区推進委員)」2016年11月30日〔真明様〕 信じるということ──宗教というもの──それは日本において今否定されてますね。そもそも現代において、「信じる」ということは、価値としては低いですよね。むしろ現代というのは、信じるというよりも、質問をする、なぜかということを聞く、それが良いこととされてますね。そして結局、その探求心が人類を進化させてきましたね──この物質の中に何があるんだろうとか。 というように今は、与えられたものを信じるよりも、探求することが良いとされている。 確かに、普通に考えたら、信じたらそこで進化の終わりですよね。 でも、探求するということでずっと来て、「何でも質問するのがいいことだ」ということで、今や、「天の父」という存在に対しても、「お父さんである必要があるのか。お母さんでもあるんじゃないか」ということを言い出してるくらいですよね。 でも、「天の父です」とイエスと明主様が言われるんだから、私たちはそれを信じるだけですよ、本当はね。「天の父なんですね。分かりました」、それだけですよ、私たちはね。 現代は、逆にそれを信じないということによって文明がここまで発達した、それは間違いないですよ。だけど、我々は信じる集団ですからね。 世の中から見たら、「信じる」は退化ですよ。だって、質問、探求しないで、神様を受け入れて信じるなら、世の中的に見たら退化ですよ。 でも本当は、今、私たちだけでなくすべての人々に求められているのは、「信じる」ということなんですね。天の父を信じる。そこに、「いや、天の母であってもいいんじゃないか」というのが、今までの人類の思いであり、今の人類の思いですけどね。 いわば、その探求心によって神様から離れてここまで来たわけです。神様を疑う、神様なんているんだろうか、科学のほうがましじゃないかと言って、結局原子爆弾を含めてここまで来た。 でも、実は、もうそれは限界まで来た。そして人類は、神のもとへ帰らなきゃいけない。このこと自身も、それを信じるというだけのことですね。 明主様は、突きじゃなくて引くんだと仰せになりましたね。だから、神様のもとに帰るということです。 信じるということを大切にする我々は、世の中から見たら馬鹿にされる集団かもしれない。でも我々は、自分の心に湧くありとあらゆる思い、また自分の目の前に出される食べ物とか、自分のもとに集まってくるいろんな物質、そのありとあらゆるものを携えて、「あなたのもとに帰ります」と言う時が来たんですよ。本当は明主様がそれを告げ知らせてくださっていた。でも、本当に今その時が来たし、そして、その象徴となるメシア聖堂であるべきだと思います。 信じる、帰る、というのは人類からするとつまらないんですよ。携帯もっと進化してほしい、生活もっと便利になってほしい、もっとすごくなってほしい。その気持ちは分かりますけれどもね。でももう、その時は終わって、今、天の父を信じて、神様のもとに帰るという時が来た。いや、もうずっと来てたんですけれども、我々はずっとそれを先延ばしにして、人類の発展、発展、発展でここまで来たわけなんですね。 でも教主様は今、神様に帰りなさいとおっしゃってる。帰った先がどうなるかは分からないですよ。でも、少なくとも今よりももっとすばらしい世界であることは間違いないです。 その生き方そのものが、今の世の中とは逆行することになりますから、世の中の人とのギャップは大きくなりますよ。でも、真実を受け入れてくれる人を神様は用意してくださっているかもしれないですからね。 だから、そういう人たちと一緒に、天の父のもとにみんなで帰る時が来た。今日は、そんなことを思っておりました。「年賀のご挨拶」2023年1月1日教会誌『グローリー』No. 52, 2024/5月号掲載聖書出典:『口語訳聖書 1954年/1955年改訳』(日本聖書協会)※注釈は世界メシア教によるもの。